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ケネス・クラーク “the NUDE” を読む2  核攻撃?

2017-09-05 14:52:09 | 日記
A.ケネス・クラーク「ザ・ヌード」を読む 2
  明治の日本が西洋を追いかけて「近代化」を図るなかで、音楽や美術などの文化も西洋の真似をして、それが「ハイカラ」の新しい芸術だと若者を惹き付けた時代が続いた。しかし、西洋美術を勉強してみると日本人には少々抵抗のある表現がある。19世紀の美術の中心はフランスで、画家の基礎訓練として裸婦デッサンというのがある。日本でも人体を絵に描く伝統はあるが、なにも着ていない裸を堂々と絵に描くのは「劣情をもよおさせる」惧れを当の画学生自身が感じていた。それを抑えて、いやこれこそ崇高な美なのだとくそまじめに勉強して、「芸術的な裸体画」は美術品として飾られた。しかし、写真が発明されて普及すると、当然リアルな人体をそのまま画像にでき、裸体も簡単に撮影できる。しかし、女性の裸は「猥褻物」だとみなされてタブー視される。
   戦後のアメリカ文化の流入によっても、「ヌード写真」はきわどい画像として規制され、一般社会の表に出るものではなかった。男たちはこそこそ隠れてヌード写真を見ては、劣情を癒していたのだが、それが大きく変わったのが、おそらく1970年代のなかば。篠山紀信という名前を誰もが知るようになったのは、1975年に雑誌『GORO』で歌手の山口百恵特集で使い始めた「激写」が流行語になってからだろう。その後の松田聖子ら芸能人や素人を水着モデルにした一連の激写シリーズは人気を呼び、『GORO』のカラーグラヴィアは男の子の宝物になる。しかし、下着の最後の一枚を取ることは許されなかった。
  そして、1991年には女優の樋口可南子をモデルにした写真集「Water Fruit 不測の事態」で事実上、陰毛を解禁させ、続けて同年に出版した当時トップアイドルだった宮沢りえのヌード写真集「Santa Fe」は新聞に出した全面広告が評判を呼び、ヘアヌード(篠山自身はこの単語を「大嫌いだ」と公言している)ブームを巻き起こした。「Santa Fe」はその年のベストセラー7位、「Water Fruit 不測の事態」は10位の記録を残しているという。
  20世紀が終わるころには、コンビニに並ぶ週刊誌や雑誌に綴じ込みヌード写真が並ぶのは珍しくなくなり、「ヘアヌード」などに驚くこともなくなっている。しかし、そもそも「ヌード」表現が美学的価値があると考えられたのは、西洋でも昔から当たり前のことではなかった。というより、それを美的価値として見る視線は、一定の時代と世界観の定着によるものなのだ。

