“kouchan ”の Web Diary 

園芸・趣味・リハビリなどを綴る

「久しぶりに○○○のお世話になってしまいました。」

2006-03-31 19:32:57 | 自分自身
最近、風邪薬には、全く縁の無かった私ですが、久しぶりに2~3日前からの鼻水と頭痛で「葛○湯」のお世話になってしまいました。
今日は、月末(年度末)で、ブログを途絶えさす(?)事もしたくないので、簡単に済ませて、PM7:30に床入り、寝室で1人、ジャイアンツの強さを見届け9時過ぎに就寝。

第2回「オセロ大会」・・・V2なる

2006-03-30 18:20:04 | 仲間・ファミリー
娘の旦那が出張のため、娘と孫が福島に泊まり来た。そこで、最近私がパソコン相手のオセロゲームに夢中になっているのを見て、娘はパソコンの空いているのを見計らってやりだした。自称“オセロは強いんだ”といいながら、本当にこれが強いんです。ママパンダには高い確率で勝利し、パパパンダには一度勝ったような事を言っているのです。私は、パパには最後に軽くあしらわれて、一度も勝てないでいる。
私はそんな我が家のオセロブームに支えられて、本日の第2回大会決勝戦に備えた。
対戦相手は、「goemon2さん」。最初からゲーム(遊び)とはとても思えないほど緊張した駆け引きが続けられて私がその雰囲気に飲み込まれたかのように打つ場所を勘違いしてしまった。勝負は一気に私の劣勢に傾いた。ところが勝敗の決する大詰めで、「goemon2さん」も思わず、緊張からか、打つ場所をわかっていながらおもわず勘違いをしてしまった。互いに一度ずつの勘違いがあったわけだが、中盤と終盤という違いでだけで勝敗は決した。
“益々、第3回大会が楽しみ!”


「自分史」 ⑩・・・テレビの来たころ好きだった番組 (2)

2006-03-29 17:19:20 | 自分自身
昨日のブログで書いた名犬ラッシーと名犬リンチンチンが犬物で人気が有ったのに対して、同じ1958年(10歳)頃、西部劇物で『ローン・レンジャー』が大好きだった。今でも記憶がある場面は、ロッシーニの勇壮な“ウィリアム・テル序曲”にのって西部の荒野を、純白の馬(シルバー)でかけめぐる「ローン・レンジャー」だった。「シルバー」とは純白の野生馬で、その輝くばかりの美しさに、ローン・レンジャーが“シルバー”と名付けたのだ。「ハイヨー シルバー!」の掛け声とともに、山を越え谷を渡り、荒野を疾駆する。その速さは、どんな馬もかなわなかった。実にかっこよかった。
 そしてやはり、もうひとつの番組をあげなくてはならない。
「弾丸よりも速く、力は機関車よりも強く、高いビルディングもひとっ飛び!
 空を見ろ、鳥だ、飛行機だわ、あっ、スーパーマン!
 そうです、スーパーマンです!
 遠い星からやってきた奇跡の男……、彼はクラーク・ケントと名のり、
 メトロポリスの新聞社デイリープラネットの記者となって、正義と真実を守るため、
 日夜闘い続けているのです」
このナレーションは死ぬまで忘れないでしょう。 『スーパーマン』のタイトルで、いつも使われていましたから。 1956年(8歳)から放送がはじまった『スーパーマン』は私にとって、『月光仮面』と同じくらい、期待通りのワクワク・ドキドキの感動的な番組でした。
 ビルの陰から、電話ボックスから、新聞社の一室から、クラーク・ケントがスーパーマンに変身して飛ぶ飛行シーンは、毎回同じフィルムの使いまわしでしたが、高層ビルの立ち並ぶ大都会の鳥瞰図は何度見ても“アメリカは凄いな!”と驚きの連続でした。
 同僚カメラマンのジミーや、婦人記者のロイスが事件に巻き込まれ、それを知ったクラークがスーパーマンに変身して悪党どもをやっつける、というのが物語のいつものパターンで、それにしても、眼鏡をかけただけのクラークを、ジミーやホワイト編集長といった周りの人たちが誰一人として気づかないのがとても不思議だった。
しかし、昨日今日の4つのテレビ番組を見て、アメリカとはとてつもなくでっかくあこがれの国だった。

