【映画がはねたら、都バスに乗って】

映画が終わったら都バスにゆられ、2人で交わすたわいのないお喋り。それがささやかな贅沢ってもんです。(文責:ジョー)

「おとうと」:築地五丁目バス停付近の会話

2010-02-10 | ★市01系統(新橋駅~新橋駅)

こんなところに踏切?銀座に踏切があるとは知らなかったなあ。
これは、昔、このあたりに線路があった名残よ。
踏切なんて、都内ではめっきり見かけなくなったな。
そんなことはないわ。池上線の石川台駅にもこういう踏切があるわよ。
山田洋次監督の映画「おとうと」の舞台になった坂の町か。
吉永小百合が賢姉で、笑福亭鶴瓶が愚弟を演じる。
「男はつらいよ」と真逆の設定。
弟のやんちゃぶりは、寅さんそのものよね。
姉のところにふらりと現れては騒動を起こし、またふらりと去っていく。
店の前まで来ていながら、素直に中に入らないで、店先から奥をのぞきこむところなんて、何度見た光景か。
でも、「男はつらいよ」と違って、周囲の反応ははるかに冷たい。
冷たいというより、厳しいってことだろうけど、実際にあんな男が親戚にいたら、とらやの人々みたいにやさしくばかりしてられないわよ。
そう、そう。なんだかんだ言って、「男はつらいよ」はメルヘンだったけど、この「おとうと」は、ほんとに寅さんみたいな男がいたら、こんな惨めなことになるぞっていう真実味を帯びた話。
前半は、「男はつらいよ」以前の「吹けば飛ぶよな男だが」の頃の山田洋次映画に戻ったような印象よね。
温かみより残酷さのほうが勝っているような力技の喜劇。
一方、後半は、名前こそ違え、実在するホームレスのためのホスピスが出てきたりして、懐かしや、山田洋次の共同体好みが顔を出す。
でも、渥美清が生きていたら、「男はつらいよ」はこういう形で終わらせたかったんじゃないかって気もする。
とくに、ラスト、吉永小百合が笑福亭鶴瓶を看病するシーンなんて、倍賞千恵子と渥美清でやっていたら、「男はつらいよ」シリーズもきちんと締めくくることができたんだろうに、って思っちゃう。
“市川崑の「おとうと」に捧ぐ”っていう献辞が出るけど、“渥美清の「寅さん」に捧ぐ”っていうほうが大きい。
でも、観客は昭和の人ばかり。この人たちがいなくなったら、こういう映画を観る人も途絶えちゃうんでしょうね。
撮る人もいなくなっちゃうさ。
東京から踏切がなくなっていくようにね。
カン、カン、カンていう音が消えるのは寂しいねえ。
あーあ、あなたもどっぷり昭和の人ね。





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ふたりが乗ったのは、都バス<市01系統>
新橋駅前⇒浜離宮前⇒築地五丁目⇒築地市場正門前⇒国立がんセンター前⇒新橋駅前




「インビクタス 負けざる者たち」:浜離宮前バス停付近の会話

2010-02-06 | ★市01系統(新橋駅~新橋駅)

