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《9》南京大虐殺・スマイス統計調査

2015年07月19日 | 南京大虐殺


南京戦における民間人の被害規模を知ることができる史料として、金陵大学(現南京大学)のルイス・スマイス教授が行った統計調査がある。
次の文字列で検索すれば原文がすぐ出てくる。

War Damage in Nanking Area, Dec.1937 to March 1938, Urban and Rural Surveys





スマイス教授は、安全区国際委員会の書記長と会計係を兼務する人物でもある。彼は、陥落翌年の1938年3月から4月にかけて学生を動員して2人1組で無差別抽出法により戸別に尋問し、南京市民のうけた戦争の被害状況を調査した。

次の表は、都市部の調査結果である。都市部とは、城壁で囲われた南京城内および近接する下関・中華門外・水西門外の3地区である。サンプルは50世帯につき1世帯の割合で抽出され、サンプル数は城内906、城外43、合計949世帯とされている。
なお、この結果は国民党軍、日本軍のいずれの行為による被害であるかの区分はない。






《国民党軍、日本軍の市民殺害規模》

そこで、「兵士の暴行」について日付で日中いずれの軍による被害かを大雑把に区分してみる。ここでは、12月13日以前は国民党軍による被害(表の(a))、12月14日以降は日本軍による被害(表の(b))としてみる。

この区分理由は、12日までは国民党軍による組織的抗戦および城内での中国兵らの逃亡に伴う大混乱があり、13日(陥落日)は以下の証言にあるように城内は大きな戦闘があったように思えないからである。14日以降は基本的に日本軍の制圧下にあった。

「十三日の朝、堂々南京に入城してきた日章旗を見たことは忘れ得ない驚嘆である、日本軍が城壁に迫った十一日から十二日にかけて中山路を下関に向けて敗走する支那兵の一部が便衣に着かへて避難地区になだれこんだことはわれわれの仕事に大きな障害となつた」(ラーベ・南京避難民国際委員会委員長)

「十三日に、中山門から城内に入りました。もうこの日は、難民区の近くの通りでラーメン屋が開いていて、日本兵が十銭払って、食べていました。それと、中国人の略奪が続いて、中山路で机を運んでいる中国人や、店の戸をこじ開け盗んでいる者もいました」(東京日日新聞カメラマン・佐藤振寿)

南京の中山東路の北かつ中山路の東側地区は第二十聯隊が担当した。十三日夕方に部隊の一部が城内に進入し、宿営した。翌十四日は付近を掃討したが、この付近は官庁街であり、市民は皆漢口に避難した後で、敵兵も住民もいないので、直ちに城外に移り、城外東方の敗残兵掃討に転じた。

第三十六聯隊は、十三日に光華門を占領するまでは大変に苦労した。しかし、十三日にいざ入城してみると、敵兵、市民ともに担当地区(光華門付近)におらず、その日の夕方から城外の防空学校付近に集結して宿営し、そのまま十二月二十四日に南京を出発して、東方の嘉定に転進した。

十二月十三日、第六師団の第十三聯隊、第四十七聯隊は、松井司令官の命令通り聯隊から各一個大隊だけを入城させた。この入城部隊も夕方には本隊に合流して中華門外の三里塚店付近にて宿営し、十二月二十二日ごろ、両聯隊は蕪湖に転進した。全軍が南京城内に一気になだれ込んだという事実はない。

十二月十三日、第三十三聯隊は揚子江岸の下関で城内からの敗走兵を掃討し、ここで露営した。翌十四日、第二大隊だけが松井司令官の命令通り城内に進入したが、担当地域には敵兵も市民もほとんどいないので下関に引き上げ、以後はこの付近での警備および城外掃討に従事した。

十二月十三日午後五時三十分、第七聯隊は翌日からの掃討に備えて、当日の宿営地の第一公園近くを出発し、深夜三時帰還にて安全地帯を視察した。翌十四日は午前九時に出発し午後四時過ぎ帰還の予定で安全地帯内の掃討を開始した。分担は、安全地帯の北部を第一大隊、南部を第二大隊が担当した。



