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《南京事件》犠牲者数の一覧と論拠

2015年07月21日 | 南京大虐殺
最終更新:2018.11.06



この一連の考察で用いた犠牲者数の一覧と、その論拠を示す。
なお、これらは全て中国側犠牲者についてであり、日本軍のものは含まない。



《遺体数》

1. 江上戦死または水葬 25,000-
 1.1 新河鎮の激戦(45連隊) 7,000-
 1.2 下関江上戦(33連隊/第三艦隊) 3,000-
 1.3 処断(33連隊処断分等4,000を除く) 12,000-
 1.4 下関の地上(工兵が水葬) 3,000-

2. 埋葬 29,909-
 2.1 紅卍字会(水葬を除く) 23,134-
 2.2 衛生局(紫金山周辺) 3,200-(三千余、を3,200に換算)
 2.3 衛生局(宝塔橋他) 3,575-

※以上は記録または証言から算出。




《犠牲者数内訳》

3. 城内戦死 3,700-

4. 城内の市民の遺体 2,600-
 4.1 B.陥落時の混乱・挹江門 40-
 4.2 B.陥落時の混乱・大平門 10-
 4.3 B.陥落時の混乱・衣服剥ぎ取り 250-
 4.4 C.掃討時の暴行 2,000-
 4.5 D.占領暴行 150-(主に安全地帯の記録の殺人事件に相当)
 4.6 E.その他 150-(スマイス調査・都市部のその他死亡150)

5. 城外の市民の遺体 2,800-
 5.1 A.軍事行動 800-(スマイス調査・都市部の軍事行動)
  5.1.1 A.軍事行動・列車 600-(列車に乗ろうとした市民1千が国民党軍に射殺された事件)
  5.1.2 A.軍事行動・下関 200-(下関の市民が戦闘の巻き添えになったことを想定)
 5.2 F.敗残兵誤認 2,000-(敗残兵摘出時に誤って摘出されてしまった市民)

※A〜Fの表記は、後述のスマイスの表の区分に対応。
※3項についての記録はないが、他項目の数字から押されてその数字になる。
※5.2項は、ヴォートリンのいう釈放嘆願署名1千と、スマイスの拉致4,200の間の数字。
※紅卍字会・埋葬記録の城外分における女性と子供の比率がほぼゼロなので、5.1項は工兵の水葬に含める。





《算出できる数値》

前項までの数値に基づいて算出できる数値。

6. 犠牲者総数 54,909-(1項+2項)
7. 城内の遺体数 6,300-(3項+4項)
8. 市民犠牲者数 5,400-(4項+5項)
9. 戦死数(処断を含む) 49,509-(6項−8項)
10. 戦死数(処断を除く) 35,509-(9項−16,000)
11. 市民犠牲者率 9.83%(6項における8項の率)
12. 城内市民犠牲者率 41.27%(7項における4項の率)
13. 水葬された市民 2,800-(5.1項+5.2項)
14. 埋葬された市民 2,600-(8項−13項)
15. 埋葬された将兵 27,309-(2項−14項)
16. 城外の地上戦死体 23,609-(15項−3項)
17. 水葬された将兵 22,200-(1項−13項)
18. スマイス都市部の市民犠牲者 3,400-(4項+5.1項)
19. 城内掃討戦での犠牲者の34%が市民(詳細




《紅卍字会・埋葬記録》

20. 記録上の総数 43,023-
21. 女性と子供の数 129-
22. “水葬”を除いた埋葬数 23,134-
23. 城内収容の遺体数 4,757-
24. 城内収容の女性と子供の数 125-
25. 記録上の女性と子供の率 0.30%(20項における21項の率)
26. 城内収容の女性と子供の率 2.63%(23項における24項の率)
27. 城外収容の遺体数 38,266-(20項−23項)
28. 城外収容の女性と子供の数 4-(21項−24項)
29. 城外収容の女性と子供の率 0.01%(27項における28項の率)




《日本軍工兵》

30. 工兵による城内遺体の片付け 1,542-(7項−23項)

※記録はないが、工兵の証言はある。後述。




《関連図表》














《試算の対象範囲》

試算の対象となるエリアは南京城とその周辺である。概ね、紅卍字会と南京市衛生局が遺体の収容を実施した範囲。つまり、幕府山〜紫金山〜雨花台〜新河鎮と揚子江(江上を含む)で南京城を囲むエリア。

また、中国側が各地に建立している“遇难同胞纪念碑”もほぼ同じエリアに収まっている。(犠牲者数は少ないが2箇所だけ遠くにある。)






《陥落日の部隊の動き》

参考までに、12月13日(=陥落日)の各部隊の動きを示す。戦史に残る包囲殲滅戦となり、戦死数の大半がこの日の中国側の潰走時に発生した。








《各数値の論拠》

冒頭に掲げた各遺体数の論拠を示す。



1. 江上戦死または水葬 25,000-

1.1 新河鎮の激戦(45連隊) 7,000-

陥落日に、南京城の南西の揚子江岸にある新河鎮で激戦があった。

城門が陥落した十二月十三日、漢西門(西門)の西の揚子江に近い上河鎮で、第六師団第四十五連隊第十一中隊百六十名は、掃蕩のため下関へと北上中に、南下してきた逃走中の二万の中国兵に包囲され、中隊長の大薗尚蔵大尉以下十四名が戦死する激戦となった。中国側の戦死体数は二千三百七十七。


第6師団45連隊第11中隊山砲指揮官・高橋義彦氏はこの新河鎮での激戦について次のような趣旨のことを書き残している。よって、ここでは新河鎮から河に流された戦死体数を7千とする。

「私達を攻撃してきたのは2コ師団でした。敵の戦死者は新河鎮の私共の目の前で2200。裸で飛び込み或いは筏で逃亡した内で国崎支隊に捕まった者2300。逃亡した者3000。即ち敵の総数をを1万5千とみてもわが砲撃で7千人は死体で河に流されています。」


この 新河鎮での戦闘については、《南京事件》新河鎮での激戦 に詳述した。



1.2 下関江上戦(33連隊/第三艦隊) 3,000-

下関付近の揚子江上で激戦があったので、多数の戦死体が流された。第三艦隊司令部・泰山弘道氏の話では1万とのことだが、戦闘詳報に現れる数字の水増しは将兵の間では常識であったらしく、「概ね3倍くらいかな」との話もあるので、ここでは江上戦死として3千としておく。なお、偕行社の『南京戦史』においても、この項目は3千と算定している。

「南京の守備兵は、11日夕から挹江門を経て揚子江岸に向かい続々退却を開始したようだが、13日午後になると、下流方面より山田支隊、上流より第六師団の一部が進出してきて、退却する敵を挟撃した。」(上海派遣軍参謀・大西一)

「(12月13日午前10時過ぎ)両岸からの中国兵の猛攻撃は続いていました。この頃から、ジャンクや筏に乗った中国兵が流れて来て、どんどん増えてきました。勢多には二十五ミリ機関銃が四門ありましたので、これを撃ちながら進みました。」(砲艦「勢多」艦長・寺崎隆治少佐)

「最後まで南京を守りし支那兵は、その数約十万にして、その中約八万人は剿滅せられ、江を渡り浦口に逃げのびたる者約二万人あり。 下関に追ひつめられ、武器を捨てて身一つとなり、筏に乗って逃げんとする敵を、第十一戦隊の砲艦により撃滅したるもの約一万に達せりと云ふ。」(第三艦隊司令部・泰山弘道)

「(12月13日午前中)『第三十三連隊は速やかに下関に進出し、敵の退路を遮断すべし』との師団命令を受領した。この命令に基づき、連隊は午後2時30分、その先頭を持って下関に到達し、連隊本部は獅子山砲台北側の城外濠の路上に達した。この時、中国兵の揚子江上を浮遊物に取りすがって逃走中の姿が望見されたので、連隊命令をもって重火器の火力を集中して、一時間余。私も江岸に行ってこの状況を見た。この頃、海軍の揚子江艦隊が遡航してきて、艦砲をもって射撃を始めたので、連隊は海軍艦艇に危害を与えることを考え、射撃を中止した。この江上を逃走した敵中に一般住民の混入など、とても考えられない。その数は千〜二千ぐらいであったろうか」(第三十三連隊本部通信班長・平井秋雄氏)

「午後二時三十分前衛の先頭下関に達し前面の敵情を搜索せし結果揚子江には無数の敗残兵舟筏其他有ゆる浮物を利用し江を覆って流下しつつあるを発見す即ち連隊は前衛および速射砲を江岸に展開し江上の敵を猛射する事二時間殲滅せし敵二千を下らざるものと判断す」(第33連隊戦闘詳報)


また、この戦闘は「“南京大屠杀”遇难同胞纪念碑」のNo.16「燕子矶江滩遇难同胞纪念碑」にて5万人の虐殺とされているものである。地名の「燕子磯」は幕府山の北端付近。海軍砲艦による戦闘がその付近から始まったということだろう。

なお、江上での死亡は戦死とは限らない。雪が降ることもある真冬の出来事である。

「いくらかの中国部隊は下関にたどりつき、数少ないジャンク船を使い、バンドから長江を渡河したことは間違いない。しかし、多くの者が川岸でパニック状況のなかで溺死した。」(NYT記者・ダーディン)

日本軍は全方向から包囲侵攻してきていたので、陸路で脱出できる見込みはなかった。川が唯一の出口であった。何百という人々が長江に飛び込み、死んでいったと言われる。もっと冷静な人々は手間をかけて筏を作り、うまく川を越えて逃げのびて行った。(シカゴデイリーニュース記者・スティール)




1.3 処断(33連隊処断分等4,000を除く) 12,000-

「証言による『南京戦史』」(偕行)によれば、敗残兵の処断数は1万6千とのことだが、そのうち第十六師団第三十三聯隊が下関への急進中に捕らえた3,096人の捕虜の処断は、下関への急行を優先したために行ったものなので、その遺体は現場に残されたはずであり、これは紅卍字会埋葬数に含めてよいと考える。その他、若干の内陸での処断の証言もあるので、併せて処断による埋葬対象分を4千としておく。

第十六師団第三十三聯隊第一大隊は、紫金山を攻略し、下関に向かう退路遮断の戦闘で、三千九十六人を捕らえたが、下関へ急進中であり、大量の捕虜を収容したり武装解除していては戦機を逸し、任務を放棄せざるをえない。そこで、敗残兵撃滅として、全員を処断した。


よって、1万6千から4千を引けば1万2千となる。ただし、この中に敗残兵と誤認された市民が約2千含まれている。



1.4 下関の地上(工兵が水葬) 3,000-

下関の戦死体について「証言による『南京戦史』」(偕行)では次のように3,000と見積もった。


「私は(下関の)屍体の数を数千と見たが、死体を舟艇で運んでいた工兵に尋ねると、作業が終わるまでには15日くらいかかるだろうと言っていた。恐らく、対岸の浦口に逃げようとして下関に集まり、銃砲撃されたものであろう」(独立軽装甲車第二中隊・藤田清)


上記の藤田氏の証言に関して畝本正己氏(偕行)が船について問い合わせたところ、「徴発した民船であり、見たのは二隻であった」との回答を得ている。その上で、次のように試算している。

「一隻の積載能力が不明であるが、仮に50体を積み込んだとしても、江上遠く運んで水葬することは午前・午後各一回ぐらいの作業と仮定すれば、1日約200体、15日間で約3千体処理という計算になる。」(畝本正己)



また、次のような証言もあるので、下関の揚子江岸の遺体数は3千とし、これらは工兵により水葬に付されたものとする。

「(12月14日)中華門から入ったが死体はほとんど無かった。下関に行った時、揚子江には軍艦も停泊しており、艦長と会見した。岸辺に相当数の死体があった。千人ほどあったか、正確に数えれば2千人か3千人位か。軍服を着たのが半分以上で、普通の住民服のもあった」(第10軍参謀・谷勇大佐)


さらには次のような証言もあるので、この上記3,000のうち、200を巻き添えの市民と置き、残り2,800人を中国兵の戦死とする。なぜ200かというと、スマイス調査の表にある A.軍事行動800の内訳が600と200になっているので、200を割り当てるとちょうど良さそうだから。

南京攻略戦では南京城西側・長江河岸間は敵の退路に当たり、敗兵と難民がごっちゃになって第六師団の眼前を壊走した。師団の歩砲兵は任務上当然追撃の銃砲弾を浴びせ、このため一帯の沼沢は死屍で埋められたという。(『熊本兵団戦史』)




2. 埋葬 29,909-

2.1 紅卍字会(水葬を除く) 23,134-

詳細は次の記事。

《南京事件》紅卍字会埋葬記録の検証
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/c9f414da142a782a28bc89d8db538f6b



2.2 衛生局(紫金山周辺) 3,200-(三千余、を3,200に換算)

紅卍字会の埋葬記録では、紫金山付近だと「中央体育場公墓」の82しか記録がない。なんらかの理由でこのエリアはほとんど捜索対象外にしていたように思われる。よって、南京戦から1年半が過ぎた時期ではあるが、改めて収容と埋葬が行われたものと理解する。

南京特別市政府衛生局  六月分事業報告書抄録

一九三九年六月
 村民が報告するところによると、中山門外の霊谷寺・馬群・陵園・茅山一帯に三千体余りの遺骨があり、埋葬隊が埋葬した。あわせて四〇日間作業してやっと埋葬を完了した。全部で九〇九元の費用がかかった。霊谷寺の東側の空地も埋葬場所として、この骨を埋葬することにした。青れんがを使って、石段のついた円形の大きな墓を作り、外側はセメントで白く塗り、非常に堅固で壮麗なものとなった。高市長自作の「無主孤魂の碑」を墓の前に立てて記念とした。また、五月二八日には供養をおこなった。
〔『侵華日軍南京大屠殺トウ案』より〕

『南京事件資料集2 中国関係資料編』 P260


上記はこちらのサイトからの借用です。

埋 葬 関 係 資 料

http://www.geocities.jp/kk_nanking/mondai/maisou.html



2.3 衛生局(宝塔橋他) 3,575-

以下の地域は紅卍字会の埋葬記録にもあるが、発見されずに残っていたものが改めて収容と埋葬が行われたものと思われる。

南京市衛生局抄報  草鞋峡の農民、金国鎮の死体埋葬報告書 一九三八年

草鞋峡の農民代表金国鎮の報告
 宝塔橋、草鞋峡、浜江一帯の白骨は野ざらしになっているので埋葬することを請求した。届け出により経費が許可されたので、財源を都合して埋葬人員四名を率い、二〇名を臨時の人夫として募り、その地に住まわせた。六月十三日から七月六日まで二四日間作業をし、全部で野ざらしの白骨三五七五体を埋葬・改葬した。地勢の比較的高いところで、長江から少し離れたところに大型の墓を一座つくり、碑を建て、記念とした。また男女の死体一二体、子どもの屍体三七体を埋葬し、大きな棺を一二個と小さな棺一個を施した。
〔『侵華日軍南京大屠殺トウ案』より〕

『南京事件資料集2 中国関係資料編』 P260


上記はこちらのサイトからの借用です。

埋 葬 関 係 資 料

http://www.geocities.jp/kk_nanking/mondai/maisou.html




3. 城内戦死 3,700-

後述のように工兵による城内遺体の片付けを1,500と置くと、自動的に城内戦死の数が出てくる。



4. 城内の市民の遺体 2,600-
5. 城外の市民の遺体 2,800-

上の2項目については、次の記事を参照。

《10》南京大虐殺・市民の犠牲者数
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/0896042f8ddf1f5a0843c743f6300451



30. 工兵による城内遺体の片付け 1,543-

日本軍将兵の証言によれば、挹江門等は陥落直後に工兵部隊が戦場掃除をしている。挹江門の遺体数は約一千と伝えられている。その他にも、太平門の遺体も城外の一箇所にまとめて片付けたようである。証言によればその数は約400。よって、その他も勘案して少し上乗せして約1,500を工兵が片付けたものと計上する。

挹江門の出来事は次の通り。

「散兵・潰兵の退却阻止の命令を受けていた宋希濂麾下の第三六師二一二団は、撤退命令を出された後も、挹江門付近の道路に鉄条網のバリケードを築き、路上には機関銃をそなえて、挹江門からの撤退を拒み続けた。このため、夜になるとパニック状態になり、挹江門から脱出しようとする部隊と、これを潰兵とみなして武力で阻止しようとした第三六師二一二団部隊との間で銃撃戦が繰り広げられ、挹江門内は大惨事となった。」(中国軍第八七師二六一旅長・譚道平 著『南京衛戍戦』による12月12日夕刻以後の情景)

唐生智が南京を離れるに当たって、彼は北門の督戦隊の任務を解除しなかった。各城門の兵士が十二日夜南京から敗走しようとして、北門まで来ると、督戦隊は任務通り、実力を以て敗走兵を追い返そうとし、ここに同士討ちが始まった。ために北門近辺は死屍累々となり死骸の山は数メートルに及んだ。

「城壁からロープがさがっているでしょう、これは壁を乗り越えて逃げようとした命知らずの人たちの思案の跡です。彼らは絶望的でした。だれひとりとして助かる見込みはありませんでした。雪崩のように人々が門に押し寄せてくる。そうなるとおのずから圧死以外にないのです」(シカゴデイリーニュース記者・スティール)


以下は、挹江門の遺体を工兵が片付けていたとの証言。どこに片付けたのかは定かではないが、「“南京大屠杀”遇难同胞纪念碑」を見ると挹江門(No.17)にも埋葬碑があるから、埋葬あるいはそれに準じた処理をしたのかもしれない。

「われわれの部隊は、揚子江を遡航し、十二月十五日、六日頃南京に上陸、挹江門の正面大門と左脇門の閉鎖解除と、附近の死体とりかたずけを命ぜられました。工兵二個小隊とトラック二台で、約七日間を要してすべてのかたずけが終わりました。(中略)当時の状況から判断すると、若干の市民を含む多数の支那軍人が、内側から城壁に駆け上り、布紐を伝わって逃げたのですが、大勢の人間が我先にとひしめき、後より押されるまま“人間なだれ”となって城壁の下にドット崩れ落ち、多数の死者を出したものと思われます。死体を調べてみましたが婦女、子供は一人もいませんでした。」(赤羽第一師団工兵隊・酒井松吉中尉)


なお、挹江門の遺体数1,000は次の記述から。

12月12日南京城の中華門・光華門が陥落する数時間前には南京防衛軍司令官唐生智は南京城西北の港湾地区下関 (シャーカン)から揚子江対岸へ脱出した。逃げ遅れた将兵は唯一の脱出口であった南京城西北の挹江門に殺到したが、門は既に閉じられており、城壁を乗り越えて脱出するしか方法がない状況だった。この際、挹江門の防守部隊と退却兵が衝突し、双方に死傷者が発生。圧死などを含めた死者は、スミス記者によれば、約千名と伝えられる。高さ2メートルに及ぶ死体の山を乗り越えて南京城の城壁を急造のロープで降りようとした多くの将兵が墜落して死亡している。(Wikipedia)


そのスミス記者の元記事がおそらくこれであり、状況的には文中の「城郭付近の中国兵の死者は一千以上」というのが、脱出時の混乱で多くの死者を出した挹江門(=下関路口?)のことを指しているように見える。

(12月12日)夜10時頃になって、交通部の壮麗な建物に火がつき、中にあった弾薬が激しく爆発した。中山路の車両は、そこで通行不能となっただけでなく、車軸にも火が移った。街路の潰走兵と難民は逃げようとしても逃げられず、秩序はいよいよ紊乱した。大勢の中国軍は下関まで歩いて行った。しかし、そこもわずかに狭い路が通れるだけであった。車両はぎっしりとつまり、さらに車両の多くに火がつき、中国軍に焼死者がたくさんでた。路上には死体が累々とし、下関路口には死体が積み重なり、後から来た中国軍は縄ばしごや太縄、あるいは帯を使って死体の山を超えて行った。彼らは下関路口を脱出した後、長江を渡河する舟艇をわれがちに探した。渡河の人数が多かったので運送中の杉の筏まですべて徴用された。船にはたくさんの人が乗り過ぎて長江の真中で沈没し、かなり溺死した。その時、一部分の中国軍は日本軍の侵攻を極力阻止し、大軍の退却を援護した。この日の夜は、機関銃の音が激しく、戦闘は深夜に至った。城郭外の中国軍は既にことごとく犠牲になった。ある目撃者の証言によれば、城郭付近の中国兵の死者は一千以上とのことだった。(ロイター・スミス記者の目撃談/世界日報 1938年1月14日)


太平門の遺体400は次の証言から。太平門の外の沼に300、城壁の下に100。

「またある時、アメリカの武官が視察に来るから、死体を片付けておけという通知があったが、各部隊はそんなことには動じない。私は太平門を出て直ぐ左に沼地があり、道路から四・五米低いところに、中国兵の死体が道路の高さまで積み重ねてあるのを見た。三百人くらいはあったと思う。土をかぶせたかと見に行ったが、全然そのままである。日本兵にして見れば、敵を殺して何が悪い。戦争じゃないか、という考え方であったろう。」(第十六師団副官・宮本四郎)

「『二千の虐殺死体』とか言われておりますが、門の外側で見ましたのは千にも足らなかったと思います。一部の死体は人に踏みつけられて、気の毒な状態でしたが、この人たちは紫金山の戦闘に破れて城内に逃げ込もうとしたか、あるいは城内から脱出しようとしたかは判らないが、太平門まで来てやられたのではありますまいか。ここには門外に深い大きな濠があり、この濠の中に死体が入れられて、土で覆われていました。門の正面で城壁の屈折部の下方には、一〇〇近い死体が土もかけずにありましたが、これは爆弾を投げられたようでした。この状況から見まして、戦闘行為による死者であると思います」(第二野戦高射砲司令部副官・石松政敏/証言による『南京戦史』9)





《激戦地の犠牲者数》

南京戦で犠牲者数の多かった激戦地について、補足的に考察を加える。



《雨花台》2,209人

紅卍字会の埋葬記録を改めて精査したところ、激戦のあった(あるいは“大虐殺”があったとされる)雨花台の犠牲者数の実態が見えてきた。

まず、紅卍字会の埋葬記録をそのまま実数で示す。関連するのは、「普徳寺」と「中華門外○○」である。いずれも雨花台の一角にある。これが「雨花台万人坑」と称されることもある。

(記録数)
普徳寺 :9,721-
中華門外:1,121-
合計  :10,842-

ところが、普徳寺には紅卍字会の記事に示したYの「12月28日 6,468体」が含まれている。これらは埠頭での敗残兵処断の遺体が水辺に留まっていたものを河に押し流した作業と推測した。
下関埠頭からは直線距離で10km離れているから、その意味でも普徳寺に遺体を埋葬したというのは考えづらい。他の埋葬はいずれも近場に埋葬している。
ただし、「寺」であるから(今も寺院のように見える)、死者を弔う意味で普徳寺に計上された可能性が考えられる。

普徳寺に計上されたというのは、「侵华日军南京大屠杀遇难同胞普德寺丛葬地纪念碑」に「十二月二十八日葬六千四百六十八具」と刻まれているから。

その他に、遺体の収容場所で確認すると「普徳寺」と「中華門外○○」には「城内で収容」が含まれている。南京城内では、南側が建物が密集する人口密集地であったようだから、その関係ではないだろうか。

(城内収容数)
普徳寺 :1,277-
中華門外:888-
合計  :2,165-

そこで、「普徳寺」と「中華門外○○」から下関水葬6,468と、城内収容2,165を除くと次のようになる。

(残数)
普徳寺 :1,976-
中華門外:233-
合計  :2,209-

従って、雨花台での戦闘による中国側犠牲者数の実数は、「2,209人」と考えられる。

その雨花台については次のような証言がある。

「中隊はひとまず、雨花台要塞の山麓にある兵技専門学校(兵工廠?)に宿営することになった。ここには前に述べたように、半焼けの中国兵の屍体が四、五百遺棄されていた。その後、雨花台の激戦の跡を見て回ったが、各所で兵士の死体は見たが、非戦闘員の死体は見なかった。日本軍の進撃が予想外に早かったので、敵は屍体を城内に収容できなかったのであろう」(独立軽装甲車第二中隊本部曹長・藤田清)

「雨花台の堡塁を失った中国兵の大多数は城内へ退却したが、既に城門は閉ざされ、城壁下を右往左往し、窮鼠となって我軍に反撃してきた。至近距離からの射撃で城壁下や手前のクリークの中には死体が累々と横たわり、辛うじて岸に泳ぎついた者も全滅した」(第百十四師団兵器部・萩原誠)

「第十軍司令部は14日朝、秣陵関を発し雨花台の麓を過ぎ中華門を通って(城内の)上海儲備銀行に司令部を置いた。雨花台は後年中国側が民衆二万人が虐殺されたと発表した場所であるが中国兵の死体が点々と転がっていただけで虐殺の跡というが如きは片鱗もなかった。」(第十軍司令部第三課長・谷田勇)


よって、「万人坑」と称される割には、雨花台の戦闘での犠牲者数は少なかったように見える。

ちなみに、雨花台は国民党政府の統治時代に十数万人の共産党員とシンパが殺害されるなどした処刑場であったとされるから、元々「万人坑」の話が出やすい土地であろうと思われる。



(追記)

なお、「熊本兵団戦史」の中にも同じ答えがあることを見つけた。下表の「安徳門」とは雨花台の一角の地名である。つまり、第6師団の認識としても、雨花台一帯での敵の遺棄死体数は 2,200 である。



ちなみに、上記の表は合計の数字が計算上合わない。試算したところ、「城壁」の「17,000」が誤記で、正解は「1,700」と思われる。そうすると、合計が 17,100-となり、整合する。




《下関一帯》(=下関包囲戦+下関江上戦)約1万3千人

紅卍字会の埋葬記録で、下関付近を合算すると総数3,331となっている。ここには幕府山関連と、水葬(=水辺にあったものを押し流した)は含んでいない。

それ以外に、上述したように「1.4 下関の地上(工兵が水葬) 3,000-」がある。おそらく、下関埠頭に近いエリアと挹江門への通り道のみ工兵が戦場掃除の一環で水葬にしたのではないか。なぜなら、そこは日本軍が使うから。

従って、下関一帯の犠牲者総数は、「6,331人」となる。

これに、隣接する「煤炭港(=宝塔橋)」の埋葬実数553(紅卍字会)と、さらに南京戦の翌年に南京市衛生局が宝塔橋、草鞋峡、浜江一帯から収容した3,575体も加えると「10,459人」となる。

この犠牲者数は、この一連の考察を通して把握している限りにおいて、新河鎮の激戦に匹敵する規模である。
その様相は次の記述からもわかる。

「南京攻略戦では南京城西側・長江河岸間は敵の退路に当たり、敗兵と難民がごっちゃになって第六師団の眼前を壊走した。師団の歩砲兵は任務上当然追撃の銃砲弾を浴びせ、このため一帯の沼沢は死屍で埋められたという。」(『熊本兵団戦史』)

「(揚子江岸にあった数千の遺体について)この中には非戦闘員も含まれていたことと思うが、武器を持って退却する敵を攻撃することは当然の軍事行動である。住民が混在しておれば被害は免れ得ない。なぜ中国軍は整斉と組織を保ち、白旗を掲げて降伏しなかったのか。」(上海派遣軍参謀・大西一)


上記の文面からは、攻撃の時点でも難民が含まれていたことを認識していた(『熊本兵団戦史』)ようだし、戦闘終結後の見聞でも難民が含まれていたことを認識していた(大西一参謀)ように読める。

ところが、スマイス調査の表(上述)を参照すると、これに対応しそうな数字=12月13日の軍事行動による死亡、がたった「50」しかない。上記文面からすれば、5%とか10%くらいは難民であってもおかしくないように思えるのだが。

しかし、紅卍字会の埋葬記録でも城外の遺体には女性と子供はほぼゼロ。正確には女性が4、子供がゼロ。少数ながら女性兵士の目撃談もあることを考慮すると実質的にゼロ。

となると、1万人規模の犠牲者を出した下関包囲戦であるにも関わらず、スマイス調査のにあるようにこの時に犠牲になった市民は本当に50人程度しか含まれてなく、熊本兵団戦史がいう「難民」とか、大西一参謀がいう「非戦闘員」というのは、実は軍服を支給されていない雑兵とか人夫の類だったのではないだろうか。そう解釈しないとつじつまが合わない。


なお、この一連の記事では「下関江上戦」と称しているが、下関付近から揚子江上に逃れた敵を33連隊と第三艦隊の砲艦が攻撃している。上記の下関包囲戦は、城内および挹江門〜下関一帯から対岸の浦口や八罫洲などに逃走しようとした際の戦闘だから、これらは連続した話である。

よって、下関江上戦で算定した犠牲者数3千を加えると、実に「1万3千人」くらいの犠牲者数を出していることになる。



《新河鎮》約1万1千人

これは、上述した図中の新河鎮での戦闘である。

戦闘の詳細は新河鎮の激戦に、また紅卍字会の“水葬”については別記事にまとめてある。よって、ここでは数字だけ並べる。

a. 紅卍字会の記録数
新河鎮+上新河:8,459-

b. “水葬”を除いた紅卍字会の埋葬実数
新河鎮+上新河:3,899-

c. 戦闘終了後に45連隊が数えた地上の遺棄屍体数
新河鎮:2,377-

d. 高橋義彦中尉が算出した揚子江に流された戦死体数
約7千

そして、cはbの一部であり、bで除いた“水葬”はdの一部と考える。よって、新河鎮の激戦での犠牲者総数はb+dに近いのではないかと考える。

従って、新河鎮の激戦での犠牲者総数は、およそ「1万1千人」となる。


(追記)

なお、こちらもまた「熊本兵団戦史」(上述の「南京会戦における彼我損傷表」)の中に同じ答えがあった。やはり、第6師団の認識として、新河鎮付近での戦闘による敵の遺棄死体数は11,000-である。ただ、表記としては「上河鎮、下関」となっているので、新河鎮から始まった激戦であるものの、下関までまたがるかなり広いエリアについての認識となっているようだ。





《備考》

以前の版から数字を変えた理由は次の通り。



(2017.08.19の修正)

1)紅卍字会(+2千)

紅卍字会の埋葬記録について、丸山証言の解釈を変更した。具体的には、丸山証言で「水増し」とされた項目について単純に削除するのではなく、「水辺の遺体の押し流し」と思われるものについて「埋葬分」から除外した。これによって、埋葬数が約2千ほど増加。


2)農村部からの算入削除(−2千)

また、前項に伴って改めて数字を精査したところ、城外で収容した遺体に占める女性と子供の比率が0.01%しかなかった。実数では女性4体、子供ゼロ。日本軍将兵の証言では、少数ながら女性兵士もいたとのことなので、それを考慮すると城外における女性と子供の市民の遺体は限りなくゼロである。

そうなると、城外に千を超えるような市民の遺体があったとは考えにくい。それで、どこが食い違っているのか見直したところ、埋葬記録上の「城内」と、スマイス調査の「都市部」の定義の違いにありそうなことがわかった。スマイスの都市部とは、城内に加えて隣接する下関・中華門外・水西門外の3地区を含む。

よって、主に次の2点の調整を行った。

(a)スマイス調査の「都市部」の市民犠牲者を城外の地上に置かない。具体的には、城内または、下関の遺体(工兵が水葬にした)に全て吸収する。
(b)スマイス調査の「農村部」から一部の数字を算入することをやめる。

その関係で市民犠牲者総数も2千減少。(上記のb項のため)


3)衛生局(+7千弱)

考慮漏れだった「南京市衛生局」の2箇所の遺体収容を追加。これで約7千弱の増加。




(2017.08.28の修正)

紅卍字会「水葬」判定基準変更による修正を行った。これにより、紅卍字会の埋葬実数が約4千ほど減少。




(2017.09.10の修正)

1)紅卍字会・埋葬記録の集計ミス=3月25日の799体が城内とカウントされていなかったのを修正。よって、城内犠牲者数が約800増加。
2)5月31日に下関煤炭港に74体埋葬とあるのを“水葬”に変更。






以上。






改版履歴:
2017.08.19 紅卍字会の数値解釈変更に伴って全面的に書き換え。
2017.08.21 《激戦地の犠牲者数》追記。
2017.08.28 紅卍字会「水葬」判定基準変更による修正。
2017.09.10 紅卍字会・埋葬記録の集計ミスによる修正
2018.11.06 熊本兵団戦史の「南京会戦における彼我損傷表」を追記。

《南京事件》紅卍字会埋葬記録の検証

2015年07月21日 | 南京大虐殺
2021.02.19 崇善堂の考察を別記事に


東京裁判にも提出された紅卍字会の埋葬記録について検証した。

法廷証番号326: 世界紅卍字会南京分会救援隊埋葬班埋葬死体数統計表
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10273906/1





