黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

賑々しいことで、……

2008-09-13 14:53:38 | 近況
 別に「逃亡しよう」と思ったわけでも、またこのブログを「閉鎖したら」とか「静観すべきである」というアドバイスを受け入れようとしたわけでもなく、単に公私にわたって忙しくてブログを書く時間がなかっただけなのだが、それでも毎日どんなコメントが寄せられているかだけは見ていたので、他人事として見れば、まあ何と賑々しこと、と感心せざるを得なかった。
 その「ためにする批判・批難」(つまり、「匿名性」に隠れた粗探し的な批難、など)については一々応接しないと言明してきたので、本音は「どうぞ、語勝手に」という気持なのだが、僕を側面から応援してくれる人に対しても、また「無理解」を正すためにも、一つだけ僕の考えを書いておこうと思う。
 それは、「大学に未だ<学問の府>などという幻想を抱いている」というフレーズの意味についてである。まず僕の考えを提出する前に、僕のこの言葉を批判する人たちは、「本気」で大学=学問の府と信じて僕を批判しているのか、という根源的な疑問が僕にはある、ということを表明しておきたい。一般的に大学大衆化が現実となったころより、大学は「学問」をするところではなく、卒業証書を発行するだけの教育施設になってしまった、と言われるようになったが、そのような傾向に拍車を掛けたのは、僕にしてみれば全国の大学を「トップ30」とか「大学院大学」として差別化する傾向が強まってきてからだと思っている。
 僕の大学≠学問の府という考えも、ちょうどそのような「大学改革=変容」時代の現実に基づいて強まったもので、理系分野は即企業に役に立つ「知」「技術」を(森元総理が提唱した「IT革命」という言葉が何を意味するものであったか、大学=学問の府という幻想を未だ抱いている人たちは考えて欲しい)、文系はすぐには役に立たないから研究費を削減する、といった文科省の政策(国の方針)の下で、どんな「研究」が可能なのか。確かに、それぞれの分野・専攻において優れた研究者はどの大学にもたくさんいる(と思う)が、僕は「学問」というものは、それが例え理系であろうが文系であろうが、研究者の姿勢及びその成果(論文や著作)に現実・現状に対する「批判(批評)」がなければ、そんなものは「研究」でも何でもないと思っているが――このように書くとまた、そんなの「研究」ではない、などと鬼の首を取ったように僕を批判する輩が出てくるのだろうな――、仮にそのような「批判(批評)」が無くとも、大学にいる研究者(教師)が1年間にどのような「研究成果」を出しているのか、そしてそれを学生たちにどれほど還元しているのか(学生がそれを受け入れているのか)、というようなことを考えれば、大学=学問の府というのが「幻想」だと言うことはすぐわかると思うのだが、僕を大学教師に相応しくない人間だとか筑波大性が気の毒だ、などと言っている人間(たぶん、大学生か院生、あるいは研究者の卵が多いのではないかと思うが)、ぜひあなたたちが「学んでいる」大学の教師たちがどれほどの「研究」をものにしているか、直ちに調査し、批判の矛先をその先生たちに向けた方がいいのではありませんか。何年(何十年)も「まともな論文」を1本も書かない教授先生はあなた方(が通っていた・いる)大学にはお一人もいないのでしょうか。
 昔、筒井康隆が「文学部唯野教授」(1990年 岩波書店)という本で、大学文学部の現状を面白おかしく描き出したことがあるが、これは不確かな記憶でしかありませんが、小谷野敦さんも「文学界」(2007年2月号、だと思う。この号だけ、何故か書棚にないので、確かめられず、推測になってしまいました)という雑誌に1年ほど前に「なんとなく、リベラル」という小説で、大学教授の「いい加減さ」を描いていたと思うのですが、もし間違っていたらごめんなさい。僕を批判する人には、筒井康隆の「文学部唯野教授」はお薦めの本です。
 翻って、どこの大学の学生たちも僕と違って大学=学問の府と信じて日々「勉強」しているのでしょうか。もちろん、筑波大学にも大変熱心に「勉強」している学生もいます。しかし、「出席」を取らなければ欠席し放題、という学生が多々存在するというのが現状です。
 僕が大学=学問の府という考えは「幻想」にすぎない、という意味がこれでわかったでしょうか。ただ、ここで注記しておきたいのは、大学の中で重要な位置を占めるようになった「大学院」における「知」の在り方にはまた別な側面があり、ここで「大学」と言う場合「学部」を指していること、です。こんなことは、他人を批判することに長けているあなた方には先刻承知のことだと思いますが、念のために書き添えておきます。
 だけど、僕を批判する人たちは本当に大学=学問の府ということを信じているのだろうか。どなたかが、東大、京大だって今や「学問の府」でないというのは常識に属すると書いていたが、僕もそう思っている。そうは思いながら、しかし大学に勤めていることは「自己矛盾」だという人、あなたのような論法でいけば、この体制や社会を批判する人は、みなこの世で失業しなければならなくなるが、そのようなことをあなたは望んでいるのでしょうか。だとしたら、あなたは体制(権力)の番犬ですね。
 最後に、言い訳でも何でもなく、「大学教師を辞めろ」と言われた僕に、こっそり「頑張ってください」と言ってくれた名前も知らない学生が何人もいた、ということを報告しておきます。また、自分の経験を踏まえて、「黙ってれば、そのうちあいつらは別なターゲットを捜して映っていきますよ」と言ってくれた院生もいました。頼もしい「味方」と思いました。彼ら・彼女らは日常的に僕のブログを読んでくれていたのです。
 以上です。
 僕は元気です。

