日々これ楽日

桜情報を機に始めたブログがH25年猫は天国に、娘は結婚、夫は認知症と一気に環境が変わって老老介護の記録になって来ました。

蔵deひなまつり

2012-03-31 23:45:50 | その他

やっと春らしい暖かい日がやってきたと思っていたらまた今日は雨交じりの風の強い一日になってしまいました。
それでも東京では例年より五日遅れの開花宣言が出されました。
仙台はまだまだ固い蕾です。

        これは3月28日の様子です
       桜蕾

この頃膝の痛みがよくなってきたので少し出かけようと思えるようになって来ました。

昨日は河原町にある旧仙南堂薬店がメイン会場になって何か所かで開催されている“蔵deひなまつり”があり、その中で元博物館学芸員の鵜飼幸子さんの「仙台藩のお姫様たち」というお話が聴きたくて行ってみました。
色とりどりの、古い、手作りの、今はやりの吊るし雛、そんなお雛様たちが種々飾られていました。

          

       

      

      

      
  

鵜飼さんのお話は初代政宗公からのお姫様のお話があり、主に10代藩主伊達斉宗(なりむね)奥方、紀州徳川家からお嫁入りした鍇姫(かたひめ)のお嫁入り道具の中のお雛様の道具の話です。
これは私が先日尾形光琳の絵を見に行ったときにも飾られていましたが、仙台市博物館で4月8日まで展示されています。
流石徳川家のお姫様のお道具、雛道具とは言え金蒔絵に葵の紋のついた本物を小さくしただけの立派な見ごたえのあるものです。

ちなみにこのひな祭りは四月三日までです。とても気分が華やぎます。


仙台明治青年大学

2012-03-16 23:26:27 | その他

この頃朝夕はまだ風が冷たく感じられますが射す日差しは柔らかく春が感じられます。

先日14日は仙台明治青年大学の23年度第1回目の講義「平家物語のなぞ」がありました。
その前3月7日が23年度の遅い、遅い入学式・開校式、来週19日が修了式です。23年度はこの3回だけ。役員の方たちは随分ご苦労が多かったようです。
その間各部活はそれぞれに細々と活動していました。

今、学生数は約800余名。今回101歳のお二人が退学なさったそうですが、全学生の平均年齢は77歳。私達同期は入学時120名くらいでしたが9年の間に亡くなった方、介護、孫の子守、自身の健康問題などいろいろな事情で減少して今は70数名になってしまいました。
ここに集ってくる人たちは物知りで、老いても魅力的な方たちがたくさんいます。

私が入ったときは一番若かった筈ですが今はもっと若い人たちが多くなって、私自身も膝の痛みに、天然に益々磨きのかかった物忘れ等、自分の年を再認識させられる事が多くなって来ました。が、もう少し仲間で居たいと思います。

あの寒かった日の震災から早1年、このところテレビはあの震災の日の画像を毎日流し、これからの復興に手を差し伸べてくれています。
大量の瓦礫の処理も政府主導で道筋が出来、手を挙げる市町村も出てきて、何とか処分出来るのではないかと期待しています。

東京、東海の大地震も予想されています。しっかり検証して備えを、恐ろしさを忘れずに伝え、暮らしていくのが私たちの出来る事です。

明青大の会場の楽楽楽(ららら)ホールの復旧には1年かかり、まだ外側にはシートが張ってありますので、被害の大きさと不安だったあの日を思い出します。

仙台市博物館で静岡県熱海市のMAO美術館より貸し出され大震災復興支援として特別公開されている尾形光琳筆の「紅白梅図屏風」と他の美術品が特別公開されています。15日見てきましたが左右の梅、水流が見事で色の出し方も川の部分は銀箔を硫化させて黒を表現したのが科学調査で分かったのだそうです。
私は特に左の白梅の方が老木なのだそうですが、その迫力、枝振りに感動です。

他にも見ごたえのある物がたくさんありました。

         


