美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

古来の神話・伝説から奇怪な迷信や畏怖を練り上げ、魂を強く引き付ける道具立てとして作為するもの(野上俊夫)

2022年12月11日 | 瓶詰の古本

 古来宗教といふものは、悉く多少の迷信を伴ふものである。今日文明国に行はれて居る最も進歩せる宗教と雖も、其の初めは野蛮未開なる民族の間に起れるが故に、それ等の民族の間に行はれて居た神話や伝説を其のまま経典の中に採用し、或はそれ等の幼稚なる人々に向つて法を説くが為めに作れる神怪なる比喩寓話などを、其のまま採り入れたものが極めて多い。釈迦が生れて直ちに『天上天下唯我独尊』と叫んだとか、聖母マリアが聖霊に感じて孕んだとか、キリストが水上を徒歩したとか、少しのパンや酒を沢山にしたとか、釈迦の死んだ時に鳥獣虫魚が悉く来り集まつて悲しんだとか、或は人が死後に地獄や天国に行くとかいふやうなのは、即ち此の類であつて、比喩乃至寓話としては極めて面白く、詩としては極めて美しく、又其の中に極めて大なる真理を含有して居ることは云ふまでもないが、強いて此等の記述を文字通りに解釈し、事実的に真なりと主張するに至れば、即ち明かに一種の迷信であつて、人知の進歩に逆ひ、人心を惑はすに至るのである。釈迦や基督の教へたる大なる真理は、此等の奇怪なる記述を除き去つて充分に今日に残るのであつて、それが即ち此等の聖哲の偉大なる所以であるに係らず、今日なほ此等の神話を文字通りに信ぜんとする人の少からぬことは驚くべきことである。真理の探究に志すものは、此くの如き笑ふべき迷信に対して不断の攻撃を試み、速に之れを撲滅せしむべきである。

(『眞理は最後の勝利者なり』 野上俊夫)

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