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坂口安吾『堕落論』を読む 1 コロナ感染のゆくえ

2021-01-10 22:19:44 | 日記
A.時代を描いて今も響くこと
 小説家という存在が世間の注目を集め、その作品や発言が文学などとは無縁の大衆にも、日常的に巷の話題になるような時代が、大戦争が敗北で終ったあとの「昭和20年代」だった。この時代、人々は食糧も満足に得られない貧しさの中で暮らし、ラジオはあったがテレビはなく、新聞であれ雑誌であれ、活字を読むことにも飢えていた。そこに登場した歯に衣着せず、戦前には語れなかったような赤裸々な文章を書きまくる一連の作家の言葉はおおいに受けた。
敗戦後の混乱期、太宰治、織田作之助などと並んで「無頼派」と呼ばれて時代の寵児となった作家、坂口 安吾(1906〈明治39〉年10月20日 - 1955〈昭和30〉年2月17日)は、「桜の森の満開の下」小説のみならず評論や随筆でも多くの作品を書き、戦後の10年を激しく生きて48歳で亡くなった人である。新潟市の出身で本名は坂口炳五。代々の地主旧家で父は憲政党の衆院議員も務めたが、しだいに没落。五男の安吾は、新潟中学から東京の豊山中学(現日大豊山高校)に転校し、そこが真言宗の学校だったこともあって、仏教と文学に傾倒し、1926(大正15)年、東洋大学印度哲学倫理学科に入学。仏教書や哲学書を読みあさる日々に神経衰弱に陥り、サンスクリット語やパーリ語などの語学習得に没頭するなかで、ラテン語からフランス語学習に向かう。アテネ・フランセでフランス語習得。
   東洋大卒業後、1931(昭和6)年から小説を発表。ファルス的ナンセンス作品「風博士」で文壇に注目されたが、その後歴史小説などの作品は書くものの、流浪の生活に低迷した後、戦争中の1942(昭和17)年に母の死と、5年間交際した恋人との絶縁。その3月に評論「日本文化私観」を『現代文學』に発表。6月に「真珠」を『文藝』に発表。「真珠」は真珠湾攻撃の特攻隊の勇士・九軍神を主題にした小説で、彼らの死を目前にしたゆえの透明な明るさと、安吾自身の飲んだくれの無頼の生活を対比させた作品である終戦直後に発表した『堕落論』『白痴』により時代の寵児となった。純文学のみならず、歴史小説や推理小説も執筆し、文芸や時代風俗から古代歴史まで広範に材を採る随筆など、多彩な活動をした。
 新人文学賞である芥川龍之介賞の選考委員を第21回から第31回の間務め、松本清張、辻亮一、五味康祐などの作家を推した。歴史小説では黒田如水を主人公とした「二流の人」、推理小説では「不連続殺人事件」がよく知られる。フランス文学の翻訳出版、囲碁、将棋におけるタイトル戦の観戦記など、多彩な活動をした一方で、気まぐれに途中で放棄された未完、未発表の長編も多く、小説家として大成したとはいえず、ヒロポン薬物に浸り、1955年桐生の自宅で脳出血で急死、というのもこの人らしい。 
  「堕落論」は、敗戦の翌年1946年4月に雑誌『新潮』に載ったエッセイである。12月には続編「続堕落論」も「文学季刊」に発表された。いまこれは岩波文庫で、安吾の他のエッセイと共に一冊になっている。コロナ禍の新年、しばらくこれを読んでみようと思う。冒頭の語句「醜(しこ)の御楯(みたて)といでたつ我は、大君(おおきみ)のへにこそ死なめ…」は、当時の日本人には説明不要のいまわしい記憶に結びつくのだが、戦後生まれのぼくたちには、意味もわからぬ呪文だ。

 「半年のうちに世相は変った。醜(しこ)の御楯(みたて)といでたつ我は、大君(おおきみ)のへにこそ死なめかへりみはせじ。若者達は花と散ったが、同じ彼等が生き残って闇屋(やみや)となる。ももとせの命ねがはじいつの日か御楯とゆかん君とちぎりて。けなげな心情で男を送った女達も半年の月日のうちに父君の位牌にぬかずくことも事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。人間が変わったのではない。人間は元来そういうものであり、変ったのは世相の上皮だけのことだ。
