黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

歴史から学ぼう(3)――予想通りの「日米首脳会談」

2017-02-12 09:00:44 | 仕事
 10日に始まった「日米首脳会談」、日本のマスコミは「日米同盟強化を確認」(朝日新聞)などと言って持て囃しているが、その記事を読めば分かるように、その中身は全く予想した通りのゴマすり外交でしかなく、「移民」問題や経済問題に関して世界中から大きな「懸念」をもたれているトランプ大統領(政権)に対して、イスラム圏7カ国の入国禁止についても「それはアメリカの国内問題だ」として、何ら日本独自の見解を述べることをしない「忠犬」ぶりを発揮し、一人「ご満悦」な表情を振りまくという最悪の対応を行った。
 欧米のメディアの中には、「こんなに大統領におべっかを使う外国の首脳は見たことはない」と皮肉るものもあったというが、日本国内向けにはいかにも「対等・平等な関係」における「同盟強化」を演出したとしても、外国のメディアから見れば今度の安倍首相のアメリカ訪問は、まさに「おべっか外交=追随(従属化の強化)外交」でしかないことは、明々白々に映ったのだろう。
 本当に、「対等・平等」な同盟関係を築きたいのであれば、日米安保条約の内実を象徴している日米地位協定」(日本が未だにアメリカの植民地と同じような状態に置かれていることを明らかにしている約束=条約、日本国家法よりも上位概念として昨日している、と『日本はなぜ、「基地」と『原発」を止められないのか』の著者矢部宏治は言っている」の改訂をアメリカ政府(大統領)に迫るべきなのである。そのことを抜きにした「日米同盟云々」は、すべて国民を騙すためのパフォーマンスに過ぎない、と僕は思っている。
 僕は必ずしも「民進党」(民主党)に全面的な賛意を送っているわけではないが、鳩山由紀夫が首相になったとき普天間基地の移設に関して「即時返還、移転するなら最低でも沖縄県外」と言ったのは、まさにアメリカの「属国=植民地」から如何にして脱するかを模索した結果であって、辺野古沖へのアメリカ軍新基地の建設を加速させ従属化に拍車を掛けている安倍自公政権とは真逆な思想によって考え出されたものである。
 日本や欧米のメディアが安倍首相とトランプ大統領の「資質が似ている」と言っているのも、両者とも「自国第一主義(安倍首相の場合は、おべっかを使って卑屈にも「アメリカ・ファースト、日本セカンド」に甘んじようとしているようだが)」で、他を「差別」することにおいて人後に落ちないからだろう。大言壮語(空語・観念後)を連発するのも、似たもの同士である。そして経済重視(金持ち優遇)であることも似ている。
 大国(トランプ大統領)に擦り寄る(おべっかを使う・ゴマをする)日本の「忠犬」安倍首相、日米同盟はこれからどこへ行くのだろうか。たぶん「日米同盟の強化」という名前の下で、自衛隊の装備強化(=アメリカからの武器購入)が図られるのだろうが、「日米共同声明」を読んで、大変気になった箇所があった。それは、冒頭の
 揺らぐことのない日米同盟はアジア太平洋地域における平和、反映および自由の礎である。核および通常戦力の双方による、あらゆる種類の米国の軍事力を使った日本の防衛に対する米国のコミットメントは揺るぎない
 という文章である。かねてより、トランプは「中国や北朝鮮の(核の)脅威」に対して「日本も核武装すべき」だと言っていたが、この「核戦争も辞さず」といった共同声明の文章は、暗に将来的には「日本の核武装」も可能だ、と言っているようで、少なくとも建前の部分があっても「核軍縮」を一応唱えていたオバマ前大統領とは真逆の考えである。
  原発再稼働を加速させ、核兵器の原料であるプルトニウムを蓄え続けようとしている安倍政権である、もしかしたら近い将来トランプ(アメリカ)の意向を受けて、「中国や北朝鮮の脅威」を理由に、日本も「核武装」に踏み切るかも知れない恐れがある。
 安倍首相の甘言(空語)に騙されてはいけない。何としても自公政権の力を弱めるよう、一人一人の自覚が必要なのではないか
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歴史から学ぼう(2)――ゴマすり外交、いつまで続く?!