そうすると、陥落前夜に市民を殺傷してまで衣服を奪ったという目撃談にあるような中国兵による市民の被害は、死亡250人、負傷250人程度の規模であったことが窺える。

また、陥落後からの日本軍による城内掃蕩などに伴う市民の被害は、死亡2千人強、負傷3千人弱、という規模であることが窺える。

『南京安全地帯の記録』には市民殺害の犠牲者は53人しか記録されていないので、このスマイス調査による市民死亡2千人強の殺害事件(日本軍が疑われる統計上の数字)は安全区国際委員会が把握していない事件ということになる。安全区から遠くなるほど事件の情報が国際委員会に届かなかった可能性がある。

それを裏付けるかのような安全区外での証言もある。

唐順山 一九一四年七月三〇日生まれ
(要約)南京の評事街にある大元勝革靴店の徒弟だった。親方は城外に避難して、一人で店を守ることになった。日本軍が南京城内に侵入してきたその夜、私は新街口から上海路、清涼山へと逃げ、最後は三牌楼にある兄弟子の家に身を寄せた。十二月十四日好奇心から日本軍を見ようとして捕まり、中国人の民衆四百人と一緒に銃剣殺されるところだったが、幸運にも傷をおっただけで、胡楼病院に運び込まれ、ウィルソン医師の手当を受けて助かった。

楊明貞一九三〇年生まれ
(要約)大中橋文思巷の向かい側の実家は爆撃で範囲されバラック小屋に住んでいた。十三日朝、隣の小父さんとその妻は日本兵に殺された。父もまた日本兵に刺されたがそのときは死ななかった。十四日の夜逃げ出そうとしたが、またもや日本兵に襲われ、父は刀で切られて死んだ。十五日楊さんと母親は強姦された。母親は暴行を受け数日後に死んだ。父の弟の童養?は輪姦されて殺害された。十六日は近所の少女が難民区から戻ってきたところ強姦されてしまった。孤児となった楊さんは近所の人に食べ物を与えてもらっていた。

佐潤徳(当時17歳)
父・母・妹二人の五人家族で柵戸区の王府巷に暮らしていた。十二月十三日に市民二人が日本兵に殺されるのを目撃した。翌日、佐さんは近所のムスリムを含む六、七人とともに日本兵に連行され、銃剣殺されそうになったが間一髪逃げ出すことができた。その夜南京市衛生所が放火され、王府巷のひとたち二十人が消火にかけつけたが、戻ってこなかった。後に佐さんは埋葬隊の一員になったが、南京衛生所の焼け跡には黒こげになった死体が百体前後あった。その夜、佐さん家族は命からがら難民区に避難したが、王府巷に住んでいた人たちの半数は殺された。


以上の3証言は次のサイトからの転記です。

南京事件FAQ/城内、安全区以外の市民の被害
http://seesaawiki.jp/w/nankingfaq/





《拉致された市民》

スマイス調査では、拉致された市民が4,200人、12月14日以降に限っても4,000人という数字が出ている。

これについては、「敗残兵掃蕩のための連行」と「使役」のパターンがあると思われる。「使役」には、主に男が荷役などの労務に徴用されるケースと、女性が慰安婦や洗濯などに駆り出されるケースや、性的暴行のために拉致されてしまうケースがある。
「4,200人」を「連行殺害」としているサイトもあるが、全てがそうではないと考える。

参考までに『南京安全地帯の記録』には「拉致」が43件あるが、被害者の性別で区分すると次のようになる。一見して女性が多いが、性的暴行が大半のため、短時間で解放されている事例が多い。

男:23, 25, 49, 50, 51, 52, 62, 113, 147, 211
女:5, 15, 46, 50, 52, 57, 61, 63, 69, 89, 94, 95, 112, 144, 145, 151, 153, 167, 169, 187, 200, 201, 211, 212, 216, 220, 232, 282, 292, 327
(番号は事件番号を示す)