 「芸術作品にとって、はだかの人体は出発点以上のものではないが、それでもやはりきわめて重要な口実である。芸術の歴史を振り返ると、人間がいわば自分らの秩序の感覚の中核をなすものとして選びとった主題は、しばしばそれ自体は取るに足らぬものである。前後数百年に及びアイルランドから中国に至る領域においてもっとも生命力に富む秩序の表現をなしたものは、自分の尾を嚙む空想的な動物であった。中世に至って衣装の襞の流れがそれ自体で生命の相を帯びたが、それはかつて身を捩じらせて尾を噛む動物が宿していたのと同じ生命に外ならず、こうして衣紋はロマネスク芸術の中心モティーフとなった。だがどちらの場合にも、これらの主題はそえだけで独立しては存在しなかった。これに対して人体はひとつの核として連想の因子を豊かにもっているものであり、芸術の表現に移しかえられる際にもこれらの連想が完全に失われることはない。したがって人体が動物装飾のもつ凝集化された美的効果に達するのはごく稀であるが、遥かに広くもっと文明的な経験の表現となることができる。人体とはわれわれ自身なのであり、われわれが自身に関してこうしたいと願っていることの、すべての記憶を喚び起こす。そしてわれわれは何よりもまず、自分自身の永遠化を希求しているのである。
  このことは裸体像という手段のもつあまりに明瞭な側面であるので、これ以上述べる必要もないだろう。しかしながらある種の賢人たちはこれに対して強いて目を閉じようとして来た。「もし裸体像が官能的なものと結びつく観念とか欲望を観る者の胸に誘発する意図をもって扱われるなら、それは誤った芸術であり悪しき道徳である」とアレグザンダー教授は語っている。この高潔な理論はしかし、実情と合致しない。ルーベンスとかルノワールの裸体像が触発するさまざまの記憶と感覚の混合には「官能的なものと結びつく」多くのものがあるからである。高名な哲学者によるこの意見はよく引き合いに出されるだけに、事を明確にする必要があり、むしろいかなる裸体像も、たとえ抽象的なものであれ、鑑賞者にほんの幽かな影なりとも抜かりなくエロティックな感情をかき立てるべきであって、もしそうしなければ、それは悪しき芸術であり誤れる道徳であると言い直すべきだと思われる。他人の身体をつかみこれと合体しようとする欲望は、人間の本性のきわめて根源的な部分をなし、したがって「純粋形式」とよばれるものに関するわれわれの判断もその影響を受けざるを得ない。そして裸体が芸術の主題であるための難点のひとつは、例えば一個の焼き物をたのしむときのようには上述の本能が消化作用によって隠されたままであることができずに前面に引き出されることになり、本能はそこでは芸術作品を独立した生命たらしめる統一的な反応を覆えす危険をもっている。それはそうとしても、芸術作品がエロティックな内容を溶解して収容し得る限界量は非常に大きい。十世紀のインドの寺院彫刻は肉体的欲望のあからさまな昂揚であるが、そのエロティシズムが彫刻の表わす哲学全体とかかわっているため、偉大な芸術作品なのである。」ケネス・クラーク『ザ・ヌード 理想的形態の研究』ちくま学芸文庫、高階秀爾・佐々木英也訳、2004.(原著1956)pp.025-026.

  男女が結合している露骨な彫刻も、それがどういう意図でどのような場所で作られ見られたかによって、芸術作品にもなるとケネス・クラークは述べる。Nakedと nudeを区別するクラークの論理では、画像表現そのものが「卑猥なもの」と「美しいもの」のどちらかに分類されるのではなく、それを見る人間の視線、それを提示する場、その時代の状況というもののなかで、意味を獲得すると考えたほうがよい、というわけか。

