車座の拍手に立ちし桜かな
小生のこの句に対して鷹プラザで濱田ふゆからこんなラブコールが来た。
驚嘆した。(中略)中央例会では上五が「満場の」だったと記憶。原句に比べて、なんと一読場面鮮明。心理的距離がぐんと縮まる。人数も把握できる。笑顔も見える。野次も口笛も聞こえる。不思議なことに桜の色も濃くなった。強い語が必ずしも鮮明な句につながるものではない、と思い知った。
えらく褒められてこそばゆい。なぜぼくにこれほどの関心を寄せてくれるのかわからぬが、ずっと前この句が鷹誌に出たとき彼女から電話をいただいた。
そのとき「<満場>がだめだったら<車座>にして投句するか捨てるかに決めていた」と伝えた。
中央例会をどう使うということだが、
入って間もないころはとにかく主宰の〇が欲しかった。なりふり構わず〇を得ようとした。
それは今でも変わりないが、鷹で25年も経て中央例会へ200回以上出席してくるといくぶん余裕は出てくる。
<満場>は書いたときから危ないなあと思った。
俳句の作り手は一句でできるだけ多くのことを言おうとする。風船が弾ける限界まで空気を入れようとするような感じ。
まず具象を念頭に置くが抽象化して奥行を得ようともする。
俳句で抽象・観念はご法度であるが事実を越えた味付けは悪くないとどこかで思っており、具体性の奥に観念性を求めている。
まあそれが<満場>であった。
主宰は一読してこの観念性は無理と断じた。
ああやっぱり、という気分であった。
それで実直な<車座>にしたのであった。
捨てることも考えたが直して主宰にお目にかけるのも鷹中央例会という場の生かし方であるし、またよくした句を主宰にお目にかけることが礼儀であるかもしれないと思った。
鷹主宰のストライクゾーンと自分自身の句作の許容範囲との間で駆け引きをして楽しむのがおもしろい。
選をする人と選を受ける人という西欧の人が見れば考えられない非民主的な制度のなかでわが国の短歌・俳句は行われてきた。詩文芸のみならず茶も花もヒエラルヒーの頂上に一人が君臨するという形を当然のごとく受け入れてきた。
われわれ日本人は民主主義でなにもかもできると思っていない民族であろう。
しかし全面的に主宰に身をゆだねてしまうというのでは自分はまったく消えてしまうだろう。
主宰の世界と自分の世界の重なるところ、重ならないところを深く知ろうとするなかでなんとか自分を打ちたてていく。
そのへんの妙味がわかることが西欧人でない日本人の叡智ということになろうか。
小生は鷹主宰を優れた羅針盤と思っている。