天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

粗朶を作る・粗朶を運ぶ

2020-12-31 14:03:51 | 身辺雑記

植えないのに生えている桑の木。数メートルも伸びる。

さる人からお歳暮として石焼芋鍋をいただいた。さっそく使ったが都市ガスは火力が上がると自動的に火力が落ちてしまい結局とろ火になって時間がかかった。文明の発達はえてしておもしろくない。
多摩川で使うべく下見した。すでに誰かがキャンプした跡が砂上にあった。水は近いし北側の府中方面を木が遮っていて人目につかない。このうえない焚火好適地である。しかし河原は枯れた蘆や茅ばかりで粗朶が少ない。
そこでアパートの伸び過ぎた桑と桃を切ろうと思い立った。切るのはたやすいが後の処理が面倒で先延ばししていた。
桑と桃を今日切った。燃やすという目的があるとがぜんやる気になった。1ヶ月半放置して乾燥したら河原へ運ぶ。


桃の粗朶。桃は苗を買って植えたが実がつかない。

国分寺跡の茂みに誰かすでに切って放置してある粗朶はリュックに入れて河原へ搬入した。
運んだ粗朶を誰かが燃やしてしまわないことを祈る。


いま東京で粗朶は貴重。どこの公園もきれいでなかなか手に入らない。



多摩川の焚火好適地。

木の向うが府中市。岸まで200m。絶好の目隠し。
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火葬場は今日も燃え

2020-12-31 06:46:00 | 世相

クリーンセンター多摩川
(狛江市、府中市、国立市、稲城市で構成する一部事務組合が運営するごみの中間処理施設)



片町地区の生ゴミ収集は25日に終わった。ほかのゴミも27日の収集が最後であった。多摩川右岸の稲城市にあるクリーンセンター多摩川はいま火を落としているだろう。
去年の今ごろ、ひばりが丘の葬儀屋「互助センター友の会」に招かれ手品を見たとき担当者が、葬儀の日取りは火葬場の空き次第であり年末年始の遺体の管理は大変とのことであった。
そこで、
手品師の作り笑ひや金屏風
冷暗所に屍密集年を越す

ができた。句会に出したら冷暗所には1点も入らなかった。みんな死の切実さがわかっていないのではないか。
人が生まれるのも死ぬのも場所と時間を選ばない。手間がかかる。砂漠や荒野なら鳥葬、風葬、宇宙なら宇宙葬もあるだろうが日本では火葬になっていて燃やさねばならぬ。
葬儀の担当者は火葬場は大晦日も燃やし続け17時過ぎにやっと火を落とすと言った。
それで、
火葬場の窯の余熱や除夜の鐘
ができた。窯に触っていないので想像であるが火葬場の熱こそ人の世の究極の熱さだと思う。
焼いて骨にしないと葬儀ができないというのは義務教育と同じで国の傲慢ではないのか。ぼくが小学生のころ人が死ぬと穴を掘った。土葬であった。
国はいろいろ決めて従えというが設備も何もかも追いつかないことが多々あり都市における火葬もその一つ。
ならばゴミ焼却事業が遺体を焼くことに参入してもいいのではないか。世間に安楽死ほどのインパクトはないのではないか。すでに死んでいるのだから。
たとえばクリーンセンター多摩川は今日も稼動してゴミも遺体も燃やせばいい。通常の火葬場の半額で引き受けたら葬儀代も安くなり人々の禁忌を越えるだろう。ゴミ焼却と火葬は容易にドッキングできる。
地球上に膨大の数の人間がいて今日も死ぬ。発想を自由にして制度を変えて暮しやすくすることを考えてもいいのではないか。
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小生の今年の一字

2020-12-30 06:31:22 | 身辺雑記


跪、ひざまずく。
「膝を下につけてかがむ。臀(しり)をあげ両膝を地についてかがまる。深い敬意や屈服の意を示す動作。」と広辞苑が解説する。
9月から11月にかけて胡桃を拾った。はじめはかがんでいたが疲れるし見えにくい。できるだけ地に近づくために自然に跪く体勢となった。跪くと生い茂る草の下が覗ける。地と水平の視線でずいぶんたくさんの胡桃を採取した。跪かなかったら採取量は半減していたことだろう。四つん這いは獣や虫に近く立っているのと違い川を広く感じた。
胡桃採取で十分膝をついた後、12月にクコの実を発見した。これも膝をついて採る果実であった。
「深い敬意や屈服の意を示す動作。」と広辞苑が言うのはわかる。太陽と大気と大地には驚きと感謝の念でいっぱい。なぜ胡桃があのような形なのか、なぜクコの実があのように赤くみずみずみずしいのか……ぼくらは畏れとともに戴くだけである。
ところで、跪になぜ危が入っているのか。跪は実に安定した姿勢ではないのか。
これについて漢語林は「危はひざまずくの意。危が、不安定であぶないの意味に用いられるようになったので、足を付して、ひざまずくの意味を表す」としている。

跪き胡桃を拾ふ後生楽 わたる

今年膝が摺り切れてズボン2着捨てた。来年はあらかじめズボンに継ぎはぎをしようか。
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青森山田の凄い奴

