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南京考察・参考文献とお勧め書籍

2021年02月16日 | 南京大虐殺
2022.11.17 1項に「南京事件 70 年―収束しない論争」追記。

手元の蔵書も増えてきたので、適当に分類しておくと誰かの参考になるかもしれないと思いつつ列挙。



独断と偏見によるランク:

1. 入門  …いわゆる南京大虐殺を初めて知ろうとする人が最初に数冊手にする際のおすすめ書籍
2. 基本  …南京論者として何か主張するなら、これは読んでおいた方がいいかもという文献など
3. 拡張  …南京論者としてパワーアップする際に役立ちそうな文献など
4. その他 …さらに手を広げて調べる場合、こういうのもありますよという文献など


独断と偏見による分類:

・戦史 …日本軍による公式記録や書類、またはそれに準じる位置付けの資料や文献など
・戦記 …日本軍の南京戦参戦将兵による日記や寄稿など
・記録 …日本軍将兵以外の、南京戦当事者の日記や記録など
・中立 …いわゆる南京大虐殺をテーマとし、比較的中立な視点で論じたもの
・糾弾 …いわゆる南京大虐殺をテーマとし、日本軍を糾弾する視点で論じたもの
・幻影 …いわゆる南京大虐殺をテーマとし、「なかった」あるいは「少なかった」という視点で論じたもの
・参考 …いわゆる南京大虐殺とは直接は関係ないが参考になりそうな文献など


念押ししておきますが、全て独断と偏見です。




《1. 入門》
…いわゆる南京大虐殺を初めて知ろうとする人が最初に数冊手にする際のおすすめ書籍


(中立)南京事件―「虐殺」の構造 (中公新書) / 秦 郁彦
https://www.amazon.co.jp/dp/4121907957/
一応中立とはしたものの、文面からは糾弾系あるいは断罪系の香りがする。ただ、南京論争業界の基礎知識として十分以上に濃密かつ網羅的なので、参考にすべき第一の書籍とした。

(中立)南京事件 70 年―収束しない論争 / 主任研究員 星山隆 財団法人 世界平和研究所
https://www.npi.or.jp/research/data/bp328j.pdf
《日本では、大別して20万から30万人の虐殺を主張する「虐殺肯定説」と、虐殺などなかったとする「虐殺否定説」があり、双方がその根拠を挙げて論争しているが、議論は往々にしてすれ違っている。なぜ、同じ文献、同じ証言を読んでいるにもかかわらず、かくも大きなギャップが生まれるのかにつき、いずれかの立場に与することなく、整理、検討することを試みるものである。》


(幻影)謎解き「南京事件」 東京裁判の証言を検証する / 阿羅 健一
https://www.amazon.co.jp/dp/B00P8NOA4G/
いわゆる南京大虐殺は東京裁判で決定づけられたが(東京裁判での呼称は南京暴虐事件)、その東京裁判で何が主張されたのか、そしてそれは事実だったのか否かを平易に解説している。東京裁判当時にはほとんど知られていなかった幕府山事件などについても解説あり。入門編として良さそう。

(幻影)誰が「南京大虐殺」を捏造したか / 古荘 光一
http://web-wac.co.jp/book/tankoubon/1032
これは南京戦そのものの細部ではなく、南京大虐殺というプロパガンダが生じた背景を探った著書。蒋介石が力をつけ始めた頃から始まって、東京裁判までの歴史を著述している。内容は平易で、物語として読みやすい。南京戦より前、1937年8月の段階で、ラーべ、フィッチ、マギーは日本軍が南京に侵攻することを想定した行動を始めている、と指摘している。さらには、蒋介石は『南京大虐殺』を事実であるかに見せかけるために南京を見殺しにしたという解釈もしている。全ては最初から仕組まれていた、というのである。上のリンク先に詳細な目次があるので、おおよその内容はわかるはず。




《2. 基本》
…南京論者として何か主張するなら、これは読んでおいた方がいいかもという文献など


(戦史)証言による南京戦史(1)~(11) / 偕行社
http://www.history.gr.jp/nanking/books_shougen_kaikosha.html
南京戦参戦将兵らの寄稿を中心にした南京戦の戦史。糾弾する側はこうした日本軍側の視点を無視するので貴重な資料。これを元にして、後に『南京戦史』が発刊された。当初は虐殺などなかったという結果を期待して参戦者から寄稿を募ったのだと思うが、捕虜の処刑は見た(7連隊など)という寄稿も集まった。そこを自虐史観派によく悪用される。とはいえ、市民虐殺の話はない。ちなみに(11)の次に「最終回」がある。ネットでも探せば見つかるかもしれない。私は持っている。

(記録)スマイス統計調査 / Lewis S.C. Smythe (American professor of University of Nanking in China until 1951.)
https://en.wikisource.org/wiki/War_Damage_in_the_Nanking_area_Dec._1937_to_Mar._1938
南京陥落から3ヶ月後、金陵大学(南京大学)のルイス・S・C・スマイス教授が市民の被害状況を統計的に調査したレポート。市民の被害証言は多々あるが、当時の統計調査はこれしか存在しないはず。その意味で貴重。糾弾派にとっては市民被害者数が少なすぎるので、あまり触れたがらない傾向。しかしこれですら、北村稔氏に言わせれば郊外の市民犠牲者数は調査方法の問題から過大だという。もちろん糾弾派は調査方法が悪いから少ないのだという。そして、東京裁判にはスマイス教授は宣誓供述書を提出したが、このスマイス統計調査は提出されなかったという。市民被害者数が少なすぎたから?

(記録)「南京大虐殺」はこうして作られた―東京裁判の欺瞞 / 冨士 信夫
https://www.amazon.co.jp/dp/4886561101/
タイトルからは幻影系に見えるが、内容は東京裁判のほとんどの審理を傍聴した上で、その茶番的実態を明らかにした著書。私の記事にも引用しているが、松井大将の弁護側最終弁論が非常に的を射た主張をしているように見える。調べるほど、ここに行き着く。こちら側にいる南京論者必携の書籍。
Wiki:冨士 信夫(1917年8月 - 2005年1月24日)は、日本の歴史家、海軍軍人。東京裁判(極東国際軍事裁判)研究家。

(記録)東京裁判判決 : 極東国際軍事裁判所判決文 昭和24年 / 毎日新聞社
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1276125/2
当時の記録。上の冨士信夫氏の著書と併せて。


(記録)[現代語版]支那の対日宣伝策: 支那における国防と新聞事業の統制 (プロパガンダ研究叢書) / 海軍省海軍軍事普及部 編
https://www.amazon.co.jp/dp/B0843SFM1P/
異色の書籍。これは昭和12年10月(南京戦直前)に海軍省海軍軍事普及部が、中国側(中華民国)の「国防と新聞事業の統制」という記事を「本編は民国政府および国民党の、日本を仮想敵とする宣伝計画の基本観念を要述したものと考えられるので宣伝戦参考資料として印刷の上配布する」とした文書の現代語復刻版。「敵国の不法残忍な行為については極力種々の材料を収集し、でき得る限り新聞を利用して、敵は残虐横暴で人道を顧みないという印象を人民の脳裏に刻み付けるべきであり」などという文面も登場する。日本はまさにそれにしてやられた。そして、今も。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1445903/1(オリジナル)

(中立)Defending Nanking: An Examination of the Capital Garrison Forces /David Askew
https://www.chinajapan.org/articles/15/askew15.148-173.pdf
立命館アジア太平洋大学のデイビッド・アスキュー准教授の論文。「1937年12月中旬の南京の民間人と軍人の人口について、様々な一次資料やその他の資料から得られる最も正確な推定値は、民間人が20万人から25万人、軍人が7万3,790人から8万1,500人、合計27万3,790人から33万1,500人である。」としている。

(中立)The Nanjing Incident : An Examination of the Civilian Population /David Askew
https://chinajapan.org/articles/13.2/13.2askew2-20.pdf
立命館アジア太平洋大学のデイビッド・アスキュー准教授の論文。「主要な資料はすべて、南京の人口が20万人から25万人であったことを示しているが、2つの重要な証明がある。第一に、12月下旬から1月中旬にかけて、人口の規模が大幅に増加したと思われる。第二に、この増加の多くは、都市の陥落を生き延びて隠れて出てきた元兵士によるものであったに違いない。著者は、スマイスの調査で入手可能なデータと日本の人口登録(=日本軍による良民証発行)を用いて、1937年12月24日から1938年1月5日までの総人口は224,500人であったと主張している。」としている。

(糾弾)増補 南京事件論争史: 日本人は史実をどう認識してきたか (平凡社ライブラリー) / 笠原 十九司
https://www.amazon.co.jp/dp/4582768768/
中立公正という評もあるようだが、そうは見えない。あくまで否定派を批判する視点での論争史。しかし、点と点の論争をいくら列挙しても、結局は定量化した概念で評価しないと(総死者数とか)いつまで経っても埒があかないでしょう。…などとケチをつけたくはなるが、近年の南京関連文献リストとして見れば便利かも。

(幻影)その実像をもとめて 「南京事件」の探究 (文春新書) / 北村 稔
https://www.amazon.co.jp/dp/4166602071/
上の笠原氏にけなされている北村稔氏の著書。スマイス統計調査の郊外の数字は過大だ、という北村氏の指摘については笠原氏は批判してないから、この点はそれで良さそうだ。

(幻影)「南京事件」日本人48人の証言(小学館文庫) / 阿羅健一
https://www.amazon.co.jp/dp/B07DTL7N5N/
これも上の笠原氏にけなされている著書。だけど、これは「なかった」を列挙するのが編集方針なのだから、これはこれでいいんじゃないのかと思う。これだけの数の当事者がそういう方向性で証言していることは重要。大虐殺があったなら、知らない人がいないくらいに現地でも話題になってるはずでしょう。東京裁判で初めて聞いたという当事者がなんと多いことか。

(幻影)「南京安全地帯の記録」完訳と研究 / 冨沢 繁信
https://www.amazon.co.jp/dp/4886562515/
南京戦の際に残留欧米人が南京城内に難民を保護する「安全区」を設置した。それを運営する「安全区国際委員会」が、陥落後の占領下での諸問題について要望や苦情などを日本大使館宛てに文書で送付しているが、それらの集大成を完訳および考察した著書。他の論者の翻訳では内容が糾弾方向に捻じ曲げられたりしている事実なども指摘している。著者の冨沢繁信氏は住友信託銀行の常務取締役を務めるなど、この業界では異色の経歴。

(幻影)本当はこうだった南京事件 / 板倉 由明
https://www.amazon.co.jp/dp/4823105044/
南京論争の主な論点を、大虐殺を否定する視点で網羅的にまとめてある少し厚い書籍。ひと通り読み終わったら辞書的に使える。著者の板倉由明氏は「私は小さな町工場を経営するものであって、調査・研究などまったくの素人です」と言いつつ、この分野でその能力を認められ、偕行社の『南京戦史』編集委員にまでなった。上の冨沢繁信氏もそうだが、この分野の“歴史家”への不信感が異分野からの参入を招いたものと思われる。(私もだよ)

(参考)中国の戦争宣伝の内幕―日中戦争の真実 / フレデリック・ヴィンセント ウイリアムズ
https://www.amazon.co.jp/dp/4829504676/
事変当時から日支双方を見抜いて、日本の側に立って主張し続けてくれた米国人の著書。南京戦を直接扱っているわけではないが、対米工作としての中国側プロパガンダの実態や、明治維新後にたちまち西欧技術を習得した日本への西欧の警戒感などが書かれている。こういうのを読むと、太平洋戦争は一種の必然だったのかもという気になる。




《3. 拡張》
…南京論者としてパワーアップする際に役立ちそうな文献など


(戦史)国立公文書館 アジア歴史資料センター
https://www.jacar.go.jp/
日本政府公式のデータベース。各部隊の戦闘詳報その他公式記録が満載。部隊名や艦艇名その他関連キーワードを入れ、南京戦に関係するものとして期間を1937.12.1-1938.2.1くらいでフィルタリングすると関連するものが出てくる。利用者の検索技量が試されるツール。

(戦史)決定版 南京戦史資料集 偕行社 編 勉誠出版
https://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&products_id=101186
これは2021年の復刻版。オリジナルは平成元年(1989)に刊行された『南京戦史』と資料集2冊。内容は、南京戦参戦将兵らの証言/作戦命令/戦闘詳報/陣中日誌およびそれらに基づく考察など。中国側犠牲者数の試算については、アプローチは異なるものの、結果は私の考察と近似的。

(戦史)南京事件資料集 / 南京事件調査研究会
https://www.amazon.co.jp/dp/4250920232/
戦史に分類したが、糾弾意図があっての編集に見える。日本軍視点の記録は含まれないので、前項の南京戦史資料集などと併せて参照するのが良い。
Amazon:米国務省記録・軍事記録、グルー文書・ベイツ文書などから大使館報告や南京残留者の書簡・日記・虐殺を逃れた中国側体験者の手記・報告・戦犯裁判記録、米中主要新聞の報道記事。事件の実態と背景を究明するための基本資料を網羅的に集成。

(戦史)戦史叢書第086巻 支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで / 防衛庁防衛研究所戦史室 著
http://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/SoshoView?kanno=086
1966年から1980年にかけて、防衛庁防衛研修所戦史室(当時)が旧帝国陸海軍の史料に基づいて先の大戦に関してまとめたのがこの公刊戦史「戦史叢書」である。主目的は自衛隊の教育と研究用。いわゆる南京大虐殺については否定的な論調。

(戦記)「南京大虐殺」はなかった 南京攻略戦の大隊指揮官真相を語る / 森王 琢
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/87915078145230ed66431b34f00c5568
南京攻略戦で、歩兵第二十聯隊第三大隊長代理だった森王琢氏の講演録をまとめた小冊子。他の文献ではよくわからない戦場の実相がわかる。上の私の記事の末尾に一部抜粋してある。全文読めるサイトへのリンクもあり。この記事の末尾にも一部を画像で引用する。

(戦記)郷土部隊戦記 (福島民友新聞社): 1964(全3巻)/福島民友新聞社
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I001224836-00
会津若松歩兵65連隊の戦記。福島民友新聞社が連載していた記事の書籍化。巻頭言はお決まりのように悲惨な戦争を繰り返さないために、となっているのだが、本文は武勇伝調。戦後20年で参戦者がまだ現役だとこういう雰囲気になるのかなと感じる。幕府山事件に関連する記述もあり。あえて言えば、両角連隊長史観。

(戦記)ふくしま 戦争と人間 (福島民友新聞社): 1982 (全8巻)/福島民友新聞社
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001602891-00
戦後40年近く経って改めて福島民友新聞社が連載した記事を書籍化した会津若松歩兵65連隊の戦記。前作と異なり武勇伝調はなりを潜めて実録っぽくなっている。南京戦に関する記述は第1巻「白虎編」。幕府山事件に関する記述も少し充実した。これも両角連隊長史観。

(戦記)南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記 / 小野 賢二
https://www.amazon.co.jp/dp/4272520423/
幕府山事件の当事者となった13師団の参戦将兵らの日記集。編集意図は糾弾系。とはいえ、幕府山事件の真相解明には必須の書籍。事件は2夜連続だったと読めることなど、上2つの文献の両角連隊長史観とは異なる。通称「小野日記」。

(戦記)魁:郷土人物戦記 (伊勢新聞社): 1984 / 伊勢新聞社 編
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I077613580-00
本書はよくある地元部隊の郷土戦記かと思いきや、そうではなく満州事変から南京占領までの歴史を概説し、後半は様々な部隊の将兵個人を登場させ、その個人目線で戦場の様子を描いている。参戦者の寄稿集ではない。なにゆえ伊勢新聞社が?と思ったが、編集者の経歴を見てわかった。京都16師団に入り、戦後に伊勢新聞社の社長になっている。戦争の実相がわかる良書。

(戦記)魁:郷土人物戦記 第2巻 (伊勢新聞社): 1986 / 伊勢新聞社 編
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001822782-00
前作の続編。徐州作戦から武漢攻略戦まで。

(戦記)南京作戦の真相:熊本六師団戦記 (東京情報社): 1966 / 下野一霍 講述、五島広作 編
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001096449-00
本書の「講述」の下野一霍 氏は南京戦当時第六師団参謀長大佐。そのためか、全体を通して筆致がフォーマル。第六師団長・谷寿夫中将の戦犯裁判の箇所を引用する。
《武富参謀の言によれば、谷将軍がこの厄にあたったのは南京攻撃の最高責任者松井石根大将はA級裁判のため東京に止まり、次級の中島今朝吾中将はすでに亡いので回ったのであるとのことであった。 しかし裁判の経過から見ると将軍を大虐殺の元兇として取扱われたようである。
将軍の日記はその様を詳細に認めてあるが、ここには簡決にその要旨のみを摘録する。
......訊問の際四百にもあまる罪状を見せられたが、時期的にまた場所的に全く師団に無関係のものが少くなく、たとえ関係するものも戦闘の渦中に生じたことで避けられない。それは戦場の常である。 第一いわれる虐殺地点は師団の作戦地域でない。 部下の犯したものであれば潔く罪に服する。よろしく関係兵団の責任者を喚問して真相を明白にしてもらいたい。証人もなく一方的裁判は不当であると拒絶した。.........いよいよ裁判に入った時は、市民約四十人の負傷者を証人として登場させたが、予は一々理由を述べて否定した......。》

(戦記)熊本兵団戦史:支那事変編 (熊本日日新聞社): 1965 / 熊本兵団戦史編さん委員会 編
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I002641024-00
熊本第6師団の支那事変についての戦記。南京法廷で谷寿夫中将が死刑になった経緯についても書かれている。
《では第六師団長谷寿夫中将はなぜ極刑に処せられたのであろうか。戦後、中国軍事裁判の連絡に当たった支那派遣軍参謀小笠原中佐はこう説明している。「谷中将が不祥事件の責任者ではないことは中国側もおおむね承知したようだが、結局当時の中国国民の感情は現地裁判で一人でも処罰者を出さなければ気がすまないという情勢にあった。それと第六師団の精強さに対する憎しみを晴らそうとする、いわゆる政略的裁判の観を呈した」》

(記録)南京市政概況 昭和17年 / 南京特務機関
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1267359/2
南京戦から5年後くらいに南京特務機関から発刊された南京の地理/気候/史跡/人口/産業その他の情報。埋葬事業その他の慈善団体に関する記述もあり。

(記録)南京の真実 / ジョン ラーベ
https://www.amazon.co.jp/dp/4062088665/
安全区国際委員会のリーダーを務めていたドイツ人、ジョン・ラーべの日記の翻訳版。内容的には「南京安全地帯の記録」と関係する。

(幻影)真相・南京事件―ラーベ日記を検証して / 畝本 正己
https://www.amazon.co.jp/dp/4938893096/
上のラーべ日記の記述に対して、日本側の各種記録などを用いて細かく検証した著書。これを見る限り、ラーべという人物はあまり誠実とはいえず、相手あるいは報告先によって話を変えるような裏表や起伏の多い人物に見える。独シーメンス社(日本で言えば日立とか東芝?)の中国支社総責任者という利害関係のある立場だから当然か。


(記録)南京事件の日々―ミニー・ヴォートリンの日記 / ミニー ヴォートリン
https://www.amazon.co.jp/dp/4272520598/
Wiki:ウィルヘルミナ(ミニー)・ヴォートリン(1886年9月27日 - 1941年5月14日)は、アメリカ人の宣教師。1919年より中国・南京の金陵女子大学で教師・教務主任を務めた。1937年、日中戦争初期の南京攻略戦の際に南京安全区の設営に関わり、同区内にあった金陵女子文理学院で多数の女性や子供の難民を保護した。第二次上海事変が始まる直前の1937年8月12日から1940年4月14日まで、南京での様子を日記に残している。

(記録)南京大虐殺はなかった―『戦争の流れの中に』からの抜粋 / 前田 雄二
https://www.amazon.co.jp/dp/4793903932/
南京戦に従軍した同盟通信記者・前田雄二氏の著書『戦争の流れの中に』から南京戦に関係する部分だけを独立させた小冊子のような著書。よく読むと、幕府山事件直後の現場付近を目撃している。そして、その件について日本軍の警備司令部から「少数の日本部隊が、多数の投降部隊を護送中に逆襲を受けたので撃滅した」と説明を受けている。=自衛発砲説。

(中立)南京の氷雨―虐殺の構造を追って / 阿部 輝郎
https://www.amazon.co.jp/dp/4317600390/
会津若松65連隊を扱った「郷土部隊戦記 (福島民友新聞社)」の編集委員をしていた著者が、幕府山事件をテーマに取り上げた著書。65連隊関係者への取材メモを中心にしつつ、現地取材もしている。散文調のため資料としては読みづらいが、収録されている65連隊関係者の証言は貴重。上で挙げた福島民友新聞社の2つの文献にある両角連隊長史観とは異なり、事件が2夜連続であったことを明かしている。




《4. その他》
…さらに手を広げて調べる場合、こういうのもありますよという文献など


(戦史)支那事變戦跡の栞 / 陸軍恤兵部
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1906104/6
1938年当時の公式な読み物と思われる。時代の空気感がわかる。私は書籍で持っているのだが、ネットで無料公開されているのを後で知った…。

(戦記)揚子江が哭いている―熊本第六師団大陸出兵の記録 (1979年) (戦争を知らない世代へ〈53 熊本編〉) / 創価学会青年部反戦出版委員会 編
https://www.amazon.co.jp/dp/B000J8CTX4/
戦記に分類したが、巻頭に「創価学会青年部反戦出版委員会」名義で「中国大陸における侵略戦争」について「もし私たちにそのつぐないができるとすれば二度と再び同じ轍を繰り返させない運動を展開することであろう」と書かれていることからもわかるように、編集意図が反戦運動にあることは明白。陥落翌日に「揚子江を覆い尽くす5万の遺体を見た」という話は、私の考察ではウソだと思う。

(戦記)私の見た南京事件―日本人としていかに考えるべきか / 奥宮 正武
https://www.amazon.co.jp/dp/4569557619/
一応戦記に分類したが、南京戦参戦者(海軍航空兵)として著者が当時目撃したことを基点として、国際法その他の考察を行なった著書。

(記録)外国人の見た日本軍の暴行―実録・南京大虐殺 (1982年) / ティン・バーリイ 著
https://www.amazon.co.jp/dp/B000J7HXYA/
ハロルド・J・ティンパーリの「戦争とは何か」(1938年出版)の和訳。南京戦当時は上海にいて、南京の安全区国際委員会のメンバーからの情報に基づいて出版。記録ではあるが、当時の米英世論などを中国に同情し日本を憎む方向に持っていく意図があったようである。ティンパーリは中国国民党の中央宣伝部顧問だったという指摘もあり、当初から狙ったのか結果的にそうなったのか議論はわかれるにしても、反日プロパガンダツールとして歴史的にも重要な文献。ただ、なんというか読みづらい。時代的な要因もあるのかもしれないが、客観と主観の混沌的長文という感じ。

(記録)体験者27人が語る南京事件―虐殺の「その時」とその後の人生 / 笠原 十九司
https://www.amazon.co.jp/dp/4874983553/
南京戦体験者からの被害証言の聞き取り記録。南京攻略戦時(攻め上がる時)のもあるが、陥落後の敗残兵掃討の時期の話が多い。また、例のシンドバーグ氏がやっていた棲霞山のセメント工場の避難所に関係した事例が多い。また、聞き取りが2001〜2002年という時期のためか、証言者は当時10歳くらいが多い。この手の証言集でよく見る、撤退する中国軍による清野作戦(焦土作戦)の被害と思われるものはあまり見当たらない。

(記録)十五年戦争極秘資料集 (不二出版): 1989 / 井上久士
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002019010-00
占領地で日本軍が住民を宣撫することを目的に日本軍内部に設けた宣撫班の記録。冒頭に著者の解説が数ページあるだけで、あとはひたすら宣撫班資料のハードコピー。ちなみに冒頭の解説文に著者はこう書いている。
《東京裁判提出の紅卍字会の埋葬記録では、同年(1938年)秋までで四万三千余体を埋葬したとあるから、時期を考慮にいれると本報告の記録と符合する。(中略)ただし、問題となっている崇善堂埋葬隊については、特務機関や宣撫班との協力関係がなかったためかふれられていない。》

(記録)資料 ドイツ外交官の見た南京事件 / 石田 勇治
https://www.amazon.co.jp/dp/4272520644/
「安全地帯の記録」のドイツ外交官バージョンのような趣。気になった点だけいくつか挙げる。資料34で、市の発電所に勤務する労働者54名のうち43人がこの発電所は国営だという理由で日本兵に殺害された、と書いている。資料37でトラウトマンは日本軍の振る舞いが中国人民の中に愛国主義を芽生えさせたのだと指摘している。資料47シャルフェンベルクの書簡を見ると、ローゼンという人物は情緒不安定で事あるごとに日本軍と摩擦を引き起こすなど、問題の多い人物だったようだ。こういったドイツ本国に送った報告書を翻訳した資料集。

(記録)松井石根大将の陣中日誌 (芙蓉書房): 1985 / 田中正明
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001745291-00
松井石根大将の、昭和12年11月1日〜13年2月28日までの陣中日誌を中心に、そこに至るまでの支那事変日誌の抜粋、さらに東京裁判当時の日誌など。東京裁判当時のこの箇所はもしかして幕府山事件の話?
《予が虐殺事件なるものを初めて耳にしたるのは、終戦後米国側の放送なり、予は此事を聞きたるを以て当時の旧部下をして其の真否を調査せしめたるも、南京占領当時、又は其直後、捕虜遁走を企てし事件ありて、そのため其少数を射殺したる事ありたりとの報を得たるも、之も責任者の報告にあらざるを以て、其詳細不明にして、而かも余は之を確言する事能はず。》

(記録)BC級戦犯 (ちくま新書) / 田中宏巳
https://www.amazon.co.jp/dp/B00NFHZOLK/
BC級戦犯裁判から先の戦争を見た著書。南京戦に関する箇所だけを抜き出すと、非常に興味深いことがわかる。戦後作られたイメージとは逆に、BC級戦犯裁判での南京の扱いは小さい。
《〈中国の法廷〉 中国では、漢口、北京、広東、瀋陽、南京、済南、徐州、上海、台北、太源の一○カ所に法廷が設置された。(中略)このうち、審理件数が多かったのは、上海法廷一八三件、広東法廷一七一件、漢口法廷一五一件、瀋陽法廷一三六件、北京法廷一一二件で、他と合わせて八八三件にのぼった。 南京事件があったとされる南京法廷はわずかに三七件に過ぎない。》

(記録)「BC級裁判」を読む / 半藤 一利
https://www.amazon.co.jp/dp/4532167523/
南京戦に関係する箇所でいうと、百人斬り競争について比較的中立に書いている。要約すると次のようになる。東京裁判の米国人検事には創作記事と理解してもらえた。ところが南京法廷に送られた。向井・野田両少尉は弁明したが死刑判決となった。問題の記事は非現実的だが、それでも戦闘行為として書いていた。捕虜や非戦闘員の殺害とは書いていなかった。にも関わらず、判決では捕虜と非戦闘員の殺害にすり替わった。中国側は南京事件を日本軍の残虐行為を世界に訴える象徴的事件と捉えていて、戦争犯罪に問うためにすり替えたのだろうという。

(記録)私の見た東京裁判〈上〉 (講談社学術文庫) / 冨士 信夫
https://www.amazon.co.jp/dp/4061588419/
東京裁判のほとんどの審理を傍聴した著者による著書。南京事件に関しては別に挙げた同じ著者の『「南京大虐殺」はこうして作られた―東京裁判の欺瞞』を読んだ方が良い。

(記録)私の見た東京裁判〈下〉 (講談社学術文庫) / 冨士 信夫
https://www.amazon.co.jp/dp/4061588427/
上の続き。

(糾弾)南京事件 (岩波新書) / 笠原 十九司
https://www.amazon.co.jp/dp/4004305306/
南京攻略戦全般〜南京事件を詳述している。殺戮場面の描写も多いが、その一部は戦闘場面。「南京事件において十数万以上、それも二十万人近いかあるいはそれ以上の中国軍民が犠牲になったことが推測される」と書いている。秦郁彦「南京事件」とポジションが近い書籍。

(糾弾)南京大虐殺の研究 / 洞 富雄
https://www.amazon.co.jp/dp/4891882239/
ツイッター論戦の書籍版のようなもの。いちいち板倉由明やら偕行社を批判しないと気が済まないらしい文体が目障り。とはいえ、情報量が多いから参考にはなる。全体の約1/5を幕府山事件に費やしている。

(糾弾)南京大虐殺の証明 / 洞 富雄
https://www.amazon.co.jp/dp/4022554517/
1986年の出版だが、この人は事案そのものを論じるよりも、反対論者叩きに熱中するタイプの人のようだ。そういう感想を抱く。

(糾弾)南京大虐殺―決定版 / 洞 富雄
https://www.amazon.co.jp/dp/4198126496/
1982年の出版だから、改めて見ると論が甘い。今では信用できないとされている証言をそのまま収録したりもしている。80年代だとこんなものかもしれない。

(糾弾)「南京事件」を調査せよ / 清水 潔
https://www.amazon.co.jp/dp/4163905146/
小野日記(『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』)を基点にして、南京事件の一角に位置付けられる幕府山事件を調査したレポート。日テレ系で放映されたNNNドキュメント「南京事件 兵士たちの遺言」(2015年10月4日放映)と「南京事件Ⅱ」(2018年5月14日放映)に対応している。内容的には小野日記ありきで「自衛発砲説は戦後の創作」と断じているが、文献調査が不足しすぎてる印象。清水氏は例えば、同盟通信・前田雄二記者が日本軍の警備司令部から「少数の日本部隊が、多数の投降部隊を護送中に逆襲を受けたので撃滅した」と説明を受けていることとか気づいてないでしょう。ただ、小野氏が持っていたであろうインタビュー音声の書き起こしは参考になった。

(糾弾)南京大虐殺と日本軍 / 渡辺 寛
https://www.amazon.co.jp/dp/475030915X/
南京事件の一角に位置付けられる幕府山事件に絞って論じている。幕府山事件の自衛発砲説、あるいは南京事件否定派への敵対感がにじみ出ている。この手の著書にしては著者の主観が前面に出過ぎ感。

(糾弾)侵华日军南京大屠杀暴行照片集
中国側が出版した写真集。不鮮明で疑惑の画像も多い。

(糾弾)南京大虐殺図録 (五州伝播出版社): 2005 / 朱成山 監修
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000008394884-00
上と一部被っているが、写真集。埋葬団体の記録も画像で載っている。日本語版。

(糾弾)証言・南京大虐殺―戦争とはなにか / 南京市文史資料研究会
https://www.amazon.co.jp/dp/4250840247/
ティンパーリの「戦争とは何か」かと思ったら違った。内容的には80年代の教科書問題の頃に、日本が再び軍国主義化したら蒸し返してやろうというつもりで中国側で南京戦の被害者を調査したものであるそうだ。それの和訳版。被害者の口述の聞き取りを整理したものや、80年代の新聞に載った被害者の証言など。別の章では、燕子磯で渡河しようとしていた軍人と市民10万人が虐殺されたとか、紫金山山麓で三千人を生き埋めにしたとか、犠牲者総数は40万人で、それでも全てではないとか書いてある。

(糾弾)南京への道 (朝日文庫) / 本多 勝一
https://www.amazon.co.jp/dp/4022608226/
被害者証言集。80年代の論調がよくわかる。

(糾弾)中国の旅 / 本多 勝一
https://www.amazon.co.jp/dp/4022539844
昭和47年(1972年)の出版。被害者体験談集。この頃から南京論争が始まった。ちょうど日中国交正常化の年でもある。そこに意味があるのかもしれない。

(幻影)史実の歪曲―東京裁判に見る南京虐殺事件 南京攻略戦 / 畝本 正己
https://www.amazon.co.jp/dp/4876194106/
『南京戦史』を取りまとめた畝本正己氏(南京戦当時は独立軽装甲車第二中隊小隊長)による著書。『証言による「南京戦史」』、『南京戦史』(偕行社)と内容的には被るが、畝本氏の名義で東京裁判にテーマを限定しての考察。

(幻影)再現 南京戦 / 東中野 修道
https://www.amazon.co.jp/dp/4794216165/
これは南京論争ではなく、南京攻略戦全体を網羅的に見ようとした著書。情報量が多いので、改めて読んでも参考になる。

(幻影)南京「大虐殺」被害証言の検証―技術屋が解明した虚構の構造 / 川野 元雄
https://www.amazon.co.jp/dp/4886563775/
本多勝一著『南京への道』に登場する29人の被害証言(完全な伝聞を除いた分)について、著者が事実性を検証をしている。結論としては、日本軍による住民虐殺を矛盾なく裏付けるものはひとつもなかったとし、多くは撤退する中国軍の蛮行だろうとしている。私も「湖山村の虐殺」というのを調べたらそうだった。

(幻影)「南京大虐殺」のまぼろし (1973年) / 鈴木 明
https://www.amazon.co.jp/dp/B000J9G632/
なかった派、あるいは否定派を「まぼろし派」と呼ぶことになったきっかけの書籍だったと思う。ただ、この著書ではなかったと言ってるのではなく、“南京大虐殺”とは言われているものの実は同時代資料(南京戦当時に書かれた史料)がさっぱりなく、いずれも東京裁判に向けて用意されたものばかりである。という趣旨で「まぼろし」と書いている。1973年当時ならそうかも。

(幻影)「南京事件」発展史 / 冨澤 繁信
https://www.amazon.co.jp/dp/4886562981/
私が自分の記事で『原初的南京事件』などと書いているのは、この書籍からの借用である。南京戦時点から始まって、犠牲者数が発展的に増えていく様子が論述されている。

(幻影)南京事件の核心―データベースによる事件の解明 / 冨沢 繁信
https://www.amazon.co.jp/dp/4886562361/
「安全地帯の記録」を全てデータベース化して、日時、場所、被害内容等で分析をしている。その結果は、記載されている「事件」は、12月17日前後と、翌年1月29日頃が突出して多かった。12月17日とは入城式のあった日であり、1月29日頃というのは南京に残った天谷支隊が避難民を安全区から元の住居に帰還させようとした時期である。著者はこれを、国際委員会の「やらせ」または「捏造」であろうとする。

(幻影)真説・南京攻防戦―生証人たちが叫ぶ南京戦の実相 / 前川 三郎
https://www.amazon.co.jp/dp/477332032X/
著者は南京戦には関与していないが、昭和15年から軍歴がある。地味だが自己主張よりも証言や他文献の紹介が多いので、意外に参考になる。

(参考)【復刻本】火野葦平の「土と兵隊」(改造社版)―中国戦線従軍記シリーズの名作 (響林社文庫) / 火野葦平
https://www.amazon.co.jp/dp/B00VC0OM6U/
中国戦線で従軍した一兵卒の日記的な記録。原文は弟への手紙とのこと。参戦者には当たり前であっても、我々のように戦争体験がない者にはわからないこと=つまり、戦闘しながら行軍(徒歩)し、その合間に食う、寝る、排泄する、という従軍生活がどういうことかがよくわかる作品。住民との関わりの描写も多数。続編に「麦と兵隊」「花と兵隊」がある。

(参考)蜀碧・嘉定屠城紀略・揚州十日記  (東洋文庫 (36)) / 彭 遵泗
https://www.amazon.co.jp/dp/458280036X/
南京戦とは関係ないが、中国史における「屠城」の様子がわかる著書。南京大虐殺を主張する中国人の念頭にあるのはこのイメージではないのか。
Wiki:『揚州十日記』とは、明末清初時代に王秀楚が著作した稗史(はいし、小説風の歴史書)で、『明季稗史初編』のひとつである。著作者の王秀楚は当時揚州に在住していた無名の一市民であると推定され、この著作は1645年(順治2年)の清軍と明軍による揚州攻防とその後の清軍による略奪・殺戮行為を、自身の見聞を中心に描いたものである。清軍による虐待行為の描写を含んでいるため、清朝支配下では禁書となり公には刊行されなかったが、写本などの形で秘密裏に流通した。

(参考)匪賊―近代中国の辺境と中央 / フィル ビリングスリー
https://www.amazon.co.jp/dp/4480856536/
底辺の暴力集団から見た中国の近現代史、といった感じの著書。中国では辺境あるいは王朝交代期にはこういう勢力が跋扈するという歴史的特性を知っておくといいのかもしれない。権力が維持されている時代には押さえ込まれていても、世が乱れればまた匪賊が暴れ出す。混乱に乗じて勝ち上がれば、その匪賊が軍閥や政府になる。
Wiki:匪賊(ひぞく)は、「集団をなして、掠奪・暴行などを行う賊徒」を指す言葉。日本では、特に近代中国における非正規武装集団を指す。
Amazon:匪賊とは何か。どの様な条件が賊徒を生み育てるのか。絶望的な状況に武器をとって立ち向かったのはどの様な人々であったのか。白狼、張作霖、伊達順之助ら豪傑たちが躍動する近代中国の一大叙事詩。

(参考)中国の大プロパガンダ――恐るべき「大外宣」の実態 (扶桑社BOOKS) / 何 清漣
https://www.amazon.co.jp/dp/B07ZSG5CV2/
南京戦とは直接的には関係ないが、現代の中華人民共和国のプロパガンダを扱った著書。これを読むと、中国にとってはプロパガンダとは軍隊と同じ戦略ツールであり、西側諸国が健全な民主主義のために言論の自由と公正な報道が必要と考えるのとは全く異質の体制であることがわかる。
ところで「檄を飛ばす」の「檄」とは、『昔,中国で戦争の際に同志をつのったり,あるいは役所の通達・布告を知らせるために木札に書かれた文書。…敵の罪悪とわが方の正義を明らかにして,大衆の心をつかむことが肝要とされる。』(世界大百科事典 第2版)とあるように、それこそ三国志のような時代から中国人にとって宣伝戦は重要な戦略だったのかもしれないと思った。

(参考)占領軍の検閲と戦後日本 閉された言語空間 (文春文庫) / 江藤 淳
https://www.amazon.co.jp/dp/4167366088/
いわゆる「WGIP(ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム)」について触れた書籍。戦後の自虐史観はGHQの占領政策に端を発していると論じている。
《占領終了後、すでに一世代以上が経過しているというのに、いまだにCI&Eの宣伝文書の言葉を、いつまでもおうむ返しに繰り返しつづけているのは、考えようによっては天下の奇観というほかないが、これは一つには戦後日本の歴史記述の大部分が、『太平洋戦争史』で規定されたパラダイムを、依然として墨守しつづけているためであり、 さらにはそのような歴史記述をテクストとして教育された戦後生れの世代が、次第に社会の中堅を占めつつあるためである。》

(参考)世界がさばく東京裁判 / 佐藤 和男
https://www.amazon.co.jp/dp/4944219369/
監修の佐藤和男氏による冒頭の一文を引用する。
《国際法に準拠して裁くと豪語して占領軍が実施した東京裁判は、しかし、実際には実定国際法に違反していた軍事行動に過ぎず、本質的に連合国の政治的措置であった。国際法に疎い日本国民は、あたかもそれが厳正な司法裁判であるかのごとく錯覚し、爾来、多くの者が祖国の歴史を誇りをもって顧みることを忘れ、甚だしきは国家を呪詛するに至った。》
その上で、戦犯裁判・GHQ関係者、連合国側の政治家・軍人、同じく連合国側の法律専門家、歴史学者、マスコミ関係者などが東京裁判の問題点を指摘した文面をこれでもかと並べている。連合国側においてすらこれほど多くの人(表紙には85人とある)が東京裁判の欺瞞を見抜いていたのかと改めて思う。

(参考)戦争犯罪と法 / 多谷 千香子
https://www.amazon.co.jp/dp/4000236660/
東京地検検事や旧ユーゴ戦犯法廷判事などを務めた著者による本邦初の「教科書」。冒頭でニュルンベルク裁判・東京裁判の問題点についても触れている。ただし、あくまでも教科書。




《あとがき》


この記事のコメントを書くために蔵書を改めてざっと斜め読みした感想でいうと、糾弾系は読みづらい。私の持論とは志向が違うからというのもあるだろうけど、それ以外に反対論者への批判が目に余る。他者の吊るし上げは見苦しいという反感も覚える。それでいうと、同じ糾弾系でも事案そのものを論じている秦郁彦や本多勝一あたりの著書の方が読みやすい。

幻影系でいうと、やはり日本軍関係者からの反論が印象的。筆致はそれぞれであっても、根底にある想いは森王琢氏(歩兵第二十聯隊第三大隊長代理)が述べたようなことなのだろうと思う。一部の論者は、関係者が鬼籍に入る年代になってから否定論が始まったなどというが、そういうことではないのである。言論界が黙殺していただけなのだ。

改めて以下に画像で貼っておく。





他にもまだ蔵書はあるが、気が向いたらまた後日追記する。




《改版履歴》


2021.02.16 新規
2022.10.19 4項に笠原「南京事件」追記。
2022.11.17 1項に「南京事件 70 年―収束しない論争」追記。




《関連記事》


★南京大虐殺の真相(目次)
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/9e454ced16e4e4aa30c4856d91fd2531




以上。





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《南京事件》揚子江上の5万

2021年02月12日 | 南京大虐殺
2021.03.03 燕子磯関係を別記事「燕子磯の5万」に分離独立、併せて関連の記述を修正


南京陥落後に「揚子江を覆い尽くす5万の遺体を見た」というような話がある。中国が建立している侵华日军南京大屠杀遗址纪念碑にもそれらしいものがある。
漠然と信じがたい話にも感じるが、断片的にはある種の事実を含んでいるようなので、考察する。

結論を先に書けば、陥落日に下関付近から揚子江を渡河脱出しようとした多数の敗走兵を日本陸海軍が挟撃した事実、さらに陥落日から時間差で下関付近から下流の燕子磯に多数の遺体が漂着したであろう事実、に端を発して似て非なる複数種類の大量殺戮物語が派生したように見える。





《論旨》


1. 燕子矶江滩遇难同胞纪念碑
・中国が建立した「燕子矶江滩遇难同胞纪念碑」に、「武装解除した兵士3万と市民2万が揚子江の北岸に逃れようとして燕子磯に避難したところを日本船に阻まれ、日本軍に包囲されて殺害された」とある。
・しかし、日本側は陸軍も海軍も燕子磯付近では特に大きな軍事行動をした形跡がない。燕子磯事案の真相は、上流の下関周辺から燕子磯に漂着した大量の遺体と、周辺地域でのエピソードの断片を組み合わせた虚構の殺戮事案であると結論。

