天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

信念の女警部の話術

2022-07-05 07:29:05 | テレビ
      


イギリスのTVドラマ「ヴェラ~信念の女警部」をはじめて見た。第5話「裏切りの代償」である。
太った中年の女刑事は主役。演じるはブレンダ・ブレッシン。大英帝国勲章の称号を持ち、ゴールデン・グローブ賞ほかBAFTAなどの受賞歴を誇る名優とのこと。世評は知らずに見たがテンポ良い喋りにぐいぐい引き込まれた。美形でも華やかでもないが知恵、洞察力に秀で、その場その場でやるべきことが浮かぶ。それを回りの同僚に矢継ぎばやに指示する。
結構頭のよさそうな部下たちが嫌な顔をせずハイハイと従っててきぱきと動いて成果を出す。指示するだけでなく自身が難局に切り込んでゆく。型破りでウィットに満ち、策略家である。 愛嬌に欠けるが実績で周囲をうならせる敏腕刑事である。
こんなにしゃべり通しの主役というのは日本の刑事ものでは稀。「男はつらいよ」の車寅次郎を彷彿とさせる。違いは寅さんに愛嬌と間があるに対し、女警部にはそれがなく台詞が機関銃のように要点を突いて発せられること。しかし、そのそっけなさ、無愛想が事件解決という目的のためには心地よいのである。
脚本家はブレンダ・ブレッシンの資質を知って台詞を書いたのであろう。これは寅さんを演じる渥美清にもいえるが、脚本家と俳優の幸せな関係を感じるしゃべりである。
このTVドラマは複雑なトリックなどないが女優のしゃべりがずば抜けている。

          
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松本清張は女優を輝かす

2021-12-13 07:03:26 | テレビ



チャンネル銀河で土曜日、松本清張もの(再放送)を朝から晩までやっていていくつか見た。
その中で「たづたづし」(2002年初放送)は初めて見たと思った。「たづたづし」は、万葉集の「夕闇は 道たづたづし 月待ちて 行ませ我が背子 その間にも見む」からで、「はっきりしなくて不安である」の意。
農水省のエリート官僚・仙川兼作(中村雅俊)は、ある日、平井アヤ(牧瀬里穂)と知り合う。奔放な性格のアヤは、兼作にとってコケティッシュで新鮮。やがて二人は密会を重ねていく。しかし事態は一変、アヤが結婚を迫ってきた上に、自分には殺人罪で服役中の夫がいると打ち明ける。窮地に立たされた兼作は、富士見高原の森の中でアヤの首を絞め、置き去りにした。その1年後、信州・富士見に記憶を失くしたアヤに似た女性がいると知る、という展開である。
よくある男女関係の筋書きであるが物語に引き込まれた。牧瀬里穂がえらく魅力的なのだ。
また女を際立てるストーリーになっている。男は同じような女に三度出会うという発想が優れている。「同じような」という裏にネタバレを防ぐ意図がある。最初の出会いは興奮、二度目は疑念と悔恨、三度目は絶望というふうにトーンを変えたのは松本清張のなみなみならぬ才覚である。
ちなみに三度目の出会いを見て「たづたづし」は前に見たことにやっと気づいた。そこまでずっと初めてという感覚で見た作品はめずらしい。






「渡された場面」
1978年、1987年、2005年と3度テレビ映画になっていて、2005年版をまた見た。
なんといっても作家志望のだめ男(佐野史郎 )と彼に殺される旅館の仲居(高岡早紀 )のからみが秀逸。文芸誌の細かいところに注目し追い詰める刑事(三浦友和)の実直さも良い。高岡早紀はいい女優だがそれを佐野がいっそう引き立てる。
松本清張作品を女優たちは演じやすいのではなかろうか。とにかく色合いの濃い人間を松本清張は書く。アリバイ工作の細部に立ち入らず人間の本質めざして書き起こそとする姿勢が作品を古くさせない根拠となっている。
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「ひよっこ」はわが原風景

2017-04-08 16:47:02 | テレビ


NHKの朝ドラ「ひよっこ」の稲刈作業をしかと見た。
へたくそな作業をするのではないかとういじわるな目で注目したのだが、みなさん演技が堂に入っていた。



とくに刈り倒した稲を藁で縛る場面もきちんと描かれていて感心した。それと伊那で「なる」と呼んだ稲架の支柱と支柱に渡す長い木を二人で担いで運ぶシーンもよかった。

本日の稲刈のシーンは53年前小生が13歳であった生れ故郷、伊那を強烈に思い出させてくれた。茨城県訛りと伊那言葉の違いはあるものの、田んぼのイメージも農作業の道具、仕方も伊那と一緒、懐かしかった。
よその家から手伝いに来るというのは「ゆい」といい、伊那でも盛んに行われた。借りた労働力を労働力で返す村落共同体が機能していた時代である。
昨日、谷田部家の爺と父母の夜の集まりにみね子も大人だからと参加が許されて、お金の話に参加する場面があったがそれも小生のあのころと酷似していた。

うちも父が背稼ぎに名古屋の蒲鉾屋へ行っていた。祖父が遊興で使った借金の返済というのが谷田部家と違うところだが、子供が家の経済を知って、頑張らないといけない、野良仕事を頑張ろうと強い意思を持つのはまるで一緒で、ぼくはみね子に自分をダブらせていた。
農協へ行って金を下すのはぼくの役目であった。貯金の額の少なさに驚き、農家というのはなんと現金から縁遠い身の上なのか嘆いたものである。



