天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

相撲は押し俳句は韻律

2024-01-22 06:34:21 | スポーツ・文芸

霧島を押し出す翔猿(右)

きのうNHKテレビの大相撲中継に春日野親方(元栃乃和歌)が出て相撲を語った。そこで印象深かったのが師匠(栃錦)から「押し」を学んだことを挙げた。さらに栃ノ心が長期休場していたとき押すことばかりさせたこと。栃ノ心はまわしを摑んでの投げが得意だったが「投げじゃなくて押し」だと言い含めたことを強調していた。
「押し」って教えてもらうほど難しいことかと思いつつ、では俳句の一番大事なことは何か考えた。最初、よく見ること、デッサンすることかと思い、いや違う、まず五七五で書くことと思い当たった。
ちょうどTさんが30句小生に俳句を送って来たところであった。30句のうち五七五でないものが3句あり厳重に注意したところであった。句の巧拙はともかく自分が書いたものが五七五韻律に叶っているかどうかはわかることである。
俳句はまず韻律にのっとって書くというのが一番大事である。これが相撲の押しに相当すると思う。相撲で押しを教えなければならぬよう俳句でも韻律を守るよう教えなければならない。
いつだったか時実新子に1年川柳を投句したとき彼女から「五七五を崩しませんね」と言われたことを思い出す。対面したか文書であったかあいまいだが新子さんがそう評価したことはよく覚えている。ということは川柳では韻律を崩す作例が多いのか。
小生の付き合った伊那の川柳の人たちは韻律を守ることをしばしばおろそかにした。それは意味を重視するからである。内容が大事だと考えるからである。川柳はよく知らないが俳句は長くやればやるほど内容より韻律が大事だと思うようになる。内容が五十歩百歩の事例をみんな詠むのである。また内容を重視するのであれば五七五の短いものより散文にすればいいのである。藤田湘子は「内容よりリズムだ」とよく言った。
いまその教えはよくわかる。湘子は晩年ライバルであった飯田龍太が七五五韻律の句を採って流行らせたことを批判し「やるなら七七五にしろ」とわれわれ言った。たしかにこれだと五七五韻律は守られるのである。とにかく俳句は韻律である。
きのうは大相撲中日、横綱を目指す霧島が翔猿に押し出されて負け。痛恨の2敗目を喫した。引きかけた迷いを翔猿に一気に押された。霧島にも師匠は押しをまだ教えなけれないけないようである。相撲も俳句も教えるのは一番簡単なことなのか。
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審判へのクレームは俳句では何?

2022-04-29 17:04:22 | スポーツ・文芸



4月24日のロッテ対オリックス戦で、ロッテ・佐々木朗希投手(20)が審判のボール判定に不服そうな態度をとり、これに対して白井一行球審がマウンドへ歩み寄るというシーンがあったと伝えられている。
捕手松川が白井を制するように間に入ったのはファインプレーであったとかをはじめ審判を支持する意見、佐々木に肩を持つ意見など思いのほか多数寄せられて盛り上がっているようである。

