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《6》南京大虐殺・南京安全地帯の記録

2015年07月19日 | 南京大虐殺




燕京大学の徐淑希教授が1939年5月頃に南京安全区国際委員会の抗議文書を集めて編纂した『南京安全地帯の記録』の概要を紹介する。

この記事は次の書籍の記述に準じる。

「南京安全地帯の記録」完訳と研究(冨沢 繁信)
http://www.amazon.co.jp/dp/4886562515





《記録の期間》

『南京安全地帯の記録』は「第1部」「第2部」に分かれている。

「第1部」は事件番号1~179であり、日本軍に提出されたことが明らかとなっている。期間としては、1937年12月14日(陥落翌日)~1938年1月7日。

「第2部」は事件番号180~444までであり、日本軍に提出されたかどうか定かではない。期間としては、1938年1月10日~2月19日。




《事件の種類》



見てわかるように、「大虐殺」と喧伝されるわりには事件数は少ない。殺人事件の犠牲者の合計は53人である。




《事件発生場所》



明らかに、第1部では安全区内が多く、第2部では安全区外が多い。

著者の指摘によれば、「第1部の事件は安全地帯を担当する日本軍が治安維持能力、行政能力がないことを証明するために集められた。(中略)これに対して、第2部では日本軍による住民の元の住居への帰還運動を阻止しようとして事件が集められた。」とのこと。

即ち、この記録は日本軍と確執を起こした国際委員会が、占領軍たる日本軍に対抗するために恣意的に収集した事件簿であり、現代日本の警察の事件統計のような性格のものではない、ということである。




《事件の信憑性》

記録には事件の詳細が明らかでない杜撰な事案も含まれている。
全517件の中から、1)文責者の無いものを除く、さらに2)被害者名の不明な人的事件、および人的以外の事件では被害場所の不明のものを除く、と97件の事件らしい事件が残る。うち、51件は窃盗掠奪である。

さらに、この中には夜間に発生した事件もあり、夜間外出禁止の日本兵の犯行かどうか疑わしい事件も含まれる。




《記録の例》

記録された事件の記述をいくつか抜粋する。
(文頭の番号は事件番号を示す)


(殺人)

(1) 十二月十五日、日本兵達によって安全地帯衛生委員会第二区の道路清掃員六名が彼らが住んでいた鼓楼の家屋内で殺され、一名は銃剣で重傷を負った。彼らは私どもの従業員であって、殺傷の理由は一切不明。兵士達はその家屋に浸入したのです。

(62) 十二月十八日、陸軍大学難民収容所の報告。十六日に二百名の男子が連行され、たった五人しか帰らなかった。十七日に二十六人の男子が連行された。十八日に三十人が連行された。掠奪されたもの、お金、カバン、一袋の米、四百枚以上の病院のシーツ。さらに男性一名(二十五歳)が殺され、老女一名突き倒されて二十分後に死亡す。

(これは敗残兵摘出の場面と思われる)


(強姦)

(4) 昨十二月十五日夜、日本兵七名が南京大学図書館に入り込み、中国人女性難民七名を捕まえて、うち三名はその場で犯された。
(注:日本軍は兵士の夜間外出を禁止していた。また、安全区に潜伏した郭岐は「日本兵は夜に外出する勇気がある者はおらず、夜に活躍するのは中国の悪者だけ」と書いている。)

(28) 十二月十六日午後四時、日本兵達が莫干路十一号の住居に侵入して、そこの一人の女を強姦した。

(89) 十八日午後、百人以上の難民が南京大学農業菜園にいた。日本兵は四人の女を連れ去り、一晩中強姦した。全員翌朝戻って来た。十九日二人の女が連れ去られた。うち一人は今朝(二十日)帰って来たが他の一人はまだ帰って来ない。

(245) 一月二十八日、張魏氏二十歳。帰宅し二人の兵士に強姦された。



(掠奪)

(7) 昨十二月十五日、公共施設にある難民収容所の全てから、日本兵達がやってきて難民達から数回にわたり掠奪をしていると報告してきた。

(13) 十二月十四日、日本兵達がアメリカ人宣教師グレイス・パウエル嬢の家に侵入、毛皮の手袋一組を奪い、食卓にあった牛乳を飲み尽くし、砂糖を手で掬って行った。

(27) 十二月十六日、日本兵達が古嶺路二十一号の衛生主任の住居に侵入し、数台のオートバイ、ゴミ箱一個、五台の自転車を持ち去った。

(279) 一月三十一日、午前、同仁街十八号で、買ったばかりの野菜を日本兵がみんな持っていった。



(放火)

(80) 十二月二十日、今朝七時頃、マッカラムは大学病院の夜警から帰宅途上、多くの女子供達が安全を求めて大学へ行くのを見た。各々違った場所から来た三家族は昨晩日本兵に焼け出されたと彼に語った。

(193) 一月十六日朝、リッグス氏は、吉祥街六十八号にいて、住民に帰宅を求めるポスターを見つけた。ちょうどその向かい側に二軒の建物があり、そこで、日本兵が、その前夜管理人を殴打し、その二軒の建物を焼いてしまった。ここは、住民が今までに帰宅するのに安全であると見なされている新しい地域である。そのポスターは、平倉巷三号に展示されている。



(傷害)
(注:殺された、死んだ、と明示されていない事例はここでは「傷害」と分類した。但し、著者の冨沢繁信氏は事件番号19を「殺人」に分類している。)

(19) 或る男が十二月十五日、大学病院にやってきた。彼は六十歳の叔父を安全地帯に連れてきたが、兵士は叔父を銃で撃ち、彼自身にも傷を負わせた。

(71) 十二月十九日五時頃、一人の青年が我々の本部に母に連れられて来た。彼は一人の日本兵に明らかな理由もなしに胸を刺された。フィッチ氏とスマイス氏は彼を第十六件から第七〇件の事例を日本大使館へ提出する途上大学病院へ連れて来た。

(91) 南市の帽子店主は胸を撃ち抜かれた。日本兵が金を要求したので、所持金全部を与えたが、彼らはさらに要求し、彼は出すことができなかった。彼は今日十二月二十日に大学病院へやって来た。



(侵入)

(9) 十二月十五日、日本兵達が裏塀を乗り越え扉を押し破って金陵女子学院の教員住宅に侵入した。十二月十三日以降、動かせるものは全部建物から運び出されていたので、何ひとつ盗ることはできなかった。

(21) 十二月十六日の夜、日本兵達がアメリカ人が住む二軒の大学住宅に押し入り、一軒ではドアを破壊した。またアメリカ人所有の住居で一時的に中国人の大学職員が住んでいる数軒の家も日本兵によって頻繁かつ不定期に侵入された。



(その他)

(11) 十二月十五日午後、日本兵達が当委員会の寧海路米穀店を訪ね、米三袋(三・七五担)を買って五ドルしか払わなかった。定価は担九ドルなので、日本帝国陸軍は国際委員会に二十八ドル七十五セントの借りがあることになる。

(201) 三人の婦人が一月二十日に南京神学校より連行された。

(243) 一月二十八日、劉応氏四十八歳。門東に帰宅した。真夜中数人の兵士が来て娘を求めた。

(264) 二月一日午後十一時、三人の日本兵が南京神学校に来て、壁を上り、娘を小屋に掴み入れたが、彼女は逃げ去り大声で叫んだ。このため、収容所が目覚め、外へ出て大声で叫んだ。兵士達は壁を上って帰り逃げた。






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「南京大虐殺の真相」
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