黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

人間軽視の「政治」

2007-12-24 10:30:00 | 近況
 今朝、新聞を広げ「薬害肝炎 全員救済へ」の見出しを見て、思わず絶句してしまった。ふざけている、と思ったからである。もちろん、患者さんたちにしてみれば「線引き反対、全員救済へ」という「念願」が適う一歩を踏み出したであるから、歓迎すべき「政治判断」と言うべきだろう。
 しかし、患者の「全員救済」は考えられないという福田首相以下舛添厚労省大臣らが決断を下したのは、たった3日前のことである。それが、内閣支持率の急速な低下(不支持率が支持率を上回る)に驚愕して、一挙に「政治判断」をしたという茶番劇を演じてしまったというのが、昨日の真実なのだろうが、そんな「政治判断」をしなければならない現在の政治における「貧困」こそが問題なのではないか、と思う。新聞の見出しを見て、思わず「ふざけるな」と思ったのも、余りにも現在の政治に「人間(の生命)」が不在である、軽視されている、と感じられたからに他ならない。
 もし、本当に福田首相以下、与党の政治家やそれを裏側から支える「官僚」たちが、「人間(の生命)」を大切に思っていたのであれば、何度もテレビで放映されたような患者さんたちの「涙ながらの訴え」に対して、国の責任を回避するような、そしてまた救済のためのお金をケチるような姿勢は示されなかったはず、と思うのは、僕だけではないだろう。皮肉でも何でもなく、何しろ政府はイージス艦からの迎撃ミサイル(たったの1発)発射実験に何百億円ものお金をかけて「喜んでいる」のだから、お金がないわけではない(赤字国債を乱発しているが)。
 価値観がどこかで転倒しているとしか考えられない。本来「政治」は国民の幸福を願って行われるものであるが、「国民のため」というより、「国のため」に巨額の是金が投入され、それを多くの人が「当たり前」のように容認してしまう。このような「政治」の在り方が、泥沼のアジア・太平洋戦争(十五年戦争)に突入していく1930年代初めに(もっと言えば、明治維新以来の朝鮮半島、中国大陸への「野心」、詳しくは拙著「戦争は文学にどのように描かれているか」八朔社刊を参照)に酷似している、と思うのは、僕だけだろうか。あるいは、「国民の幸せ」という美名=建前にカムフラージュされた日本資本主義の「金儲け主義」が、今日の「人間(の生命)」をスポイル風潮を生み出したのだ、その意味では僕らにもその責任の行ったはある、と考えるのは、僕だけだろうか。
 いずれにしても、今回の「薬害肝炎患者救済策」という茶番劇が僕らに示してくれたのは、「人間(の生命)」が蔑ろにされている現実に他ならない。それは、アメリカの政策に「異議申し立て」することなく、唯々諾々と従ってばかりいる保守政権の醜態を見せつけると共に、僕らもまた「金権主義」にまみれて、正当(正統)な批判力を発揮することができなくなってしまっている現実を、白日の下にさらけ出すことでもあった。今朝の新聞を読みながら、終始僕の頭を過ぎっていたのは、そのような「苦い思い」であった。
 「女狐」さんという沖縄の大学院生(女性)が、沖縄で生きることの厳しさについて、日本=ヤマトにいては決して分からない現実を踏まえて「コメント」を寄せてくれているが、いま僕らに要求されているのは、いかに他者の「痛み」を共有することができるか、ということなのではないか、と思う。
 友人高橋武智氏がベトナム反戦運動の過程で生じた「米兵脱走運動」について、『私たちは、脱走米兵を越境させた……』(2400円 作品社刊)という本を書いて、好評を博しているが、この本の基調として流れる「生きる=共生」の思想こそ、僕らが今まさに必要としているものではないか、と思っている。この本は、「ジコチュウ」と真逆な思想によって書かれているものです。

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2 コメント

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ホントにインチキだと思います (joe)
2007-12-24 22:54:15
 どこぞの新聞が「政治決断」などと書いていたが、全く違うと思います。
 何も決断していない。国会に丸投げしただけではないでしょうか。しかも、国の責任についてはいまだにもごもご言っている。
 被害者の痛みを理解しようとする努力は大切です。想像力を欠き、他者を思いやる心を欠いた政治は寒々しいものです。
 同時に、論理的一貫性を欠いた政治は信用が出来ません。いつになったらまともな政府が出来るのやら。先生の教え子に期待しますか。
あなたのような人に (黒古一夫)
2007-12-25 05:27:28
 どうしたら、今の政治を変えられるのか? 僕にもよく分かりません。あなたが考えているのと同じように、「誰か」に、あるいはどこかの「政党」に具体的に「期待」を掛けることはできないでしょう。
 しかし、かつて埴谷雄高が言ったように、僕らはそれでも「幻の共和国」を夢見て、現在を生きるしかないのだと思っています。そして、その「幻の共和国」は、目の前に出現する「不正義」や「不合理」に対して、一つ一つ「異議申し立て」をしていくことによってしか実現しないものだと思っています。
 ですから、その意味では、あなたのような人こそ「幻の共和国」の住人に相応しい人なのだと思います(あなたは拒否するかも知れませんが)。
 それに、僕は「あきらめること」を止めた時点から=文学の可能性を信じようとしたときから、例え「孤立無援」になっても、「共生」を目指して生きていこうと決意しました。現在は、その延長でしかありません。

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