さて佐々木投手が白井主審に不満を抱いた行為は俳句で何かと考えてみた。
結社へ入って俳句をやっている人であれば、主宰の採る、採らないに即むすびつくと思う。
鷹では鷹主宰が取捨のすべてを行っている。いつかよその人から鷹は誰が予選しているのですかと訊かれてことがあるが、鷹1200人の7000句以上の取捨を一人の主宰がさばいている。思えばえらい重労働であり頭が下がる。
しかし、門弟はどうしてこの句が落とされたのか、なぜ6句出して4句も落とされるのかと思っている人はすくないないと思う。
藤田湘子が主宰のとき自分は若かった。落とされたことが悔しいことが再三あった。しかしなぜこの句を落としたのですかと面と向かって聞くことはできなかった。それをしたら破門されてもしようがないという意識があったし、それをしたらあまりにみじめであるし美しくないとも思った。恥ずかしくてそれだけはできなかった。
いつだったか落とされて句に未練があって翌月同じ句を投句したことがあった。思えば恥ずかしいことだがやってしまった。その句を湘子は採ってくれてうれしかった。あのとき湘子は白井主審のようにおもしろくない思いをしたかもしれない。よくない押しつけだと思い以後二度としなかった。
小川軽舟の時代になって、一緒に俳句をしている仲間が中央例会で採られた句を鷹に出したら落とされたということをぼくに言ってきたことがあった。その件はぼくが仲立ちして主宰の真意を尋ねたことがある。尋ねる前に主宰の胸中を忖度した。
つまり提出された6句の中で小句会で○をつけた句よりいい句があったのではないかと。つまり85点の○と70点の○。さらに採っていい○の数が多かった、成績がよかった。ならば後者を落として絞ることはわかる。主宰はまさにそのように説明してくれた。

俳句はストライクもボールも畢竟好みによる。したがって採る採らないといっても喧嘩にならない。一方野球はストライク、ボールは好みではない。ボールがベース盤をよぎるか否か、高すぎず低すぎず、である。機械を導入して解決できる種類のことである。したがって不服の生じるきっかけばかり転がっている。
白井球審は佐々木投手に退場宣告してもよかったがそれをするとどのくらい反論が来るか怖かったであろう。なにせ20歳の完全試合達成投手である。球界の宝である。球界全体を15年背負っているといっていい存在である。ここに佐々木投手の存在の凄みがあるのは間違いない。
むかし王、長嶋ボールというのがあったと聞くがこれからは佐々木ストライクが出来するかもしれない予感さえする。

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アブドーラ・ザ・ブッチャーは切字であった

2019-02-11 05:48:52 | スポーツ・文芸

ジャイアント馬場と闘うアブドーラ・ザ・ブッチャー(現在78歳とか)


2月9日のひこばえ句会のあとぼくを含め男4人がジョナサンで飲食した。
定生さんがぼくが俳句の解説に野球やサッカーのたとえを多用することを笑い、そのうちプロレスに話題が転じて盛り上がった。直己さんと定生さんはぼくより9歳ほど下、もう一人のシロウ君は49歳だからぼくより18歳下。
うんと若いシロウ君が驚いたことに一番プロレスに詳しく熱心で、ぼくがアブドーラ・ザ・ブッチャーを話題にするとすばやく反応して意気投合するのであった。

ぼくとシロウくんはブッチャーに何を感じたかという核を共有できた。それはブッチャーという稀代の名優の持っていた「間の取り方の妙」である。
ブッチャーの技は単純。「凶器シューズ」といわれたカバの鼻のように飛び出た靴による蹴りと手刀による地獄突き。フィニッシュは大の字に寝そべる相手の喉元へのエルボードロップであった。これを東京スポーツなどは「毒針殺法」などと命名してあおった。
その毒針を刺すためにブッチャーは4、5歩後方へ後じさりする。停止してここから4、5歩前に走って肘を喉へ落とすのである。この間が醸成する観客の興奮をブッチャーは意図していたのだと確信する。
「このときの間は切字、それも中七のや切れである」というぼくの持論にシロウくんはすぐ同調した。ほかのふたりもなるほどという顔をした。
シロウ君はブッチャーが後じさりする3秒ほどの間に相手が起き上がってくるのではと考えそのハラハラする感じもよかったという。ぼくはシロウ君のようには考えずただただ間合いを楽しんだのだが彼の楽しみ方は理解できる。この間合いを持つということでぼくはブッチャーを高く評価していた。
プロレスはただガンガンやればいいというものではなく、また残忍で強ければいいというものではない。
スタン・ハンセンはウエスタン・ラリアットなる剛腕をふるい相手を薙ぎ倒し、日本でブッチャーほどの人気を博したレスラーだが、ぼくには単調に感じられた。見る物を興奮させる静かな間というものがなかったのである。

