日々の気付き

自分への提言

リスクマネジメントから、創造へ・・・

2021年04月10日 19時39分52秒 | 日記
 人間の心理の変化を追ってゆきますと・・・何かを心配しているが故に、次にどのような行動をとるか? ということに関心を向けている状態―すなわち、リスクマネジメント(危機管理)を自身の肉体に潜在させ、常にその性向を維持している状態がまずあって、その後、心配の感情がなくなって、自身の周辺に起こるあらゆる物事を作成してゆく状態(創造性のみが機能する状態)へと変化してゆきます。
 この進化(変化)の道は、各個人ごとに存在するのであり、誰かの後を追うべき人は、この世には存在しません。
 心配の全てが解消された状態とは、自身の心の中で、「ゼロ」(喪失の概念)を封印し、如何なる「喪失」も幻想であることを、論理的に理解した心の状態です。
 なぜ「喪失」の概念が幻想であり、それに該当する実体が存在しないのか? と言うと、あらゆる個体(万物の全て)は、時間の流れの中において、そのどの瞬間からも、「永遠」全体の如何なる時空(過去と未来の1時点)をも、認識し、何らかの現象を創造することが可能であるからです―したがって、如何なる個体も、生存期間には縛られません。
 古代人も、現代人も、未来人も、平等に、{永遠」を展望し、認識し、創造することが出来ます。
 私たちによる、あらゆる認識は、創造なのであって、受動的な認識は消極的な創造ですし、恣意的な認識は積極的な創造であるのです―そして、私たちによる各1の認識の全ては、「永遠」全体(過去と未来の全て)の1部分であり、如何なる時空どうしも、相互に関連せざるを得ないからです。
 

2種類の人間

2021年04月09日 19時44分12秒 | 日記
 肉体の「現在」からの、概念の、過去や未来への時空跳梁によって、受胎と妊娠を利用せずに、人間を作成するケースが、人によってはある―この様にして作られた人体は、元の意識的に生きる(人体をアンテナとしての印象という波動エネルギーの感受とそれを原資としてのイマジニングを成す)人間のコントロールの下に在るので、本人からすれば、自身が、幾つもの時空に同時に存在し、それぞれが、大脳内におけるイマジニングによる創造活動―すなわち、現象の作成を、行なっている、という感覚を持つはずである。
 ところで、あらゆる個体(個々の万物)には、「永遠」が内蔵されている―なぜなら、それらの全ては、「永遠」全体を「知る」者から生み出されたからである―したがって、如何なる個体にも、始まりと終わりはないのである―なぜなら、それらの全ては、経時上の各1の瞬間ごとに、永遠をふかんすることが出来る、時空を超えた存在だからである。
 「知る」ことは作ることに他ならない。
 あらゆる個体は、「永遠」という属性を持つ物であるがゆえに、「永遠」(全時空)の中の如何なる箇所にも、恣意的な創造を成すことが出来、実際にそれを行なっているのである。
 私たちによるあらゆる認識は、消極的から積極的に至る創造なのであって、受動的な認識は、消極的な創造と言うことが出来る―そして、各1の認識は、全て、「永遠」全体を、認識の対象となる現象を中心として、刷新しているのである。
 なぜなら、1つの現象は、その現象の過去と未来の全てと結合しているからである。
 イエスの成長と発達は、はりつけにおいて完成し、はりつけ中の1つの瞬間―肉体の「現在」から、概念の時空跳梁を成すことが出来る様になった。
 概念の時空跳梁とは、「永遠」を支配することに同義である―彼は、如何様にも自分の人生を作り変えることが出来、あらゆる過去と未来を、自在に作り変えることが出来るのである。

