“kouchan ”の Web Diary 

園芸・趣味・リハビリなどを綴る

私の入院記録 ⑥・・・「夜の大行進」

2006-02-28 19:50:13 | 仲間・ファミリー
10/6に足の装具も完成し、一本杖を使って本格的な歩行訓練に移ることになったが、病室と同階の廊下を一周するだけで、後半には疲れてしまった。しかし少しふらつくものの、まもなく少しの距離なら杖を使わずに歩るく事もできるようになり、入院以来初の外泊許可が出たのもこの頃だった。
ひましに歩行数は増え、10月の半ばには独り歩きの許可も出て、杖を突きながらも3,500歩ぐらい歩く事が日課となり、そのうちに夕食後、隣のベッドの(G)さんと2人で1階廊下の夜間歩行訓練を開始したら、いつのまにか女性も含め8~10人が集まっての「夜の大行進」となり、看護婦さん達の間でもしばらくは噂にもなった(この時の仲間を中心に退院後、○○の会結成となる)。
その後杖なしでも5,000~6,000歩程歩く事を私のノルマにするのにはたいして時間はかからなかった。とにかく、患者仲間の間では“歩いて、歩いて、歩いて”おりさえすれば、快方に向かうと信じて疑う事はなかったので、同室、隣室の仲間は、過去には、珍しいぐらい仲間意識があり皆お互いに励ましあっていたものだ。

私の入院記録 ⑤・・・PT・OT訓練

2006-02-27 20:15:42 | 自分自身
リハビリ訓練は、PT(理学療法)を9/11よりスタートする。
①間節可動域の訓練(1部OT含む)
②マヒ側下肢の屈曲・屈伸
③立ち上がり訓練(walker-caneを使用)
④立位バランス訓練(左下肢で支持して立つ)
⑤歩行訓練(walker-caneを使用)
このようなスケジュールで11時15分から45分間実施された。
そのほか9/18より、OT(作業療法)も本格スタート(発症後1.5ヶ月経過)した。
⑥ぺーパー掛け
⑦腕の訓練
⑧指の訓練(お手玉など)
このようなスケジュールで毎日(土日を除き)13時00分から60分間実施された。そのほか規定の時間外(土日を含む)には、自主トレで毎日①②③④⑤を取り組む事になる。
この頃の私は以前と同じく、訓練さえしっかりやれば絶対に元の体に戻れると信じてやまなかった。
こんな訓練をしばらく続けていくうちに、いつしか夏も過ぎ、病室の窓からは、紅く染まった木々の葉が、目に映る季節になってしまっていた。

「お見舞い」

2006-02-26 17:46:32 | 仲間・ファミリー
‘99年以来久しぶりに熱海町のO.A病院の病室に入った。リハビリ室には数えきりがないくらい入っているが、病室には8年ぶりとなる。病室といっても私が入院していた病棟とは異なり、部屋も狭くて天井も低い外科病棟にお見舞いに来たのだ。
患者は、私と同時期の入院者で、退院後同窓仲間で結成した「○○の会」の会長だ。
病状は○石だそうで、あまりに石が大きすぎたために腹を切らなければならなかったそうで、手術後19日を経過してもまだ「歩き」もできなかった。
マヒが残っていて満足に歩けない状態の体で長期間ベットインしているとなると、現在、装具をつけて何とか歩けている私でも、以前の状態に戻るのにさぞかし時間がかかるだろう。いや、2度と歩けなくなるかもしれないと、怖さを感じる。
私も、残っているマヒとは今後とも仲良く付き合っていかなければならないが、他の病気にもならぬよう、「絶対に無茶をしない」と肝に銘じて・・・。
いまさらながら“2度と入院はしない!”と思いつつ病院をあとにした。

「朝のひととき」

2006-02-25 18:20:09 | ガーデニング・園芸・菜園
ここのところ春のような暖かい日が続いている。今日も朝から穏やかな陽光がガラス越しに差し込んでいた。私はプールに出掛ける前のひとときを、久しぶりに庭に下りてみる事にした。
庭は一応、家の南スペースに設けてはあるが、南隣の家との距離があまり無く、冬は短い時間しか庭に陽が入らず、雪の後などはいつまでも雪が残り、いつまでもジメジメしているので、最近はほとんど庭に下りていなかったのだ。
中腰で、花壇の枯葉を手で避けてみたら、いつに間にか土を押しのけた水仙の新芽が“ひょこ”と顔を覗かせていた。1昨年の11月にここに引っ越して直ちに植えた球根が2度目の春を迎えようと新芽を覗かせているのだ。この冬は昨年の12月から何度となく雪を降らせたが、忘れずに、きちんと春が近いことを教えてくれている。
他にチューリップの新芽の確認をし、今日も恒例の温泉プールでのウォーキングと温泉浴で、心と体のリフレッシュ(?)を目指して“GO!”

