ものに善悪があるわけではありません。
上下、平等、差別(しゃべつ)というものは、自分以外の
相手にある訳ではなく、皆、私の側に「ものを見る立場」というものが
あって、本心を昧(くら)ましているわけです。
「不昧いんが(ふまいいんが)」とは、もともと昧ますものは
何もないのにどうしても二元論という相対的なものの見方で
こちらに二つの見方があるということに気が付かないで、
相手にそういうものが備わっているかのごとくに思うものです。
そういう「思惑」が全部邪魔をしているという意味です。
一つのものですから、どうすることも出来ないのです。
ですから指導者は、「そのままにしておきなさい、手を付けたら
混乱が増すばかりですよ」というのです。
だから、ものというものは、分かれていながら一つに成っている
ことを知(識)るということが大切です。
これから、「一つに成ろう」とするのではありません。
これから、「一つに成る」と考えて坐ることは、「習学」
ということになります。
これは順逆ともに改めなければならないところです。
物事が順調に運んで満足をしていても、不満足な状態であろうとも
自分の側に比較するものを持って「損はよくないことだ、得は
よいことだ」とか、「物事が順調に運んでいる時はいいけれども、
逆境はよくないことだ」という考えを起こして、自分自身で喜んだり
苦しんだりしてしまいますが、もともと「人」の考えが毛筋ほども
入らないようになっている元々の世界があるということです。
そのことを私たち衆生は知(識)らなければなりません。