天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

小川軽舟「父の汗」その二

2018-08-31 03:53:47 | 俳句



月刊誌『俳句』9月号の「父の汗」から。

差す傘にめまとひ軒を借りに来し
「軒を借りる」はそうとう俗っぽい。作者は俗な面白さはこれがぎりぎりという意識で遊んだと思う。


月見草川面は雲母(きらら)流しけり
「雲母」を「きらら」と読ませるのは秋桜子の美意識である。それに驚いた。藤田湘子の師である水原秋桜子まで先祖帰りしている。作者はここで師系列を意識して記念碑的な言葉を使ったのではと推察する。


海原の身悶えが波朝曇
中七を擬人化して風景を人間化したことで恰幅が出た。擬人化は下手をすると品位を落とす手法である。ここではうまくいっているのではないか。


かたむけて暖簾しまひぬ葛餅屋
確かにこの通り。見たままといってもいい。この淡泊さと前の句の擬人化してまで自分を入れ込むことの間で俳句の表現は行きつ戻りつする。この句を「ただごと」と評価する人がいても不思議ではない。


アーケード更けて風吹く帰省かな
帰省というと<桑の葉の照るに耐へゆく帰省かな 秋桜子>をすぐ思い出すように草木生い茂る地方が舞台というのが通り相場であった。この句は地方都市の情景としてそれを刷新したのが見どころ。


蜜豆や出てみたかりし文学部
蜜豆の甘さがふいに文学部への憧憬となったのか。あるいは蜜豆屋にいて大学生とおぼしき女性を見ながらの感慨か。文学部を経ずにいま俳句という文学をしている作者の甘酸っぱい回想。


汗のシャツ裾から剥げば裏返る
<大榾をかへせば裏は一面火 素十>の素朴さ、ぶっきらぼうさを思い出して、笑ってしまった。事が人事ゆえ素十にないおかしみが出た。むかしはここまでリアリズムを望まない書き手であった。隔世の感がある。


滝へ行く口笛のもう濡れてをり
前の句よりこちらのほうが作者の本来の持ち味であろう。この抒情に会うとうれしくなる。


滝見えず山霧に音立ちのぼる
叙景句にしようという意図がありしっかり描写している。前の句より抒情を抑えめにして景をして抒情を見せている。


竹藪の沢蟹朽葉踏みわたる
これも写生の目が効いた句。竹は朽葉といっても腐った感じはなく美しい。蟹の赤さと竹の葉の褐色がよく見えて好ましい。


狂気その初めしづかや蟻の列
蟻が列をなして動いている。これからどうなるのか。列をなしての集団行動を「狂気」と見たのがいい。「狂気その初めしづか」は狂気の把握としてめざましい。実存的な領域に踏み込んでいる。


蟻の列貫く飢ゑの蜿蜒と
前の句の観念性もいいがここでは具体的に「飢ゑ」といい、「飢ゑの蜿蜒と」と畳み掛けて蟻の本質を描く。この蟻二句は甲乙つけがたい。


みなづきや名の岩連ね貴船川
水無月というが梅雨時で水のあふれる季節。勢いよく流れる貴船川と岩が見える。


滴りや巌根(いはがね)深く地に凝る
大きな巌に水が滴っている。中七下五は静かにして力の満ちた表現。アニミズムにいたる力である。


日当りの山気に噎せぬ竹煮草
「日当りの山気に噎せぬ」、的確に野趣に満ちた荒っぽい山の雰囲気をとらえている。「瘴気」といってもいいややおぞましい気配。竹煮草を配して締めた。


竹煮草粉を吹く葉をひるがへす

粉を吹くのは主に茎であるが葉も気持ち悪い。ひるがえせばなおさら。



撮影地:府中市、下河原緑道、サントリー界隈
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ある世捨て人の物語

2018-08-30 04:43:45 | 


『ある世捨て人の物語』(原題The Stranger in the Woods)マイケル・フィン著/宇丹貴代実訳/河出書房新社。
この人物はクリストファー・トーマス・ナイト。
1965年12月7日生まれ、現在52歳。彼が住居への不法侵入と窃盗のかどで逮捕されたのは2013年4月4日、47歳。その場所はアメリカ合衆国メーン州ノーストポンド界隈のとある別荘であった。
彼はチェルノブイリの原発事故の起きた翌年(1987年)から逮捕されるまで27年間の間に人と会ったのは予期せぬ一度のみ。森の中の隠れ家(ナイロン製テント)でずうっと一人暮らしを貫いた。あたりの別荘へ入って(侵入回数1000回以上)食料や本、生活物資などを調達する(盗む)ことで生き抜いた。度重なる窃盗の被害に監視態勢がきびしくなってついに発見され逮捕された。
対面取材を許されたマイケル・フィンがクリストファー・トーマス・ナイトから聞き取りをしてまとめた本である。

