私がまだ小さな頃のアルバムを見ると、祖父に連れられ当時からいろんな乗り物に乗って楽しく写っている写真の中には、今ではありえない風情のある面白い乗り物がいっぱいありました。
そんな乗り物は、冷房がないのは当たり前。
駅は自然と同化し、木製の駅舎にたまに来る老体に鞭打ったような古い電車が、ゆっくりゆっくり近づいてきます。
でも地元の人はそれを生活の足として、我々にはめったに乗れない面白い乗り物に、不便を感じているような。
簡単に言えば、昭和が飛び出したような乗り物が、地方にはたくさんありました。
最近になると、そんな乗り物たちはいろいろな経緯をたどり、廃止されてしまったり、がらりと近代化して小奇麗に変わってしまったり。
私が感じる風情ある昭和の景色は、日頃利用している人にはたまらない不便であり、仕方ない流れと言えばそれまでなのですが…。
そんな懐かしい昭和の電車を、アルバムをめくりながら見つけてみるといろいろありました。以下ちょっぴり趣味人の書き方でピックアップしてみました。
1.下津井電鉄(児島~下津井)
私が小学3年の夏。瀬戸大橋の開通記念に出掛けた際に乗った電車。
瀬戸大橋の本州側の玄関である児島駅が始発ゆえ、当時瀬戸大橋ブームだったので、便乗でこの電車も最後のにぎわいを見せていました。
行きに乗ったのは「弁慶号」なる2両の旧型電車。帰りはわざと時間を合わせて乗った「リンガーベル号」なる3両のオープンデッキを持つ新型電車でした。
下津井電鉄は今では数少ないナローゲージ(線路の幅が普通より狭い)。
線路が狭く悪いので、あり得ない揺れとのどかさがたまらなく楽しかった記憶があります。
それからすぐ、瀬戸大橋のブームと共にあっさり廃止され、今では下津井の街は、バスすらロクに走らない街に廃れてしまいました。
今はどうなっているのでしょうか?
2.北陸鉄道浅野川線(北鉄金沢~内灘)
今でこそ始発駅・北鉄金沢は地下化され、電車も京王井の頭線の払い下げに変わり、全体的に施設は大きく立派に。でも私が乗った中学1年当時は金沢駅の真横にトタン屋根で細々とした駅舎に、小さな木造電車が走る非常にローカルな電車でした。
夕暮れに北鉄金沢を出た電車は、こまめに浅野川沿いの小さな駅に停まってお客を降ろしを繰り返し、着いた終点内灘駅は海のそば。
我々を降ろすと小さな電車はあっさり車庫へ引き上げ、祖父と私ぽつんとホームに残されよく見ると次の電車はだいぶ先…。
仕方なしにもう真っ暗に近い海岸へ散歩し、裸電球ひとつばかり照らされたさびしい駅舎に入ってきた次の電車に乗り、からがら金沢へ戻ったのでした。
電車もきれいに大きくなった今、あの風情は残っているのでしょうか?
3.高松琴平電鉄志度線(高松築港~琴電志度)
まだ小さな小学2年生当時、宇高連絡船に揺られ着いた四国は、電線の下を走る電車はまだわずかしかなく、ほとんどが気動車という当時。
キハ181系特急南風に乗りこんぴらさんをお参りし、帰り道はキハ47系。翌日屋島へ出掛ける急行は今では貴重なキハ58系。シートはボックス化されていない、製造当時のシートで今思えばもう少し心して乗っておけばよかったと。
屋島山に登り、帰り道乗った琴電は京急旧デハ230型2連。昭和初期から京急で走り続けた名車。
すれ違う電車もどれも博物館クラスの車両ばかりで、当時真夏でほんとに暑かったけど、夢中になって電車に見とれた記憶があります。
そんな電車も名古屋市交の電車で一斉に置き換えられ、博物館クラスの電車のほとんどは本当に博物館入りしてしまいました。
現地の利用者の切実な願いというので仕方ないけど、当時の四国の乗り物は本当に味がありました。
今も実は探せばそういう昭和な乗り物はちらほら走っています。
でもどこも新しい電車や駅を造りかえるお金のない会社ばかり。
そういう電車を大切に乗ってあげないと、そういう電車は間違いなく近い将来なくなってしまう時が来るんでしょう。
時が進むのは仕方ないけれど、電車おじさんとしては、そういう風情が趣味欲をかきたててくれる訳で、時代の流れは時に寂しく感じる時もあるんです。