 昔、四十七士の助命を排して処刑を断行した理由の一つは、彼等が生きながらえて生き恥をさらし折角の名を汚(けが)す者が現れてはいけないという老婆(ろうば)心(しん)であったそうな。現代の法律にこんな人情は存在しない。けれども人の心にこの傾向が残っており、美しいものを美しいままで終らせたいということは一般的な心情の一つのようだ。十数年前だかに童貞処女のまま愛の一生を終わらせようと 大磯(おおいそ)のどこかで心中した学生と娘があったが世人の同情は大きかったし、私自身も、数年前に私ときわめて親しかった姪の一人が二十一の年に自殺したとき、美しいうちに死んでくれて良かったような気がした。一見清楚(せいそ)な娘であったが、壊れそうな危なさがあり真逆様(まっさかさま)に地獄へ堕(お)ちる不安を感じさせるところがあって、その一生を正視するに堪えないような気がしていたからであった。
 この戦争中、文士は未亡人の恋愛を書くことを禁じられていた。戦争未亡人を挑発堕落させてはいけないという軍人政治家の魂胆で彼女達に使途の余生を送らせようと欲していたのであろう。軍人たちの悪徳に対する理解力は敏感であって、彼等は女心の変り易さを知らなかったわけではなく、知りすぎていたので、こういう禁止項目を案出に及んだまでであった。
 いったいが日本の武人は古来女子の心情を知らないと言われているが、之(これ)は皮相の見解で、彼等の案出した武士道という武骨千万な法則は人間の弱点に対する防壁がその最大の意味であった。
 武士は仇討(あだうち)のために草の根を分け乞食(こじき)となっても足跡を追いまくらねばならないというのであるが、真に復讐(ふくしゅう)の情熱をもって仇敵(きゅうてき)の足跡を追いつめた忠臣孝子があったであろうか。彼等の知っていたのは仇討の法則と法則に規定された名誉だけで、元来日本人はもっとも憎悪心の少い又永続しない国民であり、昨日の敵は今日の友という楽天性が実際の偽らぬ心情であろう。昨日の敵と妥協否肝胆相照すのは日常茶飯事であり、仇敵なるが故に一層肝胆相照らし、忽(たちま)ち二君に仕えたがるし、昨日の敵にも仕えたがる。生きて捕虜の恥を受けるべからず、と言うが、こういう規定がないと日本人を戦闘にかりたてるのは不可能なので、我々は規約に従順であるが、我々の偽らぬ心情は規約と逆なものである。日本戦史は武士道の戦史よりも権謀術数の戦史であり、歴史の証明にまつよりも自我の本心を見つめることによって歴史のカラクリを知り得るであろう。今日の軍人政治家が未亡人の恋愛に就いて執筆を禁じた如(ごと)く、古(いにしえ)の武人は武士道によって自らの又部下達の弱点を抑える必要があった。
 小林秀雄は政治家のタイプを独創をもたずただ管理し支配する人種と称しているが、必ずしもそうではないようだ。政治家の大多数は常にそうであるけれども、少数の天才は管理や支配の方法に独創をもち、それが凡庸(ぼんよう)な政治家の規範となって個々の時代、個々の政治を貫く一つの歴史の形で巨大な生き物の意志を示している。政治の場合に於(おい)て、歴史は個をつなぎ合せたものではなく、個を没入せしめた別個の巨大な生物となって誕生し、歴史の姿に於て政治も亦巨大な生き物の意思を示している。政治の場合に於て、歴史は個をつなぎ合わせたものではなく、個を没入せしめた別個の巨大な生物となって誕生し、歴史の姿に於て政治も亦巨大な独創を行っているのである。この戦争をやった者は誰であるか、東条であり軍部であるか。そうでもあるが、然し又、日本を貫く巨大な生物、歴史のぬきさしならぬ意志であったに相違ない。日本人は歴史の前ではただ運命に従順な子供であったにすぎない。政治家によし独創はなくとも、政治は歴史の姿に於て独創をもち、意欲をもち、やむべからざる歩調をもって大海の波の如くに歩いて行く。何人が武士道を案出したか。之も亦歴史の独創、又は嗅覚であったであろう。歴史は常に人間を嗅ぎだしている。そして武士道は人性や本能に対する禁止条項である為に非人間的、反人性的なものであるが、その人性や本能に対する洞察の結果である点に於ては全く人間的なものである。
