波と狛のつれづれ日記

日本スピッツ波と狛と、ときどき箔

新野左馬助の里を訪ねて

2017-03-01 01:07:12 | 人物伝
こんばんは、白黒茶々です。
大河ドラマ「おんな城主 直虎」には、ドラマ化されるまでは一般的にほとんど知られていなかった人物がたくさん出てくるのですけど、刈谷俊介さん演じる新野左馬助(にいのさまのすけ)もそのうちの1人でした。 彼は今川家の一族ということもあって、井伊家の目付役として井伊谷に赴任し、さらにドラマでは千賀(財前直見)という名の妹も、井伊家の当主の直盛(杉本哲太)に嫁いでいきました。その2人の間に生まれたのが、のちに直虎となる次郎法師(柴咲コウ)なのですよ。 ということは、左馬助は次郎法師の母方の叔父に当たります。
その左馬助の出身地は、今の静岡県御前崎市の北部、菊川市との境に近い新野地区であります。 そのあたりは現在、彼を慕い誇りに思っている地元の方たちによって見どころが整備されています。ということで、今回は左馬助にまつわる名所旧跡を廻りつつ、彼の人物像を探ってみようと思います。それからその案内役として、またしても箔と波を任命させていただきます。



そのような流れで、やって来ましたよ 御前崎市の新野地区に。 ちなみに私の目の前にあるのは、地域の小さなスーパーにできた観光案内所「よってかまい」にございます。 こちらは、左馬助関連のスポットの案内はもちろんのこと………



案内地図が大々的に掲げられていて、パンフレットや関連グッズも取り揃えられていました。 あと、外部にトイレが新設されているのも、ありがたいですね。では、その案内に従って出発することにしましょう



御前崎市内の至るところには、このような「新野左馬助公の里」というのぼりが立っていました。 左馬助のフルネームは、新野左馬助親矩(ちかのり)。今川氏の一族として、代々新野村3000石を治める国人領主でした。



「よってかまい」から程近いところには、新野左馬助公展示館がありました。 せっかくなので、その内部を見学させてもらいましょう。
※話の流れでは2箇所目となっているのですけど、展示館の内部は箔と波を車の中に入れてから、最後に見学しました。(白黒茶々注



こちらは何かの古い施設のようだと思われたそこのアナタは、鋭いです 左馬助の展示館は、昭和8年(1933年)に建てられた鈴木医院という町の診療所だったところを利用して、今年の1月に開館しました。 そういうこともあって………



医院だった頃の診察室も、そのまま保存されているのですよ。 その医師だった鈴木東洋氏は地域の医療に携わる一方で、左馬助を祀る左馬武(さまたけ)神社が荒廃していることを憂い、新野左馬助公遺跡保存会を設立。保存会は神社を改築したあとに献茶祭事業も始め、新野左馬助公顕彰会となって、今に至ります。



こちらの部屋には、左馬助の居城だったと伝わる、舟ヶ谷の城山の模型を中心とした展示がなされています。 東洋氏は古城研究にも熱心で、静岡古城研究会を設立。御前崎市内の古城の発見や研究、保存に尽力しました。
平成25年(2013年)に88歳で亡くなるまで、彼は積極的に活動されていました。



さらに、展示館内には左馬助の姿絵もありました。 彼の肖像画は残っていないというので、これはイメージ画みたいなものでしょうか?



