おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「日光道中」をゆく。総集編。第2日目。(東武「新田」駅から「春日部駅」まで。)

2016-08-01 23:44:51 | 日光道中
5月7日(土)。
(8:52)再び東武線「新田」駅から前回の終着点まで戻り、再開。今回は「春日部」駅まで。駅から東に向かい、綾瀬川にぶつかり、前方を望むと「蒲生の一里塚」のこんもりした木立が見えます。

 綾瀬川に架かる「蒲生大橋」を越えて行きます。橋の真ん中が草加市と越谷市の市境。橋のところに高浜虚子の句が。
「舟遊び 綾瀬の月を 領しけり 俳人 高浜虚子」。 

 「蒲生大橋」を渡ったすぐ右手の古い木々が生い茂るところが「蒲生の一里塚塚」。
    
                  蒲生の一里塚
 一里塚は、江戸時代街道沿いに一里ごとに設置された塚で、塚の上にエノキ・マツ・スギなどを植えて、道程の目標や人馬賃銭の計量の目安に、また旅人の休息の場などに用いられたものである。
 文化年間(1804~1818)幕府が編さんした「五街道分間絵図」には、綾瀬川と出羽堀が合流する地点に、日光街道をはさんで二つの小山が描かれ、愛宕社と石地蔵の文字が記されていて、「蒲生の一里塚」が街道の東西に一基ずつ設けられていたことが分かる。
 現在は、高さは2㍍、東西幅5.7㍍、南北幅7.8㍍の東側の一基だけが、絵図に描かれた位置に残っている。
 また、塚の上にはムクエノキの古木・太さ2.5㍍のケヤキのほか、マツ・イチョウが生い茂っている。
 多くの塚が交通機関の発達や道路の拡幅などによって姿を消した中にあって、「蒲生の一里塚」は埼玉県内日光街道筋に現存する唯一の一里塚である。

