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《南京事件》“南京大屠杀”遇难同胞纪念碑

2015年07月21日 | 南京大虐殺
最終更新:2017.08.21



中国語で南京大虐殺の「纪念碑」を紹介してるサイトがあった。これによると、南京周辺に22箇所の「纪念碑」がある。

出典はここ。
http://www.univs.cn/newweb/channels/campus2009/2009-12-14/1260768988d936028.html




以下に、ひとつずつチェックしていくが、結論的に言うとほとんどが根拠不明の的外れに見える。犠牲者数の大半は戦死なのに、それらも全て虐殺犠牲者としている。しかも、犠牲者数と埋葬数をダブルカウントしている。

また、「纪念碑」設置箇所の多くが激戦地、敗残兵の処断、遺体の埋葬場所に関連しているが、埋葬数はまだ比較的マシだとしても、それ以外の数は本当にメチャクチャである。

“大屠杀”と言わず、戦没者慰霊碑としてなら趣旨は理解できる。ただし、犠牲者の数を除いて。

ちなみに、これらの「纪念碑」に出ている犠牲者数を全て積算すると27.5万くらいの数字にはなる。つまり、これほどまでに根拠不明な犠牲者数と埋葬数をダブルカウントしても、なお30万に届いていないということである。

さらに別の視点としては、中国がこうやって南京城の周囲で約28万の犠牲者数を積んで「30万」と称している以上は、一部の大虐殺肯定派が、虐殺犠牲者数として上海から南京への進軍路まで含めるのは、中国の意向とは整合しないということにもなる。



※なお、上記のサイトは既に消滅しているので「纪念碑」一覧としては以下のサイトを参照。番号等が異なるので、いずれ改版予定。

侵华日军南京大屠杀遗址纪念碑
https://zh.wikipedia.org?curid=3591632






《「纪念碑」の一覧表》

「纪念碑」に記された情報を元に一覧にまとめた。
碑の文言だけ見ると、武装解除された兵士と無辜の市民ら難民を虐殺したか、あるいは埋葬したということになっていて、まるで戦闘中の戦死がなかったかのようになっている。しかし、実態は戦闘中の戦死または敗残兵の処断がほとんど。






《「纪念碑」の検証》


1、侵华日军南京大屠杀北极阁附近遇难同胞纪念碑

概要:日軍が南京同胞30万人を虐殺。この北極閣付近でも千余人を惨殺。


南京城内北東の玄武門付近に北極閣公園というのがある。一部で12月13日〜15日の城内について「中山路と中央路の二条の道路は血の道路に変じ、道路上を埋めた死体の上を、戦車がキャタピラで踏みつぶしながら進んだ」との言説が流れてるようだが、南北に通る中央路と北極閣公園が近いので、その話ではないかと思われる。

ただ、そのような事実は確認できない。

その北極閣を含む城内北東部の掃討を担当した第9連隊の人の証言は次の通り。これが当事者の本音であろう。

「虐殺だの暴行など全く行っていないし、見てもいない。何よりもあのあわただしい突入後の二、三日、身の危険や、矢継ぎ早に命ぜられる任務に忙殺されている時、不要な殺人などできようか。殺せば死体の処理など、更に厄介な仕事が増えるに決まってる」(第九聯隊第十一中隊・寺田八三)


以下は戦車と軽装甲車関連の証言。

「戦車兵は犬猫でさえ、ひき殺さぬよう注意し、安全運転を心がけたものです。『蹂躙』とは敵掩蓋銃座などを踏みつぶすことであり、これによって浮き足たった敵を撃滅することを意味する」(戦車第1大隊第1中隊長・城島赳夫)


14日の様子。

「中山路の十字路に停車して警戒中、脇屋か上野上等兵か記憶がはっきりしないが、下車して付近にあった講堂のような建物に入ると、敗残兵らしき者数十名がおり、銃撃を受け急いで乗車したが、大目玉を食らった」(12月14日に城内掃蕩に当たった戦車長・村門、榎)

「中山北路の左側に中国の通信隊の兵舎があり、戦車の機関銃の威嚇射撃により約150名くらいの武装兵を俘虜とした。兵舎の門前で、抵抗の気配のあった3、4名を同行の歩兵が射殺した。俘虜は全員、後続の歩兵隊に引き渡した」(12月14日に城内掃蕩に当たった戦車長・村門、榎)