「自分史」 ⑨・・・テレビの来たころ好きだった番組 (1)

2006-03-28 21:28:19 | 自分自身
犬を主役にしたものでは、『名犬リンチンチン』と『名犬ラッシー』が当時大変な人気でした。私が見ていたのは、いずれも外国物で、名犬ラッシーは、日本で1957年11月(私が9歳)から放送されていた初代のものだそうで昨日のブログで書いたように、日曜日の18:15分から30分間番組で放送されていて、資産家(K不動産)の家で子供連中が集まってテレビをみさせてもらっていました。
内容は、農村で祖父のミラー、母親エレンと暮らすジェフ少年が、山火事との遭遇や、伝染病患者との接触といった日常生活の中で、ラッシー(コリー犬)と繰り広げる冒険物語で、農場を舞台にしたホームドラマでした。
また、1880年代のカリフォルニア、ロッキー山脈のふもとにあるアパッチ砦に駐屯する騎兵隊のマスコットたるラスティー少年と、彼の愛犬リンチンチン(ジャーマン・シェパード)によって繰り広げられる冒険西部劇が『名犬リンチンチン』でした。
内容は幌馬車隊がアパッチの襲撃にあい、両親が殺され孤児となったラスティー少年と愛犬リンチンチンは、第101騎兵駐屯部隊のリップ・マスターズ中尉により救出されて、アパッチ砦の騎兵隊にひきとられて暮らすことになり、インディアンの襲撃に出会ったりしながら、その中をかけめぐるリンチンチンの大活躍を中心に1956年11月(私が8歳)から164回も続いた人気番組となりました。この番組は、平日火曜日の30分番組だったので、私はテレビ購入後に見始める事になりましたが、とにかく今想うに、「外国の犬はなんと賢いのだろう!」と子供心におどろいた記憶があります。

「自分史」 ⑧・・・テレビの来たころ

2006-03-27 18:17:09 | 自分自身
私の家にテレビが入ったのは、小学5年生の昭和34年(1959年)でした。戦後14年が経過し、世の中はようやく落ち着きを取り戻し、一般大衆はちょっとした娯楽を求めるようになってきたおり、前年にはミスタープロ野球といわれる長島茂雄が巨人に入団し、がぜんテレビが注目され始めた34年に皇太子殿下と美智子さまの結婚式が執り行われ、全国の人々はそのパレードをテレビで一目見ようと、多くの家庭で購入しました。我が家も一応その仲間入りをしたのでした。
それ以前は、近所の資産家だけしか、テレビを購入できず、周りの子供達は、日曜日の夕方になると、みんなでその資産家の家に集まって、テレビを見させてもらったものです。今でもおぼろげに覚えているのは、それ以前の小学2年生(1956年)のときに隣の「たまり屋」さんの座敷で見させてもらった「川上哲治が中日の中山投手から放った2000本安打」の場面です。
いまでは、他人の家に子供達が集まって、テレビを見させてもらうことなんてとても考えられない事です。

「自分史」 ⑦・・・小さい頃の遊び(5)「紙芝居」時間の記憶

2006-03-26 17:10:21 | 自分自身
その他、缶けり、ポコペン(かくれんぼ)は、ごく普通の遊びでした。こんな遊びに飽きた頃、みんなが集まっている神社の境内に紙芝居がやってきました。皆は、握りしめたわずかばかりの小遣いで練り飴(水飴)を買ったり、べっこう飴を買ったりして紙芝居を見ます。べっこう飴は漫画のキャラクター等の押し型等があって、そのほとりをきれいに割って形が整えられたら、おじさんがもう一つおまけをしてくれました。しかし、なかなかうまくはいかないようでした。たいていは途中で割れてしまうからです。
私は残念ながらこの時間になると、家に一目散に帰るのを記憶しています。それは、毎日5円の小遣いでは、すでに隣の駄菓子屋でくじを引いたり、またはせんべいを買ったりして、既に小遣いが無く、紙芝居がみられないからです。練り飴(水飴)やべっこう飴は甘いものの少ない時代でしたから大変おいしかったようでしたが、それを大事になめながら、おじさんの紙芝居を見る皆を横目で見ながら家に帰り、1時間もすると又広場で元気よく皆とあそびました。
ただし、お金を払わなくても紙芝居を見る方法があったんです。それは、“紙芝居がきたよー早く集まれー!”とおじさんの変わりに皆を集めること、今でいうアルバイトをすると、ただで見られたんです。しかし私は気が弱くてダメだったんです。

