天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

鷹4月号小川軽舟を読む

2022-03-30 16:13:55 | 俳句



小川軽舟「鷹」主宰がその鷹4月号に「床の間 」と題して発表した12句。これを小生と山野月読が意見交換する。山野が○、天地が●。

雲雀鳴く空広く町つつましき
●この町を新宿とは誰も思わないでしょう。ぼくの近くでいえば高尾みたいなところでしょうね。
○「つつましき」にはいろんなニュアンスがありますが、ここでは広い「空」に対して控えめな、もっと言えば小さな町という感じでしょうか。ちょっとした高台にいて、「空」と「町」を一望に収めているように捉えました。
●そう、小さな町という感じでしょう。「空広く」がなにげなく効いているんですよね。

駅前にコンビニもなし犬ふぐり
○「コンビニもなし」というだけで、田舎の駅、寂れた駅を想像させますね。この句は季語「犬ふぐり」の斡旋に、句の良し悪しを全面的に託しているタイプかと。
●いまやコンビニの有無は便利さのバロメーターになった感じさえします。「犬ふぐり」でいいでしょう。


摘みに来て川音高し蕗の薹

●どうということのない場面を一句にしています。「摘みに来て川音高し」ということだけで季語が付いて一句になるのが俳句の恩寵と思います。
○わたるさんがどうということのない場面という「摘みに来て川音高し」ではありますが、私のレベル的には「摘みに行き」よりもやはり「摘みに来て」として現場感を大切にしているんだなとか、「聞こゆ」で終わらせず「高し」と具体化するんだなとか、学ぶべき要素は当然のようにあります(笑)。

伸びあがり羽ばたき喧嘩残り鴨
○時間にしたらどのくらいのことか定かではありませんが、「喧嘩」に至る一連の動きを無理なく無駄なく描写しているとともに、その描写の最後に「喧嘩」を種明かし的に配置しています。
●こういう句をみると俳句は描写力だと思います。とにかく目を使うことだという模範のような一句でけれんがないです。

(ひだる)さの仔猫からかふ雀どち
●仔猫をからかふ雀どちでしょうね、仔猫がからかふ雀どち、という読みもありますが。助詞が省かれていますから。
○「AからかふB」となっていて、確かに文法的には主語をAともBとも解釈可能なのに、私も「からかふ」主体は「雀どち」だと思います。この見解・解釈の一致は、「仔猫」と「雀」の関係性が原因かなと思ったのですが、例えば「雀からかふ仔猫どち」だとすると今度は「からかふ」主体は「仔猫どち」に思えるんですよ。ということは、この句では「雀どち」の「どち」という集団性が極めて重要なのかなと。もっとも、この句では上五にて空腹という情報が与えられているので、「仔猫」「雀」の交換は成立しないとは思いますが。
●そう、「饑(ひだる)さ」が「仔猫」を修飾しているので「雀どち」が「仔猫」をからかっているわけです。

マンションの床の間薄し黄水仙
○「床の間」に対して厚さ薄さで捉えたことがないのですが、「薄し」というのは段差・高さのことですかね? それとも奥行きでしょうか?
●段差、高さは考えませんでした。まず壁かなと思いすぐ否定して奥行き、つまり面積の狭さのことと思いました。むかしの日本家屋だと90センチくらいありましたがマンションでは60センチくらいでしょう。そのことを指摘しています。ここへ置いた黄水仙は黄色が目立ちます。
○なるほど。奥行き、つまり面積の狭さのことだとしたら、この「床の間」に活けられ、置かれた「黄水仙」の花姿の広がりも感じますね。

筆の穂に鼬の性(さが)や朧月
●解読しにくい句です。「筆の穂に鼬の性」とはどういうことでしょうかねえ。
○調べてみると「鼬」の毛を用いた書道筆があるんですね。「鼬」の一般的なイメージは小さいのに獰猛な肉食系じゃないでしょうか。だとするなら、きっと作者は最近入手したばかりの、この「鼬」毛の「筆」(太くはない筆かも)の筆先を馴染ませようと使ってみるのだけれど、「筆の穂」が暴れるというのか、思いもしない筆勢が生じてしまうようなことを「鼬の性」と捉えている、何とも粋な感覚だと思います。下五の「朧月」も「穂」や「鼬」と響き合って抜群です。今月では、この句が最高です。
●そういうことですか。思いもしませんでした。言われてみるとそう読むのがよさそうですが、なにせ「警官は人を凝視するのが性」という文脈でないと性は意味をなさないのではないかと思い込んでいました。ところで、季語は効いているのかなあ。
○「朧月」と「鼬」とが配合されることで、相互にその野性味を増して味があると思いました。
●それは納得できます。