《要点》


・特務機関員の丸山進氏は、紅卍字会の記録には水増しがあるとしたが、それらの項目は「埋葬」ではなく「水葬」。
・数千の規模の「水葬」があった地点は、揚子江岸で同規模の戦死や敗残兵処断があった地点と一致。
・同じパターンで「水葬」を判定し除外すると、埋葬実数は約2万3千。
・紅卍字会の集計値に従えば、犠牲者に占める女性と子供の割合は、城内2.6%、城外0.01%、城内外合計で0.30%。
・集計値から見れば、「市民に対する無差別大虐殺」のようなイメージは誤り。
・また、崇善堂の埋葬記録なるものは完全な捏造と判断する。(→別記事に独立させた)




《丸山氏指摘の要点》


紅卍字会の埋葬記録では埋葬数約4万3千だが、紅卍字会に埋葬業務を委託していた特務機関員の丸山進氏の述懐によれば18,000以上が水増しとのこと。

・埋葬は概ね2月初めから開始。2月末で5千体の埋葬実績なので1日当たりの埋葬は多く見積もっても200体、通常は180体。
・春分の日に中国軍民犠牲者の慰霊祭を執行することになり、埋葬を3月15日までに完了せよと紅卍字会に通達した。
・1月10日までの埋葬分8,243体は全部作り上げたもの。この時期はまだ埋葬が出来なかったはず。
・2月21日の下関魚雷軍営埠頭に5,000体埋葬したというのは眉唾物。
・2月9日の4,560体も1日の作業量としては想像もつかないほど大きな数字。4,560体という数字は相当割り引くべき。
・3月19日以降の6,231体も、そんなに多く残っていたとは考えられない。
・その他5月16日以降も城内各地で死体収容というのも作り上げられた数字。
・少なくとも一万八千体以上の過大計上があると見てよいのでは無いかというのが私の結論。


丸山進氏の述懐は後述。




《水増しの正体》


ところが、丸山氏が「眉唾物」「想像もつかないほど大きな数字」としていた“埋葬記録”はいずれも、大量の遺体が揚子江岸で発生していた場所であることに気づいた。
つまり、「埋葬」したとするには作業能力的に考えられないが、水辺に残っていた遺体を河に押し流した、という作業であれば能力的にも可能であろうということ。




上の図をみれば一目瞭然だと思うが、丸山氏が「眉唾物」「想像もつかないほど大きな数字」としたX、Y、Zにはそれぞれ、E、C、Aが対応している。



Xは、いわゆる幕府山事件(魚雷営埠頭)の現場だが、2日間で5,300体をその場に“埋葬”したと記録されている。記録には「腐乱」の文字もある。
それとは別に、同日の2月22日に「魚雷営埠頭で収容した151体を下関草鞋閘空地に埋葬」という記録もあるが、こちらは埋葬地点まで運んだようなので文字どおり「埋葬」だと思われる。

幕府山事件(魚雷営埠頭)の犠牲者数は、おそらくは3千人前後だろうと思われるが、「魚雷営埠頭で収容して下関草鞋閘空地に埋葬」が合計574体ある。すると、例えば2,500体くらいが日本兵によって河に流されたのだろうと考えられる。

そうなると、紅卍字会の記録にある5,300体の「水葬」は計算に合わないが、その地点は上図の最下流でもある。上流からの累積でいえば理屈上は約2万体以上の遺体が漂着してもおかしくない。地形や流れによっては滞留したり、漂着しやすい地点もあるだろう。

よって、5,300体であっても数字的な矛盾はないものとする。



Yの「12月28日 6,468体」については、紅卍字会の埋葬記録上は「埋葬場所」も「収容場所」も空欄の怪しいものだが、洞富雄氏によれば次のように、水辺からの押し流しなどであろうとのこと。

ここで言われている、埋葬場所欄と、死体収容場所を記している備考欄が空白になっている六四六八体の埋葬例であるが、これについては、一九八四年末訪中した南京事件調査研究会の皆さんにお願いして、南京市档案館に収蔵されている埋葬表の原本にあたっていただいたところ、この資料は印刷物であって、死体埋葬場所欄には白紙が貼ってあり、すかしてみると、その下に「下関江辺推下江内」の八文字がよみとれ、備考欄はもともとブランクであったことが判明した。「下関江辺推下江内」は、死体を下関の揚子江辺で江内に推し流したこと、つまり水葬にしたことを意味するものと思われる。死体収容場所を記入する備考欄がブランクになっているのは、おそらく、揚子江岸やその汀に折り重なって遺棄されていた死体を、その場所からすぐ江内に推し流すか、もしくは、舟で中流に引き出して流したからであろう。死体埋葬場所欄に白紙を貼って下の文字をかくしたのは、そこには、便法をとって水葬にしたことが記されていたので、それを秘するためであったと考えられる。

(『南京大虐殺の証明』/洞富雄)


その「下関江辺推下江内」に相当しそうな地名を探すと、この付近ではないかと思われる。1937年当時の地図では、下関埠頭沿いの道が「江辺馬路」となっている。



そしてそこは、第7連隊が12月14-16日に安全区から敗残兵6,670人を摘出し、処断した場所でもある。場所に言及している目撃証言もある。

「下関埠頭で便衣兵が一列に並ばされ、兵士が次から次へと銃剣で突き刺したり、或いは銃で撃っているのを見ました。その数は百や二百ではなかったが、千人とはいえなかったのも事実です。何千万何というような数では絶対にありません。」

(千葉鉄道第一聯隊下士官・松川晴策)


「巷間伝えられている下関での殺害というのは、(安全区から)摘出した便衣兵処分ではないかと思います。入城後数日、下関で毎日捕虜が処分されているという噂を聞き、また実際にその光景を見ました。」

(第二野戦高射砲司令部副官・石松政敏)


そして、その付近の埠頭はいわゆる陥落日に日本海軍の砲艦などが接岸している。

(12月13日)下関桟橋に近づきますと多くの兵が手を振っているので、双眼鏡で見ますと中国兵なのです。中国兵は日本の軍艦がこんなに早く来るとは思わず、中国の軍艦だと思って手を振ったのだと思います。そこでまた二十五ミリ機関銃で掃射して近づきました。」

(砲艦「勢多」艦長・寺崎隆治少佐)


結局、「下関江辺」付近で起きたことをまとめると次のようになる。

1)陥落日に上流の新河鎮の激戦で約7千の戦死体が流されている。
2)陥落日に下関埠頭で砲艦「勢多」などと中国兵が戦闘になっている。
3)陥落直後に安全区から摘出した敗残兵6,670人を下関埠頭で処刑している。
4)12月28日に紅卍字会が水辺の遺体6,468体を押し流している。(洞富雄氏調べ)

従って、それらの遺体が下関埠頭付近の水辺にとどまっていたものを、押し流したという解釈で合っているように思う。



A-Zの対応関係は、戦域が数キロの範囲に広がっていることや地名の精度の関係で多少怪しさも残るが、丸山氏曰く「1日の作業量としては想像もつかないほど大きな数字。4,560体という数字は相当割り引くべき。」とのことなので、Aの新河鎮の激戦で生じた水辺の遺体を、紅卍字会が河に押し流す作業をしたものと解釈する。

なお、次の証言によればZの上新河棉花堤よりもさらに上流の蕪湖方面からも戦死体が流されているようだから、それが含まれている可能性もある。

「12月19日か20日頃、清掃処理のため兵十数人を連れて下関の揚子江岸に行きました。流れの関係で入江に漂着した死体を押し流す作業でした。死体は三〇〇以上。この漂着死体は12月12日、南京上流蕪湖に進出した我が軍に砲撃された退却中の中国兵の漂着死体と思う。傷より判断すれば、中国軍は相当混乱し、船にとりすがる遭難者を振り切って逃走(頭部受傷、手首なき人)したものと考える。子供は見当たらず、女は二、三見た。民間服の人もあった。兵士は下級者が多かった。いずれも相当水膨れしていた。陸上には死体はなかった」

(歩兵三十八聯隊第一中隊軍曹・新井敏治/証言による『南京戦史』9)



従って、この一連の考察では犠牲者総数の試算を大きな目的にしているが、A〜EとX〜Zの両方をカウントするとダブルカウントになってしまうので、ここでは発生側のA〜Eで計上するものとし、X〜Zは試算からは除外することとする。




《水葬の判定基準》


「水葬」と判定した大きい数字は前項の通りだが、それ以外にも同じパターンがある。

整理すると、「水葬」と判定する基準は次の通り。

(1)丸山氏が、1日の作業量としては考えられないとする数が多い項目。
(2)埋葬と収容場所が同一かつ水辺の項目。(=水辺は埋葬に適さないはずだから)


よって、紅卍字会の記録における以下の項目を「水葬」と判定する。


日付/数/埋葬場所/備考

12.28/6,468/-/(下関江辺推下江内/洞富雄氏調べ)
02.09/850/上新河二哽/死体腐乱せる為現場にて納棺
02.09/1,850/上新河江東橋/江東橋一帯に在りしものを納棺
02.09/1,860/上新河棉花堤/死体腐乱せる為現場にて納棺
02.12/1,191/下関渡固里/死体腐乱せる為現場にて納棺
02.19/524/下関魚雷軍営脇/死体腐乱せる為現場にて納棺
02.21/5,000/下関魚雷軍営埠頭/死体腐乱せる為現場にて納棺
02.22/300/下関魚雷軍営埠頭/死体腐乱せる為現場にて納棺
03.06/1,772/下関煤炭港河辺/死体腐乱せる為現場にて納棺
05.31/74/下関煤炭港/該所江辺に在りしものを納棺


以上を除外すると、埋葬実数は23,134になる。

なお、このくらいの数値になると次の丸山氏の証言と整合する。
視察のルートは南京城周辺のみのようであり、揚子江岸の漂着遺体は見積もり対象ではなかったようだから、算定基準が上記と一致している。

「早速、自治委員会の幹部を連れて遺棄死体の状況を視察しました。(中略)死体は殆どが城外にあり、全部で2万体位と私は算定しました。」

(特務機関員・丸山進/詳細は末尾に掲載)


さらに、丸山氏は「18,000以上が水増し」と述懐したが、結果的にその通りになっている。「水葬」と判定したのが19,889。




《検証結果》


前項のように、丸山氏の述懐の《趣旨》に基づいて“水葬”を除外して「埋葬」のみを再計算すると下図の通り。埋葬実数は約2万3千体となる。



1)丸山氏の上述の趣旨に沿って、“水葬”と思われる大きい数字のの記録を削除。
2)より正確には前項の判定基準でリストアップした項目を削除。
3)手元の表計算上では、正確には23,134。
4)記録が毎日きちんと計上されていない可能性を考慮し、5日間平均での埋葬数もグラフ化した。

補正後の5日間平均グラフからは丸山氏述懐の通り、2月初めくらいから埋葬作業を本格化し、3月15日の期限を目標に、紅卍字会が動員数を増やして作業を加速させていた様子がわかる。だが、元データの5日間平均グラフからは期限に向けて作業の追い込みをかけるという様子が感じられず、不自然である。

また、補正後の5日間平均グラフからは期限が迫った2月下旬の時点でも、1日あたりの平均的な埋葬数は1,000をなかなか超えないというのもわかる。丸山氏の回想でも、1,500体を毎日は無理とある。

よって、上述のX〜Zなどは「水葬」という解釈で正しそうなことが、データの検証からも判明したように思う。




《集計値》


紅卍字会埋葬記録*に基づき、集計値を次のように算出した。
* アジア歴史資料センターデジタルアーカイブ(次項に画像添付)



※「城内埋葬」は1,793体だが、上記は全て収容場所を基準にした分類。
※次項に掲載した史料と合計値が誤差の範囲で異なるが、上記の集計値は表計算ソフトに基づく。


この集計値からわかるように、市民が避難のために集められていた安全区を有する城内においても、犠牲者に占める女性と子供の比率は2.6%でしかなく、城外に至ってはほぼゼロであることがわかる。

しかも、少数だが次のように女性兵士の目撃記録もあるので、女性の遺体が全て市民とも限らない。

「『オイ、女だ!』と叫ぶ。(略)敵の死体に混じって立派に軍装した、紛れもない断髪の女の死体が一つうずまっていた。閉ざされた中華門にすがりついて慟哭するかのような姿で、女が…女の兵隊がおびただしい支那兵と一緒に死んでいた」

(「画法躍進之日本」『南京陥落祝賀号』)


「中国軍の中には女がいました。私も女の中国兵が倒れているのを見ています。」

(上海派遣軍特務部員・岡田酉次少佐)



従って、城外の女性と子供は実質的にゼロであり、これは、城外の戦場においては「市民は一人も見なかった」とする日本軍将兵の証言を裏付けるものである。

そして、城内外の合計値でも女性と子供の比率は0.3%にすぎない。

この結果からも、南京戦それ自体が「市民に対する無差別大虐殺」のようなイメージで語られることは間違いであることがわかる。




《紅卍字会・埋葬記録》


東京裁判にも提出された紅卍字会の埋葬記録を示す。

法廷証番号326: 世界紅卍字会南京分会救援隊埋葬班埋葬死体数統計表
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10273906/1
















《南京特務機関・丸山進氏の回想》


南京特務機関(満鉄社員)丸山進氏の回想

聞き手 東中野修道
とき  平成7年6月14日

―――お送り頂きましたお手紙によりますと南京には1年ほどいらっしゃったそうですね。
 
「満鉄上海事務所調査課から南京の特務機関に派遣されたのは昭和12年の12月28日頃でした。それから13年の12月まで南京にいたことになります。南京に派遣されることになったのは要するに中国事情の分かる人が欲しいと言う理由からでした」
 
―――お1人で南京に赴任されたんですか。また、ご身分はどうなったんですか。
 
「私を含め6人の満鉄社員が出向を命ぜられましたが、給料や出張手当等は満鉄から支給されておりました。ですから、身分上は、あくまで満鉄社員でした。馬渕誠剛君と私が一番の若輩(24才)でしたが、それでも正規の俸給が160円、それに1日当たり10円(1ヶ月にして300円)の出張旅費が加算されましたから、月々460円になりました。多分、危険手当の意味もあったのでしょうが、それ以上に重要なことは、南京政府の部長級に対しても引け目を感じなくて済むようにとの配慮があったのだと思います。

満鉄上海事務所長の伊藤武雄さんという人は南京国民党政府の要人や文化界の大物達とも親交のあった大御所のような人でした。伊藤さんが選んで派遣するからには、派遣された者が中央政府の部長級とも互角に交渉できるよう、それには俸給の面でも見劣りしないよう、と言うのは相手から招待された時は当方も招待しないと相手の下手に立つことになるといったことがありますから。

伊藤さんは中央政府部長級の俸給をだいたい500元(1元=1円)程度と踏んだ訳です。これは巡警の月給を5円としてもその100倍です。そのお陰で私どもは維新政府の綏靖部長の任援道氏や南京自治委員会が発展的に解消して出来た督弁南京市政公署の高冠吾氏にたいしても対等に交渉できました。余談になりますがね大西一特務機関長の俸給が360円でしたから、いつも『貴様ら若造のくせに』と高給をからかわれたものです」


―――随分と破格の高給だったんですね。
 
「ええ。ですから私どもの最大の特徴は特務機関長の配下にありながら、給料が満鉄から支給されていたことです。生え抜きの特務機関員ではありませんでした。満鉄が手塩にかけて育て上げた日中の架け橋として殉ずる気概のある人物の集まりでした。上からの命令で動いていた特務機関員とは、その点、若干違っていた訳です。勿論、中国のことに関しては政治・経済・慣習等について専門的な知識を有しており、中国語についても殆ど専門家の域に達しておりました。私どもがシナ服を着て一般民衆の中に入り込んだら、まず日本人であることを見破られることはありませんでした。

ところで、6人の給料を合計すると1ヶ月に約3千円になりましたから、これは大きかったですね。私どもは特務機関長の頭脳集団として、誰に気兼ねすることもなく、皆で知恵を出し合って、特務機関長に意見を具申し、政策の実行に移って行きました。具体的には、政治班、経済班、宣撫班を組織し、避難民の救済と南京市の行政機構の確立に当たりました。まかり間違ったら、皆で自腹を切る覚悟でした」


―――自腹を切る覚悟でいたとおっしゃいますと。

「つまり自分たちの俸給を出し合って、赤字を補てんするという意味です。たとえば私どもが特務機関長の決済を経て惑る仕事をしたとする。いざお金を払うという段になって特務機関の経理担当者が反対し、支払いが滞ったとする。そのとき私どもが俸給から出し合って決済する覚悟でした。3千円あれば何とか解決できましたから。もっとも実際には自腹を切る必要は一度もありませんでしたが」

―――危険手当の意味もあったとおっしゃいましたが、お仕事の上で何か危ない目に遭われたことはありませんでしたか。

「それはありませんでした。ただ、話は一寸変わりますが、当時既に日本から一旗上げるためにやって来たような男達が南京に来ていて、中国人に威張り散らしたり、または何か上手い話はないかといった気持ちしか持ち合わせていなかったため、中国人の習慣や気持ちが分らず、かえって害の方が多かった。私どもは頻繁に中国人と接触しながら日本からの浪人を常に蚊帳の外に置いていましたから、利益を独り占めしているのではないかと彼らから誤解されたこともありました。たとえば刀を抜かれて脅された事もありました。私はその時どうせ生命は捨てたつもりで南京に来ているんだから、どうぞ斬ってくれと答えたものです」

―――南京の特務機関では何をなさったのですか。特務機関はスパイ活動をするのではなく占領地の支那の行政を支援する所ですね。

「ええ。しかも我々が表に立って支援活動をしたのでは南京の行政を行う中国人が日本人の傀儡――漢奸――と非難されますから、あくまで陰から内面的援助を彼らに行うという活動でした」

―――具体的には何をなさったのですか?

「昨年(平成6年)の7月に講演した時の資料『南京事件の実相について』をここに持ってきたのですが、そこにも書いていますように、昭和12年24日から良民票の発行が始まりましたが、各部隊まちまちの形式で発行していましたので、その形式を自治委員会で一定にして整理統合することになり、私が影の事務責任者となりました。良民票というのは型紙を利用したモノではなく、木綿のきれを使って作ったんです。

大きさはこれ位ですから、そうですね、文庫本と同じ大きさですか。
中国人には筆の達者なのがいますから、墨で型版を押した木綿のきれに住所氏名年齢を筆で書き込んで、それを以て《良民の証》としたんです。それを自治委員会と特務機関が認証して住民に交付した訳ですが、その発行原簿はのちに市政公署の戸籍科に保管されました」


―――何のために良民票を作ったのですか。占領政策を行う為ですか。

「いいえ、占領政策のためと言うよりは、むしろ南京市の行政運営を円滑化するための基盤作りとして住民票の作成に着手したんです。課税、物品配給等、全ての基本になります」

―――その外には特務機関にいてどんなことをなさったんですか。

「この本は阿羅健一さんの『聞き書き南京事件』ですが、その中で大西一特務機関長が述べていますように、南京攻防戦で倒れた日本軍兵士の死体は日本軍当局の手で一体残らず収容され、全て荼毘(だび)に付されていました。

ところが中国軍は逃走して南京にはいませんから当然ながら中国兵の死体はそのまま放置されていました。そこで大西特務機関長の前の佐方繁木特務機関長から意見が出まして気温の上がらないうちに遺体の後片けを中国人にやらせようということになり、紅卍字会の埋葬活動を支援することになった訳です」


―――アメリカ側の資料を見ていますと、国際委員会が紅卍字会の遺体埋葬活動を支援しているような趣が見受けられるのですが、遺体埋葬活動を国際委員会もまた支援したということはありませんか。
 
「そのことについては私には分かりません。私は特務機関長から埋葬の経費は自分が工面するから、お前が埋葬の実行に当たれと一任されて実行に当たった訳です」

―――そのお金ですが、佐方中佐のあとに特務機関長となられた大西特務機関長が自治委員会から工面したんですか。
 
「自治委員会には全く金はなかったのです。特務機関長が軍の機密費から調達したのではないでしょうか。ただ日本軍から経費が出たことについては外部には一切公表されなかったので自治委員会から(後には市政公署から)出たものと、恐らく、一般には理解されたかも知れません。

ともかく、それで、早速、自治委員会の幹部を連れて遺棄死体の状況を視察しました。まず下関の表通りはきれいに清掃されていましたが、裏通りには実に多くの死体がありました。

それから城壁の西に沿って南下した莫愁湖や秦准河の水面には多数の死体が浮いていました。さらに南に行くと江東門と水西門外に相当多数の死体がありました。南門に当たる中華門、それから光華門外、東門にあたる中山門外は案外少なかった。城内も調査しましたが、城内の家屋の外は極めてまばらに死体が点在する程度でした。死体は殆どが城外にあり、全部で2万体位と私は算定しました。

そして予算を計上した上で、自治委員会名で、死体の埋葬を一括して紅卍字会に委託しました。それから埋葬場所として江東門一帯、特に北部の、下関寄りの、若干地形の盛り上がった場所を、私は選定しました」


―――紅卍字会に一括して委託したとおっしゃいますと。

「この仕事は南京市自治委員会が自発的に実行したいという建前で行われたものです。しかしその自治委員会はこのような大きい作業を行うだけの実働的なスタッフを持ち合わせておらず、どうしても外部の団体に作業を委託しなければなりませんでした。

そこで紅卍字会に着目して、その内部を調査した結果、紅卍字会は陳漢森という立派な指導者に率いられた能動的な社会慈善事業団体であることが判明しました。そこで、この作業を紅卍字会に一括して委託することになった訳です。

後になって、崇善堂その他の弱小団体からも作業の申し込みが自治委員会にありましたが、そのことは紅卍字会に任せてあるから紅卍字会の方に言って欲しいと伝えて、自治委員会では受け付けなかった訳です。紅卍字会の下請けとして彼らが作業に従事したであろうことは考えられますが、そうであったとしても、その埋葬作業量は一括して紅卍字会の作業量に組み込まれていたはずです」


―――それから、先ほど、丸山さんが選定なさったとおっしゃいましたが、それはどういう意味ですか。

「どこにも無主の土地はありません。紅卍字会が紅卍字会独自の判断で埋葬場所を選定し、そこに死体を埋葬し始めれば、当然その地主が怒ります。

どの土地が誰の所有地であるか、南京に長く住んでいる者であれば知っている訳ですから、紅卍字会が勝手に誰々の土地を共同墓地にしているという噂がすぐ広がって、所有者から厳重な抗議が紅卍字会に来ることになります。ですから紅卍字会に選定せよと言っても出来ない相談なんです。

そこで、やむを得ず、私が場所を指定した訳です。もっとも各地に既設の共同墓地やお寺の墓地などもありましたが、埋葬可能なスペースは限られていて大規模の埋葬には適していませんでした」


―――つまり日本軍の特務機関長の意を受けた丸山さんであったから、丸山さんがどこそこに埋葬をと言えば、地主も黙認せざるを得なかった、紅卍字会も後顧の憂いなく埋葬出来た、という訳ですね。

「そうですね。ついでに、なぜ地形の盛り上がった所を選んだかと言いますと、あの辺りは揚子江がすぐ横を走っていますから、地下水が地表近くまで上がってきているんです。そこで盛り上がった所を選んで埋葬すれば、その分だけ地下の水位が離れるということで丘のように盛り上がった所を選んだ訳です」

―――どのようにして埋葬したんですか。トラックなど当時はなかったと記録には出ていますが。

「今でこそトラックは誰でも持っていますが、当時はトラックなんて余程の人でないと持っていない時代ですよ。大八車みたいなもので死体を運搬し、近くの農民を動員して、鍬(クワ)で、大きな穴をなるべく深く掘って、そこに死体を並べて、再び土を被せる、そんなやり方でした。埋葬は概ね2月初めから始め、2月末で5千体の埋葬ですから、1日当たりの埋葬は多く見積もっても200体、通常は180体でした」

―――それで初めて分かったことがあるんですが、南京大学のベイツ教授が昭和13年2月14日に書いた「南京における救済状況」という報告書のなかで紅卍字会が「1日に200体埋葬してきたけれども、まだ埋葬すべき3万体が残っている、ほとんどが下関に」と言っているんです。なぜベイツが「1日に200体埋葬」という数字を出していたのか、今まで疑問だったんですが、今の丸山さんのお話でやっと分かりました。ただ、1日当たりの埋葬量を、何故ご存じだったんですか。

「それは毎日の実績を報告させていたからです。なぜ報告させたかと言いますと、常に状況を把握しておくのが目的でしたが、そのほか私は満鉄上海事務所から南京の特務機関に派遣されて来ていましたから毎月1回は業務報告をする義務があるので日報を作成し、月ごとにまとめて特務機関の上司に報告するほか、同じものを満鉄上海事務所の伊藤所長に送っていた訳です。そしてそれが大連にある満鉄本社の総裁室宛に上海から転送されていたようです。それが今回の朝日新聞夕刊(平成6年5月10日)の報道となった訳です。

その朝日の記事が出たことは知りませんでした。満鉄上海事務所の同僚で私と同じ時期に南京の特務機関に請われて出向した馬渕君からの連絡で初めて知りました。何だ、この機密報告は僕が作成したものじゃないかって。見て、本当にびっくりしましたよ」


―――ところで今回丸山さんから400字詰原稿用紙15枚の『南京事件の真相について』と題する一文を送っていただきましたが、それを見て初めて納得したことがあります。あの中で丸山さんは3月に入ってからの1日当たりの埋葬量が急増したことを記されていますね。実は紅卍字会の2月3月の埋葬記録には1日当たり2千体近く埋葬といった記録が頻出して来ます。それは埋葬方法から見て信じられないと私は思ってきた訳ですが、必ずしもそうではない訳ですね。

「3月22日と記憶をしておりますが、春分の日に、大西特務機関長の主催で、中国軍民犠牲者の慰霊祭が悒江門内で執行されるということになり、それで私は埋葬を3月15日までに完了せよと自治委員会を通じて紅卍字会に通達を出しました。そのため紅卍字会は下請けを動員して大急ぎで埋葬を行い、埋葬は全て完了しました。

今回の朝日の報道(平成6年5月10日)にある日報によれば合計3万1791体を埋葬しております。ですから、3月の15日間は1日当たり2千体から千5百体の埋葬量です。これは明らかに水増しがあると私は考えましたが、一言も意義をはさむことなく承認しました。しかし2月は先ほども申しましたように1日に多くて200体の埋葬です」


―――その、「承認しました」とおっしゃいますと…。

「つまり埋葬作業終了後、たしか一体当たり30銭と記憶していますが、中華民国の警官の月給が3円から5円であった当時、30銭(今のお金にして700円程度)の経費を支払っていました。しかしその埋葬量を私が承認しなければ、謝金は出ない訳です。謝金はそのつど何回か払っていましたが、埋葬作業完了後には全てを清算する必要がありました。

合計3万1791体に30銭を掛けると約9500円、それに搬送距離や地形的な困難度によって加算した場合があり、全体では1万1千円程になりましたから、未支払いの残金は市政公署に交付して、公署から全てを清算させました」


―――3月15日までに本当に全埋葬が完了したんですか。

「それは春分の日に慰霊祭を執行するという予定でしたから、慰霊祭までには全ての遺体を片付けなくてはなりませんでした。それで私は3月15日を目処にして埋葬を完了せよと通達を出し、それに基づいて紅卍字会が多くの人を雇って大急ぎで埋葬を完了させた訳です。ですから、3月15日には完全に埋葬は終了したものと思っています。その慰霊祭では本願寺派の川野三暁師が読経を行いました。川野師は戦後に僧正となり参議院議員にもなった人です。

ただ先ほどの話に戻りますと、既に申しましたように埋葬記録には明らかな水増しがあります。仮に2月は1日当たり200体を埋葬したとしても5,600体ですね。そうすると3月の15日間で約2万6000体を埋葬しないと3万1791体には成りません。

3月は1日当たり平均2千体から千5百体の作業量となります。たとえば1日に千5百体を大八車に乗せて運搬し、千5百体分の穴を鍬で掘り起こして、その中に千5百体を並べて、そして土をかける。それは1日だけは実行出来ても、毎日毎日続けて行うなど、到底不可能です。

しかも戦災で食べ物にも困っている状態にあって、人員、器材等の調達が困難な状況のもとで、そのような埋葬が出来たかは甚だ疑問です。崇善堂などの他団体を下請けに使ったことにも全然触れていない。それはおかしいですね」


―――東京裁判において紅卍字会は「日本側は(南京占領後)約1ヶ月後迄それ(埋葬)を許さなかった」と言っています。その表現の妥当性を別にすれば、少なくとも1月14、15日までは埋葬は行われなかったと言っている訳です。他方、南京大学ベイツ教授の2月14日付けのアメリカ向け報告によりますと「1日に200体埋葬」という表現が見えますから概して2月は「1日に200体埋葬」が限度であったと思われます。そしてそのことは丸山さんのお話とも符節が合います。

また、南京ドイツ大使館ローゼン書記官の3月4日付け本国宛報告によれば「紅卍字会は毎日500から600体を共同墓地に埋葬」と報告されていますから、概して3月は「毎日500から600体を埋葬」するのが限界であった。そう言って言い過ぎならば、ともかく3月4日前後までは「毎日500から600体」の埋葬であったと言ってよい訳ですね。

ところが東京裁判に提出された紅卍字会の埋葬記録によりますと、12月22日には4ヶ所にて合計779体を埋葬したとか、12月28日の「雪」の日に6,468体を埋葬したとか、1月10日には996体を埋葬、2月7日には151体のほかに843体を埋葬したとか、2月9日には125体のほかに4,560体を埋葬、2月21日には5ヶ所にて作業し、そのうちの1ヶ所においては5,000体を埋葬とか、3月19日から4月29日までは死体収容場所未記入のまま合計4,532体も埋葬といった、作文としか思えない数字が、この他にも頻出して来ます。これを丸山さんはどのようにご覧になりますか。

「まず12月22日から1月10日までの埋葬分8,243体は全部作り上げたものでしょう。この時期はまだ埋葬が出来なかったはずですから。なかでも、そのうちの12月28日の6,468体は(雪の日に埋葬ということから)完全に馬脚をあらわしたものです。それから2月21日の下関魚雷軍営埠頭に5,000体埋葬したというのも眉唾物です。そこにはそんなに多くの死体を埋葬する空き地は無かったはずです。しかも2月21日はこの5,000体の他にも4ヶ所に分けて705体を埋葬していますから1日の作業量としては705体が精一杯で、とても5,000体には手が回らないはずです。だから、この5,000体については嘘と断定せざるを得ません。

2月9日の4,560体も1日の作業量としては想像もつかないほど大きな数字です。この遺体収容場所の上新河や江東橋にはかなりの多くの死体がありました。ここでは殆ど死体を運搬する手間がはぶける利点がありますが、それを考慮に入れても4,560体という数字は相当割り引きして考えるべきでしょう。

次に3月19日以降の埋葬が6,231体も計上されていますが、ある程度の落ちこぼれはあったかも知れないけれども、そんなに多く残っていたとは考えられません。

その他5月16日以降も城内各地で死体収容という欄が何ヶ所か見受けられます。それが男、女、子供と、並べて記入されたところを見ると一般市民の虐殺死体を匂わせたものなのでしょうが、3月以降、城内で、そんな事件は全く起きていません。これも作り上げられた数字と考えられます。総じてこの統計表は以前に紅卍字会が自治委員会に報告した数字の不合理性を隠すために合理性を装って作り替えられたものと考えられます。

しかしその時期の状況に照らし合わせてみると、却って事実に合致しない多くの問題点を露呈しています。少なくとも一万八千体以上の過大計上があると見てよいのでは無いかというのが私の結論になりますね」

 
 (丸山進氏略歴、大正2年生まれ、元鹿児島県庁印刷局長、当時82才)

(『南京「虐殺」研究の最前線〈平成14年版〉』/東中野 修道)





《崇善堂について》


ここにあった崇善堂の埋葬記録についての考察は別記事として独立させた。

《南京事件》崇善堂の埋葬記録はウソ
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/9c86f444aa8692d6838320f447bcf3cf





《改版履歴》


2017.08.17 南京特務機関・丸山進氏指摘の“水増し”は「水葬」と解釈し大幅修正。
2017.08.28 “水葬”判定基準の拡充による数値修正。
2017.09.10 城内収容、および“水葬”の一部チェック漏れの修正。
2021.02.19 崇善堂の考察を別記事に独立




《関連記事》


★南京大虐殺の真相(目次)
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/9e454ced16e4e4aa30c4856d91fd2531

《南京事件》崇善堂の埋葬記録はウソ
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/9c86f444aa8692d6838320f447bcf3cf