「自分史」 ⑥・・・小さい頃の遊び(4)けんぶっちゃ(めんこ)

2006-03-25 17:50:23 | 自分自身
世間では「めんこ」と言うのだそうだが私の地方では「けんぶっちゃ」と呼んでいた。遊びには、“ほんこ”(真剣勝負)と“うそこ”(練習試合)があって、“ほんこ”の場合は勝てば相手のけんぶっちゃを自分のものにできる。私たちは、子供同士といいながらも、ほんこしかやった事が無く、それは “親ライオンは自立のために子ライオンを谷底に突き落とす!?”
がごとくやらないと上手にならないからだ。遊び方は2~5人ぐらいで、じゃんけんで順番を決め、最初に攻撃する者以外は、地面に手持ちのメンコを表向きに置き、攻撃する者は、けんぶっちゃを地面または、相手のけんぶっちゃに直接叩きつけ、地面に在るけんぶっちゃがひっくり返れば勝ち。ひっくり返された者は、新たなけんぶっちゃを置く。勝った者は、そのまま攻撃が続行できる。このあそびも私は結構上手く、勝った新品とか大丸のような高価なものは、昨日の「かっちんだま」のように宝箱に隠したものだ。又勝つコツは、やはり叩きつける「場所」と「角度」そして「強さ」で、新品は裏返しになり易いので、少し慣らして裏返しにくくしてから本番に備えたものだ。

「自分史」 ⑤・・・小さい頃の遊び(3)かっちんだま(ビーダマ)

2006-03-24 18:03:35 | 自分自身
かっちんだま遊びは本当によくやった。世間ではビーダマと言うのだろうが、私たちはガラスダマどうしが当たると“カチ―ン”と音がするからだと思うが、「かっちんだま」と呼んだ。
遊び方は、地面に500~600mmくらいのまるい円を描き、そのなかに銘々が5~6個ぐらいずつの小さ目のかっちんだま(小玉)を提出し合って円の中に置き、それを銘々が順に(順番も単純にジャンケンで決めるのではなく、5~6m離れたラインに親玉を転がし、ライン手前近くに止めた順とした・・・まるでカーリング競技のようなものだ)大き目のかっちんだま(親玉)で円の外からはじき出す遊びで、はじきだせば自分のものになる(その時親玉も外に出なければアウト)。とにかく、この遊びは子供にしては、「けんぶっちゃ」とならび、財産が増えるか減るかの勝負師曲がりの遊びだった。これも親玉を小玉に当てる技術が勝敗を分け、特に勝った時は服のポケットからガラスのあたり合う“ジャラジャラ”とした音で優越感を味わう事が出来た。
ほかにも、かっちんだまを使った遊びが3~4種あったが、勝負に勝って、自分の宝の箱いっぱいに入れた「かっちんだま」をながめて子供心に微笑んだものだった。

「自分史」 ④・・・小さい頃の遊び(2)独楽遊び

2006-03-23 20:31:38 | 自分自身
子供の頃使っていた独楽は写真のような木製でなく真鍮か鋳物で出来ていたような気がするが、独楽を回すには当然、紐を心棒の方からきつく、くるくるとカタツムリの殻のように巻きつけるわけだが、紐が“スルリ”と外れないように、紐の端を歯で噛んで湿らせユルミにくくしたものだ。今思えば汚くて親に怒られそうだが、湿らせ方も技術のひとつ(?)と考え毎回紐を噛んだものだ。
私の地方では、ベーゴマのように、回わっているコマどうしをぶつけ合って、はじき飛ばすために、地面や台の上に回転させるのではなく、回した独楽を空中で、左手に持った容器(缶の蓋とか、瓶の蓋)に受ける。そして独楽が回転している間に、鬼の人は他の人にタッチすれば、鬼が交代するというあそびだ。容器の大きさは自由だが、上手になるほど皆が使わない小さな蓋に挑戦して、仲間に優越感を味わうことができる「技術」を競うあそびでもあった。
又同じような遊びで容器の中で回転している間だけ走ることが出来て、停止したらその場で、又独楽をまわして缶に受けて走る。それを二組に分かれてのリレー競争もしたりして、走る速さ、独楽の回転時間を含む独楽回しの技術等を競う遊びも、たった一個の「独楽」をつかって考え出したあそびもあり、昨日の“くぎ”に続きなかなか凝った遊びをしていたものだと、自分でも感心してしまいます。

