こんばんは、白黒茶々です。
小学校では6年生になると、社会科の授業の中で日本史を習うようになります。 しかし、時代が経つにつれて新たな史実が判明したり、違った解釈が起こったりして、昔私が教えてもらったものとは少々内容が変わっていました。 現在使われている教科書を見せてもらったら、「いいくにつくろう(1192年)」で覚えた鎌倉開府の年が「いいはこつくろう(1185年)」になっていたり、金閣のあるお寺を「金閣寺」と呼ぶのは間違いだとか………
さらに資料集もあったので、こちらのほうも覗いてみることにしましょう。 う~む……… 弥生時代の稲作の様子や、奈良の大仏の造り方の図解など、なんか懐かしいですね。
そのような中に、織田信長に関する記述がありましたよ。 ちなみに私が触っているのは、宣教師フランシスコ・ザビエル氏です。んんっ、またその中に、私の気になるものが………
これは、安土城天主の模型ですね。天下統一を目指す織田信長は、天正7年(1579年)に京都や甲賀に近い琵琶湖のほとりの安土に、このお城を築きました。それまでのお城は、険しい山の上に構えた砦だったり、土塁(土を盛って固めた土手)に木柵や板葺きの建物が建っているのが主流だったのですけど、安土城は小高い丘の上に総石垣で築かれ、ほとんどの建物は瓦ぶき。それだけではなく、その頂には史上初となる5層の高層建築の天主があがっていたのです。 その建物は、きらびやかなうえに内部は地下室も含めて7階あり、実際にそこで信長が生活していたというから驚きです。 う~む……… 安土城のことを追求していったら、なんかそちらに行きたくなってしまいましたよ。
そうしたら、迷わず電車に飛び乗り、安土を目指して西に向かいましょう やはりたつぴにも安土城を感じてもらいたいので、一緒に付いてきなさい。 それから、ついでに箔も。
電車に揺られること3時間あまり。能登川を過ぎて、車窓からは安土城が築かれた安土山が見えてきました。 この風景を眺めると、歴史の息遣いを感じ、心が沸き立ちます。
そうしているうちに、ようやく安土駅にたどり着きましたよ ちなみに、私がこちらに来るのは14年ぶりとなります。
その安土駅前では、織田信長の銅像が出迎えてくれました。 そして、私たちが向かった先は………
駅からほど近いところにある、安土城郭資料館です。ではさっそく、その中に入ってみることにしましょう。
こちらの資料館の館員の方は、快く箔入りキャリーを預かってくれました。そのおかげで、私とたつぴは心置きなく館内を見学することができました。 そんな私たちの目の中に、最初に飛び込んできたのは………
安土城天主の20分の1の模型です。 安土城の建物は、本能寺の変があった天正10年(1582年)以降に失われました。しかし、その資料が全く残っていないので、当時のお城の様子を知ることはできませんでした。
その後、歴史学者によって天主の復原図がいくつか発表されたりしたのですけど、それらの中でも特に、内藤昌氏が著したものには説得力があります。織田信長の側近が書き残した天主の記述が、その後発見された「天守指図」という安土城の設計図の写しと思われる資料や、その跡地の測量結果と見事に一致したのです。 それらの3点セットから導き出されたのが、この建物……… というか、模型なのです。
とかなんとかワンチク、いや、ウンチクを垂れているうちに、館員さんがその模型を割ってくれましたよ そうしたら、内部の様子も見ることができ、私もさらに調子こいて解説してしまいます。
これは、まさにたつぴが持っている資料集に載っていたものです。 では、この模型を見ながら、できるだけ簡潔に説明させていただきます。
安土城の天主は、先ほども述べたように地下室も含めて内部は7階。しかも、初階の平面は不等辺八角形のいびつな形をしていました。その建物は信長の生活空間ということもあって、地下には厠が、1階には台所や対面所などがありました。信長が寝起きしていたのは3階なのですけど、驚くことに地下からその階まで吹き抜け空間があったそうです。 その吹き抜けの最下部には宝塔があり、さらに2階の部分には能舞台が張り出していて、それらをまたぐように3階には橋が架かっていました。