2020-12-29 05:28:22 | スポーツ


年末は全国高校ラグビーのシーズン。
先日テレビをつけると青森山田VS若狭東が始まるところであり青森山田の選手たちが円陣を組んでいた。その中にずば抜けてでかい選手がいて、高校生かと目を疑った。オールブラックスみたいに声をあげたのも凄い。
彼はNO8のリサラ・フィナウくん(2年)、トンガから来たらしい。彼がボールを持って走ると相手選手を次々薙ぎ倒す。一人で数メートルをゲインする。身長189㎝、体重114㎏。動きが優雅に見えて大きな仕事をする。若狭東に同情してしまった。まるで社会人相手にやっているようなもの。たまったものじゃないだろう。
NO8だからフィナウくんはスクラム最後尾につく。とにかく一人でかく場違いな印象すらする。60㎝はありそうな太股も見ものである。



もう一人でかいトンガからの留学生がCTBハニテリ・ヴァイレアくん。特に二人が大暴れして青森山田が若狭東に58-0と完封した。
あらためてラグビーは身体のサイズの大きいのが有利だと痛感した。リサラくんはまだあどけない顔で青年というより少年の感じ。身体と顔のアンバランスなことが不思議な魅力。
精神的に充実してきたらどれほどの選手になるのか。近くでこの太股を見たくなった。
フォワードとバックスにでかい奴が飛車角のようにいる青森山田の第2戦も楽しみ。


どこにいても目立つ青森山田のNO8
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子守りは辛いよ

2020-12-28 05:15:21 | 身辺雑記


二男夫婦と同居して3ヶ月。その子が1歳8ヶ月となった。母一人子一人のころ刺激が足りず生育が遅いと心配した妻は積極的に育児に乗り出した。ぼくにも子守りをせよと要請する。「三つ子の魂百まで」でいまなすべきことを徹底的にしないと孫に明るい未来はない、との元保母の妻の演説を聴き保育補助員にされてしまった。

アパートへ掃除に行かない日は朝から子どものトレーニングをする。朝からといってもいま寒いので10時少し過ぎに外へ連れ出す。きのうもおとといもこの子のトレーニングをした。遊ばせる場所は1キロ南の黒鐘公園か1キロ東の武蔵国分寺公園であり、中間の国分寺跡も使う。
きのうは乳母車に乗せて1キロ南の黒鐘公園(武蔵野の森林を残した公園)へ行った。途中、歌を歌う。「浦島太郎」「鉄腕アトム」「犬のお巡りさん」が定番。
妻が歌うとすこし音程が外れる。それは子どもの音感によくないといって歌はぼくにまかせる。四六時中、ぼくは歌を歌いながら歩く。それだけで結構エネルギーが要る。



乳母車のフレームを摑んで30分ほど歩いてから離れて動き出す。どういう心理か。

子どもに運動をさせる理由の一つに、夜しっかり眠らせることがある。男児はくたくたになるまで動かないと夜泥のように眠らない。するとハードな仕事をしている二男の身体が持たない。よって子どもには2時間半は運動させたいと妻がいう。もっともな見解である。
2時間半は結構長い。子どもにも気力のある日ない日はあって、乗らない日はぼーっとしていてそのうち泣き出す。
得体のしれぬ不安があるようで保護者にすがる。母でなくてもいいのが幸い。爺が歌を歌いながら心を鎮め安定させる。どうやら静かに歌を歌うのはいいようである。心が安定するとまた動き出す。




わけもなく叫びて枯野走る子よ
ぼくは子の発する声を「わけもなく」と書いたのだが本人はわけがあるのかもしれない。わけ、理由といったしかとした形を成人や社会は求めたがる。社会は出来する事件に理由をつけて分類して安心したがるが動機や情動は判然としないことばかりである。とにかく人はある行為に理由(言葉)を見出そうと必死になるがそれは虚しい。
叫びも走りも情動の噴射であろう。叫びつつ走る、情動を始末するにはきわめて合理的であると納得した。叫んで殴るのもあるわけで走るのは平和である。
子どもといると理由をあまり考えなくなる。糞尿でおむつが重いとか、喉が乾いた腹が減った、転んで痛い、といった案件を処理しあとは子どもを見て感じていればいい。




冬晴や襁褓外せば湯気ほのか
幸い外で大便に遭遇したことはまだない。おしっこは楽である。

子といると犬が来ないかといつも思う。犬を見ると「わんわん」と言って喜ぶし、ぼくも「わんわんがいた、わんわんがいた!」と言い、犬のお巡りさんを歌う。猫はにゃんこで鴉はかあかあ、とにかく擬態語、擬音語のオンパレードである。
わんわんと犬吼えるじゃ句にならないけれど、
ぞうぞうと山鳴つてをり薬掘
なる句を書いたばかりである。日本語は幼児っぽいとずっと感じている。擬態語、擬音語は情動がぬるぬるしている言葉であり幼稚である。けれどわれわれ日本人にとても親密な言葉のジャンルである。

子守りをしていて犬の種類をすこし覚えた。人が連れてきた犬のところへ孫が行くので犬の話になる。チワワは覚えたがフレンチなんとかは忘れた。子どもが乗れるようなでかい犬はまだ見ていない。
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