美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

偽書物の話(八十五)

2017年04月19日 | 偽書物の話

   一面の緑に覆われたなだらかな斜面を下の方へ降りて行くと、ところどころに、ペンキで白く塗られた家の建っているのが目に入る。ぽつん、ぽつんと四角い箱型の建物が、緑の草波の中にくっきりと浮かび上がって見える。白い色をした家の内では、人々が人々なりの温かい暮らしをそれぞれに送っていると分かっている。家と家とはお互いに交じり合うことがない。同じ屋根の下に人々を包容する一戸の四角い建物は、そこで暮らす彼らにとって掛け替えのない無二の宇宙だった。人を傷つけない望みの数々がそこで生成して育まれ、何ものからも守られた安息の生活が営まれているのである。
   私はたった一人、無言でこの世界を降り下って行く。翻って、元から自分に声があったとも、なかったとも断言できない。余りに緩慢と流れる空気に取り込まれ、意のままの身動きを封じられて虚空を舞うしかないのだから、音といい、声といい、私には使い道がないのだ。私の声はなくていいが、何故か、家々で囁かれるひそやかな声が私の目に届いて来る。家の居間で可憐な望みを語り合う人々の声が、流れに降りしきる花びらの様に流れて来るのである。
   時計の針が回り続けて、千年数えるか、万年を刻むかは知らない。声をたてることが無用な世界にいて、ふわりふわりと降りて行くばかりなのだ。
   怖いとは思わないが、とても気持ちが良いというのでもない。きりもなく降下しているという感触があるばかりなのだ。それは、現実の生活では絶対に出くわしたためしのないものだった。生まれた拍子に落とし忘れたもの、きっと生まれる前には深く馴染んでいたに違いないと信じたくなる感触のようでもあった。

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