8月26日付讀賣新聞の書評欄で紹介された本書に目が釘付けになった。評を書いた服部文祥氏(登山家・作家)はこのように語りかける。
「会話はもちろん、家族や他人とまったく関わることなく、孤独な時間をどのくらい過ごしたことがあるだろうか。私は単独行を好んでおこなうが、登山中誰にも会わない連続した時間はせいぜい10日ほどしか経験したことがない。」
服部氏が誰にも会わない10日というのもぼくは凄いと思う。そのように孤独に対しての思いのある方ゆえ本書に興味を持ったのであろう。

ナイトにとって現実世界の人間とのやりとりはあまりに複雑すぎた。人々の会話はテニスの試合のようにめまぐるしくて予測できない。かすかな視覚的、言語的な手がかりがつねに存在する。ほのめかし、あてこすり、音声もある。誰しも、人とのつきあいでしくじって容量の悪さの犠牲になる。そういう一切から彼は逃げた。

ナイトは発見されることを恐れて雪の上を歩いて足跡を残さなかった。また、暖をとるための焚火もしなかった。煙を出すことが自分の居場所を知らせることになる。
主食はマカロニ・アンド・チーズということだが基本的に煮炊きさえしなかった彼は水を加えた食べたのか。ぼくはほとんど食べたことがないのどうすると口に入る状態になるのかわからない。


医学者たちはアスペルガー症候群の一種か、自閉スペクトラム症か、スキゾナイドパーソナリティ障害かと病気にこの孤独癖を解明しようとして結局、匙を投げる。
扁桃体の損傷、オキシトシンの欠乏、エンドルフィンの不均衡などもうんうんされる。

地元住人はナイトをただの泥棒でありペテン師だといった。後援者がいて泊めてやり風呂も供給していたはずだと。そうでなければ大寒波を生き延びられるはずがない。
また彼らは敬虔はクリスチャンであり聖書を信じていた。創世記第二章には「主なる神は言われた『人が独りでいるのはよくない』」とある。この精神が隠者を嫌った。

ナイトは逮捕された境遇に耐えられず独房を切望した。監禁された囚人の多くは、10日もたつと精神障害の兆候を示すから国連は人を15日間以上孤独状態にしておくのは残酷で非人間的な刑罰だとしている、その独房を彼は求めた。
拘禁された最初の数ヵ月、同房者がいたが言葉を交わさなかった。そしてようやく独房へ移されたとき心底ほっとした。

ナイトはもっぱら永遠の現在にただ存在した。日誌をつける、写真を撮るなどのいっさいの記録を残さなかった。自分を認めてほしい、自分はここに存在しているといういっさいの行為を嫌った。
自己喪失こそナイトが森に求めたことである。公の場で人はつねに社会的な仮面をつけ、世間への体裁をつくろう。ひとりきりであっても、鏡をのぞいたらつい演じてしまう。それもあってナイトは鏡を置かなかった。

ナイトはそうとうの読書家であった。本のなかの暮らしは居心地がよかった。なんの要求も押しつけられないからだ。文字の世界とのかかわりは、彼にできる精一杯の人づきあいだった。
その彼が推奨するドストエフスキーの『地下室の手記』はどうしても読んでおかなくてはいけない。

森を出ていま社会の片隅でかろうじて生を保っているナイトが再び森へ入るときは死を求めるときであろうとこの本の著者は分析する。そのほうが彼にとって幸せなのかなあ、と妙な気持になってしまう。
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小川軽舟「父の汗」その一

2018-08-29 04:33:33 | 俳句


小川軽舟鷹主宰は月刊誌『俳句』9月号に、「父の汗」と題した50句を寄稿している。それを3回に分けて取り上げ、若干の感想を添えたい。
まず17句。

梅雨明けてまだ蟬鳴かぬ空邃(ふか)
梅雨明けの明るい空。水分が減って高さを感じる。蟬が鳴き始めたら空が鬱陶しくなるであろうことを感じている。


勉強の好きな子どもに蟻地獄
この子は机上の本を見ての学習のみならず観察が好きとみる。しゃがみこんでいる目を感じる。


日向水覗いてゐし子消えてなし
俗にいう「神隠し」。覗くのに飽きて帰宅したのだろうが日向水の中へ消えてしまったように感じさせるのが韻文のおもしろさ。


ハンカチの四辺をゆるくたたまるる
誰がたたんでいるのか。無機質な書き方がおもしろい。この句を読むと作者は四角四面の人は苦手で、融通の利く人を好んでいる気配がある。


