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ケネス・クラーク「ザ・ヌード」を読む 3  危機の構図

2017-09-07 16:29:52 | 日記
A.ケネス・クラーク「ザ・ヌード」を読む 3
 小学6年生ぐらいのときだったと思う。近くの大学の傍に一軒古本屋があって、いろんな本が積んであったので、ときどき覗いて美術全集のようなものをめくった。西洋美術の図版の隣に浮世絵全集もあって、北斎とか広重とか絵師別に色刷りの画集はきれいなので、ぼくは片端から見ていると、隣に「春画」という本があった。これも浮世絵なのだが、中を見てドキッとした。男女の絡みを描いた「枕絵」だった。前から立ち読みをする小学生に注意を払っていた店主がやってきて本を取り上げ、「これは子どもの見るもんじゃない!帰りなさい」と叱られた。ポルノグラフィというものがどういうものか、ぼくはまだよく知らなかったが、大人が秘密にして喜んでいる「わいせつ画」というものを、安物の週刊誌の挿絵などから推測して、ただ女性の裸が描いてあるだけで、絵画としても俗悪なものだろうと思っていた。
 しかし、浮世絵は線だけで描く版画で、春信や清長や歌麿の美人画は洗練された美しさをもっていた。卑猥や俗悪というものとは無縁な美だと感じていた。その浮世絵師たちが、こういうものも描いていた。江戸浮世絵の人物表現は洗練されていたが、「春画」は男女の絡みを大写しにして性器まで描きこんであるのが、普通の絵とは違っている。性交場面を絵にするのは、確かに江戸時代でもタブーだったらしいが、一方でこういうものがたくさん作られていたのだ。子どもが「劣情をもよおす」悪影響を防ぐため禁書にするとすれば、大人になれば問題ないのか?古本屋でとりあげられたぼくは、どうしてこんなものが描かれたのか知りたくなって、図書館で絵画事典を探して調べてみた。
 わずかな記述しかなかったが、江戸の「枕絵」というのはどうやら、無知な青少年に「性の教科書」として活用されていたらしい、ということがわかった。「劣情をもよおす」ためではなく、若い男女が密室でどういうことをするのか、を指南するための教材なのだった。日本ではこのきわめて実践的な目的で描かれた「春画」が、浮世絵師たちの美的感性を反映して、今では美術品としての価値も西洋で認められつつあるともいう。
 しかし、クラークのヌード論では、西洋の裸体画はそういう目的ではなく、もっとある意味では積極的な、美学的価値、あるいは哲学的な背景を持っているという。その源流は、ギリシャ古典彫刻にある。

 「こうしてわれわれは再びギリシャに立ち帰った。そこで、この不壊のイメージの形成に貢献したと推測されるギリシャ人の心性の、幾つかの特殊な点について考察してゆきたい。
 第一の明瞭な特質は、数学に対するギリシャ人の情熱である。ギリシャ的思考のあらゆる分野で、われわれは計量可能な比例に寄せる彼らの信頼(これを最後まで分析すれば神秘的宗教にゆきつく)を目にする。すでにピュタゴラスの時代から、それは明瞭な幾何学的な形態を与えられていた。あらゆる芸術は信仰を基盤としている。調和ある数へのギリシャ人の信仰は、必然的に絵画や彫刻に表現の場を見出した。だがどのようにして表現したかは明らかでない。いわゆるポリュクレイトスの「カノン」は記録に残っていないし、プリニウスその他古代の少数の記述者によって今日に伝えられている比例の基準というものは、きわめて初歩的な部類に属している。ギリシャの彫刻家たちは、当時のギリシャの建築家と同じように、精緻で高度に完成されたシステムに精通していたであろう。だがその実態についてはまったくといっていいほど手がかりがつかめないのである。ただヴィトルヴィウスのなかにひとつの短く曖昧な記述があって、それが古代にどんな意味合いを含んでいたにせよ、ルネッサンス期には決定的な影響を及ぼしたのであった。ヴィトルヴィウスの第三の書は神殿建築の基準に関して述べたものだが、その冒頭で彼は不意に、これらの建築は人間の比例をもたなければならぬと語っている。正確な人間の比例について指示らしいものを与え、それから、人体は比例の模範型である、なぜなら手や足を広げると人体はかの「完全な」幾何学的形態たる正方形と円にぴたりと嵌まりこむからだ、と述べ立てている。この一見単純にみえる提言が、ルネッサンスの人々にどれだけ大きな意味をもったか、いくら誇張してもしすぎにならないだろう。彼らにとってそれは、単なる便利な基準を遥かに超えたもの、ひとつの哲学全体の基礎をなした。これにピュタゴラスの音階を加えると、感覚と秩序とを結ぶ絆、美の有機的基礎と幾何学的基礎とを結ぶ絆、つまりかつて哲学者の美的判断の基礎となったもの(そしておそらくは今もなおそうであるもの)がかなり正確に把握できるように思われる。爾来、人像が方形や円の中に立っている図形が多くつくられ、それが十五世紀から十七世紀にかけて出た建築論とか美学論の挿絵となるわけである。」ケネス・クラーク『ザ・ヌード 理想的形態の研究』ちくま学芸文庫、高階秀爾・佐々木英也訳、2004.(原著1956)pp.035-037.