「使役」に該当する事例をいくつか紹介する。

「最も恐がられたのは拉夫、拉婦(拉致されること)で、独身の男は労役に使うため盛んに拉致されていき、夜は姑娘が拉致されていきました。中央軍の支那兵の横暴は全く眼に余るものがありました」(福岡日日新聞の三苫幹之介記者にインタビューされた南京市安全区にいた中国人夫妻)

十二月二十日午後四時、二人の武装した日本兵が第六収容区の事務所に入り、多くの衣類を持ち去った。彼らは退去する際に、作業員一人をも連れ去った。彼らのために衣類を運ばせたかったのだと言っていた。(南京安全地帯の記録・事件番号113)

十二月二十四日、四人の日本兵が頤和六号の馬氏が管理する衛生事務所から十二名の苦力を連れ去った。(南京安全地帯の記録・事件番号147)

二月六日。本件の報告者は日本人に連行され一ヶ月中山門外で働かされた。一ヶ月分の賃金として三円もらった。その部隊は移動するので彼は帰された。(南京安全地帯の記録・事件番号444)




慰安婦や洗濯などに駆り出された事例をいくつか紹介する。

一九三八年一月三日。日本軍将校の洗濯物を洗うためと言われ、十二月三十日に金銀巷六号から一人の女性が他の五人と一緒に連れて行かれたが、その女性が大学病院に来た。彼らは日本兵に、市の中心部の西側のある場所に連れて行かれたが、彼女は、この家の状況から日本軍の軍用病院だろうと考えた。その女性達は、日中は洗濯物を洗い、夜はずっと強姦され続けた。年長の女性は、一晩十回から二十回強姦され、若くて見栄えのいい女性は、四十回も一晩で犯された。(後略)(南京安全地帯の記録・事件番号178)

一月十六日、午前八時を少し過ぎた頃、日本兵を乗せた数台のトラックが大学図書館に止まり、労働者と料理をする女性六名を要求した。使用人が行く意志がある六名の女性を見つけたところ、兵士達は、女性達が年寄りすぎると文句を言い、翌朝来るからもっと若い女性を必ず用意しておくようにと言った。彼らは、昨晩十六日戻って来て、女性を要求した。しかし、誰もが志願しなかったので車で去った。十七日の朝八時ころ、彼らは二台のトラックと二台の車で、将校二人連れてまたやってきて、養蚕館から男何人かと女性七人を手に入れた。ベイツ博士はそこにいて、その経過を全て目撃し、男女が行くことについて完全に自発的なものであったと見ていた。女性一人は若かったが、進んで出かけて行った。(南京安全地帯の記録・事件番号192)

一月十九日、日本領事館警察の高玉氏が南京大学付属中学にきて、六人の洗濯婦を要求した。いつもの通り、もし志願する者があれば彼女達が行きますとの返事であった。高玉氏は女は若くなくてはならないと言った。なぜきれいに洗濯ができる女でなくて若い女が必要かと尋ねられると、氏はそれらの婦人は美人でなくてはならないと答えた。(南京安全地帯の記録・事件番号192)




性的暴行事件により女性が拉致されてしまった事例をいくつか紹介する。

昨十二月十五日夜、日本兵達が漢口路にある中国人家屋に侵入、若妻一人を犯し、女性三人を拉致した。夫二名が追ったら、兵士達は二名を撃った。(南京安全地帯の記録・事件番号15)

五台山小学校から多くの女性が連れ去られ、一晩中強姦され、翌朝十二月十七日解放された。(南京安全地帯の記録・事件番号45)

十二月二十五日、十五歳の少女、李嬢が、一人の日本軍将校と二人の兵士によって鼓楼新村十四号から連れ去られた。(南京安全地帯の記録・事件番号153)





《敗残兵の誤認》

なお、ヴォートリンの話によれば敗残兵と誤認された市民釈放の嘆願書への署名者が千人になったとのことなので、そのような市民犠牲者についても数字を積んでいる。
詳細は次の記事。

《10》南京大虐殺・市民の犠牲者数
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/0896042f8ddf1f5a0843c743f6300451




