かぶれの世界(新)

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私の失われた10年

2012-04-20 21:31:56 | 日記・エッセイ・コラム

2002年に欧州12カ国が統一通貨を導入して10年目の今年、9カ国の格付けが引き下げられ欧州の債務危機の最悪期は脱したものの依然として沈静化したとは言えない状況にある。金融と財政の構造的な問題が表面化してそれが弱みとなり、ユーロ導入時のバラ色の期待は萎んでしまった。実は、私も早期退職後10年目に入った。ここで9年間の新生活を振り返ってみたい。

肉体は衰えたが健康は維持

20代半ばで早世した祖父は兎も角、父が死んだ50代半ばで退職した。当時の私の生化学指標は最悪で、10年後に60台半ばでまだ元気に生きている自分の姿を想像できなかった。血圧やコレステロールが危険値を越え、何度も通風に悩まされたが大事に至らず、昨年のガン騒動も乗り越えた。退職の大きな目標だった母より先に逝く親不孝だけは避けられそうだ。

退職直後は連日ジムに通い、週3回のペースでジョギングを行って、健康の回復に集中した。半年後には20代頃の体重に戻し、血圧が正常値になった。ジョギングの途中で昔の仲間に偶然会って誘われ、山登りからバドミントンに乗り換えて以後私の生甲斐の一つになった。体力を維持するトレーニングを工夫し、若い人と全力で勝負して汗をかくのは週1回の楽しみだった。

だが、時々ハードにやり過ぎて故障した。以前と同じようにトレーニングしても膝や肩、腰などに痛みが出るようになった。退職5年後頃からバドミントンのような競技スポーツで体力の衰えを実感し始め、痛風やガン騒動などから復帰するたびにいつまで続けられるか自問自答するようになった。次はスポーツだけでなく普通の農作業や家事等が出来なくなる日だと今覚悟している。

絵に描いた餅だった海外ロングステー

早期退職時は、ユーロ導入時の欧州諸国のような高揚した気分もあった。長生きできないだろうという、先のことを考えられない気分を反映してか、年の1/3は海外でロングステー、1/3は東京で仕事、1/3は田舎生活という、やや刹那的で夢のようなプランを考えた。振り返るとロングステー候補地を旅行して調査し、移住計画を作る時が一番楽しかったと思う。

ロングステーの候補地は言葉の通じる英語圏しか考えなかった。米加豪NZなどの候補地を旅行し、最終的にNZがベストだと思った。だが、帰国後に印象に残ったのは家内と大喧嘩したクウィーズタウンと、重い雲に押し潰されそうなモノクロ風景のクライストチャーチだった。元々気乗りしない家内を説得する前に私自身の熱が冷めた。

都会生活も誤算続き

東京では会社勤め時代の経験を生かしてボランティア活動をする積りだった。海外で仕事をした経験があるので海外協力事業に貢献しようと思い、あるNPOに登録したが中々お呼びかからなかった。最初の貢献は海外とは関係のない都の外郭団体の紹介で中小企業の経営コンサルタントを短期間やった。この仕事はお給料を頂いたのでボランティアとは言えないかもしれない。

その後仕事を待つ間、私の住む市のパソコンとかIT教育活動のボランティア講師や補助の活動を数年続けた。退職当時は私の知識は最新だったが、OSはウィンドウズXPからVista・ウィンドウズ7に変わり、検索マシンはYahooからGoogle、メーラーはGメールやSNSに変わった。私の知識はあっという間に古びてしまい、最新の知識を教えられない情けない状況になった。

母の介護が全てをリセット

家内の理解は得られず熱意を失った生煮えの海外ロングステー計画とボランティア活動は、退職5年目頃に母の健康が急速に悪化して要介護となり年の半分を田舎で過ごす事態に至り、一気に事情が変わった。継続して活動できないとなればそれまで考えたロングステーもボランティアも全てリセットせざるを得なくなった。

最初はNPOの助けを借りて実家で介護生活から始まった。暫らくして要介護の認定を受けて本格的な自宅介護を始めたが、次々と変わる状況に追いつくのに精一杯だった。自宅介護を2年続けた後、脳梗塞になり市立病院に入院、その後リハビリ専門医院に転院、最後に介護付き老人ホームに入居した。その間に我国の老人介護制度を勉強することになった。予行演習をしたと思う。

失われた10

この間にリーマンショックと欧州危機の二度の危機に襲われ、投資に回した私の退職金も山谷を経験した。ITバブルが弾けて以降長い上げ相場が続きリーマンショックの前が最もパフォーマンスが良かった時期だ。その直後に経験したことのない暴落で個人資産の危機に追い込まれた。その頃の私は平静を保っていた積りだが、見た目にも落込んでいたと後から友人にからかわれた。

だが翌年には意外に早く元本回復した。リーマンショックに比べると欧州危機の個人資産へのダメージは少なかった。リーマンショック後に見直したポートフォリオが良かったのかもしれない。今日現在、私の金融資産は退職した頃と変わらない。結局のところ何もせず利率ゼロの定期預金をしたのと変わらなかった。個人資産から見ると正に失われた10年だった。だが、年金資産を食い潰したAIJよりはマシだったと胸を張りたい。

残りの人生の準備

田舎生活を続けるうちに、それまで母がやってきた実家から田畑や山林の手入れまで私がやらざるを得なくなった。それは単に農作業だけではなく、農協や市役所・森林組合に相談・届出をし、ご近所との付き合いからお寺や神社の行事を含むもので、予想もしないフルスペックの田舎生活に直面することになった。退職時の夢とは全く違う泥臭い体験だった。

母は人生の最後の部分を生きているが、一方この10年で子供達は独立して彼等の人生を始めた。この間に娘と長男が社会人になり結婚し、待望の孫も生まれた。末の息子も通院しながら訓練を受けて仕事をする準備をしている。私はこのブログに記事を投稿し、パフォーマンスゼロでも頭をフル回転し投資を続けたのは、最高のボケ防止になった。この失われたかもしれない10年の間に、人生の残りの部分の基盤作りをしたと総括して終りたい。■

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