2017-02-09 10:01:10 | 仕事
 いよいよ今日(9日)の夜、白人至上主義者=差別主義者のトランプ・アメリカ大統領に、「忠犬」安倍晋三日本国首相が、しっぽを振りながら会いに行くという。
 この欄で何度も言ってきたように、僕は決してナショナリスト(国粋主義者)ではない。どちらかと言えば、「グローバリズム」という言葉を使いたくないので、インターナショナリスト(=コスモポリタン)的な思考の強い人間だと思っている。2000年にヨーロッパへ行ったとき、イギリスからフランスーイタリアへ行ったとき、また1ヶ月客員教授として過ごしたスロベニアを基点にイタリアやクロアチア、セルビアなどへ行ったとき、を空港でも国境をまたぐ高速鉄道の中や津炉の検問所でも、一度もパスポートの提示を求められず、国境がないということの便利さ(単に「便利」というだけでなく、パスポートによって「民族」や「人種」が確定されないことの「自由さ」を味わって以来、現在の日本を覆っているナショナリズム(国粋主義)の「いかがわしさ」に対して警戒しなければならない、と密かに思い続けてきた
 この思いは、ウイグル族やチベット族などの少数民族(全部で56あるといわれている)に対する差別が著しいといわれてきた中国で2年半生活したことによって、より強まった。このことについては、拙著『葦の髄から中国を覗く――見ると聞くとは大違い』(アーツアンドクラフツ刊)の中で具体的な例を挙げて書いたが、ナショナリズムと差別主義(ヘイト・クライム)が表裏一体の関係にあり、それは「共生」の思想や生き方に反することであるとの確信は、この時の経験によって強まった。
 そんなインターナショナリストの目から見ると、ナショナリスト(国粋主義者)であり「日本会議」の強い影響の下に「戦前回帰」=憲法改正こそ十分の目指す政治だと自認している安倍首相は、差別主義者(自国中心主義者・アメリカンファースト)であるトランプ・アメリカ大統領の資質と似ているとも言えるが、しかし自国の運命を強大国アメリカに託すという安倍首相の「ゴマスル外交」は、どう見ても中国や韓国に対する「強気」の外交姿勢と矛盾していると思うが、安倍さんの頭ではこの自らの「矛盾」に気付かないかも知れない。
 つまり、沖縄に対する態度や国会論戦などからも分かるように、国内やアジアに対しては「強権的」な姿勢を貫きながら、アメリカに対しては「属国化=植民地化」を強化する、エセ・ナショナリスト安倍晋三の面目躍如たるところだが、日米安保条約やそれに伴う日米地位協定などの世界に類を見ない「アメリカ・ファースト」(不平等・日本があたかも植民地であるかのような)条約やそこから派生した「密約」などを改訂せず、ひたすらご主人であるアメリカのご機嫌取りを行う安倍首相、日米関係やトランプの発した大統領令で世界が揺れているというのに、50万円もするクラブを送ったからそれを使って欲しくなのか(ジョークです)「ゴルフ外交」だという。
 いま国会では、「共謀罪」(テロ党準備罪)をめぐって金田法務大臣がまともに答えられず野党の追撃を受け、稲田防衛相が南スーダンに派遣された自衛隊PKO部隊が昨年7月の「内戦」について、自衛隊が「日報」で「戦闘」という言葉を何度も使って南スーダンが内戦状態にあることを記しているのに、「戦闘は法的意味の戦闘ではない」とか「憲法9条の手前「戦闘」とは考えない。従って戦闘ではなく武力衝突だ」とわけの分からない答弁を繰り返している――この稲田という弁護士出身で「日本会議」お抱えの防衛大臣は、安倍首相のお気に入りというが、本当に「自分の頭で考えない阿呆だな」と思う――のに、最終的には「数の力」で強行突破すればいいと思っているのかも知れないが、それらの重要案件を尻目に「ゴルフ」に興じる、その安倍首相の神経が理解できない。 そんなことを考えていたとき、必要があっていま読み直している半藤一利の『坂口安吾と太平洋戦争』(2009年 PHP研究所刊)の中に、面白い文章を見つけた。半藤一利は、大井広介や平野謙らが津くっら『現代文学』の1943(昭和18)年1月号に「五月の詩」というエッセイを寄せていて、そこには次のような文章があったと書いている。