 古代ギリシャの裸体への考え方は、中世のキリスト教世界では影を潜めてしまった。それが、16世紀のルネッサンスの人々によって再発見される。そのことの意味はかなり本質的に重要だった。ひとつは美という価値は、幾何学的比例の秩序として現れるというアイディアで、これが近代で合理的・数学的な解釈をもたらす。だが、たんに比例的秩序を厳格にすると、いろいろと実作上の無理ももたらす。

「周知のようにフランシス・ベーコンは「優れた美というものには、どこか必ず比例に妙なところがある。アペㇽレスとアルブレヒト・デューラーとを比べてみた場合、どちらの方が浅はかであるか、優劣をつけがたい。一方が幾何学的比例によって人物をつくろうとすれば、他方はさまざまの顔から最良の部分をとってひとつの立派な顔をつくろうとする」と語った。このきわめて怜悧な観察はデューラーに対して公正を欠くし、またベーコンがわれわれの多くと同様に人体比例に関する彼の著書を読まず、ただ図版だけを眺めていたことを暗示する。というのもデューラーは一五〇七年以後、人体に幾何学的図式を押しつける考えを棄て、理想的な比例関係を自然から引き出そうとしているからである。出て来た結果は当然ながら、古代作品の分析結果とはやや異なったものであった。そして彼は序文のなかで、自分は絶対的な完全の範例を提供するものでない旨を強く力説している。
 「最も美しい人間のかたちとはいかなるものであるべきか、その決定的な判断を下せるような人間など、この世にいるものではない。神のみぞこれを知り給う……こと美に関しては〈良い〉と〈より良い〉と、たやすく区別することができない。一方がより逞しく、他方がより瘦せた、相互に何ら似るところのない、ふたりの異なった人物を描くことなら、苦もなくできるだろう。だがそのどちらの方が美的に優れているか判定することは、われわれの手に余るものである。」
 このようにしてこのきわめて不屈で卓越した理想的比例の構成家は、生涯の半ばでこれを放棄してしまった。そして〈ネメシス〉以後の彼の作品は、裸体像の表象は分析可能な比例だけに依存するものではないことの証明となっている。しかしながらギリシャ彫刻の見事に図式化された人像に接するとき、われわれはかつて何らかのシステムが存在していたと確信せざるを得ない。これまで裸体像について真面目に考えた芸術家や著述家は、ほとんどすべてが、そこに計量的な言葉で表現できる構成原理のごときものがあったはずだと断定している。そして私自身、なぜ写真から満足感が得られないかの説明を試みた際に、相互に明確な関係で結ばれた単純な造形的要素が感じとられないためだと語った。芸術家が数学的法則のみによって美しい裸体を組み立てることができないのは、音楽家がそれだけで美しいフーガを作曲できないのと同断であろう。だがこれらの法則を無視することはできない。法則は芸術家の心の奥底に、あるいは指の動きの中に、宿っているにちがいない。結局のところ芸術家は、建築家と同様に、数学的法則に従っているのである。
