尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「歴史認識」としての「体罰問題」

2013年02月22日 00時23分58秒 | 教育 (いじめ・体罰問題)
 「体罰」と教育の歴史と言うような視点は、数日前の朝日新聞で論じられていた。僕もそれは非常に重要な問題なので、一度書いておきたいと思っていた。さて、今井正監督が1972年に作った「海軍特別年少兵」という映画を見たことがあるだろうか。海軍で特別にまだ14歳の少年兵を受け入れる制度を作った時の、その「年少兵」の物語である。これがほぼ「体罰か、愛の教育か」という展開の話になっている。地井武男が毎日映画コンクール男優賞を受ける名演で、体罰を信条とする工藤上等兵曹と言う役を熱演している。彼は下士官として、兵の教育は「連帯責任」と「体罰」と確信している。そして、その確信をもとに少年を鍛え続ける。その結果、確かに少年との絆も深まるのだが、どうしてもついていけない少年もいる。一方、それを見ている教官の中には、兵と言っても年齢を考えると「愛の教育」がベースになければならないのではないかと工藤の方針に疑問を抱く者もいる。こういう対立の中で、様々なエピソードが起こる。

 この映画を昨年何十年ぶりかで見直し、こういう「教育の映画」だったかと驚いた。しかし、この映画の中では「海軍の兵を育成する」という大方針は前提になっていて、その上で対象の少年兵の年齢がかつてなく若いため、従来の軍隊教育と同じでいいのかという問題があるわけである。工藤が悪役としては描かれていないので、「軍隊内の体罰」を問題視しているわけではない。しかし、この映画だけでなく、様々な映画で判ることは、帝国陸海軍は恐るべき「体罰」が日常化した社会であったということだ。そのことは「真空地帯」などの純文学作品を左翼独立プロで映画化した作品だけでなく、大映の「兵隊やくざ」シリーズなど大衆的な映画シリーズでも印象的である。というか、特に陸軍の内務班が暴力の巣であったことは、誰でも知ってる常識というべきだろう。

 戦前は中高等教育に「軍事教練」が必修化されていた。これは1925年以来のことで、ほぼ昭和の教育の問題と言える。「総力戦」時代となり、やがて兵となる男子には学校時代から訓練を施しておく必要が増したが、それより軍縮条約による師団削減からくる将校のリストラ対策だったのは周知のことだろう。当時の宇垣一成陸相はいわゆる「宇垣軍縮」を進めたが、人員を減らす代わりに、装備の近代化と教練の必修化を勝ち取った。この結果、軍隊流の訓練が教育現場にはびこるようになるんだと思う。さらに戦争の激化とともに教師もどんどん兵隊に送られ、軍隊の暴力的指導を経験した。戦後、兵隊帰りの教員が大量に教壇に復帰したが、そのころは公務員の給料は非常に低かったから、中にはモチベーションの低い人もいた。一方、生徒は戦後の自由な価値観を持って育っているから、教師と生徒の価値観が違う場面が多かった。そういう時に、すぐに「体罰」を行う教師がいたわけである。1950年代、60年代には、そういう軍隊経験者ですぐ体罰に走る教師、というタイプがいたのである。

 僕は学校教育法に「体罰禁止」が明記されているのは、このような軍隊教育との断絶宣言戦前教育の負の遺産を引き継がないという宣言だろうと思っている。そこには「過度の精神主義の否定」も含まれる。運動部の指導に限らず、受験勉強だって「気合い」というハチマキを締めさせたりする人(塾や予備校など)もいるし、学校の行事をすべて「精神鍛錬目的」にしてしまう教師もいる。そういうことも全部含めて、精神主義的指導がどこから来ているのかという「歴史認識」が教師にないと、熱心さのあまり「軍隊流指導」にすぐなってしまう風土があるのである。教師には、教育技術だけでなく、教育史への深い知識も必要なのだと思う。

 また「連帯責任」と言う発想を問い直すことも大事ではないか。部活で試合に負けて主将が殴られるのは、チームの責任を責任者が一身に負うという発想である。そのやり方で、一致団結したチームが頑張るということもありうる。というか、そうやって生徒同士の責任制度、江戸時代の年貢の村請制度のように、生徒同士で助け合う、または生徒同士でお互いに責任をなすり付け合うというシステムを作ってしまえば、教師の指導は非常に楽になる。楽するためではなく、生徒同士で助け合う心を育てる目的でやり始めても、今の生徒には通じない。「足を引っ張る生徒」がいるために班ぐるみ叱られたら、いじめのきっかけにもなりかねない。このような「班活動による生徒の連帯感の育成」という戦後の教育運動の中で培われてきた方法も、再検討がいるのだろうと思う。右も左も、歴史の再認識をしていかなければ、現代教育のアポリア(難問)は解けないまま、眼前に立ち広がるのみと言う時代なんだと思う。
コメント (6)
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