「自分史」 ③・・・小さい頃の遊び(1) くぎ

2006-03-22 20:33:04 | 自分自身
小学校低学年の頃はお金がいらず、また神社の境内に集まる人数によって遊びを選んでいました。くぎ(釘立ち)、コマ回し(ベーゴマ)、かっちんだま(ビーダマ)、けんぶっちゃ(めんこ)、ポコペン(だるまさんが転んだ)とか、まだまだ他にもありました。 
釘立ちという名前など付いていなかったとので“くぎ”と呼んでいたと思いますが、五寸釘を使用しました。 
これは基本的には二人で行う遊びです。まず、決められた範囲の中に自分の釘を投げつけて刺します。それから交互に釘を投げてさすのですが、自分が二度目に投げつけた地面の穴と最初に刺さっていた穴とを直線で結びます。相手も同じ事をします。お互いに折れ線グラフのような線を描いていくわけです。遊びの勝まけは、自分の穴を結んだ直線が相手のひいた直線を切ったら(交差させてしまったら)、自分が負けになります。釘を指すときに相手の釘の位置を考えて、相手の線を切らないように、自分の釘を打ち込みます。この時同時に、相手が次に刺すときに、自分の線を切らざるをえない場所を考えて刺します。結果的には、相手の釘の直前に自分の線がひかれるようにします。すると、相手は逆にそれを避けるために回り込んで逃げられるような位置に釘をさしますので、お互いの線は渦を巻くようにひかれ、さらにその渦は次第に小さくなっていきます。渦が小さくなっていくうちに、やがて狭くなった地面に釘が刺せなくなり相手の線を切ってしまいます。すると切ったほうが負けとなります。
釘を目指す位置に的確に突き立つ技術と相手との駆け引きが、この遊びの面白さです実際に事故があったのかどうか定かではありませんが、釘が危険だと言う事で何度か中止命令が出た事がありました。しかし、そんな事はお構いなしに続けていました。
今、こうやって思い出してみますと、なかなか凝った遊びをしていたものだと、自分でも感心してしまいます。

「自分史」 ②・・・「将来、WBCをめざして?」

2006-03-21 18:11:07 | 自分自身
第1次ベビーブームのお蔭か、近所には同い年の子供が7人、前後2歳違いまで含めると17人もいて、既に小学校上がる前から、常に顔なじみの11人ぐらいで、近くの神社境内に集まり、三角ベースのソフトボールを毎日というほどやっていてほとんど家にいなかったものだ。
3男坊の私としては、兄の尻を追っかけて兄に遊んでもらうよりも、近所の同年代の遊び仲間といつも一緒に遊んでいたような気がする。(写真は、5歳ぐらいの時で、将来WBC出場を夢見て(?)親戚に戴いたユニフォームを着用)

「ワールド・ベースボール・クラシック」

2006-03-20 18:35:15 | 出来事
USAチームの期待はずれが目立つ今回の第1回WBC大会は、思いがけない韓国チームの頑張りから、世界中に盛り上がっているが、私のネット・オークション出品商品にもある変化がおきた。
それは、出品後アクセス数は多くあるものの2年半ほど取引の無かった「ホームラン通産800号公式メダル(王貞治)」が、3/13に入札があり、3/19に落札されたのです。
世界新樹立の通産756号と世界記録の通産868号記念公式メダルは、いずれも早くに取引があったのですが、「800号・・・」だけは、いつまで経っても無かったのです。 それが、何で今ごろ・・・
“あっ、そうかWBC2次リーグに進出を決めた日本チームの監督が「王」さんだからか!”と思わぬところで、WBCの恩恵を被ったようだ。
巨人の高橋好伸選手が出場していたら、彼の“サインボールにも取引が有ったのに”と残念がる私の欲望でした。