しかし、映画「火天の城」では、「(安土城)天主に吹き抜けを造れ」という信長の要望に、棟梁の岡部又衛門は「吹き抜けを設けると、火の回りが早い」と直訴し、結局そちらでは吹き抜けナシの天主ができあっています。
話は元に戻って、4階は屋根裏空間ながら南北に畳敷きの部屋があり、5階は朱塗りの正八角形。その階の壁や天井には仏画などが描かれ、とてもきらびやかでした。
そして、最上階こと6階は金貼りの正方形をしていました。その内部には賢人の絵が描かれていて、外には回廊があって、そこに降り立てば琵琶湖や城下町を見渡すことができるようになっていました。
それだけではなくその資料館には、かつてローマに送るために安土城の詳細を書き記し、その後行方不明になった屏風絵を復元したものも展示されていました。 この屏風絵は安土城から始まり、そのあとに続く絵もたどっていくと、1つの物語になるので、なかなか面白いですよ。
それらの資料を見ていったら、今度は安土城の天主の5・6階部分を実物大で復元したものが置かれている安土城信長の館や、安土城跡そのものにも行きたくなってしまいました。
しかし、実は今回寄ったところは前座というか寄り道で、この先にはその日のメインイベントが控えているのです。そのメインイベントとは………
大変申し訳ないのですけど、語り部が睡魔に襲われて舟を漕ぎ始めたので、今宵はここまでにして、話は次回に続けさせていただきます。
「まさか、またお城では………」と思われた方は、こちらに投票してやってください。
小学校では6年生になると、社会科の授業の中で日本史を習うようになります。 しかし、時代が経つにつれて新たな史実が判明したり、違った解釈が起こったりして、昔私が教えてもらったものとは少々内容が変わっていました。 現在使われている教科書を見せてもらったら、「いいくにつくろう(1192年)」で覚えた鎌倉開府の年が「いいはこつくろう(1185年)」になっていたり、金閣のあるお寺を「金閣寺」と呼ぶのは間違いだとか………
さらに資料集もあったので、こちらのほうも覗いてみることにしましょう。 う~む……… 弥生時代の稲作の様子や、奈良の大仏の造り方の図解など、なんか懐かしいですね。
そのような中に、織田信長に関する記述がありましたよ。 ちなみに私が触っているのは、宣教師フランシスコ・ザビエル氏です。んんっ、またその中に、私の気になるものが………
これは、安土城天主の模型ですね。天下統一を目指す織田信長は、天正7年(1579年)に京都や甲賀に近い琵琶湖のほとりの安土に、このお城を築きました。それまでのお城は、険しい山の上に構えた砦だったり、土塁(土を盛って固めた土手)に木柵や板葺きの建物が建っているのが主流だったのですけど、安土城は小高い丘の上に総石垣で築かれ、ほとんどの建物は瓦ぶき。それだけではなく、その頂には史上初となる5層の高層建築の天主があがっていたのです。 その建物は、きらびやかなうえに内部は地下室も含めて7階あり、実際にそこで信長が生活していたというから驚きです。 う~む……… 安土城のことを追求していったら、なんかそちらに行きたくなってしまいましたよ。
そうしたら、迷わず電車に飛び乗り、安土を目指して西に向かいましょう やはりたつぴにも安土城を感じてもらいたいので、一緒に付いてきなさい。 それから、ついでに箔も。
電車に揺られること3時間あまり。能登川を過ぎて、車窓からは安土城が築かれた安土山が見えてきました。 この風景を眺めると、歴史の息遣いを感じ、心が沸き立ちます。
そうしているうちに、ようやく安土駅にたどり着きましたよ ちなみに、私がこちらに来るのは14年ぶりとなります。
その安土駅前では、織田信長の銅像が出迎えてくれました。 そして、私たちが向かった先は………