「中隊は午前9時出発、中山東路、中正街の主要な道路を前進し歩兵の掃蕩を支援したが、一度も銃火を交えることはなかった。道路両側の民家は堅く戸を閉じてヒッソリして婦女子などは見なかった。城内飛行場付近で中国兵二、三十名を捕虜としたが、この投降兵は兵站に引き渡した」(12月14日に城内南部地区を掃蕩した独立軽装甲車第七中隊上等兵・渡辺末蔵)


15日の様子。

「9時出発、中山東路〜漢中路を前進し漢西門に向かった。歩兵は二ヶ中隊の兵力で掃蕩していたが戸外には人影を見ず、中隊長は時々車長に下車集合を命じて相談した。ヒッソリとして平穏なので早く引き揚げ集結地の飛行場に帰還した」(12月15日に城内北部を掃蕩した軽装甲車第七中隊・渡辺末蔵)





2、侵华日军南京大屠杀草鞋峡遇难同胞纪念碑

概要:12月13日、武装解除された兵士ら難民五万七千人が幕府山の下の村に投獄された。そして、18日の夜にその悉くが機関銃で射殺された。


いわゆる幕府山事件。両角連隊長手記などによれば、次のような出来事。

幕府山砲台付近で1万4千余を捕虜とした。非戦闘員を釈放し、約8千余を収容した。夜に火事が発生し半数が逃亡。警戒兵力、給養(食事)不足のため捕虜の処置に困った旅団長が、揚子江対岸に釈放しようとして移動させたところ、捕虜にパニックが起こり襲ってきたため、これに射撃を加えた。


ただし、これは日本側での記録によれば17日夜の事件とされる。

この「五万七千人」は東京裁判で「魯甦」が証言した「日本軍が、57,418名の難民と兵士をロープで二人ずつ括り、機銃で掃射した後に銃剣で突き刺し、石油で焼いた」に由来していると思われる。

なお、紅卍字会の埋葬記録から、該当する下関草鞋閘を拾うと合計574。…この数字を100倍すると「魯甦」が証言した数字になる!!




3、侵华日军南京大屠杀遇难同胞东郊丛葬地纪念碑

概要:中山門から東の郊外一帯で三万三千の遺体をを埋葬。


エリア的には激戦のあった紫金山などが含まれるはず。関連する証言は次の通り。

「十二日には城外の激戦の音が稍衰へて日本軍の砲声が激しく紫金山天文台や富貴山にドンドン落下し一時は凄い唸りを立てゝ僕等の頭上をかすめ南京の北方にどかんどかんと落ちて行つた」(12月14日朝、パラマウント・メンケン、NYT・ダーディン両名の証言)

「紫金山は歩兵第三十三連隊が、12月12日午後3時頃占領した。この紫金山の攻撃には直協砲兵大隊はもちろん、軍直砲兵も集中砲火を浴びせ、敵の紫金山維持を不可能とした。我が歩兵は敵前百メートルまで近接して、実によく戦った」(第十六師団司令部副官・宮本四郎)

「師団の攻撃重点の紫金山正面には中山陵・明孝陵などがある。これを毀損せずに紫金山を占領するために、三十三連隊は絶えず左側背から射撃を受けすこぶる苦戦した。わが軍は砲兵の射撃はもちろんのこと歩兵の重火器の射撃も制限したが、これがため過剰な損害が生じた」(第十六師団・中沢三夫参謀長)

「われわれ軍砲兵は、これら(軍命により射撃禁止区域とされたエリア)の目標を避けて紫金山、天文台の敵陣地、観測所に射撃を指向した。当時、城外の戦場付近には住民は一人も見当たらなかった」(独立野戦重砲兵第十五聯隊第二大隊長・佐々木孟久)


3.3万もここで戦死したなら、譚道平記録にある損失兵力3.65万のほとんどがここで戦死したことになる。だが、他の戦場での戦死数もあるので、計算上それはありえない。