「かにの床屋さん」

2006-02-24 18:20:03 | 自分自身
先日も「床屋に行って来るよ」と女房に言ったら、「近くの安い店に行ったら!」と又言われた。郡山に引っ越してからだから、何度言われた事だろうか?
私は、どうしても今はやりの1,000円カットといった理容室に行く気になれない。理由を聞かれると、“福島に来て以来14年間ずっと同じところへ行っている。色々馬鹿話をしながらリラックスしてできるところが良い。黙っていても、いつもの髪型にしてくれるし、気を遣わなくて良い”そして切り札は“俺の小遣いじゃないかー”と言い返し、又今日も、鏡石町まで出掛けてゆくのだ。
さて、世間の男性はどうなんだろうか?あるアンケート結果をみてみた。
理容室を選ぶ時の重視するポイントは?
トップは「とにかく料金が安い」(32%)である。続いて2位は「近所にある」(30.9%)、さらに3位に「行き慣れている」(27%)というポイントが挙げられた。
“ああそうなんだ 3位の少数派か!でも俺はがんばるぞー・・・”
では、どの位の周期でヘアカット(散髪)しているのだろうか?
「月1回」ペースの回答者が24%、「1ヵ月半に1回」(22.9%)、「2カ月に1回」(25.6%)と、7割以上が「2カ月以内」に集中していた。また、世代によって頻度が異なり、男性20代では「2カ月に1回」(36.9%)という声が圧倒的に目立ったものの、世代が高くなるとともに「1ヵ月~1カ月半ペース」が増す傾向だ。一般的にオシャレを気にする若者ほどヘアカット頻度が高そうだが、意外に年齢とともに「身だしなみ」を気遣う人が増えている。
“ああそうなんだ!でも俺は、3500円だから、短く刈って2カ月に1度だぞー・・・”
(俺は浮気が出来ない性格だもん・・・)

「源氏鶏太の時代」

2006-02-23 20:01:22 | 自分自身
前々日のブログに推理小説の「松本清張」を載せたが、高校1年の頃はサラリーマンを夢見て、サラリーマン小説の第一人者「源氏鶏太」の本を読みあさった(普通の高校生はこんな本は読まないよなー)。本が買えなくて隣町の図書館に自転車で通って「三等重役」「堂々たる人生」「定年退職」などを借りた。
「三等重役」とは、終戦後、戦争協力者のレッテルを貼られて追放された会社経営者に代わって、急に経営者になった人たちを指す言葉で、戦前までは、経営者=オーナーでもあったが、戦後は経営者としての教育を受けていないサラリーマンが突然経営者になったり、経営者として勉強していない人たちが重役になったりしたものだから、戦前の一流重役に対し、三等重役と言った。この言葉が流行語になったのは、源氏鶏太の「三等重役」がベストセラーになってからである。
「定年退職」は源氏鶏太中期の代表作で、終身雇用制度は、年功序列の給与制度と定年制度が両輪だが、昭和の戦前期に大企業を中心に始まり、戦後は広い範囲に広まりました。この作品が書かれた昭和30年代半ばには、男子の平均寿命が約65、女子は70になろうとしていて停年(55歳)退職しても、人生が10年以上残っていました。この当時は、まだ今のように年金制度も充実していなかったので、停年で会社を辞めるということは、サラリーマンにとって非常に大きな転機であったと思います。その転機に臨んだ男のつらさとあきらめ、そして、それに負けない元気さが書かれている。しかし、松本清張の小説は、現在でも十分通用するが、源氏鶏太の作品とは、まるで異なるサラリーマンの時代になってしまった現代に寂しさを感じる。