 私は天皇制に就いても、極めて日本的な(従って或いは独創的な)政治的作品を見るのである。天皇制は天皇によって生みだされたものではない。天皇は時に自ら陰謀を起こしたこともあるけれども、概して何もしておらず、その陰謀は常に成功のためしがなく、島流しとなったり、山奥へ逃げたり、そして結局常に政治的理由によってその存立を認められてきた。社会的に忘れた時にすら政治的に担ぎ出されてくるのであって、その存立の政治的理由はいわば政治家達の嗅覚によるもので、彼等は日本人の性癖を洞察し、その性癖の中に天皇制を発見していた。それは天皇家に限るものではない。代わり得るものならば、孔子家でも、釈迦家でもレーニン家でも構わなかった。た代わり得なかっただけである。
 すくなくとも日本の政治家たち(貴族や武士)の永遠の隆盛(それは永遠ではなかったが、彼等は永遠を夢みたであろう)を約束する手段として絶対君主の必要を嗅ぎつけていた。平安時代の藤原氏は天皇の擁立を自分勝手にやりながら、自分が天皇の下位であるのを疑りもしなかったし、迷惑にも思っていなかった。天皇の存在によって御家騒動の処理をやり、弟は兄をやりこめ、兄は父をやっつける。彼等は本能的な実質主義者であり、自分の一生が愉しければ良かったし、そのくせ朝儀を盛大にして天皇を拝賀する奇妙な形式が大好きで、満足していた。天皇を拝むことが、自分自身の威厳を示し、又、自ら威厳を感じる手段でもあったのである。
 我々にとっては実際馬鹿げたことだ。我々は靖国神社の下を電車が曲がるたびに頭を下げさせられる馬鹿らしさには閉口したが、或種の人々にとっては、そうすることによってしか自分を感じることが出来ないので、我々は靖国神社に就いてはその馬鹿らしさを笑うけれども、他の事柄に就いて、同じような馬鹿げたことを自分自身でやっている。そして自分の馬鹿らしさには気づかないだけのことだ。宮本武蔵は一条寺下り松の果し場へ急ぐ途中、八幡様の前を通りかかって思わず拝みかけて思いとどまったというが、吾神仏をたのまずという彼の教訓は、この自らの性癖に発し又向けられた悔恨深い言葉であり、我々は自発的にはずいぶん馬鹿げたものを拝み、ただそれを意識しないというだけのことだ。道学先生は教壇で先ず書物をおしいただくが、彼はそのことに自分の威厳と自分自身の存在すらも感じているのであろう。そして我々も何かにつけて似たことをやっている。
 日本人の如く権謀術数を事とする国民には権謀術数のためにも大義名分のためにも天皇が必要で、個々の政治家は必ずしもその必要を感じていなくとも、歴史的な嗅覚に於て彼等はその必要を感じるよりも自らの居る現実を疑ることがなかったのだ。秀吉は聚楽に行幸を仰いで自ら盛儀に泣いていたが、自分の威厳をそれによって感じると同時に、宇宙の神をそこに見ていた。これは秀吉の場合であって、他の政治家の場合ではないが、権謀術数がたとえば悪魔の手段にしても、悪魔が幼時の如くに神を拝むことも必ずしも不思議ではない。どのような矛盾も有り得るのである。
 要するに天皇制というものも武士道と同種のもので、女心は変わり易いから「節婦は二夫に見えず」という、禁止自体は非人間的、反人性的であるけれども、洞察の真理に於て人間的であることと同様に、天皇制自体は真理ではなく、又、自然でもないが、そこに至る歴史的な発見や洞察に於て軽々しく否定しがたい深刻な意味を含んでおり、ただ表面的な真理や自然法則だけでは割り切れない。」坂口安吾「堕落論」(『堕落論・日本文化私観』岩波文庫)原著発表は1946年4月『新潮』、pp.217-222. 