2. 赤星義雄氏の「5万」
・『揚子江が哭いている』(創価学会青年部反戦出版委員会/1979.9出版)に、赤星義雄氏(第六師団歩兵第十三連隊)が陥落翌日に揚子江を埋め尽くす5万の遺体を目撃した話と、聞いた話として8km先の下関から渡河脱出しようとした軍民を日本軍が攻撃した話が載っている。
・しかし、当時の日本が製作した『南京(戦線後方記録映画)』の陥落直後の揚子江の映像には揚子江を埋め尽くす遺体や浮遊物は何も写っていない。
・医学論文を参照すれば、冬の12月に水死体が翌日に浮くのは早すぎる。
・ただし、燕子磯は下関の下流約8km。つまり、聞いた話とは燕子磯に流れ着いた遺体について当時現地で語られていた実話の可能性。

3. 小説『生きている兵隊』
・小説『生きている兵隊』(石川達三)には、下関から対岸の浦口に渡河脱出しようとする敗走兵の描写として「その人数凡そ五万」と書かれている。石川達三氏は、陥落2週間後の正月に南京入りしたという。
・その一方で、石川達三氏は亡くなる前に「私が南京に入ったのは入城式から2週間後です。大殺戮の痕跡は一片も見ておりません。何万の死体の処理はとても2、3週間では終わらないと思います。あの話は私は今も信じてはおりません」と、阿羅健一氏に返信している。

4. 翌月の目撃談
・揚子江上の死体については、満鉄社員・長沢武夫氏も目撃証言を書いている。
・ただ、その時期は陥落翌月の昭和13年1月下旬であるとし、また「これらの死体は、潮の干満で上流へ押し上げられたり下流へ流されたり」と記述している。

5. 揚子江は「感潮河川」
・揚子江は「感潮河川」であり、潮汐の影響で水位が上下動する。南京においては、冬季には短時間の逆流もあるという。

6. 流体工学からわかること
・流体工学によれば、連続して曲がる川においては、曲がりの内側下流部分に堆積するという。
・すなわち、南京戦で揚子江に流れた大量の遺体が、潮汐の影響と地形的な理由から、燕子磯などの河岸付近を往復しながら長期間滞留していたと推測。
・紅卍字会の埋葬記録のうち、特務機関員の丸山進氏が“水増し”とした部分は、私の考察では水辺の遺体を河に押し流したものと判定したが、それらの地点は今回の地形的な考察と一致。

7. 「5万」の正体
・「揚子江を渡河脱出しようとした敗走兵が5万」、「揚子江上に浮かぶ遺体数が5万」、あるいは「燕子磯で殺害された軍民が5万」というような複数の異なる種類の「5万」という話が流布されているが、全て同一の事案から戦時下の混乱の中で派生した似て非なるバージョンであると判断できる。
・本件に関して南京戦で確認できる事実とは、(1) 陥落日に下関付近から渡河脱出しようとする多数の敗走兵を日本陸海軍が挟撃した事実、(2) 陥落日から時間差で下関付近から燕子磯に多数の遺体が漂着したであろう事実、である。
・「5万」という数字自体は戦乱の渦中で正確に数えられるわけはなく、また日本軍から出た数字でもなさそうだから、これは目撃談からのイメージに由来していると思われる。


8. 「10万」の正体
・安全区国際委員会のラーベは、陥落翌年の1938年6月8日付け『ヒットラー宛の上申書』にて、《中国側の申し立てによりますと、十万人の民間人が殺されたとのことですが、これはいくらか多すぎるのではないでしょうか。我々外国人はおよそ五万から六万人と見ています。》と書いている。当時の南京市民の間で流布されていた話として「揚子江上に浮かぶ遺体数が5万」あるいはその変形として「燕子磯に漂着した遺体が5万」であれば、紅卍字会の埋葬記録4.3万と合わせて約10万であり、話が整合する。




《1. 燕子矶江滩遇难同胞纪念碑》


以下の No.7 燕子矶江滩遇难同胞纪念碑に「武装解除した兵士3万と市民2万が揚子江の北岸に逃れようとして燕子矶に避難したところを日本船に阻まれ、日本軍に包囲されて殺害された」とある。燕子磯(燕子矶)という場所は幕府山の峰の北端にあたる。日付は明記されていないが、日本船に渡河を阻まれたという話になっているので、陥落日(12月13日)の出来事と思われる。

No.7 燕子矶江滩遇难同胞纪念碑

碑文:一九三七年十二月,侵华日军陷城之初,南京难民如潮,相继出逃,内有三万余解除武装之士兵暨两万多平民,避聚于燕子矶江滩,求渡北逃。讵料遭日舰封锁所阻,旋受大队日军之包围,继之以机枪横扫,悉被杀害,总数达五万余人。悲夫!其时,尸横荒滩,血染江流,罹难之众,情状之惨,乃世所罕见,追念及此,岂不痛哉?!爰立此碑,永志不忘。庶使昔之死者,藉慰九泉;后之生者,汲鉴既往,奋发图强,振兴中华,维护世界之和平。

訳文:1937年12月、日本軍の侵攻が始まると南京の難民は潮のように次々と逃げていった。武装解除された兵士3万人以上、民間人2万人以上が燕子磯の浜辺に集まり、彼らは川を渡り北へ逃げようとしたが、日本の船に阻まれてしまった。日本軍の大部隊に囲まれてしまったのだ。続いて機銃掃射が行われ、全員が殺された。犠牲者の総数は5万人を超えていた。何という悲劇か! 当時、荒れ果てた岸辺には死体が散乱し、河は血に染まり、犠牲者の数と悲惨な状況は世界でも類を見ないものでした。私はここにこの記念碑を建立します、決して忘れないように。この記念碑を建立して、過去に亡くなった人たちの記憶を慰め、未来に生きる人たちが過去から学び、自らを強くし、中国を活性化させ、世界平和を維持するために努力したいと思います。

侵华日军南京大屠杀遗址纪念碑
https://zh.wikipedia.org?curid=3591632



この件については次の記事に分割して独立させたのでここでは簡単に示す。

《南京事件》燕子磯の5万
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/d17befeb295e05b4539da909d8e1c503

・燕子磯という場所で日本軍が“5万人殺戮”というような規模の軍事行動をした形跡がない。
・本件は、上流の下関周辺から燕子磯に漂着した大量の遺体と、周辺地域でのエピソードの断片を組み合わせた虚構の殺戮事案であると結論。





《2. 赤星義雄氏の「5万」》


『揚子江が哭いている』(創価学会青年部反戦出版委員会/1979.9出版)に、赤星義雄氏(第六師団歩兵第十三連隊)が揚子江を埋め尽くす5万の遺体を目撃した話と、聞いた話として8km先の下関から渡河脱出しようとした軍民を日本軍が攻撃した話が載っている。

すでに城内は、赤十字難民区を除いて、ゲリラ隊や敵兵らしい姿は、誰一人として見なかった。今まさに、南京城は日本軍の手に陥ちたのであった。私たちは、市内の掃討を繰り返したが、その時は、抵抗などはほとんどなく、そして、その晩、すなわち十三日の晩は、城内の一角で警備についた。

明けて十二月十四日、私たちは城内を通り、揚子江岸に向かって進んで行った。ちょうど、中華門の反対側になるが、重砲陣地のある獅子山へ行った。山の岩盤をくり抜き、車一台が通れるような道路をつくり、約五十メートルごとに巨大な砲が据えつけてあった。日本海軍を阻止するために作られたと聞いていた。もちろん、敵の姿はなかった。

その砲台から眼下を流れる揚子江を見ると、おびただしい数の木の棒みたいなものが、流れているのが遠望された。

私たちは獅子山から降りて、揚子江岸へと向かって行った。途中、中国軍兵士の死体が転がり、頭がないものや、上半身だけしかないものなど、攻撃のすさまじさを物語っていた。

揚子江岸は普通の波止場同様、船の発着場であったが、そこに立って揚子江の流れを見た時、何と、信じられないような光景が広がっていた。

二千メートル、いやもっと広かったであろうか、その広い川幅いっぱいに、数えきれないほどの死体が浮遊していたのだ。見渡す限り、死体しか目に入るものはなかった。川の岸にも、そして川の中にも。それは兵士ではなく、民間人の死体であった。大人も子供も、男も女も、まるで川全体に浮かべた“イカダ”のように、ゆっくりと流れている。上流に目を移しても、死体の“山”はつづいていた。それは果てしなくつづいているように思えた。

少なくみても五万人以上、そして、そのほとんどが民間人の死体であり、まさに、揚子江は“屍の河”と化していたのだ。

このことについて私が聞いたのは、次のようなことであった。

前日、南京城を撤退した何万人にのぼる中国軍と難民が、八キロほど先の揚子江流域の下関という港から、五十人乗りほどの渡し船にひしめきあい、向う岸へ逃げようとしていた。

南京城攻略戦の真っ只中で、海軍は、大砲、機関銃を搭載して揚子江をさかのぼり、撤退する軍、難民の船を待ち伏せ、彼らの渡し船が、対岸に着く前に、砲門、銃口を全開し、いっせいに、射撃を開始した。轟音とともに、砲弾と銃弾を、雨あられと撃ちまくった。直撃弾をうけ、船もろともこっぱ微塵に破壊され、ことごとく撃沈された、と。

私は、この話を聞いた時、心の中で、「なぜ関係のない人までも…」と思い、後でこれが、“南京大虐殺”といわれるものの実態ではなかろうかと思った。

南京城で二日間の休養をとった後、五、六十台のトラックに分乗し出発、夕方には蕪湖に到着した。

(赤星義雄/揚子江を埋めた屍/『揚子江が哭いている 熊本第六師団大陸出兵の記録』/創価学会青年部反戦出版委員会)




(下関の遺体)

第十軍参謀・谷田勇大佐が、同じ14日に下関を見ているので引用する。

「軍司令部が南京城内に入ったのは十四日のお昼直前、十一時三十分でした。中華門から入ったが、付近に死体はほとんどなかった。
三時頃になり、私は後方課長として占領地がどんな状態か見ておく必要を感じ、司令部衛兵一個分隊を伴い乗用車で城内一帯を廻った。下関に行った時、揚子江には軍艦も碇泊しており艦長と会見した。この埠頭の岸辺には相当数の死体があった。千人といったが、正確に数えれば千人以上あったと思う。二千人か三千人位か。軍服を着たのが半分以上で、普通の住民もあった」

(第十軍参謀・谷田勇大佐/『「南京事件」日本人48人の証言』/阿羅健一)


同種の証言は複数あるから、これについては事実と思われる。

しかし、その同じ場所で赤星義雄氏のように『その広い川幅いっぱいに、数えきれないほどの死体が浮遊していた』のを見たという日本軍将兵の話は他で見た覚えがない。事実なら複数の将兵からも証言がありそうなものである。



(映像では浮遊物は写っていない)

陥落後に日本側が撮影した『南京 戦線後方記録映画』を見る限り、揚子江上にそのような浮遊物は何も見えない。撮影地点は情景からみて下関と思われる。



この場面のナレーションは次のように言っている。

『今、ランチを連ね、トラックを載せていくのは、我が軍がさらに対岸に進撃せんとするを語るものであります。沖合に停泊するは、我が艦隊。敵の機雷、および妨害の危険を犯しつつ、東岸各地の敵港を制圧しつつ、13日午後5時、ここに来ったもの。対岸に渡らんとする敵をここに待ち受けて撃滅したのであります。』

(南京 戦線後方記録映画)


上の場面では、右に進むランチに合わせてカメラを左から右にパンする際に、砲艦2隻、駆逐艦2隻の合計4隻写っているように見える。その状況からすると陥落直後と思われるから、赤星義雄氏の記述とは矛盾することになる。



(遺体が浮くには早すぎる)

一般に死体は水に沈むが、腐敗が始まると浮いてくるという。

次の論文によれば、「東京都内の河川(感潮区域)および港湾(沿岸部)における水死体浮揚発見月別日数」としては、12月であれば最小浮揚発見日数が14日、最大浮揚発見日数が29.5日、平均浮揚発見日数は21.44日であるという。平均気温で見ると、東京も南京もほとんど同じ。

昭和医学会雑誌第21巻第1号 水死体の淨揚に関する研究
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsma1939/21/1/21_1_56/_pdf





従って、赤星義雄氏は陥落翌日14日の目撃談として『その広い川幅いっぱいに、数えきれないほどの死体が浮遊していたのだ』と書いているが、これはウソではないか。浮遊する大量の遺体を見たにしては時期が早すぎる。

14日の時点では、谷田勇大佐と同様に地上または岸辺での遺体しか見ることができなかったはずである。

なお、水死体ではなく地上での遺体を水葬にした場合は肺に残った空気の関係ですぐに浮くという指摘がある。しかし、南京戦においては陥落日(12月13日)に地上で生じた遺体を翌日までに数千あるいは数万の単位で揚子江に投げ込んだ事実はない。




(聞いた話の奇妙さ)

この赤星義雄氏の記述にはさらにおかしなところがある。獅子山は南京城内の北端であり、そこから最寄りの挹江門を出て最短距離の揚子江岸に行けば、そこが下関である。船の発着場と書いているから、下関埠頭のことと思われる。



その下関埠頭に立って自分が見た光景について、聞いた話として「八キロほど先の揚子江流域の下関という港から…」と書いているのは奇妙である。

少なくとも「聞いた話」の話者は、下関から8km離れた地点の視点で語っている。

「聞いた話」を完全再現することは不可能だが、その話者は下関から8km下流の燕子磯の岸辺に立ち「ここにある遺体は、8kmほど先の揚子江流域の下関という港から対岸に渡河脱出しようとした人たちが日本軍に攻撃され、ここに流れ着いたものである」と語った、というように理解した方が辻褄が合う。

「揚子江流域の下関という港」という言い回しも、それを補強する。というのも、南京戦当時の燕子磯が面している河は揚子江本流ではなく八卦洲を挟んだ支流である。中国の言い方だと、「夾江」(意味としては、狭い川)となる。

1933年当時の地図を見てもわかる。



下関は今も昔も揚子江に面しているが、当時の燕子磯は揚子江に面していないのである。だから、燕子磯の岸辺に立てば、ここにある遺体はこの河とは別の河である揚子江流域の下関の港から流れ着いた、という言い回しになったものと推察できる。



(第六師団歩兵第十三連隊の行動)

ところで、赤星義雄氏の所属は第六師団歩兵第十三連隊とのことだが、第十三連隊の戦闘詳報は見つからなかったものの、第六師団の戦時旬報はあった。

戦時旬報(第13、14号) 自昭和12年12月1日至昭和12年12月20日 第6師団司令部(2)
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C11111026100


これを見ると、第十三連隊第二大隊が陥落日(12月13日)に中華門付近から入城して清涼山まで進出し、翌14日に南京城北端の獅子山まで進んでいるように見える。



従って、赤星義雄氏は所属を第六師団歩兵第十三連隊とまでしか書いていないが、第二大隊であるとすれば、概ね行動に矛盾はなさそうである。


ただし、その続きの戦時旬報を見ると、第13連隊を含む第11旅団は蕪湖の警備を命ぜられ、16日に南京を出発、19日に蕪湖到着となっている。

戦時旬報(第15号) 自昭和12年12月21日至昭和12年12月31日 第6師団司令部
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C11111026300


つまり、赤星義雄氏の南京における直接の見聞は、基本的には16日まででなければならない。赤星義雄氏自身も引用箇所末尾でそう書いている。その後、南京に立ち寄った形跡はない。その意味からも、大量の浮遊遺体は見ていないはずである。



(伝聞情報からの創作か)

以上の要素を鑑みると、赤星義雄氏が第六師団歩兵第十三連隊に所属し、14日に獅子山まで行ったことまでは否定しないが、そこからの目撃談は、すべて後日どこからか聞いた話の一部を自身の目撃談に作り変えた創作ではないかと疑われる。

ただし、聞いた話の内容は、概ね事実に沿っているように見える。




《3. 小説『生きている兵隊』》


1938年3月号の『中央公論』に発表された小説『生きている兵隊』(石川達三)には、下関から対岸の浦口に渡河脱出しようとする敗走兵の描写として「その人数凡そ五万」と書かれている。

挹江門は最後まで日本軍の攻撃をうけなかった。城内の敗残兵はなだれを打ってこの唯一の門から下関の碼頭に逃れた。前面は水だ。渡るべき船はない。陸に逃れる道はない。彼等はテーブルや丸太や板戸や、あらゆる浮物にすがって洋々たる長江の流れを横ぎり対岸浦口に渡ろうとするのであった。その人数凡そ五万、まことに江の水をまっ黒に掩うて渡って行くのであった。そして対岸について見たとき、そこには既に日本軍が先廻りして待っていた! 機銃が火蓋を切って鳴る、水面は雨に打たれたようにささくれ立ってくる。帰ろうとすれば下関碼頭ももはや日本軍の機銃陣である、――こうして浮流している敗残兵に最後のとどめを刺したものは駆逐艦の攻撃であった。

(『生きている兵隊』/石川達三)


この『生きている兵隊』について阿羅健一氏は次のように書いている。石川達三氏は陥落2週間後に南京入りしたというから、上の文面が事実に基づくとしても、それは取材や伝聞情報からの再構成ということになる。

石川達三氏は昭和十年『蒼氓』で第一回芥川賞を受賞、昭和十二年、陥落直後の南京に中央公論社から特派された。十二月二十一日東京を発って、上海、蘇州、南京をまわり、一月下旬に東京に戻った。この時、主に第十六師団の兵士に会い、これをもとに『生きてゐる兵隊』を書き、二月十八日発売の『中央公論』に発表した。ところが『中央公論』は即日、新聞紙法により発売禁止になり、石川氏は起訴され、九月に禁錮四ヵ月、執行猶予三年の判決がおりた。
戦後になり、『生きてゐる兵隊』は南京事件を扱った小説と言われるようになった。
昭和五十九年十月、インタビューを申込んだが、会うことはできなかった。 理由は後でわかったが、それから三ヵ月後の昭和六十年一月に石川氏は肺炎のため亡くなった。インタビューを申込んだ時は胃潰瘍が良くなりつつあったが、会えるような状況ではなかったのである。しかし、そのおり、次のような返事をいただいた。
「私が南京に入ったのは入城式から二週間後です。大殺戮の痕跡は一片も見ておりません。
何万の死体の処理はとても二、三週間では終わらないと思います。あの話は私は今も信じてはおりません」

(『「南京事件」日本人48人の証言』/阿羅健一)



引用した本文の記述はまさに陥落日の下関付近で渡河脱出しようとする敗走兵を日本の陸海軍が挟撃した事案についてであり、「5万」という数字はさておき、事案の実在には疑いはない。

むしろ、事後的に見てもわりと正確である。「城内の敗残兵はなだれを打ってこの唯一の門から下関の碼頭に逃れた」とあるように、「敗残兵」という認識は日本軍の認識と一致している。市民とは書いていない。

陥落日には、下関対岸の浦口には国崎支隊が回り込んでいたが、それを「そして対岸について見たとき、そこには既に日本軍が先廻りして待っていた!」と描写している。

その国崎支隊の陥落日(12月13日)の戦闘詳報から抜粋する。

午後四時半頃に至り揚子江を遡江せる我が駆逐艦および掃海艇六隻また南京付近江上に進入す、当時我が第一線は既に津浦線に進出せしにより午後五時第二大隊(第五、第六、第八、機関銃二小隊欠)を浦口碼頭に前進せしめ同地を占領し海軍と協力し南京より退却する敵の撃滅を命じ同隊は直ちに予備隊の位置たりし馬王○を出発す。

建平-浦口附近戦闘詳報 (第10号) 自昭和12年12月3日至昭和12年12月16日 國崎支隊
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C11111135300



また、下関側からは33連隊や38連隊が攻撃している。それが、「帰ろうとすれば下関碼頭ももはや日本軍の機銃陣である」という描写になっている。

午後二時三十分前衛の先頭下関に達し前面の敵情を搜索せし結果揚子江には無数の敗残兵舟筏其他有ゆる浮物を利用し江を覆って流下しつつあるを発見す即ち連隊は前衛および速射砲を江岸に展開し江上の敵を猛射する事二時間殲滅せし敵二千を下らざるものと判断す

南京附近戦闘詳報 歩兵第33連隊
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C11111198100


南京城を固守せし有力なる敵兵団は光華門その他に於いて頑強に抵抗せしも各部隊の猛撃により著しく戦意を失い続々主として下関方向に退却を開始せしも前衛は先独立軽装甲車第八中隊をして迅速果敢なる追撃を行い午前(午後が正解と思われる)一時四十分頃渡江中の敵五六千徹底的大損害を与えて之を江岸および江中に殲滅せしめ次いで主力を以って午後三時頃より下関に進入し同日夕までに少なくとも五百名を掃蕩し竭せり

江蘇省南京市 十字街及興衛和平門及下關附近戦闘詳報 歩兵第38連隊
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C11111200400



また、下関埠頭付近に進出した陸軍は33/38連隊のみではなく、他にも45連隊が北上する形で下関まで進撃している。

さらに、「こうして浮流している敗残兵に最後のとどめを刺したものは駆逐艦の攻撃であった」という描写も、言い回しの演出はともかく内容的には概ね事実に沿っている。

次の記事に各艦の航泊日誌を出しているが、前衛部隊の砲艦・保津/勢多は13時半に進撃開始し、ほぼ最短所要時間の15時半に下関埠頭に強行接岸しているのに対して、同じ前衛部隊の駆逐艦・山風/涼風の下関接岸は17時半である。その間、敗残兵の乗ったジャンク船への攻撃および敵陣地への砲撃をしている。




石川達三氏が南京に入ったのは入城式から2週間後の正月というが、取材を通して概ね正確に陥落日の状況を把握した上で作文しているように見える。

だからこそ、余計に「5万」の出所が気になるが、日本の陸海軍将兵からは「5万」という数字は出てこない。

上述の33連隊戦闘詳報で見れば「揚子江を逃走中の敵は千名を下らざるべし」「殲滅せし敵二千を下らざるものと判断す」であり、38連隊戦闘詳報で見れば「渡江中の敵五六千徹底的大損害を与えて之を江岸および江中に殲滅せしめ」である。

海軍で見れば以下のように1万あるいは2万という数字が出てくる。ただし、上の記事でも考察したように、対象となる水域は八卦洲の東側、烏龍山砲台付近から八卦洲北回りで下関付近まで(航路にして約40km)であり、下関〜浦口間の水域だけではない。しかも、江上だけではなく、江岸付近の陸上も含む。

12月19日、快晴寒さ烈し
午前9時抜錨。江を下る。南京は江上より眺めたるに、今は全く死の街と化す。聞くならく。最後まで南京を守りし支那兵は、その数約十万にして、その中八万人は剿滅せられ、江を渡り浦口に逃げのびたる者約二万人あり。 下関に追ひつめられ、武器を捨てて身一つとなり、筏に乗って逃げんとする敵を、第十一艦隊の砲艦により撃滅したるもの約一万に達せりと云ふ。

(泰山弘道氏の従軍日記/証言による『南京戦史』(10))


(12月13日)
1323前衛部隊出港北岸利子江陣地を砲撃○○しつつ閉塞線を突破沿岸一帯の敵大部隊および江上を舟艇および筏等による敗走中の敵を猛攻撃殲滅せるもの約1万に達し尚天河口硫安工場付近の陣地を撃破し1530頃下関付近に達し折から城外進出の陸軍部隊に協力江岸の敗兵を銃砲撃しつつ梅子洲付近まで進出し掃海索を揚収す

1.実施経過/田村(劉)中佐(一掃) 南京遡江作戦経過概要
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C14120621400



ともかく、日本陸海軍からは江上の「5万」という数字は出てこないはずである。




《4. 翌月の目撃談》


揚子江上の死体については、満鉄社員・長沢武夫氏も目撃証言を書いている。

興味深いのは次の2点。

1)目撃談が、陥落から約1ヶ月後の昭和13年1月下旬という時期。
2)「これらの死体は、潮の干満で上流へ押し上げられたり下流へ流されたりしており…」という記述。

昭和十二年十二月南京陥落後、南京の図書収集の仕事を命ぜられ、十三年一月下旬、物資輸送の軍用列車にゆられて南京へ行った。

(中略)

その頃の南京は、獅子山の砲台の下あたりに、まだ中国兵の死体が放置されているのをよく見かけたし、南京下関と浦口の間の揚子江上には、南京を逃げ出す時の軍民の死体や、南京大虐殺の後始末の死体などで、あの広い揚子江がびっしり埋めつくされていた。

これらの死体は、潮の干満で上流へ押し上げられたり下流へ流されたりしており、その光景を見たやり切れない気持を、スウェン・ヘデンの探険記に没入することによって、僅かに癒すとともに、ヘデンの渇死寸前の不撓不屈の精神に鼓舞されながら読み進んだものである。

(長沢武夫/『長江の流れと共に 上海満鉄回想録』/上海満鉄会 1980年11月)


なお、この項と3項の赤星義雄氏の文章は、次の「ゆう氏」の記事を参考にさせていただき、原著の文面を別途確認および適宜修正した上で引用掲載している。

「揚子江が哭いている」より
http://yu77799.g1.xrea.com/souka.html





《5. 揚子江は「感潮河川」》


前項の長沢武夫氏がヒントをくれたので、史料の探求は一旦脇に置いて別の観点から見てみる。

「感潮河川」という言葉がある。手元の辞書によれば意味は次の通り。

【感潮河川】
潮の干満の影響を受ける河川。満潮時には,海水が遡上する。水位・流速の変化は,潮入りの区域よりもはるか上流にまで及ぶ。緩勾配の大河に多い。
(スーパー大辞林)



この現象に関する論文があった。

揚子江汽水河道の脈動的土砂移動とその季節特性について
http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00906/2013/19-0199.pdf


その中で論じられている最上流地点は『江陰』で、河口の上海からは200kmくらい上流。南京は河口から300kmくらい上流になる。

この論文のP201《図-6 洪水期と乾季の計算条件》を見ると、乾季には江陰流量が潮汐の影響で脈動的に流速がマイナスになるとある。つまり、揚子江が逆流している。





また、別の論文によれば(著者は一部重複している)、次のように書いてある。洪水期においても南京まで潮汐による水位変動が及ぶなら、乾季ならなおさら大きな水位変動があるものと思われる。

大潮における潮位差は3.5mに達する. このため非洪水期には約300KPの南京まで塩水が遡上し,洪水期においても100KPの滸浦まで遡上する.(中略)ただし潮汐による水位変動は洪水期でも南京付近まで達し,本研究の対象領域の上流端である江陰(175KP)では図-4に示すように大きな水位変動が観測される.

揚子江洪水期における感潮域の流れに対する潮汐の非定常効果
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jscejhe/68/1/68_1_67/_pdf/-char/ja


KP:キロポスト=河口からの距離 km


この論文のP69《図-4 江陰における水位(2003年7月)》を見ると、潮汐に合わせて水位が上下動し、大潮時には最大2m程度変動していることがわかる。




上の2つの論文の図も参考にしながら感潮河川で何が起きているかを簡単なイメージ図にした。



実際には、これに太陽の位置関係も加わる。太陽−地球−月の順で直列になれば満月、太陽−月−地球の順で直列になれば新月となり、その時期に大潮となって、河川水位の変動も最大になる。



また、次の資料にも「冬季間江流の短時間上流に向かうことあり」との記述がある。

揚子江水路誌. 第1巻(水路部 編/大正5年)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10304429/95





整理するとこうなる。

1)月の動き(正確には地球の自転)に合わせて12時間おきに揚子江の水位が上下動する。
2)満月と新月で潮汐が最大になる。
3)水位が下がる冬季には南京でも短時間の逆流が起きることがある。




なお、あるサイトのデータを借りると南京戦当時の月齢は下図のようになる。





南京戦の時期で、揚子江に逆流またはそれに近い状態が生じるのは次の日の頃。

1937年12月
03日 新月
13日(陥落日)
18日 満月

1938年1月
02日 新月
16日 満月
31日 新月





《6. 流体工学からわかること》


別の要素として川の流れを流体工学の観点からおさえておきたい。

一般社団法人日本機械工学会・流体工学部門の解説によると、連続して曲がる川の流れというのは次のようになるそうである。

・細かく切った紙を水面に浮かべると、曲がり部では外側で遅く、内側で速く流れていることがわかります。また、外側に移動することもわかります。
・外側と内側でどちらが速く流れているかは関係なく、流れが曲がれば二次流れが発生して底に沈んでいるものは内側に集まってきます。そのため、実際の川でも砂や土は曲がりの内側に堆積する傾向があります。

一般社団法人日本機械工学会・流体工学部門
https://www.jsme-fed.org/experiment/2019_4/005.html
アーカイブ



上のサイトにある動画も見た上で、掲載の図を模写しつつカスタマイズしたのが下図である。



一般に死体は水に沈むが、腐敗が始まると浮いてくるという。人体の比重は体脂肪にもよるが1.02〜1.05付近のようだから、肺から空気が抜ければ沈む。とはいえ、金属や岩石のように重くはないから、水流があれば動く。

前項の論文に基づけば、干潮時に河川の流速が上がると上図でのa→bへの横断方向の巻き上げが増え、満潮時に河川の流速が止まると(あるいは逆流が始まると)内側のb付近では逆向きの流量が生じるようである。

従って、一旦水底に沈んだ遺体は上図のbの位置に打ち上げられる。そして、日数が経てば腐敗が進んでガスが発生して浮き上がり、満潮時にはb付近から浮遊遺体が上流方向に拡散漂流する。



冒頭の図を再掲する。



八卦洲の南側を流れる支流は、まさに上述の『連続して曲がる川』そのものである。

地形を俯瞰的に見れば、順方向の流れならA(煤炭港〜魚雷営付近)とC(燕子磯)に滞留しそうに見える。また、一時的に逆流すれば、B(下関)とD方向に拡散漂流しそうである。

3項に挙げた「水死体の淨揚に関する研究」からすれば、陥落2週間後つまり正月前後から浮遊遺体が多く見られるようになったのではないか。

そうすると、4項の長沢武夫氏の証言も理解できる。

さらに言えば、紅卍字会の埋葬記録のうち特務機関員の丸山進氏が“水増し”とした部分は、私の考察では水辺の遺体を河に押し流したものと判定したが、その中でも特に大きい数字を記録している2地点(下図の X、Y )は今回の地形的な考察(上図の A、B )と一致している。そこに堆積する理由があったということになる。

陥落から2ヶ月以上経った時期にも魚雷営埠頭(上図のA、下図のX付近)に5,000体以上の遺体が(おそらく水辺に)あったのなら、それが満潮時には逆流方向に拡散漂流していたと考えられる。

4項の長沢武夫氏が見た第一の候補は、満月である1938年1月16日前後の正午頃。

また、陥落2週間後から浮遊遺体が増えたはず、という目で紅卍字会の埋葬記録を見ると、下図のY「12月28日 6,468体 下関江辺推下江内(=下関の岸辺にあったのを河の中に押し流した)」というのが目に付く。その頃から浮遊漂着遺体が目立つようになったものと思われる。




《南京事件》紅卍字会埋葬記録の検証
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/c9f414da142a782a28bc89d8db538f6b





《7. 「5万」の正体》


話を戻して、以下の複数の「5万」について考察する。

(A) 燕子矶江滩遇难同胞纪念碑

武装解除された兵士3万人以上、民間人2万人以上が燕子磯の浜辺に集まり、彼らは川を渡り北へ逃げようとしたが、日本の船に阻まれてしまった。日本軍の大部隊に囲まれてしまったのだ。続いて機銃掃射が行われ、全員が殺された。犠牲者の総数は5万人を超えていた。

(燕子矶江滩遇难同胞纪念碑/1985年8月建立)


(B) 赤星義雄氏

(下関埠頭からの目撃談として)
少なくみても五万人以上、そして、そのほとんどが民間人の死体であり、まさに、揚子江は”屍の河”と化していたのだ。

(『揚子江が哭いている』/創価学会青年部反戦出版委員会 編/第三文明社/1979.9)


(C) 石川達三氏

(下関付近の敗走兵の描写として)

彼等はテーブルや丸太や板戸や、あらゆる浮物にすがって洋々たる長江の流れを横ぎり対岸浦口に渡ろうとするのであった。その人数凡そ五万、まことに江の水をまっ黒に掩うて渡って行くのであった。

(『生きている兵隊』/1938年2月18日発売の『中央公論』に発表)



以上に加えて、さらに類似の以下も並べてみる。

(D) ヴォートリン日記

五時から六時の間にY・G・厳さんが訪ねてきた。彼は殺害されたと聞いていたのだが、しかし、彼にはその話はしなかった。彼の話によれば、占領の初期に三汊河で一万人が、燕子磯では二万人ないし三万人が、下関ではおよそ一万人が殺害されたと聞いたそうだ。

(1938年2月16日付記述/『南京事件の日々―ミニー・ヴォートリンの日記』/ ミニー ヴォートリン)


(E) 陳万禄氏の証言(南京法廷での証言)

燕子磯の砂洲でわが無幸の一般民と武装を解いた兵士五万人以上が虐殺されました。

(『証言・南京大虐殺―戦争とはなにか』 / 南京市文史資料研究会)




分類すると次のようになる。

「5万」下関燕子磯
犠牲者数(B) 赤星義雄氏(1979年)(A) 燕子矶江滩遇难同胞纪念碑(1985年)
(D) ヴォートリン日記(1938年2月)
(E) 陳万禄氏の証言(1946年)
脱出者数(C) 石川達三氏(1938年2月)



(C) 石川達三氏の描写だけは明らかに渡河脱出しようとする人々の人数であるが、下関付近を日本陸海軍が挟撃したことは事実なので、ほぼ全数死亡と仮定すると、(B) 赤星義雄氏の話と等価である。

その (B) 赤星義雄氏は、揚子江を漂う「5万」の屍を陥落翌日の自身の目撃談として書いているが、2項で論じたように映像には写っていないし、他の類似証言者もいないし、遺体が浮遊し始める時期としてはあまりにウソくさいし、現実的には埠頭に立って水面の浮遊物を「5万」と数えることは不可能でもある。
さらに、赤星義雄氏は聞いた話として浮遊する5万の屍と関連付けて「八キロほど先の揚子江流域の下関という港から」渡河脱出しようとした軍民の話を書いているが、下関から8km下流の燕子磯に大量の遺体が漂着するには陥落から相応の時間がかかり、ヴォートリン日記に又聞きの話として登場するのは翌年2月である。
しかも、赤星義雄氏は陥落から3日後の12月16日には南京を去っていて、その後の経歴としては南京に戻っていない。つまり、赤星義雄氏については、彼自身の参戦は事実としても、「5万」の目撃談も「聞いた話」も、12月16日までの南京滞在期間中ではなく1979年9月の出版までのどこかの時点で聞いた話に過ぎないと思われる。

(B) 赤星義雄氏の「5万」が実は陥落翌日の話ではないなら、(A)〜(E)の中で最も古いのは、(C) 石川達三氏(1938年2月)と、(D) ヴォートリン日記(1938年2月)である。

石川達三氏は紙面発表は2月だが、南京には年末から1月中旬くらいまで滞在していたようである。前項に挙げた紅卍字会の埋葬記録「12月28日 6,468体 下関江辺推下江内(=下関の岸辺にあったのを河の中に押し流した)」と併せれば、石川達三氏は下関付近の揚子江岸における大量の漂着遺体を見聞きできたはず。

ヴォートリン日記の2月というのは、陥落日頃に下関付近から大量の遺体が流され、時間差で下流の燕子磯に多数の遺体が漂着し、それを見た人々が憶測も交えて多様な噂話をし始めたであろう時期としてはちょうど良い。

なお、ヴォートリン日記のみは数字的には「2 or 3」であって「2 + 3 = 5」ではないから異なるが、これもまた現地で当時流れていた多種多様な噂のバリエーションのひとつであろうから、本質的に大した差はない。

事実としては日本軍は燕子磯では特に大きな軍事行動をしていないから、燕子磯で目撃されたであろう大量の遺体は下関周辺から漂着したもの以外には考えられない。(別記事「燕子磯の5万」参照)

また、これも別記事「燕子磯の5万」に書いたが、(E) 陳万禄氏の証言に関連した話として出てくるのは、周辺地域での断片情報の寄せ集めである。燕子磯に大量の遺体があったという以外にはなんら事実がない。

そして、(A) 燕子矶江滩遇难同胞纪念碑(1985年)の碑文については、(E) 陳万禄氏の証言(1946年)に関連した話に準じている。



そうすると、これら(A)〜(E)は結局のところ、全て同じ事案を語った似て非なるバージョンと判断できる。



同じ事案を語った似て非なるバージョンが流布されるのは、善意に解釈すれば戦時下で確かな情報がないまま噂として情報が錯綜するからであろう。
悪く解釈すれば、戦後に政権を取った中国共産党が真相解明する気がないからであり、同じ事案を語った似て非なるバージョンを別事案として固定化することで犠牲者数を水増しできるからであろう。


いずれにせよ、ここから当時の噂話の全てのバリエーションを再現することは不可能だが、(1) 陥落日に下関付近から渡河脱出しようとする多数の敗走兵を日本陸海軍が挟撃した事実、(2) 陥落日から時間差で下関付近から燕子磯に多数の遺体が漂着したであろう事実、に付随して現地ではどうやら「5万」という数字が流布されていたであろうことはわかる。

ただ、「5万」という数字自体は戦乱の渦中で正確に数えられるわけはなく、また日本軍から出た数字でもなさそうだから、これは目撃談からのイメージに由来していると思われる。




《8. 「10万」の正体》


話が少し飛ぶが、南京城内の「安全区」で避難民を保護していた安全区国際委員会のジョン・ラーべ(ドイツ人)は、陥落翌年の1938年6月8日付けでヒトラー総統宛に次のように書いている。

中国側の申し立てによりますと、十万人の民間人が殺されたとのことですが、これはいくらか多すぎるのではないでしょうか。我々外国人はおよそ五万から六万人と見ています。

(「ヒトラーへの上申書」/『南京の真実』/ジョン・ラーべ)


南京戦を終えた日本軍の認識も「敵の損害(死傷者)は約8万、うち遺棄屍体は約5万3,874」(戦史叢書)なので、「民間人」はさておき、数字的には整合している。

ここで論じたいのは、「中国側の申し立てによりますと、十万人の…」の部分である。

1938年6月時点では南京には国民党軍はもはや存在しないから、「中国側の」というのは南京市民を指しているものと思われる。

一方で、紅卍字会の埋葬記録を見ると、1938年6月時点で4.3万である。

紅卍字会の埋葬記録がその当時に実在していたことは、ヴォートリン日記(1938年4月15日付)や、昭和13年4月16日付大阪朝日新聞などで確認できている。

前項のように、「揚子江を渡河脱出しようとした敗走兵が5万」、それらがほぼ全て死亡したと解釈して「揚子江上に浮かぶ遺体数が5万」、それらが流されて「燕子磯に漂着した遺体数が5万」、さらにその変形で「燕子磯で殺害された軍民が5万」というような複数のバリエーションの未確認情報が当時の南京市民の間に出回っていたとして、その「5万」に紅卍字会の埋葬記録4.3万を加えると、合計約10万である。

これが、ラーべが「ヒトラーへの上申書」に記した「十万」という南京市民の認識ではないか。

少なくとも、数字的には整合している。


(蛇足的推測)
ヴォートリンが書いた「2 or 3」の話が、後日「2 + 3 = 5」に化けた可能性も考えられる。別記事『《南京事件》燕子磯の5万』の5項に書いたが、燕子磯に漂着し得る上流からの遺体数は2万を超えるから、話を少し盛ったとしても目撃された燕子磯漂着遺体数が「2 or 3(万)」なら割と妥当である。したがって、ラーべが書いた「十万」の内訳が、「4.3万(紅卍字会の埋葬記録)+5万(揚子江上で生じた遺体数)」ならば、「2 or 3」の話が「2 + 3 = 5」に化けたのは、ヴォートリン日記(1938年2月)と「ヒトラーへの上申書」(ラーべ/1938年6月)の間の時期かもしれない。





《改版履歴》


2021.02.12 新規
2021.02.22 5項に揚子江水路誌を追記
2021.03.03 燕子磯関係を別記事「燕子磯の5万」に分離独立、併せて関連の記述を修正




《関連記事》


★南京大虐殺の真相(目次)
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/9e454ced16e4e4aa30c4856d91fd2531

《南京事件》南京遡江艦隊の航路
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/8d64ed39331873ebc65aff57791f70f6

《南京事件》燕子磯の5万
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以上。




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《南京事件》南京遡江艦隊の航路

2021年01月26日 | 南京大虐殺
2021.02.12 烏龍山砲台空爆追記


この記事では、南京陥落日(1937年12月13日)に揚子江を遡江し南京に突入した日本海軍艦艇が、南京手前の八卦洲(草鞋洲とも言う)の北側を回る航路をとったはずである、ということを論証する。
併せて、揚子江を渡河脱出する敗走兵およびその掃討作戦についても考察する。

1. 砲艦 保津/勢多 の位置関係概説
2. 八卦洲の北を回ったと考える理由その1 保津の航泊日誌から
3. 八卦洲の北を回ったと考える理由その2 二見の航泊日誌から
4. 八卦洲の北を回ったと考える理由その3 南京遡江作戦経過概要から
5. 八卦洲の北を回ったと考える理由その4 支流側の状況
6. 駆逐艦・山風、涼風
7. 第四水雷戦隊
8. 敗走兵の渡河脱出ルートおよび掃討水域
9. 烏龍山砲台空爆




《1. 砲艦 保津/勢多 の位置関係概説》


砲艦「保津」「勢多」の南京陥落日(12月13日)の位置と行動概略を示す。
南京に遡江突入する際に、先頭が保津、続いて勢多の順に前進した。論拠は両艦の航泊日誌などから。

砲艦 保津 昭和12年12月1日~12月31日
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C11082945800

砲艦 勢多 昭和12年12月1日~12月31日
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C11082965200



(クリックで拡大)



