現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

大石真「チョコレート戦争」

2024-04-09 10:14:08 | 作品論

 菓子店のショーウィンドウを壊したとの濡れ衣を着せられた子どもたちが、そこに飾られていたチョコレートのお城を盗み出すことを計画します。
 この計画は、事前に店の経営者の知ることとなり、子どもたちのチョコレートのお城強奪は、かえって店の宣伝に利用されてしまいました。
 しかし、この店のあくどいやり方が市内の全小学校の学校新聞で報道されることにより、全市的な不買運動がおこり、最後は店の経営者が子どもたちに謝罪して、子どもたち側の大勝利に終わります。
 1965年初版以来、現在まで60年近くにわたって百数十刷を重ねている「現代日本児童文学」の「古典」の一つです。
 しかし、これを「現代児童文学」の代表作と見るのには、異論もあるだろうと思います。
 大石は、「幸い、それらの作品のいくつかが(注:日本児童文学者協会新人賞を受賞した1953年の「風信器」などを指します)大人の読者の好評を得て、ぼくも童話作家の仲間にくわえられましたけれど、ぼくの心の中に、かすかな疑問がないわけではなかった。(中略)ぼくは童話というものは、子どもにおもしろくなくては駄目であると考えるようになった。子どもにおもしろく、しかも、大人が読んでも、おもしろくなくては駄目であると思った。(「日本児童文学」1969年11月号)」と、「チョコレート戦争」の成功をふまえて発言しています。
 確かに、この作品では、多くの子どもの読者を獲得しました。
 偕成社の名編集者であった相原法則は、大石について以下のように述べています。
「少年ジャンプのモットーとするところの内容を、友情・努力・勝利の三つだといいます。(中略)知ってか知らずか、大石さんの作品は、まさにこの三つを取り入れています。(日本児童文学者協会編「児童文学の魅力 いま読む100冊日本編」所収)」
 大石がエンターテインメントも書ける作家として、それまで続けていた小峰書店での編集者の仕事を1966年に辞めて作家生活に専念できたのも、この作品の成功による自信からだと思われます。
 しかし、大石の言葉の後半の「大人が読んでも、おもしろくなくては駄目である」ということがこの作品で成功したかどうかについては、かなり疑問が残ります。
 例えば、水沢周は、この作品のプロット、キャラクター、さらにはディテールな点までについて、リアリティのなさを指摘して酷評しています(「現代日本児童文学作品論 日本児童文学別冊」所収)。
 「チョコレート戦争」のようなエンターテインメント作品を、純文学の切り口で評する水沢の論じ方はフェアじゃないと思いましたが、一方で大人の読者が読んで物足らないという面は、かなり当たっていると思われます。
 では、「現代日本児童文学」として、この作品がどうなのかを少し分析してみたいと思います。
 その前に、大石が自分の書いている物を「児童文学」ではなく、「童話」と称している理由にふれておきます。
 大石は、その当時の童話界のメッカだった早大童話会で、「現代日本児童文学」の理論的な出発点の一つといわれる「少年文学宣言(正しくは少年文学の旗の下に)」(その記事を参照してください)を出した鳥越信、古田足日、神宮輝夫、山中恒たちよりも数年先輩にあたる世代に属しています。
 その後、大石は「少年文学宣言」派とは袂をわかって、早大童話会の顧問で「少年文学宣言」派に(それだけではなく石井桃子たちの「子どもと文学」派からも)批判された近代童話の大御所たちの一人である坪田譲治が主宰した「びわの実学校」に同人として参加しています。
 そのために、自分の作品を「児童文学」ではなく、「童話」と称しているのです。
 それでは、「現代児童文学」の代表的な特徴(これも各派によって様々な意見があるのですが)に照らし合わせて、この作品を眺めてみましょう。
「散文性の獲得」
 「現代児童文学」では、近代童話の詩的性格を克服して、小説精神を持った散文で書かれることを目指しました。
 この点では、「チョコレート戦争」は申し分ないでしょう。
 大石の優れた特長の一つである平明で子どもにもわかりやすい文章で、作品は書かれています。
 この読みやすさが、多くの読者を獲得した大きな成功要因です。
「おもしろく、はっきりわかりやすく」
 特に「子どもと文学」派は、この点を世界基準と称して「現代児童文学」に求めました。
 「チョコレート戦争」は、このポイントもクリアしています。
 やや単純すぎるとも思われるキャラクター設定やプロット、適度に読者をハラハラさせるストーリー展開は、おもしろくてわかりやすく、確実に子どもの読者をつかみました。
「子どもへの関心」
 「現代児童文学」では、大人の道徳や常識に縛られない生き生きとした子ども像を創造する事を目指しました。
 この作品では、宣伝に利用しようとする菓子店の経営者の「大人の論理」を、全市内の子どもたちの団結による「子どもの論理」が打ち破ったかに見えます。
 そこに読者の子どもたちは、大きな達成感を感じるのでしょう。
 しかし、実は一見「子どもの論理」に見える「学校新聞」での批判は、実は大石自身の「ジャーナリズムに対する過信」という「大人の論理」が透けて見えてなりません。
「変革への意思」
 新しいもの(児童文学では主に子どもに代表される)が古きもの(大人に代表される既成の権威)を打ち破って、社会変革につながる児童文学を目指しました。
 この作品ではここが一番弱いし、大石自身がこの作品を「児童文学」ではなく「童話」と称した点でもあると思います。
 菓子店の経営者がおわびに子どもたちの学校へ毎月ケーキを届けるようになるエンディングは、大人(権威、あるいは体制側)が子ども(変革者)をたんに懐柔しているだけで、少しも社会を変革しようとしていない現状肯定的な姿に見えてなりません。
 大石は、その後、「教室205号」などの社会的な問題を取り扱った作品も発表しています。
 彼は、「童話」と「現代児童文学」の狭間で苦闘しながら、1990年に亡くなるまでの作家生活をおくったように思われます。
 前出した相原の言葉を借りると、「いい本には二種類しかない。褒められる本(相原の定義では賞を取ること)と売れる本だ。しかし、たいがいの作家は、一つの作品で両方を狙うから失敗する」
 そういう意味では、大石は、その両方のいい本を世の中に残したことになりました。
 日本児童文学者協会新人賞を取った「風信器」などが前者で、「チョコレート戦争」はもちろん後者です。
 最後に、「現代日本児童文学作家案内 日本児童文学別冊」に掲載された大石自身の言葉を紹介しましょう。
「児童文学とは何か――この問いかけが、たえず波のように私の胸におそいかかってっくる。この十年間(現代日本児童文学作家案内は1975年9月20日発行)に発表された私の作品は、すべてその問いかけへの答えだといってよい。あるときの私は児童文学を青春文学の一変種として捉え、あるときの私は暗い人生の反措定として児童文学を捉えた。だがそれでよいのだろうか。これからもたえず疑問が生まれ、その解答のかたちで私の児童文学は創り出されていくことだろう。」
 こういった「現代児童文学」とエンターテインメントの狭間における煩悶は、かつては私も含めて多くの児童文学作家に共有されていたと思いますが、現在では「売れる本」という価値観がすべてで、そのような葛藤をしている書き手は見当たりません。

チョコレート戦争 (新・名作の愛蔵版)
クリエーター情報なし
理論社





 





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