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13 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (Unknown)
2008-09-13 15:25:50
「味方」だとかそんな考えだから田舎者だって言っているんです。小谷野氏と栗原氏だって批判すべきところは批判する距離を保っているんです。おたくの学生が栗原氏のブログの写真にいちゃもんをつけたことは分かっていることだし。
Unknown (quidam)
2008-09-13 15:52:25
あまりにも馬鹿馬鹿しくてコメントする気にもならんが(それにしても誤字脱字は相変わらずですね)、先日の「何をか況や」の件については一言いただかんわけにはいきませんよ。あなたは私の指摘(私はてっきり単なるタイプミス、誤変換だと思ったんですよ。まさかそこまでバカだとは思わなかったんでね)に対して、それこそバカ丸出しの反論をし、自分の大学教師にあるまじき間違いを棚に上げて私のことを一知半解だの何だのと罵ったわけですからね。本当に私が間違っていたのなら何と罵られようとかまいませんが、あなたはまだご自分が正しいと信じているのですか?特に、あなたを擁護しようとして却って己のバカぶりをさらけ出してしまった、あなたの昔の受講生とやらに対する私の反論を読んでもなお、「何をか況や」は正しい表記だと言い張りますか?ぜひご回答を。
Unknown (Unknown)
2008-09-13 18:23:00
学生も見てますよ。
日本語の字句の問題だけはハッキリ回答をなさるべきです。
Unknown (Unknown)
2008-09-13 18:46:07
>「大学教師を辞めろ」と言われた僕に、こっそり「頑張ってください」と言ってくれた名前も知らない学生が何人もいた、ということを報告しておきます。頼もしい「味方」と思いました。

それと同じかそれ以上に「敵」になった学生も何人もいると思いますがね。
普段から学生の知力が落ちていると彼らを罵っているのに、こういうときだけ学生は自分の味方になるんですか。
「頑張ってください」なんて同情の言葉をかけてくれた学生には、普段ブログに書いている通り、「お前らは知識が少ないダメ学生だから、そんなこと言う暇があったらもっと勉強しろ」と言うくらいの気概をみせてほしかったです。

「頑張ってください」なんて言葉を素直に受け取るなんて、黒古先生らしくない。
Unknown (きいろ)
2008-09-13 20:29:39
そもそも大学が「学問の府」かどうかと、黒古先生が研究者として文学研究という学的営為にどう従事されているか(或いはされていないのか)は論理的には関係がありませんね。「学問の府」云々はあくまで教育者としての「大学教授」の問題です。したがって黒古先生の「大学が学問の府であるなどという幻想」云々は、黒古先生個人の大学教授としての(つまり文学研究という学的営為に従事する研究者の立場としての)構えへの批判に対する応答としてはまったく的を外しています(しかしその的外れな噛み付きのせいで観客に更に突っ込みの余地を提供してしまったわけですが)。