晩年動きが衰えて立ち上がるときの動きが緩慢であったジャイアント馬場には場内から野次が飛んだ。あの緩慢さがぼくは好きで、馬場さんの見せ方は歌舞伎のセンスと言うとシロウ君はなるほどと理解した。
シロウ君には俳句で切れをいれなければいけないところでブッチャーのステップバックを出せば心にしみて理解するだろう。

18歳も年齢が違うのになぜシロウ君はぼくと話を共有できるのだろう。
ブッチャーは初来日したのが1970年、日本プロレスの8月興行『サマーシリーズ』。それから1980年代まで活躍した。
そのころぼくは20歳から30歳代。シロウ君は2歳から十代半ばか。すると彼もブッチャーは知っていてよいわけか。ぼくは社会人になってから興奮してまだプロレスを見ていたのか。
「アブドーラ・ザ・ブッチャーは優れた切字であった」。これをわかる知己を得たのは大きかった。
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見得を切る人切らぬ人

2017-12-09 13:39:44 | スポーツ・文芸


本日正午からテレビ朝日で「ドクターX大感謝祭」をやっている。
「超遠隔オペ2000万」「VSゆとり院内盗撮」「人工知能VS失敗しない野生の勘」の3本立て。ヒロインはむろん大門未知子(米倉涼子)である。再放送でまた商売できるとは、いかにこのヒロインが売れているかである。

このドラマの決め手は「私、失敗しないので」。
あり得ない手術技術であり虚構のさいたるものだが、治りたいという心理にうまくはたらきかけてこの決め台詞はますます輝いている。
超優秀外科医に「私、失敗しないので」と言わせることでドクターXは見得を切る演出を発展させた。
見得を切るのは歌舞伎をはじめとして、時代劇では盛んに行われている。
片膝をつき方肌を脱ぎ桜を見せる「遠山の金さん」、この紋所が目に入らぬかの「水戸黄門」と枚挙にいとまがないほど。
大向こうをうならせるという演出であり、わかっていてもうきうきする。パターン化することで美意識が深化する。

プロレスで見得を切る第一人者はかのアントニオ猪木であった。そこまでやらなくともというほど見得を多用した。ジャンボ鶴田も猪木流の見得を切ったが隙を突かれてよくブッチャーの地獄突きを食った。
格闘技で切る見得は隙を与えるのであり、そのへんを心得ていたのがジャイアント馬場であった。
晩年の馬場さんはスローモーと揶揄されたが戦況を読む達人でありそれは見得を切らない冷静さゆえであった。


見得を切ったアントニオ猪木と地味なジャイアント馬場



わがはいの近くでは藤田湘子はかなり見得を切ったと思う。
見得の最高傑作は、
うすらひは深山へかへる花の如 湘子
ではなかったか。かような幽玄の世界を言葉でものにするのは至難。ぼくらはこんな見得を切りたくてもできない。
これは陽性の見得の切りかたであるが、含羞の見得の切り方というのもあり、
湯豆腐や死後に褒められようと思う 湘子
ゆくゆくはわが名も消えて春の暮 湘子
冬晴やお蔭様にて無位無官 湘子

などは、斜に構えて見得を切っている。カウンターの味わいといっていいだろう。暗いところに旺盛な自意識と自負がたっぷりあって句をおもしろくしている。

湘子は自分を誇るのが巧みであったが他人をいたぶるのも上手であった。湘子が中央例会で、「同人でなきゃ採ってもいいんだけどな」は忘れられない名文句である。
自分が同人でないとき湘子選に入り同人が落選してこの言葉の餌食になったとき心中で喝采を上げたものである。