<大東亜戦争このかた、日本文学の確立だとか、日本精神の確立だとか言われているが、日本精神だとか日本的性格というものは決して論理の世界に現れてくるものはなく、又、現し得べき性質のものではない。(略)日本精神だの日本的性格などを太鼓入りで探しまわる必要は微塵もない。すぐれた魂の人々が真に慟哭すべき場合に遭遇すれば、かくの如き美しい日本の詩を歌い出してくるではないか。(略)僕は断言するが、日本精神とは何ぞや、などと論じるテアイは日本を知らない連中だ。>
 「美しい日本」とか「日本を取り戻す」などといった空語(観念てきな言辞九を振り回しながら、沖縄では辺野古沖に新基地をつくり高江にオスプレイ訓練用のヘリパッドをつくってアメリカ(米軍)に媚びを売っている安倍首相に読ませたい差家具単語の言葉である。
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歴史から学ぼう!(1)――あったことをなかったことにはできない

2017-01-31 10:34:51 | 仕事
 いま、今年刊行予定の『原発文学史・論』(仮題)の執筆を書き進めているのだが、「フクシマ以前」と「フクシマ以後」のものに別けて、今までに集めた200冊近い「原発」関係の本を読み直しつつ書いていて、昨今の国内外の政治状況などを鑑みて、いくつか気付かされたことがある。
 それは、一言で言えば、日本人(現代人)というのは、つくづく「歴史から学ばない民族だ」ということである
 そこで、これからしばらくはその「歴史から学ばない」僕らの在り方について、少しずつ書いていこうと思っている。
 まず、今日は、いま国会で熱い(?)舌戦が続いている「共謀罪」(テロ等準備罪)についてである。
 安倍自公政権は、今国会での成立を目指して、この法律ができなければ「東京オリンピック・パラリンピックが開催できない」(安倍首相の国会答弁)などと言って、たぶんこの天下の悪法といわれた「治安維持法」(1925・大正14年)に成立。その後何度か改正される)の焼き直しといわれる「共謀罪」は、最終的には強行採決で片を付けようとするのだろうが、もしこの法律が成立したら、いかに僕らの基本的人権の要になっている「自由権」(思想・心情の自由・出版・表現の自由、等々)が侵害され、阻害されるか、本気でこの法律の阻止を考えないといけないのではないか、と思う。
 安倍自公政権は、この「共謀罪」は、「市民生活に影響しない」「社会運動を抑圧するものではない」と言っているが、その成立当時は「国体の変革(天皇制の廃止)」や「私有財産制度の否定」を唱える団体、つまり共産党や労農党(の一部)、ありはアナーキスト連盟などの左翼組織を対象にすると言っていた「治安維持法」が、その後徐々に拡大解釈され、少しでも政府や軍部に楯突く(異議申し立てする)者や哲学者の三木清の逮捕が象徴しているように自由主義者(リベラリスト)などにも適応されるようになり、多くの国民が塀の中に追いやられた。共産党員だったからという理由で作家の小林多喜二が拷問の末に虐殺されたこと、僕らは忘れてはならない。
 そのことを考え、かつ安倍首相や閣僚たちに強い影響を及ぼしている「日本会議」が「戦前回帰」(絶対主義天皇制を中核とする政治・社会体制)をその運動の目的としていることを考え合わせれば、彼らが「治安維持法」によって守られた「戦前」(絶対主義天皇制国家)を目指して、「共謀罪」を今国会で成立させようとしていることは、見え見えである>。「東京オリンピック・パラリンピックの開催云々」は、全くの口実に過ぎない
 あの「軽口総理」の自分に都合のよい屁理屈(こじつけ)に騙されてはならない
