雲は完璧な姿だと思う。。

いつの日か、愛する誰かが「アイツはこんな事考えて生きていたのか、、」と見つけてもらえたら。そんな思いで書き記してます。

理不尽の海

2012-09-07 00:01:23 | 感謝
「本当に、どうしてこんなに理不尽なんでしょう......」



最近、こんな相談や愚痴を色んなスタッフからかなり沢山聞いています。
気持ちは......僕なりに、本当に良くわかります......はい......
僕も同じように、
人並みにそんな気持ちや思いを味わって来たつもりではあるのですが、
その「理不尽さ」ということについては、
僕はだいたい以下のように考えていて。
時折人に答えたり、話したりすることがあります。
勿論それは、ごく個人的な、
小さな人生の歩みの中で感じて来た話というぐらいのものなのですが.......



例えば、野山や公園の草むらで一歩足を踏み出します。
その自分の足の下ではいったい何匹の小さな虫達が踏まれ、
理不尽にも命を落としてるのでしょうか。

例えばハンバーガーを食べます。
それはとても美味しくて、少しばかり幸せな一時が流れます。
ただ、そこには何の理不尽さも無いのでしょうか。
ハンバーガーは最初からハンバーガーではありません。
見方を変えれば、
それは「命そのもの」と言えるのかもしれません。

昔......今もそんな家は沢山あると思いますが......
鶏を飼っていた様な家ではよく見受けられであろう、
トリを「シメル」という行為。
それをどのくらいの人が「実際に」やったり、
見たりしたことがあるのでしょうか。
命が命の為に命を奪う瞬間。

「命」という視点に立った時、
そういった自分以外の命や生命、地球、宇宙、良心、良神......
神、に対して起こしている自らの理不尽さを、
人は自分の生活や精神が安定や安心をしている時には
忘れてしまいがちです。
自分が途方もない理不尽さにでも当たらない限り、
理不尽にも失われた命達が自らの命を育んでくれているというような
「極基本的な事実」すらも忘れてしまいがちです。



ここで考えます。
もし宇宙の真理や神の摂理......「力」の一つが
「バランスを取ること」だとしたら、
理不尽さそのものに活かされている僕らが、
時に理不尽な問題に巻き込まれてしまうということも
避けれないことなのかもしれません。



命は命によってもたらされます。
故に、命は命によって育まれるのかもしれません。



今食しているものは命ではないと言えるのでしょうか。
植物は、野菜は、果物は命ではないと言えるのでしょうか。
育むために削られる、与えられる命は、
決して理不尽なことではないんだと、
果たして、そんなふうに言い切れるのでしょうか。



もう一度。
命という視点に立った時。
理不尽なことが起こるその理由は、多分......



生きているから。



理不尽なことを無くすには、きっと無生物......
空気や水だけで生きていけるような人にならなければ
出来ないことなのかもしれません。
それには仙人のように山奥に駆け込んで、
悟りを開く様な生活をするしかないのかもしれません。
それでも、どんな山奥でも、
一歩踏み出した足下には生き物は沢山いるはずです。
野菜ぐらいは食べるかもしれません。
野菜は生き物では無いのでしょうか?



どうも......無理っぽいです。



もし僕達が神のように潔白に生きていければ、
生きることが出来れば、
理不尽な事も起きないような気もします。が、
それはこの地球に「命」を持って生きている限り
無理な話なのかもしれません。
生きている限り、必ず、
何かに対し理不尽なことを「知らないうちに」しているような気がします。



だから、
理不尽さを避けるという事は「生きている限り」無理なのかもしれません。



理不尽さこそが生きるということ。
理不尽さこそが、
命を与え、与えられ、持って、持たれて、
生きているという証。



そう、だから、
古より賢人達は常にこう教えるしか無かったのだと思います。



「全てに感謝」



失われた命にも感謝。
理不尽な事にも感謝。
理不尽の海の中で溺れそうになって頑張っている自分自身にも感謝。

自分も理不尽によって生かされているのだから、
その理不尽のお返しも等しく受け入れなければいけない。
それは宿命。
それ「が」宿命。
命とは時に理不尽さと同じ意味を持つのかもしれません。

恐ろしい理不尽さに対峙したとき、自分に出来る事は、
その理不尽さを受け入れて、それでも自分の芯や心は失わず、
いつか、どれだけの時間がかかっても良いから、
その理不尽さを消化し、昇華し、
生き抜くエネルギーに変えて行くこと。

「バランスをとる宇宙の摂理」
は、きっと、そんな頑張りもいつの日か反映させてくれると思います。
その出来事には時間差があるので、
僕らは「関連付けて」気付けないだけであって。
きっと僕達は今までもそうやって生きて来たし、
来れたのかもしれません。
理不尽に良い事。
それは「幸運」と呼ばれるものかもしれませんが、
そんなことにもきっと原因があるはずです。



いただきます



こんな言葉がある国に生まれ、
暮らせていることに時々僕は幸運を感じ、
誇らしく思えることがあります。



いっただっきま~~~す!ヾ(●´▽`●)ノ

最近よく行く東京、下北沢の絶品お好み焼き屋さん「なんばん亭」
四角く包んで焼かれるお好み焼きは斬新で、なにやらガレット的。
関西風でもあり広島風でもあり.....
まさにハイブリッド東京!って感じ。
とにかく美味いのだ!(><)ぶひーっ!


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2 コメント

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Unknown (さるぞーま)
2013-07-02 21:39:43
食べ物にありつけて感謝できる時代は戦後の親お世代。
今の子供の親の世代は、高度成長期の、馬車馬のように、働いた親たちの頑張りなんてクソくらえで、(なんで汗かいて我が働かないけんのじゃ。オンドレ、ワレ、ナニサラシテンジャイ。買い物?熱いやないけ、子供3人いるやさかい、家政婦雇ってくれんとやっていけるかいボケ!ワレオンドレガ!)が 今の女の常識らしいです。(うちのかみさんの場合)


猟師の子供で、現役猟師ですが。

お肉ってスーパーで買うのが普通ですよね。

猟師の綺麗ごとですが、屁理屈ですが、お肉って命でしょ、元々。豚・鳥・牛・ニワトリ・馬・イノシシ。

命を奪ってお肉にする。

トサツって聞いたことあるかな?







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さるぞーまさんへ。 (amenouzmet)
2013-07-03 00:45:46
ありますよ(^^)
この記事中の「リンク先」記事、、最後のリンク記事でも少し記してます。
返信する

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