天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

ひこばえ句会は6月9日(土)です

2018-05-31 13:25:56 | 俳句


日時:6月9日(土)13:00~16:40

会場:柳沢公民館(西武新宿線・西武柳沢駅南口徒歩2分)
    西武柳沢駅は特急が止まりません

出句数:1句~8句
夏の句をあらかじめ短冊に書いてきてください。俳句は多作多捨、たくさん書きましょう。
なお、俳句に関心のある方が近づきやすくするため1句あれば参加OKとします。見学も可ですが、見学するより1句出して関わるほうがずっとおもしろいでしょう。馬券は100円、俳句は1句から。

参加費:1000円

指導:天地わたる(鷹同人)

冒頭講義:動詞の研究
「動詞活用の名手小川軽舟」(5月24日の当ブログ)をレジュメとして、鷹小川軽舟主宰の作品について動詞の働きを分析しその多様性をみます。小川主宰の動詞の使い方で動詞一般の使用法がすべてわかると考えています。
動詞は形容詞より作品に情を込めるに優位のものとの認識を鷹主宰はしかとお持ちでしょう。しかし動詞は間違うと駄作になる可能性もあるむつかしい品詞。それを鷹主宰がどう使いこなしているのか検討します。
理解を支援するため、英語との若干の比較研究をして、気づかないうちに慣用化している日本語の動詞というものの理解を深めます。乞うご期待。約30分。

【口論乙駁の合評】
合評句会につき座長のみの発言ではさびしい。座長に対する反論、異論、疑問など大いに歓迎します。それが考えるきっかけになります。
一人一人の発言が文化を創っていくと考えます。
座長も一人でえんえんと喋りつづけるのはエネルギーが要ります。誰かの発言があるとそれが反論であっても息を入れるタイミングができて、運営しやすくなります。
質問にはわかりやすく答えます。答えられない場合は猶予をいただき勉強してきます。
以上、よろしく。

【てのひらを太陽に】
当句会のテーマソングは「てのひらを太陽に」(やなせたかし作詞、いずみたく作曲)。
アンパンマンの作者でもあるやなせたかしを一級の俳句精神の持ち主と崇め奉ります。
「ぼくらはみんな生きている」から始まるこの歌詞を折に触れ、読みかつ歌って俳句の精神を涵養すべきでしょう。
特にすばらしいのは、後半の、
ミミズだって オケラだって アメンボだって
みんなみんな生きているんだ
友だちなんだ

このくだりは、命の平等を説いています。人間だけが特別ではなくあらゆる命を尊ぶ思想が込められていてこれぞ俳句の真髄なのです。

【参加を希望する方へ】
はじめてだが参加したい方、3ヶ月以上ご無沙汰していて参加したい方など挨拶したい方は、ぼくのパソコンyouyouhiker@jcom.home.ne.jpへご連絡ください。
お待ちしております。

【句会後の懇親会】
田無駅北口のレストランで時間のある方と軽く飲食しましょう。~18:30。
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孤独の人は俳句がうまい

2018-05-30 02:17:27 | 


五木寛之『孤独のすすめ』(中公新書クラレ/740円+税)を、讀賣新聞からいただいた図書券で買った。
人生いかに生きるべきかという本は興味がなかったが、帯の「後ろを振り返り、ひとり静かに孤独を楽しみ、思い出を咀嚼したほうがいい」という文言に疑問を持ったことが本書を求めた理由である。

俳句をやっていると興味はほとんど今である。自分が最近見たり聞いたりしたもの、世の中で今起きていることが俳句を詠む衝動になることが多い。
しかし初心者や老齢者は過去をよく書く。それはたいていたんなる郷愁であり詩のインパクトのない色褪せたものになりがち。それで藤田湘子は「過去は書くな、回想は弱い」と言い続けた。
湘子の教えが染み込んでいて五木さんの姿勢は消極的に思えた。それで彼の真意を探りたくなった。

帯に「人は年をとると、孤独という自由を手に入れる」とあるからこれを深めているのが中身とふつう思うが、まるで違った。孤独そのものについて書いている分量は10%もない。羊頭狗肉である。
孤独について触れているのは、「ガラクタも捨てなくていい」という項目で、むかし買った記念の品をときどき出して回想すると元気になるというくだり。
古いマッチとかレコードとかがきかっけになって記憶が引き出される。回想を精神科が治療に使うほどであるから昔を思い出すのがいい、とすすめている。