続「パソコン」

2006-03-19 17:39:06 | 自分自身
昨日のブログコメントでgoemon2さんに戴いた“なんでなんでしょうね、エラーメッセージ? はて?どんな状態なのでしょうね。もちろん、それを見ても私には分かりませんが・・・・・・”
と言うコメントに、「私はなんと情けない!以前にもくわので問われた時に、うまく説明できなくてそのままにしておいて、またもや今回も?」
そこで今日は調べてみた。写真のような「エラーメッセージ」なので、ネットで Q,「ランタイムエラー」とはなんぞやと・・・。そしたら、A,「ホームページ内のプログラムが正常に動いているかどうかチェックをし、問題がある場合に表示される。」と、
又Q,「デバックしますか?」とは・・・A,「修正しますか?」と言う意味なので、「いいえをクリックすること」。と
しかしこのままでは困るので、その先の、「今後こんなエラーメッセージが表示されないように設定を変更する方法」はと・・・。 そうしたらありました。
1. Internet Explorerのメニューバー「ツール」から「インターネットオプション」を選択。
2. 「インターネットオプション」画面からタブ「詳細設定」を開く。
3. 「設定」枠内の中「ブラウズ」欄に「スクリプトエラーごとに通知を表示する」の「レ」
    をはずす。  
4. 「スクリプトのデバックを使用しない」項目に「レ」をつける。
5. 「OK」をクリック。
以上をおこなったら、エラーメッセージが出なくなりました。今のところですが・・・。
今日は「goemon2」さんのコメントに教えられ、本当に良い勉強させてもらった一日となりました。


「パソコン」

2006-03-18 20:12:40 | 自分自身
最近、パソコンでインターネットにつなぐと、「エラーメッセージ」の現れる回数が増えてきました。
02年の9月の時も、同じような現象が頻繁に発生するようになり、最終的に「マザーボードとハードディスクドライブが不良!」と言う事で「部品交換代約50,000円」の出費経緯がある。それはパソコン購入して、丁度3年目のことだった。そして今回もそれから3年半の経過だから、またしてもか、とイヤーな予感がしながらここ1ヶ月半程ブログ交信をしている。
そんな折、先日seikikuさんから「くわの」のメンバーが○山市の障がい福祉「日常生活用具」でパソコンの給付の申請を進めているということを聞き、またsuzuranさんのブログに書かれた内容から、私も半信半疑の気持ちであったがいちど話を聞いてみようと福祉課に出掛けた。そうしたら“該当します”言う回答を戴き、それではパソコンの故障する前に手を打とうと、量販店に今日も足を運びました。“感謝!感謝!”

「自分史」 ①・・・「第1次ベビーブーム」

2006-03-17 19:44:58 | 自分自身
先回、私の「入院生活」が完了いたしましたので、更にもっと以前にさかのぼり、生まれた頃からの事を振り返ってみたいと思いますし、福島県とは多少縁の深い○知県出身ですので、異郷のことを少しでも分かってもらえればと思い、ブログに書いてみようと思い立ちました。
1947年~49年《昭和22年~24年》に生まれた赤ちゃん達は総じて「第1次ベビーブーム」と呼ばれ、その真っ只中の19○8年3月に東海地方○知県の三河湾と衣浦湾に面した小さな市の商家の三男に私は生まれました。とにかくこの年代の人口は700万人ともいわれ、前後3年間の世代に比べ5割も多く生まれたのです。私の実母は、4人目の長女を生んですぐ他界(詳しくは聞いていない)。その後、継母の生んだ次女も含めての7人家族は貧しいながらも、子供全員すくすくと育てられました。
私の育った所は、我が家から子供自転車で20分も走れば3ヶ所の素敵な海水浴場があり、あの有名な兵庫県の須磨と明石海水浴場の名前を頂戴しそれぞれ“新”を冠につけて、新須磨海水浴場と新明石海水浴場と名付けたくらいきれいな遠浅の海であり、小・中学時代の夏休みは、毎日朝から、暗くなるまで海で泳いだものでした。そんなのどかな町に私は生まれました。