 「ディペンデンツァ」(Dipendenza)—―これは、裸体像の素描家として、また建築家として比肩するものなきミケランジェロが、裸体像と建築という二つの秩序の間に相関関係を感じ取り、この感覚を表わすために使った言葉である。これから先、本書において、私は頻繁に建築的なイメージを利用するであろう。裸体像は建物に似て、理想的図式と機能的必要性との均衡の表現にほかならない。建築家が屋根を支え損なったり扉や窓を忘れたりできないように、裸体像芸術家は人体各部の構成物を忘れることは許されない。しかしその形状や組み合わせのもつヴァリエーションは驚くべく広大である。これを物語る最も印象的な例は、言うまでもなく、ギリシャ的な女性観とゴシック的な女性観の間にみられる比例の変化であろう。確実と思われる古典的比例の基準(カノン)が今日ごくわずか知られているが、そのひとつは、女性裸体像に関して、二つの乳房の間の距離と低い位置の方の乳房から臍までの距離、さらに臍から両腿の付け根までの距離が、尺度単位として同じ長さをもっていたことである。こうした構成が古典期のあらゆる人像やそれらを模した西暦一世紀までのほとんどすべての像に慎重に維持されていることは、その気になればすぐ気がつく。これを十五世紀の典型的な裸体像であるウィーンのメムリンクの《エヴァ》と比較していただきたい。人体を構成する要素は、自然ながら同じである。依然として、女体の基本形式は二つの円球をのせた卵型の胴体にちがいない。だがこの卵型は信じ難いまでに長く伸び、二つの球は悲しいまでに小さい。二つの乳房間の距離という尺度単位の見地からみれば、臍が古典的な構成の場合よりも正確に二倍だけ体の下方についていることがわかる。彼女の大層長い胴体は、途中が肋骨とか筋肉のようなもので妨げられていないためにますます長たらしくみえる。各部分の形態は、それだけでまとまった塊りとして把握されず、何かゴムのような物質ででも出来ているかのように、互いに引っ張り合っている感じを与える。こうしたゴシック的裸体像はふつう「自然主義的」とよびなされているが、果たしてメムリンクの《エヴァ》は、古代の裸体像よりも平均的な女性の姿に近いであろうか(自然主義的とは平均的という意味であるから)。いずれにせよ、作者メムリンクの意図がそんなところにあったはずはない。彼のねらいは、時代の理想と合致するような人体、当時の人びとが見たいと願っているような輪郭をもつ人体を、創り出すことにあった。しかも肉と霊との何か不思議な相互作用の結果と言うべきか、人体はこの長い腹部の曲線を通じて、後期ゴシックの尖塔アーチのリズムを身につけることになったのである。」ケネス・クラーク『ザ・ヌード 理想的形態の研究』ちくま学芸文庫、高階秀爾・佐々木英也訳、2004.(原著1956)pp.040-045.

 メムリンクの《エヴァ》というのは、若い女性の全裸体を描いているのだが、これが飾られているのは教会堂の祭壇で、聖書の「アダムとイヴ」を示している。教会で、神の教えと聖書の物語を信徒に語るための図像だから、人々はこの裸体に卑猥な目を向けることはありえない。また、そのようなものとしてメムリンクは描いている。