ちなみに「中山門より東」に含まれるであろう紫金山で戦闘した第33連隊の戦闘詳報で、「敵の遺棄死骸」を確認すると6,830。
このうち12月13日の3,096は、敵の退路遮断のため下関に急進する途中で敗残兵を処断したもの。これは位置的には紫金山より西、すなわち中山門より西。
さらに、13日は揚子江の江上で二千撃滅とあるので、これも「中山門より東」の対象外。
それに加えて、詳細は“太平門虐殺”の真相に記述したが、太平門での遺体が約400。
よって、紫金山での「敵の遺棄死骸」は実数1,334以下となる。このように数字の桁が違いすぎる。



なお、紅卍字会の埋葬記録だと、中山陵南東の麓に82。
さらに、南京特別市政府衛生局が南京戦の翌々年に、中山門外の霊谷寺・馬群・陵園・茅山一帯から三千体余りの遺骨を収容。


ちなみに、以下のスケッチは日本軍が記録した中山門付近の様子。このスケッチ内には、城外の建物は6軒しかない。ほとんどが農地のように見える。






4、侵华日军南京大屠杀汉中门外遇难同胞纪念碑

概要:12月15日、漢中門の外で武装解除の軍警二千余人を機関銃で殺害。


当時、南京で警官をしていた伍長徳の証言によるもの。彼は、陥落後およそ三百人の他の警官と一緒に司法院にいて、15日に西大門に連行され、約1,600名が射殺されたところを生き延びた、という話。

安全地帯の記録「第九号 日本大使館への手紙 1937年12月17日」にもその時の描写がある。伍長徳はその最初の50名の一人と思われる。

我々の警官は妨害を受け、昨日、司法部に詰めていた者50名が日本軍当番将校の話では「殺されるために」連行され、昨日午後には私どもの「志願警察官」46名が同じように引っ立てられて行った。


西大門に相当するのが、漢中門またはその近くの水西門。関連しそうな日本軍将兵の証言は次の通り。

「15日夜および20〜22日頃、水西門外または漢中門外で、数千人の非戦闘員を含む敗残兵が機銃掃射で殺害されたという記事があるが、同地付近の警備に任じた第二大隊長・成友藤夫氏は『小火災の他、異常なし』と述べている」(第六師団通信隊小隊長・鵜飼敏定)

「18、19日頃の夕刻、宿舎の西北方城壁の方向で短時間であるが機関銃の銃声がした。翌朝、水西門の城壁に登った。城壁と水濠との間の斜面に中国兵の死体が5〜6体転がっていた。どこかの部隊が規律に違反した捕虜を銃殺したのだと聞いた」(歩兵第二十三連隊第二大隊長・坂元昵)


摘出した敗残兵の処刑は揚子江岸で行っているので、門外での大量処刑はないはず。

ただし、15日ではなく、その前日の14日には次のような証言がある。「正規兵」とあるから、安全区から摘出した敗残兵とは異なる様子。漢中門、漢西門、水西門は近い位置に並んでいる。

「中隊本部附の草場軍曹は、軽装甲車で歩兵第七聯隊との連絡に任じていたが、漢西門外で銃声がするので門の出口まで行ってみると、友軍の歩兵が機関銃を据えて、敵の正規兵八十名余りを射殺していた」(12月14日に城内掃蕩に当たった戦車長・村門、榎)


15日の時点でもその約80の遺体はそこに残っていたであろうから、それと15日の司法院からの50名+αの警官連行の話と結びついて、話が膨らんだような印象を受ける。

なお、紅卍字会の埋葬記録から、隣接してる漢中門、漢西門を拾うと、合計1,395。比較的近い水西門まで含めると2,397。もちろん、戦死者を含む。
伍長徳の証言にある1,600と近い数字。




5、侵华日军南京大屠杀遇难同胞花神庙地区丛葬地纪念碑

概要:南京陥落後、中華門の外の雨花台などの一帯で27,239の同胞遺体を埋葬。


雨花台も激戦地のひとつ。関連する日本軍将兵の証言は次の通り。

「82高地をめぐる雨花台の凄惨な戦闘においては日本軍の奮戦もさることながら、中国軍の防御振りもまた賞賛すべきものがあった。敵は『全員戦死』を誓い戦い抜いた。弾丸にあたるか刺殺されるまで戦い、塹壕内には小銃、機関銃の薬莢が山のように積まれ、無数の死体がころがっていた」(独立軽装甲車第二中隊本部曹長・藤田清)