被災地訪問

2012-03-04 23:34:08 | その他

昨日は、200633日ブログデビュー以来丸6年、7回目の記念日でした

喘ぎ喘ぎながら何とか続けてこられたのは皆様のお蔭と感謝しております。

さて昨日は朝起きると春の息吹どころか一昨日お昼頃から降り続いた雪が降り積もっていました。それでも流石に?春。重たい雪です。

       

 

久しぶりに歴史を学ぶ会に出席。11日で1年になる東日本大震災ですが被災地復興支援で石巻、女川、南三陸防災対策庁舎など被災地を回る企画でした。

私は今まで近隣の被災地、2カ所だけ知り合いのいた場所を尋ねた事はありますが、あとはいつもテレビの画面から見るばかり。
この頃当時、何か出来ないかと思っていた気持ちも忘れ勝ちで、やはり被災地を一度この目で確認しておきたいと思う様になって来ました。

夫や友人のご主人からも単なるヒヤカシと言われましたがその気持ちも多少無きにしも非ずでしたが、やはり行ってその状況を確認したいと思い、そして出来てよかったと思いました。

まず訪ねたのは石巻市の仮設住宅で、ここは78戸?くらい住んでいらっしゃるとかで、この仮設の中の集会所で住民の方、56名の方からその時の状況などを伺いました。
「家は流されましたが津波を見ていません」という人の話が多く被災地でも色々なようです。
その中で最後の方は津波に巻き込まれもうダメと思った時、水が引き始め顔が水の外に出てびっしょりになって助け出され「今、明るくしていますが、気持ちはやはりあの時のままです」という言葉は重く心に響きました。

「今、私たちは何か出来るのか?何をしたらいいのか」伺わなかった事を後悔しています。
結局何も出来ないと思いますが私は震災当初から親を亡くした子供たちを少しでも支援出来たらと思って来ましたので、その気持ちだけでも持ち続けたいと改めて思いました。
    

    バスを見送って下さる仮設住宅の人たち
    

ここは集会所があり皆さんここに集まって色々なものを手作りしたりしているようです。ミシン、アイロン、パソコンも何台か備えてありました。

    

復興という言葉がかなり行き届き、私もその光景を思い描いていましたが、私の見た場所では大きな瓦礫の山があちこちにあり、その一部分でショベルカーが1,2台動いている状態で、復興はゼロとしか思えません。勿論仮設店など出来、活気の戻った所もあるようですが、本格的な復興はまだまだこれからです。

女川では海岸すぐ近くでも全く被災した様子が見られないところもありますが、かなり離れているのではないかと思うような所でも残っているのは土台だけというのもあり、自然の力の不気味さを感じました。

その女川では高政と言う蒲鉾屋さんを見学させていただき、大した支援にはならないと思いながら私も少し買い物をしました。

基礎からそのまま倒れ横たわっているビル、石巻病院の裏の方ではまだ建物の屋根の上に乗ったままの船もそのまま、カーテンなどぶら下がったままの建物もたくさんあります。

南三陸防災センターには私たちの他にも訪ねて手を合わせている人たちも何人か見えました。

   防災対策庁舎にはたくさんのお花が供えられています。
      

私個人的には大川小学校に行き亡くなった84人の児童、教職員の方たちに手を合わせたいと思っていましたがそれは叶いませんでした。

今も見つからない方が3000人余、亡くなった方は3県で1万6000人近く。たくさんの方の悲しみ辛さがまだまだ続いています。

 

今、”春は昔 ―徳川宗家に生まれて”と言う本を読んでいますが、思いがけず、その中に今回の大震災と同じように大正12年大地震での様子、東京では火事が起きたり、逗子で大きな津波が押し寄せ、家は流され、道に船が上がっていたとか。
また先日タイの大水騒動がありましたがそれと同じように天津で大水が出て川は氾濫し、なかなか水がひかず家族で引き揚げた話などが書かれています。

まさに歴史は繰り返すのだと思いました。

 

          今年の我が家のお雛様たちです。