天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

湘子『黑』3月中旬の句を読む

2024-03-18 14:15:40 | 俳句



藤田湘子が61歳のとき(1987年)上梓した第8句集『黑』。荒行「一日十句」を継続していた時期であり発表句にすべて日にちが記されている。それをよすがに湘子の3月中旬の作品を鑑賞する。

3月11日
音すこし木瓜に分ちて牡丹雪
「音すこし木瓜に分ちて」と「木瓜にすこし音がする」との違いをしばし考えた。後者だとまるでおもしろみがないが、前者だと風流を感じるのである。湘子はよく「言葉のしなり」と言った。それは小川現鷹主宰が「表現のおもしろさ」と言う表現技術に通じる。木瓜には橙の花が咲いていて春雪が映える。

3月12日
春田まで雲きて鼓笛練習了ふ
鼓笛は神社関連の行事で奏でるのか。「春田まで雲きて」が優雅。山深き村の息吹が感じられる。
はんぺんの中の海老の香春愁
海老が入っている練り物は上等だが作者にそれは春愁のネタとなった。春愁はなにげなく感じるものであり、まさにこういうところに潜んでいる。

3月13日
白魚に舌三寸のほのめくや
これを読んでおおかたの人が「舌先三寸」を思うだろう。たわごとを言う舌だが白魚の美味さは格別である、という作者の感慨を受け止める。
野遊びの服暗きより出して着る
要するに箪笥ないしクローゼットから出したのだが「暗きより」と言って詩が発生した。これにより野遊びの明るさ、太陽の心地よさが前面に出る。
穴掘りの却つて空を見る遅日
「却つて」は、反対に、あべこべにという意味の副詞。この句はこの言葉で決まっているといえる。穴掘りは墓ではなかろう。何かの工事で掘っている。穴を一心に見て掘っていた人が空を仰いで息を吐く。それだけのことだが「却つて」により別の風が吹きわたる。これが俳句の醍醐味である。

3月14日
あはゆきのやがて沁みたる畑の土
むつかしいことは言っていない。淡雪が降ってしばらくして溶けたということであるが溶けたを言わず「やがて沁みたる」と転じたのが芸。
眼のまへに旅がひろがり牡丹雪
「旅がひろがり」に注目した。小生はかような抽象的なことを言う勇気がない。「景色がひろがり」では話にならない。小生の思いつかない語彙でありこれが先生かと思うのみ。

3月15日
初蝶や赤城榛名と呼び交し
赤城山と榛名山が呼び交わしたということだろう。二つは近いから擬人化が生きた。こういう場面で「初蝶」を置けるのが湘子。
毛の國の娶りへ参る霞かな
「毛の國」は毛野で今の群馬県。知人の結婚式に呼ばれて行くところである。横浜からだいぶ遠いという感慨が季語となっている。

3月16日
籐椅子に寝て黒髪を粗末にす
「黒髪を粗末にす」が巧い。要するに髪を気にせず寝て寛いだ、ということ。辺りに人がいなしい時間を自由気ままに過ごした。それを象徴的に「黒髪を粗末にす」というのが俳句の骨法である。

3月17日
小綬鶏のつくる谺や初わらび
「つくる谺」が鳴き声。この表現で声に奥行が出た。季語が自然について春の山の麗しい一景。
初雲雀関東はただ雲の下
作者は広いところで雲雀の声を聞いた。けれど雲の上で雲雀は見えない。関東という大きなものを出して茫洋とした曇天を描いた。
うぐひすや榛名消えれば赤城また
3月15日の句に「赤城榛名と呼び交し」があった。これはそれに比べて単純な表現。二つの山に雲がかかったのであろう。鬱陶しい曇りに対して季語が映える。

3月18日
さくら草次のひかりを待つごとし
「次のひかりを待つごとし」小生はよくわからない。光は耐えず途切れなく来ているのではないか。「さくら草」でなくて「滴り」ならばついていけるのであるが。

3月19日
降ることが春ぞと言へばうなづきぬ
言ったのは作者で頷いたのはそばにいる人(たとえば妻)という構図か。何が降るのか。これは雪であろう。3月によく雪が降る、という話をしていると思われる。書いてないことを想像して楽しい句。

3月20日
雪山の雲抜く秀(ほ)あり初わらび
思えば湘子から「雪山の雲抜く秀(ほ)あり」というような優雅で風格のある表現をたっぷり学んだ気がする。今時の句会でこのような余情ある表現になかなか出会わない。日本語の粋を湘子は大事にしたのである。
畫家と落人村の話をして遅日
作者は落人村で画家と会った。画家はそこで絵を描いていて意気投合した。破調の書き方が遅日という季語と引き合う。


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