「(雨花台には)半焼けの中国兵の屍体が四、五百遺棄されていた。その後、雨花台の激戦の跡を見て回ったが、各所で兵士の死体は見たが、非戦闘員の死体は見なかった。日本軍の進撃が予想外に早かったので、敵は屍体を城内に収容できなかったのであろう」(独立軽装甲車第二中隊本部曹長・藤田清)

「第十軍司令部は14日朝、秣陵関を発し雨花台の麓を過ぎ中華門を通って(城内の)上海儲備銀行に司令部を置いた。雨花台は後年中国側が民衆二万人が虐殺されたと発表した場所であるが中国兵の死体が点々と転がっていただけで虐殺の跡というが如きは片鱗もなかった」(第十軍司令部第三課長・谷田勇)


なお、紅卍字会の埋葬記録からNo.9の普徳寺を除いた中華門外を拾うと1,121。

また、次の記事で試算したが、雨花台の戦闘での犠牲者数(No.5花神庙地区+No.9普德寺)は、実数2,209人。

《南京事件》犠牲者数の一覧と論拠
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/d970ae18fbcd6ea40e68a22a5d24d01a

ちなみに、雨花台は国民党政府の統治時代に十数万人の共産党員とシンパが殺害されるなどした処刑場であったとされる。日本軍との南京戦以前の話。




6、侵华日军南京大屠杀死难同胞江东门丛葬地纪念碑

概要:12月16日、江東門付近で武装解除兵と市民の一万余人が殺害。


関連しそうな日本軍将兵の証言等は次の通り。ちなみに、江東門というのは南京城の城門ではなく、南京城の南西にある地名。

第6師団の通信隊小隊長(原隊・歩兵45連隊)の鵜飼敏定氏は、江東門付近の万人抗について「江東村の大通りに面した一角で戦闘が行われ、遺棄死体された中国軍の戦死者が埋められている所である」と断言する。

第四十五連隊は、江東門でも三叉河(さんさが)でも城内から脱出してきた敗残兵と戦い、13日午後に下関に到達、4000~5000人ほどの捕虜をとらえた。しかし、この捕虜は全員その場で釈放し、江東門に引き返してしばらくここに駐留する。(田中正明著「南京事件」の総括」)

四十五聯隊の第二大隊は、十四日早朝、下関で白旗を掲げた捕虜約五千と、砲三〇門、重機、小銃、弾薬多数および軍馬十数頭を鹵獲した。(田中正明著「南京事件の総括」)


14日、下関で捕えた中国兵に山本隼人大尉(45連隊第6中隊長)は演説した。「君達は良く戦った。然し、もう戦いは終ったんだ。御互い仲良くせにゃいかん。蒋介石総統はよう懲せにゃいかんが、君達忠勇な将兵には怨念はないのだ。宜敷く武器を捨て鍬(くわ)をとり、新中国新平和の建設に働き給え」

「一箇所に集められたところへ、日本軍のリーダー格らしき人物が馬に乗って現れた。ヒゲが両耳からあごの下3〜4センチまで下がっていた。日本語で何か訓話したが、こまかいことはわからず、通訳によれば要点は『お前らは百姓だ。釈放する。まっすぐ家に帰れ』と言っているらしかった。(中略)数千人の捕虜たちは、釈放されると白旗をかかげ、それぞれの故郷にばらばらに出発した」(本多勝一「南京への道17」)


紅卍字会の埋葬記録には該当なし。なぜならば、近い距離(=2km)にあるNo.11の上新河の碑文に上新河、新河鎮、江東門の埋葬数が全て列挙されているから。




7、侵华日军南京大屠杀金陵大学难民收容所及遇难同胞纪念碑

概要:12月26日、「登録」を口実として金陵大学にいた三万余名の難民の中から二千余人を殺害。


「良民証」発行時の敗残兵摘出と思われるが、26日の話なら次の話と照らし合わせると処刑されていないはず。

「安全区内に遁入した敗残兵は12月14日と16日の2回にわたって摘出し処断した。本格的に便衣兵の摘出をはじめた24日以降は憲兵が治安維持会の中国人立ち会いにて行い、約2千人を摘出したが、これらはすべて外交部に送られ捕虜の待遇とした」(佐々木到一少将回顧録からの要約)