うつすらと眼鏡に膩(あぶら)春めきぬ
○「膩」、こんな字があるんですね。「眼鏡」着用者は、こういうことで「春」を感じるものなのですかね。
●「油」ではねえ。この句は単純明快でいいです。眼鏡に目や皮膚は触れないはずですが汚れます。それは春を感じさせます。

目刺焼く煙を外に逃しけり
●家の中で目刺を焼けばそれは出た煙の始末がたいへんです。そりゃあ外へ出しますよ。
○あまりにも肩に力の入っていない作りっぷりですね(笑)。屋外で「目刺焼く」ケースだとそれをより美味しそうに感じさせる術がいくつかありそうですが、屋内のケースだとこの句のような視点が案外効果的かも。
●煙が溜まってからやっとやばいと思ったような句ですね。ふつう換気扇を回してやるのでどうしてこういうことを句にしたのかピンときません。
○なるほど、そうかも知れませんね。だとしたら、作者のそうした迂闊な面を含めて楽しみたいところです。

民藝の鉢の厚みや藪椿
●「民藝」は「味の民芸」ではなくて、1926(大正15)年に柳宗悦・河井寛次郎・浜田庄司らによって提唱された生活文化運動のことでしょうか。当時の工芸界は華美な装飾を施した観賞用の作品が主流のなか、柳たちは、名も無き職人の手から生み出された日常の生活道具を「民藝(民衆的工芸)」と名付け、美術品に負けない美しさがあると唱えましたが。
○たぶんその「民藝」ですよね。「宗悦の鉢の厚み」とした方が効果的な気もしますが、名もなき職人の作品ということ等に重心をおくと「民藝の鉢の厚み」とした方がイメージ性が豊かなのかな。
●ぼくはこういう知識の裏付けが要る句は基本的に好きじゃありません。ぼくも「宗悦の鉢の厚み」とした方がいいと思います。「藪椿」は効いていますね。

蜆椀しじみの腹のふつくりと
○私には「蜆」「しじみ」の書き分けもとても参考になるところなんですが、それは別にして、改めて「ふつくり」の意味を調べると「ふつくら」と同じとあったのですが、感覚的には「ふつくり」の方が小振りな感じがします。身が詰まった「しじみ」という感じ。
●上五「蜆椀」がなかったら貧相な句でしょうね。でも「蜆椀」なんて状況の説明だという思いもあり面妖な句です。

八雲立ち八百重波寄す春の朝
●「八雲立ち」は出雲にかかる枕詞。「八百重」は幾重にも重なっていることですから出雲の日本海の様子を描いています。「八」を繰り返してめでたく伝説の神社を寿いでいます。
○これで出雲が舞台だと認識させられるのは、言葉の豊かさのひとつですね。「八雲立ち」という状況的には、春というよりも夏の方がしっくり来るようにも思えるのですが、「八百重波寄す」というと大波というよりさざ波のイメージで春らしく感じられるので、そういう観点からも「八雲」だけではなく「八百重波」が必要だったようにも思えました。
●上五中七が重厚の割に季語が単純で物足りません。だいたい「○○の朝」という季語が幼稚じゃないですか。「八雲立ち八百重波寄す」はそうとう様式化された表現でここにリアルに物を感じないのでぼくなら下五は物の季語を持ってくるところです。たとえば今の時期なら「松の芯」みたいな。あなたの言うように「八雲立ち八百重波寄す」には夏のイメージもあります。まあ春か夏のしっかりした物の季語のほうがリアルになりそうな気がしてなりません。
○確かに、この措辞に対してモノ季語で一句をなすというアプローチは魅力的ですね。
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右も左もコロナ陽性