 「生物学的必要から離れた他の分野でも、はだかの人体は調和、力、陶酔、謙譲、悲劇性といった人間的経験を生き生きと喚起するよすがとなる。そしてこれらを見事に具現した作品を目のあたりにすると、裸体像とは普遍的で永遠な価値を持つ表現手段であるかのように思われるにちがいない。だが実際そうでないことは歴史が示す通りであり、場所的にも時間的にも狭く限られている。極東の絵画にもはだかの人物がいることはいるが、それは言葉の意味を拡張してはじめて裸体像と呼び得るに過ぎない。日本の版画ではだかの人物は浮世絵に出て来る。浮世絵は人生の束の間の相を示す芸術であって、一般に記録することもなく過ぎ去るに委せる幾つかの私的な情景を描き出すものである。はだかの身体を鑑賞に値するまじめな主題としてただそれ故に提示するという考えは、中国人とか日本人の心には思い浮かばなかったし、そのことが今日なお、われわれの間で些細な誤解を生む因となっている。ゴシック時代の北方においても、事情は根本的にかなり似通っていた。なるほどルネッサンス期のドイツの画家たちは、はだかの人体がイタリアで尊重されていることを知ってこの主題を自分らの欲求に適合させ、独自の注目すべき様式にまで精錬したかもしれない。だがデューラーの苦しい努力を見れば、この様式の創造がいかに人為的なものであったかがわかる。彼は裸体に本能的な好奇心と怖れを覚えていたのであり、非常に多くの円弧や他の図形を引いてのち、ようやく意を決して不幸な肉体を裸体像に転化させることができた。
  地中海の波の洗う国々においてのみ、裸体像は身近な存在であった。だがともすればこれらの地でも、裸体像の意味が忘れられた。その芸術の四分の三をギリシャから借りているエトルリア人は、故人がまことに気楽に腹をさらけ出して王がするという墓の形式を最後まで棄てなかったが、ギリシャ人ならその気楽さに胆を潰したことであろう。ヘレニスティック期の芸術とローマの芸術は、己れの巨大奇矯な図体に悦に入っているかのごとき職業運動家の彫像やモザイクをつくり出した。だがむろんそれ以上に注目すべきは、イタリアヤギリシャですら、裸体像製作が時間的に限られた期間しか行われなかったという事実である。ビザンティン美術についてこれをギリシャ美術の継続であるかのように語ることが流行しているが、こうした見解が例の細分化された研究による手の込んだ行き過ぎに他ならぬことを、裸体像は教えてくれる。後期ローマの銀器に見えるネレイデス像からギベルティの黄金の門扉に至る期間に、地中海芸術における裸体像表現は数も少なく取るに足らず、アポロンとダフネを表わしたレヴェンナの象牙細工のような地味な職人仕事のもの、連続漫画的にオリンポスを描いた《ヴェローリの象牙函》のようなわずかの「奢侈品」(オブジェ・ド・リュス)、その裸形が古代の痕をほとんど留めぬ多数のアダムとエヴァなどが、例として挙げられる。ところでほとんどこの千年間を通じて、ギリシャ芸術の傑作は今だ破壊されることなく、今日まで残っているよりも遥かに数多く、ああそしてそのどれよりも無限に輝かしい裸体の表現に囲まれて人々は暮らしていたのであった。テオドシウス帝によってコンスタンティノープルに運ばれたと伝えられるプラクシテレスの《クニドスのヴィーナス》は、十世紀に至っても皇帝コンスタンティヌス・ポルフィロゲニトゥスの讃美の的となっていた。原作か摸刻か、いずれにせよ、十字軍によるコンスタンティノープル攻略の報告書のなかで、ロベール・ド・クラーリはこの像に言及している。その上、肉体自身はビザンティン世界の人々の眼にもなお、つねに興味の対象でありつづけた。その理由を人種的な連続に求めることもできよう。そして運動家たちは円形競技場(キルクス)で技を競っていたし、労働者たちは腰まではだかになってハギア・ソフィア大聖堂の建造に汗を流していた。芸術家にとってモデルは不足しなかったのである。この時期に彼らのパトロンが裸体表現を要求しなかったについては、偶像崇拝への怖れとか、禁欲主義を求める風潮とか、東方芸術の影響など、多くのもっともらしい理由から説明がつけられるかもしれない。だが実情に照らせば、これだけでは充分な答えとならない。裸体はすでにキリスト教の公認よりおよそ一世紀前に、芸術の主題であることを止めていたし、中世時代においても、もしその気さえあれば、世俗的な装飾に、また人類の初めと終わりとを図示するような宗教的主題に、裸体を導入する機会は幾度でもあったにちがいないからである。」ケネス・クラーク『ザ・ヌード 理想的形態の研究』ちくま学芸文庫、高階秀爾・佐々木英也訳、2004.(原著1956)pp.026-031.

 人間の肉体が素晴らしく美しいと感じさせる瞬間はある。オリンピック選手の高度な演技や、優美なバレエダンサーの動きは、鍛えられた人の身体の美しさを誰にも納得させる。でも、よく考えるとそれをぼくたちが美しいと感じる能力は、どこかで養成されてきたはずだ。同時に、人の肉体にエロチックな欲望を感じるのも、自然の本能だといわれるが、実はある時代、ある文化のなかで教育され刷り込まれたものだとはいえないだろうか。ここのところを、クラークの裸体論を手がかりに考えてみたい。



B.「北の共和国」について無知なのはまずい
 8月末のミサイル発射、9月に入って核実験と北朝鮮の核戦力誇示の動きはエスカレートしている。日本では一般市民レベルで、これに動揺したり怯えて何かを叫ぶような軽挙妄動は起きていない。それは賢明で幸いだが、武力を振り回す隣国がどういう意図で何をするつもりなのか、よくわからない。狂気の指導者が君臨する物騒な国、というイメージをもって、いざとなったらアメリカ軍に守ってもらえばいい、というのでは、ほとんど神頼みのようなものだし、朝鮮戦争以来の歴史も含め基本的なことは知っておく必要があると思う。中学や高校の歴史教育では朝鮮半島のことをどこまでちゃんと教えているのだろう?