第1回「オセロ大会」・・・V達成

2006-02-22 17:37:15 | 仲間・ファミリー
今日は、第1回くわのオセロ大会の準決勝・決勝戦が行われ、運良く勝ち残った私と実力で進んできたmakochanさんとの決勝となった。50歳代と20歳代の一騎打ちである。やはり、ここまで勝ち抜いてくると“すごい”1手間違うと敗戦にまっしぐらだ。お互い予断を許さず、4隅角の周り12駒残すだけとなり、makochanさんが最初にひとつの角を手に入れた。“負けた”と私は何度も囁いた。ここまで拮抗した戦いになると「先手」「後手」が勝敗を分ける事がある。盤目が64目ある訳だから、12目残った時に先手だと先に打つ訳だが、打ちたくないのに打たなければならない時がある。その分かれ目が今日の勝敗の分かれ目になったような気がする。結果、幸いにも後手だった私が勝利したが、初戦のgoemon2さんの試合といい、今日の試合といい、本当に紙一重の勝利でした。第2回の大会も拮抗した試合となりそうだ。

「けものみち」

2006-02-21 19:04:06 | 自分自身
25~26歳の頃、松本清張の文庫本に嵌っていた。「ゼロの焦点」「砂の器」そして現在放映中の「けものみち」など、片っ端らに読破した。今、文庫本を取り出してみるとすごく小さい字なので現在だったらとても読めない。(1頁に19行×42文字)「けものみち」は730頁を要しているので、単純に5万字(すべて埋まっていれば、582,540字数)ぐらい、この本を何日も要せずに読んだと思う。何しろ彼の推理小説は抜群に面白い。
「けものみち」は利権に群がる政治家を影で操作する裏社会のドンと、そのドンを中心に、ドンを取り巻く人間達の陰謀を描いたサスペンスである。社会派として必要なリアリティーをうまく実現させたのは、新聞記者としての経験があると思う。リアリティーという土台の上に、作家としての想像力を遊ばせているのだ。病気で半ば体の自由の利かない夫から逃れる為に放火殺人を犯した主人公の民子は、女中として働く料理屋の客である小滝を介して鬼頭という老人の元に愛人として差し出される。鬼頭老人の傍らで過ごすうち、民子は裏社会の内情、鬼頭老人の恐るべき権力と残忍性を知ることになる。鬼頭老人の実力を知って尚、いや、知ったからこそ身の保障を求めて老人に身を任せる民子、その民子を老人にさしだした小滝、老人の股肱として働く秦野。鬼頭、民子、小滝、秦野、急転する彼らの運命はおもわず「あっ」と驚ろく結末を迎える。けものみちとは、けものが通って自然にできた道のことである。そこは鬼頭たちけものだけが通る道であり、一歩道を踏み外せばたちどころに命さえ失う危険で満たされている。けものみちに巣食うものたちの暗闘を描いた第一級の社会派サスペンスで、「黒革の手帳」に続き米倉涼子主演ですが、清張の作品は何年経ってもその時代にマッチしていて、まるで37年前の作品とは思えない。

「野球の原点」

2006-02-20 20:31:46 | 自分自身
いやー、昨晩(今朝にかけて)は実に楽しかった。午後9時過ぎに「やーと」さんのブログを読んで眠れなくなってしまった。「キャプテン翼」などが、やーとさんにとって懐かしい漫画になるだろうが、私にとっての懐かしい漫画とは、なんなんだろう!と過去の記憶を紐どいてみた。今思うに高校生のころは、「巨人の星」が私にとってダントツであった。野球マンガ、スポ根ものの元祖ともいうべき名作中の名作。原作は梶原一騎&川崎のぼるコンビで「週刊少年マガジン」に連載され爆発的な人気を得た。野球に賭けた父と子の絆と情熱が、熱く激しく非情なまでに描かれ、やがては対決し決着を迎えることに。
だが、もっと以前はどうだっただろうか?中学生いや、小学生低学年の頃は、いやー懐かしい!「背番号0」の題名が浮かんできたよ!50年も昔の事だよ!そうだよ、
寺田ヒロオの代表作「背番号0」だ。野球が好きで心優しい少年、ゼロくんと妹のキミ子ちゃん、それにゼロくんの友達の活躍を描いた話で、多くはゼロくんたちの日常の出来事を題材にしていた。ある雨の日に、ゼロくんはずぶぬれの子犬を見つけ家に連れて帰る。ゼロくんは家族の了解も得て子犬を家で飼うことにする。ペロと名付けて犬小屋を建てたり、草野球に連れて行ったりと可愛がるが、やがて迷子の飼い犬を探している少年が現れてペロを連れて行ってしまう。落胆するゼロくん。でも夜になってペロがゼロくんの家へ帰ってきた。追いかけてきた少年は、この犬はゼロくんに懐いていたんだね、と言いゼロくんに子犬をあげる。ゼロくんは大喜びです。といった話
けっして派手ではないが、のんびりした雰囲気や暖かい感じ。しかし、寺田ヒロオはやがて売り上げや刺激を求める週刊少年マンガ誌の世界に付いていけず、次第にマンガから遠ざかっていく。と後になってわかった。しかしこの漫画が私の野球好きの原点な様な気がする。