8、侵华日军南京大屠杀煤炭港遇难同胞纪念碑

概要:12月17日、煤炭港で武装解除兵と市民の三千余人を殺害。


本件の煤炭港虐殺については捏造と断定。

ただ、それとは別に、紅卍字会の埋葬記録には2,325。次の記事で試算した下関包囲戦の一環だと思われる。

《南京事件》犠牲者数の一覧と論拠
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/d970ae18fbcd6ea40e68a22a5d24d01a




9、侵华日军南京大屠杀遇难同胞普德寺丛葬地纪念碑

概要:いわゆる万人坑。紅卍字会が、9,721体を埋葬。


普德寺は、激戦のあったNo.5雨花台の一角にある。
紅卍字会埋葬記録から「普德寺」関連を合計するとぴったり9,721。それだけでなく、碑文にこの紅卍字会の埋葬明細がそっくり記載されている。

なお、次の記事で試算したが、雨花台の戦闘での犠牲者数(No.5花神庙地区+No.9普德寺)は、実数2,209人。

《南京事件》犠牲者数の一覧と論拠
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/d970ae18fbcd6ea40e68a22a5d24d01a




10、侵华日军南京大屠杀死难同胞清凉山丛葬地

概要:南京大虐殺の数千?の同胞を埋葬。


紅卍字会埋葬記録では清涼山埋葬数は178。




11、侵华日军南京大屠杀上新河遇难同胞纪念碑

概要:上新河一带で難民18,730人が殺害された。


これは新河鎮での激戦

紅卍字会の埋葬記録としては、8,459。一部に“水葬”と思われる数字が含まれているから、これを除くと埋葬実数3,899。
そして、新河鎮から揚子江に逃げた敵のうち約7千が江上戦死してるはずと独立山砲兵第二聯隊・高橋義彦中尉が言っているので、これを加えるとこの戦場での犠牲者数は約1万1千人。

詳細は次の記事。

《南京事件》犠牲者数の一覧と論拠
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/d970ae18fbcd6ea40e68a22a5d24d01a

なお、紅卍字会の埋葬記録から見ると、ここと距離的に近い(=2km)No.6の江東門は重複している。


(追記)奇妙なことに気づいた。

12月13日いわゆる陥落日に、南京城から脱出して南下する中国軍部隊と、これらを包囲殲滅すべく北上する日本軍第6師団45連隊が揚子江岸の上新河付近で遭遇戦を展開した。この戦闘終了後に中国側の戦死者を谷寿夫第6師団長が調査を命じたところ、遺棄死体数が2,377人。これに相当する国民政府・南京地方法院の報告書「敵人罪行調査報告」によれば、犠牲者数2,873人。これが中国共産党傘下の政治協商会議・南京市委員会の報告では28,730人と10倍に増えている。

その上新河の“纪念碑”には、「群集上新河一带之难民,共一万八千七百三十余人,悉遭日军杀害于此处。」と刻字され、またその埋葬数一覧(紅卍字会埋葬記録の一部)を合計すると8,451。

整理する。

2,377(第6師団)
2,873(国民政府・南京地方法院)
28,730(中国共産党/政治協商会議・南京市委員会=前項の10倍)

18,730(上新河の“纪念碑”に記された犠牲者の合計)
8,451(上新河の“纪念碑”に記された埋葬数の合計=紅卍字会の埋葬記録の書き写し)


本来、中国共産党としては上新河一体の犠牲者数としては、28,730と刻字せねばならなかったのではないか。もしかすると、足りないように見える「1万」は近くのNo.6江東門の「一万余人」に“分配”されたかもしれない。すなわち、次の式のようになり、中国共産党/政治協商会議・南京市委員会の数字にまた戻る。つまり、国民政府の記録を10倍した数字を小細工しながら押し通している。