恩賜庭園?恩賜って何だ?
天皇から賜ったって言う意味よ。
サッカーの天皇杯みたいなもんか。
ちょっと違うと思うけどね。
サッカーとラグビーなら同じようなもんか。
まあ、どちらもワールドカップがあるほどの世界的競技ではあるけどね。
しかし、知らなかったなあ、南アフリカでラグビーのワールドカップが開かれていたなんて。
しかも、ネルソン・マンデラが深くかかわっていたなんてね。
そのへんの事情は、クリント・イーストウッド監督の新作「インビクタス 負けざる者たち」を観るとよくわかる。
アパルトヘイトで27年間投獄されていたネルソン・マンデラが解放されて大統領になったらラグビーチームを強くして国をひとつにしようとする。
ところがそのラグビーチーム、アパルトヘイトの時代には白人社会の象徴として黒人たちからは忌み嫌われていた。
白人に迫害されていたマンデラだからまさかそのチームを存続させるとは思わなかったのに、存続させるどころか、国民の気持ちをひとつにするために強化する。
「白人になくて我々にあるのは寛容だ」とか言って黒人たちを巻き込んでいく。
そう、マンデラが目指しているのは、白人の国でも黒人の国でもなく、両方の尊厳が保たれる国なのよね。
白人たちに27年間も投獄されていたのに、恨みのひとつも吐かず、たいしたもんだ。
大統領を取り巻くSPにも、黒人と白人の混成チームを配したりして自ら融和をはかる姿勢を見せる。
彼らが、最初は反目しあっていたのに、最後は肩寄せあってラグビーチームを応援するようになる。
そして、国民全体も、黒人も白人もなく、祖国のチームを応援し始める。
やっぱり、オリンピックとかワールドカップになると、みんな一丸となって自分の国を応援しちゃうもんなあ。スポーツの力ってすごいよなあ。
それをわかってたマンデラがまた、すごい。あの信念は、やっぱり迫害の歴史の中で培われたものかしらね。
で、それをこういう映画にしたイーストウッドがまたすごい。
あ、ようやく監督の話になってきた。
あれだけの偉人を描くのに、イーストウッドの演出はいつものように淡々としたものだ。
決して、感情に溺れたり、話がぶれたりしない。ただ物語ることをきっちりと物語っていく。
だから表面的な伝記映画にはならない。血の通った人間のドラマになる。
サスペンスを撮ろうが、戦争映画を撮ろうが、隣近所の話を撮ろうが、こういう政治やスポーツの話を撮ろうが、すべて傑作にしてしまうというのは、どういうことかしらね。いい意味で、あいた口がふさがらないわ。
天才監督というのは、スタンリー・キューブリックのように美術に凝ったり、フランソワ・トリュフォーのように題材が恋愛に偏ったり、みんな独自の映像スタイルを持っているんだけど、イーストウッドには、そういう独特のスタイルがあるわけでもないんだよな。なのに、撮る映画、撮る映画、みんな傑作になってしまうのが凡人には信じられないところだ。
結局、映画の基本に忠実だっていうことかしらね。
それ以上、へんな色気を出さないことで、かえって映画に色気が出てきてしまうのかな。
ファーストシーン、道をはさんだ右と左で、ただ黒人たちはサッカーをして、白人たちはラグビーをしているだけのシーンなのに、それで映画のテーマをすべて感じさせてしまう、とかね。
これで年齢は79歳だぜ。怪物だ、怪物。
いま、世界の映画監督に天皇杯をあげるとしたら、ぶっちぎりでイーストウッドしかいないわね。
いない。





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「ゴールデンスランバー」:新橋駅前バス停付近の会話

2010-02-03 | ★市01系統(新橋駅~新橋駅)

お。こんなところで牛タンとは珍しい。
牛タンといえば、仙台よね。この店も仙台にあるお店らしいわよ。
杜の都でモリモリと、牛タン食ったか、永島敏行。
なに、それ?
いや、仙台を舞台にした映画「ゴールデンスランバー」を観たら、永島敏行のモリモリした体がいちばん印象的だったからさ。
「ゴールデンスランバー」は、堺雅人が主演の映画よ。仙台で起きた首相暗殺事件の犯人に仕立て上げられた宅配業者の男が町中を逃げ回る話。
永島敏行は、彼を追う警察側の一員に過ぎないんだけど、冷徹一筋。ひとことも言葉を発せずにひたすらライフルのような長身の銃をぶっ放す。
背中にナイフを突き立てられても、平然として顔色ひとつ変えない。
まるでターミネーターだ。永島敏行って、昔からあのいかつい体が特徴だったけど、とうとうそれを生かす映画が現れた。彼を主演にしたスピンオフ映画をつくってほしいと思うほどだ。
でも、「ゴールデンスランバー」では脇役の脇役に過ぎない。あくまで、堺雅人が主役の巻き込まれ型サスペンス。
でも、原作が伊坂幸太郎だから、ヒチコック映画みたいに、逃げ回りながら真犯人を見つけていくという展開にはならない。
むしろ、逃げ回る中で、学生時代の仲間たちとの絆を再確認していくという、伊坂幸太郎お得意の人情話になっていく。
かつてのサークルの仲間たちや、ゆきずりの市井の人々が彼を窮地から救っていく。
その中に、竹内結子をはじめとした仲間たちとの懐かしいような、甘酸っぱいようなエピソードがはさまれてくる。
結局、人間、誰かとどこかでつながっている、というノスタルジックな話に収束されてくるんだけど、居心地は悪くない。
中村義洋監督が、いつもながら伊坂幸太郎ワールドのツボを抑えた映画づくりをしているからね。
なにげない会話の端々にしゃれたキーワードを散りばめたり、登場人物たちのさりげない癖や振る舞いを生かして物語を転がしていく技術は、伊坂幸太郎×中村義洋ならではのものだ。
なんか、都合よく善意の人々が現れてタイミングよく助けてくれるっていうふうにも見えるけど、それこそ伊坂幸太郎の描く世界だからね。
その中心にいるのが、堺雅人。なんの裏表もない、単なるあんちゃんなんだけど、こういう人だったら、かえって周りの人々も助けの手を差しのべちゃうかもね、という憎めない役柄になっている。
永島敏行は、それと対極にあるような、血も涙もない人物。
キモカッコいい。
牛タン食べすぎかもね。





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