暑中お見舞い申し上げます、白黒茶々です。
今年も早いもので、気付いたら下半期に入っていました。 まだ完全には梅雨明けしていないのですけど、編集の都合から少々フライング気味に真夏の挨拶をさせていただきます。 とはいっても、年始のような土下座写真ではあまりに暑っ苦しいので………
これから夏本番を迎えようとしている海をバックにして、箔と波に立って、いや、座ってもらいました。 写真ではわかりづらいのですけど、背後の海岸はサーファーで賑わっております。今回は特別に、スマホにもすっぽりと収まる横長サイズにしておきましたよ。 そうしたら、もう1枚………
今度は縦長サイズにございます。 モデルがアレなのですけど、お中元の代わりというか、とにかくこの画像を気に入っていただけたら、ご自由にスマホなどの待受画面などにご活用くださいませ。
またしても話は少し前にさかのぼるのですけど、6月下旬の日曜日に、私は午後から名古屋に行く用事がありました。 せっかくそちら方面に行くのだったら、やはり………
………ということで、私はあくまでもついでに名古屋城に立ち寄ることにしました。 ちなみに現在の時刻は、8時50分。お城の開園時間は9時なので、私の目の前にある正門の扉はまだ閉まっております。それまで少し時間があるので、その間にこちらの建物の説明をさせていただきます。
名古屋城は明治に入ってから離宮としても使われ、榎多聞跡のこの場所に、旧江戸城の蓮池門が移されてきて、正門となりました。しかし、その建物は昭和20年(1945年)5月の名古屋大空襲で焼失。 昭和34年(1959年)に鉄筋コンクリートで外観のみ復元されました。お城のことを話し出したらキリがないので、今回は正門の他には西南隅櫓、石垣、本丸御殿、大天守・小天守にしぼらせていただきます。そうしているうちに、ようやく開門となったので、いざ城内に入りますよ
まずは入ってまもなくのところの本丸の石垣の上から、西南隅櫓が出迎えてくれました。 こちらの建物は、名古屋城が築城された慶長17年(1612年)に建てられたのですけど………
明治24年(1891年)にこの地方を襲った濃尾大地震によって、土台の石垣もろとも崩壊。 今年3月の熊本地震で、熊本城の東十八間櫓と北十八間櫓もこのような状態に、いや、それ以上に悲惨な事態となってしまいました。 その後、名古屋城の西南隅櫓のほうは復旧したのですけど、それから長い歳月を重ねていくうちに、白壁の色がかなりくすんできました。そう、白さが自慢のスピッツが、黄スピや茶スピになるように。そういうこともあって、櫓は再び大規模な修理を受け、平成26年(2014年)の10月に完了。創建当時のようなまばゆい白さを取り戻しました。 それはまあ、いいのですけど………
明治時代に積み直されたその土台の石垣はあまりにも雑で、石を斜めに積んだりしたものだから、仕上がりが美しくありません。
その大地震で無事だった、東南隅櫓のところの石垣と比べたら、お分かりでしょうか?先述の熊本地震では、熊本城は全体の3割もの石垣が崩れてしまいました。そちらのほうは諸々の資料をもとにして、以前と同じ位置に同じ工法で積み直さなければならないので、想像しただけでも骨の折れる作業となりそうです。
名古屋城は17世紀初期に、多数の大名が担当場所を分担しておこなう、天下普請によって築かれました。その際に………
その大名たちが他の持ち場と区別するために石に刻んだ目印を「刻印」といって、今でも城内のあちこちで見ることができます。こ ちらの刻印は、だんごのようですね。作業中に、お腹がすいていたのでしょうか?