その当時の状況については、次の通り。

七、海軍第十一戦隊の南京突入

作戦経過の概要
揚子江の水路を啓開し、陸軍と協力して敵首都を攻略すべき任務を有する第十一戦隊(司令官、近藤英次郎少将、旗艦安宅)は、12月11日夕刻、鎮江に突入し、南京に向かう遡航作戦を準備した。当時、烏龍山付近下流までの北岸は、陸軍の天谷支隊(11D)の一部が進出して残敵を掃蕩中であったが、南岸一帯は敵陣地であり、遡航部隊の進撃を極力阻止せんとする模様であった。第十一戦隊は12日〇八三〇、前衛部隊 (二見ほか五隻)、主力部隊(安宅ほか五隻)の順で進撃を開始し、左岸一帯の敵を制圧しつつ前進し、一二三〇ごろ、烏龍山閉塞線付近に到着し啓開作業を開始した。北岸の劉子口付近から野砲、機銃、小銃の猛射をうけて一時掃海作業を中断したが、一五三〇ごろ、主力部隊が到着し、海軍航空機も烏龍山砲台および北岸陣地を砲爆撃した。 同夜二三〇〇ごろ、諸岡少佐指揮の工作隊が、閉塞船をつなぎとめていたワイヤーを切断し、箱舟やジャンクを取り除き、約三時間後に船三百メートルの可航水路を啓開した。

南京突入(12月13日)
烏龍山砲台の守備兵は13日未明、第十三師団山田支隊の進出及び海軍部隊の砲爆撃により、敗走した模様であり、南京においては陸軍部隊は城内に突入し始めた。
近藤司令官は、急速に閉塞線を突破して南京に進出するに決し、一二○○ごろ各隊に進撃を下令した。これより先、保津・勢多は霧の晴れるのを待って一〇三〇抜錨、閉塞線を突破して劉子口陣地からの猛射を反撃しつつ、烏龍山砲台及び水路を偵察し、命によりいったん引き返した。
一三三〇、前衛隊(保津、勢多ほか四隻)、 一五一五主力隊(江風、涼風ほか三隻)、の順で泊地を発進、単縦陣で閉塞線を突破し、南京に向け進撃した。さらに主力隊の後に第一水雷隊がこれを追った。
江上、江岸は敗走する敵の舟艇、伐で充満していた。各艦はこれに猛攻撃を加え、さらに天河口、硫安工場付近の野砲陣地その他の抵抗を排除しつつ前進し、先頭の保津・勢多は一五四〇、主力隊は一七〇〇、南京に突入した。第一掃海隊は南京到着後、ただちに泊地を掃海し、また浦口桟橋を確保した。陸軍部隊は同日夕刻、南京城を完全に占領した。

(畝本正己/証言による『南京戦史』(10))



続いて、畝本氏の説明と重複するが、砲艦「保津/勢多」の航泊日誌から状況を見ていく。

陥落前々日(12月11日)は、両艦ともに鎮江(南京の東60km、揚子江の下流方向)で行動。

前日(12月12日)は、航泊日誌では「龍澤水道(保津)」「利子口(勢多)」となっている。場所は、後述する 4項の南京遡江作戦経過概要によれば「龍澤水道」も「利子口」(正確には「划子口」)も棲霞山の対岸である。上の畝本氏の文面では「劉子口」となっているのが、利子口を指していると思われる。(以下、この記事の文面では「利子口」と表記する)

12日は、ここで利子口の敵陣地などと交戦しつつ、閉塞線の手前で掃海作業を行なっていたようである。

ちなみに、Googleマップで見ると棲霞山の対岸にそれらしき地名がある。「划子口村」または「劃子口村」とある。これだと当時の日本人の書き写し地名がまちまちになるのも仕方ないかもしれない。場所はここ


陥落日(12月13日)は、未明に閉塞線の啓開、13:33に利子口付近敵陣地に射撃開始(保津)なので、その時点はまだ棲霞山付近にいたと思われる。午前中は、試運転、烏龍山砲台への強行偵察、利子口付近の敵野砲陣地への砲撃などで時間を費やしたようである。

13時半過ぎに両艦ともに南京に進撃開始。

棲霞山付近から八卦洲の北を回って南京付近に行くと、水路で約40km。
15時半過ぎに南京に到着しているから、所要時間およそ2時間。
航泊日誌からは、その間に概ね「原速(12kt = 22km/h)」で航行しているから、整合している。

保津は、16時頃に南京の桟橋に横付けした後に、すぐパネー号の救助活動のため上流に向かった。

パナイ号事件は、日中戦争初期の1937年12月12日、揚子江上において、日本海軍機がアメリカ合衆国アジア艦隊河川砲艦「パナイ」を攻撃して沈没させ、さらにその際に機銃掃射を行ったとされる事件。パネー号事件とも表記される。同日にレディバード号事件も発生している。


なお、砲艦「保津」に乗艦していた橋本以行氏によれば、南京に遡江突入したのは次の艦艇である。

午後1時に旗艦「安宅」以下が一列単縦陣となって、南京に向かって進撃を開始した。 航行序列は保津、勢多、「掃六」「掃三」、山風、涼風が前衛隊となり、二見、熱海、「掃四」、「掃一」、 江風、海風、安宅が主隊となって続き、少し遅れて別個に鵲、鴻、さらにやや離れて「掃二」、「掃五」がこれを追った。 各艦艇は一斉に抜錨し、保津は最先頭を切って突進した。
(橋本以行/証言による『南京戦史』(10))


艦種は次の通り。

砲艦 :保津、勢多、二見、熱海、安宅(旗艦)
駆逐艦:山風、涼風、江風、海風
水雷艇:鵲(カササギ)、鴻(オオトリ)
掃海艇:掃1、掃2、掃3、掃4、掃5、掃6


ちなみに、橋本以行氏は後の太平洋戦争末期に原爆をテニアン島まで輸送した帰路のアメリカ海軍重巡洋艦『インディアナポリス』を撃沈した潜水艦『伊58』の艦長である。




《2. 八卦洲の北を回ったと考える理由その1 保津の航泊日誌から》


保津の航泊日誌と、「証言による『南京戦史』(10)」にある橋本以行氏(保津に乗艦)の証言を並べてみる。南京到着の30分前くらいの時点である。距離を時間比例で見れば、おそらく南京まで約10kmの地点。

・1510:禁家山を右に見て通過(保津)
・1512:敵弾飛来、1名負傷す(保津)
・「このようにして午後3時すぎ、南京城獅子山砲台を遥かに望む崔家山近くまで来た。その時、いずこともなく飛んできた小銃弾で、 大西一等水兵が負傷した。左側の背丈より高く芦が生い茂っている草鞋洲に、多数の中国兵が見える。」(橋本以行氏)


保津の航泊日誌の「禁家山」の「禁」の字に印がしてあって、誤字では?と言ってるようにも見える。したがって、情景から見ると航泊日誌の「禁家山」と、橋本以行氏のいう「崔家山」は同じ山を指しているのではないか。



ただ、橋本以行氏が書いた「崔家山」なる山については、私はまだ地図上では確認できていない。

とはいえ、航泊日誌に「禁家山を右に見て通過」と書いてあるようだから、八卦洲の北回りでないと話が合わない。南の支流を通ったら右側は八卦洲になるが、八卦洲には山はない。

また、橋本以行氏は発砲を受けたのは左側の草鞋洲からと書いているから、これも八卦洲の北回りであることを示している。



(余談)

航泊日誌に登場するこれらの漢字は一体何か? 海軍の独自の表記? 調べてもわからなかった。
もっとも、文脈から意味はわかる。「舟右」=右舷。「舟両」=これ単独または「舟両 械」で機関(=船舶のエンジン)。






《3. 八卦洲の北を回ったと考える理由その2 二見の航泊日誌から》


南京に遡江突入した日本海軍の艦艇が、八卦洲の北側を回ったと考える理由は他にもある。「証言による『南京戦史』(10)」に掲載された図と、畝本正己氏による説明を引用する。



上図の右側は畝本氏がまとめた文章であるが、陥落翌日の14日として《二見、熱海は草鞋峡水路を啓開》とある。二見、熱海も砲艦である。

では、その草鞋峡水路とはどこかというと、上図では見づらいので、やはり畝本氏がまとめた偕行の南京戦史資料集Iから図を引用すると、八卦洲(草鞋洲)の南側の支流(当時)を示している。



ちなみに、「夾江」というのは、他の地図なども見ると中州を挟んで本流と支流がある場合の支流側を指すようである。「夾」には「狭い」という意味があるので、「夾江」なら「狭い川」という意味になる。

また、念のために書くと、南京戦当時は八卦洲(草鞋洲)の北側が本流で南側が支流だが、戦後に入れ替え工事をしたようであり、現在は北側が支流で本流は南側になっている。


話を畝本氏がいう《二見、熱海は草鞋峡水路を啓開》に戻して、砲艦「二見」の当時の航泊日誌を以下に示す。
なお、砲艦「熱海」についてはこの時期の航泊日誌は見つからなかった。

砲艦 二見 昭和12年12月1日~13年2月28日(1)
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C11083006600



(クリックで拡大)



上記の航泊日誌から、特に目についた点を以下に記す。

(12月13日/陥落日)
・前衛隊の約2時間後、15時半頃に烏龍山閉塞線を超えて南京に向けて前進
・前衛隊の保津/勢多に比べて戦闘の様子が少ない
・1700 南京入港後に草鞋洲の敗残兵討伐を命じられてまた戻っている
・南京下流十浬(≒18km)まで行って帰ってきたというから、八卦洲の北側付近と思われる

(12月14日)
・0800「草鞋峡の敗残兵掃蕩および水路探求のため」出港
・0805「草鞋洲の残敵掃蕩のため」陸戦隊用意
・0850「陸戦隊(内火艇にて)出航」
・0925 陸戦隊、帰艦(実質30分程度)
・0935「草鞋洲ビーコン付近にて敵敗残兵多数を認め砲銃撃○滅す」(○はカタカナらしき判読不能文字)
・1000「漂流中の敵兵1名を本艦に救助す」
・1550「草鞋峡の掃海のため下江す」(機雷掃海と思われる)
・1800「掃海作業終了」

(12月15日)
・1355 草鞋峡掃海のため出港
・1437 掃海作業開始
・1550 掃海作業終了
・1630 陸戦隊の一部を派遣し、陸岸の浮舟を臨検
・1641「昨日救助せし捕虜を草鞋洲に解放す」


以上からわかることは、12/14-15の両日に草鞋峡の掃海作業を行なっているし、14日に「草鞋峡の…水路探求のため」とも書いているから、やはり前日の13日には日本海軍艦艇はここを通過していない、ということである。

あと、漂流中の敵兵を救助して、(翌日)八卦洲に解放している点も興味深い。




《4. 八卦洲の北を回ったと考える理由その3 南京遡江作戦経過概要から》


「南京遡江作戦経過概要」という史料に各艦艇の航泊日誌より詳しい情報があったので、以下に抜粋引用する。

陥落前日(12月12日)には、遡江艦隊は龍澤水道(棲霞山付近)にいた。龍澤水道それ自体は棲霞山の対岸側に揚子江に沿って存在した水路のようである。

そのすぐ左手に「利子口」があり、しかも「利」ではなく「划」であると修正が入っている。

また、閉塞線は烏龍山と利子口の中間くらいにあり、その手前で掃海作業をしつつ、利子口の敵陣地などと戦闘をしていた様子がわかる。


(クリックで拡大)




次に、陥落日(12月13日)の記述を抜粋引用する。


烏龍山水道より南京下関迄(12月13日第7日)

形勢
閉塞線は昨夜一部を破壊幅300米○○の可航水路を啓開さる烏龍山砲台は13日未明陸軍の進出および海軍部隊の砲爆撃により守備兵敗走せるものの如し

南京はいまだ攻略激戦中
1000頃前記形勢の通り烏龍山砲台沈黙の情報により司令官は○速閉塞線を突破して南京に進出を決意され1200頃進撃を令せらる

隊形次の通り(省略)

1323前衛部隊出港北岸利子江陣地を砲撃○○しつつ閉塞線を突破沿岸一帯の敵大部隊および江上を舟艇および筏等による敗走中の敵を猛攻撃殲滅せるもの約1万に達し尚天河口硫安工場付近の陣地を撃破し1530頃下関付近に達し折から城外進出の陸軍部隊に協力江岸の敗兵を銃砲撃しつつ梅子洲付近まで進出し掃海索を揚収す
1700頃主隊の進出し来たるを認め掃六之れが○導に任じ更に命により掃六は南京側掃三は浦口側鉄道桟橋の占領確保および掃一、掃四は夜間中山碼頭前面を三號掃海を実施し併せて終夜江上江岸の敗残兵の掃蕩を行いたり

1.実施経過/田村(劉)中佐(一掃) 南京遡江作戦経過概要
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C14120621400



上の続きにあった略図のひとつがこれである。


(クリックで拡大)


上記文面に「硫安工場付近の陣地を撃破」とあるが、その硫安工場が上図の八卦洲(草鞋洲)の西側対岸にあるから、やはり陥落日の遡江艦隊は八卦洲北側の本流を通ったものと判断できる。

ちなみに、上図左側にある前衛隊最後尾の「海風」と主隊最後尾の「涼風」は逆ではないか。というのも、6項で後述するが、「涼風」が漂流中の日本陸軍兵を救助したことについて「山風」の航泊日誌に「陸軍兵准尉1名兵3名計4名 涼風にて救助す」と書いているからである。視認できる距離にいたとしか思えない。上図を参照したであろう冒頭の畝本氏の説明も同様である。




《5. 八卦洲の北を回ったと考える理由その4 支流側の状況》


さらに言えば、遡江艦隊の中で最も大型なのは白露型駆逐艦(全長111m、2,000tクラス)の山風、涼風、江風、海風であり、浅く狭い(幅300m程度、冬の乾季ならもっと狭いはず)支流側を通れるとは思えない。少なくとも、Uターンはできない。


江風 (白露型駆逐艦) https://ja.wikipedia.org/?curid=1087981



なお、これが1944年頃にヘッダ・モリソン氏が撮影した八卦洲の南端部の写真である。手前が支流、奥が本流、方角は正面が真北になる。渡し船なのか、小型の帆船が3艘写っている。また、八卦洲には山などなさそうなことがわかる。

また、一連の別の写真に田植え風景が写っているから、これは春の雪解け水が多い時期と思われる。南京戦があった12月は乾季だから、これよりずっと水量が少なく水位が低いはずである。


(撮影:ヘッダ・モリソン)



そして、日本側の次の史料では夏の増水期と冬の減水期とでは水深に10m以上の差があると書いている。


支那事変報国美談. 第6輯 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1255315/6


従って、遡江艦隊の主力である白露型駆逐艦などは特に八卦洲(草鞋洲)南側の支流である草鞋峡水路を選んで通るはずがないと考える。




《6. 駆逐艦・山風、涼風》


前衛隊最後尾にいた駆逐艦「山風」および「涼風」の航泊日誌からも陥落日の戦闘状況がわかるので、かいつまんで抜粋する。


(駆逐艦 山風/12月13日/陥落日)

1040:左岸敵野砲陣地発砲
1045:打方始む 右27°敵野砲陣地を砲撃
1052:敵弾右 9.5 500mに落下
1053:砲艦隊閉塞線に就く
1112:味方攻撃機○艦首の山中腹を爆撃
1116:打方始む 陸岸の野砲陣地および敗兵
1121:敵内火艇火災を起し沈没す(中華民国海○軍)
1126:敵野砲陣地を撃滅 敵兵逃げ出す
1144:打方始む(敗残兵浮流物に乗り下江するを機銃にて射撃す)
1355:打方始む 左岸に発見せし野砲2門
1424:陸軍兵准尉1名兵3名計4名 涼風にて救助す
1427:打方始む 左は筏上の敗兵、右は陸上の敗兵を機銃に打○
1446:左側水道あり敵の敗残兵数百筏にて逃亡するを見る我之を撃攘せり
1514:打方始む(左岸のトーチカ撃攘)
1528:打方始む 右岸の密集部隊 右岸は敗残兵多数見受けらる 左岸はトーチカ多し
1623:左奥地に敵野砲陣地を発見す○○○
1628:打方始む 右岸市街敵密集部隊
1659:打方始む 敵野砲陣地を撃攘
1723:入港用意(南京入港)
1813:陸戦隊出艦(泊地付近掃蕩のため)
1906:下関市街の火災増々大になる
1910:陸岸の敗残兵○○を射撃○○之に応戦撃攘す
2230:上流より流れくる敗残兵を機銃に射撃開始
表紙「駆逐艦 山風 昭和12年12月1日~12月31日」
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C11082522200



(駆逐艦 涼風/12月13日/陥落日)

1042:右警戒 敵の砲および機銃の射撃を受く
1043:打方始む(目標利子口野砲陣地)
1150:敵兵の下流するを機銃に射つ
1319:出港用意(南京に向け)
1345:打方始む(目標利子口)
1428:陸軍兵乗れるジャンクに舫索を渡す(ロープ?)
1432:○○○付近江上に於いて○○○○小砲准尉一名兵三名救助す
1440:支流より敵敗残兵多数流れ来るを認む
1513:右岸に敵兵三名を認め機銃にて射撃す
1519:打方始め(目標右岸トーチカ)
1528:打方始む(目標右岸の大なる家屋)
1530:左砲戦 右岸山頂のザンゴウの敵兵に対機銃
1536:左53°敵の密集部隊
1548:右砲戦打方始む(自動搭載セル大型ジャンク船)(エンジン搭載?)
1553:右砲戦始む(敵兵○○大型ジャンク船)
1715:打方始む(山腹の砲台)(幕府山砲台ではないか? 65iの占領は翌朝)
1724:入港用意(南京入港)
表紙「駆逐艦 涼風 昭和12年12月1日~12月31日」
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C11082530800


特筆すべきは、前衛隊の砲艦「保津/勢多」は13時半に進撃開始し、ほぼ最短所要時間の15時半に下関埠頭に強行接岸しているのに対して、同じ前衛隊の駆逐艦「山風/涼風」の下関接岸は17時半である。その間、敗残兵の乗ったジャンク船への攻撃および敵陣地への砲撃をしている。

また、「涼風」の「1440:支流より敵敗残兵多数流れ来るを認む」は、烏龍山付近で草鞋峡側から揚子江へ合流する流れを見たものと思われるが、これも興味深い。



なお、8項で紹介するが、橋本以行氏が「陸軍の兵隊が一人や二人、避難民と一緒に渡江するとは考えられない」としていた小舟に乗った日本陸軍兵らしき人物が、上の航泊日誌で救助された「陸軍兵准尉1名+兵3名」ではなかったか。

先頭を行く砲艦「保津」に乗艦する橋本以行氏が後続の諸艦に信号で「射撃しないように」と注意し、後ろから2番目を行く駆逐艦「山風」が救助を試みるも失敗し、最後尾の駆逐艦「涼風」がやっとその小舟にロープを渡すことに成功し、救助した。という展開に見える。

というのも、直接的には救助活動に関与していないはずの駆逐艦「山風」の航泊日誌にわざわざ「陸軍兵准尉1名兵3名計4名 涼風にて救助す」と書いているからである。この事案に思い入れがあったとしか思えない。




《7. 第四水雷戦隊》


南京遡江作戦に一部の艦が参加していた第四水雷戦隊の日誌があったので、南京戦に関する部分のみ抜粋する。


自 昭和12年12月1日
至 昭和12年12月31日
第四水雷戦隊司令部事変日誌(作戦および一般の部)
所属 第三艦隊
役務 中支部隊第二警戒部隊


鴻機密第13番電 13日2010
天河口付近に錨泊 浮流物に乗り陸續流下し来り敵敗残正規兵を悉く銃撃射殺しつつあり今までに刺止たるもの約200 なお続々流下し来る

鴻機密第14番電 13日2150
その後の情況左の如し
1、浮流物と見せ掛け之に搭乗流下する敵正規兵は計画的に兵力を移動なりと認む
2、探照灯にて精査するに正規兵なること確実にして幹部は明らかに判別し得
  中には小銃を以って筏上より反撃し来るものあり
  今までに約500名射殺
3、なお流下しつつあり

1tg機密第135番電 13日2300
第一水雷隊(隼、鵯欠)戦闘概報
当隊本日南京進撃の途次午後3時30分南岸より 天河口 宝塔水道 七里洲沖に至る間揚子江岸○江上に於て有力なる残敵ならびに敗残兵に対し極めて有効なる砲撃を加え敵に多大の損害を與へたり
この間敵より屢々(=しばしば)銃砲撃を受けたるも我に被害なし

隼機密第58番電 17日1730
午後5時20分草鞋洲北東岸に於て敵敗残兵約1小隊を発見銃撃壊滅せしめたり

第4水雷戦隊司令部事変日誌(作戦及一般の部) 所属 第3艦隊 役務 中支部隊第2警戒部隊 自昭和12年12月1日至昭和12年12月31日/中表紙
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C14120574000



なお、上の文面は通信文の日時順に並べ直してある。下の画像は、史料の記述順の通り。
水雷艇「鴻」の2つの順番が入れ替わってる。


(クリックで拡大)



特筆すべき点は次の通り。

・1tg機密第135番電に「午後3時30分南岸より 天河口 宝塔水道 七里洲沖に至る」とあるから、南京遡江艦隊の主隊は八卦洲(草鞋洲)の北回り航路をとったことがわかる。4項の南京遡江作戦経過概要の地図参照。

・上記の江岸および江上において、多数の残敵あるいは敗残兵がいたことがわかる。

・3項に示したように砲艦「二見」は南京入港後に再び八卦洲北側付近まで戻って敗走兵の掃討を行っていたが、水雷艇「鴻」は天河口(八卦洲の東側)まで戻って錨泊し、夜通し敗走兵の掃討を行っていたことがわかる。天河口は揚子江本流と八卦洲南側の草鞋峡支流の合流地点だから、敗走兵がどちらを流下してきても一網打尽にできるという作戦に見える。

・鴻機密第14番電を見ると、「流下する敵正規兵は計画的に兵力を移動なり」「探照灯にて精査するに正規兵なること確実」「幹部は明らかに判別し得(る)」とあり、相手の素性を見定めた上での戦闘行動であったことがわかる。




《8. 敗走兵の渡河脱出ルートおよび掃討水域》


以上の情報も踏まえて、陥落日(12月13日)における敗走兵の渡河脱出ルートを考えると、南京城からだけでなく、周辺全域から揚子江北岸への渡河脱出が試みられていた様子が伝わってくる。


(クリックで拡大)


(A:烏龍山砲台付近)

4項の「南京遡江作戦経過概要」の文面を見ると「殲滅せるもの約1万」が主に指している場所は、八卦洲(草鞋洲)より東側に見える。なぜなら、続く文面が八卦洲の南側支流の出口、揚子江との合流口である天河口だから。

1323前衛部隊出港北岸利子江陣地を砲撃○○しつつ閉塞線を突破沿岸一帯の敵大部隊および江上を舟艇および筏等による敗走中の敵を猛攻撃殲滅せるもの約1万に達し尚天河口硫安工場付近の陣地を撃破し…
(南京遡江作戦経過概要)



すなわち、烏龍山砲台前の閉塞線より先で、天河口までであれば、それは主に烏龍山砲台からの脱出兵ではないか。
山田支隊が烏龍山砲台を占領したのが陥落日の16時過ぎというから、前衛隊の進撃開始13時半から主隊の進撃開始15時半頃がちょうど烏龍山砲台からの守備兵脱出時間帯にぶつかったように見える。


掃海艇4の航泊日誌を見ても、天河口で敗残兵が多かったように書いている。

1517 警戒天河口○○敵敗残兵充満しその数○○○○○○○○…機銃掃射多数を射殺す 主隊前路掃海終了
表紙「掃海艇4 昭和12年12月1日~12月31日」
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C11083023300


上記の「南京遡江作戦経過概要」の文面だと、天河口にも陣地があったようだから、それも合わせてのものかもしれない。


また、6項にあるように駆逐艦「涼風」の「1440:支流より敵敗残兵多数流れ来るを認む」は、烏龍山付近で草鞋峡側から揚子江へ合流する流れを見たものと思われるが、これも含まれる。

さらに、7項にあるように水雷艇「鴻」は、20時頃に「天河口付近に錨泊」し、22時頃までに「今までに約500名射殺」と報告しているから、敗走兵の渡河脱出が夜になっても続いていたことがわかる。



(B:八卦洲の北側)

砲艦「保津/勢多」の航泊日誌などを見ても、烏龍山付近から南京までの途中の14時台にも筏などの敗残兵に発砲しているようだから、これは八卦洲の北側の水域であると思われる。ただ、数に関しては不明。文面から察すると、他よりは少なかったかもしれない。

橋本以行氏のこの記述も、時刻や獅子山砲台が見えるという状況からすると八卦洲の西側水域と思われる。

このようにして午後3時すぎ、南京城獅子山砲台を遥かに望む崔家山近くまで来た。その時、いずこともなく飛んできた小銃弾で、 大西一等水兵が負傷した。左側の背丈より高く芦が生い茂っている草鞋洲に、多数の中国兵が見える。
(橋本以行/証言による『南京戦史』(10))




(C:下関〜浦口)

ここは海軍の記録に頼らずとも、南京から渡河脱出する敗走兵が多かったことはわかっている。各種の逸話も多い。

33連隊が煤炭港から射撃したのもこの水域である。

午後二時三十分前衛の先頭下関に達し前面の敵情を搜索せし結果揚子江には無数の敗残兵舟筏其他有ゆる浮物を利用し江を覆って流下しつつあるを発見す即ち連隊は前衛および速射砲を江岸に展開し江上の敵を猛射する事二時間殲滅せし敵二千を下らざるものと判断す

南京附近戦闘詳報 歩兵第33連隊
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C11111198100


38連隊も陥落日に下関に突入し、揚子江を渡河脱出する敗走兵を攻撃している。

南京城を固守せし有力なる敵兵団は光華門その他に於いて頑強に抵抗せしも各部隊の猛撃により著しく戦意を失い続々主として下関方向に退却を開始せしも前衛は先独立軽装甲車第八中隊をして迅速果敢なる追撃を行い午前(午後が正解と思われる)一時四十分頃渡江中の敵五六千徹底的大損害を与えて之を江岸および江中に殲滅せしめ次いで主力を以って午後三時頃より下関に進入し同日夕までに少なくとも五百名を掃蕩し竭せり

江蘇省南京市 十字街及興衛和平門及下關附近戦闘詳報 歩兵第38連隊
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C11111200400



駆逐艦「山風/涼風」の15時台からの戦闘も、この水域での江上敗残兵掃討および付近の地上陣地への攻撃と思われる。



(D:新河鎮)

これは海軍とは関係ないが、南京城から脱出した敗走兵約1.5万の集団が南西方向に逃れようとしたところ、北上してきた第6師団45連隊と衝突し、敗走兵は向きを変えて揚子江を渡河脱出しようとしたものである。渡河脱出の時間帯は陥落日の正午前後。詳細は次の記事。



なお、海軍の掃討水域として見ても、新河鎮の近くの梅子洲までである。

1530頃下関付近に達し折から城外進出の陸軍部隊に協力江岸の敗兵を銃砲撃しつつ梅子洲付近まで進出し掃海索を揚収す
(南京遡江作戦経過概要)




(橋本以行氏の証言から江上敗走兵の状況を探る)

南京遡江各艦艇の航泊日誌なども見た上で、改めて「証言による『南京戦史』(10)」の橋本以行氏の証言を注意深く読むと、江上敗走兵の状況も見えてくる。

下図の(A)〜(C)は上述のそれに対応している。

遡江艦隊の目線では、(A:烏龍山砲台付近)での江上敗走兵が相当多かったのではないか。しかも、午前中の烏龍山砲台への強行偵察時にはそれほど掃討できずに多数を見逃しているように見える。そもそも、午前中の強行偵察は保津と勢多の2艦のみである。江上敗走兵への掃討が多いのは、13時半に前衛隊が烏龍山閉塞線を超えて進撃開始してからと思われる。


(クリックで拡大)


なお、橋本以行氏の次の言い回しからすると、避難民は撃たないように注意しつつも、服装で敗残兵なのか避難民なのかを識別することは困難だったようである。これは城内掃討でも同様であった。

最初に出会った小舟の群れは、難民のようであったので射ち払わずに進んだが…(中略)…双眼鏡で艦側近くを流れる戸板の上に横たわっている中風兵をみると、顔をシャベルでかくして背後にチェコ機銃を横たえ、死んだようにしている。このように小銃や機銃を大事に携帯していても、正規兵の服装をした者は一人も見当たらない。
(橋本以行/証言による『南京戦史』(10))





《9. 烏龍山砲台空爆》


海軍航空隊による烏龍山砲台空爆の戦闘詳報があったので引用する。

昭和12年12月13日
烏龍山砲台攻撃戦闘詳報
第1連合航空隊上海派遣隊

爆撃時刻:自1115、至1140
爆撃目標:烏龍山砲台
効果:殆ど全弾砲台施設に命中之を破壊 倉庫らしき建物数棟火災を生じ焼失 効果大

烏龍山砲台攻撃戦闘詳報 第1連合航空隊上海派遣隊 昭和12年12月13日
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C14120282500



(クリックで拡大)



空爆の時間帯は陥落日(12月13日)の11:15〜11:40というから、砲艦「保津/勢多」が烏龍山砲台を強行偵察していた時間帯と重なる。砲艦「保津/勢多」の航泊日誌には特に書いていなかったが、作戦としては空爆の成果を間近で確認することだったのかもしれない。

6項の駆逐艦「山風」の航泊日誌には、《1112:味方攻撃機○艦首の山中腹を爆撃》と記述がある。

どうやら、この空爆を境に中国側は無力化された烏龍山砲台を放棄あるいは敗走が始まり、日本の遡江艦隊は南京突入を決断した、という展開のようである。

ただし、4項の南京遡江作戦経過概要には、《1000頃前記形勢の通り烏龍山砲台沈黙の情報により司令官は○速閉塞線を突破して南京に進出を決意され1200頃進撃を令せらる》とあり、細かい時系列はよくわからない。ちなみに、『ふくしま 戦争と人間 1 白虎編』(福島民友新聞社)の文面を見ると歩兵65連隊第1大隊が烏龍山砲台を占領したのは午後になってからである。





《改版履歴》


2021.01.26 新規
2021.01.27 砲艦二見追記
2021.01.27 駆逐艦 涼風/山風追記
2021.02.04 タイトル変更、南京遡江作戦経過概要追記、その他
2021.02.07 第四水雷戦隊追記
2021.02.12 烏龍山砲台空爆追記




《関連記事》


★南京大虐殺の真相(目次)
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/9e454ced16e4e4aa30c4856d91fd2531

《南京事件》揚子江上の5万
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/90096bf70becf60c0b713aa40a2ee52c

《南京事件》燕子磯の5万
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/d17befeb295e05b4539da909d8e1c503




以上。




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家永訴訟(教科書検定訴訟)の件

2020年08月26日 | 南京大虐殺
新規 2020.08.26



家永訴訟を論拠として「南京大虐殺があったことは最高裁が認めている」という主張があるようなので、関連資料を見てみる。

これは、昭和55年(1980年)の教科書検定で起きた事案であり、南京に関係する主要な争点は以下の箇所である。

(原稿の記述)
南京占領直後、日本軍は多数の中国軍民を殺害した。南京大虐殺(アトロシテイー)とよばれる。

(教科書調査官の意見)
意見の趣旨は、「このままでは、占領直後に、軍が組織的に虐殺をしたというように読みとれるので、このように解釈されぬよう表現を改めよ。」というものであり、更に、具体的には「多数の中国軍民が混乱にまきこまれて殺害された。」と記述して、殺害の主体に言及しないようにするか、あるいは、「混乱のなかで、日本軍によって多数の中国軍民が殺害されたといわれる。」と記述して、日本軍の行為であるというのが単なる伝聞にすぎないことを明らかにして、日本軍の行為であるとの評価を避け、かつ、それが「混乱のなか」での出来事であったことに必ず言及せよ、というものであった。

(変更後の記述)
日本軍は、中国軍のはげしい抗戦を撃破しつつ激昂裏に南京を占領し、多数の中国軍民を殺害した。南京大虐殺(アトロシテイー)とよばれる。


(「東京地方裁判所 昭和59年(ワ)348号 判決」からの抜き出し)


結論としては、本判決は史実そのものを認定したわけではなく、教科書検定(昭和五五年度検定)の際に付加された『激昂裏に』という記述が、昭和55年(1980年)当時の学会の諸説に照らし合わせれば、『看過し難い誤り』である、と判定したに過ぎない。

南京の件ではないが、一連の裁判(東京高等裁判所 平成元年(ネ)3428号 判決)の中にある『草莽隊に関する記述について』の項にも次のような言及があり、裁判所の立ち位置を示している。

歴史的事実の真否、学説の優劣についてはここで判断すべきことではないが、右学界の状況について認定した事実に照らせば、修正意見は、未だ公にされていない、教科書調査官の個人的見解あるいは個人的調査、研究の結果に基づくものというべきで、昭和五五年度検定当時の学界においては、それにそう見解は存在していなかったのに対し、原稿記述は、当時の学界において特段の異説もなく、広く学界に受け入れられていたところによって記述されているものというべきである。

(東京高等裁判所 平成元年(ネ)3428号 判決)


上記引用文の冒頭に『歴史的事実の真否、学説の優劣についてはここで判断すべきことではないが…』と書いている。本件における判定基準はあくまで、『昭和五五年度検定当時の学界においては』である。

それだけのことであり、本判決が諸説を飛び越えて直接的に史実を認定したわけではない。

なお、私の一連の考察に照らし合わせても、南京戦における市民の巻き添え、敗残兵の処断、あるいは幕府山事件などを全てひっくるめて、それらが『激昂裏に』行われた、などと説明されたら、それは違いますよというしかない。




以下に関連資料の一部を抜粋する。

(複数の裁判の流れについては、Wikiの「家永教科書裁判」を見た方が早い。)




教科書検定訴訟(家永訴訟)について/教科書制度の概要(文部科学省)
https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shotou/096/shiryo/__icsFiles/afieldfile/2013/10/23/1340590_013.pdf


(クリックで拡大)


《申請原稿の記述内容》
〔脚注〕南京占領直後、日本軍は多数の中国軍民を殺害した。南京大虐殺とよばれる。(昭和55年度検定)

《検定意見の要旨》
原稿記述からは、南京占領直後に軍の命令により、日本軍が組織的に中国の民間人や軍人を殺害したかのように読み取れるが南京事件に関する研究状況からして、そのように断定することはできない。

《裁判所の判決要旨》
行為の主体については、・・・学界においては、南京大虐殺の原因、態様については多様な説があって、全容が把握されていたとは認められず、虐殺のすべてあるいは大部分が軍の上部機関からの指揮命令によって行われたといい得る状況にはなかったと認められるから、原稿記述によって、虐殺のすべてあるいは大部分が軍の上部機関からの指揮、命令によって、行われたと読み取られる危険性が多少でもあるとすればこれを修正するよう求めることには合理的な理由があるというべきである。
理由告知において教科書調査官は、右修正の方法として、繰り返し「混乱の中で」「混乱に巻き込まれて」を書き加えるように求め、これに応じて「激昂裏に」の記述が付け加えられたのであるが、これによると、虐殺が軍の上部機関からの指揮、命令によって行われたと読み取られる危険性は希薄になった、ということができるが、その結果、単に殺害したという客観的事実のみを記載した原稿記述が、虐殺が「激昂裏に」行われたという記述に変えられた。
しかし、当時の学界の状況は虐殺の原因、態様について多様な説があって、南京大虐殺と呼ばれる虐殺行為のすべてあるいは大部分を 「激昂裏に行われた」と説明し得る状況にあったとは到底認められないのであり、修正意見は、未だ通説、定説とは認められない見解をもって記述することを求め、検定基準が排除している「一面的な見解だけを十分な配慮なく取り上げていたり、未確定な時事的事象について断定的に記述する」誤りをみずから招来させたもので、看過し難い誤りがあるというべきである。【控訴審(東京高裁)判決(最高裁結論支持) 】


「教科書検定訴訟(家永訴訟)について」(文科省/pdf)からの書き起こし





東京地方裁判所 昭和59年(ワ)348号 判決
https://daihanrei.com/l/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%9C%B0%E6%96%B9%E8%A3%81%E5%88%A4%E6%89%80%20%E6%98%AD%E5%92%8C%EF%BC%95%EF%BC%99%E5%B9%B4%EF%BC%88%E3%83%AF%EF%BC%89%EF%BC%93%EF%BC%94%EF%BC%98%E5%8F%B7%20%E5%88%A4%E6%B1%BA

3  南京事件に関する記述について

(一) 〈証拠〉によると、本件原稿の脚注「南京占領直後、日本軍は多数の中国軍を殺害した。南京大虐殺(アトロシテイー)とよばれる。」との記述に対し、文部大臣は、右記述は南京事件が南京占領直後に軍の命令により日本軍が組織的に行った殺害行為であるかのように読み取れるが、南京事件についての研究の現状からみて、「南京占領直後」という発生時期の点及び「軍の命令により日本軍が組織的に行った」という態様の点において、いずれもこのように断定することはできないので、検定基準に照らし、必要条件である第1[教科用図書の内容の記述]1(正確性)「(1) 本文、資料、さし絵、注、地図、図、表などに誤りや不正確なところはないこと。」及び「(3) 一面的な見解だけを十分な配慮なく取り上げていたり、未確定な時事的事象について断定的に記述していたりするところはないこと。」に欠けるとして修正意見を付したことが認められる。

(中略

なお、検定意見が、南京事件そのものの存在を否定する趣旨ではないことは、教科書調査官が理由告知の際に「南京占領の混乱の中で多数の中国軍民が犠牲になった」ことは事実であることを認めていることから明らかである。

(二) 〈証拠〉を総合すると、次の事実を認めることができる。

(1) 一橋大学教授藤原彰は、その研究に基づき、南京大虐殺は軍上層部の命令による日本軍の組織的犯行であり、混乱の中で起きたものではないとの見解を有しているが、その見解の詳細と根拠は、以下のとおりである。(「以下」の部分を省略)

(2) これに対し、戦史研究家児島襄は、昭和五五年度検定当時の南京事件に関する研究状況からみて、南京占領下の軍政として中国の軍人と民間人を殺害するという方針が確立し、これに基づいて軍の命令による殺害が組織的に行われたと断定することはできなかったと判断している。その見解の詳細と根拠は、以下のとおりである。(「以下」の部分を省略)


(三) 本件原稿記述が、「日本軍は首都南京その他の主要都市や主要鉄道沿線などを占領し4、中国全土に戦線をひろげたが、」という記述の脚注4として付されたものであることにかんがみれば、本件原稿記述が、南京占領直後に日本軍が組織的に中国軍民を殺害したように読める、との検定理由にも合理的根拠があるといわざるを得ない。

他方、昭和五五年度検定当時の学界の状況をみると、前記(二)認定の事実にかんがみれば、当時、日本軍が軍の命令によって組織的に中国軍捕虜や民間人を虐殺したものであるとする見解も既に有力に主張されており、これに沿う史料も現れてきていたということができ、右事実に照らせば、原告の本件記述には相当の理由があるというべきである。したがって、このように相当の根拠をもってなされている原稿記述に対し、修正意見を付することについては、その妥当性について批判の余地のあるところであろう。しかしながら、当時、中国軍民を殺害したことが、日本軍の組織的犯行であると断定することには慎重な見解も少なからずあったこと(これら両説の優劣については、当裁判所のよく判断し得るところではない。)、文部大臣の検定意見も、日本兵によって残虐行為が広く行われたことを否定するものではなく、それが日本軍の命令によって行われた組織的行為であった点について昭和五五年当時にあらわれた史料に基づいてはこのように断定することができないとする趣旨であったことにかんがみれば、文部大臣が検定基準の前記正確性(1)及び(3)の観点から修正意見を付したことをもって直ちに合理的根拠を欠き社会通念上著しく不当なものであったとすることはできない。


(東京地方裁判所 昭和59年(ワ)348号 判決)





東京高等裁判所 平成元年(ネ)3428号 判決
https://daihanrei.com/l/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%AB%98%E7%AD%89%E8%A3%81%E5%88%A4%E6%89%80%20%E5%B9%B3%E6%88%90%E5%85%83%E5%B9%B4%EF%BC%88%E3%83%8D%EF%BC%89%EF%BC%93%EF%BC%94%EF%BC%92%EF%BC%98%E5%8F%B7%20%E5%88%A4%E6%B1%BA

(三) 学界の状況

原判決記載(〈頁数省略〉)のとおりであるから、これを引用する。

右学界の状況に基づいて判断するに、右検定の当時において、「南京大虐殺」と呼ばれる事象について、日本軍が南京を占領した前後を通じて、正規軍間の戦闘行為によらずに、多数の中国人捕虜、非戦闘員である中国人市民が日本軍(上部機関からの指揮、命令によって組織的に行動したものであるか否かは別として)によって殺害されたとの事実は、殺害された者はさほどの数ではなかったとする少数の見解があるにしても概ね否定し難い事実とされていた(修正意見の理由告知の過程で、検定側も「多数」の点に問題があると指摘しながらも、多数の中国軍民が犠牲になった事実を否定するものでないと述べ、時野谷調査官が示唆した記述及び最終記述にも「多数」の記述が残されていたことは前示のとおり。)が、殺害された者の実数、殺害の対象者、殺害の時期、殺害の理由、態様などについては未だその全容が把握されるに至っていたとはいえない状態で、捕虜、民兵、一般人など無抵抗な者を無差別に殺害したとする説、抵抗する軍人、民兵などの抵抗を排除するため殺害したとする説、軍が組織的に、あるいは黙認して殺害させたとする説、軍の上部機関からの指令により捕虜を多数殺害したとする説、中国軍民の抵抗が激しかったため激昂した兵士が上官の制止を無視して殺害に及んだとする説など多様で、それぞれ異なった資料、見聞に基づいて諸説がなされているが、いずれの説に対しても、客観的資料、証拠を示してこれを否定するような説は乏しく、それぞれの説が、南京大虐殺と呼ばれている事象の多様なそれぞれの一面を取り上げて明らかにしているものではあるが、一つの説をもって、その全容を明らかにしているものとはいえないというほかない。


(東京高等裁判所 平成元年(ネ)3428号 判決)


そこで、修正意見によって生じた最終記述の内容について検討する。

なるほど、原稿記述になかった「激昂裏に」の記述が加えられたことによって、殺害が激情に駆られて行われた行為であると理解される(「激昂裏に」の語は直接には「占領し」にかかる語として用いられているが、同時に「殺害」にもかかるものと読み取れるし、そのように読み取られることを意図して検定側が右記述を加えさせたことは前記認定によって明らかである。)点において、殺害が軍の上部機関からの指揮、命令による組織的行為であると読み取られる危険性が極めて弱くなったということができる。しかし、原稿記述のままであっても、殺害が軍の上部機関からの指揮、命令による組織的行為と読み取られる危険性が、検定側が懸念するほどのものと認められないことは既に指摘したとおりであるうえ、最終記述にも殺害行為の主体として「日本軍」の記述が残され、程度の差こそあっても同じ危険性が残されていることからすると「激昂裏に」を加えさせたことが正確性を保持するうえからどれほど適切であったか疑問であるというほかない。

しかも、修正によって生じた最終記述によると、「激昂裏に日本軍が中国軍民を殺害した」ことをもって南京大虐殺と呼ばれる事象を説明する趣旨の記述になるところ、さきに認定した学界の状況に照らすと、南京大虐殺については殺害の実数の把握とともに殺害の対象、理由、態様が重要視され、諸説がなされており、その中には前記のとおり、中国軍民の抵抗が激しかったため激昂した日本軍兵士が上官の制止をきかずに殺害した旨の説もあり、否定し難い程度に資料の裏付けがある事実とみられるが、それが南京大虐殺といわれる事象の一面を説明するにすぎないものであることも前記認定のとおりであって、少なくとも検定当時の学界の状況が、激昂して殺害したという事実をもって南京大虐殺といわれる殺害行為のすべてあるいはその大部分を説明づけられるような状況にはなかったというべきである。結局原稿記述が時期の点を除けば、殺害の原因、態様に触れずに、単に「殺害した」という客観的な事実に即して記述しているのに対し、未だ全容が把握されていたとはいえない殺害の理由、態様について、「激昂裏に」という記述を加えさせることによって、南京大虐殺と呼ばれる事象を明らかにするについて、重要な点についてその一面的な事実のみをもってそのすべてを説明するものであるかのような記述に改めさせた結果、検定基準が排除している「一面的な見解だけを十分な配慮なく取り上げていたり、未確定な時事的事象について断定的に記述していたりする」結果を招来させたもので、右修正意見を付したことにはその判断の過程において看過し難い重大な誤りがあり、裁量権の範囲を逸脱した違法なものというべきである。

その結果、殺害行為に対する原稿記述は、南京大虐殺について重要な部分の一つである殺害行為の態様、理由の点において、原稿記述が意図するところと全く異なった記述に改めさせられる結果を生じたものというべきである。

なお、右修正意見が、南京事件そのものの存在を否定したり、その記述を差し止める趣旨で付されたものとまで認めることができないことは右修正意見の内容及び時野谷調査官の理由告知の経過に照らし明らかであり、その他修正意見を付したことに裁量権の逸脱にとどまらず、適用上の違憲に当たる事実があったと認めるに足りる証拠はない。


(東京高等裁判所 平成元年(ネ)3428号 判決)





最高裁判所判例集 平成6(オ)1119
https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=52529
https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/529/052529_hanrei.pdf

P13-14

一一 同第四章第一節第三(昭和五五年度検定の「南京大虐殺」に関する修正意見)について
1 原審の確定した事実関係は、次のとおりである。

(一) 昭和五五年度の新規検定申請において、本件教科書の「中国との全面戦争」の原稿記述の脚注の「南京占領直後、日本軍は多数の中国軍民を殺害した。南京大虐殺(アトロシティー)とよばれる。」との記述に対して、文部大臣は、このままでは、占領直後に、軍が組織的に虐殺したというように読み取れるとの理由で、このように解釈されないように表現を改める必要がある旨の修正意見を付した。

(二) D教科書調査官は、理由告知において、南京事件についての研究の現状からみて、原稿記述は、「南京占領直後」という発生時期の点、「軍の命令により日本軍が組織的に行った」という殺害行為の態様の点及び「多数」という数の点において、いずれもこのように断定することができないので、記述を修正すべきであると右修正意見の理由を説明した上、右理由告知の過程において「軍が組織的に行った」と読み取られることを避けるため、「多数の中国軍民が混乱に巻き込まれて殺害された」あるいは「混乱の中で日本軍によって多数の中国軍民が殺害されたといわれる」というように書き改めるよう示唆し、申請者側がこれに応じなかったところ、内閲調整の段階で「混乱の中で」を書き加えるように求めた。

(三) そのため、上告人は、修正意見に従い、「日本軍は、中国軍のはげしい抗戦を撃破しつつ激昂裏に南京を占領し、多数の中国軍民を殺害した。南京大虐殺(アトロシティー)とよばれる。」と記述を改めた。

2 所論は、「南京占領直後」という発生時期の点について修正意見を付したことは違法だというものであるが、なるほど、D調査官の理由告知では、三点に分けて説明されているものの、最終記述及びそれに至る経緯に照らせば、修正意見の趣旨は、多数の中国軍民の殺害が、軍の命令によって組織的に行われたと読み取られることを避けるべきであるということにあったことは明らかであり、原審は、「激昂裏に」を付け加えさせる結果となった修正意見をもって違法であると判断しているのである。

3 そうすると、D調査官の理由告知の際の発言中に発生時期の点に関するものがあったとしても、これをもって原審が違法と判断した修正意見とは別の修正意見が付されたということはできないのであり、発生時期の点については違法ではないとした原審の判断は、結論において是認することができるものである。論旨は、原判決の結論に影響しない説示部分をとらえて原判決を論難するものであって、採用することができない。


(最高裁判所判例集 平成6(オ)1119)





以上。




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プロパガンダ画像

2019年03月22日 | 南京大虐殺
最終更新 2020.09.01



南京戦での日本軍の蛮行として今も英語圏を中心に流通している《赤子を刺し殺す日本兵》の写真だが、やはりニセモノだった。

The source of the photograph of “Japanese soldiers slaughtering babies”, which circulates mainly in the English-speaking world as a Japanese army in Nanking, is on the cover of the magazine appearing in the 1984 Hong Kong movie “Hong Kong 1941”.
Don't be fooled.




