小川軽舟「鷹」主宰がその鷹4月号に「床の間 」と題して発表した12句。これを小生と山野月読が意見交換する。山野が○、天地が●。
雲雀鳴く空広く町つつましき
●この町を新宿とは誰も思わないでしょう。ぼくの近くでいえば高尾みたいなところでしょうね。
○「つつましき」にはいろんなニュアンスがありますが、ここでは広い「空」に対して控えめな、もっと言えば小さな町という感じでしょうか。ちょっとした高台にいて、「空」と「町」を一望に収めているように捉えました。
●そう、小さな町という感じでしょう。「空広く」がなにげなく効いているんですよね。
駅前にコンビニもなし犬ふぐり
○「コンビニもなし」というだけで、田舎の駅、寂れた駅を想像させますね。この句は季語「犬ふぐり」の斡旋に、句の良し悪しを全面的に託しているタイプかと。
●いまやコンビニの有無は便利さのバロメーターになった感じさえします。「犬ふぐり」でいいでしょう。
摘みに来て川音高し蕗の薹
●どうということのない場面を一句にしています。「摘みに来て川音高し」ということだけで季語が付いて一句になるのが俳句の恩寵と思います。
○わたるさんがどうということのない場面という「摘みに来て川音高し」ではありますが、私のレベル的には「摘みに行き」よりもやはり「摘みに来て」として現場感を大切にしているんだなとか、「聞こゆ」で終わらせず「高し」と具体化するんだなとか、学ぶべき要素は当然のようにあります(笑)。
伸びあがり羽ばたき喧嘩残り鴨
○時間にしたらどのくらいのことか定かではありませんが、「喧嘩」に至る一連の動きを無理なく無駄なく描写しているとともに、その描写の最後に「喧嘩」を種明かし的に配置しています。
●こういう句をみると俳句は描写力だと思います。とにかく目を使うことだという模範のような一句でけれんがないです。
饑(ひだる)さの仔猫からかふ雀どち
●仔猫をからかふ雀どちでしょうね、仔猫がからかふ雀どち、という読みもありますが。助詞が省かれていますから。
○「AからかふB」となっていて、確かに文法的には主語をAともBとも解釈可能なのに、私も「からかふ」主体は「雀どち」だと思います。この見解・解釈の一致は、「仔猫」と「雀」の関係性が原因かなと思ったのですが、例えば「雀からかふ仔猫どち」だとすると今度は「からかふ」主体は「仔猫どち」に思えるんですよ。ということは、この句では「雀どち」の「どち」という集団性が極めて重要なのかなと。もっとも、この句では上五にて空腹という情報が与えられているので、「仔猫」「雀」の交換は成立しないとは思いますが。
●そう、「饑(ひだる)さ」が「仔猫」を修飾しているので「雀どち」が「仔猫」をからかっているわけです。
マンションの床の間薄し黄水仙
○「床の間」に対して厚さ薄さで捉えたことがないのですが、「薄し」というのは段差・高さのことですかね? それとも奥行きでしょうか?
