昨日テレビで
横浜の神社で賽銭箱から
棒の先にガムをつけて
1500円を盗んだ
と言う事で警察に通報され逮捕された
ってニュースが流れましたが
久しぶりにカチンと来ましたね。
それは
77歳の沖縄出身の男が
って言葉が付け加えられてたのです。
盗みは悪い事ですから仕方が無いにしても
例えばこの男が秋田県の出身だとして
故郷を離れて何十年も経ってる犯人に
いちいち秋田県出身の男が
なんて書きませんよね。
まあ今の時代書いた方に悪気は無いと思いますが
報道に携わる人は
もう少し神経を使ってもらいたい
そう思いました。
それと
この犯人の男
食べていかなければいけないので
って言ってたようですね。
って事は
食うに困って犯行に及んだのです
高齢者で食べるお金が無い
それでお賽銭を盗んだ訳ですが
しかし良く考えれば
宗教は
困った人を救済する
それが元来存在意義ですよね
今回は神社ですが
よくお寺でも賽銭泥棒を警察に突き出しますが
そもそも困った人に施しを与えるのが役割なのに
空腹で賽銭に手をつける人に
慈悲の気持ちは全くない
とんでも無い話しだと思いますね。
昔ある宗教学者が
お寺の住職を集めて
仏教は生き残れるのか?
ってテーマで勉強会を開いたら
その時に
もう仏教の先は無い
そう感じた話をしていましたね。
理由は
その学者は
仏教が今後も人間の救済と言う役目を果たせるのか
ってテーマで勉強会を開いたのに
住職さんたちの口から出てくる言葉は
檀家が減って寺の経営が苦しいとか
お布施が少ないとか
いわゆる寺の経営
この視点からの話しばかりだったそうです。
本来の目的の人間の救済は
一切出てこなかった
これではもう仏教の先は無い
そう感じた訳です。
まぁ嘆かわしいですよね
私は
昨年姉の葬儀の打ち合わせをしましたが
完全に商業化してますよね
本来お布施は人々が救済された事への感謝
そんな意味があったのに
いつの間にか
葬儀社が印刷物で金額を決める
そんな時代になりました。
まぁしかし
それはそれで一つのビジネスモデルですから
致し方無いのかも知れませんが
せめて
仏に帰依する者は
少しくらい貧しい人の救済
この気持ちを持ってもらいたいですね。
腹を空かして賽銭に手をつける人がいるのであれば
その賽銭箱を開けて
少し余分に持たせて上げる
この位の事ができれば
輪廻の意味でも
良い結果になるように思いますがね。
大体賽銭ってのは
住職が自分で稼いだお金ではありませんからね
善意の人の寄付です
善意は善意で返す
この気持ちを取り戻せば
仏教にもまだ存在できる余地はあると思いますので
是非皆さんには実践してもらいたいものです。
日本人の中には
見たことも無いアフリカの子供たちに寄付したり
あるいは災害があるとたくさんの義援金
そんな気高い気持ちがあるんですよ
にも拘わらず仏に仕える人が
お腹を空かせた人が賽銭箱に手をつけただけで警察では
どうなんでしょうね。
大体
盗まれたくないのであれば
夜になったら金庫にしまえば良いだけなのに・・
横着するから盗られるんですよ
ふぅ どうも少し感情的になってしまいましたね
どうしても沖縄の人が犯行を犯すと
いつまでたっても複雑な気持ちになります。