「対米不信で開発固執:「保有国 侵略されず」(北朝鮮 核 脅威の実情)上
 北朝鮮が「水素爆弾」と主張する核実験を三日に強行し、アジア太平洋の安全保障は重大な脅威にされされる。米本土を射程に入れた大陸間弾道ミサイル(ICBM)開発に固執し、技術向上を追い求める北朝鮮の「脅威」の実態に迫る。
 「百倍になった祖国の力に限りない誇りを覚え、激情を禁じ得ない」「わが共和国(北朝鮮)公民の強固な気概を全世界にとどろかせた」―。
 北朝鮮が六回目の核実験に「完全成功」と発表した翌日の四日、朝鮮労働党機関紙・労働新聞は、核技術の進歩を絶賛する平壌市民の声を伝え、国内の結束を内外にアピ-ルした。
 北朝鮮の核開発は一九五六年、旧ソ連の核研究所に技術者を派遣し始まった。当初から核兵器開発を志向していたかどうかは不明だ。しかし、冷戦体制下の七〇年前後に始まった米ソ間の政治対話、米国と中国の接近は北朝鮮に大きな衝撃を与え、核開発に弾みをつけたのは確実だ。
 国際的孤立に危機感を覚えた北朝鮮は七四年に、朝鮮戦争(五〇~五三年)の休戦状態に終止符を打つ平和協定の締結を米国に提案したことがある。だが、米国は提案を退け、長らく北朝鮮を対話の相手としなかった。
 北朝鮮はこのころには、抑止力としての核兵器の開発意志を固めたとみられ、八〇年代にひそかに開発を本格化させた。
 八〇年代末に冷戦体制が崩壊し、それに伴って旧ソ連、中国が相次いで韓国と国交を樹立。孤立を深めた北朝鮮は九三年、核拡散防止条約(NPT)脱退を宣言するという、賭けに出た。慌てた米国は北朝鮮との協議に乗り出した。北朝鮮は、核が対米カードとして威力を発揮すると実感したはずだ。
 故金正日総書記は核放棄の可能性をちらつかせ、米国から経済支援やテロ支援国家指定の解除など、さまざまな譲歩を引き出した。だが、金総書記の死去に伴い、二〇一一年末に金正恩体制が発足すると、北朝鮮は核を放棄しないと公言するようになる。
 「核兵器が出現してから七〇年近く、多くの地域で大小の戦争があったが、核兵器保有国だけは軍事的侵略を受けなかった」。労働党が一三年三月、核開発と経済建設の「並進路線」を採用した時、正恩氏が行った演説の内容は、北朝鮮が核開発にこだわる理由を如実に示している。
 さらに、朝鮮中央通信は昨年一月、論評で次のように強調した。「イラクのフセイン政権とリビアのカダフィ政権は、体制転覆を狙う米国と西側の圧力に屈して核を放棄した結果、破滅した」
 北朝鮮の米国に対する不信感は根強い。「(核兵器)は米国のドルと引き換える商品とは違う。わが国の武装解除を狙う交渉のテーブルに載せて議論する。政治的な駆け引きや経済的取引の材料ではない」と宣言。米国が自国を核保有国と認めるまで、核開発を続ける考えを鮮明にする。(中国総局・城内康伸)」東京新聞2017年9月5日朝刊1面。

 要するに金正恩政権が目的とするのは、自分の権力の正当性をアメリカに認めさせるために、核保有国になったのだと核武装能力を見せつけ、休戦状態のままの朝鮮戦争を有利なかたちで終結させようということになる。これに対して、朝鮮戦争の当事国アメリカと韓国はどう対処するのかが問題だが、北朝鮮を敵対国家、テロ支援国家とみなす以上、最終的に金王朝が倒れることを狙うことになる。すると、このまま北が核武装を強めれば、それを前提に経済的軍事的封鎖を行ない、核放棄までもっていこうとする。しかし、その方向はもはや北は拒否している。しかし、核保有国として国際社会が北朝鮮を認めるという可能性があるだろうか?そしてもっと怖いのは、交渉のための軍事的挑発を無視して、平和的解決に至ることに失敗してしまうと、真珠湾攻撃のようなムチャクチャな暴発が起きることだ。
 米軍基地を抱える日本は、それこそどこに核ミサイルが落ちてきても不思議ではない。だが、そうむやみに不安になる状況ではない、というも確かのような…。