(クリックで拡大)




《要点》

(1)南京戦での日本軍の蛮行として流布されている画像の出典は1984年の香港映画『等待黎明』の作中に登場する雑誌だった。
(2)『帽垂布』の採用は南京陥落翌年からなので南京戦で使われてるはずがない。
(3)さらに、よく観察すると『帽垂布』の構造が異なるのでそもそも日本兵ではなくニセモノと思われる。




《画像の出典》

問題の写真は、1984年制作の香港映画『等待黎明』(邦題:風の輝く朝に)の作中に登場する雑誌の表紙だった。映画制作は第一次教科書問題の頃であり、対日情報戦の一環と思われる。




等待黎明 1984年 周润发 万梓良 叶童 国语 2战香港沦陷题材
https://youtu.be/RpaBl_MAJUU?t=3318

原題:『等待黎明』
英語題:『Hong Kong 1941』
邦題:『風の輝く朝に』
1984年制作 チョウ・ユンファ主演の香港映画。問題のシーンは55分付近。
香港が日本軍に陥落し、主演の中国娘がふとこの雑誌の表紙を見て驚く場面に登場する。悪役日本軍の心象的象徴として使われている。また作品の終盤に日本軍将校と格闘になり、この娘が奮起する場面にも挿入されている。




右側に雑誌を持つ娘の指が写っている。出回っている画像はこの場面を切り取ったと思われる。



娘が手に持つ雑誌の全景。



雑誌の上部の文字列拡大。


この「雑誌」の上部の文字は次のように読める。

天下亊
德國實力究如何 ★ 義大利會不會參戰


訳すと次のようになる。

世界
ドイツの強みを学ぶ方法 ★ イタリアは戦争に参加するか?


しかし、日本兵の蛮行らしき写真を前面に掲げながら、文字ではそれに触れずにドイツとイタリアだけを持ってくるのは雑誌の構成としては不自然。やはり映画撮影用に製作した小物と思われる。

但し、その下にある『Dorothy Thompson』と『Otto D. Tolischus』と読めそうな人名は、いずれも同時代(1941年頃)の実在するジャーナリストである。





なお、アマゾンでも日本語字幕版が視聴できる。


風の輝く朝に(字幕版) Prime Video ~ レオン・ポーチ
https://www.amazon.co.jp/dp/B00G5WBD30/


余談:
映画自体はぼちぼち面白かった。日本軍の侵攻による香港陥落と英軍撤退で街中が大混乱になり、暴徒が富裕層の屋敷に乱入して略奪、警官は娘を襲って強姦。そして一部の富裕層中国人は日本軍の到着を待ちわび(規律が戻ることを期待)、住民は日の丸を振って日本軍を歓迎。という場面もあった。伝えられてる南京陥落時の状況と同じ。無秩序の大混乱よりは、次なる権力者が来て秩序が戻ることを歓迎する気質が感じられる。

余談2:
上述の混乱については史実としてWikiにも説明があった。《日本軍による陥落直後にイギリス植民地政府の警察力が停止した香港市内は、それまで潜んでいた中国人の暴力団や犯罪組織が闊歩し、略奪や強奪などを行い、一時的に治安が悪化したが、日本軍による軍政が整備されるにつれて治安は回復した。》(Wiki:香港の戦い https://ja.wikipedia.org/?curid=745133






《採用は南京陥落翌年》

しかし、この『帽垂布』を日本陸軍が正式採用したのは昭和13年5月。つまり南京陥落翌年なので、南京戦ではまだ使われているはずがない。

陸軍服制第5條に依る服制並装具の制式中改正の件(アジア歴史資料センター)
https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/C01001561600





(参考)南京陥落1週間後に南京城内で撮影された写真。帽垂布は無い。


(昭和12年12月25日 朝日新聞/12月20日 林特派員撮影)






《本物とは異なる構造》

日本兵がかぶっていた帽子の日除けのひらひらは正式名称『帽垂布』というが、これは4枚の布から構成されている。ところが、問題の画像を見ると1枚ものにしか見えない。本物なら両脇の2枚が耳を覆うように垂れ下がってくるが、そうなっていない。従って、問題の画像のものは撮影用に用意したニセモノだと思われる。



なお、『支那事変でも非制式の部隊調達装備として帽垂が存在』したり、『制式化以前に試験運用として』形状の異なる帽垂布を使った部隊もあるので、形状からのみの断定は難しい場合があるとの指摘をいただきました。詳細はコメント欄の「旧軍マニア」さんからの投稿を参照ください。

また、『銃剣を持つ役者さんの顔も南方系(香港・広東あたり)やね…。』という指摘も。






《流布の事例》

事例的には、次のサイトのような形で《南京戦での日本軍の蛮行》として使われている。あるいは、ツイッター上の英語での南京論争で問題の画像が使われたりしている。







《定番の戦時プロパガンダ》

なお、《赤子を刺し殺す敵兵》というのは敵を悪魔化する戦時プロパガンダとして昔から定番らしい。
関連するキーワードの例を示す。

- Soldier bayonet a baby
- Anti German Propaganda
- Rape of Belgium
- Atrocity Propaganda



その一例を示す。



画像は、1641年のアイルランド革命のもの。(上記Wikiより)






《研究論文》

また、こういった日本軍に対する戦時プロパガンダについての研究論文があったので紹介しておく。








《追記1 映画『南京!南京!』》

これも“南京大虐殺”の一場面としてネットで流布されることがある画像。映画『南京!南京!』(英題 City of Life and Death、2009年、中国)から切り取ったものである。





nakingnaking(南京!南京!)
youtu.be/5Yqo-hgpCcw




《追記2 台湾セクシー女優》

時々見かけるこれも実は捏造だった。

日本軍の蛮行とされるよく使用される写真は実は台湾エロビデオの合成写真だった
https://togetter.com/li/1483464


(クリックで拡大)




《追記3 関東大震災》

中国は関東大震災の写真まで悪用していた。


(クリックで拡大)

UHM Library Digital Image Collections
Hifuku-sho. Tokio
https://digital.library.manoa.hawaii.edu/items/show/27111

問題の China Xinhua News のツイート(アーカイブ)
http://archive.today/r77xv




《追記4 台湾・第二霧社事件》

これも“南京大虐殺”として誤用(or 悪用)されることが多い写真。実際は、1931年に台湾で起きた第二霧社事件


(クリックで拡大)




《追記5 その他画像》

「南京虐殺」ニセ画像・映像と、元ネタのソース - Togetter
https://togetter.com/li/1521376

「南京事件」映像・プロパガンダ Atrocity Propaganda - Togetter
https://togetter.com/li/1330535

【閲覧注意あり】日中戦争中の写真、写真帖、アルバム(海外のも) - Togetter
https://togetter.com/li/1318855

日本軍への冤罪・ニセ写真を中心に Fake photos of 'Japanese war crimes during WW2' - Togetter
https://togetter.com/li/1316165

「南京大屠杀」だとされる写真 、「日本軍の仕業」だとされる写真、又は「通州事件」だとして拡散される写真....だが - Togetter
https://togetter.com/li/1116855




《関連記事》


The Fake of “Nanking Massacre”
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/b9fce6b774ed768149eb86f4ddb29ad9

★南京大虐殺の真相(目次)
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/9e454ced16e4e4aa30c4856d91fd2531



以上。









コメント (4)
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《英国公文書館》南京陥落まで

2019年03月07日 | 南京大虐殺


英国公文書館で南京戦の関連資料を見つけたということで資料提供をいただきましたので、共有すべく公開します。

1937年10月5日から南京陥落日の12月13日までの複数の電文があり、戦況等に関する情報の報告や、自国民保護についての緊迫したやりとりがあったことがわかります。
南京攻略戦に至るきっかけになった第二次上海事変が1937年8月13日〜10月26日であり、10月5日というとまだ上海を包囲する国民党軍に対して日本軍が苦戦を強いられていた頃です。






SECRET
Report No.94, dated 5.10.37.
Far Eastern Department.
Question of removing Chinese Government offices etc.

It has been learned on very good authority that T.V. Soong, at the end of September, told the following to a Chinese confidant:

The head offices of all the Government banks were to be removed to Hankow. The question of moving certain Ministries to Sian - the important archives of most had already been removed either to Sian or to Changsha - was under discussion. The removal of Ministries, if decided upon, would not affect the status of Nanking as capital, although it would in point of fact be really the military capital.

Copies to: Mr. Norton.
Service Departments.
Treasury.
Department of Overseas Trade.
H.M. Chargé d'Affaires, etc, informed.


秘密
レポートNo.94 1937年10月5日
極東部
中国政府事務所などの閉鎖についての疑問

非常に良い権威である宋子文が9月末に中国の親友に次のように語ったことについて学んだ。

すべての政府銀行の本社は漢口に移されることになっていました。 特定の省庁を西安に移転させるという問題が議論されていました。(ほとんどの重要な公文書は、西安または長沙のいずれかに既に移動されています。) もし決定されたとしても、省庁の閉鎖は首都としての南京の地位に影響を及ぼさないであろうが、実際には本当に軍事首都になるでしょう。

コピー宛:
ノートン氏
サービス部門
財務省
海外貿易省
英国代理公使などが伝えた。


(注記)最後の一文。H.M. は His/Her Majesty=英国、chargé d'affaires(仏語)を代理公使と訳した。






This Document is the Property of His Britannic Majesty's Government, and should be returned to the Foreign Office if not required for official use.

FROM CHINA.
Decode, Mr. Howe (in H.M.S. BEE) (Nanking en route Hankow) 24th November, 1937.
D. (BY W/T) 24th November, 1937.
R. 6.00 p.m. 24th November, 1937.
No.687. (R).

An attempt is being made by an unofficial Sino-foreign committee to establish a safety zone for refugees in Nanking similar to that which was so successful in Shanghai (Nantao).
United States Ambassador and I have given the scheme our blessing and undertaken to assist by acting as channel for communication with Japanese authorities.
Addressed to the Foreign Office No.687 November 24th; repeated to Nanking, Shanghai, Tokyo, Peking (Shanghai please pass to Tokyo as my telegram No.277).


この文書は英国国王陛下の政府の所有物であり、公的使用に必要でない場合は外務省に返却する必要があります。

中国から
ハウ(砲艦BEE)(南京から漢口)1937年11月24日
発信 無線           1937年11月24日
受信              1937年11月24日 午後6:00
No.687. (R).

上海(南市?)で成功したのと同様に、南京で難民のための安全地帯を設立しようとする非公式の中国外交委員会による試みが行われています。
米国大使と私はこの計画に私たちの祝福を与え、日本の当局とのコミュニケーションの場として行動することによって援助することを約束しました。

外務省宛 第687号 11月24日:南京、上海、東京、北京(上海は私の電報No.277として東京に渡してください)に転送。


(参考)
インセクト級砲艦BEEについて以下のサイトに情報がある。

HMS Bee – February 1918 to January 1923, China Station
https://www.naval-history.net/OWShips-WW1-11-HMS_Bee.htm

HMS Bee (1915)
https://en.wikipedia.org/wiki/HMS_Bee_(1915)








From CHINA
Decode and Decypher. Mr. Prideaux Brune (Nanking). 28th November, 1937.
D. (Via W/T.) 28th November, 1937.
R. 6.10 p.m., 28th November, 1937.
No. 1A. and 2.

IMMEDIATE.
[Beginning of "R".]
Adressed to Embassy, Hankow, No. 6.
Following from Military Attaché.

A. On evening of November 27th General Tang Sheng-chi addressed foreign residents in Nanking as follows:-
1. It was his intention to defend Nanking to the last man.
2. It was most likely that Nanking would become a battle ground very soon.
3. Foreigners would therefore be in danger and he advised them to leave Nanking. He would do his best to safeguard those who remained and foreign property.
4. He anticipated that in a few days it would be necessary to shut the city gates. If necessary he would devise means of getting foreigners through or over the city gates but danger might lie on the other side.
5. Nanking itself would be defended by well organised troops and special steps had been taken to deal with lawless military both within the city and within fifty kilometres of Nanking.

[ End of "R".]

However he added significantly that troops employed around Nanking came from many provinces and it might not be possible for him to prevent disturbances in the city.
In subsequent conversation General remarked that should Japanese succeed in taking Wuhu then Chinese troops in Nanking area would be trapped and would have to fight it out.
B. For a Chinese the speech was particularly frank and it is difficult to assess the amount of bluff that should be attached to General's remarks. Speech was obviously inspired and meant for world and Japanese consumption. In my opinion it was meant to imply that Nanking would be razed to the ground should the Japanese attempt its capture. This would be accomplished by opening the gates and letting in the retreating troops.

Embassy Hankow to repeat to Tokyo if considered necessary.
Repeated to Foreign Office, Peking, Commander-in-Chief and General Officer Commanding.


中国から
プリドゥ-ブルーン(南京)  1937年11月28日
発信 無線         1937年11月28日
受信            1937年11月28日 午後6:10
No. 1A. and 2.

至急
[受信開始]
漢口大使館宛 No.6
駐在武官から

A. 11月27日の夕方、唐生智将軍は南京の外国人住民に次のように語った。
1. 最後の一人まで南京を守ることが彼の意図でした。
2. 南京が間もなく戦場になるだろうと思われました。
3. そのため、外国人は危険にさらされることになり、南京を去るように彼らに勧めました。 彼は、残った人々と外国の財産を守るために最善を尽くします。
4. 彼は数日で市の門を閉めることが必要になるだろうと予想しました。必要ならば、彼は外国人を市の門を通り抜けさせたり越えたりさせる手段を考案するでしょうが、危険は反対側にあるかもしれません。
5. 南京自体はよく組織された部隊によって守られ、市内と南京の50キロメートル以内の両方で、無法軍に対処するための特別な措置が取られていました。
[受信終了]

しかし彼は、南京周辺で雇用されている部隊が多くの州から来たものであり、彼が都市の混乱を防ぐことは不可能であるかもしれないと大いに付け加えた。
その後の会話の中で、将軍は、日本人が蕪湖を取ることに成功すれば、南京地域の中国軍は閉じ込められ、戦わなければならないだろうと述べた。
B. 中国人にとってスピーチは特に率直であり、将軍の発言に添付されるべきブラフの量を評価することは困難です。 スピーチは明らかにインスピレーションを得ており、世界と日本の消耗のためのものでした。 私の意見では、それは日本が攻略を試みれば南京は地面に討ち滅ぼされることを意味しました。 これは門を開いて退却軍を入れることによって達成されるでしょう。

漢口大使館は必要であれば東京に転送してください。
外務省、北京、総司令官、および司令長官に転送。


(注記)「プリドゥ-ブルーン」という人物は「④ベイツからティンパレーへ」(南京事件資料集アメリカ編P359)にも登場する。






From CHINA
Decode. Mr. Prideaux-Brune (Nanking). 28th November, 1937.
D. By wireless 29th November, 1937.
R. 5.45 p.m. 29th November, 1937.
No.4. (R).

Addressed to Embassy Hankou telegram No. 9.
I am arranging evacuation of British subjects and hope that it can be completed tomorrow except for Military Attaché and myself who will remain in the Embassy for the present.
There are 21 British subjects of whom 5 will be accommodated on the gunboat and the remainder on Jardine Matheson hulk. At my German colleague's request I am admitting to the hulk himself, 2 members of his staff and 11 others under protection of the German Embassy. At my United States colleague's request I am admitting 5 American ladies and possibly several other Americans. Three Dutch nationals are also being admitted.
Unless outlook improves Butterfield and Swire's s.s. "Whangpoo" due here November 30th will be detained and lie near the hulk to relieve congestion on the latter which will be acute. The hulk lies four miles up the river from Nanking bund. It is inevitable that a certain number of Chinese craft will collect in its vicinity. I suggest that Japanese authorities be informed of location of the hulk and of the fact that it is serving as a place of refuge for British and other nationals as described above and that they also be informed that at present the members of your staff are remaining in the Embassy and one of H.M. Ships is lying off Nanking bund.

Repeated to Foreign Office, Peking, Commander-in-Chief and Shanghai.


中国から
プリドゥ-ブルーン(南京) 1937年11月28日
発信 無線        1937年11月29日
受信           1937年11月29日 午後5:45
No.4.(R)

漢口大使館宛 電信 No.9
私はイギリス人の避難を計画しています、そしてそれが明日のために大使館に残るであろう駐在武官と私自身を除いて明日それが完了されることができることを願っています。
21人のイギリス人被験者がいて、そのうち5人は砲艦に収容され、残りはジャーディン・マセソンの廃船に収容されます。私のドイツの同僚の要求で、私は彼自身、彼のスタッフの2人のメンバーとドイツ大使館の保護の下で11人の他の人に船に入ることを認めています。私のアメリカの同僚の要求で私は5人のアメリカ人女性そしておそらく他の数人のアメリカ人を認めています。 3人のオランダ人も認められています。
ここ11月30日までにフィールド&スワイヤーの蒸気船"Whangpoo"が見通しを改善しない限り、拘束され、遅くなるほどひどくなる混乱を緩和するために廃船の近くに横たわるでしょう。廃船は南京埠頭の上流4マイルに横たわっています。一定の数の中国の小型船(?craft)が近くに集まることは避けられません。
私は日本当局に、件の廃船の位置とそこが上記のように英国および多国籍な人々の避難所になっていること、現時点であなたの部下も大使館にいること、英国艦船が南京埠頭に一隻停泊していること等を知らせるべきだと提案いたします。

外務省、北京、総司令官、および上海に転送。


(注記)Wiki:ジャーディン・マセソン・ホールディングス(英語: Jardine Matheson Holdings Limited, 中国語: 怡和控股有限公司)は、香港にヘッドオフィス(登記上の本社はバミューダ諸島・ハミルトン)を置くイギリス系企業グループの持株会社。
(注記)Wiki:スワイヤー・グループ(英語: Swire Group、中国語簡体字:太古集团、中国語繁体字:太古集團)は、香港の本部を置く国際企業グループ。海運、空運、貿易や不動産、その他製造販売事業等様々な事業を展開している。…1866年 R. S. バターフィールドとの共同経営を開始。上海租界に「バターフィールド&スワイヤー社(Butterfield & Swire(B&S))」を設立。
(注記)「s.s.」とは、steam ship 蒸気船か。すると、"Whangpoo"は船名か。


(参考)
なお、上記の電文が米国にも伝わっていて、次の文書に紹介されている。

The Ambassador in China (Johnson) to the Secretary of State
https://history.state.gov/historicaldocuments/frus1937v04/d462






From CHINA.
Decode. Mr. Prideaux-Brune (Nanking). 28th November, 1987.
D. By wireless 29th November, 1937.
R. 7.15 p.m. 29th November, 1937.
No. 3. (R).

Addressed to Embassy at Hankow No.8 November 28th.
My telegram No.6.
Address in question was given in the course of daily reception to press correspondents and other foreigners. I was not present as I and my American and German colleagues were calling at the time on Chiang Kai-shek obtaining authoritative information regarding arrangements at Nanking. He said nothing of particular significance beyond confirming report that local administration is being placed entirely in military hands under defence Commander and no civil officials will remain except minor staff required to maintain essential municipal services.

Repeated to Foreign Office, Peking, Comander-in-Chief and General Officer Commanding.


中国から
プリドゥ-ブルーン(南京)  1987年11月28日
発信 無線         1937年11月29日
受信            1937年11月29日 午後7:15
No. 3(R)

漢口大使館宛 No.8 11月28日
私の電報 No.6
問題の住所は記者会見の記者や他の外国人への毎日のレセプションの過程で与えられました。 私と私のアメリカ人とドイツ人の同僚が、蒋介石が南京での取り決めに関する権威ある情報を入手するよう呼びかけていたので、私は出席しませんでした。 彼は地方行政が完全に防衛司令官の下で軍の手に置かれているという報告を確認することを除いて特に重要なことは何も言わず、重要な自治体サービスを維持するために必要な少数のスタッフを除いて公務員は残りません。

外務省、北京、総司令官、および司令長官に転送。






* AMENDED COPY. *
SECRET.

From:- Military Attaché, Nanking.
TO: The War Office.
Desp. 1305 30.11.37.
Recd. 1400 30.11.37.

M.A./94 Cipher 28/11.

Nanking 0600 hours 28th November. Situation Nanking fast deteriorating. Evident all with means deserting city. Ministers War and Navy, General Chang Chun, all responsible members of Foreign Office, Mayor and "Bankers" already left.
Garrison (repeat Garrison) Commander (not Tang Sheng chi) sick. Commissioner of police wavering. Freely rumoured when necessary police will go first followed by gendarmerie then military. Streets full of nondescript soldiers and authoritative control gradually becoming weaker.

Position will be critical when Japanese reach Chingkiang. Considered main Chinese forces will be able to slip away south westwards before Japanese reach Wuhu. Remainder will be faced with necessity of crossing Yangtaze river. No light task in face of heavy aerial bombardment.
Chiang Kai Shek still in (Nanking ?).

*When he leaves possibility of disturbances* in city cannot be regarded lightly. Except for radio and official wireless we are out of touch with events outside Nanking.
I am moving Archives ciphers and clerks aboard H.M.S Cricket.

C.4.(Telegrame).
Copies to:
S.of S.
C.I.G.S.
P.U.S
D.M.O & I.
D.D.M.O.
D.D.M.I.
M.O.1.A. 2. 2A.
M.I.1. 1.B. 2. 2C.
S.of S.(F.O.)
Mr.Orde (F.O.)
Cdr.Adams (Admiralty).
Sqdn.Idr.Pelly (Air Ministry).


*修正コピー*
秘密

From: 駐在武官、南京
TO: 戦争省
送信 1937年11月30日 13時05分
受信 1937年11月30日 14時00分

M.A./94 Cipher 28/11.

11月28日の南京06時00分。南京の状況は急速に悪化しています。明らかに全ては市を放棄することを意味します。戦争と海軍大臣、長春将軍、外務省の全責任者、市長、そして「銀行家」はすでに去っています。
守備隊(繰り返すが守備隊)の司令官(唐生智ではない)は病気。警察長官は動揺している。警察が先に行き、次に憲兵、それから軍が行くと噂されています。(注釈:「行く」と訳したが、意味としては「脱出」と思われる)道路は得体の知れない兵士(nondescript soldiers)で満たされ、権威ある統制は徐々に弱まりつつあります。

日本軍が鎮江に到着したときの位置が重要になります。日本軍が蕪湖に到着する前に、考えられている中国の主要部隊は南西に滑り落ちることができるでしょう。(注釈:日本軍が蕪湖を占領する前に中国軍は蕪湖に脱出できるだろうという意味と思われる)残りは揚子江を渡る必要性に直面するでしょう。重爆撃に直面し軽い任務ではありません。
蒋介石はまだいる(南京に?)。

*彼が都市に混乱の可能性を残すとき*は軽く見なすことはできません。ラジオと公衆無線を除いて、我々は南京以外の出来事と連絡が取れていません。
私は暗号文資料と書記官を砲艦クリケットに乗せています。

C.4(電文)
コピー宛:
S.of S.
C.I.G.S.
P.U.S.
D.M.O&I.
D.D.M.O.
D.D.M.I.
M.O.1.A. 2. 2A.
M.I.1. 1.B. 2. 2C.
S.of S.(F.O.)
Mr.Orde (F.O.)
Cdr.Adams(提督)
Sqdn.Idr.Pelly(空軍省)


(参考)
インセクト級砲艦クリケットについて以下のサイトに情報がある。

HMS Cricket (1915)
https://en.wikipedia.org/wiki/HMS_Cricket_(1915)






SECRET.
From: Military Attaché, Nanking. Desp.1745 3.12.37.
To: The War ofl'ice, Hong Kong and Shanghai. Recd.1000 4.12.37.

M.A./99 Cipher 3/12.

1. Secret. German Ambassador accompanied by Hsu Mo vice Minister of Foreign Affairs arrived Nanking by Customs sloop from Hankow morning December 2nd. After interview with Chiang Kai Shek they left for Hankow same evening.
2. Situation in city remains quiet. All city gates are being prepared for defence. Underground (?telephone) wires (?are) (?being) installed. Knife rests in large quantities being made. Large quantities military stores and motor transport being transported north bank of river. At conference night of December 2nd, Mayor (who has left) categorically denied authorities intended to (?destroy) city (?by) fire. Japanese have refused to agree an international zone within city but state (?they will) (?do) their best to respect it. Arrangements are (?going) forward under foreign committee to prepare zone (?for) occupation by refugees.
Commissioner of Police has been dismissed.

C.4.(Telegrams).

2 advance copies to S.O. to D.D.M.I. for return with distribution to C.4.(Telegrams).


秘密
From:駐在武官、南京    発信 1937年12月3日 17時45分
To :戦争省、香港、上海   受信 1937年12月4日 10時00分

M.A./99 Cipher 3/12.

1. 秘密。 徐謨外務大臣を同伴したドイツ大使は、12月2日の朝、漢口から特別仕様の船で南京に到着しました。 蒋介石とのインタビューの後、彼らは同日の午後漢口に向かいました。
2. 市内の状況は静かなままです。すべての市の門は防衛の準備ができています。地下電話線が設置されました。拒馬(注釈:Knife rests=拒馬、バリケード)が大量に作られています。大量の軍用装備と自動車輸送が川の北岸を輸送しています。 12月2日の会議の夜、市長は当局が火災によって都市の破壊をするつもりであることを断固として否定しました。日本人は市内の国際安全区に同意することを拒否したが、それを尊重するために最善を尽くすだろう。国際委員会の下で、難民による占有を準備するための手配が進められている。
警察長官は解任された。

C.4.(Telegrams).

2 advance copies to S.O. to D.D.M.I. for return with distribution to C.4.(Telegrams).


(注記)Wiki:拒馬(きょば)は、敵の通過を防ぐために主に道路などの封鎖の目的で用いられる移動可能な障害物である。…現代の拒馬は主として木材と有刺鉄線とから成る。その障害力は大きくはないが、移動性を有し、運搬、設置が容易である。






From CHINA.
Decypher Military Attaché (Nanking), 10th December, 1937.
D. W/T 10th December, 1937.
R. 7.10pm 10th December, 1937.
No.103

In continuation of my telegram M.A./102 Nanking situation sixteen hours December 9th, (1) Consul informed by Chinese authorities that all gates would be permanently closed at fifteen hours today. (2) Reliable information Japanese have occupied military aerodrome and are now attacking Kuanghuamen south-east of the city. (3) Fires were started in Hsiakwan at eleven hours this morning. Up to the present fires have been restricted to the area east of Creek running north and south about half a mile west of the city wall.


中国から
駐在武官(南京)   1937年12月10日
発信 無線      1937年12月10日
受信         1937年12月10日 午後7:10
No.103

私の電信 M.A./102 南京の状況の続きで12月9日16時、(1)総領事は、中国当局から、本日15時にすべての門が恒久的に閉鎖されることを通知しました。 (2)信頼できる情報 日本軍は軍用飛行場を占領し、現在は市の南東にある光華門を攻撃している。 (3)今朝11時、下関で火災が発生した。 現在までの火災は、市壁から西に半マイルほどの南北に走るクリークの東の地域に制限されてきました。






From CHINA.
Decypher. Mr. Brune (Nanking), 10th December, 1937.
D. W/T 11th December, 1937.
R. 6.00 p.m. 11th December, 1937.
No.9.

Nanking City and Hsiakuan shelled by Japanese who appear to have surrounded the city except from the west. It is considered general assault imminent and extremely probable that Japanese will effect an entry into south-east part of the city within twenty-four hours. Fires are raging on all sides but apparently not in the city. Large fire has [grp. omtd.] vicinity of Pukow railway station. The Bridgehouse Hotel in Hsiakuan property of Mrs. Sim, a British subject, destroyed by fire. All safe including I.C. Smith, Reuters correspondent, who is remaining in the city in spite of warning and at his own risk.

中国から
ブルーン(南京)  1937年12月10日
発信 無線     1937年12月11日
受信        1937年12月11日 午後6:00
No.9

南京市と下関は西側以外では市内を取り囲んでいたと思われる日本軍によって砲撃された。一般的な攻撃が差し迫っていると考えられており、日本人は24時間以内に市の南東部に入ることになるでしょう。 火は四方八方に猛威を振るっていますが、明らかに市内ではありません。大火事が(対岸の)浦口駅周辺にあります。下関にある The Bridgehouse Hotel は、英国臣民のシム夫人の所有物で、火事で焼失しました。 警告と危険にも関わらず市内に残っているロイター通信スミス特派員も含めて全員無事。


(注記)原文中の [grp. omtd.] については意味がわからず。推測では [集団については省略] のような意味合いか。当時の状況的にはあちこちで同時多発的に火災が発生しているはずなので、浦口駅付近の大火災以外は省略、ということなら意味的に通じる。






From CHINA.
Telegram (en clair) from Mr. Young. (Peking). December 13th, 1937.
D. (by wireless) December 13th, 1937.
R. 4.50.p.m. December 13th, 1937.
No. 882.

Addressed Shanghai for Mr. Howe No. 852.
My telegram No. 847. Japanese military spokesman here informed press correspondents evening 13th December that Nanking was now considered officially occupied and that announcement regarding new régime would be made following day.
Repeated Foreign Office No. 882, Tokyo and Tientsin.

中国から
ヤング氏(北京)からの電報(平文)  1937年12月13日
発信 無線              1937年12月13日
受信                 1937年12月13日 午後4:50
No.882

上海のハウ氏宛 No.852
私の電信 No.847、ここで日本の軍事スポークスマンは12月13日夕方に記者通信担当者に南京が現在正式に占領されていると考えられていて、新しい政権に関する発表が翌日行われると伝えました。

外務省から転送 No.882、東京と天津


(注記)最後の一文、どこからどこへの転送なのかいまひとつ読み取れず。Telegram No. も 847/852/882 と複数登場し、因果あるいは転送関係が複雑。







資料提供、翻訳の助言など皆さまにご助力をいただきました。ありがとうございました。





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「あった派」こそ歴史修正主義

2019年02月15日 | 南京大虐殺


南京論争では日本国内の「あった派」の方がむしろ「歴史修正主義」である。なぜか。

1)東京裁判での事件の期間は陥落日から。
2)南京法廷での事件の期間は主に陥落前日から。
3)「南京大屠杀遗址纪念碑」は南京城内とその周辺。

それにも関わらず、国内のあった派だけはなぜか上海からの進軍路を含めたがる。これは拡大修正主義だ。


1)(東京裁判での松井被告への判決文)「この犯罪の修羅の騒ぎは、一九三七年十二月十三日に、この都市が占拠されたときに始まり、一九三八年二月の初めまでやまなかった。」

主眼は陥落後であって、上海からの進軍路やその期間は含まれていない。


2)(南京軍事法廷での谷被告への起訴事実)「調査によれば虐殺が最もひどかった時期はこの二十六年十二月十二日から同月の二十一日までであり、それはまた谷壽夫部隊の南京駐留の期間内である。」

主眼は陥落前日からであって、上海からの進軍路やその期間については言及されていない。


3)現在の中国が建立している「南京大屠杀遗址纪念碑」も2箇所を除いて南京城内とその周辺。遠い2箇所も両方とも当時の南京を含む江寧県で、1つは翌年2月。犠牲者数の99.9%以上が南京城内とその周辺。

侵华日军南京大屠杀遗址纪念碑
https://zh.wikipedia.org?curid=3591632



上記3項目から、連合国の事件の認識は陥落後(東京裁判)、中華民国(南京戦の交戦相手国)の事件の認識は陥落前日から(南京軍事法廷)、現在の中華人民共和国の認識はほぼ南京城とその周辺(南京大屠杀遗址纪念碑)となっていることがわかる。


そして、まともに検証すれば南京城とその周辺で市民大虐殺がなかったのは明らか。敗残兵と捕虜の処断については法的解釈は諸説あるにしても、実行部隊の部隊長が戦犯になっていないのは事実。従って、特に今の中国がいう南京大屠杀なるものは「なかった」と結論づけるのが当然。


それにも関わらず、「あった」という結論を変えないまま、南京戦の時間と空間を独自に拡大解釈して、犠牲者数を増やそうとするのは詭弁に思える。おそらく、こんな珍説は日本国内にしか存在しない。日本の論壇の主流がそうだというなら日本の論壇がおかしい。



(参考図表)



(クリックで拡大)




(クリックで拡大)







(関連記事)

The Fake of “Nanking Massacre”(日英併記の概説)
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/b9fce6b774ed768149eb86f4ddb29ad9


《1》南京大虐殺の真相(要約版)
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/eaacb2fee7e20c9adc4799020776c9d1


★南京大虐殺の真相(目次)
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/9e454ced16e4e4aa30c4856d91fd2531


以上。



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《南京事件》グラフで見る城内掃討

2015年07月21日 | 南京大虐殺
最終更新:2017.12.21



12月13日の南京陥落後の、主に14〜16日に城内に潜伏した敗残兵の掃討あるいは摘出が行われた。その際の人的被害の規模について、一連の考察を通して判明している数値に基づいて考察を行ってみる。



《要点》

・陥落後の城内掃討における市民犠牲比率は34%。
・陥落後の城内掃討における安全区外の市民犠牲比率は44%に達する可能性。
・良民証の発行時に捕らえた捕虜まで含めると城内掃討全体における市民誤認率は29%。
・ベイツが書いた「城内と城門付近の遺体の30%はかつて兵隊になったことがない人々」はおそらく事実。
・ヴォートリン日記の「市内埋葬の80%が市民」と「市外埋葬の25%が市民」はおそらく事実。数字のマジック。




《A. 城内の遺体》

陥落後の城内掃討における市民犠牲比率を算出するため、城内収容遺体の内訳を整理する。数値は一連の考察で算出したものである。




工兵が撤去した遺体は、城門付近に集中しているから、それらは全て戦死体と解釈する。

すると、残りの紅卍字会の埋葬担当分では、市民比率 55%になる。




《B. 城内掃討での犠牲者》

城内掃討での犠牲者総数を算出するために、以下のように補正をかける。

1)前項のグラフに、「12月14-16日に第7連隊が摘出し、処断した敗残兵6,670人」を加える。他に城門外での処刑もあるようだから、ここでは少し上乗せして7千と置く。
2)一連の考察に基づいて「敗残兵と誤認された市民」を2,000と算定しているから、それも加味する。(前項の7千のうち2千を市民と置く)
3)日本軍が城内掃討する前の市民犠牲者数が約900(600+250+50)あるから、それを埋葬分の市民数から除外する。

すると、次のようになる。




これが、「陥落直後の城内掃討戦での犠牲者の内訳」の近似値である。

このグラフ上では、掃討戦全体での市民犠牲比率が34%となる。

このくらいの数字になると、戦史上の他の地上戦における市民犠牲比率(沖縄戦 50%、ベルリン陥落 47%、イラク戦争 75%など)に近い数字。

また、このグラフでは埋葬に占める市民犠牲比率は44%になる。

もし敗残兵摘出(=揚子江または城門外に連行してから処刑)は全て安全区内から、埋葬(=城内での殺害)は全て安全区外であると言って良いのであれば、これも意味のある数字になる。

というのも、城内“虐殺”のケーススタディで考察したように、安全区外を掃討した38連隊には歩兵第三十旅団命令として「各隊は師団の指示があるまで俘虜を受付くるを許さず」という命令が出ている。

同時に、「南京城内には避難民相当多数ありたるも之等は一地区に集合避難しありて掃蕩地区内には住民殆ど無し」との認識も戦闘詳報に記されている。

つまり、掃討区域内で成人男性を見かけたら、それは軍服を脱ぎ捨てた敗残兵に違いないから有無を言わさず掃討せよ、という意味になる。

他の城内掃討部隊の戦闘詳報が確認できないので(おそらく存在しない=戦災で消失)確定はできないが、他の部隊でも同様の指示が出ていた可能性はある。

従って、結果的に「城内の安全区外での掃討によって殺害した成人男性の約44%が実は市民だった可能性」を指摘できる。




《C. 掃討戦での市民誤認率》

犠牲者数についての分析は上述の通りだが、12月25日頃から行われた「良民証」発行時にも敗残兵2,000を捕らえ、これを捕虜にしている。
(これ以降は、まとまった数の敗残兵摘出はないはず)

従って、城内掃討戦全体での「市民誤認率」を算出するなら、これも加味する必要がある。




「良民証」発行時の敗残兵2,000における市民誤認はゼロだと言っているわけではないが、「敗残兵と誤認された市民」2,000は前項のグラフで既に織り込み済みである。

従って、城内掃討戦全体での市民誤認率は 29%となる。




《D. ベイツが見た30%》

ティンパーリ著『戦争とは何か』に掲載されている手紙の中でベイツはこう書いている。

「埋葬による証拠の示すところでは、4万人近い非武装の人間が南京城内または城門の付近で殺され、その内の約30パーセントはかつて兵隊になったことのない人びとである。」


「4万人」とは紅卍字会の埋葬記録によるものだろうと推測するが、それはさておき、ここでは、「30%」がどこに起因してるのかについて考察する。


城内戦死:陥落日までの城内戦死、および陥落後の城内掃討での中国兵の戦死。
便衣兵 :陥落から数日間の城内掃討で捕縛され、城門外や揚子江岸で処断された敗残兵。
城内市民:城内で発生したであろう市民犠牲者。(=陥落までの城内犠牲者、陥落後の掃討時の巻き添え、敗残兵と誤認されて犠牲となった市民)

※グラフに用いた数値はこの一連の考察で算定したものだが、犠牲の発生日は必ずしも定かではないので、わかる範囲で大まかに割り振っている。


このグラフは《B. 城内掃討での犠牲者》を時系列推移で表現したものに近いが、陥落日以前に生じた犠牲者数も含んでいる点が異なる。

グラフにあるように、陥落翌日の14日の時点で既に城内犠牲者に占める市民の比率は28%に達している。その後の城内掃討を経て最終的には35%に至る。

したがって、城内の状況としては14日頃にざっと見た印象であろうが、あるいは陥落から日数が経ってから聞きかじった情報であろうが、ベイツのいう「市民犠牲者30%」はあり得る数字どころか、ベイツ本人の認識としては真実を書いたのではないかと思われる。




《E. ヴォートリン日記の数字の謎》

ヴォートリンが日記に次のことを書いている。

『ミニー・ヴォートリンの日記』 1938年4月15日
DIARY OF WILHELMINA VAUTRIN
卍会の本部を訪れた時の会合の後、彼らは私に以下のデータを示してくれた---彼らが、遺骸埋葬が可能だった間、即ち1月中旬から4月14日までの間、彼らの会は、市内に1793体の遺骸を埋葬しており、このうちの約80%が市民だった。市の外には、この間に彼らは39,589体の男性、女性および子供を埋葬しており、このうち約25%が市民だった。
After the meeting when calling at the headquarters of the Swastika Society, they gave me the following date --- From the time they were able to encoffin bodies, i.e. about the middle of January to April 14, their society had buried 1793 bodies found in the city, and of this number about 80% were civilians outside the city during this time they have buried 39,589 men, women, and children and about 2_1/2% of this number were civilians.