 昭和61年10月 埼玉県教育委員会 越谷市教育委員会 植竹誠一郎

「綾瀬川」と「出羽堀」との間の道を進みます。

しばらく進むと、右手に「清蔵院」の冠木門。

 その先で旧国道4号線に合流し、北へ向かいます。かなりの直線距離になります。


 東武線「蒲生駅入口」交差点を過ぎてしばらく進むと、JR武蔵野線「南越谷駅」になります。「新越谷駅」入口交差点、JR武蔵野線の高架付近。



 (9:48)「瓦曽根」ロータリーのY字路で旧道は左へ入って行きます。
     

 いよいよ「越ヶ谷宿」に入っていきます。

越ヶ谷宿
 江戸時代に整備された宿場町の一つで、江戸・日本橋から数えて3番面の日光街道および奥州街道の宿駅(宿場町)。江戸(日本橋)からの距離は6里8町であった。
 越ヶ谷宿は越ヶ谷と大沢の二つの町を合わせた範囲の宿場町であり、その規模は千住宿に次ぐ規模となった。
越ヶ谷宿は、江戸幕府の成立後すぐに奥州街道の宿場に取立てられ、正式な宿場となった。 元荒川の対岸である大沢村も町場化し、越ヶ谷の伝馬上の助郷村として大沢宿が成立しており、 慶安3年(1650年)には越ヶ谷宿・大沢宿に地子免許が与えられていた。
 越ヶ谷宿の開発は、寛永12年(1635年)の参勤交代制の制定、寛永13年(1636年)の日光東照宮造営の竣工、日光社参の制度化に伴い、承応3年(1654年)越ヶ谷宿は、助郷村であった大沢村の両町の宿場機能の合体により完成したという 。
 江戸時代初期、元禄9年(1696年)には、越ヶ谷と大沢の規模は、伝馬制に伴い、越ケ谷、大沢両町に各5,000坪の地子免がなされ、越ヶ谷9町20間、大沢9町27間とほぼ均等の町場が形成されたという。
 越ヶ谷御殿とは、慶長9年(1604年)に徳川家康によって設けられた御殿。現在の越谷市増林にあった御茶屋御殿を現在の越谷市御殿町に移築され「越ヶ谷御殿」と称した。この辺りは元荒川沿いの低湿地地帯で、昔は野鳥が多く、徳川家康や徳川秀忠もしばしばこの御殿に宿泊し、民情視察を兼ねて鷹狩りを重ねていた。
 しかし、明暦3年(1657年)の大火により江戸城が焼失したために、この御殿を解体し、江戸城の再建に利用され江戸城二の丸に移された。一帯は一部を除き畑地として開発されたが「御殿」の名はその地名として残り、住居表示施行の際に「御殿町」として正式な地名となっている。
 越ヶ谷宿の行政単位は、越ヶ谷町が本町、中町、新町に、大沢町が上宿、中宿、新宿に分けられていた。
 当初、越ヶ谷町の会田一族には、本陣、問屋役持回りなど宿場の要職に集中していた。ところが、安永2年(1773年)越ヶ谷町と大沢町両町惣百姓大評定のうえ伝馬業務両町合体を決めた。また、越ヶ谷宿の宿駅機構の改革とその伝統的権威の多くの失墜のため、安永3年(1774年)に、越ヶ谷宿の本陣は越ヶ谷町の会田八右衛門から、大沢町の福井家へ移った。
 そのため、越ヶ谷町は商店の集中が見られる地域、大沢町が旅籠機能の集中が見られる地域という特徴的を持った町場を造っていった。
 『日光道中宿村大概帳』天保14年(1843年)によると、越ヶ谷宿には本陣1軒、脇本陣4軒、旅籠52軒が設けられていた。宿内の家数は1,005軒、人口は4,603人であった。
 飯盛り旅籠は、境板橋の右手一帯(越ヶ谷)に23軒が集中し、千住宿を除いた日光街道に於いて最大の花街を形成したという。
 越ヶ谷宿は、何度か大火の危険にさらされた。寛政6年(1794年)1月では、越ヶ谷町167軒焼失した。また、文化13年(1797年)3月では大沢町大火・本陣ほか197軒焼失等多数の大火が起こっている。
越ヶ谷宿に入ってくると、道沿いに古い家屋が残っています。

 道幅は往時のようですが、すっかり雰囲気は近代的。「越ヶ谷宿」を示す標識は見当たりません。唯一、この幟が。
                                  

    
                      宿場町の趣きを残す旧商家の「塗師屋」。
 黒い漆喰造りの旧家」(小泉市右衛門家)で、かっては「漆」を扱い、江戸時代には呉服商を扱った商家。

日用品や荒物を扱う「鍛冶忠商店」。
 商店会の中程にある「鍛冶忠商店」は1900(明治33)年に建てられた立派な商家で、屋号からも推察される通り当時は鍛冶屋を営んでいた。現在は日用品雑貨・荒物の販売店として業態を変えて営業を続けており、お盆など季節ものの提灯や菅笠、和紙、藁工品(筵、こも、荒縄)など、店頭に並ぶ商品も趣き深いものが多い。

    

 (10:11)「越ヶ谷本町」の交差点を過ぎると、「元荒川」に架かる「大沢橋」で渡ります。「元荒川」は、旧中山道歩きで通った、熊谷駅の南側・久下付近を源流とする川。左には東武線の鉄橋。「元荒川」を右に進むと、「越ヶ谷御殿跡碑」(市旧跡)があります。
    