 当時の読書家は、これを読んで「痛快!」と留飲を下げただろうと思う。あんなにみなが神聖視していた天皇など、時の政治家が自分勝手に利用する無力な人形にすぎず、忠義の英雄と喝采を送っていた赤穂義士全員を切腹させたのは、生きながらえさせれば、どのみち我欲と醜聞で人を幻滅させるのを計算していたというのだから。戦争に負けて誇りも自尊心も地に堕ちた当時の日本人に、安吾の言葉は「よく言ってくれた!これが俺たちに言えなかった本音だ」と、びんびん心に響いたに違いない。それは「あの戦争」という現実を、誰もが痛いほど、いやほんとうに痛みを耐えて実感していた時代だったからこそ、なのだ。しかし、人々はまもなく、平和とアメリカ的デモクラシーの巧妙な罠に身を委ねていく。


B.どこまで続くコロナ感染の不安
 緊急事態宣言で東京の街は、前回の4月ごろのように店舗は閉まり繁華街に人影まばらになったかといえば、全然そんな風景はなく、店は開き人がたくさん歩いている。感染の拡大は、4月ごろとは違ってはるかに大規模に拡大しているのに、ぼくたちの心がけの方は、もう何が起こっても驚かないほど事態に慣れてしまった。もちろん、それは感染者や死者の増加がもう防ぎようもなく広がってしまうことや、医療崩壊や経済へのマイナスが加速する、ということは知っているのだが、では何をどうすれば確実に改善できるのか、政府や行政がほとんどお手上げらしいことも見えている。中国のように、私権も行動の自由も権力で抑え込めば、感染は防げるのだろうが、日本でそれをやるのはさすがに無理だろう。結局、ワクチンがまだ完全に普及できない以上、能動的に何かをするのではなく、とにかく感染する恐れのあることはやらない、しか手がない。

「社説余滴:社会の土台 失わないために 石川尚文
 新型コロナウイルス感染症への対応で、再び緊急事態宣言が出た。今年に入ってすでに死者は500人近い。英国や南アで見つかった変異株は感染力を強めているとの分析もある。残念ながら厳しい冬になった。
 前回の宣言が出た4月7日、筆者は高熱を出し自宅の一室にこもっていた。3月末に発熱したが、保健所に電話がつながらず、検査も受けられない。4月5日に近所の診療所で受診。聴診器をあてても、のどをみても異常はない。だが、念のためにと撮ったCTには、新型コロナの肺炎とみられる「すりガラス状」の影がはっきり写っていた。
 翌日にPCR検査。夜には息苦しさを感じ、不安で眠れなくなった。3日後の4月9日に陽性が確定し、入院。1週間前には「感染症と経済/前例なき事態に備えを」という社説を書いていたが、自分も前例なき事態だったわけである。
 症状は入院時に山を越しており、翌週に退院した。感染経路は不明のままだが、幸い後遺症もなく今は健康だ。診療所や保健所、入院した病院の皆さんには感謝の言葉しかない。
 当初の不安や、検査や診療にたどりつけたときの安心感を思い起こすと、医療・保険の体制に限界がきている現状は、社会の土台が失われる事態と感じる。現場にこれ以上の負荷をかけないためにも、感染抑止に全力を挙げるべきときだ。
 確かに経済活動との兼ね合いは生じる。だが、医療や防疫への注力と、打撃を受ける産業への丁寧な支援は、社会的にも経済的にも十分に報われる「投資」と考えるべきだろう。
 振り返れば、感染症のリスクに早くから警鐘を鳴らしていたビル・ゲイツ氏は2015年の「TED Talks」での講演で、ワクチン開発など感染症への備えにかかる費用は「予期されうる被害に比べれば、たいしたことのない額だと確信している」と発言していた。「世界をより公正で安全な場所にする」という大きな利益を生む投資だとも述べている。
 いまやウイルスの脅威は明らかで、具体的な知見も増えた。衆知を集めて様々なシナリオを想定し、先手を打って備える。そのことが、社会として必須かつ可能な局面のはずである。」朝日新聞2021年1月10日朝刊、8面オピニオン欄。

 おそらく、安倍政権末期まで、政府中枢は、欧米に比べれば日本のウイルス感染は小規模にとどまっていて、とくに強力な対策をするよりは、コロナ終息後にむけた経済活動の維持・振興に力を注げばよい、と判断していただろう。しかし、そのために第2次、第3次の感染拡大に対処するのが遅れ、一気に拡大した感染者数の増加に狼狽しているのが現在の状況ではないか。予測不可能な事態に、なにを優先的に準備し決定するかは、大震災・原発事故のときもそうだったように、「不測の事態」だから何もできなかったのではなく、「予測しなかった」手抜かりの責任はなかったとはいえない。
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