カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

勧められても書きたくない   私小説のすすめ

2017-06-26 | 読書

私小説のすすめ/小谷野敦著(平凡社新書)

 私小説を通じた文学論と、私小説を書くということを万人にも勧めた内容。
 確かに私小説に関しては、偏見というか誤解のようなものが漠然とあるようだというのは、聞いたことはある。日本人は西洋人のようなスケールの大きな話をつくるのは苦手で、例えば私小説のようなチマチマしたものを書いてばかりいる、というような批評めいたものを、日本人の作家だったか批評家だったかが時々書いているのを、何度か読んだ覚えがある。そういうもんかね、とは思うが、そもそもあまり信用はしていなかった。いなかったが、日本には漠然と私小説のようなものは多いかもしれないという印象は、持っていたかもしれない。しかし、海外には自伝文学というのがあって、何かとすぐに自伝を書いてセンセーショナルな話題になるようなことはあるんだ、という話も聞いたことがある。しかしまあ日本でも話題の人はたいてい自伝的な手記を書くことになってきたようにも思うし、ジャーナリズム的にそのようなものを好んでいるのは、日本も西洋もあんまり変わらないだろうとは思っていた。
 ところで私小説だが、外国の映画などを観ていると、小説家などに近づいて、自分のことを書いてもらいたがる人々が時々出てくる。ははあ、やはりあちらの作家も、私生活を題材に小説を書いているらしい、と思った。考えてみればそれは当然で、空想で作り話をこしらえるにせよ、身の回りにあったものをモチーフにした方が、いろいろと都合がいいような気がする。小説家が何を書こうが勝手だが、自分のことを書いてもらいたいという人は、あんがいたくさんいるのかもしれない。小説に限らずだけれど、ブログのようなものは日常的にあふれている訳で、自分のことや身の回りのことを書いたり読んだりすることというのは、人間的にはごく普通の関心事ということなのではなかろうか。SNSでは人の食っているものなんてどうでもいいという言明は多いが、しかしやはりそのことが中心から離れることはありそうにない。僕はいろいろなことを多岐に亘って書いているつもりだけど、一番反応がいいのは身の回りの極身近なことであるという実感がある。あえてどうでもいいようなことの方が、無難であるという以前に、人々の関心事であるのは間違いなさそうに見える。
 しかしながら著者が言っている私小説というのは、もう少し違うことではある。自分の中にあることで、事実を書くのはもちろんだが、たとえそれが自分にとって恥のような事であるにせよ、書かずにおられない何かのことである。文学的に価値があるとかいうこととも、何の関係も無い。ましてや私小説などほとんど読まれないものであるし、時には書かれている人も傷つくだろう。それでも書かれてしまう何かというものに、私小説の価値があるということなんだろう。
 さてしかし、僕は「蒲団」を読んだ時は、何とも情けないような妙な気分になったし、「火宅の人」などは十代の後半くらいに読んで、何と子供っぽい大人がいたものだ、と思った。面白くない訳でもないのかもしれないが、こんなものが書かれて恥ずかしいと素直に思う。それが文学的にどうなのかはよく分からないが、代々読み継がれていく可能性があるとしたら、もう今となっては仕方ないのだろうけど、何か幸福な感じはしないというのが正直なところだ。そういう人達がいて、苦労するには結構だけど、本当の意味で私小説的な生き方をすることだけは、したくないものだと思う。ひとの一生だからいいのであって、自分は違う生き方を模索する。それが僕が私小説を時には読んでみるということのように思う。人の不幸だから面白いというのは正直なところであるにせよ、いつまでも面白いと思っているような時間を多くしたくない。自分を生きるためには、そのような距離感の方が、上手いこといくように思うのだが、どうだろう。
コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 大きな声と近い声は聞かないこと | トップ | 携帯に影響受けない訓練を »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。