画材屋を出て緑蔭の駿河台
あのへんは予備校もあって若者が多い。元気な街の様子が感じられる。


涼風や世界地図掛け起業せる
材料が新鮮。若手経営者のオフィスを訪ねた印象か。世界を股にかけて雄飛する日本人へのエール。


夕立の飛沫かかれり喫煙所
いまや喫煙者は肩身の狭い人種。喫煙所などかつてはなかった場所で哀愁を狙ったのがいい。


喫煙所驟雨の後の虹高く
同じ素材で2句は作る。その粘りはいいが3句作ると3句目はたぶん落ちる。そのへんの呼吸を熟知している。


記者会見マイク十八本の夏
いくら有名俳人でもマイクが十八本集まることはたぶんない。これは誰かを見ての嘱目であろう。たとえば、夏の甲子園で準優勝した金足農業の吉田投手。「夏」で締めるのにふさわしいのは野球の若きヒーロー。


背広かけ汗ばむ肘や梅田駅
冷静沈着の作者の目立たないうまさが出た句。脱いだ背広を腕にかける。そのときの肘である。芸の細かさがこの作者の持ち味。


通天閣低く聳ゆる極暑かな
マイナスとプラスの同居は一句を深くする。すなわち「低く聳ゆる」と通天閣をとらえたのは極上。中七が優れていると続く季語がいきいきする。


月涼し配管老いし雑居ビル
卑近なところを逃さず描写して一句に掬い取る胆力を感じる。作者が主宰になる前、こういうところに詩を求めたであろうか。鷹主宰ならではの視野の広さといえよう。作者は季題趣味から遠ざかり今の生活、眼前にあるものを詩にしようとしている。


めらめらと氷にそそぐ梅酒かな
今回取り上げた句の中でもっとも物としての力を感じる句である。つまりこの梅酒を飲みたいと思わせる魅力に満ちている。食べ物、飲み物の句はうまいと感じさせるように書け、が藤田湘子の遺訓であり、現主宰もそれをしかと引き継いでいる。


夏負けやタイルに響く便所下駄
「月涼し」の句で卑近な材料を一句にする胆力を褒めたが、これはさらに凄い。上五の「夏負け」はあっぱれというかしかない。


競艇の水の裂傷灼けるなり
写生は言葉の発見であり「水の裂傷」は踏み込んだ見方である。水に対して「灼けるなり」と一般的には違和を持ち込んだことでかえって水がよく見せている。表現のうまさという点で秀逸。


岸蹴つて川波返す雨涼し
波と雨は近いのでそう冴えないが岸の水模様に執念を燃やしているのはわかる。


水葵雨の水輪に小突かるる
水葵の花は真っ青。雨の水輪とですがすがしい。前の句の「岸蹴つて」やこの句の「小突かるる」という擬人法がそう上等とな思えぬが、なにせ50句出すのであればあってもいい。


作者は50句作るにあたり旅をするなどの特別なことをしていないように見える。日々の生活から素材をすくいあげている。
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アボカドの種を齧ると割れた

2018-08-28 05:09:14 | 自然


この夏、アボカドをよく食べた。そのつど種の大きいことが気になった。一度、中を見たくなった。
種を洗って1日たつと濃い褐色が薄れ、皮が浮いてきた。薄皮はたやすくはがれて地は白っぽい。
金槌で叩こうと思ったが案外やわらかそう。歯を立てて齧ると割れた。中は白い。一様に石鹸みたいでへんてつもない。ぎんなんみたいに胚というのを発見できなかった。






72時間たつと断面が酸化して赤くなった。ぼくの好きな錆色であり表面が固い。しまった、割ったとき食べておくべきだった。石鹸状のものは食べられたのではないか。あのとき好奇心が足りなかった。
種が食えるか試してみたい。

*――――*――――*――――*――――*――――*――――**――――*
ここからは「LOVEGREEN編集部」のサイトからの写真(公開日 : 2018.07.20 )。
種からアボカドを栽培している。



冬を越して3年目になるとここまで立派になるようだ。
しかしぼくに栽培は向かない。いま庭に植えた温州蜜柑が3年たつが蝶の幼虫に葉を食われなかなか育たない。LOVEGREEN編集部はよくやっている。偉い。
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鷹9月号小川軽舟を読む