●段差、高さは考えませんでした。まず壁かなと思いすぐ否定して奥行き、つまり面積の狭さのことと思いました。むかしの日本家屋だと90センチくらいありましたがマンションでは60センチくらいでしょう。そのことを指摘しています。ここへ置いた黄水仙は黄色が目立ちます。
○なるほど。奥行き、つまり面積の狭さのことだとしたら、この「床の間」に活けられ、置かれた「黄水仙」の花姿の広がりも感じますね。
筆の穂に鼬の性(さが)や朧月
●解読しにくい句です。「筆の穂に鼬の性」とはどういうことでしょうかねえ。
○調べてみると「鼬」の毛を用いた書道筆があるんですね。「鼬」の一般的なイメージは小さいのに獰猛な肉食系じゃないでしょうか。だとするなら、きっと作者は最近入手したばかりの、この「鼬」毛の「筆」(太くはない筆かも)の筆先を馴染ませようと使ってみるのだけれど、「筆の穂」が暴れるというのか、思いもしない筆勢が生じてしまうようなことを「鼬の性」と捉えている、何とも粋な感覚だと思います。下五の「朧月」も「穂」や「鼬」と響き合って抜群です。今月では、この句が最高です。
●そういうことですか。思いもしませんでした。言われてみるとそう読むのがよさそうですが、なにせ「警官は人を凝視するのが性」という文脈でないと性は意味をなさないのではないかと思い込んでいました。ところで、季語は効いているのかなあ。
○「朧月」と「鼬」とが配合されることで、相互にその野性味を増して味があると思いました。
●それは納得できます。
うつすらと眼鏡に膩(あぶら)春めきぬ
○「膩」、こんな字があるんですね。「眼鏡」着用者は、こういうことで「春」を感じるものなのですかね。
●「油」ではねえ。この句は単純明快でいいです。眼鏡に目や皮膚は触れないはずですが汚れます。それは春を感じさせます。
目刺焼く煙を外に逃しけり
●家の中で目刺を焼けばそれは出た煙の始末がたいへんです。そりゃあ外へ出しますよ。
○あまりにも肩に力の入っていない作りっぷりですね(笑)。屋外で「目刺焼く」ケースだとそれをより美味しそうに感じさせる術がいくつかありそうですが、屋内のケースだとこの句のような視点が案外効果的かも。
●煙が溜まってからやっとやばいと思ったような句ですね。ふつう換気扇を回してやるのでどうしてこういうことを句にしたのかピンときません。
○なるほど、そうかも知れませんね。だとしたら、作者のそうした迂闊な面を含めて楽しみたいところです。
民藝の鉢の厚みや藪椿
●「民藝」は「味の民芸」ではなくて、1926(大正15)年に柳宗悦・河井寛次郎・浜田庄司らによって提唱された生活文化運動のことでしょうか。当時の工芸界は華美な装飾を施した観賞用の作品が主流のなか、柳たちは、名も無き職人の手から生み出された日常の生活道具を「民藝(民衆的工芸)」と名付け、美術品に負けない美しさがあると唱えましたが。
○たぶんその「民藝」ですよね。「宗悦の鉢の厚み」とした方が効果的な気もしますが、名もなき職人の作品ということ等に重心をおくと「民藝の鉢の厚み」とした方がイメージ性が豊かなのかな。
●ぼくはこういう知識の裏付けが要る句は基本的に好きじゃありません。ぼくも「宗悦の鉢の厚み」とした方がいいと思います。「藪椿」は効いていますね。
蜆椀しじみの腹のふつくりと
○私には「蜆」「しじみ」の書き分けもとても参考になるところなんですが、それは別にして、改めて「ふつくり」の意味を調べると「ふつくら」と同じとあったのですが、感覚的には「ふつくり」の方が小振りな感じがします。身が詰まった「しじみ」という感じ。
●上五「蜆椀」がなかったら貧相な句でしょうね。でも「蜆椀」なんて状況の説明だという思いもあり面妖な句です。
八雲立ち八百重波寄す春の朝
●「八雲立ち」は出雲にかかる枕詞。「八百重」は幾重にも重なっていることですから出雲の日本海の様子を描いています。「八」を繰り返してめでたく伝説の神社を寿いでいます。
○これで出雲が舞台だと認識させられるのは、言葉の豊かさのひとつですね。「八雲立ち」という状況的には、春というよりも夏の方がしっくり来るようにも思えるのですが、「八百重波寄す」というと大波というよりさざ波のイメージで春らしく感じられるので、そういう観点からも「八雲」だけではなく「八百重波」が必要だったようにも思えました。
●上五中七が重厚の割に季語が単純で物足りません。だいたい「○○の朝」という季語が幼稚じゃないですか。「八雲立ち八百重波寄す」はそうとう様式化された表現でここにリアルに物を感じないのでぼくなら下五は物の季語を持ってくるところです。たとえば今の時期なら「松の芯」みたいな。あなたの言うように「八雲立ち八百重波寄す」には夏のイメージもあります。まあ春か夏のしっかりした物の季語のほうがリアルになりそうな気がしてなりません。
○確かに、この措辞に対してモノ季語で一句をなすというアプローチは魅力的ですね。