連作短編集の第三話です。
ぼくの小学校に卒業生だという触れ込みで、元十両二枚目と称する江戸響というお相撲さんがチャリティショーに来ることになりました。
それ以来、学校ではちょっとした相撲ブームになっています。
しかし、その江戸響が「相撲詐欺」だという噂を、友だちの野口くんと行った公開模試で、他の区からやってきた子から聞きます。
チャリティショーでは、少しやつれた感じの江戸響は、子どもたちに丸太で腹を突かせたり、ビール瓶を砕いてその上に横たわり大きな岩を腹に載せてゲンノウで割らせたりします。
最後に、三台の車に子どもたちを満載にして、歯の力で引っ張って見せようとしますが失敗して歯が折れ血まみれになってしまいます。
ぼくの公開模試の結果は予想通り芳しくありませんでしたが、野口くんは13番と健闘します。
その時に、前に会った子から、やはり江戸響は「相撲詐欺」だったことを知らされます。
でも、ぼくと野口くんは、あんなにがんばっていた江戸響を信じたいと思います。
模試の帰り道に野口くんと自転車をこぎながら、国語の問題に出た高村光太郎の「ぼろぼろな駝鳥」という詩を、ぼくは思い出します。
そして、「ぼろぼろな駝鳥」は模試を受けに行った時はぼく自身だと思ったけれど、今は江戸響だと思います。
「ぼろぼろな駝鳥 高村光太郎
何がおもしろくて駝鳥を飼うのだ。
動物園の四坪半のぬかるみの中では、
脚が大股すぎるじゃないか。
くびがあんまり長すぎるじゃないか。
雪の降る国にこれでは羽がぼろぼろすぎるじゃないか。
腹がへるから堅パンも食うだろうが、
駝鳥の眼は遠くばかり見ているじゃないか。
身も世もないように燃えているじゃないか。
瑠璃色の風が今にも吹いてくるのを待ち構えているじゃないか。
あの小さな素朴な頭が無辺大の夢で逆まいているじゃないか。
これはもう駝鳥じゃないじゃないか。
人間よ、
もうよせ、こんなことは。」
ややセンチメンタルな感じはしますが、少年特有のロマンチシズムをうまく描いています。
「今は何者でもないけれど、いつかきっとぼくだって何かになれる」
まだそう信じられる1980年ごろの少年たちと児童文学作家は、今よりもずっと幸福だったのだと思います。
朝井リョウの直木賞受賞作の「何者」(その記事を参照してください)では、2011年になってもまだ「何者」かになれると信じている大学生たちが出てきますが、彼らは一種のエリート(朝井の言葉を借りれば教室カースト制度の上の方)なので、非正規労働にしか就けない若者たちや教室カースト制度の下層の子どもたちはとっくに「何者」になることをあきらめています。
ぼくの小学校に卒業生だという触れ込みで、元十両二枚目と称する江戸響というお相撲さんがチャリティショーに来ることになりました。
それ以来、学校ではちょっとした相撲ブームになっています。
しかし、その江戸響が「相撲詐欺」だという噂を、友だちの野口くんと行った公開模試で、他の区からやってきた子から聞きます。
チャリティショーでは、少しやつれた感じの江戸響は、子どもたちに丸太で腹を突かせたり、ビール瓶を砕いてその上に横たわり大きな岩を腹に載せてゲンノウで割らせたりします。
最後に、三台の車に子どもたちを満載にして、歯の力で引っ張って見せようとしますが失敗して歯が折れ血まみれになってしまいます。
ぼくの公開模試の結果は予想通り芳しくありませんでしたが、野口くんは13番と健闘します。
その時に、前に会った子から、やはり江戸響は「相撲詐欺」だったことを知らされます。
でも、ぼくと野口くんは、あんなにがんばっていた江戸響を信じたいと思います。
模試の帰り道に野口くんと自転車をこぎながら、国語の問題に出た高村光太郎の「ぼろぼろな駝鳥」という詩を、ぼくは思い出します。
そして、「ぼろぼろな駝鳥」は模試を受けに行った時はぼく自身だと思ったけれど、今は江戸響だと思います。
「ぼろぼろな駝鳥 高村光太郎
何がおもしろくて駝鳥を飼うのだ。
動物園の四坪半のぬかるみの中では、
脚が大股すぎるじゃないか。
くびがあんまり長すぎるじゃないか。
雪の降る国にこれでは羽がぼろぼろすぎるじゃないか。
腹がへるから堅パンも食うだろうが、
駝鳥の眼は遠くばかり見ているじゃないか。
身も世もないように燃えているじゃないか。
瑠璃色の風が今にも吹いてくるのを待ち構えているじゃないか。
あの小さな素朴な頭が無辺大の夢で逆まいているじゃないか。
これはもう駝鳥じゃないじゃないか。
人間よ、
もうよせ、こんなことは。」
ややセンチメンタルな感じはしますが、少年特有のロマンチシズムをうまく描いています。
「今は何者でもないけれど、いつかきっとぼくだって何かになれる」
まだそう信じられる1980年ごろの少年たちと児童文学作家は、今よりもずっと幸福だったのだと思います。
朝井リョウの直木賞受賞作の「何者」(その記事を参照してください)では、2011年になってもまだ「何者」かになれると信じている大学生たちが出てきますが、彼らは一種のエリート(朝井の言葉を借りれば教室カースト制度の上の方)なので、非正規労働にしか就けない若者たちや教室カースト制度の下層の子どもたちはとっくに「何者」になることをあきらめています。
野口くんの勉強べや (偕成社の創作) | |
クリエーター情報なし | |
偕成社 |