月刊誌『俳句』9月号の「父の汗」から。
差す傘にめまとひ軒を借りに来し
「軒を借りる」はそうとう俗っぽい。作者は俗な面白さはこれがぎりぎりという意識で遊んだと思う。
月見草川面は雲母(きらら)流しけり
「雲母」を「きらら」と読ませるのは秋桜子の美意識である。それに驚いた。藤田湘子の師である水原秋桜子まで先祖帰りしている。作者はここで師系列を意識して記念碑的な言葉を使ったのではと推察する。
海原の身悶えが波朝曇
中七を擬人化して風景を人間化したことで恰幅が出た。擬人化は下手をすると品位を落とす手法である。ここではうまくいっているのではないか。
かたむけて暖簾しまひぬ葛餅屋
確かにこの通り。見たままといってもいい。この淡泊さと前の句の擬人化してまで自分を入れ込むことの間で俳句の表現は行きつ戻りつする。この句を「ただごと」と評価する人がいても不思議ではない。
アーケード更けて風吹く帰省かな
帰省というと<桑の葉の照るに耐へゆく帰省かな 秋桜子>をすぐ思い出すように草木生い茂る地方が舞台というのが通り相場であった。この句は地方都市の情景としてそれを刷新したのが見どころ。
蜜豆や出てみたかりし文学部
蜜豆の甘さがふいに文学部への憧憬となったのか。あるいは蜜豆屋にいて大学生とおぼしき女性を見ながらの感慨か。文学部を経ずにいま俳句という文学をしている作者の甘酸っぱい回想。
汗のシャツ裾から剥げば裏返る
<大榾をかへせば裏は一面火 素十>の素朴さ、ぶっきらぼうさを思い出して、笑ってしまった。事が人事ゆえ素十にないおかしみが出た。むかしはここまでリアリズムを望まない書き手であった。隔世の感がある。
滝へ行く口笛のもう濡れてをり
前の句よりこちらのほうが作者の本来の持ち味であろう。この抒情に会うとうれしくなる。
滝見えず山霧に音立ちのぼる
叙景句にしようという意図がありしっかり描写している。前の句より抒情を抑えめにして景をして抒情を見せている。
竹藪の沢蟹朽葉踏みわたる
これも写生の目が効いた句。竹は朽葉といっても腐った感じはなく美しい。蟹の赤さと竹の葉の褐色がよく見えて好ましい。
狂気その初めしづかや蟻の列
蟻が列をなして動いている。これからどうなるのか。列をなしての集団行動を「狂気」と見たのがいい。「狂気その初めしづか」は狂気の把握としてめざましい。実存的な領域に踏み込んでいる。
蟻の列貫く飢ゑの蜿蜒と
前の句の観念性もいいがここでは具体的に「飢ゑ」といい、「飢ゑの蜿蜒と」と畳み掛けて蟻の本質を描く。この蟻二句は甲乙つけがたい。
みなづきや名の岩連ね貴船川
水無月というが梅雨時で水のあふれる季節。勢いよく流れる貴船川と岩が見える。
滴りや巌根(いはがね)深く地に凝る
大きな巌に水が滴っている。中七下五は静かにして力の満ちた表現。アニミズムにいたる力である。
日当りの山気に噎せぬ竹煮草
「日当りの山気に噎せぬ」、的確に野趣に満ちた荒っぽい山の雰囲気をとらえている。「瘴気」といってもいいややおぞましい気配。竹煮草を配して締めた。
竹煮草粉を吹く葉をひるがへす
粉を吹くのは主に茎であるが葉も気持ち悪い。ひるがえせばなおさら。
撮影地:府中市、下河原緑道、サントリー界隈