No.11上新河18,730+No.6江東門10,000=28,730





12、侵华日军南京大屠杀太平门遇难同胞纪念碑

概要:12月13日、「第十六师团三十三联队六中队等」の日本軍が、太平門付近において、武器を捨てた兵士と市民の1,300余人を、有刺鉄線で囲み、地雷を炸裂させ、機関銃で撃ち、ガソリンで燃やし、殺害。


いわゆる太平門虐殺だが、太平門では陥落時の混乱で自爆および日本軍との戦闘があり、全ての遺体が戦死で説明がつくため、虐殺の事実はないと断定する。
紅卍字会の埋葬記録では、太平門外城壁下に500。第33連隊戦闘詳報では、404。




13、侵华日军南京大屠杀遇难同胞五台山丛葬地纪念碑

概要:五台山に犠牲者の同胞254を埋葬。


紅卍字会埋葬記録では五台山埋葬数は39。




14、下关发电厂死难工人纪念碑

概要:1957年に建立された最初の記念碑。


特にコメントなし。




15、侵华日军南京大屠杀仙鹤门遇难同胞纪念碑

概要:12月13日、仙鶴門一帯で日本軍が兵士と市民の15,000余人を捕獲し、18日、非武装の市民4,000人以上を分離し?、殺害。


これは「堯化門の捕虜」のことのようだが、関連しそうな証言は次の通り。

「13日〇〇二〇頃、態勢を立て直した敵は数縦隊となり、月明の本道沿いに第二小隊の面前に殺到した。第二小隊の十数名は銃撃あるいは手榴弾を投げ合い、白兵をもってこれに突入し、数度にわたる敵の攻撃を撃退した。敵は約三千余の屍体を残して退却した」(騎兵第三聯隊本部書記・加藤正吉)仙鶴門鎮での戦闘。

「俘虜7200名は、第10中隊堯化門付近を守備すべき命をうけ同地にありしが14日午前8時30分頃数千名の敵、白旗を掲げて前進し来り午後1時武装を解除し南京に護送せし者を示す 」(第16師団歩兵38連隊戦闘詳報)


また、この「堯化門の捕虜」については、捕虜説と処刑説があるようだが処刑説の証拠があるようには見えない。




16、侵华日军南京大屠杀燕子矶江滩遇难同胞纪念碑

概要:三万余人の武装解除兵と二万余人の市民が北側の湿地帯に渡河脱出しようとしたところ、日本船がこれを阻止し、機銃掃射で五万余人がことごとく殺害された。


これは次の証言や記録にある戦闘だと思われる。12月13日に海軍の砲艦等がタイミングよく到着して江上で砲撃している。また、陸軍も江上の敵を攻撃している。話を総合すると3千くらいではないか。

「両岸からの中国兵の猛攻撃は続いていました。この頃から、ジャンクや筏に乗った中国兵が流れて来て、どんどん増えてきました。勢多には二十五ミリ機関銃が四門ありましたので、これを撃ちながら進みました」(砲艦「勢多」艦長・寺崎隆治少佐)12月13日午前10時過ぎの様子。

「下関桟橋に近づきますと多くの兵が手を振っているので、双眼鏡で見ますと中国兵なのです。中国兵は日本の軍艦がこんなに早く来るとは思わず、中国の軍艦だと思って手を振ったのだと思います。そこでまた二十五ミリ機関銃で掃射して近づきました」(砲艦「勢多」艦長・寺崎隆治少佐)12月13日。

「(12月13日午前中)『第三十三連隊は速やかに下関に進出し、敵の退路を遮断すべし』との師団命令を受領した。この命令に基づき、連隊は午後2時30分、その先頭を持って下関に到達し、連隊本部は獅子山砲台北側の城外濠の路上に達した。この時、中国兵の揚子江上を浮遊物に取りすがって逃走中の姿が望見されたので、連隊命令をもって重火器の火力を集中して、一時間余。私も江岸に行ってこの状況を見た。この頃、海軍の揚子江艦隊が遡航してきて、艦砲をもって射撃を始めたので、連隊は海軍艦艇に危害を与えることを考え、射撃を中止した。この江上を逃走した敵中に一般住民の混入など、とても考えられない。その数は千〜二千ぐらいであったろうか」(第三十三連隊本部通信班長・平井秋雄氏/証言による『南京戦史』9)