2022-03-29 06:22:33 | 身辺雑記



きのう横浜市緑区へ弔問に行った。妻の運転する車にぼくと息子二人が乗って。妻の姉(73歳)が3月16日に全身に回ったリンパ癌で亡くなった。それから12日もたつのに通夜も葬儀もできずにいる。それは火葬場に空きがなかったことと関係者に新型コロナウイルス感染者が出たことによる。
義姉の夫(喪主)が感染した。彼は76歳。鼻水が出て咳が出て微熱があり風邪と思っていたところ一緒に看病していて娘(46歳)がもしかしてと言って、調べると陽性であった。指摘した娘も陽性。義姉の看病には妻も10日ほど毎日通っていてこの二人と接触していた。妻も最近検査して陰性とわかった。みんな予防接種を受けていた。
義兄にコロナの症状を訊くとたいしたことはなかったとのこと。弔問した長男もちょっと前にかかったという噂を訊いたが事実で長男は1日38度の発熱があって翌日引いたという。10日人に会えないのがたいへんだったという。運悪く死ぬ人もいるがたいていは治癒するという意識も広がって、まあインフルエンザよりましかもしれないと多くの人が思うようになっている。
東京都で28日、新たに4544人が新型コロナウイルスに感染したという。先週月曜日(3855人)より689人増えたそうだ。3年前この感染症が流行りはじめたころ東京都で1日の感染者が500人を超えたとき非常事態宣言が出されたような記憶がある。間違っているかもしれないが500人という数字が血圧130のような境界みたいな認識を共有していた。
それが今や4544人でもほとんどの人が慣れっこになっている。
義兄とその娘の感染にしてもどちらがどちらへ移ったかはわからないし、どこからもらってきたかもわからない。それをトレースすることじたい世の中は興味を失っている。
3年目になって「WITH CORONA」の意識がやっと行きわたった感じ。要するに終りのない疫病に諦めの気持ちを共有しているのである。
プロ野球が開幕して巨人―中日戦の東京ドームに大勢が入っているのを見て驚いた。大相撲大阪場所も大勢入っていた。
鷹俳句会も6月に宮崎で全国大会をするというが誰にも気兼ねしていない感じがする。世の中全体が諦めたというか覚悟したというか。ロシアがウクライナに理不尽に攻め込んだということも厭世観を助長しているのかもしれない。人は非常事態でもそれに慣れないと生きていかれない。
義姉の遺体は防腐処置が施されて眠っているかのようでありかつてクレムリンで見たレーニンの遺体のことを思った。遺体がずっと人目に晒されているのは残酷でありはやはく埋葬したほうがいいと思った。


撮影地:黒鐘公園
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4月6日KBJ句会

2022-03-27 05:50:16 | 俳句



【日時】4月6日(水)14:00~16:00
昼食を当店でとらない人はぎりぎりに来てください。それまでの時間、通常の客で込み合うので。
店のスタッフの休憩時間に句会をやります。


【会場】KBJKITCHEN
国分寺市南町2-18-3国分寺マンション102
中央線・国分寺駅を南口に出て左へ200mバス停先。通りをはさんで都立殿ヶ谷戸庭園。



【参加費】1000円+飲み物代

【出句数】1~8句(以下の兼題2句を含む)
時間節約のためあらかじめ短冊に書いてきてください


【兼題】
1)季題:亀鳴く
2)文字題:瓶


【指導】天地わたる(鷹同人)
全句講評いたします


【参加予想メンバー】
弘子さん、治子さん、和子さん、まさ子さん、小生。
時節柄、大勢が密集しない規模で行います。あと2名くらい参加OK。希望する方は天地のパソコン(youyouhiker@jcom.home.ne.jp)へ連絡を。


【句会後】
だらだら談笑して17時から夕食をとることは店にとって歓迎されるでしょう。時間ある方は夕食もどうぞ。

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日常が大事と思うのが俳句

2022-03-26 12:31:45 | 俳句

木瓜の花


30年以上俳句をやっていると書くことが頭打ちになる。年を取って体力知力とも衰えると派手なことを発想しにくくなる。よって身辺の箸が落ちたというようなところで句を書こうとする。身辺のちょっとしたことが大事であると思う。そう思っていてこの句をみて電流が走った。