上記は次の記事からの借用です。

電脳日本の歴史研究会blog

http://blog.livedoor.jp/ichiromatsuo/archives/70150196.html


ヴォートリンの記述の要点は次の2点である。紅卍字会の記録と照合すれば、1,793体の「市内」は「城内」と読み替えていいはず。

(1) 市内埋葬1,793体の80%が市民
(2) 市外埋葬の39,589体の25%が市民


第一印象的には城内遺体の80%が市民とは「酷い」とか「あり得ない」と思えるが、実はそうではないことが判明した。

冒頭の《A. 城内の遺体》のグラフを、ヴォートリンがいう「(1) 市内埋葬1,793体の80%が市民」に合わせて改造してみる。円グラフの一番外側に付け足したのが、兵士/市民の区分および埋葬場所としての城内/城外の数字である。

一般に紅卍字会の城内埋葬数は「1,793」という数字が知られている。ただし、それはあくまで「埋葬場所」であって、「収容場所」ではない。そのような、「城内収容」を集計すると計4,757体である。例えば、紅卍字会の埋葬記録には「12月22日」に「中華門外望江磯」に109体を埋葬したと記録されているが、備考欄には「城内各処で収容」と書いてある。




そうすると、「市内埋葬1,793体」の残りの『城内と城門付近で収容して城外に埋葬した遺体』に占める市民の比率がヴォートリンが書き残したように、まさに25%になった。手元の計算では25.9%である。工兵撤去分を「兵士かつ城外埋葬」にするとそうなるのである。グラフの数字を電卓で検算すればすぐわかる。

したがって、ヴォートリンは「(2) 市外埋葬の39,589体の25%が市民」と書いているが、より正確には「城内と城門付近で収容して、城外に搬出して埋葬した遺体の25%が市民」であって、おそらく紅卍字会の埋葬記録に基づいているであろう39,589体全体にも当てはまるだろうと推測して日記に記したのではないだろうか。前項のベイツも「4万人近い非武装の人間が南京城内または城門の付近で殺され」と書いているので、ヴォートリンも同様の認識だった可能性がある。

ここからわかることは、ヴォートリンは城内南側の建物密集地区で収容されて中華門外に搬出されて埋葬された遺体数や、挹江門や太平門などで日本軍が独自に搬出して処理した遺体数なども紅卍字会を通してかなり正確に把握していたであろうということである。
それだけでなく、現存する紅卍字会の埋葬記録(東京裁判提出版)には「男/女/子」の区分しかないから、市民と兵士の集計はできないが、ヴォートリンが訪れた紅卍字会の本部では兵士と市民が区分された集計値も持っていた可能性が高いということである。

さらに言えば、私のこの一連の独自の遺体数算定も、これでまたヴォートリンによって裏付けができたと言えると思う。偶然でこれほど数字がぴったり整合するとは思えない。




《欧米人の憤慨》

上述のような状況だとすれば、安全区国際委員会の欧米人たちはこのように憤慨したであろう。

安全区を作って市民たちを保護した。日本軍も安全区への攻撃を控えてくれていた。だから、戦争中は市民にほとんど犠牲は出なかった。なのに、陥落して戦争が終わったと思ったら、侵入してきた日本軍が荒らしまわって市民にも大量の犠牲者が出た。どういうことなのか。


上記は私の忖度作文だが、実際に陥落2日後の12月15日に、南京を去る欧米記者たちにベイツが渡したレポートにはこう書いてある。

(ベイツレポート抜粋)

日本軍の入城によって戦争の緊張状態と当面の爆撃の危険が終結したかと見えたとき、安心した気持ちを示した住民も多かったのです。少なくとも住民たちは無秩序な中国軍を怖れることはなくなりましたが、実際には、中国軍は市の大部分にたいした損害も与えずに出て行ったのです。
しかし、二日もすると、たび重なる殺人、大規模で半ば計画的な掠奪、婦女暴行をも含む家庭生活の勝手きわまる妨害などによって、事態の見通しはすっかり暗くなってしまいました。



また、「安全地帯の記録」に掲載されている手紙にも同種の文面がある。

(第九号 日本大使館への手紙 1937年12月17日)(抜粋)

言い換えると貴国部隊が本市に入城した十三日、私どもは市民のほぼ全員を安全地帯という一地区に集合させていたが、そこでは流れ弾の砲弾による被害は殆どなかったし、全面退却中であっても中国兵たちによる掠奪もなかった。貴方たちがこの地区を平和裡に掌握し、安全地帯以外の南京市の残りの地域の治安が確保されるまで、その中で日常生活を平穏裡に続けさせる舞台は貴方たちのためにしっかりと出来上がっていた。そして南京市は完全に普通の生活を始めると思われた。この時本市に滞在してた西洋人二十七人全てと中国人住民は十四日、貴国兵士たちが至る所で行った強盗、強奪、殺人の横行に全く驚かされたのであった。我々の抗議の書状で求めているのは、貴方たちが部隊の秩序を回復し、本市の通常生活をできるだけ早く元に戻すことである。


これが、当時の城内視点での“大虐殺”イメージの出発点ではないかと考える。

なお、城内掃討の具体的事例としては、次の記事で検証した。

《南京事件》城内“虐殺”のケーススタディ
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/8dfb8b0916aa84dc46215f2c7b3543d5




《なぜこうなったか》

城内掃討戦での市民犠牲比率が34%というのは、戦史上の他の地上戦よりは若干低いものの、南京戦全体平均(=9.8%)からすれば高い。さらに、誤認、反抗、逃亡その他状況は不明であるにしても「城内の安全区外での掃討によって殺害した成人男性の約44%が実は市民だった可能性」というのは数値としてやや高いと言える。

これにはいくつもの要因が重なっている。

1)戦前に国際委員会が「市民のほぼ全部をこの地帯(=安全区)の中に集めた」と日本軍に文書で通知。
2)20万人は安全区に避難したが、実は約5万人は安全区外で陥落を迎えた。*
3)南京防衛軍の司令長官・唐生智が陥落前日(12日)に徹底抗戦を指示したまま部下を見捨てて南京から脱出した。
4)唐生智脱出を知った南京防衛軍は瓦解し、数千人の敗残兵が軍服を脱ぎ捨てて城内のどこかに潜伏した。
5)陥落後の掃討戦において日本軍は「安全区外には市民はほとんどいない」と認識していた。(38連隊戦闘詳報)
6)掃討戦において「各隊は師団の指示があるまで俘虜を受付くるを許さず」という命令が出ていた。(30旅団命令)
7)さらには(おそらく)軍服を脱ぎ捨てた敗残兵の多くが安全区に潜伏し、安全区外にはあまりいなかった。

このような要因が重なって、安全区外に残っていた市民約5万*の中から、掃討戦で約2千人の犠牲者を出してしまったのではないかと推測する。

*:陥落時点で安全区外に5万人いたらしいことは、こちらの記事に記述した。

従って、一般的な“南京大虐殺”イメージでは、暴走した兵士らによる理性を失った乱暴狼藉として語られることが多いが、安全区外の市民犠牲者に関する限り、これは手違いに近い話ではないかと考える。なにしろ、命令が出ている以上は、現場の部隊としてはそうするより他にない。

ただ、安全区外にいた5万人(半数を成人男性としても2.5万人)の大半が犠牲になったわけではないところを見ると、上記のような命令が出ていたにも関わらず、現場の部隊は敗残兵と市民の識別に相当の努力をした様子も伺える。

「南京攻略戦、特に占領直後の12月13-16日の敗残兵掃討戦においては、バラバラに崩壊した中国軍の敗退部隊と脱出を争う避難民とが混交し、投降兵、敗残兵、便衣兵が続出して混乱を極めた。戦闘員と無辜の住民との識別は困難であった。」(独立軽装甲車第二中隊小隊長・畝本正己/証言による『南京戦史』最終回)






以上。






改版履歴:
2017.09.02 計算ミスを修正
2017.09.10 紅卍字会・埋葬記録の集計ミスによる修正
2017.12.18 ヴォートリンの項を全面書き換え
2017.12.21 《ベイツが見た30%》グラフをこちらに移動
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南京の図面など

2015年07月21日 | 南京大虐殺


南京戦当時の図面など。


《南京城全景》

・城内で建物が密集しているのは中央部から南側の中華門にかけて。
・安全区(緑の枠)にはほとんど建物がない。外国公館、大学等の大きめの建物が点在するのみ。
・城外には建物は少ない。左上の下関、安全区左下の漢西門外、南の中華門外に少しあるのみ。






《下関〜宝塔橋街》

・城内最北端の獅子山のすぐ上が煤炭港。鉄道の引き込み線も見える。
・煤炭港を挟んで南に下関、北に宝塔橋街がこじんまりと並んでいる。建物の数が数えられそう。
・下関〜宝塔橋街にはそれほどの人口を収容できる街があったように見えない。
・揚子江上に並んでいる文字列は埠頭の名称。






《城内北側》

・城内最北端の獅子山付近には建物があるが、他にはあまり建物がない。
・上側に点在する丸は池とか沼ではないか。「安全地帯の記録」にも「処刑するのはいいが池を汚すな」という苦情がある。
・左下のエリアは等高線のようだから丘陵地帯に見える。もう少し南に下がると五台山と清涼山がある。
・この画像内に安全区の北半分が入っている。






《安全区》

・中央に安全区、その南に五台山、その左側には清涼山。
・安全区内には大きな建物がありそうだが、数は少ない。
・太線で囲んであるのが「列国権益」の区画。資料のタイトルは「南京市街列国権益図」。






《城内南側》

・建物が密集しているのがわかる。他のエリアと全然違う。
・城内の住民の大半がこの地区に居住していたのだろう。






《中山門外》

・南京城東端の中山門を望むスケッチ。
・スケッチの中には建物は6軒しかない。畑と、少々の林だけ。
・南京城の周囲の大半がこのような風景なら、戦闘で巻き添えになった市民は少なそう。
・城攻めにあたっては城門突破より、大砲で城壁を撃ち破ることを狙ったように見える。
・クリーク(濠)の幅は90mと書いてある。






《幕府山》

・中央付近に幕府山。
・幕府山から対岸の八罫洲までの距離が極めて狭いことがわかる。
・当時と今では本流と支流が違う。当時は北回りが本流で、幕府山の前は支流。今は逆。









以上。





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《幕府山事件》地理編

2015年07月21日 | 南京大虐殺
2022.09.17 タイトル等修正、4項に唐光譜の火事の話を追加



この記事は幕府山事件に関する地理的な考察に集約した。




《1. 幕府山事件とは》


幕府山事件とは、『戦史叢書 支那事変陸軍作戦<1>』から引用すれば、次のような出来事。

第十三師団において多数の捕虜を虐殺したと伝えられているが、これは15日、山田旅団が幕府山砲台付近で1万4千余を捕虜としたが、非戦闘員を釈放し、約8千余を収容した。ところが、その夜、半数が逃亡した。警戒兵力、給養不足のため捕虜の処置に困った旅団長が、17日夜、揚子江対岸に釈放しようとして江岸に移動させたところ、捕虜の間にパニックが起こり、警戒兵を襲ってきたため、危険にさらされた日本兵はこれに射撃を加えた。これにより捕虜約1,000名が射殺され、他は逃亡し、日本軍も将校以下7名が戦死した。

戦史叢書 支那事変陸軍作戦<1> 防衛庁防衛研究所戦史部



これに対して、次の書籍の陣中日記などに基づいて異論が付けられていて、いまだに細部を巡って議論になっている。(以下、「小野日記」と表記する)

南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち :第十三師団山田支隊兵士の陣中日記 小野 賢二
https://www.amazon.co.jp/dp/4272520423/



そして、その小野日記などに立脚した番組も放送された。

NNNドキュメント:シリーズ戦後70年 南京事件 兵士たちの遺言
https://www.happyon.jp/watch/60738022

NNNドキュメント:南京事件Ⅱ
https://www.ntv.co.jp/document/backnumber/archive/post-93.html



上記番組に対応した書籍版はこちら。

「南京事件」を調査せよ (文春文庫) 清水潔
https://www.amazon.co.jp/dp/B077TP2SL8/




冒頭の『戦史叢書 支那事変陸軍作戦<1>』に示されたような説明は「自衛発砲説」と言われる。これに対して、小野日記などに基づいて、NNNドキュメントなどは「自衛発砲説は戦後の創作による嘘である」とし、幕府山事件は計画的な捕虜処刑であったと主張する。

なお、この幕府山事件をめぐっては従来は12月17日の草鞋峡での事件以外に、その前夜にも同様の事件があったのではないかという点が争点になっていたが、『南京の氷雨 /阿部輝郎』で前夜16日の事件を当日の指揮官であった角田中尉(第5中隊長)が証言しているので、その点についてはもはや疑義はないものとする。




(関係地点と関連図)


幕府山事件に関係する地点は以下の通り。

A 草鞋峡遇难同胞纪念碑
B 草鞋峡遇难同胞纪念碑
C 鱼雷营遇难同胞纪念碑(金陵造船所内)
X 事件現場(魚雷営)
Y 事件現場(草鞋閘)
Z 収容所



(クリックで拡大)





《2. "南京大屠杀"遇难同胞纪念碑》


中国側の「"南京大屠杀"遇难同胞纪念碑」から、幕府山事件に関連するものを拾うと次の2つ。


2、侵华日军南京大屠杀草鞋峡遇难同胞纪念碑

概要:12月13日、武装解除された兵士ら難民五万七千人が幕府山の下の村に投獄された。そして、18日の夜にその悉くが機関銃で射殺された。

一九三七年十二月十三日,侵华日军攻占南京后,我逃聚在下关沿江待渡之大批难民和已解除武装之士兵,共五万七千余人,遭日军捕获后,悉被集中囚禁于幕府山下之四五所村。因连日惨遭凌虐,冻饿致死一批;继于十八日夜悉被捆绑,押解至草鞋峡,用机枪集体射杀。


18、鱼雷营遇难同胞纪念碑

概要:12月15日の夜、武装解除された兵士9,000余人が魚雷営に押し込まれ、集団射殺。さらに同月、宝塔橋一帯で再び軍民三万人以上を殺害。

一九三七年十二月十五日夜,侵华日军将被其搜捕之我市平民和已解除武装之守城官兵九千余人,押至鱼雷营,以机枪集体射杀。同月,日军又在鱼雷营、宝塔桥一带再次杀害我军民三万余人。



現代の地図で確認すると「草鞋峡遇难同胞纪念碑」はなぜか2つあるので、それぞれをA、Bとし、「鱼雷营遇难同胞纪念碑」をCとする。




《3. 当時と今の地図比較》


現場は、幕府山に面した揚子江岸だが、南京戦後に中洲(八卦洲)を挟んで揚子江の本流と支流を入れ替える大工事をしたようなので、当時とは地形が異なる。当時は、幕府山のすぐ前が支流。中洲(八卦洲)の北側を大きく迂回して流れているのが本流。

以下の図は、1937年当時の地図と、現在のGoogle Mapを幕府山を基準に重ね合わせたもの。川幅以外にも、中洲(八卦洲)の先端の位置などが大きく異なる。




下図は、1937年と1945年の地図を重ね合わせたもの。方位ずれやら歪みがあってぴったりは重ならないが、幕府山南端の上元門、宝塔橋街、対岸の浦口でだいたい位置合わせをした。これを見ても、魚雷営も草鞋峡の現場も1945年の時点ですでに河の底なのがわかる。






《4. 収容所の比定》


幕府山事件をめぐっては収容所の位置の比定がひとつの鍵になっているが、この事件に関わった第65連隊第1大隊所属の栗原利一伍長がスケッチを残している。



上記のサイトから、捕虜を収容していた建物と、捕虜を揚子江岸に移送した経路のスケッチを引用させてもらうと次の通り。
左下に捕虜を収容した建物群が見える。これを、「Z収容所」とする。


直リンクはこちら。
http://www.kuriharariichi.com/sketch/to_0040/0028.html




南京戦当時の地図で上記の栗原スケッチの「Z収容所」を探した結果がこちら。五差路のように見えるが、よく見ると十字路のすぐ北側にY字路となっている場所。






『アサヒグラフ 支那戦線写真』に掲載された「両角部隊によって南京城外部落に収容された捕虜の一部(12月16日上野特派員撮影)」の写真を以下に示す。

南京事件研究家の板倉由明氏が、栗原元伍長から聞き取ったところによれば、「幕府山南麓の学校か兵舎のようなワラ葺きの十数棟の建物に収容…」とあるので、この写真はその十数棟の建物のひとつであろう。






上記の写真に、1945年当時のより正確な地形図、およびその地点からの Google Earth での光景を照合したのがこちらの図。





画像の下半分が「Z収容所」の地点からの Google Earth の画像。小さな山Aの稜線および距離感が一致している。

地図中の青矢印がカメラの向き、黄色が写真に写っている画角を示す。AおよびBで示した山の中間にカメラを向けて撮影していることがわかる。収容所の標高が20-30m付近で、写ってる山Aが標高70-80mくらい。距離にして700-900mのところに標高差約50mの山Aが写ってる。

ちなみに、上図に基づけば写真の水平画角は約28度なので、70mm相当(35mm版換算)の中望遠レンズでの撮影ということになる。但し、掲載媒体によってはもう少し広く写っているのもあるので、実際の撮影レンズはもう少し広角だったはず。

写真の中の日本軍将校らしき立っている人物の影の向きからすると、太陽光線の向きは地図中に赤矢印で示した方向になると思われる。地図上の南北の方位線に対して太陽光線の入射角が約45度ずれているので、撮影時刻は午前9時前後と推測できる。

その「Z収容所」地点の Google Map へのリンクはこちら。企業のようだが、なぜか現在でも似たような配置で建物が並んでいる。




ところで、捕虜のひとりであった唐光譜氏が収容所で火事になった際の話を書いている。なお、この記述の中では、唐光譜氏は大混乱だった陥落前日を第一日目としているようである。

五日目になった。私たちはお腹の皮が背中につくほどお腹が空いてみなただ息をするだけであった。明らかに、敵は私たちを生きたまま餓死させようとしており、多くの大胆な人は、餓死するよりも命を賭ける方がましだと考え、火が放たれるのを合図に各小屋から一斉に飛び出ようとひそかに取り決めた。その日の夜、誰かが竹の小屋を燃やした。火が出ると各小屋の人は皆一斉に外へ飛び出た。みんなが兵舎の竹の囲いを押し倒したとき、囲いの外に一本の広くて深い溝があるのを発見した。人々は慌てて溝に飛び降りて水の中を泳いだり歩いたりして逃走した。しかし、溝の向こうはなんと絶壁でありみな狼狽した。このとき敵の機関銃が群衆に向かって掃射してきた。溝の水は血で真っ赤に染まった。逃走した人はまた小屋の中に戻された。小屋は少なからず焼け崩れ、人と人は寄り添い近寄っておしあいするしかなく、人間がぎっしりと缶詰のように詰まり、息をするのもたいへんだった。(P251)

私が経験した日本軍の南京大虐殺 唐光譜
南京事件資料集 2中国関係資料編



上の証言に、「囲いの外に一本の広くて深い溝」「溝に飛び降りて水の中を泳いだり」という話が出てくる。

より詳細な地図で確認すると、収容所の西面と南面に川がある。おそらくこれのことだと思われる。








《5. 魚雷営とは》


「C 鱼雷营遇难同胞纪念碑(金陵造船所内)」あるいは「魚雷営埠頭」と呼ばれている地点の「魚雷営」だが、そもそもこれがなにを指すのかイマイチわかっていなかったが、それがわかってきたので整理する。

紅卍字会の埋葬記録に、埋葬地点として「下関魚雷軍営脇」というのが登場する。「営」の語源は、連なった建物を意味する。また、「軍営」とは、軍隊の陣営、陣屋、兵営を意味する。つまり、「下関魚雷軍営脇」とは、下関の魚雷軍の一連の建物の脇、という意味に解釈できる。

Wikiの「国共内戦」の項には「(1937年)5月 - 蒋介石、ドイツ政府に高射砲、魚雷、機雷の提供を要請。」とあるから、南京戦の時点で魚雷を扱う軍部隊が存在していてもおかしくはない。また、中国側の「鱼雷营遇难同胞纪念碑落成」を報じた記事でも、「魚雷営は、中国海軍の古い水雷部隊があった場所」というような記述もある。

ちなみに、日本語の「魚雷」を中国語(簡体字)に翻訳すると、そのまま「鱼雷」である。

そして、幕府山事件の捕虜が捕獲された場所は、幕府山砲台の近くでもある。幕府山砲台とは、揚子江を遡行してくる敵艦を南京城の手前で阻止することを任務としている。

参考までに、南京周辺の砲台の位置を記した図を示す。このように、南京城付近に遡行しようとする敵艦を狙っていた。ちなみに、下図の右側が下流となり、揚子江を下れば上海に至る。



挿図第1~第11 南京付近支那軍防禦編成表要図他(アジア歴史資料センター)
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C11111745200



そこで魚雷を主要兵器とする部隊についてさらに調べていたところ、中国版のWikiに次の説明を見つけた。

S艇在中國

S-7是S艇其中一個級別,編號由S-7至S-13,圖中為S-13,中國海軍也有3艘S-7艇
S-7是S艇其中一個級別,編號由S-7至S-13,德國人除了自用外還另外再建造去出口給保加利亞5艘和南斯拉夫8艘,中華民國也在1936年向德國訂購了3艘S-7魚雷快艇,

此3艘魚雷快艇在1937年交付成為岳飛分隊:

岳22(艇長齊鴻章)
1938年8月1日在湖北蔪春被日機炸毀

岳253(艇長崔之道)
1939年4月改名为「武穆」,抗戰末期在四川萬縣三斗坪,抗戰勝利後被改名「快-101」,1949年4月23日改名為「海鯨號」後加入中國解放軍海軍,由於已無可用之魚雷,故一直被當成巡邏艇使用至1963年退役

岳371(艇長黎玉璽)
1944年8月在廣西一带因内河水淺而無法撤退故而自沉,以免被日軍俘獲




簡単な訳は次の通り。

中国のSボート

S-7は写真のS-7からS-13まで番号が付けられたSボートであり、中国海軍はS-7ボートを3隻保有した。
ドイツは、彼ら自身での使用の他に、ブルガリアに5隻、ユーゴスラビアに8隻、中華民國に3隻を輸出した。

この3隻の魚雷快速艇は、1937年に中華民國に引き渡され分隊となった。

岳22(艇長齊鴻章)
1938年8月1日、湖北省琿春市で日本の飛行機に爆破された。

岳253(艇長崔之道)
1939年4月には「武穆」と改名された。反日戦争終結後には「快-101」と改名され、1949年4月23日には「海鯨號」に改名されて中国人民解放軍海軍所属になった。 利用可能な魚雷がないため、1963年の退役まで巡視船として使用された。

岳371(艇長黎玉璽)
1944年8月、広西の地域では、川が浅く、後退することができなかったため、日本軍の捕獲を免れるために自沈。



上記のように3隻とも南京戦で被害を受けた様子がないこと、日本側の記録にこの魚雷艇の話が登場しないところを見ると、南京戦前に脱出したものと思われる。

ともかく、当時の地図で揚子江岸に並ぶこの一連の建物が、これらの魚雷艇の基地あるいはこれに補充する魚雷の倉庫であったと推測できる。







《6. 「草鞋閘」とは》


今の中国では「草鞋峡遇难同胞纪念碑」と表記されている。しかし、紅卍字会の埋葬記録を見ると「草鞋峡」という記録はなく、代わりに「草鞋閘」という地名が登場する。調べてみると意外な意味がありそうなので、ここで考察しておく。





図の上半分は草鞋街から揚子江に沿って幕府山方向を望んだGoogle Earthでの光景。右側に幕府山が壁のようにそそり立ち、左側の揚子江に挟まれ、奥に進むほど三角形に狭まる地形になっている。まさに「峡」にふさわしい。

図の下半分には、南京戦当時の地図を同じ方角を向けて記載した。南京戦後に中州(八卦洲)を挟んで揚子江の本流と支流を入れ替えたようだから、景色が全然違う。

それで、紅卍字会の埋葬記録に登場する「草鞋閘」を探すとどうやらその付近だろうと推測した。鍵は「閘」という文字にある。

辞書を引くと、概ね次の通り。

【閘】
[字音] コウ、オウ
[解字] 形成。門と、音を表す甲(オウは変化した音。とじこめる意)とから成る。
[意味] 水門。ときどき開閉して、用水または舟などを通す。


揚子江支流とは言っても、「草鞋閘」と推測した最も狭い地点でも河幅100〜200mくらいあるから、水門になるはずはない。しかし、「ときどき開閉して、舟などを通す」となれば、意味はわかる。今風にいうとチョークポイント。

なにしろ、戦争中の首都・南京を守る要衝のひとつである。必要があればいつでもこの付近で船舶の遡行を軍事的に阻止する施設が整えられていたはず。

そこで、当時の地図をよく観察するといくつもの特徴が見えてくる。





(1)魚雷営あるいは魚雷軍営と呼ばれる江岸に約8棟の建物が並んでいる。
(2)魚雷営に埠頭がある。これが魚雷営埠頭と思われる。
(3)魚雷営埠頭から揚子江上を点線で示された航路が「草鞋閘」の方向に伸びて、おそらくは対岸の八卦洲につながっている。
(4)八卦洲との間に多数の渡し舟航路と思われる線が描かれている。(ように見える)
(5)不思議な線が多数あったので調べたところ、どうやら「土堤」の表記のようである。一部を茶色で着色した。
(6)魚雷営の方向に伸びる土堤は途中から小道(徒歩道)に変わっている。(下の地図記号参照)

八卦洲は中州といっても7km四方ほどもある巨大な土地である。従って、そこを軍事的空白にしておくことは考えられない。また、戦争とはロジスティクスでもある。となれば、人員と物資の輸送システムが備えられていたはず。

魚雷営埠頭から八卦洲へ伸びる(3)の“航路”は比較的大型の船舶による軍事物資の水上輸送路を示すものではないかという推理が成り立つ。また、人員輸送の方は(4)の最短距離の地点から多数の船でピストン輸送をする設計になっていたと思われる。なぜ(3)と(4)の使い分けがあるかというと、魚雷営から渡し舟の船着場に至る道は幕府山が迫ってきて道幅が狭くなり、重量物の運搬に適さないから。

また、(5)の土堤は、形状からするとただの治水用の土手ではない。最も左の半円形の土堤などは、揚子江支流を遡行してくる敵艦を正面から攻撃できる位置にある。右側のやや半円形になってる土堤と併せると、遡行してきた敵艦に集中砲火を浴びせられる設計になっているようにも見える。そして、真ん中の土堤は山側の道路に接続されていて、道路から兵員を送り込むのに適した設計になっていたのではないか。

従って、「草鞋閘」というのは、付近の砲台や魚雷艇などと連携して機能する堅牢な対艦防御陣地だったのだろうと考える。



(参考)地図記号



南京市政概況/南京特務機関/昭和17年
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1267359/6





(草鞋峡付近の地形の変遷)

草鞋峡付近の年代別の地図を示す。

南京戦があった1937年前後の地図だけが、草鞋峡水路の地形が異なっていることがわかる。






《7. 事件現場の比定》


まず、17日の「Y事件現場(草鞋閘)」について。





上図の中に栗原スケッチの事件現場の図を挿入してあるが、その下半分に2つの山が連なっているのが等高線からわかる。その地形を当時の地図で探すと、「Y事件現場(草鞋閘)」は赤丸の地点になると考えられる。

つまり、「草鞋閘」と推測した最も河幅の狭い地点のやや下流側。渡し船航路と推測した多数の線のすぐ近くでもある。



続いて、16日の「X事件現場(魚雷営)」について。

これは、日付が1日ずれているものの「鱼雷营遇难同胞纪念碑」が魚雷営での事件を示しているので、当時の地図での魚雷営の場所で間違いないと思われる。そこは現在の地図の「C鱼雷营遇难同胞纪念碑」と同じ区画にある。

冒頭に示した地図を再掲するが、結論として次のようになる。



(クリックで拡大)



ちなみに、「Z収容所」から「Y事件現場(草鞋閘)」までの距離を Google Map で計測すると道のりで約3.5km。(赤線)

栗原利一伍長の証言を報じた1984(昭和59)年8月7日付 毎日新聞によれば、「収容所から約4キロ離れた揚子江に連行した」とのことなので、概ね一致している。

なお、当初は「B草鞋峡遇难同胞纪念碑」が「Z収容所」を示しているのかと考えていたが、上述のようにどうやら違うことがわかった。中国側が場所の比定を間違えたのか、それともさらに別の何かを示しているのか、そこは不明である。

これで幕府山事件に関連する全ての地点の比定が完了したことになる。




《8. 参考情報》


南京戦当時に近い年代の写真がある。上述の「土堤」とは、遠目には田んぼのあぜ道のようにも見える。





また、同じ時に撮影された別の角度の写真を見ると、地図上の「土堤」は車両通行が可能なほどの道路になっているようにも見える。







《改版履歴》


2017.08.11 《平林貞治少尉の証言》を追記。
2017.08.14 紅卍字会埋葬記録からの考察を追記。
2017.08.15 《事件発生の瞬間》《前田雄二記者の目撃談》追記。
2017.08.27 魚雷営の場所を誤っていたので修正。
2018.04.04 収容所の位置の特定を誤っていたので修正。
2018.10.12 全面改訂。本記事は地理情報に集約し、事件考察は別記事に分割。
2022.08.28 (草鞋峡付近の地形の変遷)を追記。
2022.09.14 GoogleEarth版の地図を微修正。
2022.09.17 タイトル等修正、4項に唐光譜の火事の話を追加




《関連記事》


《幕府山事件》概要編
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/4997887cce0ec9d9cc7e17f92562d37c

《幕府山事件》地理編
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/9b9a860e2c39a923405efe2946d766ed

《幕府山事件》時系列編
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《幕府山事件》自衛発砲説
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《幕府山事件》魚雷営現場の外形的検証
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《幕府山事件》草鞋峡現場の外形的検証(前編)
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/e5c0c9b19ec42a60c0d038314aa4e32a

《幕府山事件》草鞋峡現場の外形的検証(後編)
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/67c2655b8679239d13220dde13c349a7

《幕府山事件》埋葬記録の絞り込み
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/fb155aa7d56ce5e3e43f490f8fe5eb68

《幕府山事件》試算モデル
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/548a45b8a1f4e8c8c0fee0fab3b670e0

《幕府山事件》本当の意図
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/a8da8d8a68b1117afd6ea3cf649d104f



★南京大虐殺の真相(目次)
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/9e454ced16e4e4aa30c4856d91fd2531




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《南京事件》“太平門虐殺”の真相

2015年07月21日 | 南京大虐殺
最終更新:2017.03.07



太平門で市民らの虐殺があったとされているようだが、調べると極めて怪しい。


《“太平門虐殺”の概要》

・12月14日、太平門で老若男女400人を鉄条網で囲み、地雷で爆破、射撃、ガソリンかけて焼殺。
・第十六師団歩兵第三十三連隊第二大隊の亀田徳一または徳田一太郎が虐殺を証言。
・中国にある「侵华日军南京大屠杀太平门遇难同胞纪念碑」では13日とされている。


日本軍南京大虐殺太平門犠牲同胞記念碑 南京に完成(中国通信社)
http://www.china-news.co.jp/node/6240
日本軍第16師団第33連隊第6中隊は、武器を捨てた中国人兵士と罪のない平民1300人余りを南京の太平門付近に集め、有刺鉄線で周りを囲み、事前に埋設した地雷を爆発させ、機銃掃射を浴びせ、ガソリンをかけて死体を燃やした。日本軍は翌日、死体を確認、生きていた者を刺殺した。太平門の集団虐殺で生き残った中国人は1人もいない。これは日本の友好人士で、日本銘心会友好訪中団団長の松岡環氏が元日本兵を訪ね、太平門の集団虐殺に参加した元日本兵6人から聞きだしたもの。





《要点》

・亀田徳一または徳田一太郎は12月14日とするが、第三十三連隊第二大隊は14日には太平門にいない。
・「地雷」と「鉄条網」を使っているのは中国側。
・12日の夜、太平門の防御物を爆破、人は先を争って飛び出し、下敷きになった者は自爆したと據83軍參謀處處長・劉紹武。
・13日朝9時過ぎ、33連隊が太平門を占領し、第6中隊が残留して太平門を守備。
・13日昼間、「城門外には、そこかしこに敗残兵の死骸の山…死体が何十何百と増えていく」(古山一等兵)
・13日19時頃、堀曹長が500名の投降兵を太平門に連行。
・13日20時過ぎ、投降兵が3発の手榴弾を投げ、太平門を守備する古山一等兵らが負傷。
・門の外に千に足らない遺体(石松政敏)、太平門を出て直ぐ左の沼地に三百人くらい(宮本四郎)
・門の正面で城壁の屈折部の下方には100近い死体、これは爆弾を投げられたよう(石松政敏)
・13日の戦闘詳報にある敵の遺棄死骸5,500から、江上撃滅2,000と処断3,096を引くと残り404。
・紅卍字会の埋葬記録によれば、太平門外城壁下に500体埋葬。
・以上ですべての爆発と遺体数の整合が取れている。亀田徳一または徳田一太郎の話の方が整合性がない。
・結論として、“太平門虐殺”なるものは実態がなく、すべて戦闘行為による戦死者。




《怪しい証言》

怪しい様子を以下に記す。最初の文献。

元兵士・亀田徳一の証言 第十六師団歩兵第三十三連隊第二大隊 12月14日「年寄りも男も女も子供もいっしょくたにして3,4百人ぐらい捕まえてきたんですわ。太平門の外から言うと、門の右の一角に工兵が杭を打って、それから鉄条網を張っていて、そこへこれらの支那人を入れて囲ってしまいました。その下には地雷が埋めてありましたんや。日本兵が踏まないように白い紙に『地雷』と書いてありました。そこへ捕まえてきた人を集めてきて地雷を引いてドンと爆発させましたんや」(『戦場の街南京 松村伍長の手紙と程瑞芳日記』松岡環)


そして、中国網日本語版の記事にはこうある。

三重県北部に住む元中国侵略日本軍第六中隊の徳田一太郎氏は、事件発生日や当時の詳細をよく覚えており、はっきりした口調でそれを話すことができる。彼によれば、「午前8時、第六中隊は最初に太平門に到着、付近には多くの捕虜がおり、300~400名の老若男女が一気に集められた。工兵が、太平門を出た右側の一角に杭を打ち、金網を張り巡らせ、それらの中国人を中に入れ、地下には地雷が埋められていた。我々は捕らえた者たちをそこに集め、導火線を引っ張ると、ボンと地雷が爆発、後には山ほどの死体が残った。人数が多く、歩兵銃では追いつかないため、地雷を使ったのだと聞いた。それから、城壁に上り、上からガソリンを撒いて焼いた。多くの死体が積み重なった山は燃えるのにとても時間がかかった。上にいた者は殆どが死んだが、下の方にはまだ生きている者が多くいた」

日本作家、証言を求めて南京大虐殺生存者を探訪
http://japanese1.china.org.cn/jp/txt/2011-03/09/content_22094144.htm


上の記事はさらにこう続ける。

太平門大虐殺 未だ見つからない生存者

松岡氏の調査には一つの原則がある。それは細かな事実を大切にし、全ての虐殺地点において、できるだけ加害者と被害者自身の両方から証言を得ることを通して実証することである。
そして今、南京大虐殺において松岡氏が唯一生存者を発見できていない場所がこの太平門一帯なのである。記者は南京大虐殺記念館(以下「記念館」)で、目下300名あまりの生存者の中に、太平門集団虐殺の生存者は一人もいないことを知った。記念館では、中国侵略日本軍が南京太平門で行った集団虐殺について、日本兵士の証言や写真は収集できているが、生存者の証言が唯一欠けている。



この件は極めて怪しい。

(1)証言した兵士の氏名

亀田徳一 第十六師団歩兵第三十三連隊第二大隊
↓(変化)
徳田一太郎 日本軍第六中隊


明らかに、部隊名と氏名を誤摩化している。

(2)部隊行動
第十六師団歩兵第三十三連隊第二大隊なら、13日夜に城外北西の下関で露営し、翌14日は朝に挹江門外側の土嚢撤去作業を行って開門してから入城し、城内北西側のエリアで掃蕩を実施している。太平門は第二大隊の担当地区ではないし、通り道でもない。

(3)そもそも「地雷」なら中国人も読める*だろうし、踏めば爆発するのだから「地雷を引いて」とか「導火線を引っ張る」という説明になるはずがない。最初の誰かをそこに入れた時点で金網に押し込んだ日本兵もろとも吹っ飛ぶ。証言者に軍隊の経験があるのか疑問に感じるレベル。
*:地雷=Landmineを中国語に翻訳しても「地雷」とそのまま出る。

(4)記事の中で「太平門集団虐殺の生存者は一人もいない」と自白している。

よって、上記証言は極めてウソ臭い。




《太平门遇难同胞纪念碑》

しかし、中国が設置している「侵华日军南京大屠杀太平门遇难同胞纪念碑」の碑文によると事件は12月13日である。

碑文概要:12月13日、「第十六师团三十三联队六中队等」の日本軍が、太平門付近において、武器を捨てた兵士と市民の1,300余人を、有刺鉄線で囲み、地雷を炸裂させ、機関銃で撃ち、ガソリンで燃やし、殺害。

1937年12月13日,第十六师团三十三联队六中队等侵华日军部队在南京太平门附近,将约1300名放下武器的中国官兵及无辜的市民集中起来,周围用铁丝网围住,用事先埋好的地雷炸、机枪扫射,再浇上汽油焚烧,次日,日军复对尸体检查,对濒死者用刺刀补戳致死,太平门集体屠杀中无一中国人幸存。


従って、12月14日には第33連隊は太平門にはいない、というアリバイだけでは説明できなくなった。よって、以下に検証を続ける。




《太平門の地形》

検証を進める前に、当時の詳細地図を使って太平門付近の地形を確認しておく。



太平門を出ると道はすぐ一旦左に曲がるが、そこからは3方向に道がある。
・東に向かう道
・北に向かう道(=もっと行くと玄武湖に沿って西進する)
・城壁に沿って西に向かう

太平門を出てすぐのところ小さな沼がある。太平門からの視点で言えば左側、北進の道を行けば右側。(沼は今もある)

は後述するが、城壁の屈折部。

紫金山の天文台から玄武湖の先端、あるいは太平門付近までは約1km。

12月12日夜に第33連隊が紫金山を占領し、翌13日朝にかけて太平門の方向に進軍してきている。




《地雷と鉄条網》

亀田徳一または徳田一太郎の証言に地雷と鉄条網が出てくるので、南京戦ではどうであったのか確認しておく。


まず、地雷について。

中国軍は城内各所に鉄条網を張り、地雷を埋め、機関銃を据えて徹底抗戦の構えを見せたため、日本軍は激しい市街戦は避けられないと予測していたが、中国軍の抵抗は弱く、城内では市街戦はなかった。このため、13日午後10時、上海派遣軍司令部は「南京完全占領」の声明を出した。

「手榴弾や小銃弾は至るところに投げ捨てられている。加うるに、要所には地雷が埋設されているので危険この上もない」(12月14日/『佐々木到一少将の私記抄』)