だんご、いや、刻印を確認できたら、いよいよ今回の本命ともいうべき本丸御殿に迫ります。御殿は城主が住んだり、来訪者と対面したり、政務を執り仕切ったりする場所で、名古屋城の本丸には二条城の二の丸御殿に匹敵するほど壮大で華麗なものがありました。 しかし、先述の昭和20年の戦災によって焼失。以来、長年跡地となっていたのですけど………
平成21年(2009年)から復元作業が始まり、その4年後に第1期工事が終了。玄関、中之口部屋、表書院などの全体の約3分の1が完成しました。 創建当時の姿を忠実に再現していて、屋根は柿(こけら)葺き、破風は漆塗りの格子や金の金具で飾られていて、外観からしても豪華絢爛です。もちろん、その内部も見学しますよ
時間帯がまだ早いということもあって、団体客などがどっと押し寄せることもなく、ゆったりと見ることができました。 ちなみに、中の様子はストロボなしなら自由に撮ることができるのですよ (二条城のほうは、御殿の内部は撮影禁止)
その中でもこちらの玄関二之間の「竹林豹虎図」は、有名で勇壮ですね。ちなみに当時の人は、豹のことを虎のメスと勘違いしていたそうです。
その建物に続く表書院の三之間にはなんと 奥のほうにジャコウネコが描かれているのですよ。
表書院のなかでもこちらの上段の間は格が高く、壁や襖には金の背景に松が描かれていて、天井は白木の格天井(ごうてんじょう)となっております。
………と、ここまでは私が2年前にも目にしていて、その前年にはレポートにまとめています。 その後も名古屋城の本丸御殿の復元工事は進み………
この度、第2期工事が完了して、6月1日からその部分の公開が始まったのですよ ただし上台所や孔雀之間などは、障壁画や内装が遅れていることもあって、公開は今年の秋以降となります。ということで、今回見学できるようになった新たなゾーンに、皆様をご案内致します。
まずは、対面所の納戸一之間にございます。こちらの棟は、藩主が身内や家臣との私的な対面や、宴席に使った建物であります。表書院と違うタッチで描かれた松が印象的ですね。
引き続いて、対面所の上段の間にございます。こちらには愛宕山、上賀茂神社、吉田神社などの京都の名所が描かれています。 さらに天井は黒漆塗りと金箔押が施された二重折り上げ小組格天井となっていて、先述の表書院の上段の間より豪華さが増しています。 廊下のほうも畳敷きで、新築の木の香りよりも、新しい畳のいい匂いがしてきました。
対面所と合わせて公開されたのが、こちらの下御膳所にございます。こちらは、料理の配膳や温め直しをした建物で、長囲炉裏の上の天井は、煙出し用の隙間が開いています。
本丸御殿は現在、第3期工事が進行中で、その様子を見学できる通路も設置されています。 こちらは2年後に完了する予定で、今度は対面所の上段の間よりまたさらに豪華な上洛殿、清洲城からそのまま移築されたと云われている黒木書院、城主の蒸し風呂や休息所となっていた御湯殿書院などが含まれています。そちらのお披露目も、ぜひ見ておかなければなりませんね
ここまで来たら、やはり大天守のほうにも上っておかなければ 名古屋城の大天守・小天守は慶長17年(1612年)に完成し、延床面積では日本一の規模となっていました。 江戸城、大坂城、二条城といった徳川家のお城の天守は皆、金のシャチホコを乗っけていたのですけど、江戸時代初期に火災や落雷によってことごとく焼失。唯一残ったこちらの金のシャチホコは、長い間名古屋の人々の誇りや自慢となっていました。
しかし昭和20年の空襲で、まわりの空を漆黒の闇に包むような黒煙を上げながら、本丸御殿などとともに焼失。このときの名古屋市民の嘆きは、いかばかりだったのでしょうか。
その後、名古屋城を再建する機運が高まり、昭和34年(1959年)に鉄筋コンクリートで外観のみ復元されたのが、今日見られる大天守・小天守であります。 それらの建物は築50年以上も経ったことから老朽化が懸念されています。名古屋市の河村市長は「東京オリンピックが開催される2020年までに、木造で建て直す 」と鼻息を上げているのですけど、その拙速な話に市民は反発。それでも、いずれは木造で建て直してもらいたいという気持ちはあるそうです。
