カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

彼女が本当に壊したかったものは?   ペトルーニャに祝福を

2024-02-16 | 映画

ペトルーニャに祝福を/テオナ・ストゥルガル・ミテフルカ監督

 北マケドニアで親と同居している独身32歳のペトルーニャは、おばさんの紹介である縫製工場の秘書の仕事を求めて、面接に行く。大学は出たがずっと定職には就けず、アルバイト(ウェイトレスなど)をたまにやる程度だったようだ。少しきれいな服を着て面接に臨むが、その工場の人事担当の男は妙なやつで、小太りで仕事の経験もなく容姿も今一つのペトルーニャをあからさまに馬鹿にし、欲情するような女でさえないとささやきながら、スカートの下に手を伸ばしてきたりする。いい女じゃないからそれくらいするようでないと採用しない、という意味なのだろう。当たり前だが、ペトルーニャは拒否し、出ていく。怒りもあるし、自分の置かれている境遇のあまりの不遇さに頭が混乱してしまったペトルーニャは、ちょうどまちの宗教的な祭りに遭遇する。その祭りは、男たちだけが競って、主教様が川に投げ入れた十字架を奪い合う、という儀式を行うものだった。どさくさに紛れて、その場面に成り行きで混ざりこんでしまうペトルーニャは、そうして十字架が川に投げ入れられたちょうどいい場所の近くに居た。とっさに川に飛び込み、男たちが奪い合う間をかすめ、十字架を手に取ることに成功する。それは多くの観客の見守る中で起こった事実で、あくまでもルールは最初に手にした人に、その十字架の権利があるものであるようだ。しかしながら歴史的に女が参加した例がなく、女が十字架を手にしたことも当然無かったのであった……。
 祭りは大混乱に陥り、その騒動の中、ペトルーニャはスルスルと抜け出して十字架をもって家に帰ってしまう。宗教的祭りは地域を挙げての大スキャンダルとなり、地元テレビも報道に加わり、ペトルーニャは伝統文化を破壊する邪悪な女として、その関係者の憎悪の的となってしまう。一方で女性テレビリポーターは、女性の権利と自由思想などを根拠に、たとえ伝統であろうと、差別的な考えのまま頑なにしか物事を捉えようとしない男文化を、批判するのだったが……。
 男たちの方が力が強いのだから、最初は十字架は簡単に奪われてしまう。しかし多くの人の目の前で最初に手にしたのは、まごおうことなきペトルーニャであったことは間違いないのだった。彼女が十字架を奪ったのではないのであれば、警察は逮捕して捜査はできない。あくまで任意だがペトルーニャは拘束され、不毛なやり取りを警察所内で過ごす。伝統的にはあり得ない冒涜だが、現代社会の男女の権利の前には、これを法的にさばくのは難しい問題のようなのだった。
 なかなかに変なものだが、結果的にこうなってしまった以上、誰もペトルーニャには逆らえない。暴力で解決するには、それを取り締まる側の内部での問題になりそうだ。言葉ではペトルーニャは男たちに脅され罵倒され続けつばまで吐きつけられるが、実はペトルーニャは社会に対して怒っていて、更にそれなりにインテリで、しかし夢見る乙女でもあるのだ。彼女の願いとは、権利だとか反抗だとかそういう事ではなく、もっと切ないものに過ぎないのである。
 妙な映画で、変なコメディ作品だと思えるが、こういう笑いもあるんだな、という感じかもしれない。旧ユーゴスラビアの抑圧された社会の名残のある中の、笑いの質のようなものがあるのかもしれない。それなりに民主的なところが見て取れて、日本だともっとペトルーニャは厳しい立場に置かれることだろう。勝手な裁量で十字架も奪われてしまうのではないか。伝統というのは、もともと男女を分けた差別的なものが長く続いて根付いていて、すでに差別なのかどうかさえ分からなくなってしまったものが多い。そういうものをすべて破壊するのは単なるテロだけれど、このようなテロの場合は、何かしようがあるのではないだろうか。まあ、日本では無理でしょうけどね。
コメント
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