「十二中隊の将校斥候は西山下の三叉路に於いて敵の地雷にひっかかり三名即死、六名負傷したと言う話も有った。道々には地雷の堀おこした穴が幾つものぞいて居る。又敵が敵の地雷にひっかかって無惨にも手足はとびて真黒になり四名死んで居た」(歩兵第20連隊・牧原信夫上等兵・十二月十三日)


さらに、第9連隊が紫金山付近での戦闘での、下麒麟門(紫金山より東)で地雷による死傷者を出している。



よって、中国側が地雷を使っていたのは間違いない。南京城を防衛する側だから当然とも言える。


次は、紫金山を占領し、続いて太平門を占領した第33連隊戦闘詳報の武器弾薬損耗表。



見てわかる通り、「地雷」はない。
あるのは、銃弾(小銃、機関銃、拳銃)、擲弾筒(=迫撃砲)、手榴弾、榴弾・徹甲弾など(=大砲)のみ。

上海から急追して南京まで突入してきた日本軍なので、地雷は使う場面がない。
そんなものを仕掛けても後続の友軍に被害が出てしまう。



次は、鉄条網について。

「散兵・潰兵の退却阻止の命令を受けていた宋希濂麾下の第三六師二一二団は、撤退命令を出された後も、挹江門付近の道路に鉄条網のバリケードを築き、路上には機関銃をそなえて、挹江門からの撤退を拒み続けた。このため、夜になるとパニック状態になり、挹江門から脱出しようとする部隊と、これを潰兵とみなして武力で阻止しようとした第三六師二一二団部隊との間で銃撃戦が繰り広げられ、挹江門内は大惨事となった」 (中国軍第八七師二六一旅長・譚道平 著『南京衛戍戦』による12月12日夕刻以後の情景) 

「漸く門を潜り抜けて南京側に出づれば、敵の屍々累々たるが黒焦となり、鉄兜も銃剣も黒く燻りて、鉄条網に用ひたりし針金と絡まり、門柱の焼け落ちたる木片と相重なり、堆く積める土嚢も黒く焼けて、その混乱と酸鼻の景は譬へん方なし」(第三艦隊司令部・海軍軍医大佐・泰山弘道)16日の挹江門。


よって、挹江門に鉄条網があったのは間違いない。


そして、戦闘詳報から。



備考にあるように、ギザギザの折れ線が鉄条網を示す記号とのこと。
なお、砲の弾着地点は「レ」またはチェックマークのような記号とのこと。後ろの方で出てくる。


さらに別の戦闘詳報。



これによると、水濠に囲まれた光華門への通路は鉄条網で塞がれていた様子がわかる。
挹江門の場合は、門の外から土嚢を積み上げて、城内からは開かないようにしていた(=守備兵の脱出を防ぐため)とのことなので、光華門も同様に土嚢+鉄条網での封鎖だったかもしれない。

従って、現存する戦闘詳報の戦闘要図にちらほらと鉄条網が登場することと、少なくとも挹江門と光華門には鉄条網があったことから、太平門にも中国側が仕掛けた鉄条網があったと考える方が自然だろうと思う。




《太平門での混乱》

次は太平門に関する証言。

「(12日)午後9時、太平門の防御物を爆破、通路が開かれると、人は先を争って飛び出し、弱者は踏みつけられて命を落とし、強者はその上を通って命を永らえた。下敷きになった者は手榴弾を投げて周囲の者と共に自爆した。先頭部隊は日本軍と戦闘になった」(據83軍參謀處處長・劉紹武)


この劉紹武の話は、上述の鉄条網のところで出てきた『南京衛戍戦』にある挹江門の混乱と時間帯的に同じ。12日の夕刻以降。
南京城南面の中華門の一角が12日の16時頃に日本軍に占領されたので、これをきっかけに防衛体制の崩壊と脱出が始まったものと思われる。

「私の踏査経路では虐殺の跡らしいものなどは見受けず、ただ城内に通ずる道路付近で地雷の爆発により、人および馬の死体が散乱しているのを見た」(19日頃、戦闘詳報の資料作成のため中山陵・紫金山中腹玄武湖の南側を経て城内に帰還した第一大隊本部先任書記・佐藤増次)玄武湖の南側を経て城内に帰還なら、そこが太平門。

「またある時、アメリカの武官が視察に来るから、死体を片付けておけという通知があったが、各部隊はそんなことには動じない。私は太平門を出て直ぐ左に沼地があり、道路から四・五米低いところに、中国兵の死体が道路の高さまで積み重ねてあるのを見た。三百人くらいはあったと思う。土をかぶせたかと見に行ったが、全然そのままである。日本兵にして見れば、敵を殺して何が悪い。戦争じゃないか、という考え方であったろう。」(第十六師団副官・宮本四郎)中国兵の死体はあったが、アメリカ軍の武官に見られても困ることなどない、という証言。

「『二千の虐殺死体』とか言われておりますが、門の外側で見ましたのは千にも足らなかったと思います。一部の死体は人に踏みつけられて、気の毒な状態でしたが、この人たちは紫金山の戦闘に破れて城内に逃げ込もうとしたか、あるいは城内から脱出しようとしたかは判らないが、太平門まで来てやられたのではありますまいか。ここには門外に深い大きな濠があり、この濠の中に死体が入れられて、土で覆われていました。門の正面で城壁の屈折部の下方には、一〇〇近い死体が土もかけずにありましたが、これは爆弾を投げられたようでした。この状況から見まして、戦闘行為による死者であると思います」(第二野戦高射砲司令部副官・石松政敏/証言による『南京戦史』9)


つまり、挹江門で発生したのと同様の混乱による犠牲者が太平門でも発生している。


もう少し細かく見ると複数の要素がある。まずは爆発について。

(A)太平門の防御物を爆破(劉紹武)
(B)下敷きになった者は手榴弾を投げて周囲の者と共に自爆(劉紹武)
(C)城内に通ずる道路付近で地雷の爆発(佐藤増次)
(D)門の正面で城壁の屈折部の下方…これは爆弾を投げられたよう(石松政敏)

Aは、城内から太平門の門扉を爆破したのだと思われる。脱走防止のために外に土嚢が積み上げてあればそういう手段になるだろう。
ただ、意図的にやってることだから、それほどの犠牲者が出たとは思えない。

続いて、Bの手榴弾での自爆。これは場所を特定できないが、上述の破壊口が狭いとすれば、圧迫されて下敷きになるのは城内側だろう。

そして、CとDは同じものを指してるように思える。地図にで示した場所である。
ここなら唯一、「城内に通ずる道路付近」(佐藤増次)と「門の正面で城壁の屈折部」(石松政敏)に合致しそう。

つまり、爆発は3種類。
(1)太平門の防御物を爆破(劉紹武)
(2)下敷きになった者は手榴弾を投げて周囲の者と共に自爆(劉紹武)
(3)城内に通ずる道路付近、門の正面で城壁の屈折部の下方で地雷または爆弾



次は死体の場所。

(H)城内に通ずる道路付近…人および馬の死体が散乱(佐藤増次)
(J)太平門を出て直ぐ左に沼地…三百人くらい(宮本四郎)
(K)門の外側で見ましたのは千にも足らなかった(石松政敏)
(L)城壁の屈折部の下方には、一〇〇近い死体(石松政敏)

上述のように、HとLは同じものを指しているように思える。地図にで示した場所。そこに約100近く。

そして、JとKも同じものではないか。場所は太平門を出て左に見える小さな沼。300以上くらい。目撃日時によってはまだ沼に入れられてなかったかもしれない。

そうすると、城内側の「手榴弾を投げて周囲の者と共に自爆」での死体の目撃証言がない。
ただ、これは戦闘終了後にただちに工兵などが戦場掃除で遺体をある程度片付けているので、太平門から最寄りの小さい沼に投げ入れてしまったかもしれない。従って、小沼の300以上の遺体に含まれている。

同様に、「下敷きになった者」(劉紹武)についても、「一部の死体は人に踏みつけられて、気の毒な状態」(石松政敏)と、門の外で目撃されている。下敷が門内なら、既に門外に搬出された後の目撃だったかもしれない。

ちなみに、紅卍字会の埋葬記録を調べると、「太平門外城壁下」に500とある。
小沼に300以上で、城壁の屈折部に100近く、を合計するとかなり近い数字。

よって、死体の数を整理すると次の通り。
(1)城壁の屈折部に100
(2)太平門を出て左に見える小さな沼に300以上




《第33連隊の行動》

問題になっている第33連隊の12日夕方から13日にかけての部隊行動は次の通り。



「紫金山は歩兵第三十三連隊が、12月12日午後3時頃占領した。この紫金山の攻撃には直協砲兵大隊はもちろん、軍直砲兵も集中砲火を浴びせ、敵の紫金山維持を不可能とした。我が歩兵は敵前百メートルまで近接して、実によく戦った」(第十六師団司令部副官・宮本四郎)

「わが重火器部隊の掩護射撃と他部隊の支援を得て一斉に突入し、主峯の争奪戦が行われた。かくて十二日十八時、三日三晩の死闘の末、首都南京の要害・紫金山はついに日本軍の手に落ちた」(第三十三連隊島田部隊の羽田武夫氏)

「十二日夕紫金山第一峰を攻略せし連隊は追撃前進に転移し十三日午前七時半頃第二第三大隊は相呼応して天文台高地を占領し同九時十分第二大隊の一部(第六中隊機関銃1小隊工兵1小隊)太平門を占領して日章旗を城門高く掲揚せり」(第33連隊戦闘詳報)

「連隊は午前九時三十分十六師作命甲第一七一号を受領し一部を以って太平門を守備せしめ主力は下関方面に前進して敵の退路を遮断すべき命を受け午前十時半出発第二大隊(二中隊欠)を前衛とし太平門−和平門−下関道を下関に向かい前進す而して進路の両側部落には敵敗残兵無数あり之を掃討しつつ前進を継続せり」(第33連隊戦闘詳報)

「(12月13日午前中)『第三十三連隊は速やかに下関に進出し、敵の退路を遮断すべし』との師団命令を受領した。この命令に基づき、連隊は午後2時30分、その先頭を持って下関に到達し、連隊本部は獅子山砲台北側の城外濠の路上に達した。この時、中国兵の揚子江上を浮遊物に取りすがって逃走中の姿が望見されたので、連隊命令をもって重火器の火力を集中して、一時間余。私も江岸に行ってこの状況を見た。この頃、海軍の揚子江艦隊が遡航してきて、艦砲をもって射撃を始めたので、連隊は海軍艦艇に危害を与えることを考え、射撃を中止した。この江上を逃走した敵中に一般住民の混入など、とても考えられない。その数は千〜二千ぐらいであったろうか」(第三十三連隊本部通信班長・平井秋雄氏/証言による『南京戦史』9)

「午後二時三十分前衛の先頭下関に達し前面の敵情を搜索せし結果揚子江には無数の敗残兵舟筏其他有ゆる浮物を利用し江を覆って流下しつつあるを発見す即ち連隊は前衛および速射砲を江岸に展開し江上の敵を猛射する事二時間殲滅せし敵二千を下らざるものと判断す」(第33連隊戦闘詳報)




整理すると次のようになる。

12月12日 18:00 紫金山占領
12月13日 07:30 天文台占領
12月13日 09:10 太平門占領(第6中隊)
12月13日 10:30 33連隊主力、太平門出発(2中隊は太平門守備)
12月13日 14:30 33連隊、下関到着。江上の敵を攻撃。



なお、上記の第33連隊戦闘詳報にある戦闘要図の大平門付近を拡大すると次のようになっている。



一部判読できない文字があるが、13日の態勢として天文台から太平門をMG(=機関銃)で射撃したとある。
直線の点線が弾道、着弾点が「レ」またはチェックマークのような記号で示されている。

天文台占領は記録上は7:30だが、太平門への遠距離射撃はもっと早い時間帯から始まっていたのではないか。というのも、劉紹武が12日21時に太平門の防御物を爆破し、先頭部隊は日本軍と戦闘になったと書いているから。
爆破による太平門の開口部が狭く、城内からの脱出が長時間にわたって続いた可能性もある。
参考情報としては、日出時刻が午前七時三十分頃。

(さらに参考情報)
月出没時刻を計算するサイトに、南京の緯度経度、1937年12月の年月を入れると次の結果になった。
 月の出:12日 12:37(正午過ぎ)
 月の入:13日 01:37(深夜)
 月齢:半月
つまり、劉紹武がいう「太平門の防御物を爆破」が12日21時なら月明かりがある。
13日未明には月明かりがない。
なお、同じサイトで日出没を計算すると次の結果になった。
 日の出:12日 06:57
 日の入:12日 17:06


ちなみに、天文台と太平門の距離は約1km。機関銃で射撃するにはギリギリくらいの遠距離。
ただ、天文台は標高約220m、太平門は20mくらいなので、標高差が200mくらいある。よって、戦闘詳報にある通りに遠距離射撃できたのだろうと理解する。

さらに、射撃地点の天文台の部分をよく見ると、「II」を分母として、「6+1/4MG」と記載されている。
つまり、第二大隊の第六中隊と1/4の機関銃中隊が天文台から射撃した、ということを意味していると思われる。
そして、武器弾薬損耗表には10日〜14日の分として、第二大隊は機関銃弾810発消費とある。(表を再掲)



10日〜12日が激戦で、13日朝のこの天文台射撃以降は機関銃はほとんど撃っていないはず。となれば、天文台からの射撃はせいぜい数十発程度ではないのか。
仮に天文台射撃で100発撃ったとして、1,000m先の太平門で中国兵が何人戦死しただろうか。10%当たったとしても10人、1%なら1人。たぶん、ほとんど当たってないと思う。

なお、第六中隊も天文台射撃に参加しているから小銃でも撃っていると思われるが、表での消費弾丸数が多すぎて弾数の推測はできない。ただ、1,000mの距離だから命中精度は期待できなさそう。(三八式歩兵銃の最大射程は2400m、有効射程460mとのこと。)

ある解説によるならば、銃弾が1,000m飛ぶ間に鉛直方向に5m落下し、緯度と撃つ方角によってはコリオリの力により0.8mくらい横にずれ、弾着まで1.33秒かかるとのこと。ただし、これは三八式歩兵銃を想定したものではない。弾丸初速の比率でいえば、三八式歩兵銃なら1.5秒くらいかかるのかも。人は歩行速度でも、1.5秒あれば1.7m進む。


そして、太平門からの脱出兵は城壁沿いではなく、北上する道をたどったとある。玄武湖の北側を回って揚子江方向に向かう道。




《堀曹長と古山義則一等兵》

続いて、第16師団通信隊・堀曹長と、第三十三連隊第六中隊・古山義則一等兵が重要な証言を残しているので確認する。


まず、第16師団通信隊・堀曹長の手記から。

「紫金山から太平門めざし降りだすと、各所に敗残兵と遭遇し、一緒に行動する予定だった野田部隊(歩33)の14、5名は危険を感じて引き返してしまう。残る通信隊の1コ分隊7名は、いやがる苦力(6名)を督励してさらに進んで、紫金山頂北西2キロの地点で白旗を掲げた一団の敗残兵と遭遇する。さらに後方から一団また一団と続々と続く状況から、師団本部にこの状況を通信するとともに、全員を武装解除し、その場に座らせて命令をまつことにした。捕虜の数は500を越えている。

『直ちに救援隊を送るから、その位置におれ』とのことで、夕方まで待ったが救援隊は到着しない。捕虜は動揺し始め、必死に静めることに努力したが、日本兵にも恐怖感が漂いだした。

やむなく伝令を太平門に走らせ、増援を依頼したが、門の守備兵力(第6中隊)は僅少(200名以下か)で、守備の中隊長からは『君等が此所迄引張ってくれば引受ける』とのこと。鹵獲した武器弾薬は後に残し、兵3名が手真似足真似で捕虜を引き連れ、残りが警戒と通信機材を担ぐ苦力を監督しつつ歩き、やっと守備隊長に引き渡したという」

(第16師団通信隊の堀曹長の手記『想出集』(込山繁上等兵編、戦前の手記集と思われる)から抜粋/「本当はこうだった南京事件」板倉由明)


続けて著者の板倉由明はこう書いている。

「堀曹長は、この約1時間後、この敗敵は数発の手榴弾を投げ、警備兵に損害を与え、約200名は遁走した、と記す」


この記述には日付がないが、紫金山から太平門に日本兵が降りられるのは13日としか考えられないのでそう解釈することにする。

なお、「紫金山頂北西2キロの地点」となると、太平門からは約3kmの地点になる。



続いて、古山義則一等兵の証言。

東中野修道氏『再現 南京戦』第4章から、古山義則一等兵の証言を拾っていく。原著は『 魁 ― 郷土人物戦記』〈第一巻〉。

「三百人ぐらいの敗残兵が投降して来た。この軍隊が反抗したので騒ぎが大きくなり、封殺、同士討ちが行われ、大変な被害が出たと思われます。このことが南京虐殺と宣伝されているのではなかったのでしょうか。…戦争ですから反抗してきた部隊には攻撃しました。それでないと私たちが虐殺されますから」


上記は述懐だが、同じく古山一等兵の次の証言は現場の様子を説明している。

「西方面の城壁付近で、パンパン、ドドドドと銃声が聞こえてくる。われわれも太平門城壁によじ登ったとき、城壁づたいに中国兵が七、八人必死に抵抗しながら玄武湖方面に逃げ去ろうとしている姿を発見した。いち早く銃を構え、応戦の姿勢をとった時、中隊長の『撃つな!この場は見逃してやれ』という大声で銃をおろしたことがあったが、各城壁とも敵の敗残兵がウヨウヨしていた」

「城門外には、そこかしこに敗残兵の死骸の山。バリバリと銃声、機銃の音がすれば、死体が何十何百と増えていく。凄惨!これが戦場である」

「こうして夜に入り八時過ぎ、敗残兵の死骸整理中、突然三発の手榴弾に見舞われて、六名の死傷者が出た。その一人が私で、明けて十四日早朝、城内飛行場に開設された野戦病院に入院した」


銃声を聞いてさっと太平門の城壁に登れるというのは、13日09:10の太平門占領以降で、おそらくは第33連隊が出発した10:30以降の描写と思われる。



さらに、これはネットからの拾いものだが、こういう記述もある。原著は上と同じようだ。

第六中隊の古山義規一等兵は次のように証言する。
(中略)
わが六中隊の全員が城門を開き、城頭にだれが作って来たのか大日章旗を掲げ、故郷の日本へも聞こえよ、と叫んだ感激は忘れることの出来ないことです。ところがその時、八列縦隊を整え、隊長が馬に乗り、延々と続く堂々たる隊列で、敵が退却して来たのです。すわッと攻撃態勢、機銃を据えて構えました。日の丸も一旦下ろしまして、敵を迎撃しようとしたのですが、白旗を掲げて降伏して来ましたから事なきを得ましたが、わずか三、四十人の友軍で一撃されればひとたまりもなかったことで、実のところ身震いしました。
この退却部隊を大平門から入れませんでした。入城させれば城内はまだ日本軍が占領しておりませんし、光華門の占領はこの十三日の夕方ですから大変なことになります。これを下関方面に誘導したのでしたが、戦争というものはこんなこともあります。わが大隊長、連隊長の判断は誤りがなかったのです。
この降伏軍の後、三百人ぐらいの敗残兵が投降して来た。この軍隊が反抗したので騒ぎが大きくなり、封殺、同士討ちが行われ大変な被害が出たと思われます。このことが南京虐殺と宣伝されているのではなかったのでしょうか。(「魁 郷土人物戦記」P529)


人数は定かではないが、太平門の第六中隊に直接投降してきた「降伏軍」がいたとのこと。「わずか三、四十人の友軍で一撃されればひとたまりもなかった」とのことなので、数百人以上の規模だろう。

ただ、「これを下関方面に誘導した」とあるから、太平門の第六中隊としては降伏を受け付けず、第33連隊の主力その他がいる下関で改めて降伏せよ、として追い払ったということではないか。

そうであれば、この「降伏軍」は太平門の遺体にカウントする必要はなくなる。



時系列的に整理すると、次のようになるだろう。

12月13日昼間    八列縦隊で隊長が馬に乗った退却部隊が降伏、これを下関方面に誘導。
12月13日夕方以降  堀曹長の部隊が500名の投降兵を太平門に連行開始。(移動距離約3km)
12月13日19:00頃   堀曹長、500名の投降兵を守備隊長(=第六中隊長)に引き渡す。
12月13日20:00過ぎ  投降兵が3発の手榴弾を投げ、敗残兵の死骸整理中の古山一等兵が負傷、投降兵200名遁走。

「敗残兵の死骸」とは、同じく古山一等兵がいう「城門外には、そこかしこに敗残兵の死骸の山」のことであろう。「死体が何十何百と増えていく」とも言っている。

それで、古山一等兵がいう「三百人ぐらいの敗残兵が投降して来た」と、堀曹長が連行した500名の投降兵は同じものだろうか。同じように思える。
そして、「三百人ぐらいの敗残兵が投降して来た。この軍隊が反抗したので騒ぎが大きくなり…」の「反抗」とは、古山一等兵自身が負傷した「三発の手榴弾」を言い換えたものではないか。

一部には「この軍隊が反抗したので騒ぎが大きくなり、封殺、同士討ちが行われ、大変な被害が出たと思われます」の言い回しから、古山一等兵自身の体験ではないとの批判があるようだが、手榴弾の爆発を浴びて負傷した直後のことは正確に把握できてなくても仕方ないだろう。




《考察》

以上で、検証の材料は揃ったように思う。


まず、冒頭の方で、爆発は3種類と書いた。

(1)太平門の防御物を爆破(劉紹武)
(2)下敷きになった者は手榴弾を投げて周囲の者と共に自爆(劉紹武)
(3)城内に通ずる道路付近、門の正面で城壁の屈折部の下方で地雷または爆弾

これに、古山一等兵が負傷した原因となる敗残兵が投げつけた三発の手榴弾が加わる。

古山一等兵はこういう言い方もしている。封殺、同士討ち。

「この軍隊が反抗したので騒ぎが大きくなり、封殺、同士討ちが行われ、大変な被害が出たと思われます」


これらを全て並べて素直に解釈すると、次のようになるのではないか。

(a)堀曹長が連行した500名の投降兵が、
(b)太平門脇の城壁の屈折部付近に留め置かれて(19:00以降)、
(c)古山一等兵が付近の敗残兵の死骸整理中に、
(d)500名の投降兵から三発の手榴弾が投げられ、
(e)日本兵に六名の死傷者が出て、古山一等兵も負傷し、
(f)投げた手榴弾によって投降兵にも死傷者が発生し(同士討ち)、
(g)守備の日本兵が当然反撃をし(封殺)、
(h)城壁の屈折部の下方には、100近い死体が残り、
(j)逃げ出した投降兵400のうち200が周辺で射殺され、
(k)残りの投降兵200名が遁走した。

(b)の「留め置かれて」の理由は、昼間に八列縦隊で隊長が馬に乗った退却部隊が降伏してきたときに、「この退却部隊を大平門から入れませんでした」とあるから。ただ、堀曹長が連行してきたからには放逐するわけにもいかず、かといって城内の占領が完了していないので城内に入れるわけにもいかず、結局その付近に留め置いたであろうという推測。
それに、地図で見ると留め置くにはの城壁の屈折部付近が手頃に見える。

(f)の同士討ちも500名の投降兵の中から手榴弾を投げたならあり得る。1兵士1平方メートル占有して座らせるなら、例えば10m×50mの面積を必要とする。実際にはもう少し狭いだろうが、それに準じた面積が要る。500名を捕虜にした堀曹長も、まずその場で座らせて待たせている。手榴弾の投擲距離は40~60メートル程度だそうだが、着座姿勢など不利な条件ならもっと短いかもしれない。よって、投擲した兵士の位置関係によっては、爆発地点にかなり近い者がいた可能性がある。ましてや、とっさに隠れる凹地もなかったであろうし。

また、(g)の反撃には日本兵からの手榴弾投擲も含まれるかもしれない。

(j)の射殺とは、500の投降兵が手榴弾を投げて反乱した時に、その場で(自らの手榴弾の被害で、あるいは日本兵からの銃撃や手榴弾で)戦死した投降兵が100いたとして、残りの400全員が逃げられるとは思えないということ。
時刻は20時、日没は17:30。戦闘詳報によれば星明かりはあり。
ただ、夜であっても玄武湖があるから、逃げられる方向は限定されている。例えば、城壁の上から機銃を撃たれれば相当な犠牲が出るだろう。半分が射殺されたとしたら、200。残り200が遁走という計算。

そうすると、古山一等兵が昼間に見た「バリバリと銃声、機銃の音がすれば、死体が何十何百と増えていく」は100〜200くらいになる。

よって、遺体数についてまとめると次の通り。合計400〜500程度。

(1)城壁の屈折部に100
(2)太平門を出て左に見える小さな沼に300以上
  (2a) 13日の昼間までに太平門周辺で生じた遺体が100〜200
  (2b) 20時の手榴弾による反乱での射殺が200



これで、複数の爆発と、残された遺体について説明できている。

よって、亀田徳一または徳田一太郎がいう「年寄りも男も女も子供もいっしょくたにして3,4百人ぐらい捕まえてきたんですわ云々」の出る幕はない。古山一等兵の証言を見ても、そんな余裕がある日ではなかったと思われる。

逆に、紅卍字会の埋葬記録では「太平門外城壁下」に500とあるから、亀田徳一または徳田一太郎の「年寄りも男も女も子供もいっしょくたにして3,4百人」虐殺がウソであると解釈する方が、遺体数的にも整合が取れている。

紅卍字会は埋葬遺体数に応じて労賃を得ているから、埋葬記録を水増しする動機はあっても、減らす動機はない。
さらに「太平門を出て直ぐ左に沼地」については私は小さい沼と書いたが、玄武湖に比べれば小さいという意味であって、スケール的には100m×50mくらいの大きさがあったように見える。つまり、「500以上の遺体は入らなかったので、よそに運んだ」という可能性は考えにくいということである。



あと些細な点としては、「馬」が気になる。

第33連隊の戦闘詳報を見ると、戦闘参加人馬として139頭の馬がいる。うち、10日〜14日の戦闘で1頭が戦死している。
ひょっとするとこれが「城内に通ずる道路付近…人および馬の死体が散乱」(佐藤増次)なのかもしれないし、13日昼間の「八列縦隊で隊長が馬に乗った退却部隊が降伏」の時の馬を取り上げて確保しておいたら、結果的に「投降兵から三発の手榴弾」で死んだのかもしれない。

どちらにしても「馬の死体が散乱」についても不自然な点はなさそう。



あとこれは余談だが、当初の私の漠然とした見通しでは、「城壁の屈折部に100の死体」は中国側が仕掛けた地雷による自爆(劉紹武がいう12日21時の脱出時の混乱で)ではないかと思っていたが、結果的には地雷の出番はなくてもすべての説明ができたということになる。



それから、一説によれば「太平门遇难同胞纪念碑」にある1,300の犠牲者とは、「中島今朝吾中将の日記」にある「太平門に於ける守備の1中隊長が処理せしもの約1300」に由来してるらしい。

ただ、繰り返しになるが、紅卍字会の埋葬記録では「太平門外城壁下」に500であり、彼らには埋葬記録を水増しする動機はあっても、減らす動機はない。
そして、『戦闘詳報』に現れる数字の水増しは、将兵の間では常識であったらしく、概ね「3倍くらいかな」(功績担当の下士官)という話と照らし合わせると、約400の3倍くらいで1,300になるので、それで話の整合性は取れている。



つまり、遺体数としては再整理すると次の通り。

(1)城壁の屈折部に100。
(2)太平門を出て左に見える小さな沼に300以上。
  (2a) 13日の昼間までに太平門周辺で生じた遺体が100〜200
  (2b) 20時の手榴弾による反乱での射殺が200
(3)以上合計400を3倍して、中島日記の1,300。
(4)合計400をちょっと水増しして、紅卍字会の埋葬記録500。

これで、すべて整合している。

以上、結論として、“太平門虐殺”なるものは実態がなく、すべて戦闘行為による戦死者が400〜500名程度発生したと判断する。




(追記)2017.03.07

第33連隊戦闘詳報でも同じ答えが出ていることに気づいた。



(1)12月13日、太平門に第六中隊を守備に残し、連隊主力は揚子江上で攻撃を行ったが「殲滅せし敵二千を下らざるもの」とある。
(2)鹵獲表に俘虜3,096とあり、その備考に「俘虜は処断す」とある。
(3)敵の遺棄死骸として12月13日分は 5,500とあるが、備考に「処決せし敗残兵を含む」とある。

従って、(3)の5,500から、(1)の2,000と(2)の3,096を引くと、残りは 404。

やはり、太平門周辺での「敵の遺棄死骸」は上限で約400というのが第33連隊の認識と言える。

実際には、連隊主力が太平門から下関に向かう途中で、進路両側の部落にいる敗残兵と戦闘しながら前進しているので、その分がさらに減る。




《第33連隊戦闘詳報》

件名標題(日本語)
南京附近戦闘詳報 歩兵第33連隊
レファレンスコード
C11111198100


南京付近戦闘詳報 歩兵第三十三連隊

其の六 十二月十三日の行動

一、戦闘経過の概要
十二日夕紫金山第一峰を攻略せし連隊は追撃前進に転移し十三日午前七時半頃第二第三大隊は相呼応して天文台高地を占領し同九時十分第二大隊の一部(第六中隊機関銃1小隊工兵1小隊)太平門を占領して日章旗を城門高く掲揚せり。

連隊は午前九時三十分十六師作命甲第一七一号を受領し一部を以って太平門を守備せしめ主力は下関方面に前進して敵の退路を遮断すべき命を受け午前十時半出発第二大隊(二中隊欠)を前衛とし太平門−和平門−下関道を下関に向かい前進す而して進路の両側部落には敵敗残兵無数あり之を掃討しつつ前進を継続せり。

午後二時三十分前衛の先頭下関に達し前面の敵情を搜索せし結果揚子江には無数の敗残兵舟筏其他有ゆる浮物を利用し江を覆って流下しつつあるを発見す即ち連隊は前衛および速射砲を江岸に展開し江上の敵を猛射する事二時間殲滅せし敵二千を下らざるものと判断す。

爾後連隊は右側支援隊と連絡し其指揮下に入れり。




戦闘詳報 第二号 附表
自昭和十二年十二月十日 至昭和十二年十二月十四日
歩兵第三十三連隊 武器弾薬損耗表

(太平門を占領した第二大隊分だけ抜粋)

弾薬
小銃    17,195-
機関銃    810-
重擲弾筒   105- *
手榴弾    12
拳銃       -
徹甲弾      -
速射砲榴弾    -
□□砲榴弾    -

※つまり、装備として地雷を所持していない
* 八九式重擲弾筒だろうか。迫撃砲。





戦闘詳報 第三号 附表 
自昭和十二年十二月十日 至昭和十二年十二月十四日
歩兵第三十三連隊 鹵獲表

俘虜
将校 14
准士官、下士官、兵 3,082*

備考
1、俘虜は処断す
2、兵器は集積せしき運搬し得ず
3、敵の遺棄死骸

12月10日  220
12月11日  370
12月12日  740
12月13日 5,500
以上4日計 6,830

備考12月13日の分は処決せし敗残兵を含む

※ということは、13日の敵の遺棄死体数は2,404。
* 「証言による『南京戦史』9」の島田勝己、平井秋雄両氏によれば、あったとしても全部で数百であり、三千という数字は誇大、とのこと。




(以上)






改版履歴:
2017.03.07 《考察》に追記。
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《南京事件》城内“虐殺”のケーススタディ

2015年07月21日 | 南京大虐殺
最終更新:2017.08.23



この記事は、《唐順山氏の逃避行と第38連隊の城内掃討》というタイトルだったが、陥落後の城内掃討における“虐殺”のケーススタディとして非常に雄弁であるので、タイトルを変更し、一部加筆修正した。

視点の違いでこれが“虐殺”の一場面に見えてしまうことがわかるはず。逆から見れば戦争の一環としての掃討戦。


(市民)
「中国人の民衆四百人と一緒に銃剣殺されるところだったが、幸運にも傷をおっただけで済んだ」


(旅団命令)
「敵は全面的に敗北せるも尚抵抗の意思を有するもの散在す」
「旅団は本十四日南京北部城内及び城外を徹底的に掃蕩す」
「各隊は師団の指示があるまで俘虜を受付くるを許さず」

(連隊戦闘詳報)
「南京城内には避難民相当多数ありたるも之等は一地区に集合避難しありて掃蕩地区内には住民殆ど無し」





《要点》

・靴店勤務の唐順山さんは、14日に南京城内の北側で日本軍に捕まり、危うく殺されそうになった。
・当該地区は、14日に第38連隊が掃討を行った。
・旅団命令は「尚抵抗の意思を有するもの散在」「南京北部城内及び城外を徹底的に掃蕩」
・さらには「各隊は師団の指示があるまで俘虜を受付くるを許さず」
・第38連隊の戦闘詳報死傷表によると、この掃討戦での死者はゼロ、負傷2名。
・武器弾薬損耗表では、銃弾約3千発、手榴弾2発を消費。
・『敵を殺さなければ、次の瞬間、こちらが殺される』という切実な論理(第三十三連隊第二機関銃中隊長)
・戦闘に市民を積極的に巻き込まんとする(=いわゆる「人間の盾」)中国側の考え方。




《唐順山さんの逃避行》

ある南京市民の証言に、逃避経路として地名がいくつも登場するので下図に示す。
逃避経路は勤務先の靴屋を基点にして10km程度と思われる。



唐順山 一九一四年七月三〇日生まれ(pp198-206)
(要約)南京の評事街にある大元勝革靴店の徒弟だった。親方は城外に避難して、一人で店を守ることになった。日本軍が南京城内に侵入してきたその夜、私は新街口から上海路、清涼山へと逃げ、最後は三牌楼にある兄弟子の家に身を寄せた。十二月十四日好奇心から日本軍を見ようとして捕まり、中国人の民衆四百人と一緒に銃剣殺されるところだったが、幸運にも傷をおっただけで、胡楼病院に運び込まれ、ウィルソン医師の手当を受けて助かった。病院に運ばれてはじめて安全区の存在を知ったという(この証言部分は本多勝一の聞き取りによる)。
(『体験者27人が語る 南京事件』笠原十九司編 より)


上記の証言は次のサイトからの借用です。

南京事件FAQ/城内、安全区以外の市民の被害

http://seesaawiki.jp/w/nankingfaq/



三牌楼という地点が第38連隊の掃蕩エリアなので、そこで「十四日好奇心から日本軍を見ようとして捕まり」確保された様子。また、結果的には安全区の存在を知らず、一時的には安全区に進入しながらも、そうとは気づかず逃避し続けていた。

陥落前日(つまり12日)の夜には城内の中国兵の多くが次のように軍服を脱ぎ捨てて潜伏しているので、その集団に唐順山さんが紛れこんだ場合、日本軍の側には市民なのか敗残兵なのかの区別は容易にはつかない。

「彼ら中国兵は、民間人になりすますために、軍服を脱ぎ捨て、民間人の服に着替えたのです。民間人の服を盗む者もいれば、民間人を撃ち殺して衣服をはぎ取る者も多くいました」(南京のジェームズ・エスピー=アメリカ副領事の報告)




《全軍降伏なければ継戦中》

南京戦での、国民党軍の組織的抗戦は12月12日でほぼ収束した。12日の夕刻からは、城内でパニックになった中国兵が逃げるために城門に向かい、これを阻止する督戦隊に射殺されたり、殺到する群衆によって圧死する者が出たり、軍服を脱ぎ捨てて市民の衣服を強奪するなどの大混乱が生じた。

翌13日がいわゆる陥落日とされる日で、一部の選抜された日本軍の部隊が各城門から城内に進入している。この日以降は国民党軍は指揮官もなく組織的抗戦はしていないが、指揮官不在であるがゆえに全軍の降伏といった対処が不可能となった。特に城外ではなおも抗戦する国民党軍部隊もあった。

降伏がないということは当たり前だが戦闘継続中である。そのために、日本軍は中国兵を見つけ次第殲滅あるいは捕獲、という作戦を強いられることとなった。そして捕獲しても反撃を喰らうこともあった。

安全区については、開戦前から国際委員会の依頼に基づいて日本軍は攻撃を自粛していたし、陥落後も安全区内での戦闘を避けるべく配慮をしていたが、安全区外は戦場のままである。南京城内外で敵兵を捜索する行動中も、日本兵の証言にあるようにまさに『敵を殺さなければ次の瞬間、こちらが殺される』という状況だったことは容易に理解できる。




《戦闘の経過と証言》

日本軍は南面と東面から特に激しく攻撃した。

12月12日16時に南面の中華門の一角を占拠してから、翌朝までに反時計回りに城門を次々と占領した。翌13日に各城門から入城した兵士らの証言は以下のとおり、「誰もいない」というような証言や記録が多い。

「十三日に、中山門から城内に入りました。もうこの日は、難民区の近くの通りでラーメン屋が開いていて、日本兵が十銭払って、食べていました。それと、中国人の略奪が続いて、中山路で机を運んでいる中国人や、店の戸をこじ開け盗んでいる者もいました」(東京日日新聞カメラマン・佐藤振寿)

南京の中山東路の北かつ中央路の東側地区は第二十聯隊が担当した。十三日夕方に部隊の一部が城内に進入し、宿営した。翌十四日は付近を掃討したが、この付近は官庁街であり、市民は皆漢口に避難した後で、敵兵も住民もいないので、直ちに城外に移り、城外東方の敗残兵掃討に転じた。

第三十六聯隊は、十三日に光華門を占領するまでは大変に苦労した。しかし、十三日にいざ入城してみると、敵兵、市民ともに担当地区(光華門付近)におらず、その日の夕方から城外の防空学校付近に集結して宿営し、そのまま十二月二十四日に南京を出発して、東方の嘉定に転進した。

十二月十三日、第六師団の第十三聯隊、第四十七聯隊は、松井司令官の命令通り聯隊から各一個大隊だけを入城させた。この入城部隊も夕方には本隊に合流して中華門外の三里塚店付近にて宿営し、十二月二十二日ごろ、両聯隊は蕪湖に転進した。全軍が南京城内に一気になだれ込んだという事実はない。

十二月十三日、第三十三聯隊は揚子江岸の下関で城内からの敗走兵を掃討し、ここで露営した。翌十四日、第二大隊だけが松井司令官の命令通り城内に進入したが、担当地域には敵兵も市民もほとんどいないので下関に引き上げ、以後はこの付近での警備および城外掃討に従事した。


ただ、翌日14日になると獅子山砲台付近では戦闘があったと第33連隊の人は証言している。

「城内掃蕩中でも、獅子山付近で百四・五十名の敗残兵を見つけたが、襲いかかって殺した。中国兵は、小銃を捨てても、懐中に手榴弾や拳銃を隠し持っている者がかなりいた。粉戦状態の戦場に身を置く戦闘者の心理を振り返ってみると『敵を殺さなければ、次の瞬間、こちらが殺される』という切実な論理に従って行動したのが偽らざる実態である」(第三十三連隊第二機関銃中隊長・島田勝己/証言による『南京戦史』9)

「この日(12月14日)、第二大隊は挹江門付近から獅子山砲台にわたり、抵抗する敗残兵と交戦して敵の遺棄死体約三百、投降した便衣兵約二百の戦果をあげました」(歩兵第三十三聯隊機関銃中隊一等兵・羽田武夫)



また、次の史料にもこの件が記されている。

十三日の夜を、この廃嘘にひとしい町中に露営した聯隊は、翌十四日から第二大隊をもって南京城内の西北角一帯を、第一、第三大隊をもって下関地区の掃蕩を開始した。南京城内外で防戦した支那軍は約十万人と称されていたが、その大半は辛くも揚子江を渡って対岸地区に逃走した。しかし、まだ相当数の敗残兵が、少数の武器を携帯して随処に潜伏しており、この掃蕩はまことに厄介なものであった。

城内の西北隅には獅子山と呼ばれる永久堡塁があり、これに立て籠って最後まで抵抗した敵の一部は遂に逃げ遅れ、第二大隊の掃蕩開始とともに、武器を捨て、便衣を着用したりして投降してきたが、その数だけでも二、三百人に達した。城内に入った日本軍は各方面でこうした集団的投降に会い、一時はその処置に困ったのであったがこれらの投降兵の消息が不明となったことから、戦後南京の虐殺事件として世界中に喧伝され、わが軍の伝統ある名誉を傷つけられることとなったのは遺憾であった。

(『歩兵第33連隊史 栄光五十年の歩み』)





《第38連隊による城内掃討》

第38連隊の戦闘詳報によると次の図のように掃討が実施された。
すなわち、中山北路と呼ばれる斜めの直線道路に整列し、北東方向に向かって一斉に掃討を進行した。



その第38連隊の戦闘詳報をこの記事の末尾に掲載したが、この14日の掃討戦の要点を抜き出す。

★A:「城内には尚抵抗の意思を有する敵相当多数潜在しあるもの如し」との認識。
★B:歩兵第三十旅団命令「敵は全面的に敗北せるも尚抵抗の意思を有するもの散在す」「旅団は本十四日南京北部城内及び城外を徹底的に掃蕩せんとす」
★C:歩兵第三十旅団命令「各隊は師団の指示があるまで俘虜を受付くるを許さず」
★D:「南京城内には避難民相当多数ありたるも之等は一地区に集合避難しありて掃蕩地区内には住民殆ど無し」
★E:敗残兵の数は、少なくとも五、六千名。それらは、第三十六師の一部、教導総隊、清涼山砲台守備隊など。
★F:歩兵第三十八聯隊命令「敵は全面的に敗北せるも尚抵抗の意思を有するもの散在す」=旅団命令のまま。
★G:掃討終了後の21時の第38連隊命令でも「敗走せる敵は尚残留しあり」とある。
★H:「齟齬過失その他将来の参考と成すべき事項」にあるのは、隣の区域を掃討した第20連隊との区域重複のみ。
★J:戦闘詳報死傷表で死者はなし、負傷2名。
★K:武器弾薬損耗表で、小銃2,468発、機関銃500発、拳銃129発、手榴弾2発を消費したとある。
★L:俘虜7,200名は第十中隊が堯化門付近で捕らえたものを南京に護送したものとある。つまり、城内掃討では旅団命令通り俘虜は取っていない。