●ボランティアなどに参加してなるべく積極的に他人とコミュニケーションをとる
●カラオケや旅行へ行くなどレクリエーションを生活に取り入れる
●体操やウォーキングを習慣にしなるべく体を動かすようにする
●いろいろなことに好奇心を持つ
五木さんは世間がよくいうこういうことに懐疑的という。それは小生も肯ける。やたら前向きに、ポジティブに、といわれても年寄はそう体力も気力もないのだから、一人静かに時間を過ごすというのはわかる。

けれど静かに過ごす中身は回想だけなのか……これには釈然としないのだが……と思っていて待てよ、となった。
先日、ハーモニーヒロが小生を酒と食事でもてなして色恋沙汰を聴いたことを。ヒロは絶妙な聴き手であった。善悪の判断をせず小生の心の襞をくすぐるように合いの手を入れてはうながした。まんまとそれにはまって今まで誰にも話すことのなかった話をしてしまった。
それは蜜のように甘美で俺にも映画みたいに甘美な時間があったのだと満足したのであった。俺の人生、まんざらでもなかったわいと舞い上がっていた。
これは五木さんのすすめる回想ではないか。ヒロがアシストしてくれた。

回想は認めてもいいが、ほかに孤独を楽しむことの提案がないのはもの足りない。
本書の「はじめに」で、
春愁や老医に患者のなき日あり  五十嵐播水

を取り上げている。
この句を引いて五木さんは、「人生の最後の季節を憂鬱に捉えるのではなく、おだやかに、ごく自然に現実を認め、愁いをしみじみ味わう。こうした境地は、まさに高齢者ならではの甘美な時間ではないでしょうか。」と結んでいる。

そう、「孤独のすすめ」とは「俳句のすすめ」ではないか。俳句をやれば一人の時間が輝く。俳句を書く目的で野山や海辺を歩くとき同行者はいないほうがいい。人とおしゃべりしていては俳句はできない。一人で森羅万象に向くことを自然に望むようになる。
これは一人を愛した飯島晴子のみならず小生も、ほかの俳句をやる輩の多くが感じていることだろう。
「孤独のすすめ」というテーマは小説家の五木さんより五十嵐播水さんみたいなレベルの高い俳人がこなしたほうがはるかに具体的でおもしろくなるのではと思った。
ぼくが編集者ならそうする、『孤独の人は俳句がうまい』とかいう題で。
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栃ノ心VS照ノ富士を見たい

2018-05-29 05:49:49 | 大相撲


大相撲夏場所の目玉は関脇栃ノ芯が13勝2敗で大関を射止めたことであった。
これが光で影は、照ノ富士が東十両8枚目で9敗6休で1勝もできず来場所は幕下へ落ちることが決定的なことである。
かの豪傑照ノ富士の存在をもう忘れるほど栃ノ心の活躍は目覚ましいものであった。

さて照ノ富士の去就だが、師匠の伊勢ケ浜親方(元横綱旭富士)は「(26歳と)まだ若いから、幕下まで落ちたから辞めるという話にはならない。出直しでいいんじゃないですか」と引退。大関経験者で初の幕下転落者となるが、「たまたまこれまでいなかっただけ。ここまでのけがをした人もいないから、それは関係ない」と話した、という。
伊勢ケ浜親方の判断には拍手したい。
見限るには照ノ富士はあまりに惜しい素材である。

ではなぜ照ノ富士はここまで落ちてしまったか。膝のけがであるのは明白だが、ではなぜ膝をここまで痛めたのか。
体重が重いから、鍛錬不足だから、という理由はあるだろうが、取り口の荒っぽさがそれを助長したのは否めないだろう。
もろ差しを許しても外から両まわしを引いて土俵から引っこ抜くような、今場所の栃ノ芯の初日のような大きい相撲をよく取った。
結局この荒っぽい相撲のつけが膝に来たとみていいだろう。
これをもっとはやく矯正すべきだったがしなかった。

これは本人だけでなく伊勢ケ浜親方にも大きな責任があると思う。
放っておいて伸びる天分はそのまま伸ばすのが指導の常道であるが、物事には絶対してはいけないことがある。
それは矯正しなければならない。まともな歯列の中に生えてくる八重歯のごときものである。それは親方が正すべきことではないのか。