 それは、昨日(30日)の参院予算委員会での法務大臣(安倍首相)と民進党福山哲郎氏とのやりとりを見れば、歴然としている。政府が提出した「ハイジャックを計画して航空券を予約した場合」にこの法律が適用される、という事例について、福山氏は「法令集」や「法令解釈集」などを持ち出して、現行のハイジャック防止法などで取り締まることができるから、わざわざ「共謀罪」をつくる必要などない、と主張したことに対して、法務大臣も安倍首相も「法案提出理由」について十分な説明ができず、ただ「必要だ」と繰り返すばかりであった。
 そこで、思い出すのが、集団的自衛権行使容認について説明するとき、海外で邦人救出に尽力してくれているアメリカ軍の艦船が攻撃された場合、日本の自衛隊は何の手出しもせず、ただ見守っていればいいのか、アメリカ軍と共同作戦スル必要があるのではないか、と赤ちゃんを抱いた湧き母親の絵を持ち出した時のことである。誰もが実際にそんな救出劇は不可能だといっているのに、安倍首相だけが悦には入って、こういうケース(赤ちゃんとは母親が戦場から脱出する場合)があるから、日米の共同作戦(集団的自衛権行使)が必要なのだ、と力説した場面、まさにそれはほとんどの憲法学者が「違憲」と判断した集団的自衛権を強引に認めさせる(閣議決定する)ためのパフォーマンスでしかなかったのだが、今回の「共謀罪」に関しても、「戦前回帰」を行うため、あるいはその先の「憲法改正」を強行するための儀式なのだろう、と思われる。
 本当に「嫌な時代」になってきた。
 もし「共謀罪」が成立したら、僕がこのブログで「安倍内閣をだとしよう。そのための協議を○○日に行う」と呼びかけたら、その途端に「共謀罪」で逮捕されるのではないか。そんなことが起こらないためにも、僕らは「歴史」(治安維持法下の戦前)を学ぶ必要がある。
 もう一度言う。本当に「嫌な時代」になってきた。何とか、阻止しなければ。
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覚悟を決めて(4)――安倍首相の「施政方針演説」批判

2017-01-21 09:39:46 | 仕事
 「世界の真ん中で輝く国創り」「力強く成長し続ける国創り」「安全安心の国創り」「1億総括役の国創り」「子どもたちが夢に向かって頑張れる国創り」、これは今朝(21日)の東京新聞が安倍首相の施政方針演説の全文を、各項目事にまとめた見出しだが、この「施政方針」の全文を読んで気付かされるのは、相変わらずの「自分に不利な事柄」には一切触れない「自画自賛」と、自民党内の反対派が皆無であることを見越してのことなのだろうが、あたかも自分が「全知全能の神(政治家)」であるかもごとき空語(言葉)を連発し、各項目の最後で、何を勘違いしたのか、あるいは無知をさらけ出したのか、立法府での施政方針演説であることを忘れたかのように、「~~していこうではありませんか」と呼びかけていることから関知される「違和感」である。
 「私たちの子や孫、その先の未来、次なる70年を見据えながら、皆さん、もう一度スタートラインに立って、共に新しい国造りを進めていこうではありませんか」(はじめに)→→「新しい国創り」って何だ! 「個人主義(民主主義)」を否定した「国家主義(ファシズム国家)」ということか?
 「今こそ、『積極的平和主義』の旗を掲げ、世界の平和と反映のため、皆さん、あたう限りの貢献をしていこうではありませんか」(世界の真ん中で輝く国創り→→アメリカの軍事行動を支援する集団的自衛権を行使して、「戦争のできる国」としてアジアで君臨することか?
 「農政改革を同時並行で一気呵成に進め、若者が農林水産業に自分たちの夢や未来を託することができる「農政新時代」を、みなさん、共に、切り開いていこうではありませんか」(力強く成長し続ける国創り→→「農業つぶし」といわれたTPPを強硬さ意見津市ながら、言い出しっぺのアメリカが、トランプ政権の発足と同時に「TPPからの離脱」を表明したことを、どう説明するのか。また、TPPのせいで、地方の農地が荒れ放題になっている現実を知らないのか?本当に脳天気なお坊ちゃま宰相だな、といわざるを得ない。アベノミクスはどうしたのか?相変わらず「道半ば」なのでしょうか!?