《可能性としての最大数》

ちなみに、スマイス調査に基づいて「兵士の暴行による市民の犠牲者」(=暗に日本兵の暴行を意味している)を南京がある江寧県全体にまで広げて最大に見積もると、15,760人になる。
内訳は以下の通り。

(1)南京(都市部)の暴行犠牲者 2,400人
(2)南京(都市部)の拉致被害者 4,200人(全員殺害されたとの計算)
(3)南京がある江寧県の市民犠牲者 9,160人(スマイス調査の農村部から)

ただし、この一連の考察ではそこまで膨らませていない。

逆に言えばそこまで膨らませても15,760にしかならないとも言える。
従って、いわゆる大虐殺派は、スマイス調査を無視して別の可能性を捻り出さねばならない状況に追い込まれている。






主要参考文献:

南京事件の核心―データベースによる事件の解明(冨沢 繁信)
http://www.amazon.co.jp/dp/4886562361

「南京安全地帯の記録」完訳と研究(冨沢 繁信)
http://www.amazon.co.jp/dp/4886562515



《関連記事》

「南京大虐殺の真相」
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/eaacb2fee7e20c9adc4799020776c9d1




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3 コメント

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Unknown (くいひ)
2017-11-27 13:17:11
はじめまして、くいひと申します。

下の話はいつ誰に話した証言なのでしょうか?
安全区外には市民はほとんどいなかったのではないのでしょうか?

唐順山 一九一四年七月三〇日生まれ
(要約)南京の評事街にある大元勝革靴店の徒弟だった。親方は城外に避難して、一人で店を守ることになった。日本軍が南京城内に侵入してきたその夜、私は新街口から上海路、清涼山へと逃げ、最後は三牌楼にある兄弟子の家に身を寄せた。十二月十四日好奇心から日本軍を見ようとして捕まり、中国人の民衆四百人と一緒に銃剣殺されるところだったが、幸運にも傷をおっただけで、胡楼病院に運び込まれ、ウィルソン医師の手当を受けて助かった。

楊明貞一九三〇年生まれ
(要約)大中橋文思巷の向かい側の実家は爆撃で範囲されバラック小屋に住んでいた。十三日朝、隣の小父さんとその妻は日本兵に殺された。父もまた日本兵に刺されたがそのときは死ななかった。十四日の夜逃げ出そうとしたが、またもや日本兵に襲われ、父は刀で切られて死んだ。十五日楊さんと母親は強姦された。母親は暴行を受け数日後に死んだ。父の弟の童養?は輪姦されて殺害された。十六日は近所の少女が難民区から戻ってきたところ強姦されてしまった。孤児となった楊さんは近所の人に食べ物を与えてもらっていた。

佐潤徳(当時17歳)
父・母・妹二人の五人家族で柵戸区の王府巷に暮らしていた。十二月十三日に市民二人が日本兵に殺されるのを目撃した。翌日、佐さんは近所のムスリムを含む六、七人とともに日本兵に連行され、銃剣殺されそうになったが間一髪逃げ出すことができた。その夜南京市衛生所が放火され、王府巷のひとたち二十人が消火にかけつけたが、戻ってこなかった。後に佐さんは埋葬隊の一員になったが、南京衛生所の焼け跡には黒こげになった死体が百体前後あった。その夜、佐さん家族は命からがら難民区に避難したが、王府巷に住んでいた人たちの半数は殺された。
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Unknown (南京ノンケ好きか)
2020-06-25 21:40:42
この話にはスマイスが国民党側の人間であり第三者による調査ではないという前提がない
南京事件を正確に調査するなら思想に捉われない第三者が調査するしかない
スマイスがプロパガンダを行わなかった証拠があるのか?
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南京ノンケ好きか、さん (ZF)
2020-06-25 22:41:59
1)その指摘は『「南京事件」の探究』(北村 稔)でも論じられています。
2)バイアスがあろうとも、それしか記録がなければ、完全な捏造でもない限り、参照しないわけにはいかないと思います。
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