藤田湘子が60歳のとき(1986年)上梓した句集『去來の花』。「一日十句」を継続していた時期にして発表句にすべて日にちが記されている。それをよすがに湘子の10月下旬の作品を鑑賞する。
10月21日 下町めぐり吟行会
往き戻りほとりほとりと菊見かな
眼目は「ほとりほとり」なる擬態語。小生はよくわからない。
波郷無き砂町も過ぎ葭の花
愛媛県出身の石田波郷は33歳のとき江東区北砂町に転居した。ここに石田波郷記念館がある。よって砂町というと波郷なのであり俳人は砂町-波郷をドッキングして考えるが、小生はこれにとんと興味がない。俳句に即していえば、下五の「葭の花」はちょっとした驚きがあってよい。
紙芝居始まつてゐる欅散る
欅の木の下で紙芝居をしている。レトロな光景。
10月22日
鴨行けば水はへこみて従へり
主観的な句である。「水はへこみて従へり」は見て書いているのか疑問。「へこみ」はあるかもしれないが「従へり」は情念が出過ぎでは。
腰かけて落葉焚して身養生
身にしみる内容。「腰かけて」が効いて「身養生」を納得する。
10月23日
大いなる刈田の日ぐれ人容れず
要するに稲を刈った田んぼの人がおらず夕日が差しているのだが、「人容れず」と言った。やや大げさに思う。森や林なら「人容れず」がはまる場合があるが風が行き来する田んぼでは大勢が納得する感性なのか。
10月24日
泥中は悔の曼荼羅蓮枯るゝ
最近、「蜘蛛の巣の露曼荼羅や蜘蛛の留守 小川軽舟」を読んだばかりにて、この句の「悔の曼荼羅」も興味を持って読んだ。が、「悔の曼荼羅」は観念的過ぎないか。弟子の「露曼荼羅」のほうがモノとしてこなれている。
相州の善人面や刈田道
相州 (そうしゅう)は神奈川県の大部分。ここの人が善人面だという。横浜に比べて田舎なので理解できる。季語の押さえも効いている。
愛とふ語明るくはなし草紅葉
愛という言葉の感じが明るいか暗いか考えたことがなく、そう言われてもピンとこない。今回えらく観念的な気がして賛成できない。
10月25日 住斗南子
秋嶺のひかりますぐに鼻柱
住斗南子は飛騨高山の同人。向こうの高峰を見た顔の日が来た。顔は斗南子さんか。日は鼻にいちばん当たっている気がした、という内容。
柞原笛携ふる旅もして
「柞」は小楢、大楢、椚などの総称。「柞紅葉」と使われることが多いがここでは原っぱ。斗南子さんさんが笛を吹くようだ。
10月26日
ジヤケツ著るたびにうするゝ山河あり
ジャケットを着ることと山河が薄くなることとどう結びつくのか。寒くなっていくとき風景が薄くなると感じるのか。微妙な感覚である。
黄落や馬の疾駆を追ふテレビ
競馬中継であろう。天皇賞秋か。
滞る雲より朴の落葉かな
朴の葉は大きくて硬い。落ちると音がする。それが雲から降ってきた。「滞る雲」と置いたことで風格のある句になった。
10月27日
鵯よむかし自転車乙女戀せしが
鵯に作者が呼びかけている。俺はなあ、むかし、自転車に乗ったあの娘が好きだったんだ、と。「鵯よむかし」という展開に妙味がある。
見てゐたるまなこの力秋の暮
何を見ていたかは書いてない。しかし秋の暮ということで凝視が効いている。たしかに見ることを意識する時間である。
10月28日
残菊にかがやきし風もうあらず
3時ころには日があって風に吹かれる菊が輝いていた。5時になって暗くなったのである。
おでん酒競馬がへりとぶつかりぬ
競馬帰りの人は金を使い過ぎたことを話題にしているかもしれない。中七下五の言い回しが巧い。
秋の暮うしろに月の昇りけり
意外にはやい月の出を驚いている。
10月29日
頭から洗つて全肢風邪癒ゆる
「頭から洗つて全肢」、実感がある。風邪が癒えた句として出色。
血の滲むタオルが水に猟期くる
自分がけがをしたタオルを濯いでいるのではなかろう。どういうことがギョッとするが、季語とは合っている。
10月30日
風邪に寝て三日失せたる芒かな
「失せたる」は「芒」の前で切れているとみる。三日無為に過ごしてしまったなあ、という感慨である。
朴落葉燃えがたくして朝な朝な
「朝な朝な」は毎朝ということ。朴落葉は乾いていても燃えにくい。松葉でなくてこれを燃やすとは酔狂も極まっている。
10月31日
竹切ればしぶきの如く倒れけり
「しぶきの如く」は的確な比喩ではっとする。観念的な句が多かったがこれは感覚に訴えてくる佳句。
秋惜しむとて屑屋が來竿屋が來
たんに「秋惜しむ」ではなくて「秋惜しむとて」と屈折を見せている。これに対して「屑屋が來竿屋が來」なる並列は当を得ていて巧い。
螢光燈紐長く秋惜しみけり
寝ていてつけたり消したりしたいので紐を長くしてある。この光景を見ている人は多いだろう。秋惜しむの句としてわかりやすくて親しみのある内容。