私の入院記録 ④・・・「集中豪雨」

2006-02-19 18:09:39 | ヘルス・リハビリ
この頃の妻は、都合の付く限り11:00頃病院到着の17:00頃帰宅といったスケジュールで東北本線を利用してZ病院に通よってくれていた。駅から病院が近いということも幸いしたようだ。しかし、最も嬉しかったのは、8月26日夕方から降り始めた集中豪雨(福島県南部から栃木県北部にかけて)により、阿武隈川が氾濫し、東北本線が不通になった時(8/27~9/1)だ。その間子供の世話をしながらも、休まず病院に通ってくれた。
そして、発症後41日目の9/8にリハビリテーションに力を入れているといわれる熱海町のO,A病院に転院することになる。
転院日のO,A病院リハビリ科K先生(担当医)の診察状況(8/19の診察状況との比較)
①右足は少し良くなっている。(歩行訓練早める為、装具を作製)
②右手は変わっていない。(Z泉堂ではOTがない)
③言語は少し良くなっている。(翌日の言語担当医診察で、リハビリは不要と診断)
以上の診察結果から、9/10(発症後43日目)よりいよいよ本格的なリハビリに入る事となる。

今日の出来事

2006-02-18 19:42:39 | ヘルス・リハビリ
第3週土曜日は、A病院リハビリ科での診察・訓練と決めている日だ。
診察のK先生がいつものように、状態は?血圧は?と診察。しかし先ほどの顔つきとはうって変わって言いにくそうに話始めた。“来年度の4月(今年の4月)よりリハビリ訓練の医療費補助は発症後5ヶ月まで(6ヶ月以降は補助金が出ない)と、国で決定される見通しだ”と。と言う事は、発症後半年も経過すれば、もう改善の多くは望めないと言うことか!あの「ミスタープロ野球」だって3月4日で丸2年が経過するが今でも一生懸命頑張っているのだ。そして機会ある毎に放映される姿を見て私達障がい者は多くの影響を受けているのだ。
今日も、A病院リハビリ室で1ヶ月ぶりに顔を合わせ“今日はどうだい”とか言いながらリハビリを受けている「通院患者さん」達は3月末まででサヨナラだよ。
“どうするのだ”いや、それどころではない、今ストレッチをしてくれているT先生、S先生、K先生・・・も通院患者が来なくなれば、路頭に迷うじゃないか!
(写真は一昨年4月に能登半島の七尾湾を写したものです。日の出?夕焼け?その時の気分、感じ方によって見え方が違います、あなたは?)

「オセロゲーム」

2006-02-17 18:10:06 | 仲間・ファミリー
今日、「第1回くわのオセロ大会」が実施され、運良く1・2回戦に勝つことが出来て準決勝に駒を進めることが出来たが、私のほかの3名は、wakkaさん・makochanさんと名無しのピエロさんといったそうそうたるメンバーが残った。
私が、オセロに興味を持ったのは、昨年の9月5日から通所し始めた「Sケアリハビリホーム日○田」の休憩時間に行っていたのを観てからだった。ただ挟みさえすれば良いのだからと簡単に考え、私も仲間に入れてもらい早速挑戦した。序盤戦は、俄然有利に展開していると思い鼻歌交じりだが、駒の枚数が少なくなるにつれ、盤上は一気に相手の駒色(白)に埋め尽くされて、大逆転の敗戦に終わってしまう。相手はそれも女性だよ・・・。“あーなんてことだ!あー情けない!”とリハビリに来ているのに、かえって悪くなっちゃうよ・・・。こんな事が何日も続き、恥ずかしながらも、ノウハウを少し伝授してもらうよう頼みこんだ。①外周を取るように②4つの角を取るように・・・と親切に教えてくださった。“これで、今までの悔しい思いは無くなるぞー”と勇んで戦いに望んだがなんのことない、オセロはそんなに甘いものじゃない。今日現在、相手はまだまだ私の上を行く・・・。