以上。





《南京事件》“煤炭港虐殺”事件は捏造

2015年07月21日 | 南京大虐殺
最終更新:2017.12.24



改版前のこの記事で「和記洋行工廠での殺戮」としていた事件は、中国の「侵华日军南京大屠杀煤炭港遇难同胞纪念碑」が示している虐殺事件である。
以下では便宜的に「煤炭港虐殺」と呼ぶことにする。

結論から先に書くが、この煤炭港虐殺は捏造と断定する。




《煤炭港虐殺の概要》

・12月14日、日本軍が数千人の難民の中から2,800人の若者を連行し、煤炭港の倉庫に監禁。
・3日後の17日朝、8時頃から十人ずつ岸辺に連行して銃殺。
・夕方までかかってまだ残っていた6〜700人を河口まで連行して機関銃で射殺。
・逃げて生き残った陳徳貴が証言。




《捏造と断定した要点》

・虐殺が行われたまさにその同じ日時と場所に砲艦「比良」が停泊中。
・虐殺は入城式の当日。出席した艦長が下艦時に虐殺現場を目撃していそうな時間帯。
・虐殺犠牲者数は、難民収容所の難民の約40%に相当。
・収容所世話役の陳漢森らは、虐殺直後から比良乗組員による街の復旧作業等に協力。
・虐殺から2週間後の元旦に比良が支援物資を搬入すると陳漢森らは爆竹を鳴らして歓迎&礼状。
・以後、終戦まで陳漢森は土井艦長と手紙のやりとり。
・砲艦比良艦長・土井中佐は何ら虐殺事件を認識していない。
・陳漢森が率いる紅卍字会の者たちが南京全域の遺体埋葬作業をしていたのに、この虐殺の話が安全区国際員会に伝わっていない。

※虐殺証言者の一人の「陳徳貴」と、紅卍字会代表にして難民収容所の世話役だった「陳漢森」は別人なので注意。




《“煤炭港虐殺”事件の場所》

南京城北端の挹江門を出たあたり一帯を下関というが、虐殺現場はその下関の少し北。
和記洋行工廠(和記公司)というのは、地名としては宝塔橋街と呼ばれる区画にあった軍需工場。



虐殺現場は、煤炭港。名前の通り、石炭の積み下ろし用港湾設備だったのだろう。周囲に鉄道の引込線がある。
そのすぐ東隣(揚子江でいうと下流側)に、「比良」が停泊した中興碼頭がある。

煤炭港の倉庫に閉じ込められていた人々が、連行されてすぐに射殺された岸辺とは、中興碼頭の至近距離になる。100mもあるかどうか。砲艦比良の全長が56m。比良乗組員が気づかないわけがない場所。

本当に煤炭港で2,800人も射殺していたら、至近距離の下流にいた砲艦比良は浮遊する無数の射殺体に取り囲まれていただろうし、停泊中の艦体も血で染まっただろう。そんな出来事を誰も話題にしないはずがない。




《時系列の整理から見た考察》




艦長・土井中佐の証言によれば、砲艦「比良」は入城式の前日または前々日に中興碼頭に接岸している。
その時、2,800人の若者は、既に煤炭港の倉庫に監禁されていた。

17日の朝8時頃から、岸辺で射殺(虐殺)開始。
その日の13時からは入城式。中興碼頭付近から、入城式が行われた中山門までは、下関〜挹江門から城内に入るルートで約15km。クルマで1時間未満の距離。艦長という軍幹部の入城だから、当然クルマでの送迎があっただろう。

土井艦長の下艦時刻は不明だが、少し早めに行って陸軍幹部と顔合わせして昼食を共にするとしても、10時に下艦で間に合うくらい。
もし9時とか10時頃下艦なら確実に“煤炭港虐殺”を目撃しているはず。

土井艦長は入場式の時に、近藤英次郎司令官から宝塔橋街の整備・治安活動の許可を得た。土井艦長本人は、26日まで城内にいたようだが、せっかくの許可を10日間も放置することは考えられないので、直ちに砲艦比良乗組員に対して宝塔橋街復興活動への協力を指示したと思われる。

そうすると、“煤炭港虐殺”事件の翌日くらいから、仲間の40%くらいを虐殺された生き残りの難民達と、それをまとめる陳漢森らが、虐殺の犯人たる日本軍の別の部隊(比良乗組員)と街の復旧や治安回復活動、あるいは遺体の埋葬作業に従事し、さらには街の名を宝塔橋街から「平和街」に改称した、ということになる。

さらには、その“煤炭港虐殺”事件の2週間後の元旦には、再び「比良」が医療品や食料等の支援物資を運んで中興碼頭に接岸し、これを出迎えた陳漢森と市民らが爆竹を鳴らして歓迎し、翌日には礼状と領収書を土井艦長に渡し、その後もまた改めて礼状を送り、終戦まで陳漢森と土井艦長の間で手紙のやりとりまでしたという。

ちなみに、虐殺されたのは若者とのことだから、虐殺の生き残り難民の中には虐殺犠牲者の父母や姉妹、子供達もいたはず。その人達が、虐殺犯らが目の前にいるにも関わらず、逃げ出したり報復したりするでもなく、比較的親身な比良艦長・土井中佐に虐殺について苦情を言うでもなく、賠償を求めるでもなく、医療品や食料ごときをもらって喜ぶというのはもはや人としてありえない。

さらにもうひとつ。この“煤炭港虐殺”事件で、2,800人もの難民を虐殺されたとする保国寺難民収容所の主任が、紅卍字会の陳漢森だが、彼こそが日本軍から遺体の埋葬事業を一任で請け負っていた人物である。つまり、彼の配下の者が南京全域に散って作業を行っている。それにもかかわらず、彼の足元で2,800人も虐殺された事件の話が、安全区国際委員会の耳に届かないはずがない。しかし、「南京安全地帯の記録」にそのような記録はない。

よって、この“煤炭港虐殺”は捏造と断定する。




《“煤炭港虐殺”事件の真相》

“太平門虐殺”もそうだが、全くの「無」から虐殺事件が創作されることはない。何かある。

そう思って、土井艦長のインタビューを読みなおすと、こういう発言がある。

−−宝塔橋街に死体はありましたか?

「陸軍が入った時、戦があったと思いますから戦死体はありました。
また、盗みに入った者を射殺した、といってましたが、そういう死体が十数体ありました。」


ここは私の完全な勘でしかないが、この《盗みに入った者を射殺した=死体が十数体》が非常に臭い感じがする。

なお、同じ話にも見える別の記述もあった。場所が定かではないが、「暫く倉庫に拘留」かつ河岸での出来事という構成要素が似ている。

「これとは別のそちこちで見つけた雑多な中国人グループ二〇〇名は、暫く倉庫に拘留されていたが、連れ出されて銃殺された。彼らは陸で銃殺されるか、河に飛び込んでから水中で機関銃で撃たれるか、選択の余地があったという。ごくわずかではあったが泳いで逃げ延びたものがいた。」(カボット・コヴィルの南京旅行記/1938年4月25日 長江上にて/陥落直後についての描写)



その時の生き残り、あるいは目撃者が、話に尾ひれをつけて拡大吹聴したのが、この“煤炭港虐殺”事件の発端ではなかったかと想像する。

さらに言うと、ネーミングに謀略を感じる。日本語では「和記洋行での出来事」とされているが、中国語では「煤炭港」がキーワード。つまり、日本人が真相を調べるのを難しくする細工がされている印象を受ける。




《砲艦「比良」艦長・土井申二中佐の証言》

次の書籍から、砲艦「比良」艦長・土井申二中佐の証言を抜粋。

聞き書南京事件―日本人の見た南京虐殺事件 阿羅健一
https://www.amazon.co.jp/dp/4809901203/


−−揚子江を遡江して南京に向かうのですね?

「そうです。十月十日頃から黄浦江の啓開作業をやり、その後、揚子江を遡上しました。十二月一日頃かと思います。
途中、江陰には上陸もしました。その後、鎮江に進み、ここで比良は天谷旅団の渡河作戦を掩護することになり、数日とどまりました。保津や勢多などはそのまま遡江しました」


−−勢多などが南京に突入した十三日、比良は鎮江にいたのですか。

「日にちがはっきりしませんが、勢多などが南京に行った頃はまだ鎮江にいたと思います。
比良が南京に着いたのは、入場式の前日か前々日頃です。」


−−下関に着いたのですね?

「いえ。もっと下流の中興碼頭です。下関なのかもしれませんが、下関とは言わずに、中興碼頭とよんでいました。
勢多などは上流の下関に着いたと思います。」


−−中興碼頭の様子はどうでしたか?

「そのあたりは宝塔橋街といい、中国軍の軍需物質の基地だったところです。軍需物質がたくさんあり、そのための引込線もありました。
難民が保国寺に六、七千人ほどいました。」


−−宝塔橋街には海軍しかいなかったのですか?

「いいえ。多くはありませんでしたが、既に陸軍がいました。」

−−宝塔橋街に死体はありましたか?

「陸軍が入った時、戦があったと思いますから戦死体はありました。
また、盗みに入った者を射殺した、といってましたが、そういう死体が十数体ありました。」


−−十七日の入城式は?

「入城式には私も参加しました。」

−−その時の南京の様子はどうでした?

「城内はおおむねきれいになってました。」

−−下関一帯には死体があったといわれていますが…。

「入城式に参列する時、下関から挹江門に向かったと思いますが、門の近くには死体が五、六体はありました。
入場式の時、近藤英次郎司令官に、宝塔橋街の整備、治安などが必要だと述べ、許可になりましたので、二十六日に中興碼頭に戻り、宝塔橋街の整備にあたりました。」


−−宝塔橋街にはいつまでいましたか。

「二十八日、烏龍山沖で沈没した第一号掃海艇を助けるために出発するまでいました。
この間、街の整備や橋梁の復旧などをしました。紅卍字会の陳漢森が、難民収容所の主任をしていて中心的存在だったので、彼を中心に埋葬なども行いました。
難民を自分の家に帰すようにしましたが、われわれがいる間に街も落ち着いてきましたので、陳漢森に命じて、宝塔橋街と改称*させました。」

(* 「宝塔橋街」を「平和街」と改称させた、が正解のはず。)

−−陳漢森は、紅卍字会でどのような地位にいた人ですか

「社長というか、所有者です。世界紅卍字会南京分会長といってました。
第一号掃海艇の負傷者を乗せて上海に戻った時、私は第三艦隊司令部に行き、人道上、宝塔橋街をそのままにすることが出来ない、といいました。すると、長谷川清司令長官は、宝塔橋街でやったことを非常に喜び、医療品や食料を下さいました。そこですぐに戻り、昭和十三年の元旦には再び中興碼頭に着きましたが、その時、市民も陳漢森も喜び、爆竹までならして歓迎してくれました。翌日、陳漢森はわざわざ礼状を持ってきました。
平和街が落ち着いた頃、比良は蕪湖の警備を命ぜられましたので中興碼頭をはなれました。陳漢森はその後もわざわざ礼状をくれまして、終戦まで手紙のやりとりをしました。よっぽど感激したものと思います。」


土井氏の手元には、今でも陳漢森からの手紙、感謝状、領収書などがある。また、陳漢森がおくってくれた畳一枚ほどの書は、表装して部屋に飾ってある。

−−南京では虐殺があったといわれていますが…。

「虐殺というようなことはなかったと思います。
戦場ですから死体はありましたが、虐殺の死体というのは見たことがありません。
私が支那人からもらった礼状もそうですが、支那人は誇張して表現します。南京事件とはそういうものかと思います。」





《紅卍字会・陳漢森からの領収書と手紙》

以下は、陳漢森からの領収書。元旦に、砲艦「比良」艦長・土井中佐から贈られた支援物資に対する領収書になっている。



なお、上記の画像はこちらからの借用。


また以下は、陳漢森からの手紙とその現代語訳。文面からすると、元旦に支援物資を送った翌日の礼状ではなく、その後の手紙のように見える。「元比良艦長」「閣下は間もなく帰国」とあるから。
ところで、もし「私たちの家族や仲間を虐殺したのは日本軍だ」と思っていたら、「お写真を壁に掲げて、いつも御威容を拝見」しないだろう。


(陳漢森よりの書簡)
東アジアにおいて、戦火を交える時より、戦争の風雲が大陸に覆われており、軍艦が揚子江を遊弋している現今のご時世の中、閣下は艦隊を率いて南京に到着されました。この時期にあたり、南京、上海の難民が大勢集まってまいりました。これらの難民救済のために、世界紅卍字会南京分会が保国寺に設立されて、私は恥ずかしながら、その責任者に任ぜられました。閣下の軍艦が江浜府に停泊する際、閣下は民衆が飢えている状況を察され、小麦粉と食用油を賜り、大勢の民衆の命をお助けになりました。また、道路の整備と橋掛けを命ぜられ、且つ自らご指導にあたられました。そして、その町名を平和と名付けられたのと同時に、詩を詠じ、それを以って記念とされました。詩意は和やかで、まるで陽春を迎えたかのごとく感ぜられます。現在、閣下は間もなく帰国され、職務報告をされますが、なおご自身の写真を私どもにお贈りになりました。お写真を壁に掲げて、いつも御威容を拝見いたしますと同時に、近隣である日中両国の親善を祈願したいと存じております。もとより日中両国を隔てる海はそれほど広からず、魚や雁などはいつも往来しているにもかかわらず、残念ながら、私は海を越えてお伺いすることができず、海を眺めて嘆くしかありません。そこで、この粗末な文を贈り、記念とさせていただきます。

元比良艦長土井中佐

世界紅卍字会南京分会長
陳 漢森



出典は次の書籍。

南京の実相―国際連盟は「南京2万人虐殺」すら認めなかった 日本の前途と歴史教育を考える議員の会
https://www.amazon.co.jp/dp/4817406674/




《陳徳貴氏の証言》

◆和記洋行での出来事(12月17日頃についての証言)

陳徳貴(陳徳貴、男、67歳)の証言

1937年12月12日に、わたしは下関の「和記洋行」まで逃げて行って避難しました。13日こ、日本軍が下関にやって来て、ここにわたしたち難民がいっぱい居るのを見つけました。

翌日の朝、日本兵が二百人近く来て、何千人もの難民の中から二千八百人余りの若い者を捕まえました。日本軍はみんなを四人一列に並ばせ、みんなに懐中時計や銀貨などの貴重品を出させ、その上で身体検査をしました。午後、わたしたちを和記洋行から煤炭港のある倉庫まで連行してそこに閉じ込めました。*a

三日目の朝*b、日本軍が倉庫の門を開けて「これから仕事場へ行って仕事をする。十人ずつ出かける」と言いました。門の近くに立っていた十人が直ぐに押し出されて行って、間もなく、一頻り銃声が聞こえました。*c 少しして、門がまた開いて、もうあと十人が押し出されて行き、又もや一頻り銃声が響きました。出て行った人はみんな銃殺されたんだと、わたしには分かりました。日本軍が三番目の人たちに出て行かせようとした時に、わたしは出て行きました。それは午前八時過ぎ頃でしたが、倉庫を一歩出るなり、日本兵がずらっと両側に並んで、銃剣を斜めに構えているのが見え、後ろから日本兵がわたしたちを押して行くのでした。

長江の岸辺まで来た時に、倉庫の後ろの土手の上に三十何人かの銃を構えた日本兵が並んでいるのが見え、虐殺が始まろうとしているんだとわたしはすぐ気づきました。わたしが水の中に立って、日本軍が射撃しようと銃を構えたその時に、わたしは思いつきり力を込めて河の中にひっくり返り、向こう側まで潜って行って、河に倒れていた汽車の腹の部分に隠れ、そこから十人ずつ、十人ずっと日本兵に銃殺されて行くのをこの目で見たのです。朝から夕方まで殺して、まだ銃殺されていない人が六、七百人いたので、日本兵はその人たちを一緒に河口まで追い立てて行き、機関銃で狂い撃ちにしました。

暗くなり、日本軍が行ってしまってから、わたしは手探りで岸辺までやって来て、そうっと岸に這い上がりました。水に一日浸かって隠れていたので、寒くてがたがた震えどうしでしたが、地上に上がってから破れ絨毯を一枚拾ってそれにくるまり、死体の真ん中で眠りました。

明くる日日本兵が何人か桟橋からやって来て、わたしが震えているのを見つけ、わたしを狙って二発撃ちましたが、弾はわたしの太股を抜けて、左手の薬指を傷つけました。今も傷痕が残っています。日本兵はわたしが死んだと思って、行ってしまいました。三日目になって、死体を片付ける人たちがわたしのまだ活きているのを見つけて、わたしを救い出してくれ、それで幸いにも一死を免れたのでした。

(李文奎と劉[雨のしたに文]と馮中美が記録)

加藤実翻訳『『この事実を……』「南京大虐殺」 生存者証言集』、株式会社星雲社、2000年、p.24-25


*a:14日の午後、煤炭港の倉庫に若者2,800人を閉じ込め。
*b:閉じ込めから3日目なら、17日。つまり入城式の日に処刑。
*c:倉庫から歩いて間もなく銃声なので、処刑場は煤炭港の至近距離。

上記は次のサイトからの借用。

資料:『ラーベと発電所復旧』

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Lounge/3924/article/hatuden.html





(参考1)

侵华日军南京大屠杀煤炭港遇难同胞纪念碑
コールハーバーでの被害者に南京大虐殺記念碑の日本の侵略者



碑文:
 煤炭港系侵华日军南京大屠杀主要遗址之一,一九三七年十二月十七日,日军从各处搜捕我已解除武装之士兵及平民三千余人,拘禁于煤炭港下游江边,以机枪射杀;其伤而未死者,悉被押入附近茅屋,纵火活焚致死,内有首都电厂职工四十五人,即死于此难。
兹值中国人民抗日战争胜利四十周年,特立此碑,悼念死者,永诫后人,铭念历史,振兴中华。

碑文:
日本の侵略者によってコールハーバー南京大虐殺の部門の主要なサイトの一つ、1937年12月17日、日本は下流の石炭港の川で拘留、私の逮捕武装兵士と3000人の民間人の周りから持ち上げられました側は機関銃を撃つために、彼らの死者を損傷することなく、ノートは近くの小屋に入れた、ライブ火災は、この困難に死亡した45人の工場のスタッフと首都で死に燃えます。
中国人民反日第四十周年、テリーの記念碑をAcquainting、死者を悼む、後で戒めたことがない、明は歴史と再生をお読みください。









改版履歴:
2017.02.17 真相が判明したので、記事のタイトルを変更し、全面的に書き換え。
2017.02.18 陳漢森からの領収書と手紙を追加。
2017.12.24 カボット・コヴィルの南京旅行記の記述を追記。

《南京事件》新河鎮での激戦

2015年07月21日 | 南京大虐殺
最終更新:2017.03.03



12月13日いわゆる陥落日に、南京城から脱出して南下する中国軍部隊と、これらを包囲殲滅すべく北上する日本軍第6師団45連隊が揚子江岸の新河鎮で遭遇戦を展開した。

城門が陥落した十二月十三日、漢西門(西門)の西の揚子江に近い上河鎮で、第六師団第四十五連隊第十一中隊百六十名は、掃蕩のため下関へと北上中に、南下してきた逃走中の二万の中国兵に包囲され、中隊長の大薗尚蔵大尉以下十四名が戦死する激戦となった。中国側の戦死体数は二千三百七十七。


その様子がわかってきた(理解できてきた)ので記事にしておく。




《高橋義彦さんからの手紙》

村瀬守保氏が撮影した虐殺の証拠写真とされる「揚子江に注ぐクリークに置かれた中国人の死体」について、高橋義彦氏が日中問題研究家の松尾一郎氏に手紙を出している。高橋義彦氏とは、南京戦に参加した独立山砲兵第二聯隊本部附・高橋義彦中尉のことである。

私の従軍中国戦線―村瀬守保写真集 一兵士が写した戦場の記録 村瀬 守保
https://www.amazon.co.jp/dp/4889008365/




手紙の趣旨は、要約すると「その写真はどこで撮ったかわからないが、それは新河鎮での激戦による戦死体が下流の岸辺に漂着したものではないか?」という指摘をしている。

この記事の本題はそこではないので、村瀬守保氏の話は飛ばすとして、以下に高橋義彦氏からの手紙の抜粋(転載)を示す。転載元のサイトには高橋義彦氏の手書きの地図pdfもある。



高橋義彦さんからの手紙1(転載)
http://www.history.gr.jp/nanking/lie.html#13

 私の南京戦における所属部隊?と、戦闘。
 私は独立山砲兵第2連隊本部観測班長が正式の任命された職務です。つまり、砲兵連隊の火力をいかに集中発揮するか、火力運用の責任者であり、砲兵の運用に就いて連隊長を補佐する職務です。
 私は抗州湾上陸以来、南京に向かいましたが、総攻撃の日が早まりそうになったので、連隊長は一部を指揮して南京に急進されました。私は「先遣隊の残り2500名の部隊を指揮して連隊に急追せよ。」との命令を受け、12/11夕方、綿花地(別紙。私が書いた略図の南端の地名)に到着しました。その時、連隊長から特別命令を貰った。
 「決死隊を編成中だから、高橋中尉は山砲小隊長として45連隊第11中隊長、大園大尉の指揮に入り13日(12月)の夜が明けたら配属工兵の折畳舟に乗り、揚子江の河上を下り下関方面に攻撃することにして夜明けを待っていたら、6時頃、敵の総攻撃を受け、太鼓、鐘や洗面器等を打ち鳴らし突撃してきました。
 私共は、大砲の弾がある限り零距離射撃*を行いました。パチンコ弾のようなバラ弾を200発を1コの砲弾で打ち出します。1回に100名位の敵兵が空中に吹き飛ばされますが、敵はここ新河鎮を切り抜けないと逃げ道がないので死にもの狂いの戦闘になりました。
 朝6時から11時頃まで乱闘になり、道路以外の湿地帯も彼我の死体で埋めつくされ、枕木代用に人体が使われ、死体や負傷者の上での乱闘は地獄そのものでした。
 「これで勝った」と思ったのは、11時頃から敵は裸になって河に飛び込み始めました。それを陸から射撃しました。まるで海水浴場を機関銃で撃つような光景でした。下流を見渡したら、川岸に陸揚げしてあった材木を兵のベルトや馬の鞍の革などで結んで筏(いかだ)を作り、それに乗って対岸に渡り始めたのです。
 我が野戦重砲の15糎(センチ)榴弾砲の部隊がその筏を集中砲撃しました。気球を挙げて観測しているので百発百中、揚子江は血の河と化し、戦死者や負傷者が視界を埋める水上光景で揚子江は、地獄と化しました。累図を見て想像して下さい。

* 零距離射撃とは、近距離に迫った敵に対して、砲弾が発射されるとすぐ炸裂するようにして行なう射撃。by Wiki



高橋義彦さんからの手紙2(転載)
http://www.history.gr.jp/nanking/lie.html#15

先般写真判定の件でその死体が虐殺か戦死体かと迷われているのではないかと察しこの筆をとりました。
明かに新河鎮戦闘の死体であることは確定的であり疑う予裕(ママ)はありません。
先づどの位の数の敵の死体がどうなったかを再考してみますと
私達を攻撃してきたのは2コ師団でした。(戦場で確認)
1コ師団を7500人として2コ師団では15000人第6師団長はその兵力20000人(別紙賞詞を見て下さい)
敵の戦死者新河鎮私共の目の前で2200人
私は5000人位かと思っていましたが、45i / III(HP作者注:45歩兵連隊第3大隊の意味)が数えたら2200人でした。
裸で飛び込み或いは筏で逃亡した内で国崎支隊に捕まった者2300人 。逃亡したもの3000人。
わが砲撃で戦死した者:推定7000人。
即ち敵の戦死者を15000とみても7000人は死体で押し流されています。





《超訳版・高橋義彦さんからの手紙》


以前からこの手紙の文面は知っていたが、特に「手紙2」の説明がイマイチ理解できないままでいた。ところが、やっと理解できた気がするので以下に私の「超訳版」を示す。


(超訳版)高橋義彦さんからの手紙2

新河鎮の戦闘で遭遇した敵部隊は2個師団でした。これは戦場で確認しました。
1個師団を7,500人として、2個師団では1万5千人です。ただし、第6師団長(谷寿夫中将)は兵力2万と言ってます。
戦闘終結後に新河鎮に遺棄された敵遺体は2,200でした。
私は5,000人位かと思っていましたが、45連隊第3大隊が数えたら2,200(a)でした。
敗走し始めた敵が、裸で河に飛び込んだり筏で逃亡したうち、揚子江の対岸にいた国崎支隊に捕まった者が2,300人。最終的に逃亡に成功した者が3,000人と思われます。
敵兵力は15,000ですから、そこから地上遺棄遺体2,200、国崎支隊が捕まえた者2,300、逃亡した者3,000を引いた残り、つまり7,500(b)は私たちの砲撃により江上で戦死体となって河に流されているはずです。

a) 谷寿夫第6師団長が調査を命じた結果は2,377。
b) 計算上は7,323。





《図解・新河鎮の激戦》


以下に、高橋義彦氏の手書き図を元にGoogle Mapで図解。

ただし、左拡大図の対岸は実際には中洲なので、逃亡組は下関付近まで流れ下って行って、その対岸の浦口付近に上陸して、一部は国崎支隊に捕獲されたのだろうと思われる。



ちなみに「鎮」は中国の行政区画のひとつとのことだから、新河鎮と新河は同じ土地を指していると思われる。

なお、渡河逃亡した敵兵を砲撃したとのことだが、転載元の手書きpdf地図を参考にすると、新河鎮(Google Map上で「新河口」)から砲撃の着弾水域(中洲のちょい先)まで約5.5km。北河鎮(北河口)まで進軍してから撃ったとしても3.5kmの距離。気球を上げて風速の影響を補正する必要がある距離だったということなのだろう。



下図は『証言による南京戦史』に掲載された手書き地図。






《当時の詳細な地図で再確認》

当時の詳細な地図があったので、再度位置を確認する。今とは地形が違う。



新河鎮の目の前の中州が現在のGoogleマップのよりも短そうだから、砲撃での着弾水域も上述の5.5kmよりももう少し手前だったようにも見える。また、奥の小さい中州も当時はなかったようだ。

それで、冒頭の村瀬守保氏の写真に戻ると、高橋義彦さんはAかBの地点ではないかと指摘している。
なるほど、A地点だと川幅90mほどだから写真に近いかもしれない。B地点だと、もっと狭く川幅20m程度のようだから、どうだろうか。




《関連するその他の証言》

「12月19日か20日頃、清掃処理のため兵十数人を連れて下関の揚子江岸に行きました。流れの関係で入江に漂着した死体を押し流す作業でした。死体は三〇〇以上。この漂着死体は12月12日、南京上流蕪湖に進出した我が軍に砲撃された退却中の中国兵の漂着死体と思う。傷より判断すれば、中国軍は相当混乱し、船にとりすがる遭難者を振り切って逃走(頭部受傷、手首なき人)したものと考える。子供は見当たらず、女は二、三見た。民間服の人もあった。兵士は下級者が多かった。いずれも相当水膨れしていた。陸上には死体はなかった」(歩兵三十八聯隊第一中隊軍曹・新井敏治/証言による『南京戦史』9)

(筆者*注)新井氏は「漂着死体は上流の蕪湖方面から流れてきたもの」と推定しているが、平井秋雄氏も「13日〜14日、江上の筏や浮遊物に乗っていた敵は、揚子江の中間を流れていたので下関からのものではなく、上流(新河鎮?)から押し流されたものであろう」と述べている。(*畝本正己/偕行)







(以上)






改版履歴:
2017.03.03 当時の詳細地図を追加。

《10》南京大虐殺・市民の犠牲者数

2015年07月19日 | 南京大虐殺
最終更新:2017.08.19



この記事では、「《9》南京大虐殺・スマイス統計調査」に示した、スマイス統計調査による市民の犠牲者数に沿うようにしながら、その他の記録や証言と整合するような数値モデルを導き出すことを試みた。
結果的に、既によく知られているスマイス調査などの数値の枠内で、市民の被害状況の全体像を無理なく説明可能であるということが判明した。


《要点》

・市民犠牲者の総数5,400人=スマイス調査(都市部)3,400+拉致の一部2,000 *
・スマイス調査の「拉致」4,200のうちの2,000を敗残兵誤認による処断と算定。
・安全区から摘出した敗残兵の約22%が誤認だった可能性。
・市民犠牲者総数5,400のうち、4,000が陥落後に生じたと算定できる。
・内訳の項目も含めてスマイス調査に合わせた試算モデルとした場合でも、他の記録や証言と整合する。

* 以前の版では、「和記洋行工廠での殺戮」として犠牲者2,800を郊外の分として積んでいたが、捏造と断定し、削除。また、紅卍字会の数字を精査したところ、城外の犠牲者に女性と子供がほぼゼロなので、スマイス調査の「農村部」からの算入を削除。







また、市民犠牲者の各項目とスマイス調査との対応関係を下図に示す。





個々の証言については、いわゆる大虐殺肯定派が提示している証言からも広く収集した。意図的に少なく見せようというような細工はしていない。

なお、この試算では市民犠牲者に対して日中いずれの軍に責任があるか、あるいは正当な行為なのか不当な行為なのかなどについての論評はしない。スマイス調査にもそこまで明記されているわけでもないし、手がかりもほとんどない。


以下は、スマイス調査から読み取れる時系列に沿って、南京と南京市民に何が起きたのかを見ていく。




《A. 軍事行動》800人

スマイス調査によれば、これは12月12日以前の出来事である。その12日とは次のような状況だった。南京防衛側の組織的反抗が崩壊し、城内外で阿鼻叫喚の大混乱が生じていた。

「12日、城外の支那軍総崩れとなり、87師、88師、教導総隊は学生抗日軍を残して市内に雪崩れ込み、唐生智は激怒して彼が指揮する36師に命じ、これら敗残兵を片っ端から銃殺するも大勢如何ともする能はず唐生智もまた憲兵と共に夜8時ころ何処ともなく落ちのぶ」(東京日々新聞12月20日付)



《下関》200人

「下関地区では城壁から二、三百メートルの民家、商店は全て焼き尽くされ、一時間ほどで江辺は火の海となった。燃える音に混じって、泣き声や罵り叫ぶ声が聞こえた。」(『南京保衛戦』)

「南京での中国軍の防衛作業の特徴は相変わらず建物の全面的焼却である。南門近くの人口密集地区全体から住民が追い立てられて市の安全区に送り込まれ、この小都市一つくらいの規模の地区が燃やされていた。同様に下関駅近くのモデル新村一つが焼却された。」(NYT記者・ダーディン)


この焼き払いは12日より前かもしれない。この混乱で市民が中国兵に殺されたり、火事に巻き込まれたケースもあったと考えられる。続いて、12日には次のような状況になった。

「(12月12日)中国軍部隊のうち、数千名は下関にたどり着くと、数少ないジャンク、ランチを使って揚子江の向こう岸に着くことができた。しかし、この途方もない“パニック”のため、揚子江で溺死する者もたくさんあった。」(NYT記者・ダーディン)


また、退却する中国兵に紛れて市民も一緒に脱出しようとしていたなら、無事では済まなかった。

南京攻略戦では南京城西側・長江河岸間は敵の退路に当たり、敗兵と難民がごっちゃになって第六師団の眼前を壊走した。師団の歩砲兵は任務上当然追撃の銃砲弾を浴びせ、このため一帯の沼沢は死屍で埋められたという。(「熊本師団戦史」)


下関の遺体は3千ということにして、200を市民と置いた。これらの遺体は工兵が船で運んで水葬に付したようだ。

「(12月14日)下関に行った時、揚子江には軍艦も停泊しており、艦長と会見した。岸辺に相当数の死体があった。千人ほどあったか、正確に数えれば2千人か3千人位か。軍服を着たのが半分以上で、普通の住民服のもあった」(第10軍参謀・谷勇大佐)

「私は(下関の)屍体の数を数千と見たが、死体を舟艇で運んでいた工兵に尋ねると、作業が終わるまでには15日くらいかかるだろうと言っていた。恐らく、対岸の浦口に逃げようとして下関に集まり、銃砲撃されたものであろう」(独立軽装甲車第二中隊・藤田清)



《列車》600人

南京からの撤退を決めた国民党軍は列車に軍用荷物と食料を積み込んだ。その時、民衆も脱出のため列車に乗り込もうとした。日本軍の進軍が迫る中、国民党軍指揮官は列車に乗り込んだ民衆に列車から降りろと怒鳴った。誰も従わないので、指揮官は兵士たちに「もうすぐ日本軍が来るのだから、民衆は日本軍に銃殺されたことにしたら良いのだ」と言って一斉射撃を命じたのだ。あたりは血の海となり、兵士の足首まで血が溜まった。約1千人の南京市民がこの銃撃で死んだ。(鳴霞)