もちろん黒古先生には「私は評論家であって研究者ではない」という応答が可能なのですが、もしそうだとすると学に従事しない大学教授ってなんだろうという疑問に答えなければいけなくなるわけです。音大や美大であれば技術教授が主目的ですから学に従事しない大学教授もいるのですが、大学の文学部や文学研究科は作家を養成するための教育研究機関ではないし、仮にもしそういう教育を目指すのだとしても文学でそれに対応するのは作家であって文芸評論家ではない(音大が音楽家を育てるところであって音楽評論家を育てるところではなく教授者が音楽家であるのと一緒です)。

学者として文学に関する学的営為に従事する気はないがさりとて作家として自ら創作者たらんとする気もないので文芸評論をしているということなのかもしれませんが――学者でもないのに禄を食むためだけに大学教授をするということそれ自体をここで難詰しようとは思いません――大学教授の肩書きに依拠してたとえば学術雑誌に学的営為とは呼べないような「論文」を掲載せしめているのだとすれば、それは学的資源の詐取ですし、或いは文学研究のために血税から支出されている研究費を「文学」ないし評論のために費消するのは国民の負託に対する裏切りです(これは「戦後文学」派としては悲しむべき事態ですね)。もちろん「いや私は学問的研究をしているのだ」と正面から反論していただければそれが一番なのですが、そのご研究の方法論が立松和平とやらの「イタコ」となって作家の「内心」「真意」を代弁するなどというものではまったく学的でないわけなので――検証可能でもなければ合理的批判に開かれてすらいない――イタコの口寄せだかテレパシーだかを要求するような黒古先生の言う「文学」ではない、開かれた学的営為としての文学研究について、いったい何を考えておられるのか、伺いたいと思うのです。

もちろんこうした「大学教授」であるということに関わる諸問題が黒古先生に特有のものであるなどという気はありません。「みんながそうなのになぜ俺だけが責められなければならないのだ」というのが、ここのところブログで猛攻撃を受けた先生の正直なお気持ちであることでしょう。しかし、率直に言えば「大学解体」を叫んだ全共闘世代の先生方が(人文社会系に特に顕著ですが)まさしく学へのコミットメントを放棄しつつ「大学教授」となることを通じて「学問の府」としての大学を解体してこられたのです。それなのに自らがもたらした大学の崩壊に基づいて「学へのコミットメントなき大学教授であること」を正当化されるのは筋が通りませんし、傍目に見てもあまりに情けない行動ではないでしょうか。

黒古先生のご真摯な応答によって上のような慨嘆が単なる杞憂であることが明らかにされることを願ってやみません。
Unknown (むらさき)
2008-09-13 20:53:21
> どなたかが、東大、京大だって今や
>「学問の府」でないというのは常識に属する
> と書いていたが、僕もそう思っている。

大学が「学問の府」でないと思いつつ、学的営為に従事する研究者としてそこに在籍し続ける(すなわち研究面ではともかく教育面では現実に甘んじる)ということと、研究面でも学的営為を放棄するということは違うことですよね。私も奉職先の個別事情によっては前者はやむを得ない場合もあると思います。ですが、私はこの一連のコメントではずっと後者が問題になっているのだと思っていました。そして黒古先生の「文学」観――栗原氏が書かれていたようにテレパシーの如き「超能力」を必要とするような「作家の身になって(というより一心同体になって)考えるのが『文学』である」というもの――が文芸に関する学的営為として正当化しうるか否かが、黒古先生のこれまでの「活動」・「業績」がそもそも「学」であるのかを左右するために、黒古先生の文学研究に関する方法論的認識が、研究者としての「大学教授」という社会的地位と密接な関係を持つというただ単純なそれだけのことではないでしょうか?


> そうは思いながら、しかし大学に勤めている
> ことは「自己矛盾」だという人、あなたの
> ような論法でいけば、この体制や社会を批判
> する人は、みなこの世で失業しなければなら
> なくなるが、そのようなことをあなたは
> 望んでいるのでしょうか。だとしたら、
> あなたは体制(権力)の番犬ですね。

