私に形式も知らずに探偵小説を書くとは怪しからんといふ投書があつたが、いかに日本人といふ者が猿知恵で、与へられたものを鵜のみにするしか能がないか、この投書のみならず在来の探偵小説がそれを証明してゐる。他の文学とか、音楽・絵画には、それぞれ個性とか独創を尊び、形式やマンネリズムを打破することに主点がおかれてゐるものだ。探偵小説ときてはアベコベで、先人の型に似せることを第一義としてゐる。
私は本格探偵小説が知識人にうけいれられぬ原因の最大のものは、その形式のマンネリズムにあると信ずる。つまり、一方にマカ不思議な超人的迷探偵が思ひ入れよろしく低脳ぶりを発揮し、一方にそれと対してあまりにもナンセンスなバカ探偵が現れて、わかりきつたクダラヌ問答をくりかへす。とても読めるものぢやない。
探偵作家はもつと人間を知らねばならぬ。いやしくも犯罪を扱ふ以上、何をおいても、第一に人間性についてその秘奥を見つめ、特に人間の個性について、たゞ一つしかなく、然し合理的でなければならぬ個性について、作家的、文学的、洞察と造型力がなければならぬものである。個性は常に一つしかない。然し、どの個性も、どの人も、個性的であると共に合理的でなければならぬ。いかなる変質者も犯人も、合理的でなければならぬ。
人間性には、物理や数学のやうな公理や算式はない。それだけに、あらゆる可能性から合理性をもとめることには、さらに天分が必要である。人間の合理性をもとめるための洞察力をもたないことは、作家たる天分に欠けることで、これを公理や算式で判定できないだけ実はその道が険しいのだ。
(『わが探偵小説観』 坂口安吾)