脱出のための列車に乗ろうとした市民1,000人が国民党軍に射殺されたという。地理的には川岸までは距離があるので紅卍字会による埋葬分に含まれるだろうと推測。日時の記載がないので、正確なところは不明だが、13日の陥落日以降だと状況的に整合しないので12日またはその前日あたりかと推測した。
ただし、この列車の犠牲者が1,000とするとスマイス調査の結果とどうしても整合しない。きちんと数えたわけでもないだろうし、話半分くらいと解釈すると他の数字ともつじつまが合うので、600とした。


《城外》0人

以前の版ではこの項に1,000と置いていたが、紅卍字会の数字を精査したところ、城外の犠牲者に女性と子供がほぼゼロなので、スマイス調査の「農村部」からの算入を削除した。




《B. 陥落時の混乱》300人

陥落が間近になった城内ではまた別の大混乱が発生していた。なお、300という数字の由来は、スマイス調査の12月12-13日の市民犠牲者数が300だからである。



《圧死》40人

南京城北西の揚子江に近い挹江門での惨劇。

「散兵・潰兵の退却阻止の命令を受けていた宋希濂麾下の第三六師二一二団は、撤退命令を出された後も、挹江門付近の道路に鉄条網のバリケードを築き、路上には機関銃をそなえて、挹江門からの撤退を拒み続けた。このため、夜になるとパニック状態になり、挹江門から脱出しようとする部隊と、これを潰兵とみなして武力で阻止しようとした第三六師二一二団部隊との間で銃撃戦が繰り広げられ、挹江門内は大惨事となった」 (中国軍第八七師二六一旅長・譚道平 著『南京衛戍戦』による12月12日夕刻以後の情景)

「城壁からロープがさがっているでしょう、これは壁を乗り越えて逃げようとした命知らずの人たちの思案の跡です。彼らは絶望的でした。だれひとりとして助かる見込みはありませんでした。雪崩のように人々が門に押し寄せてくる。そうなるとおのずから圧死以外にないのです」(シカゴデイリーニュース記者・スティール)

12月12日南京城の中華門・光華門が陥落する数時間前には南京防衛軍司令官唐生智は南京城西北の港湾地区下関 (シャーカン)から揚子江対岸へ脱出した。逃げ遅れた将兵は唯一の脱出口であった南京城西北の挹江門に殺到したが、門は既に閉じられており、城壁を乗り越えて脱出するしか方法がない状況だった。この際、挹江門の防守部隊と退却兵が衝突し、双方に死傷者が発生。圧死などを含めた死者は、スミス記者によれば、約千名と伝えられる。高さ2メートルに及ぶ死体の山を乗り越えて南京城の城壁を急造のロープで降りようとした多くの将兵が墜落して死亡している。(Wikipedia)


この時の死者は千人とのことだが、スマイス調査の表ではこれに該当しそうな市民犠牲者は「50」しかない。よって、他の項目(次項の太平門)との調整し、40と置いた。兵士らと一緒に逃げようとした市民はそれほど多くなかったと解釈することもできる。



《太平門(外)》0人

太平門で市民の虐殺があったとされているようだが、検証したところ、計上できる全ての遺体を戦死で説明できることから、“虐殺”は捏造と断定する。詳細は次の記事。

《南京事件》“太平門虐殺”の真相
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/6d504c6058b4b0aba2a8bbf343eb467c



《太平門(内)》10人

“太平門集団虐殺”なるものは事実無根とするが、太平門の内側でも混乱があった。

「(12日)午後9時、太平門の防御物を爆破、通路が開かれると、人は先を争って飛び出し、弱者は踏みつけられて命を落とし、強者はその上を通って命を永らえた。下敷きになった者は手榴弾を投げて周囲の者と共に自爆した。先頭部隊は日本軍と戦闘になった」(據83軍參謀處處長・劉紹武)


つまり、挹江門で発生したのと同様の混乱による犠牲者が出ている。兵士らとともに脱出しようとして「下敷き」あるいは「手榴弾」で犠牲になった市民がいたかもしれない。(あるいは、いなかったかもしれない)
10人という少ない数字にしたのは、この件についての欧米人の証言が見当たらないことや、太平門での犠牲の全てが戦死で説明できるからである。



《衣服》250人

次の証言にある、中国兵が市民の衣服をはぎ取るための殺害。スマイス調査で、12月12-13日の「兵士による暴行殺害」が250なので、これに合わせて250と置いた。

「彼ら中国兵は、民間人になりすますために、軍服を脱ぎ捨て、民間人の服に着替えたのです。民間人の服を盗む者もいれば、民間人を撃ち殺して衣服をはぎ取る者も多くいました」(南京のジェームズ・エスピー=アメリカ副領事の報告)

「私は(中国軍の)一部隊全員が軍服を脱ぐのを目撃したが、それは滑稽といってよいほどの光景であった。多くの兵士は下関へ向かって進む途中で軍服を脱いだ。中には素っ裸になって一般市民の衣服をはぎ取っている兵士もいた」(NYT 1937年12月22日付・ダーディン記者)


蒋介石自身もこう書いている。

「抗戦の果てに東南の豊かな地域が敗残兵の略奪場と化してしまった。戦争前には思いもよらなかった事態だ。敗れた時の計画を先に立てるべきだった。撤兵時の略奪強姦など軍紀逸脱のすさまじさにつき、世の軍事家が予防を考えるよう望むのみだ。」(南京を脱出した蒋介石)




《C. 掃討時の兵士の暴行》2,000人

これは、スマイス調査によれば、12月14日〜1月13日の出来事とされる。陥落翌日からの敗残兵摘出や掃討戦が行われていた期間に該当する。

例えば、マギー牧師は東京裁判の中で自分が目撃した唯一の殺人事件として「怪しい中国人に日本兵が声をかけると逃げ出したので撃った」と証言したが、これがこの項目に含まれる。

あるいは、ベイツレポートにも次のような記述があるが、こういった事例も含む。

死亡した市民の大部分は、十三日午後と夜、つまり日本軍が侵入してきたときに射殺されたり、銃剣で突き殺されたりしたものでした。恐怖と興奮にかられて駆け出す者、日が暮れてから路上で巡警に捕まった者は、だれでも即座に殺されたようでした。


占領直後の街で兵士に呼び止められて逃げ出したのでは、撃たれても仕方がない。自転車で走り回っていた日本人従軍記者も危うく撃たれそうになったりしている。
その他、家屋内の掃討でも、市民が犠牲になる事例があったであろう。



《城内掃蕩》2,000人

スマイス調査(都市部)によれば、12月14日〜1月13日の期間にほぼ城内で2,000人が兵士の暴行で死亡したとあるので、そのまま2,000とした。例えば、次のような事例を含む。

唐順山 一九一四年七月三〇日生まれ(pp198-206)
(要約)南京の評事街にある大元勝革靴店の徒弟だった。親方は城外に避難して、一人で店を守ることになった。日本軍が南京城内に侵入してきたその夜、私は新街口から上海路、清涼山へと逃げ、最後は三牌楼にある兄弟子の家に身を寄せた。十二月十四日好奇心から日本軍を見ようとして捕まり、中国人の民衆四百人と一緒に銃剣殺されるところだったが、幸運にも傷をおっただけで、胡楼病院に運び込まれ、ウィルソン医師の手当を受けて助かった。病院に運ばれてはじめて安全区の存在を知ったという(この証言部分は本多勝一の聞き取りによる)。(『体験者27人が語る 南京事件』笠原十九司編 より)


上記は次のサイトからの借用。

南京事件FAQ/城内、安全区以外の市民の被害

http://seesaawiki.jp/w/nankingfaq/



《城外掃蕩》0人

以前の版ではこの項に1,000と置いていたが、紅卍字会の数字を精査したところ、城外の犠牲者に女性と子供がほぼゼロなので、スマイス調査の「農村部」からの算入を削除した。

ただし、次のような証言もあるので本当にゼロかどうかは不明。

秦傑(男、1926年3月生まれ)の証言
上新河鎮に戻ったら、もともと鎮に留まって家を見たり鎮を護ったりした四人の白髪混じりの老人がたは、既にみんな撃ち殺され、街の端に倒れていて、父は日本兵の一人に銃の先をこめかみに着けられましたが、幸いに行を共にした難民たちと母とが切々と哀訴し、撃ち殺されませんでした。わたしたちと行を共にした従兄嫁は、衆人環視の下に屋内に引きずり込まれ強姦されました。上新河鎮の臨時難民区では、しょっちゅう青年婦女が強姦に引きずり出されるのが見え、彼女たちの悲惨な救いを叫び求める声が聞こえました。


上記は次のサイトからの借用。

南京事件FAQ/城外の人口の資料

http://seesaawiki.jp/w/nankingfaq/



なお付近であろう新河鎮では激戦があった。

《南京事件》新河鎮での激戦
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/cce40e2948b33f0020a28b79309d6585


また、次のように翌年1月5日の時点でも、城外においては戦闘行動も続いていたので(=降伏がなされてないので継戦状態)平時とは違う様相であっただろう。

「城外近郊にあって不逞行動を続ける敗残兵も逐次捕縛、下関において処分せるもの数千に達す。」(佐々木到一少将の『私記抄』/1月5日)





《D. 占領暴行》城内150人

掃討戦とはまた違う、占領期間における市民の殺害。

南京安全地帯の記録では市民殺害犠牲者53人となっているが、主にこれに対応する項目。




《E. その他》150人

スマイス調査によると、時期の特定ができない兵士の暴行による市民犠牲者。




《F. 敗残兵誤認》2,000人

ヴォートリンの話によれば敗残兵と誤認された市民釈放の嘆願書への署名者が千人になったとのことなので、嘆願の訴えも聞き入れられずにそのまま敗残兵として誤認処刑された市民がいた可能性がある。その場合は、敗残兵処断は日本軍が遺体を処理したと思われるので、埋葬遺体数の枠外の数字とする。
ただし、記録にある数字は「署名者が千人」であって、誤認で捕獲された市民が何人で、最終的にどうなったかは不明である。

1938年4月には、模範刑務所に元兵士の嫌疑をかけられた多くの民間人が入獄しているという情報を得て、収容されている民間人の釈放を求める嘆願書を作成し、多くの女性が嘆願書に署名した。模範刑務所に勤務している日本兵を通じて入獄者の名簿と南京市政府公署の顧問を務める許伝音博士を通じて提出することにした。嘆願書に署名するために、一日に数百人の割合で夫や息子が拉致された女性が金陵女学院を訪問し、ヴォートリンに彼女たちの身に起きた悲劇について語った。釈放の嘆願書への署名者は同月9日には千名に達したが、模範刑務所の囚人としての目撃情報があったのは10名程度に過ぎなかった。


しかし、スマイス調査の記述によれば、「拉致(taken away)」4,200人は殺害に算入されるべき要素があるとのことなので、ここでは2,000を計上する。
仮にこの2,000が正しいとすると、次の情報により摘出した敗残兵の総数が9,170なので、約22%が誤認ということになる。また、もしこの敗残兵誤認2,000のほとんどが12月14〜16日に6,670人を摘出した時に生じたと仮定すると、誤認率は実に30%になる。

1)第七聯隊が12月14〜16日にかけて6,670人を捕捉し、処断。
2)第三十八聯隊が「良民証」付与の過程で12月24日より翌年1月5日までに二千人を捕捉し、旧外交部に収容し捕虜とした。
3)天谷支隊が2月5日までに城内外で五百人捕捉。


なお、4,200を丸ごと計上しない理由は、誤認率が逆に高すぎて不自然に思えることと、ヴォートリン日記の「釈放嘆願書の署名が千名」からかけ離れすぎるからである。もし、4,200丸ごとだと、摘出敗残兵の46%が誤認、あるいは12月14〜16日にかけての摘出敗残兵の63%が誤認、となってしまうし、夫や息子を連れ去られた3千もの家族(76%)が署名をしなかったということになってしまう。


兵民分離作業の様子。

「調査の方法は、日支合同の委員会を構成し、日支人立会のうえ一人ずつ審問し、検査し、委員が合議のうえで敗残兵なりや否やを判定し、常民には居住証明書を交付した。敗残兵と認定された者は、これを上海派遣軍指令部に引き渡した。」(佐々木到一少将の『私記抄』)


また、南京城外での戦闘終了後の城内の掃蕩に当たって松井司令はこう指示しているので、状況的には整合する。

「青壮年は全て敗残兵または便衣兵とみなし、全てこれを逮捕監禁せよ。青壮年以外の敵意の無い支那人民、特に老幼婦女子に対しては寛容の心をもって接し、彼らをして皇軍の威風に敬迎させよ」


ただし、このように拉致されて雑兵のように働かされていた男がいたとしたらどうなっていただろうか。判定のグレーゾーンがあってもおかしくはない。

「最も恐がられたのは拉夫、拉婦(拉致されること)で、独身の男は労役に使うため盛んに拉致されていき、夜は姑娘が拉致されていきました。中央軍の支那兵の横暴は全く眼に余るものがありました」(福岡日日新聞の三苫幹之介記者にインタビューされた南京市安全区にいた中国人夫妻)


そして、このような不幸な事態(敗残兵誤認による処断)が生じた理由は、日本軍の不手際だけとは限らない。そもそも、陥落時の混乱で、数千人とも言われる中国兵が軍服を脱ぎ捨て市民の衣服を奪い、安全区などに潜伏したのが最大の原因である。これを放置することはできない。

「中央(国民政府)の便衣隊約五、六人が入城し、中華路付近の地下室内に潜んでいた。ちょうど五人の獣兵(日本兵)が三、四人の人夫をともなって北から南にやって来ていて、我が便衣隊の近くに来た。彼らはすぐさま発砲して獣兵を皆殺した」(郭岐「陥都血涙録」)便衣兵の中国側記録。

「安全区の難民の中に便衣兵がまじっていたことは事実で、日本軍が或る家を捜索したら、天井から鉄砲がゴッソリ出てきたこともあった。」(日本大使館外交官捕・福田篤泰)

「住民は敵意を持っていなかったし、日本兵を怖がってもいなかったと思います。逆に、便衣隊がいましたので日本兵の方が中国人を警戒していました」(読売新聞上海特派員・森博)


「便衣兵は民衆と少しも変わりがない。疑わしきはやるより外ない。『来々(ライライ)』と言うので近づくと“ズドン”とやられる。敗残兵であるか、便衣兵であるか判らぬので、油断がならず、常に警戒していなければならない。」(野砲第六聯隊第三中隊長・小田常元大尉)

中国兵は誰でも背嚢に便衣(平民服)を持っていて、状況が不利になると便衣に着替えて、一般市民になりすまし、時期を見ては戦闘行為をした。一般市民だと思って日本兵が安心して近づくと、いきなり刺殺されるという事態に、日本兵は対策に苦慮した。(『熊本兵団戦史中巻』)

「一部将校は所謂『便衣兵』となり、軍服を脱ぎ、平衣を纏ふて残留し、我が将兵を狙撃し、我軍の背後を脅かすもの少なからかず、付近の人民も亦あるいは電線を切断し、あるいは烽火を上ぐる等、直接間接に支那軍の戦闘に協力し、我軍に幾多の危難を与へたり」(松井大将による宣誓口述書)





《和記洋行工廠》0人

以前の版では、「和記洋行工廠の殺戮」として、スマイス調査の都市部から外れる郊外の分として犠牲者数2,800を積んでいたが、検証の結果、捏造と断定したので、これを削除する。

この“虐殺事件”は、中国では「煤炭港の虐殺」として知られている事件である。詳細は次の記事を参照。

《南京事件》“煤炭港虐殺”事件は捏造
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/d907662ba0e7f7e25cdc214e2befdf97








《関連記事》

「南京大虐殺の真相」
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/eaacb2fee7e20c9adc4799020776c9d1





改版履歴:
2017.02.16 新河鎮付近の戦闘について追記。“太平門虐殺”について追記。
2017.02.18 「和記洋行工廠での殺戮」を捏造と断定し、これに沿って修正。
2017.02.21 スマイス調査の理解に不備があったので修正。(都市部の定義、拉致の扱い)
2017.08.19 紅卍字会の数値解釈変更に伴う修正。

《9》南京大虐殺・スマイス統計調査

2015年07月19日 | 南京大虐殺


南京戦における民間人の被害規模を知ることができる史料として、金陵大学(現南京大学)のルイス・スマイス教授が行った統計調査がある。
次の文字列で検索すれば原文がすぐ出てくる。

War Damage in Nanking Area, Dec.1937 to March 1938, Urban and Rural Surveys





スマイス教授は、安全区国際委員会の書記長と会計係を兼務する人物でもある。彼は、陥落翌年の1938年3月から4月にかけて学生を動員して2人1組で無差別抽出法により戸別に尋問し、南京市民のうけた戦争の被害状況を調査した。

次の表は、都市部の調査結果である。都市部とは、城壁で囲われた南京城内および近接する下関・中華門外・水西門外の3地区である。サンプルは50世帯につき1世帯の割合で抽出され、サンプル数は城内906、城外43、合計949世帯とされている。
なお、この結果は国民党軍、日本軍のいずれの行為による被害であるかの区分はない。






《国民党軍、日本軍の市民殺害規模》

そこで、「兵士の暴行」について日付で日中いずれの軍による被害かを大雑把に区分してみる。ここでは、12月13日以前は国民党軍による被害(表の(a))、12月14日以降は日本軍による被害(表の(b))としてみる。

この区分理由は、12日までは国民党軍による組織的抗戦および城内での中国兵らの逃亡に伴う大混乱があり、13日(陥落日)は以下の証言にあるように城内は大きな戦闘があったように思えないからである。14日以降は基本的に日本軍の制圧下にあった。

「十三日の朝、堂々南京に入城してきた日章旗を見たことは忘れ得ない驚嘆である、日本軍が城壁に迫った十一日から十二日にかけて中山路を下関に向けて敗走する支那兵の一部が便衣に着かへて避難地区になだれこんだことはわれわれの仕事に大きな障害となつた」(ラーベ・南京避難民国際委員会委員長)

「十三日に、中山門から城内に入りました。もうこの日は、難民区の近くの通りでラーメン屋が開いていて、日本兵が十銭払って、食べていました。それと、中国人の略奪が続いて、中山路で机を運んでいる中国人や、店の戸をこじ開け盗んでいる者もいました」(東京日日新聞カメラマン・佐藤振寿)

南京の中山東路の北かつ中山路の東側地区は第二十聯隊が担当した。十三日夕方に部隊の一部が城内に進入し、宿営した。翌十四日は付近を掃討したが、この付近は官庁街であり、市民は皆漢口に避難した後で、敵兵も住民もいないので、直ちに城外に移り、城外東方の敗残兵掃討に転じた。

第三十六聯隊は、十三日に光華門を占領するまでは大変に苦労した。しかし、十三日にいざ入城してみると、敵兵、市民ともに担当地区(光華門付近)におらず、その日の夕方から城外の防空学校付近に集結して宿営し、そのまま十二月二十四日に南京を出発して、東方の嘉定に転進した。

十二月十三日、第六師団の第十三聯隊、第四十七聯隊は、松井司令官の命令通り聯隊から各一個大隊だけを入城させた。この入城部隊も夕方には本隊に合流して中華門外の三里塚店付近にて宿営し、十二月二十二日ごろ、両聯隊は蕪湖に転進した。全軍が南京城内に一気になだれ込んだという事実はない。

十二月十三日、第三十三聯隊は揚子江岸の下関で城内からの敗走兵を掃討し、ここで露営した。翌十四日、第二大隊だけが松井司令官の命令通り城内に進入したが、担当地域には敵兵も市民もほとんどいないので下関に引き上げ、以後はこの付近での警備および城外掃討に従事した。

十二月十三日午後五時三十分、第七聯隊は翌日からの掃討に備えて、当日の宿営地の第一公園近くを出発し、深夜三時帰還にて安全地帯を視察した。翌十四日は午前九時に出発し午後四時過ぎ帰還の予定で安全地帯内の掃討を開始した。分担は、安全地帯の北部を第一大隊、南部を第二大隊が担当した。



そうすると、陥落前夜に市民を殺傷してまで衣服を奪ったという目撃談にあるような中国兵による市民の被害は、死亡250人、負傷250人程度の規模であったことが窺える。

また、陥落後からの日本軍による城内掃蕩などに伴う市民の被害は、死亡2千人強、負傷3千人弱、という規模であることが窺える。

『南京安全地帯の記録』には市民殺害の犠牲者は53人しか記録されていないので、このスマイス調査による市民死亡2千人強の殺害事件(日本軍が疑われる統計上の数字)は安全区国際委員会が把握していない事件ということになる。安全区から遠くなるほど事件の情報が国際委員会に届かなかった可能性がある。

それを裏付けるかのような安全区外での証言もある。

唐順山 一九一四年七月三〇日生まれ
(要約)南京の評事街にある大元勝革靴店の徒弟だった。親方は城外に避難して、一人で店を守ることになった。日本軍が南京城内に侵入してきたその夜、私は新街口から上海路、清涼山へと逃げ、最後は三牌楼にある兄弟子の家に身を寄せた。十二月十四日好奇心から日本軍を見ようとして捕まり、中国人の民衆四百人と一緒に銃剣殺されるところだったが、幸運にも傷をおっただけで、胡楼病院に運び込まれ、ウィルソン医師の手当を受けて助かった。

楊明貞一九三〇年生まれ
(要約)大中橋文思巷の向かい側の実家は爆撃で範囲されバラック小屋に住んでいた。十三日朝、隣の小父さんとその妻は日本兵に殺された。父もまた日本兵に刺されたがそのときは死ななかった。十四日の夜逃げ出そうとしたが、またもや日本兵に襲われ、父は刀で切られて死んだ。十五日楊さんと母親は強姦された。母親は暴行を受け数日後に死んだ。父の弟の童養?は輪姦されて殺害された。十六日は近所の少女が難民区から戻ってきたところ強姦されてしまった。孤児となった楊さんは近所の人に食べ物を与えてもらっていた。

佐潤徳(当時17歳)
父・母・妹二人の五人家族で柵戸区の王府巷に暮らしていた。十二月十三日に市民二人が日本兵に殺されるのを目撃した。翌日、佐さんは近所のムスリムを含む六、七人とともに日本兵に連行され、銃剣殺されそうになったが間一髪逃げ出すことができた。その夜南京市衛生所が放火され、王府巷のひとたち二十人が消火にかけつけたが、戻ってこなかった。後に佐さんは埋葬隊の一員になったが、南京衛生所の焼け跡には黒こげになった死体が百体前後あった。その夜、佐さん家族は命からがら難民区に避難したが、王府巷に住んでいた人たちの半数は殺された。


以上の3証言は次のサイトからの転記です。

南京事件FAQ/城内、安全区以外の市民の被害
http://seesaawiki.jp/w/nankingfaq/





《拉致された市民》

スマイス調査では、拉致された市民が4,200人、12月14日以降に限っても4,000人という数字が出ている。

これについては、「敗残兵掃蕩のための連行」と「使役」のパターンがあると思われる。「使役」には、主に男が荷役などの労務に徴用されるケースと、女性が慰安婦や洗濯などに駆り出されるケースや、性的暴行のために拉致されてしまうケースがある。
「4,200人」を「連行殺害」としているサイトもあるが、全てがそうではないと考える。

参考までに『南京安全地帯の記録』には「拉致」が43件あるが、被害者の性別で区分すると次のようになる。一見して女性が多いが、性的暴行が大半のため、短時間で解放されている事例が多い。

男:23, 25, 49, 50, 51, 52, 62, 113, 147, 211
女:5, 15, 46, 50, 52, 57, 61, 63, 69, 89, 94, 95, 112, 144, 145, 151, 153, 167, 169, 187, 200, 201, 211, 212, 216, 220, 232, 282, 292, 327
(番号は事件番号を示す)


「使役」に該当する事例をいくつか紹介する。

「最も恐がられたのは拉夫、拉婦(拉致されること)で、独身の男は労役に使うため盛んに拉致されていき、夜は姑娘が拉致されていきました。中央軍の支那兵の横暴は全く眼に余るものがありました」(福岡日日新聞の三苫幹之介記者にインタビューされた南京市安全区にいた中国人夫妻)

十二月二十日午後四時、二人の武装した日本兵が第六収容区の事務所に入り、多くの衣類を持ち去った。彼らは退去する際に、作業員一人をも連れ去った。彼らのために衣類を運ばせたかったのだと言っていた。(南京安全地帯の記録・事件番号113)

十二月二十四日、四人の日本兵が頤和六号の馬氏が管理する衛生事務所から十二名の苦力を連れ去った。(南京安全地帯の記録・事件番号147)

二月六日。本件の報告者は日本人に連行され一ヶ月中山門外で働かされた。一ヶ月分の賃金として三円もらった。その部隊は移動するので彼は帰された。(南京安全地帯の記録・事件番号444)




慰安婦や洗濯などに駆り出された事例をいくつか紹介する。

一九三八年一月三日。日本軍将校の洗濯物を洗うためと言われ、十二月三十日に金銀巷六号から一人の女性が他の五人と一緒に連れて行かれたが、その女性が大学病院に来た。彼らは日本兵に、市の中心部の西側のある場所に連れて行かれたが、彼女は、この家の状況から日本軍の軍用病院だろうと考えた。その女性達は、日中は洗濯物を洗い、夜はずっと強姦され続けた。年長の女性は、一晩十回から二十回強姦され、若くて見栄えのいい女性は、四十回も一晩で犯された。(後略)(南京安全地帯の記録・事件番号178)

一月十六日、午前八時を少し過ぎた頃、日本兵を乗せた数台のトラックが大学図書館に止まり、労働者と料理をする女性六名を要求した。使用人が行く意志がある六名の女性を見つけたところ、兵士達は、女性達が年寄りすぎると文句を言い、翌朝来るからもっと若い女性を必ず用意しておくようにと言った。彼らは、昨晩十六日戻って来て、女性を要求した。しかし、誰もが志願しなかったので車で去った。十七日の朝八時ころ、彼らは二台のトラックと二台の車で、将校二人連れてまたやってきて、養蚕館から男何人かと女性七人を手に入れた。ベイツ博士はそこにいて、その経過を全て目撃し、男女が行くことについて完全に自発的なものであったと見ていた。女性一人は若かったが、進んで出かけて行った。(南京安全地帯の記録・事件番号192)

一月十九日、日本領事館警察の高玉氏が南京大学付属中学にきて、六人の洗濯婦を要求した。いつもの通り、もし志願する者があれば彼女達が行きますとの返事であった。高玉氏は女は若くなくてはならないと言った。なぜきれいに洗濯ができる女でなくて若い女が必要かと尋ねられると、氏はそれらの婦人は美人でなくてはならないと答えた。(南京安全地帯の記録・事件番号192)




性的暴行事件により女性が拉致されてしまった事例をいくつか紹介する。

昨十二月十五日夜、日本兵達が漢口路にある中国人家屋に侵入、若妻一人を犯し、女性三人を拉致した。夫二名が追ったら、兵士達は二名を撃った。(南京安全地帯の記録・事件番号15)

五台山小学校から多くの女性が連れ去られ、一晩中強姦され、翌朝十二月十七日解放された。(南京安全地帯の記録・事件番号45)

十二月二十五日、十五歳の少女、李嬢が、一人の日本軍将校と二人の兵士によって鼓楼新村十四号から連れ去られた。(南京安全地帯の記録・事件番号153)





《敗残兵の誤認》

なお、ヴォートリンの話によれば敗残兵と誤認された市民釈放の嘆願書への署名者が千人になったとのことなので、そのような市民犠牲者についても数字を積んでいる。
詳細は次の記事。

《10》南京大虐殺・市民の犠牲者数
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/0896042f8ddf1f5a0843c743f6300451




《可能性としての最大数》

ちなみに、スマイス調査に基づいて「兵士の暴行による市民の犠牲者」(=暗に日本兵の暴行を意味している)を南京がある江寧県全体にまで広げて最大に見積もると、15,760人になる。
内訳は以下の通り。

(1)南京(都市部)の暴行犠牲者 2,400人
(2)南京(都市部)の拉致被害者 4,200人(全員殺害されたとの計算)
(3)南京がある江寧県の市民犠牲者 9,160人(スマイス調査の農村部から)

ただし、この一連の考察ではそこまで膨らませていない。

逆に言えばそこまで膨らませても15,760にしかならないとも言える。
従って、いわゆる大虐殺派は、スマイス調査を無視して別の可能性を捻り出さねばならない状況に追い込まれている。






主要参考文献:

南京事件の核心―データベースによる事件の解明(冨沢 繁信)
http://www.amazon.co.jp/dp/4886562361

「南京安全地帯の記録」完訳と研究(冨沢 繁信)
http://www.amazon.co.jp/dp/4886562515



《関連記事》

「南京大虐殺の真相」
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/eaacb2fee7e20c9adc4799020776c9d1



《8》南京大虐殺・敗残兵処断の適法性

2015年07月19日 | 南京大虐殺
最終更新:2017.09.08



ここでは以下の事実をもって、「敗残兵の処断は適法」と解釈する。
※敗残兵の処断をもって虐殺、とする主張については他の書籍やサイト等を参照してください。


1)陥落後の城内掃蕩に際して松井司令から「青壮年は全て敗残兵または便衣兵とみなし、全てこれを逮捕監禁せよ。」と軍命が出ている。
2)前項の事実にもかかわらず、訴因54すなわち虐殺の命令・授権・許可が無罪判決、訴因55すなわち俘虜と一般人の保護義務違反のみが有罪である。
3)起訴事実読み上げに捕虜の処刑を糾弾する記述があるにも関わらず、判決文には「南京の不幸な市民を保護する義務を怠った」としか書かれていない。
4)東京裁判判決・第8章に「捕虜」の言及があるとの指摘があるが、他の戦犯の判決文と比較するとその指摘は当たらない。
5)敗残兵の処断を実行した各部隊の師団長・連隊長らが誰も罪を問われていない。
6)1929年ジュネーヴ条約「俘虜の待遇に関する条約」だが、南京戦の時点では日本は署名すれども批准せず、の立場にあった。







《東京裁判の松井司令への訴因概説》

訴因27 → 無罪
第一類 平和に対する罪
要点:中華民国に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反

訴因45 → 他の訴因と重複のため判定放棄
第二類 殺人の罪
要点:条約に違背して南京市を攻撃し、かつ国際法に反して住民をおう殺(=皆殺し)することを日本軍に不法に命じ、氏名及び員数不詳なる数万の中華民国の一般人及び武装を解除させられた兵士を殺戮

訴因54 → 無罪
第三類 通例の戦争犯罪及び人道に対する罪
要点:訴因53(=戦争法規慣例違反の共同謀議)の違反行為の実行を命令し授権しかつ許可したことによる戦争法規違反(訴因45に重複)

訴因55 → 有罪
第三類 通例の戦争犯罪及び人道に対する罪
要点:俘虜及びー般人について保護する責任(=法規慣例の遵守)があるところ、故意または不注意にその義務を無視

以上の概説は、以下のサイトを参考にしました。

--【第02項】 『訴因45』と『南京事件』--

http://oira0001.sitemix.jp/frame02.html




《戦時国際法に関する見解》

国際法が専門の青山学院大学名誉教授・佐藤和男博士によれば以下は戦時国際法違反ではないとの判断。

・第九師団歩兵第七連隊による便衣兵6,670人の処断
・第十六師団歩兵第三十三連隊による捕虜3,096人の処断
・第十六師団歩兵第三十旅団による敗残兵数千人の処断
・第百十四師団歩兵第六十六連隊第一大隊による捕虜1,657人の処断
・山田支隊が幕府山付近で捕えた捕虜数千人の処断


また次のような指摘もある。

・支那事変は法的には戦争に該当しない。
・支那事変当時日支両国間に適用されるハーグ陸戦規則には、捕虜の定義は具体的に示されてはいない。
・日本軍は捕獲した敗残兵の処置を状況に応じて、釈放、収容、処断としている。(=一律の処刑とはしていない)
・軍服を脱ぎ捨てて安全区に逃げ込むという行動自体がハーグ陸戦規則に違反している。
・安全区からの敗残兵摘出については、日本軍は「兵民分離」を実施している。
・1929年ジュネーヴ条約「俘虜の待遇に関する条約」については、南京戦の時点では日本は署名すれども批准せず、の立場にあった。(国際赤十字




《捕虜処断を実行した師団のその後》

上述の捕虜等処断を行った各師団長らのその後を記す。見てわかるように、特に誰も処断の罪を問われていない。

金沢第9師団長 吉住良輔中将 → 1963年死去
 金沢歩兵第7連隊 伊佐一男大佐 → 1985年死去
京都第16師団長 中島今朝吾中将 → 終戦直後の1945年10月に病死
 名古屋歩兵第33連隊 野田謙吾大佐 → 1961年死去
 歩兵第30旅団 佐々木到一少将 → シベリア抑留を経て中国に引き渡され1955年撫順戦犯管理所にて病死
宇都宮第114師団長 末松茂治中将 → 1942年より小倉市長を務め、1960年死去
 宇都宮歩兵第66連隊 山田常太中佐 → (不明)
*仙台第13師団長 荻洲立兵中将 → 1949年死去
 *会津若松歩兵第65連隊 両角業作大佐 → 1963年死去

