かぶれの世界(新)

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35年前の米国旅行

2020-06-28 21:20:48 | 旅行記
一時休止したブログを今日から再開します。

パソコン(PC)が壊れたがバックアップ用に買った中古PCのOSとアプリを使える状態にし普通の生活に戻れた。それではと、一昨日書斎に続く廊下の机の上の壊れたPCの電源を入れると、放置していただけなのに当たり前のように動き始めた。加えてPC休止中に実家の傷んだ部屋の修理が進み、偶然古い記憶が蘇った。

母の遺品を整理中に35年前に米国に視察旅行した時に母の為に書いた旅行記が出てきた。当時母は45才で夫に先立たれ続けて義母が逝き10年弱一人暮らしだった。工事に先立ち隣の部屋に本箱の中身を取り出して並べた。父の仕事関係の書類と一緒に、母の家計簿などの書類や写真集などを整理しその中に旅行記があった。

1985年の5月の前半に米国パソコン市場の市場調査に海外出張した。出張といっても交渉事など一切なく、日本経済新聞社とJTBが共催した平たく言えば気楽な見学旅行だった。全米の主要都市を回り関連ショーやメーカー・大学を訪問、同行した大学の先生の解説を聞き、帰国後出張レポートを提出するだけだった。

同行した職場の先輩の悪知恵で週末に帰国予定だったが、翌月曜に取引先との打ち合わせを入れた。狙いは週末をヨセミテ国立公園に社費で1泊旅行だった。国内外の国立公園に何度か行ったが、中でもヨセミテの美しい自然は素晴らしかった。後年家内を連れて再訪問し、山歩きが趣味になるきっかけとなった。

幸い会社から日程変更を咎められることはなかった。職場は技術開発部門なので、当時は製品開発が終わると次の開発機種が決まるまで時間に余裕があった。ニクソン大統領が辞職するきっかけになったウォーターゲート事件に興味を持ち、数週間図書館に入りびたりになり関連する書物を読破したこともある。

85年といえばバブル時代が始まった頃で大企業は経営的に余裕があったと思う。私たち技術者はかなり自由に時間を使えた。ただし、昨今の残業80時間で酷使なんて思ったことはない。最長200時間近く残業と聞いても驚かなかった。好きな技術開発をやるのが楽しくてたまらなかった。そういう時代だった。

思い返せば会社には計画があったのかもしれない。数年後に私は海外取引の技術担当責任者になり、更にその2年後には海外事業の商品計画責任者になった。更にこの旅行のちょうど10年後には米国工場の運営を任され米国に赴任した。母への旅行記を見ながら当時を思い出し、会社に図られたのかもと疑った。

旅行記は妹の写真と一緒に大事にしまってあった。45才で寡婦になり田舎の大きな農家に独り住んだ母の気持ちを思った。当時から仕事に熱中しそれをいいことに家族も一人暮らしの母もホッタラカシにしたと改めて後悔の念が沸いた。蛇足ながら義弟に写真を見せると長男と当時の私はそっくりだそうだ。■
コメント
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