従って、後世の評価がどうであれ、この時点では第38連隊は敵と交戦している。誰もいなければ、銃弾約3千発、手榴弾2発を消費し、負傷兵が出るはずもない。
また、軍服を脱ぎ捨てた敗残兵を許すまじと思ったのか、「各隊は師団の指示があるまで俘虜を受付くるを許さず」★Cという非常に厳しい方針で臨んでいる。




《結論的考察》

日本軍は南京城の南面と東面から特に激しく攻撃したため、中国側守備隊の戦線が崩壊しはじめ、中国兵が雪崩をうって城の北端に位置する挹江門から逃げ出そうとしたのが12日の夕方からである。この時に、以下のような状況になった。

唐生智が南京を離れるに当たって、彼は北門の督戦隊の任務を解除しなかった。各城門の兵士が十二日夜南京から敗走しようとして、北門まで来ると、督戦隊は任務通り、実力を以て敗走兵を追い返そうとし、ここに同士討ちが始まった。ために北門近辺は死屍累々となり死骸の山は数メートルに及んだ。逃げ惑う中国兵は、日本軍を恐れて軍服を脱ぎ捨て、市民から衣服を奪い、その混乱で多くの市民が殺された。

唐生智が逃げた事を知った中国兵は我も我もと下関の港へ殺到、城門に殺到する兵のため前の者が踏み潰され圧死と同士討ちで大量の死者が出た。やっとの事で外に出たら船がない。小舟の奪い合いで同士討ちになった。この時の争乱で火災を起こし黒こげの死体の山となった。


従って、唐順山さんは12日夜には軍事的には空白地帯になってしまった城内南側に取り残され、約24時間遅れで夜陰に紛れて城内北方へ中国兵のあとを追うように逃避をした様子。

もし挹江門から脱出しようとしていれば、督戦隊に射殺されたり、門内で圧死していたかもしれない。
また、中国兵と一緒にうまく城門から外へ出られたとしても次のような運命が待っていた。

南京攻略戦では南京城西側・長江河岸間は敵の退路に当たり、敗兵と難民がごっちゃになって第六師団の眼前を壊走した。師団の歩砲兵は任務上当然追撃の銃砲弾を浴びせ、このため一帯の沼沢は死屍で埋められたという。(『熊本兵団戦史』)


しかし、唐順山さんは「好奇心から日本軍を見ようとして捕まり」危うく殺されるところを結果的に「幸運にも」生き延びた。

ただ、前項の第38連隊の戦闘詳報を見てもわかるように、日本軍は完全に戦争の一環として掃討戦を展開している。しかも、敵である中国兵が軍服を脱ぎ捨てているから、容易に市民との判別はつかず、さらに戦闘詳報にあるように「掃蕩地区内には住民殆ど無し」と認識している。

よって、女性と子供と老人ならともかく、成人男性の場合は、そこに市民が紛れていても敗残兵と見做される危険性は極めて高かったと言える。

しかも、次のような状況である。

「相当数の敗残兵が、少数の武器を携帯して随処に潜伏しており、この掃蕩はまことに厄介なものであった」(『歩兵第33連隊史 栄光五十年の歩み』)

「中国兵は、小銃を捨てても、懐中に手榴弾や拳銃を隠し持っている者がかなりいた」「『敵を殺さなければ、次の瞬間、こちらが殺される』という切実な論理に従って行動した」(第三十三連隊第二機関銃中隊長・島田勝己)


おそらくは、アフガニスタンやイラク、シリアなどでの市街地戦でも同じなのだろうが、市民の中に軍服を着用していない兵士が紛れ込むというのは(=戦時国際法上、交戦資格を有しないので捕虜の権利がない)市民の巻き添え犠牲が激増する大きな理由のひとつではないか。

今さらタラレバで言っても仕方がないが、この大西参謀の指摘が城内にも当てはまると考える。

「この中には非戦闘員も含まれていたことと思うが、武器を持って退却する敵を攻撃することは当然の軍事行動である。住民が混在しておれば被害は免れ得ない。なぜ中国軍は整斉と組織を保ち、白旗を掲げて降伏しなかったのか」(上海派遣軍参謀・大西一)
(これは揚子江岸にあった数千の中国兵死体についての指摘)


なお、ラーベ日記を翻訳している方によれば、12月6日の「Huang大佐と興味深い協議」で、彼(=Huang大佐)は次のように主張したという。

「日本軍が占領する我々の国土の1ミリ毎、我が人民の血で覆われていなければならぬ。南京は最後の一兵まで死守されなければならぬ。あなた方(=安全区国際委員会)が安全地区など設置しなければ、今そこに移動する人々が、我々の兵士達の助けとなったであろうに」


つまり、大西参謀の指摘とは真逆の意識で、市民を巻き添えにして(=いわゆる「人間の盾」、中東の戦争でよく見かける)徹底抗戦する意識が中国側にあったものと思われる。言い換えれば、市民がそこにいることで日本軍が攻撃を躊躇するのならば(=この作戦を有効だと考える理由は、日本軍はむやみに市民を殺さないと知っていたから)、遠慮なく市民を巻き添えにしろ、という発想。

そして、この方針の背景には、日本と中国の戦争観の違いもあるかもしれない。すなわち、日本の場合は戦国時代から戦争とは武将同士が行うもので、ややもすると農民は弁当持参でどちらが勝つのか見物していたという逸話があるような戦争観であるのに対して、中国では「屠城」という言葉にあるように、城に籠る敵は兵士も市民も全て皆殺し、という戦争観。


従って、一部にはこの唐順山さんの証言を“虐殺の証拠”とする主張もあるようだが、そう簡単に認定できる話ではないと考える。

なお、スマイス調査によれば、12月14日以降に2,000人強の市民が「兵士の暴力」で犠牲になっているが、この唐順山さんが殺されそうになったのと同様の状況で犠牲になった市民がいたことを示すものと言える。

余談。中国が南シナ海で埋め立てている人工島に観光施設を併設していると報じられている。これもまた、上述の「Huang大佐」と同様の「人間の盾」的な考え方で敵(米国など)が軍事攻撃しにくくなることを企図してるように思われる。中国人はそういう考え方が基本なのであろう。





《第38連隊による城内掃討の戦闘詳報》

件名標題(日本語)
南京城内戦闘詳報 第12号 昭和12年12月14日 歩兵第38連隊
レファレンスコード
C11111938000


南京城内戦闘詳報 歩兵三十八聯隊 昭和十二年十二月十四日


一、戦闘前における彼我形勢の概要

敵は南京西北部下関より揚子江北岸に敗走せしも我の進出急なりしため全く退路を扼止せられ(=阻止され)殆ど殲滅せられたるも城内には尚抵抗の意思を有する敵相当多数潜在しあるもの如し 十二月十四日旅団は南京城中央門以西に位置し南京城内外の掃蕩を徹底的実施せんことを企図し左記(下記)命令を下達せらる。★A
当時旅団司令部は中央門外に在りて聯隊は下関に在り連絡稍に(わずかに)不便なり


歩兵第三十旅団命令 十二月十四日午前四時五十分 於中央門外
一、敵は全面的に敗北せるも尚抵抗の意思を有するもの散在す★B
二、旅団は本十四日南京北部城内及び城外を徹底的に掃蕩せんとす★B
三、歩兵第三十三聯隊は金川門(之を含む)以西の城門を守備し下関及び北極閣を東西に連ぬる線及び城内中央より獅子山に通ず道路(含む)城内三角地帯を掃蕩し支那兵を撃滅すべし
四、歩兵第三十八聯隊(第二大隊欠)は金川門(之を含まず)以東の城内及び和平門中央大学農林を連ぬる線以西地区を掃蕩し支那兵を撃滅すべし
五、歩兵第三十八聯隊第二大隊は玄武湖及び紫金山の中間にある山岳地帯(之を含む以北の地区)を掃蕩し支那兵を撃滅すべし
六、各隊は師団の指示があるまで俘虜を受付くるを許さず★C
七、
八、
九、
一〇、
一一、余は中央門外にあり
支隊長 佐々木少将


二、戦闘に影響を及ぼしたる気象及び地形等の状態

1. 日出時刻は概ね午前七時にして快晴気温は日中温暖夜間もまた星明あり
2. 地形及び住民
南京城内には避難民相当多数ありたるも之等は一地区に集合避難しありて掃蕩地区内には住民殆ど無し★D

三、彼我の兵力その他の状況

1. 敵は統制の許に我と交戦の意図を有するが如きもの無きか敗残潜在する数は少なくとも五、六千名を下らず★E
2. 我の兵力は第二大隊及び聯隊砲中隊速射砲中隊
3. 交戦せし敵の団体号は第三十六師の一部並びに教導総隊及び清涼山砲台守備隊の敗残兵なるが如し★E

四、各時機に於ける戦闘経過

1. 掃蕩経過の概要別紙要図の如し
2. 聯隊は午前九時掃蕩命令を下し午前十時展開線に就かんとせしも途中金川門その他に障碍物多く行進渋滞し午前十一時に至り予定の線に展開す

歩兵第三十八聯隊命令 十二月十四日午前九時 於下関
一、敵は全面的に敗北せるも尚抵抗の意思を有するもの散在す★F
旅団は本十四日南京北部城内及び城外を徹底的に掃蕩す★F
歩兵三十三聯隊は獅子山砲台中山路中央三叉路以西地区及び下関を掃蕩す
二、歩兵第三十八聯隊(第二大隊欠)は和平門−金川門−中山路(含まず)と中央門との大通交差点の水関の地区内を掃蕩し支那兵を撃滅せんとす 第二大隊は玄武湖以東紫金山に至る間を掃蕩する筈
三、第一大隊は右掃蕩隊 第三大隊は左掃蕩隊とす 両大隊掃蕩区域の境界模範馬路中央門南北の大道を連ぬる線とす 線上は左大隊に属す
四、両掃蕩隊は午前十時中山路の線に準備すべし
午前十時までに第一中隊より鐘阜門(中央門西方1キロ)玄武門−水関−北極閣及び中央門通り中山路との三叉点付近の要点を一部を以って占領するを要す


掃蕩経過の概要次の如し
(1) 中山路通り出発は午前十時三十分とす その東方鉄道線路(南京鉄路)百年亭(北極閣の東方約8キロ)の線にて概ね午前十一時三十分 鐘阜門−玄武門西連ぬる線午後零時三十分
(2) 中央門西南方高地を東北に亘る線概ね午後一時三十分
(3) その以北和平門に至る午後二時
(4) 午後三時掃蕩終われば第一大隊は和平門付近に 第二大隊は中央門付近に兵力を集結すべし
(5) 歩兵砲中隊は中央門北側高地に午前十時三十分までに陣地を占領し城外に脱出する敵を殲滅すべし
(6) 通信班は第一大隊 第三大隊 連隊本部間に電話連絡午前十時三十分に完了すべし
(7) その他(速射砲中隊及び各隊小行李車両にして市内に持ち入り出来ないもの)は速射砲中隊長の区署を以って中央門外に至り待機すべし
(8) 第四中隊の一小隊は予備隊とす 金川門外に位置すべし
(9) 余は先つ金川門に至る
連隊長 助川大佐

3. 概ね予定の如く掃蕩を実施中左(下)の旅団命令を受けたるを以って直ちに通信班をして旅団司令部−下関間の電話連絡を任せしめたり

左支隊命令 十二月十四日午後一時〇分 於南京中央門外司令部

一、(師団と海軍と連絡するために電話を架設せよ)

4. 午後五時三十分掃蕩を完了す その結果附表第二の如し
連隊は一部を以って和平門中央門を守備し主力を以って宿営地に露営するため左(下)の命令を下達す

歩兵第三十八聯隊命令 十二月十四日午後九時三十分 於下関
一、敗走せる敵は尚残留しあり★G
二、連隊(第二大隊欠)は一部を以って要点を確保し主力を以って下関に兵力を集結し村落露営せんとす
三、第一中隊は和平門及び中央門の守備に任ずべし 特に支那人を一切出入りせしむべからず
四、各隊は該設営者の指示せる処に従い村落露営すべし
五、露営司令官竹内中佐とす
六、
七、
八、
連隊長 助川大佐


五、戦闘後に於ける彼我形勢の概要
敵は全く殲滅せしを以って我は掃蕩後再び下関に至り露営せり

六、齟齬過失その他将来の参考と成すべき事項
旅団命令による掃蕩区域内の掃蕩を実施せしに既に歩兵第二十連隊の一部を以って掃蕩を終れる区域ありたり★H
本掃蕩間功績顕著なる者なし

七、本掃蕩に於いて南京鉄道部内にありし敵の第五十二師参謀長「孟化一」の作戦室に於いて押収せし敵の防御陣地配備要図(五万分の一)地図を縮小複製したるものを別紙の通り添付す




附表第一
戦闘詳報第十二号附表
十二年十二月十四日
南京城内戦闘詳報死傷表

死者(なし)

負傷
第一大隊 1名
第三大隊 1名
合計   2名
★J




附表第二
戦闘詳報第十二号附表
十二年十二月十四日
南京城内戦闘詳報武器弾薬損耗表

(弾薬)
小銃  :2,468発
機関銃 : 500発
拳銃  : 129発
擲弾筒 : なし
手榴弾 :  2発
★K




附表第三
戦闘詳報第十二号附表
南京城内戦闘詳報鹵獲表

俘虜
将校 70-
准士官、下士官、兵 7,130-

一、俘虜7,200名は第十中隊堯化門付近を守備すべき命を受け同地にありしが十四日午前八時三十分頃数千名の敵白旗を掲げて前進し来たり午後一時に武装を解除し南京に護送せしものを示す★L
二、敵の秘密書類一包は地図その他秘密に属するものなり





(以上)






改版履歴:
2017.08.23 タイトル変更、及び加筆修正
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《南京事件》湖山村の虐殺

2015年07月21日 | 南京大虐殺
最終更新:2019.09.02



この記事は、次の記事のNo.22湖山村の事件についての考察であるが、場所の特定を誤っていたので訂正し、別記事として独立させた。

《南京事件》“南京大屠杀”遇难同胞纪念碑
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/231d3f251ec4a413608c7c6baa8e4e90


《要点》

・碑に記された事件日は1937年12月6日。
・村民64人が死亡し、200以上の家屋が焼かれた、とのこと。
・戦闘詳報で確認すると、6日の日没時点では日本軍は湖山村に進入していない。
・夜間は火を使えば敵の標的にされるので火気厳禁。
・撤退する中国兵が集落から略奪し、放火し、防ごうとした住民を惨殺する報告多し。
・となれば、誰の犯行であるかは自ずと明らか。




《湖山村の碑》

22、湖山村“以史为鉴”碑(本条信息来源于网络)

概要:1937年12月6日、湖山村に日本軍が侵入し、不完全な統計によると64人が死亡し、200以上の家屋が焼かれた。


碑址:
江宁区湖山村内

碑文:
民国二十六年冬日初四(一九三七年十二月六日),日军侵入湖山,村民流离失所,生灵涂炭,家破人亡,痛不欲生。
据不完全统计,先后有六十四人遇难,(大多死于南京沦陷前后),十五家绝户,二百多间房屋被焚。
中国军队曾在棒槌山,岘山等地抗击入侵,许多官兵阵亡,沦陷后,新四军在此依靠人民,坚持敌后抗战,直到胜利。
前事不忘,后事之师,为纪念遇难和阵亡的同胞,坛强爱国情怀,立志振兴中华,呼吁制止侵略战争,保卫世界和平特立此碑。





《地図》

碑の場所が「碑址:江宁区湖山村内」とある。これをGoogleマップで調べると、南京市 江寧区 湖山という場所がヒットする。
中山門から直線距離で17km付近。




日本軍の戦闘経過要図によると第9連隊の進路に当たる。湯水鎮のすぐ北。


(この図はWikiから借用)




戦闘詳報で確認すると、第9連隊がその付近で戦闘している。

12月6日の戦闘要図


12月7日の戦闘要図


12月8日の戦闘要図





《場所の特定》

特定した該当地点付近の拡大地図がこれ。左半分が8日の戦闘要図、右側が6日の戦闘要図に対応している。
以下に、どのように特定したかを示す。




まず先に、8日の戦闘要図を元に場所の特定をする。

(1)戦闘要図のタイトルと、図の中心に「大胡山」とある。これを碑の場所である「江宁区湖山村」と比定する。
(2)「大胡山」の南に「孔山」とある。Googleでもそこにヒットするし、周囲の地形が一致している。
(3)「大胡山」の東北東に「盛村」とある。Googleでもそこにある。
(4)「大胡山」の西に「復興橋」とある。Googleでもそこに橋がある。
(5)「大胡山」から復興橋を抜けると「東流鎮」に至るとある。Googleでもその先に東流村がある。

よって、「大胡山」=「江宁区湖山村」とする。Googleマップへのリンクはこちら



次に、6日の戦闘要図を元に場所の特定をする。

(1)中心に「孟埠」とある。これをGoogleマップ上での「孟塘」と比定する。
「埠」は埠頭の埠であり、船着場とか水辺を意味する。「塘」は堤とか土手を意味する。Googleマップ上でもまさにそこの東に湖がある。
(2)前項の8日の戦闘要図で東に行くと「孟埠」に至るとある。だから、6日の戦闘要図は8日の要図の東隣である。「孟塘」は「大胡山」の東5kmの地点。

これだけでは確信を持てないだろうが、先を続ける。



続いて、7日の戦闘要図を元に場所の特定をする。

(1)「孟埠」の北に「上鮑亭」さらに行くと「下鮑亭」とある。Googleマップでも「孟塘」から北に道を行くと「上鮑亭」に至る。さらに北に行くと「鮑亭村」がある。
(2)「孟埠」から「下鮑亭」に至る道が、Googleでの「孟塘」から「鮑亭村」に至る道と同じ形をしている。



これだけ揃えばもう間違いない。よって、場所の特定は次の通り。

(戦闘要図)(現在の地名)

「大胡山」=「江宁区湖山村」=碑のある場所
「孟埠」=「孟塘」




《第9連隊の戦闘経過》

この記事の末尾に第9連隊戦闘詳報を掲載したが、そこから「大胡山」に関連する部分だけを時系列で並べてみる。

十二月六日

★A:連隊主力が孟埠付近に前進した。
★B:日没は午後五時三十分。
★C:敵の兵力は「六日夜より」の情報として「大胡山付近約三、四千名」としている。つまり、中国側の勢力下にある。
★D:十二月六日午後五時四十分の片桐部隊命令で「大胡山付近」を占領しろと命じている。命令が出た時点で日没時刻を過ぎている。
★E:十二月六日午後七時四十分の児玉隊命令で、屋外で絶対に火を使うな、付近の住民らが火を灯すことや放火に用心しろ、火災予防、敵陣地に見つかるようなマッチや懐中電灯は使うな、としつこく指示している。夜間に火を使えば敵の標的にされるから当然の措置であろう。

十二月七日

★F:十二月七日午前四時三十分の片桐部隊命令で「大胡山西南側高地にも敵あるもの如し…」とあるが、敵の情報に過ぎないから「大胡山」その場所の状況は不明。
★G:「午前十時四十分頃在大胡山第七中隊と連携する目的を以って…」とあるから、この時点では既に「大胡山」に日本軍(第七中隊)が進出している。
★H:続いてその夜に連隊主力が「午後九時五十分大胡山に到り」とのこと。

十二月八日(省略)

十二月九日

★J:「大胡山付近に於いて敗退せし敵は…」とあるから、この時点で「大胡山」付近が日本軍の支配下に入ったことが確定してる様子。




《結論》

「湖山村“以史为鉴”碑」に戻ると、「12月6日、湖山村に日本軍が侵入し、不完全な統計によると64人が死亡し、200以上の家屋が焼かれた」とある。

前項で明らかなように、その12月6日の日没時点では、湖山村に日本軍は進入していない。
翌日の7日午前10時40分の時点では、第七中隊が湖山村に進入している。

夜襲をかけたとも書いていないから、順当に考えれば夜明けとともに第七中隊が湖山村に進入したと思われる。また、湖山村は小山や丘に囲まれた低地の村であって特に守備に適した地形でもないので、その後の戦闘詳報での展開を見ても中国側も湖山村でさほど抵抗することもなく、周囲の高地に散って抵抗を続けることにしたのではないか。


碑に「200以上の家屋が焼かれた」とあるが、夜間に日本軍が火を付けるはずはない。
★Eでも再三注意されてるように、屋外火気厳禁である。火を灯せば敵の標的にされるだけ。それは中国側にとっても同じだろう。

そして、次の記事でも紹介しているが、撤退する中国兵は往々にしてこういうことをする。

《南京事件》残虐な中国兵
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/87915078145230ed66431b34f00c5568
「私がある部落、ある町を占領するというと、そこが既に破壊されており略奪されており、焼き払われているのはおろか、甚だしきは住民が惨殺さえされているのです。何故そういうことが起こるかというと、逃げる支那兵が略奪を働き、それを防ごうとした住民が支那兵に殺されておるのです。支那兵は退却する時に『清野空室』と言って、焼き払い、略奪しつくして、追撃する敵軍に利用させまいとする、そんな残虐なことを平気でやっておるのです」(第二十聯隊大隊長代理・森王琢)


そういう中国兵の犯行癖を知れば「湖山村“以史为鉴”碑」が12月6日と示しているのだから、その日の日没前に湖山村の集落に火を放ち、村民を虐殺したのが誰なのかは自ずと明らか。

そして、そういう中国兵の行動パターンからすると、集落に火をつけるというのはその場所を放棄するという意味だから、第七中隊が7日の夜明けであるかどうかは別にして、特に交戦するでもなく湖山村に進入できたと考えるのは妥当。


ちなみに、「湖山村“以史为鉴”碑」を訳すと「湖山村『歴史から教訓を学ぶ』碑」だそうだ。
教訓云々の前に、まずは正確な事実を知って欲しいところ。




《第9連隊戦闘詳報》

以下の出典は、国立公文書館・アジア歴史資料センター。

件名標題(日本語)
湯水鎮附近戦闘詳報 自昭和12年12月6日至昭和12年12月8日 歩兵第9連隊第2大隊
レファレンスコード
C11111974100



歩兵第九連隊第二大隊 湯水鎮付近戦闘詳報 第八号

十二月六日

第一 戦闘前彼我形勢の概要

一、十二月五日夜より固江口を占領し前面の敵情地形を偵察しありし第七中隊は東國付近には既設陣地あるも敵兵見ずとの報告あり尚敵の一部は西巷付近に進入し其一部は第四中隊により撃退せられたりとの情況を知る連隊は直ちに攻撃の目的を以って一部を西巷南巷の線に進出し敵と接触せしめまず第七中隊を孟埠付近に前進せしめ次いで主力を以って東國を経て孟埠付近に前進す。★A

二、右(上)企図に基づき左記(以下)命令を下達し捜索警戒のため派遣しありし兵力を集結す同時までに敵情に関し新報を得ず。

児玉隊命令 十二月六日午後〇時四十分 於 □石潤村南方六〇〇米無名部落
1. 敵情は不明なるも湯山および湯水鎮付近には敵陣地ありまた敵の一部は西巷付近に進入し第四中隊により撃退せられたり尚東国付近には敵の「トーチカ」陣地あるも守兵なし第七中隊は午前十時頃東国に到着せり連隊は攻撃の目的を以って敵情地形を偵察するため一部(第一大隊長の率いる第四中隊 I MG)を以って湯水鎮の敵と接触せしめ主力は固江口、東国を経て孟埠付近に進出す。
2. 大隊は連隊主力の先頭を孟埠付近に向かい前進せんとす。
3. 略

第二 戦闘に影響すを及ぼしたる地形、天候、気象および住民地の状態

一、天気晴朗にして星影明るく戦闘に影響なし
日出時刻 午前七時三十分
日没時刻 午後五時三十分★B

二、地形
三、住民地の状態
一般木造および瓦もしくは石壁家屋西て囲壁なし

第三 彼我の兵力交戦せし敵の□隊号将帥の氏名、編成、装備、素質および戦法

一、敵の兵力
逐次退却しあるいは陣地占領中の敵にして其の数明らかならざるも六日夜より八日に亘る孟埠付近三、四百、下鮑亭付近約三、四百、大胡山付近約三、四千名なり★C

二、敵の□隊号

三、編成および装備

四、素質および戦法

五、我兵力

第四 各時機における戦闘経過の概要

十二月六日 晴

一、行軍中、急に敵の□制射撃を蒙りたる大隊は直ちに地形地物を利用し遮蔽前進に努むると共に機関銃中隊(1小隊)をして陣地進入せしめ之に応射す。

二、硝煙盛んなる射撃を受けしも距離千米以上にして損害なく集結を終る尚第一中隊を指揮下に入らしめる時に夕陽は西山に汲せんとす。

三、午後五時三十分大隊長は左の(以下の)要旨命令を下達すると共に副官をして連隊本部に現在までの件を報告せしむ

左記(以下)

1. 敵情友軍の情況は諸官の知るが如し…略
2.
3.
4.
5.
6.
7.
8.

四、略

五、日没時に至るも敵の射撃は断続せしも損害なし然し共湯水鎮−上鮑亭道は敵の縦射を受ける公算多きを以って第七中隊の全兵力を用い遮障を作為せしめ損害なく部隊を誘導し別紙要図第二の如く夜間配備をなす。

六、同時頃左記(下記)連隊命令を受領す

片桐部隊命令要旨 十二月六日午後五時四十分 於孟埠
1.
2.
3. 7(1/4 II MG)は大胡山付近を占領し孔山および華野方向の敵情地形また本道上の湯山鎮憤頭付近の敵情を捜索すべし★D
4.
5.

七、午後七時三十分夜間配備完了同時同要図の如き敵情を知る午後七時四十分頃敵の射撃は悄衰へ來たり左記(下記)大隊命令を下達し敵前至近なる警戒をなす

児玉隊命令 十二月六日午後七時四十分 於孟埠
1.
2.
3. 戦備の度左の如く定む
(イ)予備隊は1/2の兵力を仮眠せしむることを得
(ロ)本部事務室の外隠蔽下に入るを禁ず
(ハ)屋外の焚火は絶対に之を禁ず屋内に於いても厳に最小限に止むべし★E
(ニ)各中隊毎に付近空家を警戒し土民等の火を灯しまたは放火を戒むべし(=用心せよ)★E
(ホ)
4. 左の諸件を特に注意すべし
(イ)火災予防★E
(ロ)敵陣地に暴露して「マッチ」懐中電灯の使用を禁ず★E
(ハ)静粛にすべし
5.
6.
7.
8.

八、
九、
一〇、
一一、


十二月七日 晴

一、
二、午前四時三十分左記(下記)連隊命令(要旨のみ)を受領す

片桐部隊命令 十二月七日午前四時三十分 於孟埠
1. 孟埠南方高地線の敵は逐次兵力を増加中なるが如し孔山および大胡山西南側高地にも敵あるもの如し鎮江付近の敵は鎮江−南京道を自動車により退却するものが如く夜間自動車の通行盛んなり★F
2.
3.
4.
5.

三、
四、
五、
六、
七、
八、午前十時四十分頃在大胡山第七中隊と連携する目的を以って盛村東北方高地稜線に進出するを可とするとの意見具申をなし許可を得て…略★G
九、
一〇、
一一、
一二、
一三、午後八時連隊主力は盛村に到着しその北側無名寺高地の敵も後退せしを以って午後九時五十分大胡山に到り第七中隊を指揮下に入れ状況を聴取し左記(下記)将校斥候を派遣敵情地形を捜索せしむ★H
1. 川端少尉…
2. 山本少尉…

一四、
一五、


十二月八日 晴

(主戦場は復興橋付近あるいは大胡山を挟む南北の山間部に移った様子)


十二月九日 晴

一、大胡山付近に於いて敗退せし敵は西方あるいは西南方に退却中なるが如く第八中隊正面高地の敵は尚頑強に抵抗しありしも午前三時前方の高所を夜襲占領し次て払暁後逐次西方に戦果を拡張せり★J


(ここまで戦闘詳報)




(追記)
日本軍が上述のように湖山村に侵入した際に、セメント工場の警備員だったデンマーク人のシンドバーグ氏が避難民を救ったという。

BBCニュース - 南京大虐殺で、多くの中国人救ったデンマーク人 没後36年目の顕彰 2019.9.2
https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-49547357
シンドバーグ氏は、1937年に旧日本軍が中国東部の南京に侵攻した際に起こした虐殺から、何千人もの中国人を救った。ただ、デンマークではやっといま、国民的英雄の待遇を受ける。彼の銅像が建てられ、8月31日に除幕式を迎えた。シンドバーグ氏の死から36年近くたっての式典だった。

南京大虐殺の生存者112人に=蘇国宝さん死去、2年前にデンマーク女王と対面―中国メディア 2016年9月7日
https://www.recordchina.co.jp/b149705-s0-c30-d35.html
南京大虐殺当時10歳だった蘇さんは、旧日本軍が南京の湖山村に侵入した際、家族を含む多くの難民と、デンマーク人のベルンハルト・シンドバーグ氏らが設置した難民キャンプに身を寄せたといい、マルグレーテ2世女王に感謝の気持ちを伝えた。





以上。





改版履歴:
2019.09.02 デンマーク人のシンドバーグ氏の関連記事を追記。



 
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《南京事件》“南京大屠杀”遇难同胞纪念碑

2015年07月21日 | 南京大虐殺
最終更新:2017.08.21



中国語で南京大虐殺の「纪念碑」を紹介してるサイトがあった。これによると、南京周辺に22箇所の「纪念碑」がある。

出典はここ。
http://www.univs.cn/newweb/channels/campus2009/2009-12-14/1260768988d936028.html




以下に、ひとつずつチェックしていくが、結論的に言うとほとんどが根拠不明の的外れに見える。犠牲者数の大半は戦死なのに、それらも全て虐殺犠牲者としている。しかも、犠牲者数と埋葬数をダブルカウントしている。

また、「纪念碑」設置箇所の多くが激戦地、敗残兵の処断、遺体の埋葬場所に関連しているが、埋葬数はまだ比較的マシだとしても、それ以外の数は本当にメチャクチャである。

“大屠杀”と言わず、戦没者慰霊碑としてなら趣旨は理解できる。ただし、犠牲者の数を除いて。

ちなみに、これらの「纪念碑」に出ている犠牲者数を全て積算すると27.5万くらいの数字にはなる。つまり、これほどまでに根拠不明な犠牲者数と埋葬数をダブルカウントしても、なお30万に届いていないということである。

さらに別の視点としては、中国がこうやって南京城の周囲で約28万の犠牲者数を積んで「30万」と称している以上は、一部の大虐殺肯定派が、虐殺犠牲者数として上海から南京への進軍路まで含めるのは、中国の意向とは整合しないということにもなる。



※なお、上記のサイトは既に消滅しているので「纪念碑」一覧としては以下のサイトを参照。番号等が異なるので、いずれ改版予定。

侵华日军南京大屠杀遗址纪念碑
https://zh.wikipedia.org?curid=3591632






《「纪念碑」の一覧表》

「纪念碑」に記された情報を元に一覧にまとめた。
碑の文言だけ見ると、武装解除された兵士と無辜の市民ら難民を虐殺したか、あるいは埋葬したということになっていて、まるで戦闘中の戦死がなかったかのようになっている。しかし、実態は戦闘中の戦死または敗残兵の処断がほとんど。






《「纪念碑」の検証》


1、侵华日军南京大屠杀北极阁附近遇难同胞纪念碑

概要:日軍が南京同胞30万人を虐殺。この北極閣付近でも千余人を惨殺。


南京城内北東の玄武門付近に北極閣公園というのがある。一部で12月13日〜15日の城内について「中山路と中央路の二条の道路は血の道路に変じ、道路上を埋めた死体の上を、戦車がキャタピラで踏みつぶしながら進んだ」との言説が流れてるようだが、南北に通る中央路と北極閣公園が近いので、その話ではないかと思われる。

ただ、そのような事実は確認できない。

その北極閣を含む城内北東部の掃討を担当した第9連隊の人の証言は次の通り。これが当事者の本音であろう。

「虐殺だの暴行など全く行っていないし、見てもいない。何よりもあのあわただしい突入後の二、三日、身の危険や、矢継ぎ早に命ぜられる任務に忙殺されている時、不要な殺人などできようか。殺せば死体の処理など、更に厄介な仕事が増えるに決まってる」(第九聯隊第十一中隊・寺田八三)


以下は戦車と軽装甲車関連の証言。

「戦車兵は犬猫でさえ、ひき殺さぬよう注意し、安全運転を心がけたものです。『蹂躙』とは敵掩蓋銃座などを踏みつぶすことであり、これによって浮き足たった敵を撃滅することを意味する」(戦車第1大隊第1中隊長・城島赳夫)


14日の様子。

「中山路の十字路に停車して警戒中、脇屋か上野上等兵か記憶がはっきりしないが、下車して付近にあった講堂のような建物に入ると、敗残兵らしき者数十名がおり、銃撃を受け急いで乗車したが、大目玉を食らった」(12月14日に城内掃蕩に当たった戦車長・村門、榎)

「中山北路の左側に中国の通信隊の兵舎があり、戦車の機関銃の威嚇射撃により約150名くらいの武装兵を俘虜とした。兵舎の門前で、抵抗の気配のあった3、4名を同行の歩兵が射殺した。俘虜は全員、後続の歩兵隊に引き渡した」(12月14日に城内掃蕩に当たった戦車長・村門、榎)

「中隊は午前9時出発、中山東路、中正街の主要な道路を前進し歩兵の掃蕩を支援したが、一度も銃火を交えることはなかった。道路両側の民家は堅く戸を閉じてヒッソリして婦女子などは見なかった。城内飛行場付近で中国兵二、三十名を捕虜としたが、この投降兵は兵站に引き渡した」(12月14日に城内南部地区を掃蕩した独立軽装甲車第七中隊上等兵・渡辺末蔵)


15日の様子。

「9時出発、中山東路〜漢中路を前進し漢西門に向かった。歩兵は二ヶ中隊の兵力で掃蕩していたが戸外には人影を見ず、中隊長は時々車長に下車集合を命じて相談した。ヒッソリとして平穏なので早く引き揚げ集結地の飛行場に帰還した」(12月15日に城内北部を掃蕩した軽装甲車第七中隊・渡辺末蔵)





2、侵华日军南京大屠杀草鞋峡遇难同胞纪念碑

概要:12月13日、武装解除された兵士ら難民五万七千人が幕府山の下の村に投獄された。そして、18日の夜にその悉くが機関銃で射殺された。


いわゆる幕府山事件。両角連隊長手記などによれば、次のような出来事。

幕府山砲台付近で1万4千余を捕虜とした。非戦闘員を釈放し、約8千余を収容した。夜に火事が発生し半数が逃亡。警戒兵力、給養(食事)不足のため捕虜の処置に困った旅団長が、揚子江対岸に釈放しようとして移動させたところ、捕虜にパニックが起こり襲ってきたため、これに射撃を加えた。


ただし、これは日本側での記録によれば17日夜の事件とされる。

この「五万七千人」は東京裁判で「魯甦」が証言した「日本軍が、57,418名の難民と兵士をロープで二人ずつ括り、機銃で掃射した後に銃剣で突き刺し、石油で焼いた」に由来していると思われる。

なお、紅卍字会の埋葬記録から、該当する下関草鞋閘を拾うと合計574。…この数字を100倍すると「魯甦」が証言した数字になる!!




3、侵华日军南京大屠杀遇难同胞东郊丛葬地纪念碑

概要:中山門から東の郊外一帯で三万三千の遺体をを埋葬。


エリア的には激戦のあった紫金山などが含まれるはず。関連する証言は次の通り。

「十二日には城外の激戦の音が稍衰へて日本軍の砲声が激しく紫金山天文台や富貴山にドンドン落下し一時は凄い唸りを立てゝ僕等の頭上をかすめ南京の北方にどかんどかんと落ちて行つた」(12月14日朝、パラマウント・メンケン、NYT・ダーディン両名の証言)

「紫金山は歩兵第三十三連隊が、12月12日午後3時頃占領した。この紫金山の攻撃には直協砲兵大隊はもちろん、軍直砲兵も集中砲火を浴びせ、敵の紫金山維持を不可能とした。我が歩兵は敵前百メートルまで近接して、実によく戦った」(第十六師団司令部副官・宮本四郎)

「師団の攻撃重点の紫金山正面には中山陵・明孝陵などがある。これを毀損せずに紫金山を占領するために、三十三連隊は絶えず左側背から射撃を受けすこぶる苦戦した。わが軍は砲兵の射撃はもちろんのこと歩兵の重火器の射撃も制限したが、これがため過剰な損害が生じた」(第十六師団・中沢三夫参謀長)

「われわれ軍砲兵は、これら(軍命により射撃禁止区域とされたエリア)の目標を避けて紫金山、天文台の敵陣地、観測所に射撃を指向した。当時、城外の戦場付近には住民は一人も見当たらなかった」(独立野戦重砲兵第十五聯隊第二大隊長・佐々木孟久)


3.3万もここで戦死したなら、譚道平記録にある損失兵力3.65万のほとんどがここで戦死したことになる。だが、他の戦場での戦死数もあるので、計算上それはありえない。

ちなみに「中山門より東」に含まれるであろう紫金山で戦闘した第33連隊の戦闘詳報で、「敵の遺棄死骸」を確認すると6,830。
このうち12月13日の3,096は、敵の退路遮断のため下関に急進する途中で敗残兵を処断したもの。これは位置的には紫金山より西、すなわち中山門より西。
さらに、13日は揚子江の江上で二千撃滅とあるので、これも「中山門より東」の対象外。
それに加えて、詳細は“太平門虐殺”の真相に記述したが、太平門での遺体が約400。
よって、紫金山での「敵の遺棄死骸」は実数1,334以下となる。このように数字の桁が違いすぎる。



なお、紅卍字会の埋葬記録だと、中山陵南東の麓に82。
さらに、南京特別市政府衛生局が南京戦の翌々年に、中山門外の霊谷寺・馬群・陵園・茅山一帯から三千体余りの遺骨を収容。


ちなみに、以下のスケッチは日本軍が記録した中山門付近の様子。このスケッチ内には、城外の建物は6軒しかない。ほとんどが農地のように見える。






4、侵华日军南京大屠杀汉中门外遇难同胞纪念碑

概要:12月15日、漢中門の外で武装解除の軍警二千余人を機関銃で殺害。


当時、南京で警官をしていた伍長徳の証言によるもの。彼は、陥落後およそ三百人の他の警官と一緒に司法院にいて、15日に西大門に連行され、約1,600名が射殺されたところを生き延びた、という話。

安全地帯の記録「第九号 日本大使館への手紙 1937年12月17日」にもその時の描写がある。伍長徳はその最初の50名の一人と思われる。

我々の警官は妨害を受け、昨日、司法部に詰めていた者50名が日本軍当番将校の話では「殺されるために」連行され、昨日午後には私どもの「志願警察官」46名が同じように引っ立てられて行った。


西大門に相当するのが、漢中門またはその近くの水西門。関連しそうな日本軍将兵の証言は次の通り。

「15日夜および20〜22日頃、水西門外または漢中門外で、数千人の非戦闘員を含む敗残兵が機銃掃射で殺害されたという記事があるが、同地付近の警備に任じた第二大隊長・成友藤夫氏は『小火災の他、異常なし』と述べている」(第六師団通信隊小隊長・鵜飼敏定)

「18、19日頃の夕刻、宿舎の西北方城壁の方向で短時間であるが機関銃の銃声がした。翌朝、水西門の城壁に登った。城壁と水濠との間の斜面に中国兵の死体が5〜6体転がっていた。どこかの部隊が規律に違反した捕虜を銃殺したのだと聞いた」(歩兵第二十三連隊第二大隊長・坂元昵)


摘出した敗残兵の処刑は揚子江岸で行っているので、門外での大量処刑はないはず。

ただし、15日ではなく、その前日の14日には次のような証言がある。「正規兵」とあるから、安全区から摘出した敗残兵とは異なる様子。漢中門、漢西門、水西門は近い位置に並んでいる。

「中隊本部附の草場軍曹は、軽装甲車で歩兵第七聯隊との連絡に任じていたが、漢西門外で銃声がするので門の出口まで行ってみると、友軍の歩兵が機関銃を据えて、敵の正規兵八十名余りを射殺していた」(12月14日に城内掃蕩に当たった戦車長・村門、榎)


15日の時点でもその約80の遺体はそこに残っていたであろうから、それと15日の司法院からの50名+αの警官連行の話と結びついて、話が膨らんだような印象を受ける。

なお、紅卍字会の埋葬記録から、隣接してる漢中門、漢西門を拾うと、合計1,395。比較的近い水西門まで含めると2,397。もちろん、戦死者を含む。
伍長徳の証言にある1,600と近い数字。




5、侵华日军南京大屠杀遇难同胞花神庙地区丛葬地纪念碑

概要:南京陥落後、中華門の外の雨花台などの一帯で27,239の同胞遺体を埋葬。


雨花台も激戦地のひとつ。関連する日本軍将兵の証言は次の通り。

「82高地をめぐる雨花台の凄惨な戦闘においては日本軍の奮戦もさることながら、中国軍の防御振りもまた賞賛すべきものがあった。敵は『全員戦死』を誓い戦い抜いた。弾丸にあたるか刺殺されるまで戦い、塹壕内には小銃、機関銃の薬莢が山のように積まれ、無数の死体がころがっていた」(独立軽装甲車第二中隊本部曹長・藤田清)

「(雨花台には)半焼けの中国兵の屍体が四、五百遺棄されていた。その後、雨花台の激戦の跡を見て回ったが、各所で兵士の死体は見たが、非戦闘員の死体は見なかった。日本軍の進撃が予想外に早かったので、敵は屍体を城内に収容できなかったのであろう」(独立軽装甲車第二中隊本部曹長・藤田清)

「第十軍司令部は14日朝、秣陵関を発し雨花台の麓を過ぎ中華門を通って(城内の)上海儲備銀行に司令部を置いた。雨花台は後年中国側が民衆二万人が虐殺されたと発表した場所であるが中国兵の死体が点々と転がっていただけで虐殺の跡というが如きは片鱗もなかった」(第十軍司令部第三課長・谷田勇)


なお、紅卍字会の埋葬記録からNo.9の普徳寺を除いた中華門外を拾うと1,121。

また、次の記事で試算したが、雨花台の戦闘での犠牲者数(No.5花神庙地区+No.9普德寺)は、実数2,209人。

《南京事件》犠牲者数の一覧と論拠
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/d970ae18fbcd6ea40e68a22a5d24d01a

