夭折した怪剛、釋迦嶽雲右エ門の番附
地位を列記してみたい。
明和七(1770)年冬場所
東方 大関〔附出し〕
明和八(…71)年春場所
西方 大関
明和八年 冬場所
番附に記載なく不出場
明和九(…72)年冬場所
西方 関脇
安永元(仝)年冬場所の改編
東方 関脇
安永二(…73)年春場所
東方 関脇
安永二年 冬場所
東方 関脇
安永三(…74)年春場所
西方 関脇
つねに西方に在った後横綱谷風と3度
対戦しており、釋迦嶽も西方ならば絶対
取組むはずはないのである。
地位を列記してみたい。
明和七(1770)年冬場所
東方 大関〔附出し〕
明和八(…71)年春場所
西方 大関
明和八年 冬場所
番附に記載なく不出場
明和九(…72)年冬場所
西方 関脇
安永元(仝)年冬場所の改編
東方 関脇
安永二(…73)年春場所
東方 関脇
安永二年 冬場所
東方 関脇
安永三(…74)年春場所
西方 関脇
つねに西方に在った後横綱谷風と3度
対戦しており、釋迦嶽も西方ならば絶対
取組むはずはないのである。