この論法は単純に理解不能です。どうしてそんなアナロジーが成り立つと思われたのか推察することすら私には困難です。大学が現状で「学問の府」ではないということを認めつつそのことを批判し改善に――大学に在籍しつつ――努力する、ということに何ら「自己矛盾」はありません。もちろんそのような批判と改善への努力の意志をまったく欠くならば、大学教授職を継続することに「自己矛盾」(というよりは遂行的矛盾というべきでしょうが)を見て取ることはできるでしょう。体制や社会を批判し、その上で改善へと努める人はまさに前者のような立場に立っているのでありそこになんら遂行的矛盾はありません。そもそもそれ以前に、大学と違って社会は基本的に離脱可能ではありませんし、そこに参入するのも大学と違って自由意志によるわけではありませんから、大学や他の組織と社会のアナロジーが成り立つ余地はありません。何回読み直しても黒古先生に概念的混乱――恐らく事実と規範の区別や遂行的矛盾がどういうものかといったことに関する混乱――があるとしか思えません。もしそうでないと主張されたいなら、もう少し丁寧にご自分の主張を敷衍される方が良いと思います。現状では恐らく殆どの人間にはunintelligibleな主張になっていると思いますよ。
Unknown (Unknown)
2008-09-13 21:04:13
慌てて英和辞典をめくるクロコダイルの姿が目に浮かぶ…
Unknown (だいだい)
2008-09-13 21:46:19
> 確かに、それぞれの分野・専攻において
> 優れた研究者はどの大学にもたくさんいる
> (と思う)が、僕は「学問」というものは、
> それが例え理系であろうが文系であろうが、
> 研究者の姿勢及びその成果(論文や著作)に
> 現実・現状に対する「批判(批評)」が
> なければ、そんなものは「研究」でも何でも
> ないと思っているが ――このように書くと
> また、そんなの「研究」ではない、などと
> 鬼の首を取ったように僕を批判する輩が
> 出てくるのだろうな――、仮にそのような
> 「批判(批評)」が無くとも、


黒古先生が全共闘世代だということをまざまざと見せ付けるような見事な箇所ですね。上で言う「現実・現状」というのが当該学問分野における研究状況のことを含むのであれば、あらゆる学的営為はそれに対する批判(critique)を含むものでしょうが、ここで黒古先生が言っているのはそういうことではなくて「社会の現実・社会の現状」ということでしょう。なんか旧ソ連的学問観みたいなもんなんですね(マルクス主義的進歩観念に歩調を合わせないものはたとえ自然科学でももはや「科学」ではないというアレです)。体制翼賛の裏返しの体制批判という奴が露骨に見て取れて興味深い。

別に鬼の首なんかとりゃしませんが、自然科学を含む「学問」に関する通常ありふれた理解は、別段社会批評なんかをその本質だなどと考えていないので、単純に黒古先生の「学問」「研究」という語の用法が一般の用法からずれているというだけのことでしょう。でも普通の用法から外れているご自分の用法の方が適切なのだという論証はどこにもないですね(たぶん相も変わらずマルクス主義に依拠しているんだと思いますが)。

なにより上の論法は黒古先生が本当に論理的思考ができないことをさらけ出してしまっていますよ。仮に「学問・研究」が社会批評性をその本質として持つのだとしても、そのことから社会批評性を持つものがそのことによって「学問・研究」になったりはしないのです。従って、黒古先生の「文学」が仮に社会や現実への「批判・批評」なのだとしてもそのことで黒古先生の「文学」が「学問・研究」だということにはなりません。これは典型的な後件肯定の誤謬です。肝心の「文学」観に関してまさにこのような初歩的かつ重大な誤謬を犯しているのだとすればこれは大変嘆かわしいことだといわねばなりません。

Unknown (Unknown)
2008-09-13 23:19:45
http://d.hatena.ne.jp/ykurihara/20080911#1221102055

黒古先生は、先生が「黒い雨」関連の記述に関して栗原氏の著作を単に誤読しているだけだという栗原氏からの批判は読まれましたか?

訂正を求められているようですので、栗原氏への先生のご批判の前提となっている「文学観」をより詳細に敷衍して栗原氏の立場――先生の「文学観」をテレパシーの如き超能力を要求するものとして退けられています――を批判するか、或いは誤読を認めて氏への批判を撤回されるかのどちらかを明示的になさるのが筋であるように思います。

匿名のコメント欄に対する応答はさておき、ご自分から口火を切られた批判の後始末はきちんとしておくべきだと思いますので一応ご確認まで。
Unknown (小谷野敦)
2008-09-14 00:02:35
お久しぶりです。学生・院生は教師に生殺与奪の権を握られているから、そういうことを言います。それがまさに「権力関係」というものです。私などは非常勤講師に過ぎませんから、学生が応援してくれることなど滅多にありません。黒古先生、ご自分が「権力者」であるという自己批判を行う能力もないのであれば、黒古先生の批判精神も底が知れたというものでしょう。

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