2018-08-27 02:41:02 | 俳句


作り滝

牛込に神楽坂あり巴里祭
今月の主宰の12句のなかでいちばん困った句である。俳句にはなっていると思うものの、ではどこがいいか解説しにくいのである。「牛込」「神楽坂」は俳句に入って機能する地名である。どうということもないが言葉が躍る。俳句はそれでいいことがある。けれど季語「巴里祭」がどうはたらくのか。納得するまで読めなかった句である。


勝手口ほどな玄関芙蓉咲く
この句は「勝手口ほどな玄関」という言い方の妙がすべてである。要するにアパートかそれに近い住居を自嘲する響きを読めばいい。


ひとすぢの煮炊きの匂ひ古簾
努力していない句である。物足りないという見方もあろうが気張っていないのがいい。打つ気のない打者のど真ん中へ何の変哲もないボールを投げて見送らせた、という風情の句である。


百日紅時間かがやかしく迅し
別のところで「動詞転用に秀でている」という評価をこの作者にした覚えがあるが、この句はそれに準じる。特に「時間」という抽象名詞と動詞を副詞へ転化しての形容で新しい情感をつくるのは彼が最も得意とするところである。
「時間かがやかしく迅し」という措辞は古今東西の俳人で誰ひとりとして考えつかない秘儀のようなもの。百日紅だからこの離れ技が決まるのである。スピード感あふれる叙述の背後に無常感がただよう。


帷子の女ほのかに饐ゆるなり
帷子(かたびら)は麻などで織った一重もの。饐ゆるは酸っぱくなるということで汗を考えてもいいが、それも含め、成熟した肉体の衰え、退廃の色っぽさなど思ってもいいだろう。こういう句を読むと単純に主宰は謹厳実直ではないなあと知って、親近感が湧くのである。


作り滝商談済みて縁談に
この句の季語を12句発表の題名としている。ここに作者のこの一句にかけた野心を見る。
「作り滝」という人工的なはすっぱな水景色は、商談をしたり縁談をしたりという浮世の営為にぴったり合う。たぶん作者はこの季語に対して絶大なる貢献をしたとの思いがあって表題としたのだろう。ぼくも12句の中で次の句と同様、高く評価をしたい句である。季語の内容を開拓したという点で。


父帰れば畳に泳ぎ見する子よ
この子の父は仕事が忙しくて海水浴に連れて行ってやれなかった。子は母と海へ行ってきた夜と考えるとおもしろい。父が申し訳なさそうに夜帰宅すると子は、ぼくこんなにうまくなったんだよ、と畳の上でバタ足し腕を動かしている。ひところモーレツサラリーマンと言われたころの父と子のシーンである。
この句の「泳ぎ」という季語も「作り滝」同様、小川軽舟によって養分を与えられて恰幅がよくなっている。季語に新しい栄養を与えたことを前の句同様、高く評価したい。


爺と児の軍人将棋竹牀几
軍人将棋は、将棋の駒を歩兵、砲兵、工兵、騎兵などの模して作った遊戯。爺と児は平和の象徴。「竹牀几」という季語ものどかであり郷愁を誘う。「将棋」と「牀几」とで音感を楽しんでいるのも優雅である。



大阪湾匂ふ暮らしに寝冷せり
「大阪湾匂ふ暮らし」に映画「泥の河」の一シーンを思ってしまった。岸に繋がれた船の中で売春を営む母(加賀まりこ)がなまめしかったこと。それはさておき、この句はクーラーの普及していない時代の回想ではないか。寝冷するのは窓を夜も開放してのことであろうから昭和30年代の感じがするのである。


水母浮くサーチライトの這ふ波間
薙ぐように照らす強烈な光の中に浮かぶ水母の白さにはっとする。人間はサーチライトで何を探すか知らぬが水母にとっては迷惑な話である。


錐揉みに蜩の声降りしきり
錐揉みは、錐を両手でもみながら穴をあけること(広辞苑)。蜩の声かなかなは長く聴いていると、みんみん蝉の声よりこの感じがする。「錐揉み」を見つけたことで印象的な蜩の一物俳句となった。


鉄は錆び更地は繁り故郷あり
生れたところで生業を持てない人が都市へ出て生計を立てる。かくいう小生も伊那を捨て東京へ出て生計を立てた一人である。いま故郷にかような場所を見るのは珍しいことではない。いま政権与党が盛んに「地方創生」などというアドバルーンを揚げているが、地方に人が住みそこで職を得て暮らすのはたやすいことではあるまい。平成30年の日本を冷静にとらえている。
コメント (2)
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