 「言葉だけのパフォーマンスではなく、しっかりと結果を生み出す働き方改革を、皆さん、共に、進めていこうではありませんか」(1億総括役の国創り)→→生活保護世帯の増加が止まらないのは何故?相変わらず非正規労働者が全労働者の40%を占めている現実をどう考えるのか。毎日美食を口にし休日にはゴルフを楽しむ安倍首相には、本当に困っている「貧者」のことなど全く眼中にないのだろう。
 
 「全ての子どもたちが、家庭の経済事情にかかわらず、未来に希望を持ち、それぞれの夢に向かって頑張ることのできる、そうした日本の未来を、皆さん、共に、切り開いていこうではありませんか」(子どもたちが夢に向かって頑張れる国創り)→→たった「2,3万円」の返還扶養、給付型の奨学金制度を新しく創設したからといって、こんな大言壮語が吐ける安倍首相の神経が全く理解できない。大学に進学しながら、授業料と生活費確保のためにアルバイトに明け暮れ、「学問」などとは全く無縁なまま卒業し、その後は何十年も奨学金の返還に苦しむ学生がどれほど存在するか、安倍首相は考えたことがあるのか。
 以上のように、「現実」と乖離した空語を連発して、一人悦に入っている安倍首相(と、このような空疎な施政方針に拍手を送り続けていた自公の国会議員たち)と、こんな首相に「他に変わる人がいないから」という主な理由で「支持率50パーセント超」を与えている国民とは、「表裏一体」の関係にあるとしか言えないのだが、本当にこの人の頭の中はどうなっているのか、と思わざるを得ないのは、今一番「困難な情況」にある沖縄に関して、次のようにいっていることである。
 <先月、北部訓練場、4千ヘクタールの返還が、20年越しで実現しました。沖縄県内のげに軍施設の約2割、本土復帰後、最 大の返還であります。地位協定についても、半世紀の時を経て初めて、軍属の扱いを見直す補足協定が実現しました。
  さらに、学校や住宅に囲まれ、市街地の真ん中にあり、世界でもっとも棄権といわれる普天間飛行場の全面返還を何としても 成し遂げる。最高裁判所の判決に従い、名護市辺野古沖への移設工事を進めて参ります。
  かつて、「最低でも」といったことすら実現せず、失望だけが残りました。威勢のよい言葉だけを並べても、現実は1ミリも 変わりません。必要なことは実行です。結果を出すことです。>

 この人の頭の中には、沖縄を1972年まで「植民地」状態においてきたのは、「安保条約」を結び、「日本国憲法」より上位にある「日米地位協定」(この施政演説で「補足協定」を結んだと自画自賛しているが、日本がアメリカ軍に全く手出しができない地位協定の本質は変わっていない)を結んできた自分の祖父である岸信介や大叔父の佐藤栄作ら自民党の政治家たちである認識など、全くないのだろう。
 また、「県外でも」と言って、普天間基地を「最低でも県外へ移設」と言った当時の首相鳩山由紀夫(民主党)を揶揄した気になっているのだろうが、鳩山由起夫が「県外への移設」を言ったのは、アメリカ軍基地に掣肘されている沖縄の現状をいくらかでも打開しようと、アメリカと「地位協定の改定」を含む交渉をしようとした結果であり、少なくとも安倍首相のように「属国化=植民地化」を進め用とした結果ではない。民主党が、アメリカと「対等・平等」名関係を構築しようとしながら、沖縄の基地を必要とするアメリカのネオコン(新保守主義)勢力と自民党との結託によって、鳩山由紀夫の「挑戦」は敗北した、ということである。
 安倍首相の「沖縄論」は、まさにアメリカへの属国化を加速させるもので、決してアメリカと「対等・平等」な関係を構築しようとするものではない。また、私たちの現在が沖縄の犠牲の上に成り立っていること、このことをも僕たちは肝に銘じておくべきである。
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覚悟を決めて(3)――考えてきたこと(その2 昨日の続き)

2017-01-12 09:41:24 | 仕事
 ><昨日の続き>
 昨日も書いたことだが、昨年夏頃から今年刊行予定の『「原発」文学史・論』(仮題)のために集めた資料や文献を読み直したり、新たに購入した本を読んだりしてきて、気付いたことのうち大きなことの二つめは、『反原発』の言説や表現が970年代の半ば以降から急激に増加し、議論が活発担ってきたということがある。