ちなみに、雨花台は国民党政府の統治時代に十数万人の共産党員とシンパが殺害されるなどした処刑場であったとされる。日本軍との南京戦以前の話。




6、侵华日军南京大屠杀死难同胞江东门丛葬地纪念碑

概要:12月16日、江東門付近で武装解除兵と市民の一万余人が殺害。


関連しそうな日本軍将兵の証言等は次の通り。ちなみに、江東門というのは南京城の城門ではなく、南京城の南西にある地名。

第6師団の通信隊小隊長(原隊・歩兵45連隊)の鵜飼敏定氏は、江東門付近の万人抗について「江東村の大通りに面した一角で戦闘が行われ、遺棄死体された中国軍の戦死者が埋められている所である」と断言する。

第四十五連隊は、江東門でも三叉河(さんさが)でも城内から脱出してきた敗残兵と戦い、13日午後に下関に到達、4000~5000人ほどの捕虜をとらえた。しかし、この捕虜は全員その場で釈放し、江東門に引き返してしばらくここに駐留する。(田中正明著「南京事件」の総括」)

四十五聯隊の第二大隊は、十四日早朝、下関で白旗を掲げた捕虜約五千と、砲三〇門、重機、小銃、弾薬多数および軍馬十数頭を鹵獲した。(田中正明著「南京事件の総括」)


14日、下関で捕えた中国兵に山本隼人大尉(45連隊第6中隊長)は演説した。「君達は良く戦った。然し、もう戦いは終ったんだ。御互い仲良くせにゃいかん。蒋介石総統はよう懲せにゃいかんが、君達忠勇な将兵には怨念はないのだ。宜敷く武器を捨て鍬(くわ)をとり、新中国新平和の建設に働き給え」

「一箇所に集められたところへ、日本軍のリーダー格らしき人物が馬に乗って現れた。ヒゲが両耳からあごの下3〜4センチまで下がっていた。日本語で何か訓話したが、こまかいことはわからず、通訳によれば要点は『お前らは百姓だ。釈放する。まっすぐ家に帰れ』と言っているらしかった。(中略)数千人の捕虜たちは、釈放されると白旗をかかげ、それぞれの故郷にばらばらに出発した」(本多勝一「南京への道17」)


紅卍字会の埋葬記録には該当なし。なぜならば、近い距離(=2km)にあるNo.11の上新河の碑文に上新河、新河鎮、江東門の埋葬数が全て列挙されているから。




7、侵华日军南京大屠杀金陵大学难民收容所及遇难同胞纪念碑

概要:12月26日、「登録」を口実として金陵大学にいた三万余名の難民の中から二千余人を殺害。


「良民証」発行時の敗残兵摘出と思われるが、26日の話なら次の話と照らし合わせると処刑されていないはず。

「安全区内に遁入した敗残兵は12月14日と16日の2回にわたって摘出し処断した。本格的に便衣兵の摘出をはじめた24日以降は憲兵が治安維持会の中国人立ち会いにて行い、約2千人を摘出したが、これらはすべて外交部に送られ捕虜の待遇とした」(佐々木到一少将回顧録からの要約)





8、侵华日军南京大屠杀煤炭港遇难同胞纪念碑

概要:12月17日、煤炭港で武装解除兵と市民の三千余人を殺害。


本件の煤炭港虐殺については捏造と断定。

ただ、それとは別に、紅卍字会の埋葬記録には2,325。次の記事で試算した下関包囲戦の一環だと思われる。

《南京事件》犠牲者数の一覧と論拠
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/d970ae18fbcd6ea40e68a22a5d24d01a




9、侵华日军南京大屠杀遇难同胞普德寺丛葬地纪念碑

概要:いわゆる万人坑。紅卍字会が、9,721体を埋葬。


普德寺は、激戦のあったNo.5雨花台の一角にある。
紅卍字会埋葬記録から「普德寺」関連を合計するとぴったり9,721。それだけでなく、碑文にこの紅卍字会の埋葬明細がそっくり記載されている。

なお、次の記事で試算したが、雨花台の戦闘での犠牲者数(No.5花神庙地区+No.9普德寺)は、実数2,209人。

《南京事件》犠牲者数の一覧と論拠
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/d970ae18fbcd6ea40e68a22a5d24d01a




10、侵华日军南京大屠杀死难同胞清凉山丛葬地

概要:南京大虐殺の数千?の同胞を埋葬。


紅卍字会埋葬記録では清涼山埋葬数は178。




11、侵华日军南京大屠杀上新河遇难同胞纪念碑

概要:上新河一带で難民18,730人が殺害された。


これは新河鎮での激戦

紅卍字会の埋葬記録としては、8,459。一部に“水葬”と思われる数字が含まれているから、これを除くと埋葬実数3,899。
そして、新河鎮から揚子江に逃げた敵のうち約7千が江上戦死してるはずと独立山砲兵第二聯隊・高橋義彦中尉が言っているので、これを加えるとこの戦場での犠牲者数は約1万1千人。

詳細は次の記事。

《南京事件》犠牲者数の一覧と論拠
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/d970ae18fbcd6ea40e68a22a5d24d01a

なお、紅卍字会の埋葬記録から見ると、ここと距離的に近い(=2km)No.6の江東門は重複している。


(追記)奇妙なことに気づいた。

12月13日いわゆる陥落日に、南京城から脱出して南下する中国軍部隊と、これらを包囲殲滅すべく北上する日本軍第6師団45連隊が揚子江岸の上新河付近で遭遇戦を展開した。この戦闘終了後に中国側の戦死者を谷寿夫第6師団長が調査を命じたところ、遺棄死体数が2,377人。これに相当する国民政府・南京地方法院の報告書「敵人罪行調査報告」によれば、犠牲者数2,873人。これが中国共産党傘下の政治協商会議・南京市委員会の報告では28,730人と10倍に増えている。

その上新河の“纪念碑”には、「群集上新河一带之难民,共一万八千七百三十余人,悉遭日军杀害于此处。」と刻字され、またその埋葬数一覧(紅卍字会埋葬記録の一部)を合計すると8,451。

整理する。

2,377(第6師団)
2,873(国民政府・南京地方法院)
28,730(中国共産党/政治協商会議・南京市委員会=前項の10倍)

18,730(上新河の“纪念碑”に記された犠牲者の合計)
8,451(上新河の“纪念碑”に記された埋葬数の合計=紅卍字会の埋葬記録の書き写し)


本来、中国共産党としては上新河一体の犠牲者数としては、28,730と刻字せねばならなかったのではないか。もしかすると、足りないように見える「1万」は近くのNo.6江東門の「一万余人」に“分配”されたかもしれない。すなわち、次の式のようになり、中国共産党/政治協商会議・南京市委員会の数字にまた戻る。つまり、国民政府の記録を10倍した数字を小細工しながら押し通している。

No.11上新河18,730+No.6江東門10,000=28,730





12、侵华日军南京大屠杀太平门遇难同胞纪念碑

概要:12月13日、「第十六师团三十三联队六中队等」の日本軍が、太平門付近において、武器を捨てた兵士と市民の1,300余人を、有刺鉄線で囲み、地雷を炸裂させ、機関銃で撃ち、ガソリンで燃やし、殺害。


いわゆる太平門虐殺だが、太平門では陥落時の混乱で自爆および日本軍との戦闘があり、全ての遺体が戦死で説明がつくため、虐殺の事実はないと断定する。
紅卍字会の埋葬記録では、太平門外城壁下に500。第33連隊戦闘詳報では、404。




13、侵华日军南京大屠杀遇难同胞五台山丛葬地纪念碑

概要:五台山に犠牲者の同胞254を埋葬。


紅卍字会埋葬記録では五台山埋葬数は39。




14、下关发电厂死难工人纪念碑

概要:1957年に建立された最初の記念碑。


特にコメントなし。




15、侵华日军南京大屠杀仙鹤门遇难同胞纪念碑

概要:12月13日、仙鶴門一帯で日本軍が兵士と市民の15,000余人を捕獲し、18日、非武装の市民4,000人以上を分離し?、殺害。


これは「堯化門の捕虜」のことのようだが、関連しそうな証言は次の通り。

「13日〇〇二〇頃、態勢を立て直した敵は数縦隊となり、月明の本道沿いに第二小隊の面前に殺到した。第二小隊の十数名は銃撃あるいは手榴弾を投げ合い、白兵をもってこれに突入し、数度にわたる敵の攻撃を撃退した。敵は約三千余の屍体を残して退却した」(騎兵第三聯隊本部書記・加藤正吉)仙鶴門鎮での戦闘。

「俘虜7200名は、第10中隊堯化門付近を守備すべき命をうけ同地にありしが14日午前8時30分頃数千名の敵、白旗を掲げて前進し来り午後1時武装を解除し南京に護送せし者を示す 」(第16師団歩兵38連隊戦闘詳報)


また、この「堯化門の捕虜」については、捕虜説と処刑説があるようだが処刑説の証拠があるようには見えない。




16、侵华日军南京大屠杀燕子矶江滩遇难同胞纪念碑

概要:三万余人の武装解除兵と二万余人の市民が北側の湿地帯に渡河脱出しようとしたところ、日本船がこれを阻止し、機銃掃射で五万余人がことごとく殺害された。


これは次の証言や記録にある戦闘だと思われる。12月13日に海軍の砲艦等がタイミングよく到着して江上で砲撃している。また、陸軍も江上の敵を攻撃している。話を総合すると3千くらいではないか。

「両岸からの中国兵の猛攻撃は続いていました。この頃から、ジャンクや筏に乗った中国兵が流れて来て、どんどん増えてきました。勢多には二十五ミリ機関銃が四門ありましたので、これを撃ちながら進みました」(砲艦「勢多」艦長・寺崎隆治少佐)12月13日午前10時過ぎの様子。

「下関桟橋に近づきますと多くの兵が手を振っているので、双眼鏡で見ますと中国兵なのです。中国兵は日本の軍艦がこんなに早く来るとは思わず、中国の軍艦だと思って手を振ったのだと思います。そこでまた二十五ミリ機関銃で掃射して近づきました」(砲艦「勢多」艦長・寺崎隆治少佐)12月13日。

「(12月13日午前中)『第三十三連隊は速やかに下関に進出し、敵の退路を遮断すべし』との師団命令を受領した。この命令に基づき、連隊は午後2時30分、その先頭を持って下関に到達し、連隊本部は獅子山砲台北側の城外濠の路上に達した。この時、中国兵の揚子江上を浮遊物に取りすがって逃走中の姿が望見されたので、連隊命令をもって重火器の火力を集中して、一時間余。私も江岸に行ってこの状況を見た。この頃、海軍の揚子江艦隊が遡航してきて、艦砲をもって射撃を始めたので、連隊は海軍艦艇に危害を与えることを考え、射撃を中止した。この江上を逃走した敵中に一般住民の混入など、とても考えられない。その数は千〜二千ぐらいであったろうか」(第三十三連隊本部通信班長・平井秋雄氏/証言による『南京戦史』9)

「午後二時三十分前衛の先頭下関に達し前面の敵情を搜索せし結果揚子江には無数の敗残兵舟筏其他有ゆる浮物を利用し江を覆って流下しつつあるを発見す即ち連隊は前衛および速射砲を江岸に展開し江上の敵を猛射する事二時間殲滅せし敵二千を下らざるものと判断す」(第33連隊戦闘詳報)

「最後まで南京を守りし支那兵は、その数約十万にして、その中約八万人は剿滅せられ、江を渡り浦口に逃げのびたる者約二万人あり。 下関に追ひつめられ、武器を捨てて身一つとなり、筏に乗って逃げんとする敵を、第十一艦隊の砲艦により撃滅したるもの約一万に達せりと云ふ」(第三艦隊司令部・泰山弘道)





17、侵华日军南京大屠杀遇难同胞挹江门丛葬地纪念碑

概要:挹江門付近に犠牲者5,100以上の遺体を埋葬。


紅卍字会埋葬記録では挹江門付近への埋葬は見当たらない。


(追記)

だが、以下の証言に出てくる日本軍工兵による「附近の死体とりかたずけ」として挹江門付近への埋葬があったのかもしれない。挹江門での犠牲者数は約1千とされる。

「散兵・潰兵の退却阻止の命令を受けていた宋希濂麾下の第三六師二一二団は、撤退命令を出された後も、挹江門付近の道路に鉄条網のバリケードを築き、路上には機関銃をそなえて、挹江門からの撤退を拒み続けた。このため、夜になるとパニック状態になり、挹江門から脱出しようとする部隊と、これを潰兵とみなして武力で阻止しようとした第三六師二一二団部隊との間で銃撃戦が繰り広げられ、挹江門内は大惨事となった」(中国軍第八七師二六一旅長・譚道平 著『南京衛戍戦』による12月12日夕刻以後の情景) 

「われわれの部隊は、揚子江を遡航し、十二月十五日、六日頃南京に上陸、挹江門の正面大門と左脇門の閉鎖解除と、附近の死体とりかたずけを命ぜられました。工兵二個小隊とトラック二台で、約七日間を要してすべてのかたずけが終わりました」「当時の状況から判断すると、若干の市民を含む多数の支那軍人が、内側から城壁に駆け上り、布紐を伝わって逃げたのですが、大勢の人間が我先にとひしめき、後より押されるまま“人間なだれ”となって城壁の下にドット崩れ落ち、多数の死者を出したものと思われます。死体を調べてみましたが婦女、子供は一人もいませんでした」(赤羽第一師団工兵隊・酒井松吉中尉)





18、鱼雷营遇难同胞纪念碑

概要:12月15日の夜、魚雷営で武装解除された兵士9,000余人を集団射殺。さらに同月、宝塔橋一帯で軍民三万人以上を殺害。


前半は、いわゆる幕府山事件の一部であろう。日時からすると、1万4千余を捕虜としたが非戦闘員を釈放し約八千余を収容し、その夜に発生した火事での出来事を指していると思われる。収容した敗残兵の半数はこの夜の火事の混乱で逃亡したとされる。この纪念碑の扱いだと、その八千余を全員殺害したということだろうか。そうだとすると、残りを17日の夜に対岸に移送しようとして云々という幕府山事件の本体が消えてしまう。

なお、紅卍字会の埋葬記録から、幕府山事件の火事での騒動に該当する「下関魚雷軍営脇」を拾うと、524。

後半の宝塔橋一帯とは、No.8の煤炭港虐殺(12月17日)とダブルブッキングと思われる。しかも、10倍化してる。万が一そんな事実があったら、その地区の難民収容所の主任をしていた紅卍字会の陳漢森が何か言っているはずだし、安全地帯の記録にも残るはず。だが、そんな記録はない。




19、侵华日军南京大屠杀正觉寺遇难同胞纪念碑

概要:12月13日、正覚寺などで僧侶17人を殺害。


わからない。




20、侵华日军南京大屠杀中山码头遇难同胞纪念碑

概要:12月16日夕方、安全区の避難民の中から兵士の嫌疑をかけた五千余人を射殺して河に投棄。さらに18日、四千余名の青年を捕獲して射殺。


敗残兵摘出だが、第7連隊が12月14〜16日にかけて安全区から摘出して処刑したのは6,670人。
その次になると「第三十八聯隊が『良民証』付与の過程で12月24日より翌年1月5日までに二千人を捕捉」のはず。そして、前述したように、この二千は「すべて外交部に送られ捕虜の待遇とした」(佐々木到一少将回顧録)となっている。




21、西岗头遇难同胞纪念碑

概要:1938年8月、江宁区西岗头村で、村の22人が殺されようとして、うち1名だけ生き延びた?


地図で調べると、南京市 江寧区 西崗頭 と思われる。中華門の南約20kmの位置。時期と場所からして南京戦とは無関係。




22、湖山村“以史为鉴”碑(本条信息来源于网络)

概要:1937年12月6日、湖山村に日本軍が侵入し、不完全な統計によると64人が死亡し、200以上の家屋が焼かれた。


この湖山村の虐殺については、検証の結果、日本軍によるものではないと判断する。


《要点》

・碑に記された事件日は1937年12月6日。
・村民64人が死亡し、200以上の家屋が焼かれた、とのこと。
・戦闘詳報で確認すると、6日の日没時点では日本軍は湖山村に進入していない。
・夜間は火を使えば敵の標的にされるので火気厳禁。
・撤退する中国兵が集落から略奪し、放火し、防ごうとした住民を惨殺する報告多し。
・となれば、誰の犯行であるかは自ずと明らか。







《各「纪念碑」の碑文》


1、侵华日军南京大屠杀北极阁附近遇难同胞纪念碑

一九三七年十二月,侵华日军屠杀我南京同胞达三十万众。仅此北极阁毗近处,惨遭杀害者即达两千余人。其时,鼓楼至大石桥,北门桥至唱经楼,太平门,富贵山及蓝家庄等地,伏尸残骸,盈街塞道,涂膏凝血,触目生哀。翌年一、二月间,罹难同胞之遗骸经南京崇善堂收殓,丛葬于此山之麓及近山之城根等处。爰立此碑,永志不忘,藉勉后人,奋发图强,振兴中华,国运其昌。


2、侵华日军南京大屠杀草鞋峡遇难同胞纪念碑

一九三七年十二月十三日,侵华日军攻占南京后,我逃聚在下关沿江待渡之大批难民和已解除武装之士兵,共五万七千余人,遭日军捕获后,悉被集中囚禁于幕府山下之四五所村。因连日惨遭凌虐,冻饿致死一批;继于十八日夜悉被捆绑,押解至草鞋峡,用机枪集体射杀。少数伤而未死者,复用刺刀戳毙;后又纵火焚尸,残骸悉弃江中。悲夫其时,屠刀所向,血染山河;死者何辜遭此荼毒?追念及此,岂不痛哉?!爰立此碑,谨志其哀。藉勉奋发图强,兼资借鉴千古。


3、侵华日军南京大屠杀遇难同胞东郊丛葬地纪念碑

一九三七年十二月,侵华日军疯狂实施南京大屠杀。我东郊一带,惨遭杀害之无辜同胞,尸蔽丘陇,骨暴荒原,因久无人收,而至腐烂腥臭。迨至翌年四月,始由崇善堂等慈善团体从事收殓。计于中山门外至马群镇一带收尸三万三千余具,就地掩埋于荒丘或田野。越数月,察及于丘壑丛莽间尚遗其余,故时或恶气四溢。一九三八年十二月,复经伪市政督办责成其卫生局,又于马群、茆山、马鞍、灵谷寺等处,收集死难者遗骨和残骸三千余具,丛葬于灵谷寺之东。嗣于一九三九年一月,立“无主孤魂墓碑”为志,考其碑文拓片犹在,惜乎原碑已湮没无存。爰特重立此碑,以示悼念,且告方来。


4、侵华日军南京大屠杀汉中门外遇难同胞纪念碑

一九三七年十二月十五日下午,避难于国际安全区之本市平民和已解除武装之军警共二千余人,遭日军搜捕后,被押赴汉中门外用机枪扫射杀害,其伤而未死者或乱刀补戳,或纵火活焚,尸骸蔽野,惨绝人寰。至次年二月十一日、十八日两天始由慈善团体南京红卍字会收殓得遗骸共一千三百九十五具,掩埋于汉中门外广东公墓及二道埂子一带。悲夫!今人孰料于此熙来攘往之地曾是往昔日军肆虐之场而有众多同胞罹难于此者乎!爰立此碑以志其事,庶我国人牢记惨史,毋忘国难,居安思危,奋发图强,同心同德,振兴中华。


5、侵华日军南京大屠杀遇难同胞花神庙地区丛葬地纪念碑

1937年12月13日南京沦陷后,侵华日军即进行血腥大屠杀,尸横遍地,惨不忍睹。南京红卍字会和崇善堂两慈善团体自1937年12月22日至1938年4月18日止,在中华门外雨花台、望江矶、花神庙一带共掩埋遇难同胞尸体27239具。南京市民芮芳缘、张鸿儒、杨广才等组织难民30余人,于1938年1至2月的40余日内,在花神庙一带掩埋中国军民尸体7000余具,其中难民尸体5000余具,军人尸体2000余具。特立此碑,悼念遇难同胞,永志不忘历史,振兴中华。


6、侵华日军南京大屠杀死难同胞江东门丛葬地纪念碑

一九三七年十二月十六日,日军将已被解除武装之中国士兵和平民万余人,囚禁于原陆军监狱院内,傍晚押至江东门,藉放火焚烧民房照明,骤以轻重机枪向人群猛烈扫射,受害者众声哀号,相继倒卧于血泊之中。遗尸枕藉,盈衡塞道,直至蔽满江东河面,且抛露风日之下,久无人收,情至惨烈。迨逾数月,囡天暖尸腐,始由南京慈善团体收尸万余具,掩埋于就近之两大土坑内,故称“万人坑”。爰立此碑。藉志其哀;悼念死者,兼勉后人,热爱祖国,奋发图强,反对侵略战争,维护世界和平。


7、侵华日军南京大屠杀金陵大学难民收容所及遇难同胞纪念碑

一九三七年十二月,日军侵占南京时,留在南京的外侨带报,为了收容我未及撤离的大批难民,以原金陵大学等处为中心,在城内设立了“国际安全区”占地约三点八六平方公里,内设二十五个难民收容所,收容难民约二十五万人,其中原金陵大学校园本身就是较大的难民收容所之一,收容难民多达三万余人。
原金陵大学附近,也就侵华日军对我遇难同胞实施集体屠杀的场所之一。一九三七年十二月二十六日,日军以辩理难民“登记”为由,将避难于原金陵大学图书馆内之两千余名难民,迫令集中在网球场上(现该地已建为地质实验楼),从中搜捕了三百余名青壮年,驱至五台山及汉中门外悉加杀害。
原金陵大学校园范围内,也是我遇难同胞尸骨丛葬地之一。据当时慈善团体红卍字会埋尸资料记载:一九三八年一、二月间,该会曾先后在城北各处收殓,于金银街原金陵大学农场及阴阳营南秀村埋葬遇难者尸体达七百七十四具。五十年代,南京大学在南秀村建设天文台时,还曾掘出过这批尸骨。
前事不忘,后事之师。今立此碑,永志哀痛,藉慰死者,兼勉后人:自强不息,振兴中华。


8、侵华日军南京大屠杀煤炭港遇难同胞纪念碑

煤炭港系侵华日军南京大屠杀主要遗址之一,一九三七年十二月十七日,日军从各处搜捕我已解除武装之士兵及平民三千余人,拘禁于煤炭港下游江边,以机枪射杀;其伤而未死者,悉被押入附近茅屋,纵火活焚致死,内有首都电厂职工四十五人,即死于此难。
兹值中国人民抗日战争胜利四十周年,特立此碑,悼念死者,永诫后人,铭念历史,振兴中华。


9、侵华日军南京大屠杀遇难同胞普德寺丛葬地纪念碑

一九三七年十二月侵华日军南京大屠杀惨案,震惊寰宇,血沃钟山,水赤秦淮。我无辜同胞不幸遇难者逾三十万人。普德寺系我遇难同胞尸骨丛葬地之一,经南京红卍字会先后埋葬于此者共达九千七百二十一具,故亦称“万人坑”。附录其年月及埋尸记载
如下:
一九三七年十二月二十二日葬二百八十具
     十二月二十八日葬六千四百六十八具
一九三八年一月三十日葬四百八十六具
     二月二十三日葬一百零九具
     三月二十五日葬七百九十九具
     四月十四日葬一千一百七十七具
     五月二十六日葬二百一十六具
     六月三十日葬二十六具
     七月三十一日葬三十五具
     八月三十一日葬十八具
     九月三十日葬四十八具
     十月三十日葬六十二具
兹值中国人民抗日战争胜利四十周年,特此刻石纪念,旨在告慰死者于地下,永励后生于来兹:不忘惨痛历史,立志振兴中华。


10、侵华日军南京大屠杀死难同胞清凉山丛葬地

1937年12月,侵华日军制造了震撼中外的南京大屠杀事件,我数以千计的无辜同胞在本院境内,即清凉山附近之原吴家港、韩家桥等地遇难。为纪念死者,激励后人,振兴中华,维护和平特立此碑。


11、侵华日军南京大屠杀上新河遇难同胞纪念碑

一九三七年十二月,侵华日军攻占南京后,我大批解除无章之士兵和群集上新河一带之难民,共一万八千七百三十余人,悉遭日军杀害于此处。日军屠杀手段极其残酷,或缚之以溺水,或积薪而活焚,枪击、刀劈,无所不用其极,对妇女乃至女童,均先强奸而后杀害,惨绝人寰,世所罕见,至使尸积如山,血流成河。劫后,湖南木商盛世征,昌开运雨先生目睹惨状,于心不忍,曾由私人捐款收埋一批遗尸,嗣于一九三八年一月至五月,又经南京红卍字会在上新河一带收埋死难者遗尸计十四批,共八千四百二十九具,分记录
如下:
一月十日葬于黑桥九百九十八具
二月八日葬于太阳宫四百五十七具
二月九日葬于二道梗八百五十具
二月九日葬于江东桥一千八百五十具
二月九日葬于棉花堤一千八百六十具
二月十四日葬于军人监狱附近近三百二十人
二月十五日葬于观音庵空场八十一具
二月十六日葬于凤凰街空场二百四十四具
二月十八日葬于北河口空场三百八十具
二月二十一日葬于五福村二百一十七具
三月十五日葬于甘露寺空场八十三具
三月二十三日葬于甘露寺空场三百五十四具
四月十六日葬于贾家桑园空地七百具
五月二十日葬于黑桥五十七具
前事不忘,后事之师,爰本此旨,特立此碑,藉慰死者,兼勉后人,爱我中华,强我祖国,反对侵略,维护和平。


12、侵华日军南京大屠杀太平门遇难同胞纪念碑

1937年12月13日,第十六师团三十三联队六中队等侵华日军部队在南京太平门附近,将约1300名放下武器的中国官兵及无辜的市民集中起来,周围用铁丝网围住,用事先埋好的地雷炸、机枪扫射,再浇上汽油焚烧,次日,日军复对尸体检查,对濒死者用刺刀补戳致死,太平门集体屠杀中无一中国人幸存。
值此南京大屠杀事件发生70周年之际,为悼念在太平门附近无辜的中国遇难者,侵华日军南京大屠杀遇难同胞纪念馆、旅日华侨中日友好交流促进会、日本纪念南京大屠杀遇难者60周年全国联络会、日本“铭心会南京”访华团联合在此建碑,祭祀遇难者魂灵,铭记历史教训,并告知中日两国青少年,绝不让历史悲剧重演。


13、侵华日军南京大屠杀遇难同胞五台山丛葬地纪念碑

在侵华日军南京大屠杀血腥事件中,五台山一带是我受害同胞尸骨丛葬地之一。据崇善堂、红卍字会等慈善团体埋尸记录记载,于一九三七年十二月至一九三八年二月,曾在此先后四批埋葬。我被害同胞尸骨二百五十四具。特立此碑,以志悼念。碑头题字“纪念碑”三字由当年被害的幸存者王如贵书。


14、下关发电厂死难工人纪念碑

该碑为一九五七年初建,是南京市内第一块遇难同胞纪念碑。但在寻访的过程中,我们并未能进入发电厂内,询问厂内职工,回答也此碑,我们怀疑或许是该厂职工不知情,或许是发电厂进行建设时误毁。


15、侵华日军南京大屠杀仙鹤门遇难同胞纪念碑

1937年12月13日,侵华日军攻占南京东郊马群,仙鹤门一带,俘获我抗战官兵及民众15000余人。同年12月18日,日军分散多处将4000多名手无寸铁的平民和俘获集体屠杀。翌年春,仙鹤村附近尚有大批尸体横躺在村外麦地里。据当地居民谭庆瑞、和允兴、仇兴中、和允州、盛文金等共同回忆,1938年春,村民们曾自发将遇难同胞的尸骨,分别就近掩埋于一座“大坟”内。此座“大坟”内掩埋尸体约七百具。特立此碑,以志纪念。


16、侵华日军南京大屠杀燕子矶江滩遇难同胞纪念碑

一九三七年十二月侵华日军陷城之初南京难民如潮相率出逃,内有三万余解除武装之士兵暨两万多平民避聚于燕子矶江滩求渡北逃。讵遭日舰封锁阻旋受大队日军包围,继之以机枪横扫,悉被杀害,总数达五万余人。悲夫其时,横尸荒滩,血染江流,罹难之众情状之惨乃世所罕见。追念及此岂不痛哉!爰立此碑,永志不忘,庶使昔之死者藉慰九泉,后之生者汲鉴既往,奋志图强,振兴中华,维护世界之和平。


17、侵华日军南京大屠杀遇难同胞挹江门丛葬地纪念碑

挹江门附近是侵华日军南京大屠杀中我遇难同胞尸骨丛葬地之一。从一九三七年十二月至一九三八年五月,南京崇善堂红卍字会等慈善团体先后六批,共收死难者遗骸五千一百多具,埋葬于挹江门东城根及其附近之姜家园石榴园等地,特立此碑,以志其事,兼励后人牢记历史,振兴中华。


18、鱼雷营遇难同胞纪念碑

一九三七年十二月十五日夜,侵华日军将被其搜捕之我市平民和已解除武装之守城官兵九千余人,押至鱼雷营,以机枪集体射杀。同月,日军又在鱼雷营、宝塔桥一带再次杀害我军民三万余人。死难者之遗骸,直至次年二月,犹曝露于军营码头等地,惨不可睹。后由红卍字会就地掩埋,仅二月十九日、二十一日、二十二日三天,埋尸即达五千余具。惨史难忘,忆往志慨,特立此碑,正告方来。


19、侵华日军南京大屠杀正觉寺遇难同胞纪念碑

一九三七年十二月十三日,侵华日军在武定门正觉寺,将该寺僧人慧兆、德才、宽宏、德清、道禅、刘和尚、张五、源谅、黄布堂、晓侣、慧璜、慧光、源悟、能空、倡修、广祥广善等十七人集体枪杀;与此同时,日军还在中华门外将尼姑真行、灯高、灯光等杀害。兹值侵华日军南京大屠杀事件五十周年,特立此碑,悼念死者,永诫后人,铭念历史,振兴中华。


20、侵华日军南京大屠杀中山码头遇难同胞纪念碑

中山码头乃侵华日军南京大屠杀遗址之一,当时避居国际安全区之青壮难民,在此惨遭杀害者,共达万人以上。其中,一九三七年十二月十六日傍晚,日军从避居于原华侨招待所之难民中,捕获所谓有“当兵”嫌疑者五千余人,押解于此,用机枪集体射杀后,弃尸江中。十二月十八日,日军又从避居于大方巷之难民中,搜捕青年四千余名押解至此,复用机枪射杀。在此先后,日军还于毗近之南通路北麦地和九甲圩江边,枪杀我难民八百余人。悲夫其时,码头顿成鬼域,同胞罹难枉死,其情惨矣!呜呼,政闇国弱,何可安全?欲免外侮,惟赖自强。今虽时殊势异,仍当“前事不忘”。爰立此碑,勖勉后人,牢记历史,振兴中华。


21、西岗头遇难同胞纪念碑

一九三八年八月(农历正月初九),本村被日军集体枪杀的二十二人中,仅有陈万有一人死里逃生。死亡二十一人:李小三、李永华、李克俭、金怀生、赵小三、周正根、陈广林、陈广泉、陈万松、陈万夏、陈万宽、陈朝良、莫庆文、莫庆武、裔建昌、裔景华、裔景富、曹友恒、董(?)老大、外地二人。另外,还有被日军枪杀及迫害致死的十六人:李克本、李连才、刘贤春、吴宝才、陈治富、陈广寿、刘方氏、裔景妹、陈朱氏及女儿。
当时全村仅有四十二户,遇难者除外地二人外,本村共计三十五人,被烧房屋九十一间又二十六间厢房,损失粮食、衣、被、禽、畜等不计其数,损失惨重。为了教育子孙后代、勿忘国耻、牢记悲惨的历史教训、弘扬爱国主义、团结奋斗、振兴中华,值此抗日战争胜利六十周年之际,本村全体村民,自发捐款,建立此碑,以慰亡灵。


22、湖山村“以史为鉴”碑(本条信息来源于网络)

民国二十六年冬日初四(一九三七年十二月六日),日军侵入湖山,村民流离失所,生灵涂炭,家破人亡,痛不欲生。据不完全统计,先后有六十四人遇难,(大多死于南京沦陷前后),十五家绝户,二百多间房屋被焚。
中国军队曾在棒槌山,岘山等地抗击入侵,许多官兵阵亡,沦陷后,新四军在此依靠人民,坚持敌后抗战,直到胜利。
前事不忘,后事之师,为纪念遇难和阵亡的同胞,坛强爱国情怀,立志振兴中华,呼吁制止侵略战争,保卫世界和平特立此碑。




(以上)






改版履歴:
2017.03.02 No.22湖山村の場所特定を誤っていたので訂正。
2017.03.06 No.12太平門虐殺については検証をさらに深め、別記事に独立。
2017.03.08 各項目に紅卍字会の埋葬記録の数字を加筆、「纪念碑」の一覧表追加。
2017.03.09 「纪念碑」の一覧表修正。表に誤りがあったので再修正。
2017.08.04 No.11上新河“纪念碑”の数字操作の痕跡らしきものについて追記。
2017.08.07 No.17挹江門での埋葬の可能性として、日本軍工兵の作業について追記。
2017.08.21 紅卍字会の数値解釈変更に伴う修正。
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《南京事件》残虐な中国兵

2015年07月21日 | 南京大虐殺
最終更新:2017.02.25



“南京大虐殺”では日本兵の暴虐だけが話題になりやすいが、中国兵の残虐さについて語った資料も多い。
従って、市民犠牲者の一部は退却する中国兵の蛮行によるものと言える。



《A級極東国際軍事裁判記録》

A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.84)(国立公文書館デジタルアーカイブ)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?BID=F0000000000000340150

情報部長談話 1937年12月1日

12月10日付ジャパン・アドバタイザー紙掲載の二つの記事は期せずして、人類にとって貴重である物に対して、日支両軍が採ったものであってよい対照を成す態度を甚だ鮮明に表している。その一つの記事はニューヨーク・タイムズ南京特派員の報道であって、中国軍自身でこの中国の首都を徹底的に破壊した事を記述している。

それは該特派員が戦闘区域を数日間視察した、中立国観戦武官から聞いて書いたものであるが、中国兵は、南京の周囲の都市村落を破壊し、彼らの祖先が又彼ら自身汗を流して働いて、蓄積した幾十億元の象徴たる文化施設を破壊したばかりでなく、自国人の蛮行にとまどっている無辜の住民を仮借なく殺戮しているのである。

(中略)

然し中国軍が攻囲軍の猛襲に頑強ではあるが、無益の抵抗を試みるためにすでに自国兵に住むよき家及び資材を奪われたその地域の幾万無辜の民が、冬の厳寒が近づいている時、自然のままに放置されねばらなぬとは憐れなことである。であるから、日本軍はかかる強情我慢の中国軍を徹底的に膺懲せねば(=懲らしめねば)なるまい。





(コントラスト調整済み)




《1937年12月10日付朝日新聞》

日本に渡す“廃墟南京” 狂気支那の焦土政策 数十億の富抹殺

(ニューヨーク特電8日発)ニューヨーク・タイムズ紙南京特派員は、まさに陥落せんとする南京にある専門家の視察を8日次の如く報道している。すなはち南京に踏み止まっている外国軍事専門家は最近4,5日間にわたって城外並びに近郊の支那軍の防備状態を視察したが、その暴状には度膽をぬかれている形である。すなはち支那軍は何等の軍事的目的もなく、ただやたらにありとあらゆる事物をぶち壊し焼き払っているのであって、専門的見地からすれば全く無意味な了解に苦しむもので、これは支那軍を毫も益せぬ(=わずかな利益もない)と同時に日本軍に対しても大した痛痒を与えぬとみるのが至当である。

ただ建物が一軒もないので日本軍はこれを宿営に当てることが出来ず、テントを使用せねばならないという不利があるのみだ。それならば何故こういう無謀が敢えて行われつつあるのか。残された唯一の説明は、支那軍がこの破壊行為によって僅かにその鬱憤を洩らしているという恐るべき事実である。すなはち支那軍の上下を通じて存在する『日本軍にはかなわぬ』という劣勢意識は、彼らを駆って狂気の如き残忍行為をなさしめ、その犠牲は単に町や村落のみに止まらず市にさえも及んでいる。

その昔成吉思汗の大軍がかっては栄華を誇った数々の大都市を一変して焦土と化せしめて以来、現在揚子江下流沿岸地方において行われつつあるが如き、組織的な破壊が支那軍自身の手によって行われたことは未だないのである。日本軍の空襲砲撃の与えた損害は殆ど軍事施設に限られており、これを全部合わせてもなお支那軍自身の手によってなされた破壊の十分の一にも足らぬであろう。

これは中立国の一軍事専門家が余(ニューヨーク・タイムズ特派員)に語ったところで同氏は更に語をつぎ、支那軍が今やっていることから推して自分は次のような結論に達せざるを得ない。即ちシナは今後百年或いはそれ以上その土地の支配権の回復を全然予期していないもののようだ。それだから彼らは仇敵の所有に帰すべきこの土地を思う存分荒廃せしめているのである。今支那の取りつつある焦土政策は敵に対する最善の挙とは決して考えられぬ。なんとなればその敵は確かに一時的には侵入者であることに違いはないが、決してこの土地を植民地にして了おうとは考えていないのだから。

支那軍によって破壊されたところのものは、彼らの祖先が額に汗して孜々勉励刻苦何代かにわたって蓄積したものなのである。狂気沙汰としか思われないこの都市村落の焼き払いを主張する人々はかくすることによって現在までに蓄積された数十億の富が根こそぎに抹殺され、若し破壊されなかったならば近い将来支那政府がこの地方から租税を取り立てることが出来て戦後国力回復のための財源を求め得るものであるということを考えようともしない。この地味豊饒でしかも世界で最も人口稠密な地方は、国家財政に取り有力なる財源供給地であるが、今や猛火の下に消え失せつつある。この地方の復興のためには巨額の経費を必要とするであろう。

現在の支那軍の行為を納得させる唯一の説明とも言うべきものは、例の古来の東洋思想たる『面子を救う』ということを持ち出すことであろう。すなはち支那軍は退却にあたり不毛の原野や残煙立ち昇る廃墟をあとにのこしてこれを日本軍に占領させた方が、ただ虚しく退却するよりは彼らの威信を高めるものだと信じているのだ。この考えは戦闘地域に住む数百万の支那住民の福祉を全然無視するものだ。今や日本軍の進撃を前に奥地に殺到する避難民は数百万に達しているが、支那政府が彼らを救済しようとしても何事もなし得ぬ今日、彼らは如何にこの冬の衣食住を得んとするか、これは想像に余りあるものがあろう。


以上の文面は次のブログからお借りしました。

南京事件について(その4)(軍事評論家=佐藤守のブログ日記)
http://d.hatena.ne.jp/satoumamoru/20050712/1121108634






《第二十聯隊大隊長代理・森王琢氏の証言》


支那軍の実態について申しますと、まず第一に、兵隊の素質が非常に悪い。日本の兵隊と全く異なる点ですが、支那には昔から「良民不当兵」(良民は兵士にならない)という諺(ことわざ)があります。

日本軍が虐殺したと言いますが、まず虐殺をやったのは支那兵なのです。その実例を申しますと、私が上海付近に上陸後、ほとんど連日が戦闘、引き続き追撃と敵と戦いながら南京に迫って行きました。従って、私の前には日本軍はおらないという状態で戦闘を続けておりました。ところが私がある部落、ある町を占領するというと、そこが既に破壊されており略奪されており、焼き払われているのはおろか、甚だしきは住民が惨殺さえされているのです。何故そういうことが起こるかというと、逃げる支那兵が略奪を働き、それを防ごうとした住民が支那兵に殺されておるのです。支那兵は退却する時に「清野空室」と言って、焼き払い、略奪しつくして、追撃する敵軍に利用させまいとする、そんな残虐なことを平気でやっておるのです。

(中略)

また、南京陥落の前、十二月六日には南京城門は全部内側から閉鎖され、城外陣地の守備兵は後退の道を断たれ、城外の部落に於いて略奪暴行を行っております。このように、敗走する支那兵が自国の戦友や住民に暴虐を働いた例を見ても、その素質は劣悪でありその性質は残虐である事は明白であります。

次に、高級指揮官がさっさと逃げておる事です。蒋介石は宋美齢を伴い、十二月七日飛行機で漢口に脱出し、それに軍政部長の何応欽、総参謀長の白崇禧等も同行しています。南京の守備総司令官であった唐生智は、十二月十二日に部下を放置して揚子江対岸に逃げております。こんなことですから、総兵力六万五千~七万は指揮官を失って暴徒と化したわけです。これが支那軍の実態なのです。

これに比べて、日本の軍隊はどうかというと、まず第一に国民の支援があり、兵士は郷土の名誉を担い、国家に対する忠誠心と自己の使命感を持っておりました。また当時は連戦連勝でしたから、士気は極めて旺盛であり、指揮官もしっかりと部下を掌握しておって、軍紀厳正でありました。

いかに軍紀が厳正であったかということにつきまして、自分の事で恐縮なのですが、先程申しましたように非常な激戦をして、十二月十二日夜半、連日頑強に抵抗していた敵が総退却したことを察知し、今から城内に突入しようというまさにその時に、連隊長から私の大隊はそこに止まれとの命令を受け、私も部下も、涙を飲んで止まったのです。これが軍紀だと私は思います。いかに突入したくとも、「止まれ」という上官の命令があったならば、歯を食いしばってでも、自分の部下をどんなにたしなめてでもそこに止まる、これが軍紀であります。それほど日本軍の軍紀は厳正であったのであります。


ー謹んで英霊に捧ぐー
「南京虐殺」はなかった
森王琢

より抜粋。(かな遣いのみ現代語に修正)




森王 琢 氏は、元・歩兵第二十聯隊第三大隊長代理。

同じものは次のサイトでも読める。(ただし、細部は原文と異なる)

「南京大虐殺」はなかった
http://www.history.gr.jp/nanking/moriou.html





(以上)






改版履歴:
2017.02.25 朝日新聞の記事を追記
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