番組中出たこのモノクロのこの写真もひどく懐かしい。
40年前の秋、ぼくは妻にしようとする女をはじめて故郷に連れて帰った。女は人に取り入る術を心得ていて、父が「稲刈りするか」と聞くと「ハイ、やりまーす」と二つ返事で応じた。農業なんてしたこともないのに身のこなしがよかった。あっという間に父母の心をつかんでしまった。
「ひよっこ」で谷田部みね子を演じる有村架純は農家の娘になるために体重を増やしてふっくらさせたというが、そのふっくらした顔が当時の妻に似ている。
兄が妻の取り入り方の巧さを見て「女優だよ、女優」と囃して笑った。
あのころは可愛かったなあ……と懐かしみ、妻も女優になったとすれば有村架純くらいになれたのかも、と妄想した朝であった。
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時代劇にはまる

2016-12-09 06:17:04 | テレビ
テレビは昼下がりに「科捜研の女」のリバイバルをよく見る。沢口靖子はうっとうしくなくていい。
その後、本を読んだり俳句をつくったりして夕食までほぼ家にいる。6時半に夕食を終えて就寝する9時まで頭はもう使わない。



この時間のテレビの見ものは今、「遠山の金さん」(7時から)と「子連れ狼」(8時から)の二本立てとなっている。いずれも時代劇専門チャンネルである。
両者とも1970年代製作のリバイバル。登場する俳優がめちゃくちゃ若い。
「遠山の金さん」でめあかし手伝いのような役で出る岡崎友紀は現在63歳だが当時20歳代。キュートで溌剌としている。

岡崎友紀

ゆうべから第53話となり金さんの相手役が水沢アキに代ってしまった。やや残念。その水沢も現在61歳。「今なにをしているの」という女優だが、このころ輝いていた。
なんといっても杉良太郎がかっこいい。
右足を一歩下の階段に踏み出して右肩を露にして見得を切るシーンは毎夜ほれぼれする。何度見てもいい。
それに至る流れに乗って心地よく感じる自分がいる。水戸黄門の印籠やジャイアント馬場の16文キックに至る道筋と同じ偉大なるマンネリの見せ方である。
杉良は男もうならせる色気がある。彼は現在72歳だがほかの役者と比べて今のありようとあまり変わりないのが凄い。




「子連れ狼」の萬屋錦之介も色気のある男優だがこの場合、非情、冷徹で杉良のやわらかみから一転してからだが締まる。
1997年3月10日に亡くなっているがスクリーンの拝一刀は永遠に不滅である。
大五郎を演じる西川和孝もよくこの子だけに見せる拝一刀の表情がいい。
杉良から錦之介に至る時間は豊穣である。

時代劇は男優も女優も輝かす。
それまで気づかなかったが、「必殺仕事人」における<何でも屋の加代>役の鮎川いずみがいい。色気と果敢さとを併せ持っている。


「鬼平犯科帳」の中村吉衛門もいい。酸いも甘いも噛み分けた円満な人格者にして腕が立つ。
残念ながら吉衛門の鬼平は終ってしまった。

時代劇は夕食後の寝るまでの友である。洋ものや現代ものや、むつかしいドキュメンタリーは面倒である。



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爪痕あとから傷痕へ

2016-09-27 13:34:11 | テレビ

バルカン室内管弦楽団を指揮する柳澤寿男氏(everyより)

きのう、日本テレビは報道番組「every」で16:40ころ柳澤寿男氏と彼の率いるバルカン室内管弦楽団のことを伝えた。
旧ユーゴスラヴィアは小さな国に分裂して戦った。人々は憎み合ったがいまセルビア人、アルバニア人、マケドニア人、コソボ人らが柳澤寿男氏のタクトのもとに集まって平和を意図した音楽活動をしている、というものであった。

ぼくが注目したのはこの報道では端っこのことだが、コソボの爆弾等で荒廃した風景に出たテロップであった。
この風景を「傷痕」と記したテロップに感動したのである。
新聞、テレビ、ラジオ等のメディアの言葉つかいでいちばん気になっているのは安易に慣用語に飛びつくことである。

地震、津波、台風、土砂崩れなど災害の報道では当然のように「爪痕」という表現がなされ、ぼくはずうっと我慢できなかった。
爪ではないだろう。地震や津波に爪があるのか。
「倒木に爪痕三筋涅槃雪」は小生の句だが、この場合、爪痕は的確だろう。鳥か獣かは知らぬが爪の痕跡である。
報道なら鳥か獣が爪をひっかけたとこを見たのか、それは鳥か獣か、また鷲が熊かまで問われていいが、詩文芸の場合そこまでの実証性は要求されない。
その爪を転用して災害時の被害の表現に使っているのだが、ニュースは事実を伝えるのが本来であるから言葉の質も怜悧でないといけないのではないか。
こういう場合に「爪痕」なる比喩表現を使うのは事実をしかと見ない姿勢に通じるのではないか。

ほかにも報道において慣用表現は多々ありそれが市井の人々の安易な慣用表現を助長している。
俳句をはじめた人がテレビで見たかっこよさそうな慣用表現にすぐ飛びついて安っぽい句を作ってしまう。
だから慣用表現はやめてほしいということだけでなく、慣用語になれると新しい見方ができなくなるのである。
報道こそ言葉を研ぎ澄まして事実に対していくべきなのだ。

「爪痕」に代る言葉がないか考えていて一字違う「傷痕」ならそうとう実状にマッチすると思った。
それをきのう「every」がやってくれた。拍手したい。
ほかのメディアでも「爪痕」から「傷痕」に変えたところはあるかもしれないが、ぼくの知るはじめてのケースであった。

ささいなことだがこういうところの言葉づかいがしっかりしていると、柳澤寿男氏と彼の率いるバルカン室内管弦楽団もよりすばらしく感じるのである。
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