その大天守の最上階からは、復元工事中の本丸御殿や、大名古屋ビルヂングを含めた高層ビルが乱立する名古屋駅周辺、遠くの小牧山や金華山などの他にも………
白く光る銀色の丸いドーム状の建物が……… って、これだけでおわかりになる方もいらっしゃいますよね。そうです こちらの建物は、ナゴヤドームにございます。 実は私は、これからそのナゴヤドームに、プロ野球の試合を観に行くことになっているのですよ その様子と試合結果については、次回お伝えします。
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今年も早いもので、気付いたら下半期に入っていました。 まだ完全には梅雨明けしていないのですけど、編集の都合から少々フライング気味に真夏の挨拶をさせていただきます。 とはいっても、年始のような土下座写真ではあまりに暑っ苦しいので………
これから夏本番を迎えようとしている海をバックにして、箔と波に立って、いや、座ってもらいました。 写真ではわかりづらいのですけど、背後の海岸はサーファーで賑わっております。今回は特別に、スマホにもすっぽりと収まる横長サイズにしておきましたよ。 そうしたら、もう1枚………
今度は縦長サイズにございます。 モデルがアレなのですけど、お中元の代わりというか、とにかくこの画像を気に入っていただけたら、ご自由にスマホなどの待受画面などにご活用くださいませ。
またしても話は少し前にさかのぼるのですけど、6月下旬の日曜日に、私は午後から名古屋に行く用事がありました。 せっかくそちら方面に行くのだったら、やはり………
………ということで、私はあくまでもついでに名古屋城に立ち寄ることにしました。 ちなみに現在の時刻は、8時50分。お城の開園時間は9時なので、私の目の前にある正門の扉はまだ閉まっております。それまで少し時間があるので、その間にこちらの建物の説明をさせていただきます。
名古屋城は明治に入ってから離宮としても使われ、榎多聞跡のこの場所に、旧江戸城の蓮池門が移されてきて、正門となりました。しかし、その建物は昭和20年(1945年)5月の名古屋大空襲で焼失。 昭和34年(1959年)に鉄筋コンクリートで外観のみ復元されました。お城のことを話し出したらキリがないので、今回は正門の他には西南隅櫓、石垣、本丸御殿、大天守・小天守にしぼらせていただきます。そうしているうちに、ようやく開門となったので、いざ城内に入りますよ
まずは入ってまもなくのところの本丸の石垣の上から、西南隅櫓が出迎えてくれました。 こちらの建物は、名古屋城が築城された慶長17年(1612年)に建てられたのですけど………
明治24年(1891年)にこの地方を襲った濃尾大地震によって、土台の石垣もろとも崩壊。 今年3月の熊本地震で、熊本城の東十八間櫓と北十八間櫓もこのような状態に、いや、それ以上に悲惨な事態となってしまいました。 その後、名古屋城の西南隅櫓のほうは復旧したのですけど、それから長い歳月を重ねていくうちに、白壁の色がかなりくすんできました。そう、白さが自慢のスピッツが、黄スピや茶スピになるように。そういうこともあって、櫓は再び大規模な修理を受け、平成26年(2014年)の10月に完了。創建当時のようなまばゆい白さを取り戻しました。 それはまあ、いいのですけど………
明治時代に積み直されたその土台の石垣はあまりにも雑で、石を斜めに積んだりしたものだから、仕上がりが美しくありません。
その大地震で無事だった、東南隅櫓のところの石垣と比べたら、お分かりでしょうか?先述の熊本地震では、熊本城は全体の3割もの石垣が崩れてしまいました。そちらのほうは諸々の資料をもとにして、以前と同じ位置に同じ工法で積み直さなければならないので、想像しただけでも骨の折れる作業となりそうです。
名古屋城は17世紀初期に、多数の大名が担当場所を分担しておこなう、天下普請によって築かれました。その際に………
その大名たちが他の持ち場と区別するために石に刻んだ目印を「刻印」といって、今でも城内のあちこちで見ることができます。こ ちらの刻印は、だんごのようですね。作業中に、お腹がすいていたのでしょうか?