何年か前にある人の俳句の個人指導をしたことがある。
その人の句風はぼくとまるで違い、心の中のことを書くことに強いこだわりがあった。ぼくは「俳句は写生」という路線であったが、その人の句を見て完全に写生へ持ってこようとするとこの人はつぶれるだろうと思った。
そこで最低してはだめであろう心情の表現だけを矯正することにした。つまり絶対だめなことのみ注意してあとは自由にやるのを見ていた。

あのときのことを照ノ富士の相撲について思い出すのである。
伊勢ケ浜親方は稽古場で照ノ富士が反身でぶん投げるようなとき棒で叩いてでも矯正すべきであった。また、膝が伸びたまま前へ出るようなときも叩いてでも直すべきであった。
それが指導者というものではないか。

とにかく膝の直った照ノ富士はめちゃくちゃ強い。これは大関になったことで実証済みである。がっぷり四つ相撲で白鵬を倒したこともある。それは栃ノ芯と一緒。
また幕内へ戻り栃ノ心との四つ相撲を見たいものである。これはそう実現不可能なことではないのでないか。
照ノ富士の再起に期待している。
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鷹6月号小川軽舟を読む

2018-05-27 06:06:05 | 俳句


任官の東下はるけき桜かな
作者は阪急電鉄神戸本線の岡本駅付近に単身赴任していると聞く。
東下(とうか)は東下りのこと、つまり京都から東国へ下ること。現在の都は東京ゆえ、作者は京都が都であったころを夢想しているのではないか。妻子の住む東国から西へ来ている身の上を逆手に取り、「むかし、男ありけり。その男、身をえうなきものに思ひなして…」という「伊勢物語」の逆の世界に耽溺したのであろう。具体的なモデルが身近にいるのではなく古典の世界に溺れていっときを楽しんだと推察する。


燃ゆる舟比良八講に煽らるる
菅原道真のため比叡山の衆徒が法華八講を修する旧二月二十五日ころ寒気が戻り琵琶湖が風雨で荒れる。比良八講である。風が吹いて舟が燃えているのである。野趣に満ちているし神々しく、また豪壮でさえある。この季語でかくも具体的な光景を見たことがない


田舎なるバブルの遺構なづな咲く
バブル経済が破綻して知った言葉に「箱物」がある。建造物のことで金がうまく回っていたころはそこに人も金も流通していた。けれど波が去ると人も金も去って廃墟となった。それでも春になると草が芽吹く。<国破れて山河あり>の風情を伝える。
さて、この遺構は具体的に何であるかずいぶん考えたが映像にならなかった。要するに住戸以外の快楽を目的にした箱物なのだろう。


噴き上げし灰かぶる山春深し
桜島も新燃岳も噴火している。箱根山も煙を噴いた。
小生の妻の出身地の日南市は新燃岳界隈での噴火による灰が飛んできて話題になる。しかし「噴き上げし灰かぶる山」という発想がなかった。ぼく自身こういわれて虚を衝かれた。火を噴く山の周辺にも山がありそこは灰にまみれる。灯台もと暗しであり、コロンブスの卵である。発見はごく身近にあるとこの句が読み手を叱咤する。


まんばうの水槽深し春の暮
マンボウはほかの魚と違い水族館ではそれだけで飼われることが多い。まわりに種々雑多な魚がいないことが多い。水槽も広く深く感じる。マンボウだけ悠然としている。それが春の暮を自然に引き寄せる。季語を正反対の「秋の暮」とした場合、マンボウのあの滑稽とも感じる風貌が損なわれる気がする。やはり春の暮がいいのである。


丘といふ丘かぐはしき茶摘かな
緑のこんもりした茶畑がよく見える。「夏も近づく八十八夜 野にも山にも若葉が茂るあれに見えるは茶摘みぢやないか」という歌も聞こえてきそう。のどかそのものの句。


庭を掃き門を掃き御忌暮れんとす
「御忌」は浄土宗の開祖、法然の忌日である。法然は一月二十五日に没した。「庭を掃き門を掃き」で美しい寺が見える。忌を修すというのは案外、掃除なのかもしれぬ。日常必要なことをたんたんとやって生きることで救われるのかもしれない。


赤味噌も白味噌も佳き三葉かな
鷹主宰は自炊している。その成果というべき一句。三葉の緑と赤、そして白と色のハーモニーが楽しい。同時に三つの匂い、味が感じられて素朴で贅沢な内容である。