「十九世紀のアカデミックな裸体像は、もはや真に人間的な欲求や経験を具現させず、さればこそ生命から脱落している。これらは、功利主義的なこの世紀の芸術や建築にうるさくつきまとった、幾百の価値を失ったシンボルの一つであった。
 裸体像は古典主義的ルネッサンス期の最初の百年間に、絢爛と花開いた。古代的形象に対する新しい渇仰と、象徴化や擬人化という中世的習慣とが重なり合ったとき、花開いたのである。当時は、どれほど崇高なる概念も裸の身体で表わし得ぬものはなく、どれほど取るに足らぬ器物でも、人間の形を与えてより美しくならざるものはなしと思われた。その階梯の最上段にはミケランジェロの《最後の晩餐》が位し、最下段には扉ノッカー、燭台、さらにはナイフやフォークの柄が並んでいた。前者に対して、剝き出しのはだかはキリストや聖者たちにふさわしくないと反対することができよう(事実しばしば反対された)。パオロ・ヴェロネーゼが《最後の晩餐》の絵に酔っぱらいやドイツ人を描き入れたために審教裁判所から詮議されたときに、彼が抗弁に援用したのもこの点である。これに対して主任審問官は不滅の回答を与えた。「ミケランジェロの描く人物の場合、精神的でないものがひとつもないことを君は知らんのか。-non vi è cosa se non de spirito」。一方、後者に対しては、食物を切ったり扉を叩いたりするときにはだかのヴィーナスごときものがわれわれの手にある必要はない、と反対することができよう(事実しばしば反対された)。これに対して、ベンヴェヌート・チェㇽリーニなら、人体はあらゆる形態の中で最も完全であるから、いくら見ても見すぎにならぬと答えたであろう。これら二つの極端の間に、絵や彫刻、ストゥッコやブロンズや石で表わされた広大な裸体像の森が広がっていて、十六世紀建築の隙間という隙間をくまなく埋め尽くしたのであった。
 こうした飽くなき裸体愛着の情は、二度と歴史に戻って来そうもない。本質追求とか専門分化が偏重される現代とはきわめて異質な信仰と伝統と衝動の融合が、この感情を生み出しているからである。にもかかわらず、審美感覚の支配する新しい自治王国においても、王座を占めるものは依然として裸体である。偉大な芸術家たちは形態構成の問題に取り組むとき、つねに裸体を一種の範型として努力して来た。そして今日なお裸体は、絶対的な美というものが実在するという信念を表明する際の手段となっている。スペンサーは『美に捧げる賛歌』のなかでフィレンツェの新プラトン主義者の言葉をそのまま繰り返すように、「なぜなら魂とは形態のことであり、肉体を創り出すものであるから」と書いた。たとえ実人生においてこの説の真偽に決着のつくことがないにせよ、芸術には完全にあてはめることができる。裸体は今もなお、物質が形式に変貌する最も完璧な範例であることに変わりはない。
 二度と再びわれわれは、禁欲を試みた中世キリスト教のように肉体を拒絶することはないだろう。もはや肉体を崇拝していないにしても、これと親しむようにはなっている。われわれは肉体を生涯の伴侶として受け入れているし、芸術が感官のイメージと結びついているものであるため、人体の比例やリズムをたやすく無視することができない。重力の牽引に抗し、両脚の上でバランスを保とうとする人間の持続的な努力は、デザインに対するわれわれのあらゆる判断に影響を及ぼしているし、さらにその角度を保っているものについてわれわれはright(直角=正しい)とよぶことにしているのである。人間の呼吸のリズムと心臓の鼓動は、芸術作品の評価の基礎をなす体験の一端を担っている。頭部と身体との関係は、自然界の他のあらゆる比例を評価する際の基準を定める。胴部をどのような面で構成するかはわれわれの生ま生ましい体験とかかわりをもち、そこから方形や円形と言った抽象的な形状が、男に見え女に見える。また円を方形にしようとする旧い魔術的な数学の試みは、肉体の結合を象徴するかのようである。ルネッサンスの理論家たちのヒトデ型の図形は滑稽であるかもしれないが、ヴィトルヴィウスの原理は依然としてわれわれの精神を支配し、「完全人」の形式化された肉体がヨーロッパ的信念の思考の象徴となったのも偶然でなかった。ミケランジェロの《キリストの磔刑》を前にするとき、裸体とは結局のところ芸術におけるもっとも真面目な主題であることに気がつく。そして「〈言葉〉は肉となりてわれわれのうちに住む……恩寵と真理に満ちて」と書いた者が異教の擁護者ではなかったことに思い到るのである。」ケネス・クラーク『ザ・ヌード 理想的形態の研究』ちくま学芸文庫、高階秀爾・佐々木英也訳、2004.(原著1956)pp.053-56.

