美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

モーパッサンは伊達や酔狂で怪異小説を書いたのではない、だから一作一作が鬼気骨髄に沁み入る(小西茂也)

2024年01月31日 | 瓶詰の古本

 モーパッサンのいはゆる「怪異小説」は三十篇にあまり、その質量からいつて、世界の小説家のなかでもユニークな存在である。これらは何れも彼が正気の常人だつた時分に書かれたもので、始めは興味半分、彼の怪奇趣味から成つたもののやうだが、晩年になるに従つて、益々如実に迫真的に描かれてゐる。やや幽玄な趣きには乏しく、形而上学的な苦悩が描かれてゐるわけでもないが、彼の実感そのもので、技巧の加はつてをらぬ告白さながらと云つてよろしからう。幻や怪異や「見えざるもの」を目にした折り、彼の手は冷厳にその見たままをリアリスチックに写したため、鬼面人を嚇すやうなところもない代りに、ややプロザイックである。このやうな題材は彼にとつては空想ではなく、おのが体験そのままで、云はば彼の可見世界の一部でもあつたのであらう。ポーやホフマンのやうに想像力で書いたロマンチックなものとは違つて、その目で見たままのヴィジョンを写実風に記したので、より一段と薄気味がわるく、骨髄に沁み入る鬼気があつて、あの世からの風が背筋に冷く感ぜられてくる。モーパッサンが狂気のことを信ぜざるを得ないほどの切実さで、それは描かれてあるため、精神病理学者には今でも何よりの貴重文献となつてゐる。モーパッサンのリアリテに肉薄する力が如何に破壊的で凄愴で、つひには彼を狂気にまで驅つたか、その次第がまざまざとここに解るだらう。「魂の分解」から意識の分裂までは、ほんの一丁場しかないのである。

(『「モーパッサン」序説』 小西茂也)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする