天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

湘子『黑』3月下旬の句を読む

2024-03-26 06:04:34 | 俳句




藤田湘子が61歳のとき(1987年)上梓した第8句集『黑』。荒行「一日十句」を継続していた時期であり発表句にすべて日にちが記されている。それをよすがに湘子の3月下旬の作品を鑑賞する。

3月21日
菜の花や情事のごとく刻が過ぎ
「情事のごとく」にいったんは驚くがこの植物の匂いやあたたかさに女の肉を思っても不思議ではない。えも言われぬ時間なのだ。中七がしっかり働いている。
おぼろ夜のおのれとねむる水の量
「おのれとねむる水の量」、不思議な文脈である。凝った言い方で作者は自分の体が蔵する水分を思っている。あまり水を飲むと小用に起きねばならぬ、と思っているのかもしれない。「おぼろ夜」ゆえの発想か。

3月22日
道よぎる猫ばかり見て彼岸かな
えらく猫がいる道である。猫がうろうろするのは暖かい季節で彼岸らしい。

3月23日
土筆摘むここは柿生の王禪寺
柿生は小田急線沿線の地名。どういうことのない句だがリズム感はある。吟行をしてさっとメモした感じの1句。
柚の香より剛直な利休の忌
絶対の権力者秀吉に逆らったとされる利休ゆえ「剛直」はわかる。これと「柚の香より」を対比したところが妙。柚は秋の季語で春だと萎びているのではないか。柚の香の強さはいいがこの季節に出すべきものか。湘子に聞いてみたい。
木の芽谿わかき木霊を通すなり
こういう抽象的、心象的な句を小生は書けない。この句で見えているのは木の芽だけである。木霊が通るだけで心象の世界だがさらに「通すなり」と使役表現にしている。湘子の複雑な内面を感じる。

3月24日
春風や駅に用なき子守唄
子守唄を聞いたのではあるまい。駅に子守唄は似合わないなあと思っているのだろう。どうしてこんな句ができたのか先生は複雑である。

3月25日
種袋より光陰の種こぼれ
「光陰矢の如し」の「光陰」である。抽象的で情念がまとわりついていて俳句で使いにくい語彙。この句はこの言葉だけで成立しているといっていい。モルヒネを適切に患者に使ったという感じ。
春の雁百行の詩をもてあます
長い詩を読み辟易してるのか。俳人にとって詩はとても長く締まりなく感じる。切れもないから。春の雁を置いたのが俳人のセンス。

3月26日
春笋(しゆんじゆん)の味知れる歯も弱りしか
春先出る筍が好みのようである。今年食べたとき歯の衰えを感じたといのである。わが身の衰えを格調を失わず書くプライド。
花待つや力負けして壜の蓋
壜の蓋を回そうとして回せなかった。よくあること。「力負けして壜の蓋」はうまい言い回し。季語は素人が思いつかないものである。
白魚を傞(あ)と吞みこんでしまひけり
「傞(あ)」という字を知らなかった。どういうこともないがいかにも白魚という出来。あれが喉を通るときの気分が十全に出ている。文句のつけようがないレベル。
篁のかすむほどには自愛せり
「自愛」に対して「篁のかすむほど」は意外性がある。その感興がじわじわ忍び寄ってくる。白魚の句同様手練れの巧さである。
種物屋きのふの物と異ならず
うーん、物が動いた感じがしない店がある。種物屋はまさにそいう店。

3月27日
五歩に立ち十歩にあそび孕鹿
鹿は歩き続けない。立ち止まって辺りを眺めてまた歩く。その習性を五歩十歩と展開して味わをいを見せている。
蜷の道とて一長も一短も
「一長一短」を分解して意味も変更した。言葉遊びの極み。

3月28日
山風にくぼむまなこや花しどみ
上五中七は大仰だがおもしろい。風が強かったの寒かったのか。
飼屋まで驛からすこし坂がかり
飼屋は蚕を飼う小屋のこと。小生の幼少のころ実家で蚕と人が同居していたので特別な飼屋を知らない。よって興味深い。

3月29日
めかりどき鉛筆の稿読み難し
先生は大人が鉛筆など使うなとよく言った。いま小生も対面句会で句稿は鉛筆で書かないよう言う。コピーしたとき薄いのである。
花なづな見しより何か忘れしよ
忘れることと花なづなは何の関係もない。けれどこうして一句になると響き合う。これが俳句である。
28日シャガール逝くと
シャガールと帰雁いづこの空に遇ふ
シャガールを霊ととらえている。「いづこの空に遇ふ」が作者らしい浪漫。
褒め言葉恐ろし松の若みどり
褒められると増長するか怠慢になる。明るい季語を付けたことで前段のことが生動する。二物衝撃の味わい。


【追伸】13年使ってきたパソコンをいよいよ葬ります。新しいものを調達します。セットアップするまでしばらくブログから離れます。
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