 理想的な人間の姿は、衣服をまとい性器を隠すことなく、完全な裸体を崇高な美と感知する所から、正しい精神が喚起される、というのがギリシャやルネサンスの思想だとすれば、東洋のぼくたちには、そのような思想の伝統は歴史的になかった、と考えられる。


B.北朝鮮にどう向き合うのが正解か?
 このところの北朝鮮のミサイルや核実験を受けて、日本人のあいだにじわじわと戦争への不安や恐怖が広がっているのは確かだろうし、今までほとんどこの問題の基本構図を知らず、それをまともに考えようともしてこなかったとすれば、教育やマス・メディアはあまりにも手抜かりだったのではないか。「平和ボケ」という言い方はずっとあったけれど、かつて植民地支配をし、朝鮮戦争で漁夫の利を得て経済復興した隣国との歴史を、改めて考える必要がある。現実はどんどん軍事的な緊張を高める方向に行っている。でも、日本政府は表向き抗議と圧力強化、アメリカの意向に沿って経済制裁と国際協調を主張するが、それ以上に何もできない。

「射撃訓練で圧力強化 北朝鮮建国記念日 9日まで展開
 【ソウル=境田未緒】北朝鮮の核実験に対抗して、韓国海軍は五日、日本海で対空、対艦の実射訓練を実施した。北朝鮮の建国記念日の九日まで北朝鮮との戦闘を想定した訓練を展開し、軍事的圧迫を強める。趙明均(チョミョンギュン)統一相は五日の国会報告で「北朝鮮は、国連の安全保障理事会の追加制裁を巡る議論をにらみつつ、さらに挑発をする可能性がある」と述べた。
 五日は国会で外交統一委員会があり、康京和(カンギョンファ)外相と趙統一相が対北朝鮮政策などを報告。康氏は「北朝鮮による追加挑発など多様な可能性を念頭に置き、徹底した米韓協調で対応していく」と述べた。
 統一相は南北関係の改善を目指すが、趙氏は「最近の厳重な状況を勘案し、具体的な措置は北朝鮮の態度、国際社会の協調、国民の世論を考慮して慎重に検討していく」と一歩引いた構えを見せた。
 海軍の訓練には二千五百㌧級の哨戒艦などが参加し、艦砲射撃訓練に臨んだ。軍の担当者は「敵が水上、水中のどこで挑発してきても即刻、撃沈してその場に水葬にする」と強調した。七、八の両日は、米軍の海上哨戒機P3も参加し、日本海で模擬標的を使った対潜水艦戦訓練を行う。
 また、韓国の文在寅大統領は四日深夜、トランプ米大統領と電話協議し、韓国軍の弾道ミサイルの弾頭重量を定めた米韓ミサイル協定の重量制限を解除することで合意した。協定は射程八百㌔のミサイルに搭載できる弾頭重量を五百㌔に制限しており、制限解除で北朝鮮への攻撃力を大幅に増強できる。」東京新聞2017年9月6日朝刊、9面国際欄。

 北朝鮮金正恩政権は、ここまでやっているのだから核開発放棄などする気はないだろう。とすれば、北を核保有国として認めざるを得ないのか?認めれば対抗上、アメリカの核の傘だけでは不安だとこちらも核を持つ、という選択肢が韓国では語られ始めているという。