駅からほど近いところにある、安土城郭資料館です。ではさっそく、その中に入ってみることにしましょう。
こちらの資料館の館員の方は、快く箔入りキャリーを預かってくれました。そのおかげで、私とたつぴは心置きなく館内を見学することができました。 そんな私たちの目の中に、最初に飛び込んできたのは………
安土城天主の20分の1の模型です。 安土城の建物は、本能寺の変があった天正10年(1582年)以降に失われました。しかし、その資料が全く残っていないので、当時のお城の様子を知ることはできませんでした。
その後、歴史学者によって天主の復原図がいくつか発表されたりしたのですけど、それらの中でも特に、内藤昌氏が著したものには説得力があります。織田信長の側近が書き残した天主の記述が、その後発見された「天守指図」という安土城の設計図の写しと思われる資料や、その跡地の測量結果と見事に一致したのです。 それらの3点セットから導き出されたのが、この建物……… というか、模型なのです。
とかなんとかワンチク、いや、ウンチクを垂れているうちに、館員さんがその模型を割ってくれましたよ そうしたら、内部の様子も見ることができ、私もさらに調子こいて解説してしまいます。
これは、まさにたつぴが持っている資料集に載っていたものです。 では、この模型を見ながら、できるだけ簡潔に説明させていただきます。
安土城の天主は、先ほども述べたように地下室も含めて内部は7階。しかも、初階の平面は不等辺八角形のいびつな形をしていました。その建物は信長の生活空間ということもあって、地下には厠が、1階には台所や対面所などがありました。信長が寝起きしていたのは3階なのですけど、驚くことに地下からその階まで吹き抜け空間があったそうです。 その吹き抜けの最下部には宝塔があり、さらに2階の部分には能舞台が張り出していて、それらをまたぐように3階には橋が架かっていました。
しかし、映画「火天の城」では、「(安土城)天主に吹き抜けを造れ」という信長の要望に、棟梁の岡部又衛門は「吹き抜けを設けると、火の回りが早い」と直訴し、結局そちらでは吹き抜けナシの天主ができあっています。
話は元に戻って、4階は屋根裏空間ながら南北に畳敷きの部屋があり、5階は朱塗りの正八角形。その階の壁や天井には仏画などが描かれ、とてもきらびやかでした。
そして、最上階こと6階は金貼りの正方形をしていました。その内部には賢人の絵が描かれていて、外には回廊があって、そこに降り立てば琵琶湖や城下町を見渡すことができるようになっていました。
それだけではなくその資料館には、かつてローマに送るために安土城の詳細を書き記し、その後行方不明になった屏風絵を復元したものも展示されていました。 この屏風絵は安土城から始まり、そのあとに続く絵もたどっていくと、1つの物語になるので、なかなか面白いですよ。
それらの資料を見ていったら、今度は安土城の天主の5・6階部分を実物大で復元したものが置かれている安土城信長の館や、安土城跡そのものにも行きたくなってしまいました。
しかし、実は今回寄ったところは前座というか寄り道で、この先にはその日のメインイベントが控えているのです。そのメインイベントとは………
大変申し訳ないのですけど、語り部が睡魔に襲われて舟を漕ぎ始めたので、今宵はここまでにして、話は次回に続けさせていただきます。
「まさか、またお城では………」と思われた方は、こちらに投票してやってください。
今は違うと知ってビックリです
学生のころはなんとなくしか勉強していなかったのですが、
最近になって大河ドラマや歴史小説に興味がわいてくるようになりました。
年をとったということなんでしょうか
歴史は人間くさいところがあり、見方によってはけっこう面白いです。 また、大河ドラマに出てきた人物を追っていったり、彼らにゆかりのある名所旧跡を訪ね歩くのも、いいですよ~
いえいえ、最近は老若男女を問わずに歴史が見直されているので、豆蔵さんがお歳を召したなんてことは決してないです、多分きっと。