…なんて、今日はあまり文章がまとまりませんでした。
そんな乗り物は、冷房がないのは当たり前。
駅は自然と同化し、木製の駅舎にたまに来る老体に鞭打ったような古い電車が、ゆっくりゆっくり近づいてきます。
でも地元の人はそれを生活の足として、我々にはめったに乗れない面白い乗り物に、不便を感じているような。
簡単に言えば、昭和が飛び出したような乗り物が、地方にはたくさんありました。
最近になると、そんな乗り物たちはいろいろな経緯をたどり、廃止されてしまったり、がらりと近代化して小奇麗に変わってしまったり。
私が感じる風情ある昭和の景色は、日頃利用している人にはたまらない不便であり、仕方ない流れと言えばそれまでなのですが…。
そんな懐かしい昭和の電車を、アルバムをめくりながら見つけてみるといろいろありました。以下ちょっぴり趣味人の書き方でピックアップしてみました。
1.下津井電鉄(児島~下津井)
私が小学3年の夏。瀬戸大橋の開通記念に出掛けた際に乗った電車。
瀬戸大橋の本州側の玄関である児島駅が始発ゆえ、当時瀬戸大橋ブームだったので、便乗でこの電車も最後のにぎわいを見せていました。
行きに乗ったのは「弁慶号」なる2両の旧型電車。帰りはわざと時間を合わせて乗った「リンガーベル号」なる3両のオープンデッキを持つ新型電車でした。
下津井電鉄は今では数少ないナローゲージ(線路の幅が普通より狭い)。
線路が狭く悪いので、あり得ない揺れとのどかさがたまらなく楽しかった記憶があります。
それからすぐ、瀬戸大橋のブームと共にあっさり廃止され、今では下津井の街は、バスすらロクに走らない街に廃れてしまいました。
今はどうなっているのでしょうか?
2.北陸鉄道浅野川線(北鉄金沢~内灘)
今でこそ始発駅・北鉄金沢は地下化され、電車も京王井の頭線の払い下げに変わり、全体的に施設は大きく立派に。でも私が乗った中学1年当時は金沢駅の真横にトタン屋根で細々とした駅舎に、小さな木造電車が走る非常にローカルな電車でした。
夕暮れに北鉄金沢を出た電車は、こまめに浅野川沿いの小さな駅に停まってお客を降ろしを繰り返し、着いた終点内灘駅は海のそば。
我々を降ろすと小さな電車はあっさり車庫へ引き上げ、祖父と私ぽつんとホームに残されよく見ると次の電車はだいぶ先…。
仕方なしにもう真っ暗に近い海岸へ散歩し、裸電球ひとつばかり照らされたさびしい駅舎に入ってきた次の電車に乗り、からがら金沢へ戻ったのでした。
電車もきれいに大きくなった今、あの風情は残っているのでしょうか?
3.高松琴平電鉄志度線(高松築港~琴電志度)
まだ小さな小学2年生当時、宇高連絡船に揺られ着いた四国は、電線の下を走る電車はまだわずかしかなく、ほとんどが気動車という当時。
キハ181系特急南風に乗りこんぴらさんをお参りし、帰り道はキハ47系。翌日屋島へ出掛ける急行は今では貴重なキハ58系。シートはボックス化されていない、製造当時のシートで今思えばもう少し心して乗っておけばよかったと。
屋島山に登り、帰り道乗った琴電は京急旧デハ230型2連。昭和初期から京急で走り続けた名車。
すれ違う電車もどれも博物館クラスの車両ばかりで、当時真夏でほんとに暑かったけど、夢中になって電車に見とれた記憶があります。
そんな電車も名古屋市交の電車で一斉に置き換えられ、博物館クラスの電車のほとんどは本当に博物館入りしてしまいました。
現地の利用者の切実な願いというので仕方ないけど、当時の四国の乗り物は本当に味がありました。
今も実は探せばそういう昭和な乗り物はちらほら走っています。
でもどこも新しい電車や駅を造りかえるお金のない会社ばかり。
そういう電車を大切に乗ってあげないと、そういう電車は間違いなく近い将来なくなってしまう時が来るんでしょう。
時が進むのは仕方ないけれど、電車おじさんとしては、そういう風情が趣味欲をかきたててくれる訳で、時代の流れは時に寂しく感じる時もあるんです。
…なんて、今日はあまり文章がまとまりませんでした。