指につく鱗粉蝶につく指紋
この繊細さと物に即した目にぞくぞくした。「指につく鱗粉」はぼくもいえるだろうが、「蝶につく指紋」まで見たことはなかった。そこで唸った。この指紋は鑑識が犯行の立証に供することのできる精度ではなかろうが、たしかに指紋が残るだろう。情を込めないで鱗粉と指紋を並列させて読み手の判断を待つという句作りはけれんがなくていい。


釈奠や牲(にへ)に黄河の鯉の髭
釈奠(せきてん)は、しゃくてん、さくてんとも読む。孔子および儒教における先哲を先師・先聖として祀る儀式のことで、儒祭、孔子祭ともいう。中国では後漢の時代にはじまり、日本では文武天皇の時代に大学寮で行われたと、歳時記が伝える。今では四月十日、十月十四日に東京の湯島聖堂と佐賀県の聖廟で行われるとも。
ぼくが興味を持ったのは、牛や羊を牲に使っていたのを最近は野菜を使うようになったと歳時記にあること。
するとこの句に登場する「黄河の鯉」というのがにわかに異色を放って見えてくる。髭の立派な黄河の尺鯉は孔子にぴったりの供え物である。これを見た主宰に妬心を覚えるほどであり、来年はこれを見に行きたいと思う。あるいは黄河へ行って尺鯉を釣り上げたい気分。


父とゐるわれ息子なり春落葉
家族をはじめ人間関係の機微をうまくとらえる作者である。父が九十になり自分が五十半ばを過ぎても父と子の関係は変わらない。父が生きているかぎり。春落葉という季語にはどちらかがいなくなったらこの発想はないという含みがあり、あわれが発生する。


惜春や相手が切つて電話切る
人間関係の機微をうまくとらえる作者とさきほど書いたが、それにまつわる機器も巧みに句に取り込む。日常なにげなくしている行為を切り取って春惜しむ気配を出して巧い句である。
この句が中央例会に出たときからこの句をヒントにぼくも電話の句を書きたいと切望した。それは鷹に出して主宰の選を受けることになる。もし、主宰選に入ったら紹介することがあるかもしれない。それほどぼくを焚きつけた句である。


写真:5月26日。国分寺市立第7小学校の運動会
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まぐはひといふべし火蛾の交尾みやう

2018-05-25 15:29:49 | 自然


道を掃いていたら木の葉のようなものがあった。
掃く寸前、それは2頭の蛾で、それも交尾の真っただ中であることがわかった。蛾が尻と尻をくっつけるところをはじめて見て興奮した。交接したところから溢れ出ている黄色のものは何だろう。世の中は知らないことばかりだ。
これはまさしく人間の「まぐはひ」といっていい。くっつき合うところはなんとエロティックであることか。

やおら左の蛾が右の蛾を引きずって動きはじめた。
歩道から車道へ出て行くではないか。そこのけそこのけクルマが通る。轢かせたくないので紙にふたつを載せて歩道の奥へ持ってくると、なんということか、また1頭の蛾がもう1頭を引きずるように人が通るところへ。

もう俺は知らぬ。
多摩川へ桑の実採りに出る。約2時間ほどして帰るとまだ交尾が続いていた。人間の男女よりしつこい。
気になるのは引っ張るほうの蛾が元気なのに対し、引っ張られるほうは元気がない。もう死んでいるようにさえ見える。
桑の実を水洗してそこへ来ると、そこには元気な蛾が1頭いるだけであった。もう1頭は影も形もない。
残った1頭が雌なら未来はあるがこれが雄ならこの交尾は無駄ではなかったか。

命のあはれを見せつけられた。
交尾をまぐはひと思ったが、虫の世界に快楽を貪ることはないと見る。まぐはひは目合である。広辞苑には①目を見合せて愛情を知らせること。めくばせ。②男女の交接。性交。とある。
蛾の交尾はもっぱら生殖あり、愛情を交すめくばせなどない。
人のみが生殖の営みに愛情を持ち込む。まぐはひは①と②を同時に果たす行為である。
そして、生殖を拒否するまぐはいが当然のように横行する。昼夜なく。
これまた、あはれではないか。


元気な下の蛾が翅を打ちふるう。しばらくして上の蛾は消えていた。
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