永遠に解決されない謎

2021年04月03日 16時57分42秒 | 日記
 如何なる人による、如何なる人への行動規制も、その全ては、根拠のない物である―あらゆる行動規制の背後には、「果果論」すなわち、1つの類型に属する現象が、別の1つの類型に属する現象に直結する、という考え(思考)があるからである。
 この果果論に基づく禁止が行動規制なのである。
 現象発生には、各類型について、1連の特殊な経時上のプロセスが存在することに間違いはないが、現象の根本的な原因は、如何なるプロセスからも独立しているのである。
 つまり、あらゆる現象の根本的な原因は、別の現象に在るのではなく、現象のイメージを含む「永遠」(過去と未来の全て)の全体的なイメージにあるのである―この事を理解しない人は、1つの現象を封じれば、それが構成要素となるより大きな現象の発生を止められる、と考え、規制を行なおうとするのである。
 この意欲が、幻想的な観念(果果論)に基づく誤解である、と考えるのは正しいし、その上に次のことを考慮する必要がある。
 すなわち、「何かを避けたい」という考えそれ自体が、「損失」「喪失」「被害」といった、ゼロの概念を含む思考に基づくリスクマネジメントなのである―しかし、ゼロに該当する実体は存在しない。
 したがって、何かが失われる、という恐れに基づく忌避の全てが、結果的に、不自然な心の状態を伴う「不如意」「不測」を発生させることになる―無い物を「在る」と思い込んで、何かを(行動や現象を)生み出すことになるからである。
 規制を細分化し、より精緻な法律を策定したところで、その目的が、忌避にあり、喜びや幸福、楽しさを直接的に生み出そうとする物でない限り、規制その物には、まるで価値がない。
 「どのように法を定めるか?」を問い続ける人がある―それらの人々は立法府で働く選ばれた人々である。
 上記の人々がどれほど努力しても、人類の幸福(喜び・楽しさ)には、結びつかないのである。

DNAという無垢なる物

2021年04月03日 16時07分53秒 | 日記
 私たち人間は、「DNA」という情報に支えられる実体なのであり、そのDNAの自由な動静こそが、私たちが生きる為に必要な全てである。
 私たちが「生きる」という時、人毎にその意味は異なるが、真の意味での「生きる」というのは、ただ、体全体で感受するインスピレーションを、行為その他の現象に転化させることだけである。
 私たちは、自身の触覚に関心を持つことにより、人体全体にあまねく存在する無数の細胞を介して得たエネルギー(インスピレーション)を、求心神経を通じて大脳に送り、そこで、様々な独自的なイマジニング(イメージの作成)を行ない、それに由って、現象を発生させている―このイメージ作成の過程で、異時空の人間の意向が介入すれば、DNAのやりたいこと(成したい事)が、場合によっては、阻害されることになる。
 しかし、すくなくとも、「穢れ」とか「悪」といった言葉は、「神」から出た物ではない―「神」の目に、汚い、悪い、と映る物は何1つ無いのであり、そのような概念を神は持つことは出来ないのである。

主観的経時性の伸長

2021年04月02日 14時03分41秒 | 日記
 1秒の間に幾日をも過ごすことが、「主観的経時性」に於いては、可能である―この事は、概念の時空跳梁を成す大脳が「無限に」生き続けることが出来る、という事を意味している―ほんの1瞬の生体(生ける肉体)が在れば、その認識をその大脳で行なう本人は、無限に生きられる。
 客観的な無限、すなわち、皆で共有する経時性が辿る時間の果ての無さは、神の目にその全てが望まれる「永遠」の1部に組み込まれているが、時間が幾らでもあるという事と、「永遠」の全体をふかんする事とは、おそらく、全く意味が異なるのであろう・・・と、言うのは、どれほど縦横無尽に線路をはりめぐらせたところで、列車に乗っている間に、季節はめぐるし、線路の無いところを訪れることもできないからである。
 引き返そうと努力している間に、駅の周りは様変わりしているであろう・・・。
 しかし、人体を、自己の恣意的な認識によって作成することの出来る人は、物質を支配しているのであり、人体の作成ができるのは、「永遠」をふかんできる者のみである。
 人体に限らず、物理現象を、意のままに作り出すことの出来る人は、全体に配慮できるはずである。
 人体の作成は、物理現象の1に過ぎない。
 この事は、「永遠」をふかん出来ている事と同義である。
 1つの現象の作成は、「永遠」全体を刷新することになり、「永遠」を支配する者でなければ、そのような達成には至らない。
 1つの現象(創造)は、全ての未来及び全ての過去と密接につながっており、1つの現象(創造)を全体から独立させることは出来ない―その故に、いかなる物の創造者であっても、「永遠」を「知る」必要があり、知らざるを得ず、作らざるを得ないのである。
 「知る」とは、認識する事であり、認識とは、消極から積極に至る創造なのである。
 受動的な認識は、消極的な創造、と言うことが出来る。