ちなみに、刈谷俊介さんが演じる左馬助は、このような姿となっております。 独特のシブさがあるので、今後他のドラマで第2第3の左馬助が出てくることになったとしたら、苦労しそうです。



さらに、その刈谷俊介さんの直筆サインも飾ってありましたよ 彼は撮影するにあたってこの地を訪れ、左馬武神社も参拝していったそうです。そうしたら、私たちも次はそちらに向かうことにしましょう。



その途中に、新野小学校跡がありました。 その小学校は昭和52年(1977年)に朝比奈小学校と統合し、浜岡北小学校となって閉校したのですけど、その跡地が新野柏木広場となった現在でも、校名の刻まれた門柱が残されているのですよ。



さらにその先に進んでいったら、私たちを歓迎するような「新野左馬助公の里」という大々的な看板が見えてきました。 左馬武神社は、左に入っていくのですね。いや、ちょっと待ってください。



そのウェルカム看板(?)の後ろには、無人販売がありましたよ しかも、新鮮で形が整っているレタスが2コも入って100円というではありませんか 昨今は、不作で野菜が高騰しているだけに、とてもありがたいです。そうしたら、帰りに買っていくことにしましょう。



左馬助からちょっと脱線してしまいましたけど、ようやく左馬武神社のある小山が見えてきましたよ ここから先の話には「おんな城主 直虎」のネタバレも含まれているので、ご注意くださいませ。



左馬助は今川家の家臣だったのですけど、今川家との同盟のために妹の千賀が井伊家に嫁いだため、目付役として井伊谷に屋敷を構えて移り住みました。 監視する役割だったのですけど、井伊家によく馴染み、井伊家の立場で物事を考えるようになりました。
………と言いながら、坂道を上っていきますよ。



そうしたら、ようやく左馬武神社にたどり着きました。
永禄5年(1562年)、井伊直親(三浦春馬)は小野正次(高橋一生)の讒言によって、今川氏真(尾上松也)に謀反を疑われました。 直親はその弁明のために、今川館のある駿府に向かったのですけど、その途中の掛川で今川の配下の朝比奈氏によって惨殺されてしまいました。
事態はそれだけでは収まらず、氏真は直親の遺児となったわずか2歳の虎松まで殺害するように命じました。井伊家で生き残っている男子は最長老の直平(前田吟)以外は虎松しかいないので、殺されたら井伊家は滅亡してしまいますよ。



左馬武神社から見た、舟ヶ谷の城山方面はこのような風景となっております。
そこで立ち上がったのが、左馬助であります。彼は虎松の助命を嘆願したのです。今川方の家臣なので、そのことによって彼までも殺される恐れがあったのですけど、危険を省みないで説得し続けました。そのカイあって、なんとか虎松を守り抜き、彼の屋敷にかくまうことに。



神社の屋根の下にある墓塔が、左馬助のお墓であります。虎松の助命嘆願の翌年の永禄6年(1563年)には、天方攻めに向かう途中で、直平が急死。その前に立ち寄った引馬城で、飯尾連竜の妻のお田鶴の方によって、彼は毒を盛られたとも云われています。

そのまた翌年の永禄7年(1564年)、左馬助は氏真に背いた連竜のいる引馬城を攻めたのですけど、その戦いで中野直由(筧利夫)とともに討ち死にしてしまいました。

虎松はやがて徳川家康のもとで頭角を表し、井伊直政と名乗って近江彦根藩の礎を築きました。 ここでもう1つ、ネタばらししてもいいでしょうか? 「おんな城主 直虎」では、直政役は管田将暉君が演じるのですけど、その幼少期の虎松は、寺田心君に決まりました。 TOTOネオレストのCMでリトルベンを演じている、あの心君ですよ これは、育て親の直虎だけではなく、視聴者の母性本能もくすぐること間違いナシでしょう。



通りかかったオバちゃんたちの手を借りて、なんとか左馬助と直虎の二冠は達成したのですけど、虎松が空白に………
虎松の命は、直虎の力だけでは救えなかったと思います。なので、井伊家が存続できたのも、左馬助が命をかけたおかげだと言ってもいいでしょう。彼は「義と情けの武将」として、地元の方に慕われているのにも、納得がいきました。 左馬助のその生きざまだけではなく、彼に対する地元の方たちの想いにも、私は感動しました。
ドラマの中での左馬助の最大の魅せ場と、刈谷俊介さんのクランクアウトまであと少し。皆さんもぜひ、お見逃しのないように


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