*部隊構成:第13師団>山田旅団>歩兵第65連隊




《東京裁判と南京軍事法廷》

戦後に行われた極東国際軍事裁判(東京裁判)と南京軍事法廷での、南京事件関連で有罪となった日本軍将兵は以下の5名のみ。

1)司令官・松井石根大将(東京裁判/B級戦犯)
2)第6師団長・谷寿夫中将(南京軍事法廷/南京事件の責任者容疑*1)
3)第6師団45連隊12中隊長・田中軍吉大尉(南京軍事法廷/三百人斬り容疑*2)
4)第16師団9連隊3大隊歩兵砲小隊長・向井敏明少尉(南京軍事法廷/百人斬り容疑*3)
5)第16師団9連隊3大隊副官・野田毅少尉(南京軍事法廷/百人斬り容疑*3)

*1:ただし、第6師団は陥落1週間後の12月21日にはすべて蕪湖に移動している。本来の南京事件は陥落後6週間の出来事とされる。また、陥落後に安全区の掃蕩を実施したのは第9師団歩兵第7連隊である。
*2:「皇兵」という本に収録された「悲願三百人斬田中軍吉大尉の愛刀助広」とのキャプションがついた写真が証拠になったとされる。ただし、45連隊は城外南西の新河鎮などで激戦をしたものの、城内には入城していないとの指摘あり。
*3:東京日日新聞の「百人斬り競争」という記事が証拠になったとされる。ただし、当時の新聞は「○人斬り」というのが定番の誇張表現であり、記事の信憑性に疑いあり。

従って、たまたま記事になって目をつけられた田中、向井、野田の3名を除くと、組織的責任を問われたのは松井司令、谷中将の2名のみ。また、上述のように敗残兵処断を実行した第9、16、114師団と山田支隊の師団長・連隊長クラスで有罪となった人がいないことを併せて考えると、松井司令に対する「市民の保護義務違反」以外の具体的違法行為がなんであったのかが極めて曖昧である。


(追記)文官として南京事件関連で戦犯となった人を追記。

6)広田弘毅・外務大臣(=南京戦当時)(東京裁判/A級戦犯)

訴因1、27、55で有罪。訴因29、31、32、33、35、54は無罪。
判決文の要旨は、南京入城後に残虐行為に関する報告を受けていたのに、これを防ぐための必要な処置を怠った、という内容。

訴因1、27は「平和に対する罪」。訴因1は、侵略戦争の共同謀議など。訴因27は、特に中華民国に対するもの。
訴因55は、米、英、仏、蘭、比、中華民国、ポルトガル、ソ連の軍隊並びに、当時日本の支配下にある諸国における俘虜及び一般人に対する保護義務。




《東京裁判判決・第8章について》

東京裁判において、南京事件関連で有罪となった戦犯は松井石根大将と、広田弘毅・外務大臣の2名である。

その判決において、「捕虜の処刑が断罪されたか否か」が争点になっている。論争になる原因は、東京裁判判決の文書構造にある。詳細説明は省くが、論争は次のようなものである。

争点:「捕虜の処刑は断罪されたか否か」

断罪されていない派:「戦犯個人への判決文(第10章)において、松井・広田両名の文面には『捕虜』の言及がない」
断罪されている派: 「第10章にはなくても、『第8章 通例の戦争犯罪(残虐行為)』に『捕虜』の言及がある」


第8章の文面については次のサイトなどを参照。

極東国際軍事裁判判決 第8章 通例の戦争犯罪(残虐行為)
http://www.geocities.jp/yu77799/toukyousaiban2.html



判決における『第8章』という文書の位置付けが判然としないので、これについての直接的な論評は避け、他の戦犯の判決文(第10章)がどうなっているかを確認する。

以下は、東京裁判で訴因第54または第55で有罪となった戦犯の一覧と、その判決文(第10章)に登場する犠牲者あるいは被害者の表現。

戦犯者氏名  犠牲者または被害者の表現
土肥原賢二  捕虜
畑俊六    捕虜、一般人
広田弘毅   何百という殺人、婦人に対する暴行、その他の残虐行為
板垣征四郎  捕虜と抑留者
木村兵太郎  捕虜の使用、捕虜虐待
小磯國昭   捕虜と抑留者の取り扱い
松井石根   無力の市民、何千という婦人が強姦、十万以上の人々が殺害、南京の不幸な市民
武藤章    捕虜と一般人抑留者、一般住民は虐殺
重光葵    捕虜の取り扱い

訴因54:違反行為の命令・授権・許可による戦争法規違反
訴因55:捕虜及び一般人に対する条約遵守の責任無視による戦争法規違反


見てわかるように、南京事件関連の松井・広田両名以外の人たちへの判決文(第10章)には、『捕虜』、『抑留者』などという単語を用いて判決理由を述べている。第8章で説明しているから判決文(第10章)で繰り返す必要がない、などというルールがあるようには見えない。

従って、東京裁判が「南京暴虐事件」と称する南京事件のあらましについて、『第8章』の中で「捕虜」という単語も用いながら説明されているものの、松井・広田両名への判決文(第10章)にだけ「捕虜」という単語が登場しないということは、南京戦における敗残兵の処断については断罪されていない、と解釈する方が妥当だと考える。



以下は、東京裁判で訴因第54または第55で有罪となった戦犯への判決文(第10章)の抜粋。

出典:
アジア歴史資料センター
簿冊標題:A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.164)
レファレンスコード A08071307800


[土肥原賢二]
土肥原は、1944年4月から1945年4月まで、第7方面軍の指揮官であった。この指揮権には、マレー、スマトラ、ジャワ及び一時はボルネオが含まれていた。彼の指揮する地区内の捕虜を、殺害と拷問から保護することに対する彼の責任の範囲については、証拠が矛盾している。少なくとも彼らに食物と医薬品を供給することについて、彼は責任があった。これらの供給に関して、彼らが甚だしく虐待されていたということは、証拠によって明らかである。捕虜は食物を充分に与えられず、栄養不足と食餌の不足による病気とに基づく死亡が驚くべき率で発生した。これらの状態は、捕虜にだけ当てはまったことであり、彼らを捕らえた者の間には起こらなかった。弁護のために、これらの地区における日本の戦局が悪くなり、交通が絶えたので、捕虜に対するいっそう良い補給を維持することができなくなったということが主張された。証拠の示すところでは、食物と医薬品とは手に入れることができたのであり、それを捕虜の恐るべき状態を緩和するために用いることができたはずである。これらの補給は、土肥原がその責任を負うべき方針に基づいて差し止められた。これらの事実の認定に基づいて、土肥原の犯罪は、訴因第55よりも、むしろ訴因第54に該当する。従って、訴因第54について、彼を有罪と判定し、訴因第55については、我々はなんらの判定も下さない。


[畑俊六]
1938年に、また1941年から1944年まで、畑が中国における派遣軍を指揮していた時に、彼の指揮下の軍隊によって、残虐行為が大規模に、しかも長期間にわたって行われた。畑は、これらのことを知っていながら、その発生を防止するために、なんらの措置も取らなかったか、それとも、無関心であって、捕虜と一般人を人道的に取り扱う命令が守られているかどうかを知るために、なんらの方法も講じなかったかである。どちらの場合にしても、訴因第55で訴追されているように彼は自己の義務に違反したのである。
本裁判所は、訴因第1、第27、第31、第32及び第55について、畑を有罪と判定する。訴因第35、第36及び第54については、彼は無罪である。


[広田弘毅]
戦争犯罪については、訴因第54に主張されているような犯罪の遂行を、広田が命令し、授権し、または許可したという証拠はない。
訴因第55については、彼をそのような犯罪に結びつける唯一の証拠は、1937年12月と1938年1月及び2月の南京における残虐行為に関するものである。彼は外務大臣として、日本軍の南京入城直後に、これらの残虐行為に関する報告を受け取った。弁護側の証拠によれば、これらの報告は信用され、この問題は陸軍省に照会されたということである。陸軍省から、残虐行為を中止されるという保証が受け取られた。この保証が与えられた後も、残虐行為の報告は、少なくとも1ヶ月の間、引き続いて入ってきた。本裁判所の意見では、残虐行為をやめさせるために、直ちに措置を講ずることを閣議で主張せず、また同じ結果をもたらすために、彼が取ることができた他のどのような措置も取らなかったということで、広田は自己の義務に怠慢であった。何百という殺人、婦人に対する暴行、その他の残虐行為が、毎日行われていたのに、右の保証が実行されていなかったことを知っていた。しかも、彼はその保証に頼るだけで満足していた。彼の不作為は、犯罪的な過失に達するものであった。
本裁判所は、訴因第1、第27及び第55について、広田を有罪と判定する。訴因第29、第31、第32、第33、第35及び第54については、彼は無罪である。


[板垣征四郎]
1945年4月から降伏まで、板垣が指揮していた地域は、ジャワ、スマトラ、マレー、アンダマン及びニコバル諸島、ボルネオを包含していた。右の期間中、何千という捕虜と抑留者がこれらの地域の収容所に収容されていた。
彼が提出した証言によれば、これらの収容所は、シンガポールにあるものを除いて、彼の直接の指揮下にはなかったが、彼はこれらの収容所に食料、医薬品及び医療設備を供給する責任をもっていた。
この期間中、これらの収容所における状態は、言葉では言えないほど悪かった。食料、医薬品及び医療設備の供給は、甚だしく不充分であった。栄養不足による病気がはびこり、その結果として、毎日多くの者が死亡した。降伏の日まで生き残ったものは、哀れな状態にあった。降伏後に、収容所が視察された時は監視員の間には、そのような状態は見られなかった。
捕虜と抑留者とのこの残虐な取り扱いに対する板垣の弁護は、日本の船舶に対する連合国の攻撃によって、これらの地域への補給物資の輸送が甚だしく困難になったこと、手元にあった補給物資で、彼はできるだけのことをしたということである。しかし、降伏後には、食料と医薬品の補給は、板垣の軍隊によってシンガポール、ボルネオ、ジャワ及びスマトラの収容所の使用に当てることができた。板垣のための証拠及び弁論として申し立てられた説明では、日本側は長期戦を予想し、補給品を使わないで保存していたというのである。このことは、板垣が捕虜と抑留者を甚だしく非人道的に取り扱ったのは、当時の一般的な事情からすれば、正当な理由があったと主張するに等しい。本裁判所は、躊躇なく、この弁護を却下する。板垣は、何千という捕虜と抑留者への補給について責任があったのであるから、その補給が将来維持できないとわかったならば、戦争法規に基づく彼の義務としては、手元にある補給品を分配し、その間に、上官に対して将来捕虜と抑留者を扶養するために、必要とあれば、連合国に連絡して、手配をしなければならないと通告することであった。彼のとった方針によって、彼は、自分が適当に扶養すべき義務のあった何千という人々の死亡または苦痛に対して責任がある。
本裁判所は、訴因第54について、板垣を有罪と判定する。土肥原の場合と同じく、本裁判所は、訴因55については、判定を行わない。


[木村兵太郎]
共同謀議者のひとりとしての彼の活動と相まって、1939年と1940年には師団長として、次には関東軍参謀長として、後には陸軍次官として、彼は中国における戦争と太平洋戦争との遂行に目立った役割を果たした。太平洋戦争の不法性について、完全な知識を持っていながら、1944年8月に、彼はビルマ方面軍の司令官となり、降伏のときまで、引き続いてその地位にあった。
彼は多くの場合に捕虜を作業に使用することを承認したが、その作業は、戦争法規によって禁止されている作業と、何千という捕虜の最大の艱難と死亡をもたらした状態における作業とであって、この点で、彼は戦争法規の違反に積極的な形で参加した一人である。後者の場合の一例は、泰緬鉄道の建設における捕虜の使用であって、これに対する命令は、木村によって承認され、伝達されたものである。
さらに、すべての戦争地域で、日本軍がどんな程度の残虐行為を行ったかを知っていながら、1944年8月に、木村はビルマ方面軍の指揮を引き継いだ。彼がラングーンの司令部に到着した日から、のちに司令部がモールメインに移されたときまで、残虐行為は少しも衰えることのない程度で、引き続いて行われた。彼の指揮の下にある軍隊が残虐行為を行うのを防ぐために、彼は懲戒措置または他の手段を全然取らなかった。
木村の弁護として、彼がビルマに到着した時2、彼はその部隊に対して、正しい軍人らしい行動をとり、捕虜を虐待することを慎むように命令したということが主張された。多くの場合2、彼の司令部から数マイル以内のところで、大規模に行われた捕虜虐待の性質と範囲に鑑みて、本裁判所は木村が戦争法規を実施すべき彼の義務に怠慢であったと判定する。このような事情のもとにおける軍の司令官の義務は、たとい型通りの命令が実際出されたとしても、そのような命令を出すだけで果たされるものではない。彼の義務は、その後戦争犯罪が行われるのを防ぐような措置をとり、そのような命令を発すること、その命令が実行されていることを自ら確かめることである。これを彼は怠った。このようにして、戦争法規の違反を防ぐために、充分な措置をとるべき法律上の義務を、彼は故意に無視したのである。
本裁判所は、訴因第1、第27、第29、第31、第32、第54及び第55について、木村を有罪と判定する。


[小磯國昭]
小磯が1944年に総理大臣になった時には、各戦争地域で日本軍が犯しつつあった残虐行為とその他の戦争犯罪はよく知れ渡っていたのであるから、これらの悪評が広まっていたことによってか、各省間の通信からして、小磯のような地位にいた者が十分に知っていなかったということは、ありそうもないことである。この事柄は、1944年10月に、小磯が出席した最高戦争指導会議の会合で、外務大臣取り扱いは『大いに改善の余地がある』と報ぜられていると報告した事実によって、疑いの余地のないものとなっている。外務大臣は、さらに、日本の国際的な評判と将来の国交という観点から、これは重要な事項であると述べた。彼は、これらの事項が充分に協議されるように、主管当局者に指令を発することを要求した。その後、小磯は、総理大臣として6ヶ月間在任したが、その間に、日本の捕虜と抑留者の取り扱いには、なんらの改善も見られなかった。これは、彼がその義務を故意に無視したことに相当する。
本裁判所は、訴因第1、第27、第29、第31、第32及び第55について、小磯を有罪と判定する。訴因第36、及び第54については、彼は無罪である。


[松井石根](後述につき省略)


[武藤章]
武藤は、1937年11月から1938年7月まで、松井の参謀将校であった。南京とその周辺で、驚くべき残虐行為が松井の軍隊によって犯されたのは、この期間においてであった。多くの週間にわたって、これらの残虐行為が行われていたことを、松井が知っていたのと同じように、武藤も知っていたことについて、我々はなんら疑問を持っていない。彼の上官は、これらの行為をやめさせる充分な手段をとらなかった。我々の意見では、武藤は、下僚の地位にいたので、それをやめさせる手段を取ることができなかったのである。この恐ろしい事件については、武藤は責任がない。
1942年4月から1944年10月まで、武藤は北部スマトラで近衛第二師団を指揮した。この期間において、彼の軍隊が占領してた地域で、残虐行為が広く行われた。これについては、武藤は責任者の一人である。捕虜と一般人抑留者は食物を充分に与えられず放置され、拷問され、殺害され、一般住民は虐殺された。
1944年10月に、フィリピンにおいて、武藤は山下の参謀長になった。降伏まで、彼はその職に就いていた。この時には、彼の地位は、いわゆる『南京暴虐事件』の時に、彼が占めていた地位とは、全く異なっていた。この時には、彼は方針を左右する地位にあった。この参謀長の職に就いていた期間において、日本軍は連続的に虐殺、拷問、その他の残虐行為を一般住民に対して行った。捕虜と一般人抑留者は、食物を充分に与えられず、拷問され、殺害された。戦争法規に対するこれらの甚だしい違反について、武藤は責任者の一人である。我々は、これらの出来事について、全く知らなかったという彼の弁護を却下する。これは全く信じられないことである。本裁判所は、訴因第54と第55について、武藤を有罪と判定する。


[重光葵]
重光が外務大臣であった1943年4月から1945年4月までの期間を通じて、利益保護国は日本の外務省に対して、連合国から受け取った抗議を次々に伝達した。これらは、責任ある国家機関によって利益保護国に送られた重大な抗議であって、多くの場合に、極めて詳細な具体的事実が添えてあった。抗議の内容となっている問題は、次の通りであった。
(1) 捕虜の非人道的な扱い、(2) 利益保護国に対して、少数の例外を除いては、すべての捕虜収容所の視察を許可することを拒絶したこと、(3) 利益保護国の代表者に対して、日本人立会人の臨席なしには、捕虜と面会するのを許可することを拒絶したこと、(4) 捕虜の氏名と抑留地に関する情報の提供を怠ったこと。これらの抗議は、まず外務省で処理された。必要な場合には、他の省に送られ、外務大臣がこれに同意することのできるような資料が求められた。
日本の外務省と利益保護国との間の長い期間にわたる往復文書を読んで、誰しも疑わないでおられないことは、日本の軍部がこれらの抗議に対する満足な回答を外務省に提供しなかったのには、悪質の理由があったのではないかということ、または少なくとも、問題にされているような行動をした軍部ではなく、その他の機関によって、独立の調査を行うべきであったのではないかということである。抗議に次ぐ抗議は、未回答のままであったか、遅延の理由を説明しないで、何ヶ月も遅れてようやく回答されたかであった。利益保護国による次々の催促も、顧みられなかった。回答された抗議は例外なしに、苦情をいうべきことは何もないと否定された。
ところで、責任ある人々によって行われ、その時の事情と具体的事実とを添えられた苦情が、ことごとく不当なものであるということは、ほとんどあり得ないことであった。その上に、収容所の視察の許可を軍部が拒絶したこと、利益保護国の代表者に対して、日本人立会人の臨席なしには、捕虜と面会するのを許可することを軍部が拒絶したこと、自己の手中にある捕虜について、詳細は事項を知らせるのを怠ったことは、軍部が何か隠すべきことをもっていたという疑いを起こさせるものであった。
重光は、彼の承知してたこれらの事情からして、捕虜の取り扱いが正当に行われていないという疑いを起こしたものと我々が認定しても、彼に対して不当なことにはならない。実際のところ、ある証人は、彼のために、この趣旨の証言をしたのである。ところが、閣僚として、捕虜の福祉について、彼は全般的な責任を負っていたにもかかわらず、問題を調査させる充分な措置をとらなかった。彼は責任が果たされていないのではないかと疑っていたのであるから、この責任を解除させるために、問題を強く押し進め、必要ならば、辞職するというところまで行くべきであった。
重光が戦争犯罪または人道に対する罪の遂行を命令し、授権し、または許可したという証拠はない。裁判所は、訴因第54については、重光を無罪と判定する。
裁判所は、訴因第55について、重光を有罪と判定する。




《太平洋戦争での投降兵殺害の事例》

参考までに次の書籍を紹介する。投降兵があっても殺害する事例は太平洋戦争中の連合国軍でもあったようだ。

リンドバーグ第二次大戦日記 下 チャールズ・A・リンドバーグ
https://www.amazon.co.jp/dp/B01IOFN9UA/
“わが軍の将兵は日本軍の捕虜や投降者を射殺することしか念頭にない。日本人を動物以下に取り扱い、それらの行為が大方から大目に見られているのである。”
“敵をことごとく殺し、捕虜にはしないというのが一般的な空気だった。捕虜をとった場合でも、一列に並べ、英語を話せる者はいないかと質問する。英語を話せる者は尋問のために連行され、あとの連中は「一人も捕虜にされなかった」という。”





《東京裁判・判決文と起訴事実朗読文》

以下に、東京裁判での松井司令への判決文と、起訴事実朗読文を記載する。(他サイトからの借用)



《判決文》


昭和二十三年十一月十二日朗読

松井石根

被告松井は、訴因第一・第二十七・第二十九・第三十一・第三十二・第三十五・第三十六・第五十四及び第五十五で訴追されている。

松井は日本陸軍の高級将校であり、一九三三年に大将の階級に進んだ。かれは陸軍において広い経験をもっており、そのうちには、関東軍と参謀本部における勤務が含まれていた。

共同謀議を考え出して、それを実行した者と緊密に連絡していたことからして、共同謀議者の目的と政策について、知っていたはずであるとも考えられるが、裁判所に提出された証拠は、かれが共同謀議者であったという認定を正当化するものではない。

一九三七年と一九三八年の中国におけるかれの軍務は、それ自体としては、侵略戦争の遂行と見倣すことはできない。訴因第二十七について有罪と判定することを正当化するためには、検察側の義務として、松井がその戦争の犯罪的性質を知っていたという推論を正当化する証拠を提出しなければならなかった。このことは行われなかった。

一九三五年に、松井は退役したが、一九三七年に、上海派遣軍を指揮するために、現役に復帰した。ついで、上海派遣軍と第十軍とを含む中支那方面軍司令官に任命された。これらの軍隊を率いて、かれは一九三七年十二月十三日に南京市を攻略した。

南京が落ちる前に、中国軍は撤退し、占領されたのは無抵抗の都市であった。それに続いて起ったのは、無力の市民に対して、日本の陸軍が犯した最も恐ろしい残虐行為の長期にわたる連続であった。日本軍人によって、大量の虐殺・個人に対する殺害・強姦・掠奪及び放火が行われた。

残虐行為が広く行われたことは、日本人証人によって否定されたが、いろいろな国籍の、また疑いのない、信憑性のある中立的証人の反対の証言は、圧倒的に有力である。

この犯罪の修羅の騒ぎは、一九三七年十二月十三日に、この都市が占拠されたときに始まり、一九三八年二月の初めまでやまなかった。この六、七週間の期聞において、何千という婦人が強姦され、十万以上の人々が殺害され、無数の財産が盗まれたり、焼かれたりした。

これらの恐ろしい出来事が最高潮にあったときに、すなわち十二月十七日に、松井は同市に入城し、五日ないし七日の間滞在した。自分自身の観察と幕僚の報告とによって、かれはどのようなことが起っていたかを知っていたはずである。

憲兵隊と領事館員から、自分の軍隊の非行がある程度あったと聞いたことをかれは認めている。南京における日本の外交代表者に対して、これらの残虐行為に関する日々の報告が提出され、かれらはこれを東京に報告した。

本裁判所は、何が起っていたかを松井が知っていたという充分な証拠があると認める。これらの恐ろしい出来事を緩和するために、かれは何もしなかったか、何かしたにしても、効果のあることは何もしなかった。

同市の占領の前に、かれは自分の軍隊に対して、行動を厳正にせよという命令を確かに出し、その後さらに同じ趣旨の命令を出した。現在わかっているように、またかれが知っていたはずであるように、これらの命令はなんの効果もなかった。

かれのために、当時かれは病気であったということが申し立てられた。かれの病気は、かれの指揮下の作戦行動を指導できないというほどのものでもなく、またこれらの残虐行為が起っている聞に、何回も同市を訪問できないというほどのものでもなかった。

これらの出来事に対して責任を有する軍隊を、かれは指揮していた。これらの出来事をかれは知っていた。かれは自分の軍隊を統制し、南京の不幸な市民を保護する義務をもっていたとともに、その権限をももっていた。この義務の履行を怠ったことについて、かれは犯罪的責任があると認めなければならない。

本裁判所は、被告松井を訴因第五十五について有罪、訴因第一・第二十七・第二十九・第三十一・第三十二・第三十五・第三十六及び第五十四について無罪と判定する。

(『南京大残虐事件資料集 第1巻』P398~P399)



上記の文面は次のサイトからの借用です。

「極東国際軍事裁判判決」

http://www.geocities.jp/yu77799/toukyousaiban.html






《起訴事実朗読》


十一月十一日朗読

南京暴虐事件

一九三七年十二月の初めに、松井の指揮する中支那派遣軍が南京市に接近すると、百万の住民の半数以上と、国際安全地帯を組織するために残留した少数のものを除いた中立国人の全部とは、この市から避難した。

中国軍は、この市を防衛するために、約五万の兵を残して撤退した。一九三七年十二月十二日の夜に、日本軍が南門に殺到するに至って、残留軍五万の大部分は、市の北門と西門から退却した。

中国兵のほとんど全部は、市を撤退するか、武器と軍服を棄てて国際安全地帯に避難したので、一九三七年十二月十三日の朝、日本軍が市にはいったときには、抵抗は一切なくなっていた。

日本兵は市内に群がってさまざまな残虐行為を犯した。目撃者の一人によると、日本兵は同市を荒し汚すために、まるで野蛮人の一団のように放たれたのであった。

目撃者達によって、同市は捕えられた獲物のように日本人の手中に帰したこと、同市は単に組織的な戦闘で占領されただけではなかったこと、戦いに勝った日本軍は、その獲物に飛びかかって、際限のない暴行を犯したことが語られた。

兵隊は個々に、または二、三人の小さい集団で、全市内を歩きまわり、殺人・強姦・掠奪・放火を行った。そこには、なんの規律もなかった。多くの兵は酔っていた。それらしい挑発も口実もないのに、中国人の男女子供を無差別に殺しながら、兵は街を歩きまわり、遂には所によって大通りや裏通りに被害者の死体が散乱したほどであった。

他の一人の証人によると、中国人は兎のように狩りたてられ、動くところを見られたものはだれでも射撃された。

これらの無差別の殺人によって、日本側が市を占領した最初の二、三日の間に、少くとも一万二千人の非戦闘員である中国人男女子供が死亡した。

多くの強姦事件があった。犠牲者なり、それを護ろうとした家族なりが少しでも反抗すると、その罰としてしばしば殺されてしまった。幼い少女と老女さえも、全市で多数に強姦された。そして、これらの強姦に関連して、変態的と嗜虐的な行為の事例が多数あった。 多数の婦女は、強姦された後に殺され、その死体は切断された。占領後の最初の一カ月の間に、約二万の強姦事件が市内に発生した。

日本兵は、欲しいものは何でも、住民から奪った。兵が道路で武器をもたない一般人を呼び止め、体を調ベ、価値のあるものが何も見つからないと、これを射殺することが目撃された。非常に多くの住宅や商店が侵入され、掠奪された。掠奪された物資はトラックで運び去られた。

日本兵は店舗や倉庫を掠奪した後、これらに放火したことがたびたびあった。最も重要な商店街である太平路が火事で焼かれ、さらに市の商業区域が一劃々々と相ついで焼き払われた。なんら理由らしいものもないのに、一般人の住宅を兵は焼き払った。 このような放火は、数日後になると、一貫した計画に従っているように思われ、六週間も続いた。こうして、全市の約三分の一が破壊された。

男子の一般人に対する組織立った大量の殺戮は、中国兵が軍服を脱ぎ捨てて住民の中に混りこんでいるという口実で、指揮官らの許可と思われるものによって行われた。中国の一般人は一団にまとめられ、うしろ手に縛られて、城外へ行進させられ、機関銃と銃剣によって、そこで集団ごとに殺害された。 兵役年齢にあった中国人男子二万人は、こうして死んだことがわかっている。

ドイツ政府は、その代表者から、『個人でなく、全陸軍の、すなわち日本軍そのものの暴虐と犯罪行為』について報告を受けた。この報告の後の方で、『日本軍』のことを『畜生のような集団』と形容している。

城外の人々は、城内のものよりもややましであった。南京から二百中国里(約六十六マイル)以内のすべての部落は、大体同じような状態にあった。

住民は日本兵から逃れようとして、田舎に逃れていた。所々で、かれらは避難民部落を組織した。日本側はこれらの部落の多くを占拠し、避難民に対して、南京の住民に加えたと同じような仕打ちをした。

南京から避難していた一般人のうちで、五万七千人以上が追いつかれて収容された。収容中に、かれらは飢餓と拷問に遇って、遂には多数の者が死亡した。生残った者のうちの多くは、機関銃と銃剣で殺された。

中国兵の大きな幾団かが城外で武器を捨てて降伏した。かれらが降伏してから七十二時間のうちに、揚子江の江岸で、機関銃掃射によって、かれらは集団的に射殺された。

このようにして、右のような捕虜三万人以上が殺された。こうして虐殺されたところの、これらの捕虜について、裁判の真似事さえ行われなかった。

後日の見積りによれば、日本軍が占領してから最初の六週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、二十万以上であったことが示されている。これらの見積りが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が、十五万五千に及んだ事実によって証明されている。

これらの団体はまた死体の大多数がうしろ手に縛られていたことを報じている。これらの数字は、日本軍によって、死体を焼き棄てられたり、揚子江に投げこまれたり、またはその他の方法で処分されたりした人々を計算に入れていないのである。

日本の大使館員は、陸軍の先頭部隊とともに、南京へ入城した。十二月十四日に、一大使館員は、『陸軍は南京を手痛く攻撃する決心をなし居れるが、大使館員は其の行動を緩和せしめんとしつつあり』と南京国際安全地帯委員会に通告した。

大使館員はまた委員に対して、同市を占領した当時、市内の秩序を維持するために、陸軍の指揮官によって配置された憲兵の数は、十七名にすぎなかったことを知らせた。

軍当局への抗議が少しも効果のないことがわかったときに、これらの大使館員は、外国の宣教師たちに対して、宣教師たちの方で日本内地に実情を知れわたらせるように試み、それによって、日本政府が世論によって陸軍を抑制しないわけには行かなくなるようにしてはどうかといった。

ベーツ博士の証言によると、同市の陥落後、二週間半から三週間にわたって恐怖はきわめて激しく、六週間から七週間にわたっては深刻であった。

国際安全地帯委員会幹事スマイス氏は、最初の六週間は毎日二通の抗議を提出した。

松井は十二月十七日まで後方地区にいたが、この日に入城式を行い、十二月十八日に戦没者の慰霊祭を催し、その後に声明を発し、その中で次のように述べた。

『自分は戦争に禍せられた幾百万の江浙地方無辜の民衆の損害に対し、一層の同情の念に堪えぬ。今や旭旗南京城内に翻り、皇道江南の地に輝き、東亜復興の曙光将に来らんとす。この際特に支那四億万蒼生に対し反省を期待するものである』と。松井は約一週間市内に滞在した。

当時大佐であった武藤は、一九三七年十一月十日に、松井の幕僚に加わり、南京進撃の期間中、松井とともにおり、この市の入城式と占領に参加した。

南京の陥落後、後方地区の司令部にあったときに、南京で行われている残虐行為を聞いたということを武藤も松井も認めている。これらの残虐行為に対して、諸外国の政府が抗議を申込んでいたのを聞いたことを松井は認めている。

この事態を改善するような効果的な方策は、なんら講ぜられなかった。松井が南京にいたとき、十二月十九日に市の商業区域は燃え上っていたという証拠が、一人の目撃者によって、本法廷に提出された。この証人は、その日に、主要商業街だけで、十四件の火事を目撃した。松井と武藤が入城してからも、事態は幾週間も改められなかった。

南京における外交団の人々、新聞記者及び日本大使館員は、南京とその附近で行われていた残虐行為の詳細を報告した。

中国へ派遣された日本の無任所公使伊藤述史は、一九三七年九月から一九三八年二月まで上海にいた。日本軍の行為について、かれは南京の日本大使館、外交団の人々及び新聞記者から報告を受け、日本の外務大臣広田に、その報告の大要を送った。

南京で犯されていた残虐行為に関して情報を提供するところの、これらの報告やその他の多くの報告は、中国にいた日本の外交官から送られ、広田はそれらを陸軍省に送った。

その陸軍省では、梅津が次官であった。これらは連絡会議で討議された。その会議には、総理大臣・陸海軍大臣・外務大臣広田・大蔵大臣賀屋・参謀総長及び軍令部総長が出席するのが通例であった。

残虐行為についての新聞報道は各地にひろまった。当時朝鮮総督として勤務していた南は、このような報道を新聞紙上で読んだことを認めている。

このような不利な報道や、全世界の諸国で巻き起された世論の圧迫の結果として、日本政府は松井とその部下の将校約八十名を召還したが、かれらを処罰する措置は何もとらなかった。一九三八年三月五日に日本に帰ってから、松井は内閣参議に任命され、一九四〇年四月二十九日に、日本政府から中日戦争における『功労』によって叙勲された。

松井はその召還を説明して、かれが畑と交代したのは、南京で自分の軍隊が残虐行為を犯したためでなく、自分の仕事が南京で終了したと考え、軍から隠退したいと思ったからであると述べている。かれは遂に処罰されなかった。

日本陸軍の野蛮な振舞いは、頑強に守られた陣地が遂に陥落したので、一時手に負えなくなった軍隊の行為であるとして免責することはできない。強姦・放火及び殺人は、南京が攻略されてから少くとも六週間、そして松井と武藤が入城してから少くとも四週間にわたって、引続き大規模に行われたのである。