 *北朝鮮の核開発をめぐる歴史
 1948年9月:朝鮮民主主義人民共和国建国
 1950年6月:朝鮮戦争勃発
 1953年7月:休戦協定調印
 1971年7月:ニクソン米大統領が訪中発表。米中和解へ
 1990年9月:ソ連と韓国が国交樹立
 1991年12月:ソ連崩壊
 1992年8月:中国と韓国が国交樹立
 1993年3月:北朝鮮が核拡散防止条約(NPT)脱退を宣言
 2003年4月:イラク戦争でフセイン政権崩壊
 2006年10月:1回目の核実験
 2009年5月:2回目の核実験
 2011年10月:リビア内戦でカダフィ大佐が死亡
 2013年2月:3回目の核実験
 2016年1月:4回目の核実験
 2016年9月:5回目の核実験
 2017年9月:6回目の核実験

「北朝鮮挑発 どう対峙:米の軍事攻撃 考えにくい エバンス・リビアさん(元米国務次官補代理)
 米国が北朝鮮に対して実際に軍事攻撃に出ると、真剣に考えている人を私は知りません。私がこれまで話をした米軍当局者を含めてです。トランプ大統領は軍事攻撃を示唆しましたが、現実として本気のものかに私は疑念を持っています。
 軍事攻撃は北朝鮮の反撃という危機を生む。攻撃対象は韓国にとどまらない。制限や節度などなく、おそらく日本の米軍基地、さらに人口密集地にも攻撃を仕掛けてくるでしょう。
 反撃できないように米国が北朝鮮を即座に無力化すること自体は可能です。だが、その場合、核兵器と通常兵器によって、速やかに、非常に大規模で圧倒的な攻撃をするという想像をはるかに超えたものになります。今、北朝鮮への攻撃の意味での米国の「軍事的選択肢」は考えられません。
 米国が軍事攻撃に踏み切るような北朝鮮の「越えてはならない一線(レッドライン)」は、米国や日本、韓国へ攻撃してきた時か、信用できる計画情報があった時でしょう。
 軍事的選択肢としてとれる手段は、北朝鮮が武器を使用した際に、封じ込めと阻止できる能力を示すことです。弾道ミサイル発射には敵対行為と見なし、撃ち落とすることを含めて反応を示すことです。
 北朝鮮にとって、8月29日の日本を飛び越えた弾道ミサイルの発射は極めて重要な段階でした。それが、今回の核実験への扉をひらいたとも言えます。
 マティス国防長官が3日、米国と同盟国を守るという強い声明を出しました。北朝鮮がグアムに言及した時と同様に強い警告でした。米国が次の段階に進むよいスタートになります。
 米国に何ができるのか。より包括的で、広く地球規模の対抗措置です。
 制裁では北朝鮮の核開発を止められないという人がいます。確かにこれまでの限定的な制裁ではその指摘は正しい。だが、北朝鮮の金融取引や銀行システム、北朝鮮と商取引をする外国企業に影響を与えるような措置を講じる。さらに、世界的に北朝鮮との貿易を禁止し、航海の制限、大量の当局者への渡航禁止などをすれば違ってきます。石油を全面禁輸にできれば即座に大きな影響があり、優先的に協議されるべきです。
 中ロは反対するでしょうが、北朝鮮と取引をする中ロの企業への制裁などで圧力をかけ続ける手段が必要です。
 北朝鮮を不安定化させ、金正恩政権の存続能力を損なうことができる。それでも北朝鮮が核の放棄をしないならば、政権転覆を狙う政策をとる必要がある。強い措置で国内基盤を弱らせておくことは顚覆への基礎になるでしょう。(聞き手・杉山正)」朝日新聞2017年9月5日朝刊15面オピニオン欄「耕論」

 この欄には、リビア氏の他に日本の元外務事務次官、藪中三十二氏(日本は強く「非核」訴えよ)と早大韓国学研究所長、李鐘元(リー・ジョンウォン)氏(戦争 歯止めきかない恐れ)のインタビューが並んでいる。藪中氏も李氏も、北朝鮮が核保有国になった場合の、周辺国の「核武装論」への危惧に触れている。NPTに集約される「核軍縮」の国際合意は、核保有国の拡大、核の拡散によって再び危険水域に入ってしまったのだろうか。「核抑止論」は、観念論のうちは機能するかもしれないが、現実に核攻撃が起きてしまえば「抑止」もへったくれもなくなって、一国家、一民族の殲滅、破壊、そして周辺も含む放射能の惨禍が、20世紀には想像もできないような形で現れる。そうなってから愚かだったと言っても遅い。
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