私の入院記録 ③・・・「遠赤外線仕様の・・・」

2006-02-16 19:55:59 | 仲間・ファミリー
2週目の8/10より「リハビリ開始」。私はリハビリ(PTだけ)にはまだ早すぎると思っていたが、一刻も早く開始したほうが良いようだ。平行棒の中を、左手でしっかりと棒を握り締め、ピクリともしない右足を引きずりながら歩いた(?)記憶がある。隔日から始まり8/14より毎日30分ぐらいにPT訓練は増えていった。3週目の8/17日からようやく週1度、看護婦さんのお世話で風呂での(×部だけは自分で洗う)入浴ができるようになった。(暑い時期なので、もっと増やして欲しかった・・・それだけの理由でないが)
8/22からの訓練強化で膝が辛かったし、夏でも膝が冷たかった事を聞いた次女が、郡○駅前で、話を聞くと無料で品物が貰える集会(粗品で釣って高い商品の契約させる商売?)に参加。なんと・・・「遠赤外線仕様の膝当てサポーター」が冷えによいと聞き何時間も我慢して、父親の為に手に入れてくれた事を聞き、“女高生がなんと危ない事をするのだ!”とはっきりしない口調で叱りながらも、“心で涙し
た”事を今でも鮮明に記憶している。

今日の出来事

2006-02-15 19:34:19 | 仲間・ファミリー
2月12日のsuzuranさんのブログに掲載された「○○○ステーション美しい村」に、○○会会長N氏、○○作業所理事seikiku氏と私で、陶芸作家Y氏の作品展を訪れました。アトリエには、備前焼、萩焼きなどの茶器、花器、ビアマグ、湯呑、ぐい飲みなど多くの種類が陳列されていました。seikikuさんは、早速抹茶のお茶碗に目が留まり、萩焼きが気に入った様子でした。萩焼きの大きな特徴は、焼き上がりの土の柔らかさとその吸水性にあります。登り窯(Y氏は電気窯だそうですが)によって、低火度で長時間ゆっくりと焼くため製品の感触が柔らかく、土があまり焼きしまっていないので重たく保湿性を持っています。さらに、吸水性があるため長年使っていくうちにお茶が浸透して茶碗の色彩が変わり、茶人の間では「茶馴れ」といって珍重されています。
“さすが、seikikuさん”!次回の「○○の」のお茶会には、myお茶碗でお点前を戴くそうです。私もついつい買ってしまいました。私は不謹慎にも、以前からビールやお酒を飲むと美味しく飲めると言われる備前焼の器(ビアマグ)を選びました(seikikuさんとはえらい違い)。早速今晩から晩酌の焼酎に使い始めました(美味しいー、ガラスコップと違うよ!)。写真は買い求めた器です。(となりはおまけに戴いたぐい飲み)

私の入院記録 ②・・・「見舞い客」

2006-02-14 17:24:17 | 仲間・ファミリー
ノートには8/1~8/5までの一週間は、すべてお見舞い客の氏名が私の字で書かれていた。一応お見舞い客の氏名を見てみると、全て思い出しますが、私自身が書いた事はまるで覚えていませんでした。しかし書かれた字を見れば一目瞭然。載せた写真は、「8.3」「S社長」と書かれていますので、倒れてから4日目の8月3日に社長がA知県からわざわざ駆けつけてくれたことを表しています。ただ、この時は口のの右側半分が麻痺して、「よだれ」がタラタラと流れ喋ることは出来なく、右手右足はまったく動かず“おもーい”岩石を体に巻きつけているようで、ピクリとも動かなかった。この時知り合いに顔を合わしたくない気持ちは私だけだっただろうか。しかし、ありがたい事に私を思い“神様が休養を与えてくれたのだからこの際ゆっくりと・・・”と社長以下皆さんが同じ言葉で労ってくれた。しかしこの時 “2~3ヶ月もすれば完治して出社しますよ!”と言いたい気持ちで、この病気の恐ろしさにまったく気づいていない私だった。