一九三八年二月五日に、新任の守備隊司令官天谷少将は、南京の日本大使館で外国の外交団に対して、南京における日本人の残虐について報告を諸外国に送っていた外国人の態度をとがめ、またこれらの外国人が中国人に反日感情を煽動していると非難する声明を行った。

この天谷の声明は、中国の人民に対して何物にも拘束されない膺懲戦を行うという日本の方針に敵意をもっていたところの、中国在住の外国人に対する日本軍部の態度を反映しものである。

(『南京大残虐事件資料集 第1巻』P395~P398)



上記の文面は次のサイトからの借用です。

「極東国際軍事裁判判決」

http://www.geocities.jp/yu77799/toukyousaiban.html




《東京裁判・判決文の抜粋》

アジア歴史資料センター
件名標題(日本語) A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.164)
レファレンスコード A08071307800



(松井石根)











(広田弘毅)





(主な訴因)















《関連記事》

「南京大虐殺の真相」
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/eaacb2fee7e20c9adc4799020776c9d1






改版履歴:
2016.12.24 全体的に書き換え。
2017.09.05 図を追加。
2017.09.07 東京裁判判決文画像を追加。広田弘毅・外務大臣について追記。
2017.09.08 《東京裁判判決・第8章について》を追記。

《7》南京大虐殺・疑わしい殺人事件

2015年07月19日 | 南京大虐殺
最終更新:2018.10.17



「南京安全地帯の記録」に収録された殺人事件の中に、日本兵の犯行であるかどうか疑わしい事案があるので列挙し、考察する。




《記録された殺人事件の一覧》

下表は収録された全ての殺人事件である。犠牲者の総数は53人。


・第1部、第2部の区分については前記事参照
・事件番号の重複があるのは、ひとつの記述の中に複数の事件が含まれているからである
・夫、主人とあるのは妻である女性への強姦事件に関連している
・娘、婦人とあるのは強姦事件に関連している




《疑わしい殺人事件》

もし以下の事件が「日本兵による殺人事件」ではないならば、日本兵の犯行とされうる市民殺害の犠牲者数は39人に減ることになる。



次の事件は読めばわかるように、「適法な処刑については抗議しないが、給水源を汚染するのはやめてくれ」と苦情を言っているのであって、記録者自身も市民殺害事件とは認識していない。

(事件番号185)
一月九日の朝、クレーガー氏とハッツ氏は、安全地帯内にある山西路の池で、その池はちょうど中央庚款大廈の真東にあるのだが、日本兵の将校と兵士が市民の服装をした哀れな男を処刑するところを目撃した。クレーガー氏とハッツ氏が現場に着いた時、男は氷が割れて揺れ動いている池の中で腰まで浸かって立っていた。将校が命令すると、兵士は砂嚢の後ろに体を伏せ、男に向かって発砲した。弾は男の肩に当たった。二度目を発砲したが外れ、三度目の発砲で男は死んだ。(クレーガー、ハッツ)
(注)我々は日本軍による適法な処刑について抗議する権利はないが、これは確かに非能率で残酷な方法で行われている。また、このような処刑方法は、我々がこれまで日本大使館員達との個人的なやりとりで、何度も言ってきたような問題を引き起こすのである。つまり、安全地帯内の池で人を殺すのは、池の水を汚染し、そのため地帯内の住民への給水源が深刻に減少をきたすのである。このところの長期にわたる日照り続きと市による水の供給が遅れている際に非常に深刻な問題である。


次の事件は一週間前の事件の伝聞の伝聞という形式であるため、犯人が日本兵であるかの確定が難しい。

(事件番号198)
一月十九日、現在フォースターや私と同居している尼僧の報告によると、六十五歳になる彼女の叔父、朱氏という男が日本側に指定されたとある場所に米を買いに行ったところ、まず、路上で日本兵に強奪され、それから、刺殺されたとの話を、昨日聞いた。この事件が起きたのは約一週間前のことで、叔父は米を買いに出かけたが戻ってこず、彼らは叔父の身に何が起こったのか知らなかったのである。(マギー)


夏淑琴さん事件(事件番号219)については次項に詳述。


また、次の事件も殺害方法が通州事件を連想させ、日本兵の犯行かどうか疑わしい。また、文責者の記載も犠牲者名の記載もないので、事件の実在性も疑われる。
(傾向として、第2部の事件は被害者名が記載されている場合が多い)

(事件番号303)
一月三十一日、四象橋で六十過ぎの老婆がまず強姦され、次に銃剣で膣を刺されて殺された。





《夏淑琴さん事件》

これは有名な夏淑琴さん事件である。一般的には、陥落時に城内になだれ込んだ日本兵の犯行とされている。

(事件番号219)
ジョン・マギー氏が聞いた話によれば、十二月十三日から十四日にかけて、南市のある家族十三人のうち十一人が日本兵に殺され、女達は強姦されて手足を切断された。二人の小さな子供が生き残りこの話を語った。(マギー)


しかし、以下のような事実がある。

1)文責者のマギーは東京裁判で次のように述べている。つまり、陥落直後に聞いた話ではない。

「1月の終り頃になりまして、私は南市の方へ参りまして沢山の街で色々な事件が起ったのを承知したのでありますが、其の中で特に私の申し上げようと思いますのは、新開路六番地の家で起った事件であります」


2)この事件番号219が収録された文書は、1938年1月31日付けの「第五十六号 現在の情勢に関する覚え書き」である。(ちなみにそのひとつ前の第五十五号は前日1月30日付)

3)国際委員会のラーベ委員長は1月29日の日記にこう書いている。

「マギーが八歳と四歳の少女を見つけた。親族は11人だったというが、残らず残忍な殺され方をしていた。近所の人々に助け出されるまでの14日間、母親の亡骸のそばにいたという話だ。姉娘が家に残っていたわずかな米を炊いて、どうにか食いつないでいたという」


4)マギーは撮影した写真の解説にこう書いている。

「12月13日、約30人の兵士が南京の東南部の新路口五のシナ人の家にきて、中に入れるよう要求した。玄関を、マアという名のイスラム教徒の家主が開けた。すると、ただちに彼らはマアを拳銃で殺し(中略)その八歳の少女は傷を負った後、母の死体のある隣の部屋に這って行った。無傷で逃げおおせた四歳の妹と一緒に、この子はここに十四日間居残った」


5)そして、次のような指摘がある。

夏淑琴さん家族の同居の家主がイスラム教徒だったならば、イスラム教徒は旧暦を使うので、そうであれば少女(夏淑琴さん)が証言した12月13日という事件発生日とは、実は翌年の1月14日になる。


そうすると、発見されたのが1月29日頃、事件発生が1月14日頃で、八歳の少女(夏淑琴さん)の「14日間居残った」という証言と一致する。この頃にはもう中国人による南京自治委員会も立ち上がり、多くの日本軍も各地に転進し、該当地区には第33連隊がいただけである。

つまり、事件を近所の人が発見してからマギーに伝わるまでに一ヶ月かかったという解釈よりは、証言が旧暦のために誤解があるものの近所の人が発見してから直ちにマギーに伝わった、と解釈する方が自然。なにしろ、「安全地帯の記録」の中で最多の犠牲者を出した殺人事件である。発覚後に現場付近でも大騒ぎになり、たちどころに国際委員会まで伝わったと考える方が話の整合性を感じる。

また、1月中旬ともなれば安全区に避難していた住民が元の住居へ帰還した時期である事実とも符合する。さらに、「手足を切断」という殺害方法が通州事件を連想させる。

ちなみに、東京裁判で南京事件について証言した「黄俊瑯」氏が「旧暦」で証言しているのを見つけた。彼は敗残兵として安全区に潜伏しながら、幸運にも生き延びた人物である。「旧暦での証言なんてありえない」という反論への反論。




なお、民国17年(1928年)当時の地図によると、夏淑琴さん事件があったとされている「新路口」とは下図の場所となる。南京城南側の中華門の近く。






《強姦殺人事件全般について》

殺人事件の半数近くは強姦絡みである。どの事件が怪しいとは特定しないが、特に夜間の犯行については夜間外出禁止令が出ていた日本兵の犯行かどうか怪しいこと、さらには次の記事にあるように中国人による強姦・暴行事件も多発していたことから、全てを日本兵の犯行と看做すのは適切ではない。

「皇軍の南京入城以来、わが将兵が種々の暴行を行なつているとの事実無根の誣説(ぶせつ)が一部外国に伝わっているので、在南京憲兵隊ではその出所を究明すべく苦心探査中のところ、このほど漸くその根源を突き止めることが出来た。この不逞極まる支那人は、日本語に巧みな呉堯邦以下十一名で、皇軍入城後日本人を装ひ、わが通訳の腕章を偽造してこれをつけ、…三ヶ所を根城に、皇軍の目を眩ましては南京区内に跳梁し、強盗の被害は総額五万元、暴行にいたつては無数。…襲はれた無辜(むこ)の支那人らは、いずれも一味を日本人と信じきつていたため、発覚が遅れたものであるが、憲兵隊の山本政雄軍曹、村辺繁一通訳の活躍で検挙を見たものである」(大阪朝日新聞1938年2月17日付)





《敗残兵の摘出と処断》

敗残兵の処断は、市民殺害とは区別すべきである。次の事件(62)は敗残兵摘出の場面のトラブルだと思われるが、「老女一名」は市民殺害としても、「男性一名(二十五歳)」は敗残兵である可能性がある。

(事件番号62)
十二月十八日、陸軍大学難民収容所の報告。十六日に二百名の男子が連行され、たった五人しか帰らなかった。十七日に二十六人の男子が連行された。十八日に三十人が連行された。掠奪されたもの、お金、カバン、一袋の米、四百枚以上の病院のシーツ。さらに男性一名(二十五歳)が殺され、老女一名突き倒されて二十分後に死亡す。






主要参考文献:

南京事件の核心―データベースによる事件の解明(冨沢 繁信)
http://www.amazon.co.jp/dp/4886562361

「南京安全地帯の記録」完訳と研究(冨沢 繁信)
http://www.amazon.co.jp/dp/4886562515



《関連記事》

「南京大虐殺の真相」
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/eaacb2fee7e20c9adc4799020776c9d1






改版履歴:
2017.02.26 夏淑琴さん事件について追記。
2017.03.03 夏淑琴さん事件の現場?を追記。
2018.10.17 夏淑琴さん事件の現場を修正。

《6》南京大虐殺・南京安全地帯の記録

2015年07月19日 | 南京大虐殺




燕京大学の徐淑希教授が1939年5月頃に南京安全区国際委員会の抗議文書を集めて編纂した『南京安全地帯の記録』の概要を紹介する。

この記事は次の書籍の記述に準じる。

「南京安全地帯の記録」完訳と研究(冨沢 繁信)
http://www.amazon.co.jp/dp/4886562515





《記録の期間》

『南京安全地帯の記録』は「第1部」「第2部」に分かれている。

「第1部」は事件番号1~179であり、日本軍に提出されたことが明らかとなっている。期間としては、1937年12月14日(陥落翌日)~1938年1月7日。

「第2部」は事件番号180~444までであり、日本軍に提出されたかどうか定かではない。期間としては、1938年1月10日~2月19日。




《事件の種類》



見てわかるように、「大虐殺」と喧伝されるわりには事件数は少ない。殺人事件の犠牲者の合計は53人である。




《事件発生場所》



明らかに、第1部では安全区内が多く、第2部では安全区外が多い。

著者の指摘によれば、「第1部の事件は安全地帯を担当する日本軍が治安維持能力、行政能力がないことを証明するために集められた。(中略)これに対して、第2部では日本軍による住民の元の住居への帰還運動を阻止しようとして事件が集められた。」とのこと。

即ち、この記録は日本軍と確執を起こした国際委員会が、占領軍たる日本軍に対抗するために恣意的に収集した事件簿であり、現代日本の警察の事件統計のような性格のものではない、ということである。




《事件の信憑性》

記録には事件の詳細が明らかでない杜撰な事案も含まれている。
全517件の中から、1)文責者の無いものを除く、さらに2)被害者名の不明な人的事件、および人的以外の事件では被害場所の不明のものを除く、と97件の事件らしい事件が残る。うち、51件は窃盗掠奪である。

さらに、この中には夜間に発生した事件もあり、夜間外出禁止の日本兵の犯行かどうか疑わしい事件も含まれる。




《記録の例》

記録された事件の記述をいくつか抜粋する。
(文頭の番号は事件番号を示す)


(殺人)

(1) 十二月十五日、日本兵達によって安全地帯衛生委員会第二区の道路清掃員六名が彼らが住んでいた鼓楼の家屋内で殺され、一名は銃剣で重傷を負った。彼らは私どもの従業員であって、殺傷の理由は一切不明。兵士達はその家屋に浸入したのです。

(62) 十二月十八日、陸軍大学難民収容所の報告。十六日に二百名の男子が連行され、たった五人しか帰らなかった。十七日に二十六人の男子が連行された。十八日に三十人が連行された。掠奪されたもの、お金、カバン、一袋の米、四百枚以上の病院のシーツ。さらに男性一名(二十五歳)が殺され、老女一名突き倒されて二十分後に死亡す。

(これは敗残兵摘出の場面と思われる)


(強姦)

(4) 昨十二月十五日夜、日本兵七名が南京大学図書館に入り込み、中国人女性難民七名を捕まえて、うち三名はその場で犯された。
(注:日本軍は兵士の夜間外出を禁止していた。また、安全区に潜伏した郭岐は「日本兵は夜に外出する勇気がある者はおらず、夜に活躍するのは中国の悪者だけ」と書いている。)

(28) 十二月十六日午後四時、日本兵達が莫干路十一号の住居に侵入して、そこの一人の女を強姦した。

(89) 十八日午後、百人以上の難民が南京大学農業菜園にいた。日本兵は四人の女を連れ去り、一晩中強姦した。全員翌朝戻って来た。十九日二人の女が連れ去られた。うち一人は今朝(二十日)帰って来たが他の一人はまだ帰って来ない。

(245) 一月二十八日、張魏氏二十歳。帰宅し二人の兵士に強姦された。



(掠奪)

(7) 昨十二月十五日、公共施設にある難民収容所の全てから、日本兵達がやってきて難民達から数回にわたり掠奪をしていると報告してきた。

(13) 十二月十四日、日本兵達がアメリカ人宣教師グレイス・パウエル嬢の家に侵入、毛皮の手袋一組を奪い、食卓にあった牛乳を飲み尽くし、砂糖を手で掬って行った。

(27) 十二月十六日、日本兵達が古嶺路二十一号の衛生主任の住居に侵入し、数台のオートバイ、ゴミ箱一個、五台の自転車を持ち去った。

(279) 一月三十一日、午前、同仁街十八号で、買ったばかりの野菜を日本兵がみんな持っていった。



(放火)

(80) 十二月二十日、今朝七時頃、マッカラムは大学病院の夜警から帰宅途上、多くの女子供達が安全を求めて大学へ行くのを見た。各々違った場所から来た三家族は昨晩日本兵に焼け出されたと彼に語った。

(193) 一月十六日朝、リッグス氏は、吉祥街六十八号にいて、住民に帰宅を求めるポスターを見つけた。ちょうどその向かい側に二軒の建物があり、そこで、日本兵が、その前夜管理人を殴打し、その二軒の建物を焼いてしまった。ここは、住民が今までに帰宅するのに安全であると見なされている新しい地域である。そのポスターは、平倉巷三号に展示されている。



(傷害)
(注:殺された、死んだ、と明示されていない事例はここでは「傷害」と分類した。但し、著者の冨沢繁信氏は事件番号19を「殺人」に分類している。)

(19) 或る男が十二月十五日、大学病院にやってきた。彼は六十歳の叔父を安全地帯に連れてきたが、兵士は叔父を銃で撃ち、彼自身にも傷を負わせた。

(71) 十二月十九日五時頃、一人の青年が我々の本部に母に連れられて来た。彼は一人の日本兵に明らかな理由もなしに胸を刺された。フィッチ氏とスマイス氏は彼を第十六件から第七〇件の事例を日本大使館へ提出する途上大学病院へ連れて来た。

(91) 南市の帽子店主は胸を撃ち抜かれた。日本兵が金を要求したので、所持金全部を与えたが、彼らはさらに要求し、彼は出すことができなかった。彼は今日十二月二十日に大学病院へやって来た。



(侵入)

(9) 十二月十五日、日本兵達が裏塀を乗り越え扉を押し破って金陵女子学院の教員住宅に侵入した。十二月十三日以降、動かせるものは全部建物から運び出されていたので、何ひとつ盗ることはできなかった。

(21) 十二月十六日の夜、日本兵達がアメリカ人が住む二軒の大学住宅に押し入り、一軒ではドアを破壊した。またアメリカ人所有の住居で一時的に中国人の大学職員が住んでいる数軒の家も日本兵によって頻繁かつ不定期に侵入された。



(その他)

(11) 十二月十五日午後、日本兵達が当委員会の寧海路米穀店を訪ね、米三袋(三・七五担)を買って五ドルしか払わなかった。定価は担九ドルなので、日本帝国陸軍は国際委員会に二十八ドル七十五セントの借りがあることになる。

(201) 三人の婦人が一月二十日に南京神学校より連行された。

(243) 一月二十八日、劉応氏四十八歳。門東に帰宅した。真夜中数人の兵士が来て娘を求めた。

(264) 二月一日午後十一時、三人の日本兵が南京神学校に来て、壁を上り、娘を小屋に掴み入れたが、彼女は逃げ去り大声で叫んだ。このため、収容所が目覚め、外へ出て大声で叫んだ。兵士達は壁を上って帰り逃げた。






《関連記事》

「南京大虐殺の真相」
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/eaacb2fee7e20c9adc4799020776c9d1


《5》南京大虐殺・ベイツレポート

2015年07月19日 | 南京大虐殺
最終更新:2017.12.21



南京大虐殺の真相を理解する上で、ベイツレポートの存在が欠かせないので、以下に全文を掲載する。
これは、ベイツが陥落2日後の12月15日に、南京を去る欧米記者たちに渡したレポートである。


《要点》

・市民が殺されたと書いているが、軍服を脱いだ敗残兵とも思える
・敗残兵の掃蕩および処断を残虐だと訴えている
・日本軍が組織的に掠奪を行っており、米国資産の建物も例外でない
・婦女強姦も多いとしながら、具体的事例に乏しい
・情緒的表現で日本軍を非難している
・後の虐殺報道を促す重要なレポートだが、被害の定量的記述はない



《ベイツレポート全文》

南京では日本軍は既にかなり評判を落としており、中国市民の尊敬と外国人の評価を得るせっかくの機会さえ無にしてしまいました。中国当局側の不真面目な瓦解と南京地区における中国軍の壊滅によって、ここに残った多くの人々は、日本側が高言している秩序と組織に応じようとしました。日本軍の入城によって戦争の緊張状態と当面の爆撃の危険が終結したかと見えたとき、安心した気持ちを示した住民も多かったのです。少なくとも住民たちは無秩序な中国軍を怖れることはなくなりましたが、実際には、中国軍は市の大部分にたいした損害も与えずに出て行ったのです。

しかし、二日もすると、たび重なる殺人、大規模で半ば計画的な掠奪、婦女暴行をも含む家庭生活の勝手きわまる妨害などによって、事態の見通しはすっかり暗くなってしまいました。市内を見回った外国人は、このとき、通りには市民の死体が多数ころがっていたと報告しています。南京の中心部では、昨日は一区画ごとに一個の死体がかぞえられたほどです。死亡した市民の大部分は、十三日午後と夜、つまり日本軍が侵入してきたときに射殺されたり、銃剣で突き殺されたりしたものでした。恐怖と興奮にかられて駆け出す者、日が暮れてから路上で巡警に捕まった者は、だれでも即座に殺されたようでした。その過酷さはほとんど弁解の余地のないものでした。南京安全区でも他と同様に、このような蛮行が行われており、多くの例が、外国人および中国人によって、はっきり目撃されています。銃剣による負傷の若干は残虐きわまりないものでした。

元中国兵として日本軍によって引き出された数組の男たちは、数珠つなぎにしばりあげられて射殺されました。これらの兵士たちは武器を捨てており、軍服さえ脱ぎ捨てていた者もいました。そういうわけで、略奪品や装備の臨時運送人として使役するためにどこかで拾い上げてきた男たちを除けば、実際にあるいは明らかに処刑の途上にある、このような集団以外には日本軍の手中には捕虜の影さえも見られませんでした。難民区内のある建物から、日本兵に脅迫された地元の警官によって、四百人が引き出され、五十人ずつひと組に縛られ、小銃を持った兵隊と機関銃を持った兵隊に挟まれて護送されて行きました。目撃者にどんな説明がされても、これらの人々の最期は一目瞭然でした。

目抜き通りでは、中国兵が主として食料品店や保護されていないウィンドウなどからこまごました掠奪を行っていましたが、それが、日本軍の将校の監視の下で店先から店先へと移る組織的破壊にとって代わられました。日本兵は、大荷物を背負って人を押分けてゆく手助けに運送人を必要としました。まず食料を求めたのですが、やがて、その他の日用品や貴重品もやられました。市内全域の無数の家が、人が住んでいようがいまいが、大小かまわず、中国人の家も外国人の家も、まんべんなく掠奪されました。次に述べるものは兵士による強盗の特に恥知らずな例です。集団捜査が行われるうちに、収容所や避難所の多数の難民は、わずかな所有物のうちからさえもお金や貴重品を奪われました。大学付属の鼓楼医院職員は直接、現金や時計を奪われ、また看護婦宿舎からもその他の所持品が奪いとられました。(これらの建物はアメリカ人資産で、やはり掠奪された他の建物と同様に、自国旗を掲げており、また大使館の布告が貼ってあったものです。)日本軍は旗を引き下ろしてから自動車や他の財産を強奪しました。

婦女強姦、陵辱の例も数多く報告されていますが、まだそれを細かに調査している時間がありませんでした。しかし次のような例は事態を示すに十分であります。私たちの外国人の友人の近くにある一軒の家から、昨日、四人の少女が兵士たちに誘拐されました。外国人たちは、市内の一般住宅から実際上放棄されてしまった場所にある、新たに到着した将校の宿舎に八人の若い娘がいるのを見ました。

このような状況下での恐怖状態は筆に尽くすことはできませんし、もの柔らかな将校たちが口にする「戦争をする唯一の目的は、中国人民を救うために圧制者である中国政府と戦うことである」という言葉を聞くと、まったく吐き気をもよおすほどです。

南京で示されているこの身の毛もよだつような状態は、日本帝国の最良の達成を示すものではないことは確かですし、これに対して責任を負う日本の政治家、軍人、一般市民が居るには違いありません。これらの人々は、ここいく日かが中国における日本の立場に及ぼした害悪を、自らの国益のためには即座に矯正することでしょう。職業軍人として日本帝国にふさわしい、紳士として振る舞った兵士や将校も個々にはおりました。しかし全体の行動はひどいものでした。


上記は次の書籍からの引用。

「南京安全地帯の記録」完訳と研究(冨沢 繁信)
http://www.amazon.co.jp/dp/4886562515




《ベイツが見た30%》

ここにあったグラフは次の記事に移動した。

《南京事件》グラフで見る城内掃討
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/baa643515716ad661f2f8193d02942b2







《関連記事》

「南京大虐殺の真相」
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/eaacb2fee7e20c9adc4799020776c9d1






改版履歴:
2017.08.19 《ベイツが見た30%》追記。
2017.09.10 紅卍字会・埋葬記録の集計ミスによる修正、に伴ってベイツのグラフを修正。
2017.12.21 ベイツの30%グラフを「《南京事件》グラフで見る城内掃討」に移動

《4》南京大虐殺・当時の情報の流れ

2015年07月19日 | 南京大虐殺
最終更新:2016.11.20



南京大虐殺についての当時の情報の流れを整理する。


《南京からの情報の流れ》





現場の記録は主に3種類。

1)南京安全区国際委員会
2)欧米人の日記(ヴォートリン、ラーベ、他)
3)日本軍(紅卍字会埋葬記録、軍法務部)


現場から派生した情報が主に3種類。

4)欧米の新聞(ニューヨークタイムズ、シカゴデイリーニュース、他)
5)ティンパーリ著『戦争とは何か』
6)『南京安全地帯の記録』(安全区国際委員会記録からの写し)

ティンパーリの『戦争とは何か』に登場する「戦死を含めて4万人」は、紅卍字会の埋葬記録の「埋葬4万3071体」が元ネタであろうと思われる。

また「市民犠牲者1万2千」は根拠無しと考える。なぜなら、紅卍字会の埋葬記録には兵士か市民かの区分がない。さらには、事件例の出典元になった『南京安全地帯の記録』には市民の犠牲者は53人しか無い。従って、「1万2千」は現場になんのつながりもない数字。「(埋葬された遺体の)30%は純粋な民間人だった」と主張するベイツの話を元に、紅卍字会の遺体埋葬記録の約4万体に30%を掛けて1万2千と算出したに過ぎないと考える。


そして、問題のレポート。

7)ベイツレポート

これは、ベイツが陥落2日後の15日に、南京を去る欧米記者たちに渡したレポートである。但し、これには日本軍の悪逆非道を描写してあるものの、犠牲者数についてのまとまった数字は記述されていない。
『南京安全地帯の記録』の13、14日の殺人事件は0件なので、ベイツ自身も市民殺害は目撃していないはず。

しかし、14日から第七連隊による安全区内での敗残兵掃蕩が開始されているので、これに伴う敗残兵処断は目撃したと思われる。但し、東京裁判の松井司令官への判決文では「市民の保護を怠った」としか書いてないので敗残兵処断は有罪にされていない。

つまり、南京大虐殺とは、「ベイツが創作した悪逆非道なイメージ+実在する少数の事件例(市民殺害犠牲者53人、他)+合法的敗残兵処断」を抱き合わせにした日本貶め宣伝工作として始まったと言ってよいと考える。


8)スマイス統計調査

さらに、上記以外の現場の数字としては、南京戦直後にスマイス博士が調査した「兵士の暴行による市民の犠牲者2,400人」などの統計調査結果がある。(関連記事

しかし、東京裁判の20万人、戦後の30万人の数字は、このスマイス統計調査の結果をも無視し、上図のいずれの数字にもつながらない。従って、これらの数字は根拠のない捏造だろうと判断する。基本的に、事件の現場である南京につながらない数字には意味が無い。




《「南京戦」から「南京大虐殺」へ》

犠牲者数の規模や戦闘の経過から見れば通常の戦争と受け取られてもおかしくなかった南京戦が、陥落から東京裁判へ向けて「南京大虐殺」と化していく流れの萌芽は、上述のように陥落直後から始まっていた。

近年の史料発掘と研究からは、以下に示すように南京戦を欧米に情報発信した主要な3名がいずれも国民党側の人物であったことが判明している。

ジョン・ラーベ(ドイツ人):独シーメンス社の中国駐在員であり、安全区国際委員会の委員長を務めた。
→1937年当時のドイツまだ日独伊三国同盟の締結前であり、蒋介石率いる中華民国政府に武器を輸出していたドイツとは深い関係にあった。

マイナー・シール・ベイツ(アメリカ人):南京の金陵大学教授で、安全区国際委員会の一員であった。
→中華民国政府の顧問であった。1938年すなわち『戦争とは何か』を分担執筆した年と、1946年すなわち東京裁判で証言をした年に、中華民国政府から勲章を授与されている。

ティンパーリ:上海で『戦争とは何か=中国における日本軍の暴虐』を著したマンチェスター・ガーディアン記者。
→彼は中国国民党中央宣伝部の顧問に雇われ、抗日宣伝のためにこの本を書いた。証拠に、中国国民党中央宣伝部国際宣伝部長曾虚白の「自伝」に「カネを渡して書いてもらった」と書いてある。


さらに、蒋介石の妻・宋美齢も南京陥落後に渡米し、米国内の反日世論の形成に向けて精力的に活動を行っている。

また、南京陥落後に中華民国の臨時首都となった重慶で国民党宣伝部の顧問を務めたセオドア・ホワイトはこう書いている。

「米国の新聞雑誌にウソをつくこと、だますこと……米国を説得するためなら、どんなことでもしてよい、(という政策が)中国政府唯一の戦略になっていた」



これらの流れが、米国での反日世論を引き起こし、太平洋戦争への圧力となり、そして東京裁判で日本の戦争犯罪の代表格として南京戦が糾弾される動きにつながっていく。






主要参考文献:

南京事件の核心―データベースによる​事件の解明(冨沢 繁信)
http://www.amazon.co.jp/dp/4886562361




《関連記事》

「南京大虐殺の真相」
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/eaacb2fee7e20c9adc4799020776c9d1






改版履歴:
2016.11.20 図をアップデートし、併せて本文も修正。


《3》南京大虐殺・数字で見る南京戦

2015年07月19日 | 南京大虐殺
最終更新:2017.12.21



南京攻略戦での中国側の人口や遺体数などの数値について考察し、全体像の数値モデルの検討を行った。



《要点》

(人口)
・戦前の南京市の人口は100万人(1937年3月時点)
・南京陥落時点の安全区の人口は20万人、城内全域で25万人
・陥落翌月の安全区の人口は25万人(ほぼ変動なし)
・陥落翌年3月下旬の南京の人口は25万〜27万人(増加傾向)
・陥落翌年5月末の南京の人口は27.7万人(増加)

(兵力と戦死)
・国民党軍の総兵力数は8万1千(譚道平記録)
・国民党軍の総戦死数は約5.0万(ただし、前項の枠外の増援なども含む)
・前項から処断数を除くと戦死数3.6万(犠牲者総数の65%)
・敗残兵の処断は約1万6千(偕行社・南京戦史)(犠牲者総数の29%)
・国民党軍の実質的総兵力10.45万以上=戦死5.0万(処断を含む)+捕虜1万+残存兵力4.45万(譚道平記録)
・処断のうち2,000は市民を誤認した可能性(犠牲者総数の4%)
・河に流された戦死体はおそらく約1万
・処断を免れた捕虜は約1万人(うち、鎮江からの退却兵7千)
・日本軍の総兵力は7万数千人、うち戦死は1,558人

(遺体処理)
・紅卍字会埋葬遺体実数は約2万3千体、うち約4,800体は城内で収容
・紅卍字会埋葬記録のうち女性と子供の比率は0.3%。城内のみでは2.6%、城外のみでは0.01%
・南京市衛生局の埋葬分約7千と併せて埋葬実数約3万
・犠牲者の46%が江上での戦死または水葬、54%が埋葬

(犠牲者統計)
・中国側の犠牲者総数は約5万5千
・南京市民(城内外)の犠牲者数は約5,400人
・うち4,000人(=74%)の市民犠牲者が陥落後の城内掃討時に発生
・城内掃討戦での犠牲者の34%が市民
・南京戦全体での中国側犠牲者総数の9.8%が市民



(関連図表)













以下に、個々の項目について説明する。



《戦前の南京の人口》

戦前の南京の人口は100万だった。

民国26年(1937年)3月末首都警察官調査によれば、男女合計 1,019,667名。内、男 608,198名、女 411,469名。(南京市政概況)


これは、金陵大学のルイス・S・C・スマイス教授による、いわゆるスマイス調査にも記されている。

The city of Nanking had before the war a population of just 1,000,000, which was considerably reduced by repeated bombings and latterly by approaching attack and the removal of all Chinese governmental organs.(CITY SURVEY/スマイス調査)


戦前の南京の人口は100万とされていたが、南京戦が近づくにつれて人口は激減した。

上海戦線の崩壊が決定的になった11月19日、国民政府は国防最高会議で、首都を重慶に移すことを決定した。既に富裕階級の避難が始まっていたが、政府機関や重要美術品の移転、要人や職員、外国人、一般市民の南京退去、逆に防衛施設の構築、兵力整備などにより街は急速に軍都化されていった。(『本当はこうだった南京事件』板倉由明)


以下は、100万人都市の南京市民のうち80万人が戦闘前に脱出し、20万人が市内に残って安全区に避難していた、という記述。

「住民の五分の四は逃げ去っていたが、残留した者の大部分は南京安全区国際委員会が設定しようとした、いわゆる『安全区』に避難していた。」(南京アメリカ大使館通信/エスピー駐南京米国副領事)


ラーベ日記の11月28日と12月6日にも「20万」の数字が登場する。

警察長官の王固盤は何度も、南京にはまだ20万人もの支那人が住んでいると説明した。彼は町に残るつもりなのか、の私の質問への答えは予想されたものだった。出来るだけ長く!ということは、彼も退去するつもりなのだ!(ラーべ日記 1937年11月28日


12月6日の方は、国民党軍のHuang大佐が「安全区などない方が我々の助けになったのに」と主張したことに対して怒っている。その中で、80万の市民が脱出したと書いている。