 象徴的なのは、『反原発事典Ⅰ・Ⅱ』(反原発辞典編集委員会編 1978・79年 現代書館刊)がそれまでの原発に関する論考(新稿も含む)を集めて刊行されたことである。この『反原発事典』に論考を寄せている主な人たちの名を列記すれば、『Ⅰ』には水戸巌、橋本勝、槌田敦、市川定夫、高木仁三郎、津村喬、久米三四郎、北沢洋子、梅林宏道、室田武、西尾漠など、『Ⅱ』には『Ⅰ』に登場した人以外で、栗原彬、花崎コウ平、池山重朗、栗原貞子、里深文彦、江口幹、向井孝、松岡信夫、武藤一羊、いいだもも、といった面々で、「3・11フクシマ」顔こったときにはすでに故人になっていた人もいたが、この『反原発事典』に登場した多くの論客が、フクシマが起こって以後さまさまなメディアに登場して「反原発」を主張することになるが、このことを考えると1970年代から現代まで「反原発」の言説や運動はずっと持続してきたことが分かる。
 また、この2冊の『反原発事典』に収録されている「原子力発電所のおもな事故・故障図」や「反原発略年譜」、「原発推進猛語録」などの「資料」を見ると、いかに原発に関する「不利な情報」が政府や電力会社、原子力ムラの住人たちによって隠されてきたか、また様々なメディアを通じて「偽りの情報」が流されてきたかがわかる。故人となった高木仁三郎さん(彼とは一度「核」に関するシンポジウムでパネリストとしてご一緒したことがある)が、何故都立大(現東京首都大学)助教授の職をなげうって、仲間と図り「原子力資料情報室」を立ち上げた過、そのこともこの『反原発事典』の諸論稿や対談・座談会を読むと、よく分かる。
 なお、原発の技術者と密かに開発された核爆弾をめぐって物語が展開する大江健三郎の『ピンチランナー調書』が刊行されたのは1976年であるが、その2年後の1978年11月、自民党と共に原発の再稼働に熱心な公明党(創価学会)と深い関係のある総合雑誌「潮」が野間宏の責任編集で150頁ほどの「特別企画 原子力発電の死角」を組んでいることは、時代を考えさせると同時に、特記すべきことなのではないか、と思う。この「特別企画」には、「なぜ原子炉に火をつけるのか」と題する野間宏・小林直樹(憲法学者)・谷川哲三(哲学者)の座談会を皮切りに、「三人の被爆者」(近藤信行・作家)、「さようならパパ(後に『原発死』として刊行される)」(松本直治・序文「無常の風」井伏鱒二)、「伊方 承伏せぬ人々」(松下竜一)、「眼が一つの赤ん坊」(小檜山博)、「ムラサキツユクサは訴える」(市川定夫)、「石の立場からみた放射線」(田代実・大阪大学医学部医師)、「反論する理性の声に〝耳〟を」(星野芳郎)、と「原発被爆者7人の証言」及び、僕の知る限り戦後文学史において初めて正面から「放射能(プルトニウム)の怖さ」をテーマとした文学作品(戯曲)『プルトニウムの秋』(井上光晴)が収録されている。 この「潮」の「特別企画」は、この時期の公明党(創価学会)が明らかに「反原発」の立場に立っていたことの証明であるが、この事実と自民党に引きづられて原発推進派に「転向」した現在の公明党の現在の在り方を比べると、何とも貧寒とした感じがするが、それと共に「権力」(与党)が如何に魅惑(?)に満ちたものであるか、を僕たちに知らせてくれ、このこともまた何とも嫌な感じがする。
 この他にも、一連の作業において、高村薫や東野圭吾、高嶋哲夫のエンターティンメント作品と呼ばれる「原発とテロ」との関係を扱った作品の「新しさ」や問題の本質を突いた作家の視点、あるいは改めて吉本隆明の『反原発異論』(2016年1月)に象徴される『原発論=科学神話』が如何にいい加減なものであったか、更にはもう少しで新刊が出ると騒がれている村上春樹の『原発論』がいかにパフォーマンスでしかなかったとか、いろいろ再認識させられ留ということがあったが、それは自嘲が刊行されたら読んで頂くことにして、僕がこの間の作業で一番に感じたのは、「知っていたつもりのことでも、案外知らないことが多かった。勉強は不断に続けなければ行けない」ということであった。
 皆さんも考えてください。
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