だんご、いや、刻印を確認できたら、いよいよ今回の本命ともいうべき本丸御殿に迫ります。御殿は城主が住んだり、来訪者と対面したり、政務を執り仕切ったりする場所で、名古屋城の本丸には二条城の二の丸御殿に匹敵するほど壮大で華麗なものがありました。 しかし、先述の昭和20年の戦災によって焼失。以来、長年跡地となっていたのですけど………
平成21年(2009年)から復元作業が始まり、その4年後に第1期工事が終了。玄関、中之口部屋、表書院などの全体の約3分の1が完成しました。 創建当時の姿を忠実に再現していて、屋根は柿(こけら)葺き、破風は漆塗りの格子や金の金具で飾られていて、外観からしても豪華絢爛です。もちろん、その内部も見学しますよ
時間帯がまだ早いということもあって、団体客などがどっと押し寄せることもなく、ゆったりと見ることができました。 ちなみに、中の様子はストロボなしなら自由に撮ることができるのですよ (二条城のほうは、御殿の内部は撮影禁止)
その中でもこちらの玄関二之間の「竹林豹虎図」は、有名で勇壮ですね。ちなみに当時の人は、豹のことを虎のメスと勘違いしていたそうです。
その建物に続く表書院の三之間にはなんと 奥のほうにジャコウネコが描かれているのですよ。
表書院のなかでもこちらの上段の間は格が高く、壁や襖には金の背景に松が描かれていて、天井は白木の格天井(ごうてんじょう)となっております。
………と、ここまでは私が2年前にも目にしていて、その前年にはレポートにまとめています。 その後も名古屋城の本丸御殿の復元工事は進み………
この度、第2期工事が完了して、6月1日からその部分の公開が始まったのですよ ただし上台所や孔雀之間などは、障壁画や内装が遅れていることもあって、公開は今年の秋以降となります。ということで、今回見学できるようになった新たなゾーンに、皆様をご案内致します。
まずは、対面所の納戸一之間にございます。こちらの棟は、藩主が身内や家臣との私的な対面や、宴席に使った建物であります。表書院と違うタッチで描かれた松が印象的ですね。
引き続いて、対面所の上段の間にございます。こちらには愛宕山、上賀茂神社、吉田神社などの京都の名所が描かれています。 さらに天井は黒漆塗りと金箔押が施された二重折り上げ小組格天井となっていて、先述の表書院の上段の間より豪華さが増しています。 廊下のほうも畳敷きで、新築の木の香りよりも、新しい畳のいい匂いがしてきました。
対面所と合わせて公開されたのが、こちらの下御膳所にございます。こちらは、料理の配膳や温め直しをした建物で、長囲炉裏の上の天井は、煙出し用の隙間が開いています。
本丸御殿は現在、第3期工事が進行中で、その様子を見学できる通路も設置されています。 こちらは2年後に完了する予定で、今度は対面所の上段の間よりまたさらに豪華な上洛殿、清洲城からそのまま移築されたと云われている黒木書院、城主の蒸し風呂や休息所となっていた御湯殿書院などが含まれています。そちらのお披露目も、ぜひ見ておかなければなりませんね
ここまで来たら、やはり大天守のほうにも上っておかなければ 名古屋城の大天守・小天守は慶長17年(1612年)に完成し、延床面積では日本一の規模となっていました。 江戸城、大坂城、二条城といった徳川家のお城の天守は皆、金のシャチホコを乗っけていたのですけど、江戸時代初期に火災や落雷によってことごとく焼失。唯一残ったこちらの金のシャチホコは、長い間名古屋の人々の誇りや自慢となっていました。
しかし昭和20年の空襲で、まわりの空を漆黒の闇に包むような黒煙を上げながら、本丸御殿などとともに焼失。このときの名古屋市民の嘆きは、いかばかりだったのでしょうか。
その後、名古屋城を再建する機運が高まり、昭和34年(1959年)に鉄筋コンクリートで外観のみ復元されたのが、今日見られる大天守・小天守であります。 それらの建物は築50年以上も経ったことから老朽化が懸念されています。名古屋市の河村市長は「東京オリンピックが開催される2020年までに、木造で建て直す 」と鼻息を上げているのですけど、その拙速な話に市民は反発。それでも、いずれは木造で建て直してもらいたいという気持ちはあるそうです。
その大天守の最上階からは、復元工事中の本丸御殿や、大名古屋ビルヂングを含めた高層ビルが乱立する名古屋駅周辺、遠くの小牧山や金華山などの他にも………
白く光る銀色の丸いドーム状の建物が……… って、これだけでおわかりになる方もいらっしゃいますよね。そうです こちらの建物は、ナゴヤドームにございます。 実は私は、これからそのナゴヤドームに、プロ野球の試合を観に行くことになっているのですよ その様子と試合結果については、次回お伝えします。
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