こんな言語道断な見解に対して、何を言うべきだったろう?この男はこれでも蒋介石の側近にある高官なのだ!要するに、お金が無い為に家族やささやかな財産を持って逃げることさえ出来ぬ人々、貧乏人は、軍隊が犯した間違いをその命で贖えと言うのだ!彼らは何故、逃亡した南京の富裕層、80万を数える市民に、ここに残る事を強制しなかったのか?何故いつもいつも、貧困に喘ぐ人々が犠牲にならねばならぬのか?(ラーべ日記 1937年12月6日


この、戦前に避難して減少した80万人の記録をもって「日本軍が殺した」と言わんばかりの中国の報道もあったが、とんでもない言いがかり。

南京大虐殺の前後、人口78万人激減=吉林省で新資料発見―中国メディア
http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=81476





《南京陥落時点の人口》

安全区国際委員会のジョン・ラーベの次の手紙から、陥落当初の安全区の人口は20万人、城内全域で25万人と見積もられる。

(第九号 日本大使館への手紙 1937年12月17日/安全地帯の記録)
貴国部隊が本市に入城した十三日、私どもは市民のほぼ全員を安全地帯という一地区に集合させていたが、そこでは流れ弾の砲弾による被害は殆どなかった。(中略)本市駐屯の日本兵の間に規律が即刻戻らない限り、二十万中国市民の多くに襲い来る餓死をどうやって防ぐのか、見当はつけにくい。(ジョン・H・D・ラーベ委員長)


スマイス調査でも陥落時点で、20〜25万人と見積もっている。

At the time the city fell (December 12-13), its population was between 200,000 and 250,000.(CITY SURVEY/スマイス調査)


次のラーベ日記から1月中旬時点(陥落1ヶ月後)では安全区の人口が25万人に増え、差分の5万人は安全区外の城内から移って来たとの見解を示している。

難民の数は今や二十五万人と見積もられている。増えた五万人は廃墟になったところに住んでいた人たちだ。かれらは、どこに行ったらいいのかわからない。(ラーベ日記・1938年1月17日)


次の事件ではその安全区に移動する難民の様子を報告している。

(事件番号80/安全地帯の記録)
12月20日。今朝7時頃、マッカラムは大学病院の夜警から帰宅途上、多くの女子供達が安全を求めて大学へ行くのを見た。各々違った場所から来た三家族は昨晩日本兵に焼け出されたと彼に語った。(マッカラム)


また、次の報告にあるように城門の通行は2月下旬まで容易ではなかったため、城外からの市民の帰還とは考えにくい。

南京特務機関資料

南京班第1回報告(1月21日提出)
又城内外の通行は食糧問題解決、城内清掃を俟つて一般に許可する予定なるか、目下は城内外にある家族との関係其の他を考慮し、城外近傍の者にのみ其の自由を若干認めあり

南京班第2回報告(2月中状況)
難民の城門の通行に関しては厳重に之を制限しありしも情勢の推移に鑑み漸次之を緩和し2月25日以降無制限通行を許可したり


さらに日本軍の側にも次のような証言もあるので、やはり陥落時点から安全区外にも多くの市民がいたと考えられる。

「市街では住民を見なかったが、大隊本部の宿舎付近の民家の奥には、各家に一〜二名住民が残っており、残した家財を見張っていたようである。本部の兵が食料徴発に行って『奥の方に人が居た』と言っていた。」(第一大隊本部先任書記・佐藤増次)


また、こちらの記事に紹介したが、南京市民の唐順山氏は陥落時点でも安全区の存在を知らずに城内を逃げ回っていた。よって、同様に安全区の存在を知らずに自宅などに隠れたり逃げ回っていた人は他にもいたと考えられる。

よって、ベイツが書いたように陥落1ヶ月後に安全区で増えた5万人とは、もともと城内の安全区外にいた人々であり、日本軍による城内掃討や『安全地帯の記録』に記された事件などに追われて安全区に逃げ込んできたものと考える方が妥当と思われる。




《生き残ったのは何人か》

南京城陥落1ヶ月後の1938年1月の安全区委員会の記録では安全区の人口は25万人とある。少なくとも、安全区は5万人増えているので、安全区の中で大虐殺が起きていたというのはあり得ない。

25万人という数字はあちこちに登場する。安全区国際委員会では避難民への食料配給の事業をしていたから、人口の把握は切実な問題だったのであろう。

第43号 日本大使館への手紙 1938年1月17日/安全地帯の記録
追伸 今朝この手紙を書いた時、昼に、一、について、日本当局が一千袋の米を自治委員会に割り当て、その配給が今朝始まったことを知りました。二十五万の需要をより適切に満たすために、これをまもなく一日一千袋の米に増量されるであろうことを信じております。(ジョン・ラーベ)

第49号 救済状況に関する覚書 1938年1月22日/安全地帯の記録
南京安全地帯国際委員会は、現在、市内に居住している二十五万の中国人の福祉のための救済委員会として活動している。これらの住民の大半(少なくとも九十%)が現在もなお安全地帯内に居住しているのは、市の他の地域では日本兵がうろついて危害を加えるのを怖れ、あるいは住む家が焼き払われる虞れがあったためである。(中略)二十五万の人々を養うには一日につき米一千六百袋は必要と見積もられる。住民は各戸の個人貯蔵食料でやっと生きているが、それも急速になくなりつつある。(L・スマイス)


次の手紙もまた25万人としている。

第54号 プリドウブリューン氏への手紙 1938年1月28日/安全地帯の記録
「南京二十五万の難民のうち、大部分の人は市内および近郊の大規模な火災のために家がありません。さらには、稼ぎ手が連行されるか殺された一家や、大変な困窮に陥っている一家などが数千とは言わないまでも数百はあります。(中略)当委員会の救済資金は勿論非常に不十分であります。我々がこの南京で手にしているのは約十万ドルで、さらに上海にもう五万七千ドルが当てにして良いと知っています。しかしこの十五万七千ドルではいま市内在住の二十五万人の困窮を救うには大したことはできません。(中略)私はそれで貴下より英国住宅基金 British Mansion House Fund から我々の事業への充当金を確保できるよう支援を賜りたくこの手紙を書いたのであります。」(ジョン・H・D・ラーベ)


少し日付が遡るが、日本軍が12月25日頃から行なった「良民証」発行を踏まえての数字も安全地帯の記録に収録されている。

第41号 福田氏への手紙 1938年1月14日/安全地帯の記録
我々は、貴軍が、十歳以下の子供、及びいくつかの地区では老人の女性を含めないで、十六万人を登録したと理解しております。すると、当市の人口は多分二十五万人から三十万人ということになります。この住民を通常の配給で養うには、一日に二千担の米(すなわち一日に一千六百袋)が必要であろう。このことから、提案された三日ごとに一千袋は、必要量の米の三分の一以下ということは明らかです。」(ジョン・ラーべ)


また、スマイス調査によれば、1938年3月下旬の時点で25〜27万、5月31日には277,000人とのことである。2月下旬に城門の通行が解禁されてから、徐々に城外からの流入(帰還)が始まったと思われる。

We venture an estimate of 250,000 to 270,000 in late March, some of whom were inaccessible to the investigators, and some of whom were passed by; 221,150 are represented in the survey.

On May 31, the residents registered in the five district offices of the municipal government (including Hsiakwan, but apparently no other sections outside the gates), numbered 277,000.(Urban Survey Tables 1/スマイス調査)



なお、次のように市民が帰還する様子も証言にある。

光華門一番乗りを果たした歩兵36連隊の西坂中さん(78)は言う。「我々の部隊は占領14日目には南京をあとにして上海に向かったが、その途中続々と南京に帰る避難民に会った。支那人はそうした情報にはすごく敏感だから逃げ足も早いが、安全とみればすぐ帰復します」と。

雑誌「改造」昭和13年3月号 松井指揮官・山本実彦対談
山本: 南京もよく行きましたね。あれほど早く陥ちるとは思ひませんでした。
松井: 実は僕らも、もう二週間ぐらいは後になるだらうとおもっていたが、案外に早かった。蒋介石の教導総隊だけは相当に抵抗をつづけたが、後はたいした抵抗をしなかった。だから南京は都合の好いことには余り破壊されていない。蘇州も十分の一位しか壊れていないが、占領地域の人民の帰って来るまでにはやはり一月位はかかるだらうね。今でも一日に六百人位は帰って来るとか云ふ話だ。


上記の雑誌は3月号だから、2月頃の発言かと思われるが、600人/日、つまり1万8千人/月のペースで市民が戻っていると発言している。但し、文脈から南京の話なのか蘇州の話なのか判断がつかない。

また、処断されずに収容された捕虜は約1万人ほどで、その半数は1937年12月末に労務者として上海に送られ、残りは1940年に発足した汪兆銘の南京政府軍に編入された、という記録がある。
既出のように「堯化門付近で投降した俘虜7200名」が捕虜1万の一部になったと思われるが、それ以外に安全区から摘出した敗残兵の一部も処断されずに捕虜となった。




《国民党軍の規模》

守備する国民党軍の兵力数は、次の史料により8万1千人と記録されている。

『南京衛戍戦史話』(南京衛戍司令長官部参謀処第1科長・譚道平)

なお、総兵力は8万1千、うち戦闘兵が4万9千、雑兵が3万2千とされる。
また、損失兵力は3万6,500人、残存兵力が4万4,500人、とのこと。


上の数字は次のサイトからの引用。

南京虐殺(7-1)/殺害数の上限を知っておくために(その1)

http://home.att.ne.jp/blue/gendai-shi/nanking/nanking-jiken-7-1.html


また、偕行社の『南京戦史』では、《南京戦における中国軍兵力7.6万人。その内訳は、戦死約3万、生存者(渡江、突破成功、釈放、収容所、逃亡)約3万、撃滅処断約1.6万。》と算定している。これは南京衛戍軍戦闘詳報などを元に、各部隊の数字を積み上げる算定方法を取っている。


これに対して今回の試算では、戦場で生じた遺体数を数える方法を取っており、ここからスマイス調査で判明している市民犠牲者数を差し引いて戦死数を算定している。これによると中国側の戦死総数は約5.0万(敗残兵処断を含む)である。ただ、これに捕虜1万を加えると約6.0万。譚道平記録の損失兵力3.65万を約2万以上超えてしまう。

この差分については、他地区からの増援部隊がいたことや、そもそも上海からの追撃戦で日本軍に追われながら南京にたどり着いた国民党軍は首都防衛軍のカウントに入っていない可能性もあり、さらには元々南京は後方の補給基地でもあったために傷病兵等も多かったことから、譚道平記録の枠外からの兵力もいたものと解釈する。

12月14日、堯化門付近で投降した俘虜7200名について、第十六師団司令部副官・宮本四郎氏は、揚子江南岸の鎮江という市街(南京東方60km)の陣地から退却した部隊が南京に入ろうとしたものの既に陥落していたために帰る所がなくなり、やむなく投降したのではないか、と推測した。(「証言による『南京戦史』5」からの要約)

「南京は11月下旬より遠く東南戦線の戦死死傷者の収容所となり、移転せる政府機関、個人の私邸まで強制的に病室にあてられ、全市医薬の香がび漫したる状態なり。これにより生ぜし死者もまた少なからず…」(第13師団参謀長中津三夫大佐/東京裁判)


「もはやどこに行っても、規律の解体と無秩序が支配していた。南京駅に二千人の負傷者を乗せた汽車が到着したが、誰も見向きもしなかった。看護兵も付き添っていなかった。負傷兵たちは二日間も放置された後、その二日間に死んだ者と一緒に降ろされ、駅のホームに並べられた。死骸が空気を汚染し、悪臭を放った。」(リリー・アベック記者による11月29日の様子)





《日本軍の規模と損失》

南京攻略戦に参加した日本軍は、松井石根大将を司令官とする中支那方面軍(当時の名称)と、その指揮下にあった上海派遣軍および第10軍で、総兵力は7万数千名とされる。
なお、偕行社の『南京戦史』では、南京攻略戦における日本軍の戦死は1,558人、戦傷者は4,619人と算定している。




《犠牲者数の内訳》

算出した数値は次の通り。犠牲者総数54,909-。

1. 江上戦死または水葬 25,000-
 1.1 新河鎮の激戦(45連隊) 7,000-
 1.2 下関江上戦(33連隊/第三艦隊) 3,000-
 1.3 処断(33連隊処断分等4,000を除く) 12,000-
 1.4 下関の地上(工兵が水葬) 3,000-

2. 埋葬 29,909-
 2.1 紅卍字会(水葬を除く) 23,234-
 2.2 衛生局(紫金山周辺) 3,200-(三千余、を3,200に換算)
 2.3 衛生局(宝塔橋他) 3,575-


各数値の詳細は次の記事を参照。

《南京事件》犠牲者数の一覧と論拠
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/d970ae18fbcd6ea40e68a22a5d24d01a


紅卍字会の埋葬記録については次の記事を参照。

《南京事件》紅卍字会埋葬記録の検証
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/c9f414da142a782a28bc89d8db538f6b


市民犠牲者の詳細については次の記事を参照。

《10》南京大虐殺・市民の犠牲者数
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/0896042f8ddf1f5a0843c743f6300451




《試算方法の補足》

上述の試算をどのように行ったかが若干わかりづらいかもしれないので、基本的な考え方を以下に示す。

下図はいわゆるMECEの図になっている。南京戦の開戦当時に南京城内外(ただし都市部)にいた全ての中国人がこの図のどこかに含まれる。各記録などで判明している数字をこの図に当てはめていくと、上述の数字が導き出される。

数字は概数なので誤差はある。だが、万単位の数字を捕捉し損ねているとはとても思えないのである。









《関連記事》

「南京大虐殺の真相」
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/eaacb2fee7e20c9adc4799020776c9d1






改版履歴:
2017.08.19 紅卍字会の数値解釈変更に伴う修正。
2017.08.28 紅卍字会「水葬」判定基準変更による修正。
2017.12.21 戦前の人口について加筆。

《2》南京大虐殺・記者たちの証言

2015年07月19日 | 南京大虐殺




南京戦を戦った日本軍には、150名を超える記者らが従軍していた。朝日新聞記者80名、毎日新聞記者70名他、報知、読売、同盟通信、新愛知新聞、福岡日々新聞、都新聞、福島民放、などの記者。さらに作家、詩人、評論家、画家など。

南京城内の広さは東京・世田谷区より狭く、山手線の2/3以下の面積しかない。150名の記者を南京城内に均等に配置すれば1km四方に約3.8人の記者がいたことになるくらいだから、記者に見つからずに大虐殺を行うことは難しい。

陥落時の南京城内には欧米の記者5名がいたが、陥落2日後の12月15日に南京を出立しているので、大虐殺があったとされる陥落後の数週間は目撃していない。

この記事では、日本側の従軍記者らの証言を列挙する。見ればわかるように、誰も「虐殺」を見ていない。一部の記者が、敗残兵の処刑に憤慨しているのみである。ここからわかることは、敗残兵の処刑は目撃したが記者らはそれを「戦闘の延長」と見なしていて「虐殺」と認識していないということである。そして、市民の虐殺についての目撃証言はひとつもない、ということである。

また、敗残兵の処刑については別記事に示すように、東京裁判での松井司令官への判決文には「市民の保護を怠った」としか書かれていないことや、敗残兵処断を実行した各部隊の師団長や連隊長クラスにはこれを罪を問われた戦犯は誰もいないので、違法行為だったとは断定できない。




「南京の事件ねえ。全然聞いていない。もしあれば、記者の間で話にでるはずだ。記者は少しでも話題になりそうなことは互いに話にするし…それが仕事だからね。噂としても聞いたこともない。朝日新聞では現地記者ばかり集めて座談会もやったが」(朝日新聞上海支局次長・橋本登美三郎)

「わしが朝日新聞の編集局長であった時だ。南京に特派した記者達を集めて、南京に虐殺事件があったとかどうとか噂を聞くが、本当はどうだ?と、一人一人に聞いてみた。全然その様なことは見たことも聞いたこともありません、というはっきりした返事だった」(細川隆元)

「ここ(南京)には1ヶ月ほどいましたが、戦後言われているような事は何も見ていなければ、聞いてもいません。ですから虐殺があったと言われていますが、あり得ないことです。松井大将が絞首刑になったのも不思議でしょうがないのです」(東京日々新聞カメラマン・金沢善雄)

「私は南京をやたら歩いていますが、虐殺を見たことがなければ、兵隊から聞いたこともありません。虐殺があったなんて、あり得ないことです。死体はたくさん見ています。敗残兵がたくさんいましたし、戦争だから撃ち殺したり、殺して川に流したことはあるでしょう」(東京日日新聞・金沢喜雄カメラマン)

「わたしが南京で大虐殺があったらしいとの情報を得たのは、南京が陥落して3ヶ月後のこと。当時、軍による箝口令(かんこうれい)が敷かれていた訳ではない。なぜ今頃こんなニュースが、と不思議に思い、各支局に確認をとったが、はっきりしたことはつかめなかった」(読売上海特派員・原四郎)

「自分が南京戦を終えて上海に帰り、しばらくすると、南京に虐殺事件があったらしいといった噂を耳にした。おどろいて、上海に支局をもつ朝日や読売や同盟など各社に電話を入れてみた。どの社も全然知らぬ、聞いたこともないと言う」(東京日々新聞特派員・五島広作)

同盟通信のなかで虐殺というようなことが話題にならなかったですか?「なりませんでした。その頃、敗残兵や便衣隊がよくいて、それをやる(処刑)のが戦争だとおもっていましたから」(同盟通信映画部カメラマン・浅井達三)

「自転車を持っていたので、毎日あっちこっちに行きました。第一そういう形跡(虐殺)を見たことがありません。中山陵など荒らされていないし、きれいでした。やらなきゃこっちがやられるからやったのを虐殺といっているのだと思います」(読売新聞技師・樋口哲雄)

「城内はどの家も空き家で、物音一つしない死の都市でした。犬、ネコの姿一つ見うけられず、不気味な妖気が漂い、街路は激戦の跡とも見うけられない、整然とした街並みで、びっくりしてしまいました」(12月13日に入城した都新聞・小池秋羊記者)

「12日12時にはじめて城壁を占領し、13日、一部城内に入りました。私もこの時、第13連隊から選抜した部隊と城内に入りました」「13日、14日は城内掃蕩で、残虐行為などありません」(日本軍と共に入城した大坂毎日新聞の五島広作記者)

朝日新聞の南京特派員であった足立和雄氏は、“虐殺目撃者”として名乗り出た朝日新聞の記者・今井正剛氏について、畠中秀夫氏にこう答えた。「あれは自分で見て記事を書く人ではなかった。人から聞いたことを脚色するのが上手かった」朝日新聞の森山喬氏も同様のコメントをしている。

「敗残兵探しの時は難民も動揺していましたが、一般に平静でした。また食糧が無く飢餓状態で、食糧をくれと我々にすがりつく人もいました。私たちの宿舎には米が何俵もありましたので、難民区のリーダーを宿舎に連れていき、米や副食品などを大八車2台分やりました」(都新聞記者・小池秋羊)

「いわゆる“南京大虐殺”というのは、主として住民婦女子を虐殺したものだ。ところが住民婦女子は(全部)「難民区」内にあって、日本の警備司令部によって保護されていた。そして私の所属していた同盟通信社の旧支局はこの中にあって、取材活動をしていた」(特派員・前田雄二)

「14日のことだと思いますが、中山門から城門に向かって進んだ左側に蒋介石直系の88師の司令部がありました。飛行場の手前です。ここで、日本兵が銃剣で中国兵を殺していました。敗残兵の整理でしょう。これは戦闘行為の続きだと思います」(東京日日新聞カメラマン・佐藤振寿)

南京事件を聞いたのは?「戦後です。アメリカ軍が来てからですから、昭和21年か22年頃だったと思います。NHKに『真相箱』という番組があって、そこで南京虐殺があったとの放送を聞いたのがはじめてだったと思います」(南京攻略戦に同行した東京日々新聞カメラマン・佐藤振寿)

「住民は敵意を持っていなかったし、日本兵を怖がってもいなかったと思います。逆に、便衣隊がいましたので日本兵の方が中国人を警戒していました」(読売新聞上海特派員・森博)

「捕虜を捕らえたが、捕虜にやる食糧がないし、収容する所がない。放してもまた兵隊になる。それで困って(処刑を)やったと言っていました・・・下士官が単独でやったと思います。分隊長クラスの下士官です」(読売新聞上海特派員・森博)

「南京にいる間(虐殺を)見たことがありません。戦後よく人から聞かれて、当時のことを思い出しますが、どういう虐殺なのか私が聞きたいくらいです。アウシュビッツのように殺す場所がある訳でもないですからね、私が虐殺の話を聞いたのは、東京裁判の時です」(報知新聞カメラマン・二村次郎)

「虐殺事件に関しては、守山(義男)君が船着場で中国兵を射殺するところを見たといって憤慨していたので、よく憶えている。守山君は中国語ができたので、いろいろ面白い記事が送れたようだ。しかし、その話以外虐殺については聞いていない」(東京朝日新聞記者・平松儀勝)

「揚子江岸に夥しい中国兵の死体の山が連っている。千は越えていた。2千に達するかもしれない。1個部隊の死体であった。城内に戻って、警備司令部の参謀に尋ねてみた。少数の日本部隊が、多数の投降部隊を護送中に逆襲を受けたので撃滅した、というのが説明だった」(同盟通信記者・前田雄二)

「犠牲が全然なかったとはいえない。南京に入った翌日だったから14日だと思うが、日本の軍隊が数十人の中国人を射っているのを見た。塹壕を掘ってその前に並ばせて機関銃で射った。場所ははっきりしないが、難民区ではなかった」(東京朝日新聞記者・足立和雄)

「十三日に、中山門から城内に入りました。もうこの日は、難民区の近くの通りでラーメン屋が開いていて、日本兵が十銭払って、食べていました。それと、中国人の略奪が続いて、中山路で机を運んでいる中国人や、店の戸をこじ開け盗んでいる者もいました」(東京日日新聞カメラマン・佐藤振寿)

「十六日は、中山路で難民区から摘出された便衣兵の写真を撮っています。中山路いっぱいになりましたが、頭が坊主の者、ひたいに帽子の跡があって陽に焼けている者とか、はっきり兵士と分かる者を摘出していました。でも髪の長い中国人は、市民とみなされていました」(東京日日新聞・佐藤振寿)

「日本兵の屍体は撮ってはいけないと言われていましたが、私は何でも撮りました。日本兵が残虐なことをやっている写真なんか一枚もありません。この中には日本兵が慰問袋を中国人にわけてやってるのがありますが、たくさんの中国人が群がっている、そんなものもあります」(東京日日新聞・佐藤振寿)

「朝日新聞が『中国の旅』という連載で、南京で虐殺があったと、中国人の話を掲載していましたが、そのころ日本には、当時南京にいた人がたくさんいるわけです。それなのに、『何故日本人に聞かないで、彼らに都合のいい嘘ばかりのせるのか』そう思いました」(東京日日新聞カメラマン・佐藤振寿)

「13年春(=1938年春)から3年以上も南京に駐在し、取材に当たっていた私が、ついぞそういった風聞(=虐殺)も聞いたことがないのですからね。私も東京裁判でこのことを初めて知った組です。私は“南京虐殺”など、信じません」(当時、上海・南京に特派された従軍記者・小山武夫、後に中日新聞役員・中日ドラゴンズ社長等を歴任)




《関連記事》

「南京大虐殺の真相」
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/eaacb2fee7e20c9adc4799020776c9d1

《1》南京大虐殺の真相(要約版)

2015年07月19日 | 南京大虐殺
お知らせ:gooブログ終了に伴い、この記事は「はてなブログ」に引っ越します。


《1》南京大虐殺の真相(要約版)
https://zfphantom.hatenablog.com/entry/2015/07/19/191109




最終更新:2018.11.24




検証が進むと共に一連の記事がかなりの量になってきたので、これひとつで全容が把握できる要約版として全面的に書き換えた。



《導出した試算結果》

本考察による南京戦での中国側犠牲者数(=いわゆる戦没者数)の試算結果は次のように要約できる。

1)スマイス調査により、南京戦の都市部(城内+城門外)での市民犠牲者が3,400人。
2)同じくスマイス調査により、市民の拉致(=行方不明者)約4千人のうち、半数を戦没者として2千人。
3)国民党軍の規模は8~10万と諸説あるが、壊滅的敗戦であったから半数を戦没者として約5万人。(敗残兵処断を含む)

以上の3項目を合計して約5万5千人。そのうち、市民犠牲者が約5,400人。

なお、上記の数字は最初からそう決めつけていたわけではなく、以下および関連記事のように考察を積み上げた結果、そこに落ち着いたということである。




《探求のコンセプト》

1937年12月、当時の中華民国の首都・南京に日本軍が攻め入った時に“30万人の大虐殺”をしたとして今でも一部方面から糾弾されている。
このいわゆる「南京事件」または「南京大虐殺」については、歴史家や研究者によって虐殺犠牲者数もまちまちである。

中国側が“犠牲者数30万人”と主張しているものだから、一部の論者はそれに少しでも近づくように当時の南京市民や中国軍の陣容を実在する記録以上に増やしたり、対象エリアを上海から南京への進軍路まで広げたりするなど、詭弁を弄しているようにすら見える。

そこで、後世の論者の主張は基本的に無視して、南京戦の当時の記録と、そこにいた関係者の証言を重視して人的被害を算定するとどうなるか、に取り組んだのがこの一連の記事である。

なお、この一連の記事を読んでもらえばわかると思うが、私はこの探求では自分の考えや価値判断を極力入れ込まないようにした。なにしろ、この南京戦では、南京市民25万人、国民党軍8万人、日本軍8万人、その他にも欧米人や従軍記者など、合計40万人以上もの人々が現場にいたのである。その人たちが語ったこと、記録したことに基づいて、事実を再構成するのがベストであろう。




《源流の記録》

実は南京戦の直後から“南京大虐殺”報道の萌芽が見えている。その情報の流れは概略として下図の通り。






その中でも、この一連の考察でもっとも重視したのは、南京の現地で記録された次の3史料。それ以外の派生史料はプロパガンダ色が強くなっていく。


(1)スマイス調査

これは、南京陥落3か月後から金陵大学(現南京大学)のルイス・スマイス教授が、市民の被害状況を統計調査した記録である。この記録によれば、南京(都市部)の市民犠牲者は3,400人である。しかし、“犠牲者数30万人”には程遠い記録であるためか、より多い虐殺数を主張する論者ほど、この南京戦直後に行われた貴重な統計調査を無視する傾向がある。

原文は次の語句を検索するとすぐ見つかる。
War Damage in Nanking Area, Dec.1937 to March 1938, Urban and Rural Surveys


(2)紅卍字会の埋葬記録

南京を占領した日本軍は、特務機関を通して現地の赤十字に似た組織の「紅卍字会」に遺体の埋葬作業を委託した。記録上の埋葬数は4万3千だが、紅卍字会への委託を担当していた特務機関員の丸山進氏の述懐に基づいて検証したところ、一部が水葬と思われることもわかった。それを除外すると埋葬実数は2万3千。そして、女性と子供の割合はわずか0.3%にすぎない。

紅卍字会の埋葬記録は、以下の東京裁判に提出された資料がある。

法廷証番号326: 世界紅卍字会南京分会救援隊埋葬班埋葬死体数統計表
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10273906/1


(3)南京安全地帯の記録

燕京大学の徐淑希教授は、南京市民を保護していた南京安全区国際委員会が作成した日本軍への抗議文書を収集し、1939年に「南京安全地帯の記録」を発行した。これによると、南京陥落後に26件の殺人(53人の犠牲者)、175件の強姦、131件の窃盗、その他の事件があったとされる。
日本語ではこの書籍で読める。《「南京安全地帯の記録」完訳と研究

ただし、南京日本大使館勤務の外交官捕・福田篤泰氏によれば、当時の国際委員会に次々駆け込んで来る中国人からの強姦事件等の通報を、被害者聴取や現場検証もせずに記録していくフィッチ神父らの行動に異議を唱え、実際に現場検証してみると被害者もいなければ人が住んでいる様子もないと報告しているので、全てが事実とも限らない。




《数字で見る南京戦》

上述の記録や当時南京にいた関係者の証言などを照合しながら、犠牲者数の試算モデルの作成を進めたところ、見えてきたのは次のような結果である。
なお、ほぼ全ての数字の論拠は一連の記事に提示してある。一部は推測値だが、なぜその数値を選んだかの理由も記した。


(人口)
・戦前の南京市の人口は100万人(1937年3月時点)
・南京陥落時点の安全区の人口は20万人、城内全域で25万人
・陥落翌月の安全区の人口は25万人(ほぼ変動なし)
・陥落翌年3月下旬の南京の人口は25万〜27万人(増加傾向)
・陥落翌年5月末の南京の人口は27.7万人(増加)

(兵力と戦死)
・国民党軍の総兵力数は8万1千(譚道平記録)
・国民党軍の総戦死数は約5.0万(ただし、前項の枠外の増援なども含む)
・前項から処断数を除くと戦死数3.6万(犠牲者総数の65%)
・敗残兵の処断は約1万6千(偕行社・南京戦史)(犠牲者総数の29%)
・国民党軍の実質的総兵力10.45万以上=戦死5.0万(処断を含む)+捕虜1万+残存兵力4.45万(譚道平記録)
・処断のうち約2,000は市民を誤認した可能性(犠牲者総数の4%)
・河に流された戦死体はおそらく約1万
・処断を免れた捕虜は約1万人(うち、鎮江からの退却兵7千)
・日本軍の総兵力は7万数千人、うち戦死は1,558人

(遺体処理)
・紅卍字会埋葬遺体実数は約2万3千体、うち約4,800体は城内で収容
・紅卍字会埋葬記録のうち女性と子供の比率は0.3%。城内のみでは2.6%、城外のみでは0.01%
・南京市衛生局の埋葬分約7千と併せて埋葬実数約3万
・犠牲者の46%が江上での戦死または水葬、54%が埋葬

(犠牲者統計)
・中国側の犠牲者総数は約5万5千
・南京市民(城内外)の犠牲者数は約5,400人
・うち4,000人(=74%)の市民犠牲者が陥落後の城内掃討時に発生
・城内掃討戦での犠牲者の34%が市民
・南京戦全体での中国側犠牲者総数の9.8%が市民


(関連図表)











《この試算モデルの特長》

上図で提示した試算モデルの特長は次の通りである。

1)南京戦に関与した当事者が記録あるいは算出した数値に従っている。
2)埋葬遺体数については、紅卍字会の記録と南京市衛生局の数字を用いている。崇善堂の記録については捏造と断定した。
3)市民犠牲者数についてはスマイス統計調査の数字に準拠した。
4)ベイツは「犠牲者の30%は純粋な民間人だった」と主張したが、城内では試算の結果そうなっている。
5)ヴォートリンは日記に「市内埋葬の80%が市民」などと書いたが、検証の結果、数字的に整合している。
6)いわゆる大虐殺肯定派が提示する証言に出てくる犠牲者数も幅広く収集し、試算に盛り込んでいる。一部で言われている日本兵の暴虐行為が仮に本当だったとしても、犠牲者数が極端に多くなければ、この試算モデルと整合する。
7)偕行社の『南京戦史』では、《南京戦における中国軍兵力7.6万人。その内訳は、戦死約3万、生存者(渡江、突破成功、釈放、収容所、逃亡)約3万、撃滅処断約1.6万。》と算定しているが、全く独立のアプローチをしたこの試算モデルでも戦死3.6万となり、やや多いものの近い数字。
8)『岡村寧次大将陣中感想録』に《南京攻略時に於て約四、五万に上る大殺戮、市民に対する椋奪、強姦多数ありしことは事実なるか如し》との記述があるとのことだが、この試算でも南京戦での中国側犠牲者総数を5.5万と見積もっているので、概ね近い数字。
9)ラーベは、陥落翌年の1938年6月8日付け『ヒットラー宛の上申書』にて、《中国側の申し立てによりますと、十万人の民間人が殺されたとのことですが、これはいくらか多すぎるのではないでしょうか。我々外国人はおよそ五万から六万人と見ています。》と書いているが、「民間人」はさておき、南京戦での中国側犠牲者総数としてなら、この考察での試算5.5万と整合している。
10)『戦史叢書 支那事変陸軍作戦<1>』にも《当時の日本軍は、南京付近防衛の中国軍を約10万と判断し、昭和12年12月18日「敵の遺棄屍体は8、9万を下らず、捕虜数千に達す」と発表したが、翌年1月「敵の損害(死傷者)は約8万、うち遺棄屍体は約5万3,874」と算定した。》とあり、これもまたこの考察での試算5.5万と整合している。