振り返って望む。

 しばらく進むと、北越谷駅前のライオンズステーションタワーに到着。さらに5分程行くと、東武スカイツリーラインの高架をくぐります。

本来の旧道はこの道のようです。南を望む。

 道なりに進むと、すぐ目の前は「元荒川」に面した「北越谷第五公園」となります。
    

 路傍には、「道標」と二基の石塔。道標の正面には「青面金剛」、左面には「右 のしま」とあります。
       

 この先に「宮内庁埼玉鴨場」があります。
    

しばらく進むと、東武線の踏切を渡ります。
    

 その先が「草加バイパス」(国道4号線)陸橋下の「大袋駅入口交差点」。左手が東武線「大袋駅」。


 旧道を進むと「陸橋入口」。ここで「国道4号線」に合流します。
中央奥が来た道(旧道)。

                            「日本橋から30㎞」ポスト。

 (12:26)「新方川」に架かる「戸井橋」を渡ると、春日部市にはいります。
    

 「国道4号線」ということで、車の通行量も多いようです。道沿いにはいろいろなお店が立ち並んでいます。自転車通学生が勢いよく通り過ぎていきます。


 「武里駅」入口を過ぎて備後という地域に入ります。右側には田園風景が広がります。
 (13:00)その先、「備後(北)」交差点には右手に「備後一里塚跡」碑。
    

碑の裏手は「大落古利根川」。    

         (13:15)「日本橋まで34㎞」ポスト。

 さらに「35㎞」ポストを過ぎ、「一宮交差点」を左へ進みます。旧道は、斜め左の道。春日部駅方面を目指します。いよいよ「粕壁(春日部)宿」。
                      
 粕壁宿
 五街道(日光街道・奥州街道・東海道・中山道・甲州街道)の整備に伴い、 江戸時代に整備され、日光街道及び奥州街道に設置された宿場町。 江戸・日本橋から数えて4番目の宿場町である。 現在の春日部駅東口の旧街道一帯が、かつての粕壁宿である。

 「かすかべ」の表記は何度か変更されている。南北朝時代(14世紀)、新田義貞の家臣春日部氏が当地を領地としたことから「春日部」の地名が生まれたとされる。その後、江戸時代正保年間(1645年頃)には「糟壁」、「糟ヶ辺」という表記が交互で使われており、元禄年間(1700年頃)に「粕壁」、「糟壁」と記す漢字表記が明治初期あたりまで交互に使われていた。高橋至時・伊能忠敬らによる「大日本沿海輿地全図」では「粕壁」と記されている。

 天正18年(1590年)小田原征伐後、徳川家康が関東移封となり江戸城に入城した。五街道の整備が進められ、粕壁宿が、日光街道及び奥州街道の宿駅として開設したのは、元和2年(1616年)である。
『日光道中宿村大概帳』によると天保14年(1843年)の調査では本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠45軒、問屋場1ヶ所、家773軒があり、規模は23宿のうちの6番目であった 。
 街道沿いには青物店、穀物店、精米・精麦店、飲食店などが建ち並び、4と9のつく日には六斎市が開かれ、商業の町として近世以降発展した町であった。 江戸・日本橋から一日歩き通すと、ちょうど1泊目となる宿場町がこの粕壁であったことから、旅人の多くはここで宿を取った。
 また、岩槻宿と関宿を結ぶ道が通ることからも商業・交通の要地として商人や旅人でにぎわったという。日光街道・奥州街道の宿場町であり、また古利根川を通じて、江戸と結んだ物資の集散地として栄えた。
 一方で、水被害に襲われる土地条件の悪さから、農業不振に悩まされた地域でもあったという。

 江戸・日本橋から約36㎞ほど(実際は、「千住宿」から歩く場合が多かったと思いますが)。ここが一泊目だったようです。1日に9時間ほど歩くのですから、昔の人は健脚ですね。

お店の前の木製ベンチ。「日光道中 粕壁宿」。 

 (13:36)何やら宿場内の案内用の立派な柱。近づくと「脇本陣」とあります。

         

この付近に「本陣跡」の標識があるらしいですが。向こうのデパートは今、改装中。かつては「ロビンソン百貨店」? その後、「西武百貨店」になって現在は・・・。

    
                                 「匠大塚」が入るそうです。これってお父さんの方? 「大塚家具」の発祥の地でもあるようです。

    
                        「新宿」とか「上宿」とかの表示が。

沿道には古くて大きな屋敷が残っています。

来た道を振り返って望む。

    
 (13:46)大きな「道標」には、「西南い八つき」「北日光」「東江戸 右乃方陸羽みち」と刻まれています。

 どっしりとした格調高い白壁のおうち。
    

 その先しばらく進むと「ミセと蔵」という案内表示。
    

ミセと蔵
 中宿(仲町)と呼ばれるこの辺りには、江戸時代に米問屋などの商家や、旅籠屋などが多く建ち並んだ。粕壁宿の商家は、間口が狭く奥行きの長い敷地で、街道の並びには商業空間としての「ミセ」を、その奥には生活空間としての「オク」がつくられた。このような短冊状の地割は江戸時代の多くの宿場町にみられる歴史的な景観のひとつである。街道の北側の商家は古利根川沿いまで蔵を連ね、舟を乗りつけて荷を上げ下げしていた。現存する蔵造りの建物は、火災よけのため、幕末から明治期にかけて建てられたものが多い。

 平成27年7月 春日部市教育委員会 

    

(13:56)春日部でこの子を外せないでしょう。

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