「非核化か核武装か 揺れる韓国:
【ソウル=上野実輝彦】六回目の核実験を強行した北朝鮮への対抗策として、米軍の戦術核兵器の韓国再配備をめぐって韓国政府内での見解が揺れている。大統領府が否定的な考えを示す反面、宋栄武(ソンヨンム)国防相は選択肢として検討する方針を表明。配備を求める世論の広がりが背景にある、
 宋氏は四日の国会で、再配備について「北朝鮮の脅威を抑制する方法の一つとして検討しなければならない」と発言。国防省報道官は五日の記者会見で発言の真意を問われ、「あらゆる選択肢を検討するという趣旨だ。(朝鮮半島を)非核化するという原則に変化はない」と釈明した。
 文在寅大統領はもともと朝鮮半島の非核化が持論。大統領府関係者は「政府としては現時点では検討していない」と話す。
 南北は一九九一年、朝鮮半島の非核化に合意し、在韓米軍は核兵器を撤収。だが北朝鮮が二年後に核拡散防止条約(NPT)脱退を宣言し核開発を進めると、韓国では北朝鮮への警戒感や米韓同盟の実効性への不安感が出始めた。韓国紙・文化日報の八月上旬の世論調査では韓国の核武装への賛成が62.8%で、反対の34.8%を大きく上回った。
 北朝鮮が六回目の核実験を行うと、保守系野党だけでなく、核配備反対を訴えてきた与党内からも「最後の交渉カードとして戦術核を選択する考え方もあり得る」(李鐘杰(イジョンゴル)元院内代表)との意見が上がり始めた。
 韓国に「核の傘」を提供する米国でも一部の専門家から「韓国の核武装を容認すべきだ」との声も出る。しかし「(核武装によって)朝鮮半島を非核化するという名分が失われる」(鄭義溶(チョンウイヨン)国家安全保障室長)との懸念が残る。」東京新聞2017年9月6日朝刊、9面国際欄。

 しかし、この先走った動きは、平和のための抑止というよりは、さらなる危機、危険な戦争の再発という可能性を高める。中国とともに北朝鮮への影響力をもつ国、ロシアのプーチンの考えていることはある意味で現実的だ。

「北の国民 苦労増す:プーチン氏 制裁強化に否定的
【モスクワ=栗田晃】ロシアのプーチン大統領は五日、北朝鮮の核実験にともなう制裁強化について「制裁はもう限界に達して効果がない。圧力をかけても北朝鮮の方針は変わらず(北朝鮮の国民)数百万人の苦労が増すだけだ」と否定的な考えを示した。新興五カ国(BRICS)首脳会議が開かれた中国南東部の福建省アモイでの記者会見で述べた。
 核実験自体は非難したが、米国の介入で独裁体制が崩壊したイラク、リビアなどを例に挙げ「北朝鮮は草を食べるようになっても、安心できるまで核開発は止めないだろう」と指摘。「武力による威嚇は肯定的な結果をもたらさず、地球レベルの大惨事を生む」と対話路線堅持を求めた。
 さらにプーチン氏は、米国が対ロ制裁を強化しながら北朝鮮制裁への協力をロシアに求めることに「非常識だ」と不快感をのぞかせた。ロシアは北朝鮮に四半世紀で約四万㌧の原油・石油製品を輸出し、約三万人の北朝鮮労働者を受け入れたと説明した上で、ロシアと他国との輸出入の規模に比べれば北朝鮮との経済関係は「ゼロに等しい」と強調。国際社会がロシアに求める北朝鮮への制裁の効果は薄いと主張した。」東京新聞2017年9月6日朝刊、9面国際欄。

 朝鮮戦争の休戦以後、60年ほど東アジアは戦禍の危機を回避してきた。日米安保体制も一定の安全保障効果を果たしたといえないことはない。それが今危なくなっているとすれば、どこがどう危ないのか?そして日本はどういう選択肢を選ぶべきなのか、憲法問題を議論するのなら、自己中心的で冷静に状況を見ているとは思えない安倍政権にとっても正念場がまもなく来るのではないだろうか。
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