以上のように、本考察での試算モデルは南京戦に関して知られている多くの記録や証言などと無理なく整合し、数字の辻褄合わせのための新説を必要としない。


なお、試算にあたっては、次のような考え方(MECE)に基づいて、極力モレとダブリが生じないように留意した。理論上は、南京戦の時点で南京にいた全ての中国人がこの表のどこかに含まれる。






《日本側関係者の認識》

日本軍には、150名を超える記者らが従軍していた。一連の記事ではその従軍記者らの証言も紹介している。
しかし、読めばわかるように、誰も「虐殺」を見ていない。一部の記者が、敗残兵の処刑に憤慨しているのみである。ここからわかることは、敗残兵の処刑は目撃したが記者らはそれを「戦闘の延長」と見なしていて「虐殺」と認識していないということである。そして、市民の虐殺についての目撃証言はひとつもない、ということである。

陥落後の南京に進入した日本軍将兵らも同様の証言をしている。陥落時に数千人の中国兵が軍服を脱ぎ捨て、市民を保護している安全区に潜伏したために、そこから敗残兵を摘出する作業と、それらの敗残兵処断はしたが、市民の虐殺をしたとか見たとかという話は出てこないのである。
また、昭和59年頃に、南京戦に参加した元日本兵らが自ら南京戦を振り返った「証言による『南京戦史』」にも、捕虜あるいは敗残兵数千人規模の処断について行き過ぎな行為があったものの、市民の虐殺等は断じて無い、と書かれている。




《掃討と敗残兵誤認》

しかし、市民犠牲者数の数字を検証する過程で見えてきたことがある。

この試算モデルでは、市民犠牲者5,400人と算定したが、その中でも「掃蕩時の殺害」と「敗残兵摘出時の誤認による処断」の2項目で4,000人程度の犠牲者を出していて、市民犠牲者総数の74%を占めている。

「掃蕩時の殺害」には、東京裁判でマギー牧師が自身の唯一の殺人の目撃談として証言したような「怪しい中国人がいたので日本兵が声を掛けたら逃げ出したので撃った」というような事例や、ベイツレポートにある「恐怖と興奮にかられて駆け出す者、日が暮れてから路上で巡警に捕まった者は、だれでも即座に殺されたようでした」なども含まれる。そのような市民犠牲者数が2,000人。この数字はスマイス調査に依拠している。

そして、「敗残兵摘出時の誤認による処断」についても2,000人を計上した。
これは、スマイス調査における「拉致(taken away)」4,200人について、「これは兵士による殺害に大きな影響を与えなければならない」というような記述をしていることから、その行き先として見えてきたものである。
裏付けとして、ヴォートリンは「敗残兵と誤認された市民釈放の嘆願書への署名者が千人になった」と日記に書いている。
計上した2,000は、スマイス調査の拉致4,200とヴォートリンの署名者千人の間の数字として採用した。

ただ、このような不幸な事態(敗残兵誤認による処断)が生じた理由は、日本軍の不手際だけとは限らない。そもそも、陥落時の混乱の中で、数千人規模の中国兵が降伏もしないまま軍服を脱ぎ捨て市民の衣服を奪うなどし、安全区その他に潜伏したのが最大の原因である。




《見えてきた核心》

上記の考察が正しければ、従軍記者や日本軍将兵らに虐殺の認識が皆無であるにもかかわらず、敗残兵摘出の混乱の中で夫や息子*aを殺されたり拉致されたりした一部の市民や、それらを目撃した安全区国際委員会の関係者などに、6,670人*bの敗残兵の処断(従って、その一部に誤認された市民が含まれている)の光景と重なって、"大虐殺"という心象*cをもたらしたのではないかと推察できる。

*a 埋葬記録によれば遺体の99%以上が成人男性。
*b 第七聯隊が12月14〜16日にかけて安全区から6,670人を捕捉し、処断。
*c 人口22万人の渋谷区から3日間で男性6,670人を強引に連行する状況を想像すればわかるだろう。


そして、スマイス調査によれば、南京の平均的家族構成は4.7人とのことだから、掃討と敗残兵誤認により夫や息子を失った家族が4,000あるとするならば、それは家族数全体(53,200家族*d)の7.5%に相当する。

*d 市民人口25万として。

そうであれば、掃討と敗残兵誤認で災難を被ることがなかった大多数の市民ら(92.5%)は、陥落から1週間が過ぎた頃には日本軍将兵らに敵意や恐怖感を抱くことなく、平穏な、あるいは親しげな姿を見せて日本軍将兵らと共に写真に撮られていることも説明がつく。もし、市民への無差別虐殺があったなら、そのような写真が撮られるはずがない。

また、掃討と敗残兵誤認で約4,000人というような桁の市民犠牲者が出たにもかかわらず「南京安全地帯の記録」には殺人26件(犠牲者53人)しか記録されなかったことも説明がつく。即ち、敗残兵の摘出そのものは適法な戦争行為として国際委員会も認めざるをえない状況で、例えば逃走しようとして射殺されたり、誤認により連行されて処刑されてしまったとしても、どれが不法行為(=抗議すべき事案)であるか国際委員会としても判別がつかなかっただろうし、全容も把握できなかっただろう。そして、その大混乱の様子は、「安全地帯の記録」の事件記録の方ではなく、陥落から数日間の日本大使館への手紙の文面に現れている。

その一方で、安全区国際委員会などの欧米人らの一部が、実は中国国民党の顧問であったことが研究者らの発掘で明らかになっている。従って、南京陥落直後から上述の背景情報をベースに、プロパガンダとして偏向された情報が欧米等のマスコミに発信され始めたと解釈することができる。




《犠牲者数はもっと多いはずではないのか》

今回の試算を行うにあたっては、いわゆる大虐殺肯定派が提示している証言による犠牲者数も把握できる限りにおいて幅広く取り込んでいる。万単位の数字を捕捉し損ねているとは思えない。

また、大虐殺があったとの説に合わせるならば、上の試算のほぼ全ての数字を何倍にも増やさないといけなくなるが、ここまで南京戦の細部が見えてくるとさすがにそれは不可能としか思えない。

さらに、スマイス調査に基づいて「兵士の暴行による市民の犠牲者」を南京が位置する江寧県全体にまで広げたとしても、最大15,760人である。このように、現地で記録された統計に基づく限り、たとえ戦死者までカウントしたとしても中国が主張するような“30万人の犠牲者”は全くありえないのである。

机上の空論で大虐殺説を創作するならば、例えば城外で20万人以上の市民を殺戮し遺体を全て河に遺棄するというのは理屈上はあり得ても、日本軍の工兵部隊が河岸の遺体(約3千体)を河に水葬する際にも相当の時間(15日間)を費やしているので、20万人殺戮と遺体処理を従軍記者や安全区の欧米人らの誰にも知られずに完遂することは不可能である。

なお、一部の大虐殺肯定派は、上海から南京への進軍途上での犠牲者数も含めているが、この考察では含めていない。考察対象は、12月10日の南京総攻撃開始以降に戦域となったエリア内で生じた犠牲者数のみを対象にしている。

そもそも、元々の南京事件とは、陥落後の約6週間もしくは最大で2か月の間に南京城で起きたことを指している。また、中国が建立している「"南京大屠杀"遇难同胞纪念碑」も南京城周辺だけで約30万人の犠牲者数を碑文に記している。




《大虐殺と言えるのか》

今回の試算では、中国側は敗残兵処断も含めて戦死が5万人、市民犠牲者が5,400人であり、犠牲者総数の約9.8%が市民である。

これに対して、太平洋戦争時の沖縄戦では、日本軍の戦死9.4万、沖縄県民の犠牲者9.4万。市民犠牲者比率50%。
第二次大戦末期の、ソ連軍によるベルリン陥落時には、ドイツ軍戦死17万、ドイツ市民の犠牲者15万。市民犠牲者比率47%。
イラク戦争では、イラク軍の戦死3.7万、イラク市民の犠牲者11万。市民犠牲者比率75%。

また、中国の事例でいえば、1948年の長春包囲戦で中国国民党軍に守られた長春を中国共産党の人民解放軍が兵糧攻めにし、数十万の餓死者を出したとも言われる。

従って、時代も状況も違うが、一国の首都を制圧する地上戦としては、南京戦は市民の犠牲者は比較的少ない戦争だったのではないかと考える。

また、紅卍字会の記録で見ると埋葬遺体における女性と子供の比率が0.3%にすぎないこと、そして市民犠牲者の大半が敗残兵の摘出と処断に関連することも併せて考えると、いわゆる“ホロコースト”のような組織的大虐殺があったとは言えない。

東京裁判での松井司令への訴因54(虐殺の実行、命令、授権、許可)が無罪判決だったことも、それを裏付ける。そして、その松井司令の弁護側最終弁論でも次のように述べられている。

このような厳粛真摯な覚悟をもって隷下の将兵を指揮した(松井)大将が、検察側が主張する如く、部下に対して、住民を不法に鏖殺(おうさつ=みなごろし)することを命じ、なさしめ、許したとか、法規慣例に違背する行為を命令し、授権し、かつ許可した(注・起訴状中の関係訴因の文言)という数々の不法行為を部下をしてなさしめることは、想像さえ出来ないことである。畢竟(ひっきょう=結局)これは、前に示した悪宣伝が先入主となった謬見誤断である。
これを要するに所謂「南京掠奪暴行事件」なるものの真相を具(つぶさ)に究明すれば、南京陥落に際し中国兵が行った破壊的行為、中国要人の戦場放棄により生じた無政府状態の下に跳梁した不逞市民の犯罪行為、これに加えるに、中国軍民の執拗極まりない侮日思潮と、常規を逸した敵対行動に憤慨した日本軍の速断行動、物資に窮した日本軍の徴発行為および、国籍を超えた性的交渉等について、戦乱時の恐怖心に駆られた群集心理に基づいてあるいは捏造され、あるいは誇張された噂話が、折柄、抗日侮日に熱狂した中国人とこれを支持した第三国人等によって、針小棒大に全世界に宣伝されたのである。そうであればこそ、当時南京攻略に従軍し、かつその後同地に滞在して事情に精通した真面目な日本軍の将兵は、終戦後初めてアメリカ側より以上のような宣伝報告を聴き唖然とした旨、本法廷で幾多の証人が証言したのである。
(弁護側最終弁論/「南京大虐殺」はこうして作られた―東京裁判の欺瞞


また、合計約1.6万の敗残兵を処断した部隊、すなわち第九師団歩兵第七連隊、第十六師団歩兵第三十三連隊、第十六師団歩兵第三十旅団、第百十四師団歩兵第六十六連隊、第十三師団歩兵第六十五連隊の師団長、旅団長または連隊長クラスで、敗残兵処刑の罪で戦犯に問われた人はいない。

個別の殺害場面では日本兵による「不適切な殺害」があったことは否めないものの、それは歴史上のほとんどの戦争に見られる一部の兵士や部隊の暴走や過失であって、南京戦そのものが世界の戦争史の中で特異なものとして語られるほどの異常性は感じられない。

さらに言えば、退却する中国兵が市民を虐殺した事例も報告されている。市民の犠牲の全てが日本軍の行為に起因するものではない。




《混乱する論争と本考察の結論》

それにもかかわらず、南京論争がなぜこれほど長期間にわたって混乱しているのかというと、それは論者によって見ているポイントが異なるからである。

下図は、この一連の考察によって算出した中国側犠牲者数の推移を簡略的にグラフ化したものに、主な論者がどこを見ているのかを重ね合わせた。


城外戦死:城外での戦死。
処断  :戦闘中に行った敗残兵の処断、および幕府山事件の犠牲者。
城内戦死:陥落日までの城内戦死、および陥落後の城内掃討での中国兵の戦死。
便衣兵 :陥落から数日間の城内掃討で捕縛され、城門外や揚子江岸で処断された敗残兵。
市民犠牲:陥落までの犠牲者、陥落後の掃討時の巻き添え、敗残兵と誤認されて犠牲となった市民。

※グラフに用いた数値はこの一連の考察で算定したものだが、犠牲の発生日は必ずしも定かではないので、わかる範囲で大まかに割り振っている。


特に実態との乖離が甚だしいのは、中国が主張する"30万人"である。これは「"南京大屠杀"遇难同胞纪念碑」にもあるが、大半が戦死なのにそれらも区分することなく計上し、さらに埋葬数などを二重計上した上ですべての合算を“南京大屠杀”としている。

また、図中には書き加えなかったが、敗残兵処断の生々しい描写を列挙することで“大虐殺”を主張している論者も見られる。

しかし、この21世紀の倫理観と価値観に基づいて80年前の戦争の一場面を断罪することは極めて不適当であることはいうまでもない。従って、南京論争においては“大虐殺”という文字列のイメージに惑わされることなく、「どの部分」を「何の基準」に基づいて議論するのか、そして「当時の判定」はどうだったのかが重要である。

なお、この一連の考察において、“大虐殺”イメージの核心として到達したのは、《A「南京安全地帯の記録」が示す原初的南京事件》である。すなわち、陥落後の城内掃討において多くの市民犠牲者が出たことを問題視している。

陥落時の城内にいた関係者の情報をまとめた「南京安全地帯の記録」に掲載されている「日本大使館への手紙」の文面にもそれが表れているし、ベイツレポートの文面も同様である。また、東京裁判での南京事件関連の証言も多くはその部分であるし、松井司令官への判決文でも「南京の不幸な市民を保護する義務を怠った」とされた。

その一部は城内"虐殺"のケーススタディとして検証し、併せて城内掃討における市民犠牲比率についても試算した。

その試算結果は、上述したように市民犠牲者総数の74%が陥落後の「掃討時の殺害」と「敗残兵摘出時の誤認」であり、その際の城内掃討における市民犠牲比率はおよそ34%に達する。

つまり、(1)「南京安全地帯の記録」、(2)ベイツレポート、(3)東京裁判での証言、(4)松井司令への判決文、(5)今回の試算結果、のいずれもが同じ点を指し示している。


従って、松井司令が死刑に値したかどうかはさておき、本考察の結論としての南京事件の核心は《市民犠牲者の大半を出すに至った、陥落後の城内掃討における、市民の保護》である。

それに加えて、上述の東京裁判弁護側最終弁論で述べられているように、「捏造され、あるいは誇張された噂話」が「針小棒大に全世界に宣伝」されたことで、その後の“南京大虐殺”イメージを形成したものと考える。




《謀略としての"南京大虐殺"》

謀略としての“南京大虐殺”は、当時の日本を米国に叩かせるために中華民国によって育てられ、戦後は日本人に贖罪意識を持たせるために東京裁判などを通して占領軍によって固定化された。これは、WGIP(ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム)として、一部の人には知られている。WGIPの要点は次の通り。

・戦後日本の苦難と窮乏を、軍国主義者の責任とする
・大東亜共栄圏の思想を忘れさせるため、戦争の名称を「太平洋戦争」とする
・罪悪感を植え付けるため、特に南京とマニラでの日本軍の残虐行為を強調する


だが、中国共産党政府は21世紀になってもまだ“南京大虐殺”を日本糾弾の中核に据えている。むしろ、加熱させているとも言える。その狙いの第一は日米同盟の破壊にあると考える。孫子の兵法にも「上兵は謀を伐つ。其の次ぎは交を伐つ」とある。米国などにおいて日本に対する嫌悪感を醸成すれば、戦わずして勝てるということである。

第二の狙いは人民解放軍の戦意向上のようである。在日中国人によると、人民解放軍の新聞には「南京大虐殺は日本の天皇によって指揮された、日本の軍国主義の闇は天皇が処刑されなければ決して消滅しない」というような嘘の話が載っているとのこと。

このように、我々はすでに、孫子の兵法でいうところの戦わずして勝つための広義の戦争の渦中にある。

日本国内ではさすがに“30万人の大虐殺”を主張する論者はほぼいないものの、「行き過ぎた敗残兵処断」などをもって「虐殺はあった」と結論付けようとし、中国が世界に広めようとしている“30万人の大虐殺”に結果的に加担してるような者が見られる。

南京一帯にある「"南京大屠杀"遇难同胞纪念碑」の碑文を見ればわかるが、その多くに戦死もごちゃ混ぜにして「武装解除された兵士および一般市民の同胞が虐殺された」という趣旨のことを表記し、さらにその一部には「侵华日军屠杀我南京同胞达三十万众」と、“30万人の大虐殺”を刻んでいる。「日本国内には市民の大虐殺を主張する論者はいない」などという弁解は通用しないのである。

敵意を隠し持つ隣国への理解ある配慮がやがて自分たちに災難をもたらすことは慰安婦問題で十分に学んだはずである。

従って、“南京大虐殺”については正確に事実を把握しつつも、「それは違う。南京戦を大虐殺というなら、他の戦史上のほとんどの地上戦を大虐殺というのか? 長春はどうなんだ? そもそも敗残兵が降伏もせずに軍服を脱ぎ捨てて安全区に潜伏するのが悪い。それに、退却する中国兵による市民への虐殺もあった」と返すのが正しいと私は思うのである。




《教訓的課題》

以上の考察を通して、あえてこの“南京大虐殺”騒動から教訓的課題を抜き出すとすれば次のようになると考える。

(戦術的課題)
南京戦に限らず現代のIS掃討戦において市街地を占領するような状況なども想定し、市民の中に紛れ込んだ敗残兵をどうやって識別し、排除または捕獲するのか。その際の市民の保護はどうすべきか。

(謀略的課題)
前項のような状況下で市民や捕虜に犠牲が生じたことを、悪意のある敵対国が情報戦(=謀略)の材料として悪用する場合に備え、あるいはそのような情報戦が生じた場合にどう対応すべきか。






考察の詳細については、以下の目次から関連記事を参照ください。

★南京大虐殺の真相(目次)
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/9e454ced16e4e4aa30c4856d91fd2531




《参考文献》

南京考察・参考文献とお勧め書籍
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/19723e7a044cf22b834b3e00f3e0d1c4





「我らの兵隊さんは平和を楽しむ。南京総攻撃であわてふためいて逃げたおもちゃ屋が道路に捨てて行った子供の玩具を拾って来て支那の子供達と遊ぶ。兵隊さんだけに戦車とか装甲自動車を選んでいるのもおもしろい。」
(昭和12年12月25日 朝日新聞/12月20日 林特派員撮影=陥落一週間後)






ご意見、感想などはこちらまでお願いします。
http://twitter.com/ZF_phantom



(この一連の記事は、新たな事実を知った場合や、新たな考察を思いついた時などに、適宜修正を加えます。)






改版履歴:
2017.02.22 全面書き換え
2017.08.20 紅卍字会の数値解釈変更に伴う修正。
2017.08.21 《混乱する論争と本考察の結論》追記。
2017.08.23 《教訓的課題》追記。
2017.08.28 紅卍字会「水葬」判定基準変更による修正。
2017.09.10 紅卍字会・埋葬記録の集計ミスによる修正
2017.12.18 MECEの図を追記。
2017.12.26 《導出した試算結果》を追記。
2018.10.09 『戦史叢書 支那事変陸軍作戦<1>』からの引用を追記。
2018.11.24 東京裁判弁護側最終弁論からの引用を追記。

The Fake of “Nanking Massacre”

2015年07月19日 | 南京大虐殺
お知らせ:gooブログ終了に伴い、この記事は「はてなブログ」に引っ越します。


The Fake of “Nanking Massacre”
https://zfphantom.hatenablog.com/entry/2015/07/19/030008




Last updated August 27 , 2019



The Fake of "Nanking Massacre"
The Nanjing Massacre is a Deadly Information War
"南京大虐殺"は死をもたらす情報戦争


There are still plenty of people who are accusing Japan against its war crime even after 80 years from the Battle of Nanking. China claims that the Japanese army massacred 300,000 people during the Battle of Nanking. According to a Chinese living in Japan, the People's Liberation Army newspaper writes a false story like "the Nanking Massacre was directed by the Emperor of Japan”. Some Chinese believe this is true and shout that they would massacre in Tokyo. Do not be fooled by such propaganda. So I would like to summarize the facts simply for easy to understand.

南京戦から80年が経っても、その戦争犯罪について日本を非難している人々はまだまだ多くいます。中国は南京戦で日本軍が30万人を虐殺したと主張しています。ある在日中国人によると、人民解放軍の新聞には「南京大虐殺は日本の天皇によって指揮された」というような嘘の話が載っているそうです。一部の中国人はこれを真実だと信じ、東京で虐殺があるだろうと叫んでいます。そのようなプロパガンダにだまされないように、簡単に理解できるよう事実を要約したいと思います。


1. The Facts of Nanjing
2. The Information War
3. Detailed Discussion





The Facts of Nanjing
南京の事実


Fact 1 / Burial Record
After the fall of Nanjing, the Japanese army entrusted the burial work of the corpses of war victims inside and outside the Nanking castle to the Red Swastika Society. According to this burial record, the total number of corpses was 43,023. The number of women corpses was 83 and that of children was 46. In other words, the proportion of women and children was only 0.3%.

事実 1 / 埋葬記録
南京陥落後、日本軍は南京城の内外の戦争犠牲者の遺体埋葬作業を紅卍字会に委託した。この埋葬記録によると、遺体の総数は43,023体だった。うち、女性の遺体は83体で、子供は46体だった。つまり、女性と子供の割合はわずか0.3%にすぎない。



Fact 2 / Smythe Report
Three months after the fall of Nanjing, Professor Lewis S. C. Smythe of Jinling University (Nanjing University) conducted a statistical survey on the damage situation of citizens. This is the so-called Smythe Report.* According to this, when the fall of Nanjing (December 12-13), the city population was 200,000-250,000 and in late March it was 250,000-270,000. And the number of citizen victims of the Nanjing city was 3,400.
(* War Damage in Nanking Area, Dec.1937 to March 1938, Urban and Rural Surveys )

事実 2 / スマイス調査
南京の陥落から3ヶ月後、金陵大学(南京大学)のルイス・S・C・スマイス教授は市民の被害状況を統計的に調査した。いわゆるスマイス調査*である。これによると、陥落時(12月12-13日)の南京城区の市民人口は20-25万人、翌年3月下旬の同市民人口は25-27万人である。そして、南京戦による同城区の市民犠牲者は3,400人となっている。
(* 南京地域における戦争被害、1937年12月1日から1938年3月、都市および農村調査)



Fact 3 / Safety Zone
Professor Hsu Shu-hsi (徐淑希) of Yanjing University (燕京大学) published the “Documents of the Nanking Safety Zone (南京安全区攩案)” in 1939 by collecting protest documents prepared by the International Committee for Nanking Safety Zone who protected Nanjing citizens. According to this, there were 26 murders (53 victims), 175 rapes, 131 thefts, and other incidents after the fall of Nanjing.

事実 3 / 安全区
燕京大学の徐淑希教授は、南京市民を保護していた南京安全区国際委員会が作成した日本軍への抗議文書を収集して1939年に「南京安全地帯の記録」を発行した。これによると、南京陥落後に26件の殺人(53人の犠牲者)、175件の強姦、131件の窃盗、その他の事件があった。



Fact 4 / War Deaths
According to the "A History of the Battle of Nanjing Garrison"(南京衛戍戦史話) recorded by Tan Dao-ping (譚道平) of Nanking Defense Headquarters, the total force of the KMT was 81,000 and the number of war deaths was 36,500.

事実 4 / 戦死
南京防衛司令部の譚道平によって記録された「南京衛戍戦史話」によれば、国民党軍の総兵力は81,000人、戦死者数は36,500人だった。



Fact 5 / Tokyo Tribunal
Commander Matsui, who commanded the Battle of Nanking, was executed as a Class B** war criminal at the Tokyo Tribunal.* He was not a war criminal of Class A or C. He was found innocent on the count 54 (execution of the massacre, command, authorization, permission), and guilty only on the count 55 (POWs and citizens' protection obligation). The text of judgment said, "He must be held criminally responsible for his failure to protect the unfortunate citizens of Nanking.”
(* The International Military Tribunal for the Far East)
(** Class A : crimes against peace, Class B : war crimes, and Class C : crimes against humanity)

事実 5 / 東京裁判
南京戦を指揮した松井司令官は東京裁判*でB級戦犯**として処刑された。彼はA級またはC級戦犯ではなかった。彼は訴因54(虐殺の実行、命令、授権、許可)は無罪判決で、訴因55(捕虜と市民の保護義務)だけが有罪となった。判決文は「彼は南京の不幸な市民の保護の失敗について責任を負わなければならない」と述べた。
(* 極東国際軍事裁判所)
(** A級:平和に対する罪、B級:通例の戦争犯罪、C級:人道に対する罪)



Fact 6 / Executions
The following units executed about 16,000 defeated soldiers. However, no one has been convicted as a war crime among the division chiefs or regiment commanders of these units. The 7th Regiment of the 9th Division, the 33rd Regiment of the 16th Division, the 30th Brigade of the 16th Division, the 66th Regiment of the 114th Division and the 65th Regiment of the 13th Division.

事実 6 / 処刑
以下の部隊は約1万6千人規模の敗残兵を処刑した。しかし、これらの部隊の師団長や連隊長の中では誰も戦犯として有罪になっていない。第九師団歩兵第七連隊、第十六師団歩兵第三十三連隊、第十六師団歩兵第三十旅団、第百十四師団歩兵第六十六連隊、第十三師団の山田旅団および歩兵第六十五連隊。





Based on above facts, we can lead the following discussions.

上記の事実に基づいて、我々は以下の考察を導くことができる。




Discussion 1 / Women and Children
The fact that the proportion of women and children in the corpses of Nanking was 0.3% indicates that there was no systematic massacre against the citizens. On the other hand, the Tokyo Air Raid in 1945 was an indiscriminate attack on citizens. The proportion of minors among the victims is about 40%.

考察 1 / 女性と子供
南京の遺体における女性と子供の割合が0.3%だったということは、市民に対する組織的な虐殺はなかったことを示している。ちなみに1945年の東京大空襲は市民への無差別攻撃だった。その犠牲者のうち未成年者の割合は約4割である。



Discussion 2 / Citizen Victims
If the number of war dead is 36,500 and the citizen victims is 3,400, the proportion of citizen victim is 8.5%. For example, the proportion of citizen victims is 50% for Okinawa battle during World War II, 47% for Berlin falls, and 75% for Iraq warfare in 2003. Then, in fact, the proportion of citizen victims was relatively small in the Battle of Nanking.

考察 2 / 市民犠牲者
戦死者数が36,500人、市民犠牲者が3,400人ならば、市民犠牲者の割合は8.5%である。例えば、第二次大戦時の沖縄の戦闘における市民犠牲者の割合は50%、ベルリン陥落では47%、2003年のイラク戦争では75%である。そうすると実際は、南京戦では市民犠牲者の割合は比較的少なかったのだ。



Discussion 3 / City Population
As you can see from the "Smythe Report" and the "Documents of the Nanking Safety Zone (南京安全区攩案)," the recorded number of citizen victims and incidents is too small to be called “Nanking Massacre.” In fact, according to "Smythe Report", the population of city has increased from the fall of Nanjing to March of the following year.

考察 3 / 都市人口
「スマイス調査」と「南京安全地帯の記録」を見ればわかるように、記録された市民犠牲者数や事件数は少なすぎるので"南京大虐殺"と呼ぶには相応しくない。事実、「スマイス調査」によれば陥落から翌年3月にかけて南京城区の市民人口は増えている。



Discussion 4 / Judgment
Commander Matsui ordered the cleansing of the soldiers lurking in the safety zone. Nonetheless, he was found innocent on the count 54 (execution of the massacre, command, authorization, permission) as mentioned above. That is, the Allies proved that there was no systematic massacre under Matsui’s command.

考察 4 / 判決
松井司令官は安全区に潜伏した敗残兵の掃討を命じていた。それにもかかわらず、彼は上述のように訴因54(虐殺の実行、命令、授権、許可)で無罪とされた。これはつまり、連合国は、松井の指揮の下での組織的な大虐殺はなかったことを証明したのである。



Discussion 5 / Legality
The fact that there were no war criminals among the division chiefs or regiment commanders of the division who executed the defeated soldiers indicates that the execution of soldiers was regarded as legal actions also in standards of Allies.

考察 5 / 適法性
敗残兵の処断をした部隊の師団長または連隊長の中に戦犯がいないということは、敗残兵処断は連合国の基準においても適法だったことを示している。





Conclusion
Knowing above contents as an outline, you will be able to understand the facts of Nanking. The number of 300,000 victims will never come out from anywhere, even if total number of war dead is taken into account. And as the Tokyo Tribunal showed, it is too excessive to condemn the execution of the defeated soldiers. People who want to claim more victims should show evidence. And it is also necessary to distinguish between war dead and massacre victims.

結論
上述の内容を概要として知れば、あなたは南京の事実を理解することができるはずです。戦死者の総数を含めても、30万人という犠牲者数はどこからも決して出てこないのです。そして、東京裁判が示したように、敗残兵の処刑を非難するのも余りにも過ぎます。もっと多くの犠牲者数を主張したい人々は証拠を提示する必要があります。そして、戦死者と虐殺犠牲者を区別することも必要です。






The Information War
情報戦争


Target
The purpose of China's “Nanking Massacre” propaganda is to destroy the Japan-US alliance. If China can destroy the Japan-US alliance, they may dominate Japan and the Pacific. If such a situation is realized, the survival of the United States will also be in danger. If you suspect this story please read the following report and book.

The Hate Farm: China Is Planting a Bitter Harvest (Michael Yon)
http://japan-forward.com/the-hate-farm-china-is-planting-a-bitter-harvest/
China is leading a deadly information war. The first target is Japan. The ultimate target is the United States.

The Hundred-Year Marathon: China's Secret Strategy to Replace America as the Global Superpower
https://www.amazon.com/dp/1250081343/
The Hundred-Year Marathon is a wake-up call as we face the greatest national security challenge of the twenty-first century.


標的
中国による“南京大虐殺”プロパガンダの目的は日米同盟を破壊することです。中国が日米同盟を破壊することができれば、日本と太平洋を支配するかもしれません。このような状況が実現すれば、米国の生存も危機に陥るでしょう。あなたがこの話を疑うなら次の記事と本を読んでください。

憎しみの種を植える中国 加担する記者たちは責任を負う 米国人ジャーナリスト、マイケル・ヨン - 産経ニュース
http://www.sankei.com/premium/news/170225/prm1702250023-n1.html
中国は、死をもたらす情報戦争を主導している。第一の標的は日本。最終的な目標は米国だ。

China 2049 秘密裏に遂行される「世界覇権100年戦略」 マイケル ピルズベリー
https://www.amazon.co.jp/dp/4822251047
共産党の指導者は、アメリカとの関係が始まった時から、この計画を推し進めてきたのだ。そのゴールは復讐、つまり外国が中国に味わわせた過去の屈辱を「清算」することだった。




Organization
And if you want to know about the Chinese propaganda organization in the United States, please search with the following organization name.
Global Alliance for Preserving the History of WWII in Asia (Global Alliance)

組織
そして、米国内での中国系プロパガンダ組織について知りたいなら、次の組織名で検索してください。
世界抗日戦争史実維護連合会(抗日連合会)






Detailed Discussion
詳細な考察


Estimation
If you want to know whole story about “Nanjing Massacre,” please click the following URL. I tried to estimate more accurate number of victims based on records and testimony of people related to the Battle of Nanking. According to my latest estimate, the total number of Chinese side victims in the Battle of Nanking is about 55,000. Among them, the number of citizen victims is about 5,400. Sorry in Japanese.

推計
南京戦の全貌を知りたい場合は、次の記事をどうぞ。 南京戦に関与した人々の記録と証言に基づいて、より詳細な戦争犠牲者数の試算をしています。私の最新の試算によると、南京戦における中国側の犠牲者総数は約55,000です。 そのうち、市民犠牲者数は約5,400です。


南京大虐殺の真相(南京戦における犠牲者数の試算)
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/eaacb2fee7e20c9adc4799020776c9d1





Nanjing citizens and Japanese soldiers
December 20, 1937 (A week after the fall.)

Are those children afraid?
and
Does the Japanese soldiers have weapons?










Copy
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転載可
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Thank you.










(Deutsch)
Die Fälschung des "Nanking-Massakers"
- Das Nanjing-Massaker ist ein tödlicher Informationskrieg -

Auch 80 Jahre nach der Schlacht von Nanking gibt es immer noch viele Menschen, die Japan wegen seiner Kriegsverbrechen anklagen. China behauptet, dass die japanische Armee während der Schlacht von Nanking 300.000 Menschen massakriert hat. Einem in Japan lebenden Chinesen zufolge schreibt die Zeitung der Volksbefreiungsarmee eine falsche Geschichte wie "das Massaker von Nanking wurde vom Kaiser von Japan geleitet". Einige Chinesen glauben, dass dies wahr ist und rufen, dass sie in Tokio massakrieren würden. Lassen Sie sich von solcher Propaganda nicht täuschen. Deshalb möchte ich die Fakten einfach zusammenfassen, damit sie leicht zu verstehen sind. (Siehe den Text oben für Details.)