ものの芽のあらはれ出でし大事かな 高浜虚子
ちょっと前辛夷が満開になった。いまは桜に心が行っている。多くの人が草木の芽吹きに心を動かす。素直に毎年感動する。「大事」という言葉を使って浮いていないのがいい。
しかし、「大事」は評価する言葉であり「うれしい」「かなしい」同様むつかしい言葉である。
以下の句は成功しているのか。
賜はりし長命大事冬に入る 阿部みどり女
身籠りてわが身大事ややゝ寒く 稲畑汀子
生き延びて来しこと大事菊枕 後藤夜半
ちやんちやんこ着せ父大事母大事 宮下翠舟
これらの句は句歴の浅くても多くの人がつくるだろう。つまり体に関することが大事であるという発想である。それは万人にわかる内容で句会でも点が入るであろうが俳句としての鮮度はいまいちである。常識の範疇であり誌的興奮はさほどない。

寒声に嗄らせし喉を大事かな 高浜虚子
虚子にしても「ものの芽」の句と比べるとこちらは落ちる。そりゃそうだよ、という内容であるから。

うたたねの泪大事に茄子の花 飯島晴子
これは不思議におもしろい。だいたい「泪大事」ということを多くの人が考えない。意表をつくということがおもしろさのもとであろう。なぜここに「茄子の花」かも不思議だがそれまでの文言と茄子の花は感覚的に引き合う。

店番の寸暇大事に母昼寝 三宅久美子
この「大事」は」意表をついていず常識の範疇であるが全体から納得できる情景である。「長命大事」「わが身大事」というような境涯的発想より鬱陶しくなくてよい。

蚊の姥のおん身大事や足大事 室岡純子
この句にはユーモアがある。「ががんぼ」を「蚊の姥」として擬人化したので「おん身大事」が効き、「足大事」と畳みかける。足がすぐ切れてしまう哀れな生き物なのだ。

息吸つて吐いて大事に水落す 長谷川双魚
「息吸つて吐いて」は大げさである。田んぼの土手を崩して水を落とすのだがこのおおげさは田水の大切さ、稲作にいかに水が必要かを裏返しに述べていてほほえましいのである。落すのだが大事な水なのである。

飯饐えて妻には大事夫に些事 井沢正江
ユーモアがある。大事些事と使って味わいを出している。

金閣の影を大事に鴛鴦遊ぶ 田畑美穂女
巧い句である。金閣寺が効いている。あの金色が水に映っている、そこに鴛鴦がいる。まさに絵である。


国家よりワタクシ大事さくらんぼ 攝津幸彦
この「大事」はここで取り上げている句の中でもっとも重い。しかし健康が大事というのと違って俳句の質を軟弱にしていない。俳句を重くして抜き差しならぬ重さにしている。

欠け茶碗それも大事に秋遍路 高浜年尾
これはどうでもいいことが大事の見本のような句。「それも大事に」はほかのさまざざまな大事なことを考えさせて巧みである。

鴬に人は落ちめが大事かな 久保田万太郎
「落ちめが大事」は通俗であるがこれに季語「鴬」が付くとがぜん締まって俳諧味が出る。季語は通俗を詩に転化させる装置と思うのである。

茎といふ大事なものやさくらんぼ 波多野爽波
茎ではなくて「柄」ではないかと思うのだが、さくらんぼのあれは抓むのになくてはならぬ。そういう用途を越えて、あれがあるからさくらんぼの美しさが完成しているといっていい。ここへ目をつけたセンスこそ句を拾う姿勢であろう。


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多摩川の春は柳である

2022-03-25 11:29:35 | 自然



あたたかくなったので多摩川へ行ってみた。派手な色の少ないなか柳が緑を主張している。多摩川の春は柳である。

音あらず揺るる柳にさざなみに
昨夜テレビで「Ray/レイ」を見た。2004年に亡くなったミュージシャン、レイ・チャールズの伝記映画。盲目のレイが虫の這う音を聴いてそれを捕る場面が印象的であった。彼なら柳の揺れる音が聞こえるかもしれない。ぼくは耳が遠い。

うららかやさざなみ幹に照り映えて
木は立っているだけで見ものだがほかにも見せてくれる。






たわたわと波寄せてをりあたたかし
水は冷たいだろうが波の風情は春である。




戦争はどこ吹く風の春の鴨
動物は戦争を知らない。食べるための争いはあるだろうが理不尽な殺し合いはしない。人間を「万物の霊長」と呼ぶなど滑稽きわまりない。ウクライナのある政治家が「ヒットラーから逃れてプーチンに殺された」とテレビで叫んでいたのが痛ましい。

煙突の煙霞める柳かな
霞の充満する季節、柳の色がういういしい。立ち続けている木は尊敬にあたいする。






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