現在の鷹主宰は見得を切らない人であろう。
いつか軽舟さんに湘子の「同人でなきゃ採ってもいいんだけどな」みたいなアクのある言葉を使ってみたらと進言したら、少し笑っただけであった。
現鷹主宰は湘子やアントニオ猪木のような見得を切らず、ジャイアント馬場みたいに地味に行く。見得を切らないでしっかり見せるのも凄いのである。
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横綱不在場所と無季俳句

2017-09-16 05:35:19 | スポーツ・文芸

5日目、阿武咲のはたき込みに一回転する日馬富士


大相撲秋場所は横綱3人が休場、出ている日馬富士ははや3敗を喫しそれも金星というていたらく。
大関も高安、照ノ富士が途中休場と役者がほとんど消えてしまった。
6日が過ぎて、1敗が豪栄道(大関)、阿武咲(前頭3)、大栄翔(前頭11)、大翔丸(前頭12)。きのう若手の阿武咲が豪栄道を撃破していたら彼に救世主を期待したが雲雪が怪しくなった。
誰が優勝するのか、また何勝の優勝になるのか予想できない。いま3敗の日馬富士と御嶽海が以後全勝で行けば12勝3敗の優勝があり得るがこれも霧の中である。

つまり白鵬という盤石の横綱がいないことが混乱の原因といっていい。季語の効いていない俳句ないし季語のない五七五という感じがする。
けれどこの混乱も見ようによってはおもしろいのである。幕内力士はみな強いのである。下位力士といっても体重があり破壊力があるからそれを受けてきた横綱、大関がけがをして休場に追いやられていると考えられる。
相撲が取れない力士は弱いのである。

横綱がいないからその場所が締まらないという感慨を横においてひとつひとつの対戦を楽しむのがいい。
それは季語のない俳句を検証するのに似ている。
有季定型俳句に慣れた者は季語のない俳句をもの足りなく思ったり、味気なく思ったりする習性があるが、川柳人にそれはない。
ぼくは10年川柳をやったから一句の中に季語を置かない五七五をそうとうつくった。
それは今の大相撲のように興行を盛り上げるのがたいへんであったが、それなりに工夫とおもしろさはあった。

川柳人が季語を使わないのは当然だがわが鷹俳句会にも無季を書く意思はずっと生き続けてきた。
『季語別鷹俳句集』(ふらんす堂)には「雑」として無季俳句の秀句として68句を収録している。無季俳句はほかにももっと書かれたということであり興味深い。
いくつかを挙げる。

からすなど吊るされ飯を待つ老婆  しょうり大
暖流果つるあたり少女の口匂ふ  飯名陽子
待つときは水かげろふの軒廂  細谷ふみを
空耳にほつれる髪のめらめらと  北原 明
かの后鏡攻めにてみまかれり  飯島晴子
こんにやくの葉の照りへ出て障りかな  寺内幸子
虫を刺すヘアピンの歌などはなし  服部圭伺
鳶燃えて砂丘を転がり落ちる僕  四ツ谷龍
天城越袂の時計狂いだす  寺沢一雄
荒海や能面に灯のゆらぎをり  山崎八津子
幽霊の絵を見る妻を離れけり  小浜杜子男
老眼鏡つねに離さず何もせず  朱 命玉


わかりやすいものを選んでみたが結構おもしろい。自分自身が無季で書く気にはならないが出来のいい無季は読んでもいい。
いま俳句界のさまざまなコンクールは暗黙のうちに有季定型というふうに了解されているが、無季俳句を謳ったコンクールがあってもいいではないのか。季語のない五七五が有季にゆさぶりをかけて俳句の奥行を広げてくれそうな気がする。
横綱不在の大相撲秋場所を見ていて無季俳句の可能性を考えた。

なお藤田湘子も死を前にして次の句を詠んでいる。


  無季
死ぬ朝は野にあかがねの鐘鳴らむ  藤田湘子


わざわざ「無季」と前書をつけている。世の人が湘子は惚けて季語のない俳句を書いたと思われるのを懸念した神経質ぶりがほほえましい。

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