「午後二時三十分前衛の先頭下関に達し前面の敵情を搜索せし結果揚子江には無数の敗残兵舟筏其他有ゆる浮物を利用し江を覆って流下しつつあるを発見す即ち連隊は前衛および速射砲を江岸に展開し江上の敵を猛射する事二時間殲滅せし敵二千を下らざるものと判断す」(第33連隊戦闘詳報)

「最後まで南京を守りし支那兵は、その数約十万にして、その中約八万人は剿滅せられ、江を渡り浦口に逃げのびたる者約二万人あり。 下関に追ひつめられ、武器を捨てて身一つとなり、筏に乗って逃げんとする敵を、第十一艦隊の砲艦により撃滅したるもの約一万に達せりと云ふ」(第三艦隊司令部・泰山弘道)





17、侵华日军南京大屠杀遇难同胞挹江门丛葬地纪念碑

概要:挹江門付近に犠牲者5,100以上の遺体を埋葬。


紅卍字会埋葬記録では挹江門付近への埋葬は見当たらない。


(追記)

だが、以下の証言に出てくる日本軍工兵による「附近の死体とりかたずけ」として挹江門付近への埋葬があったのかもしれない。挹江門での犠牲者数は約1千とされる。

「散兵・潰兵の退却阻止の命令を受けていた宋希濂麾下の第三六師二一二団は、撤退命令を出された後も、挹江門付近の道路に鉄条網のバリケードを築き、路上には機関銃をそなえて、挹江門からの撤退を拒み続けた。このため、夜になるとパニック状態になり、挹江門から脱出しようとする部隊と、これを潰兵とみなして武力で阻止しようとした第三六師二一二団部隊との間で銃撃戦が繰り広げられ、挹江門内は大惨事となった」(中国軍第八七師二六一旅長・譚道平 著『南京衛戍戦』による12月12日夕刻以後の情景) 

「われわれの部隊は、揚子江を遡航し、十二月十五日、六日頃南京に上陸、挹江門の正面大門と左脇門の閉鎖解除と、附近の死体とりかたずけを命ぜられました。工兵二個小隊とトラック二台で、約七日間を要してすべてのかたずけが終わりました」「当時の状況から判断すると、若干の市民を含む多数の支那軍人が、内側から城壁に駆け上り、布紐を伝わって逃げたのですが、大勢の人間が我先にとひしめき、後より押されるまま“人間なだれ”となって城壁の下にドット崩れ落ち、多数の死者を出したものと思われます。死体を調べてみましたが婦女、子供は一人もいませんでした」(赤羽第一師団工兵隊・酒井松吉中尉)





18、鱼雷营遇难同胞纪念碑

概要:12月15日の夜、魚雷営で武装解除された兵士9,000余人を集団射殺。さらに同月、宝塔橋一帯で軍民三万人以上を殺害。


前半は、いわゆる幕府山事件の一部であろう。日時からすると、1万4千余を捕虜としたが非戦闘員を釈放し約八千余を収容し、その夜に発生した火事での出来事を指していると思われる。収容した敗残兵の半数はこの夜の火事の混乱で逃亡したとされる。この纪念碑の扱いだと、その八千余を全員殺害したということだろうか。そうだとすると、残りを17日の夜に対岸に移送しようとして云々という幕府山事件の本体が消えてしまう。

なお、紅卍字会の埋葬記録から、幕府山事件の火事での騒動に該当する「下関魚雷軍営脇」を拾うと、524。

後半の宝塔橋一帯とは、No.8の煤炭港虐殺(12月17日)とダブルブッキングと思われる。しかも、10倍化してる。万が一そんな事実があったら、その地区の難民収容所の主任をしていた紅卍字会の陳漢森が何か言っているはずだし、安全地帯の記録にも残るはず。だが、そんな記録はない。




19、侵华日军南京大屠杀正觉寺遇难同胞纪念碑

概要:12月13日、正覚寺などで僧侶17人を殺害。


わからない。




20、侵华日军南京大屠杀中山码头遇难同胞纪念碑

概要:12月16日夕方、安全区の避難民の中から兵士の嫌疑をかけた五千余人を射殺して河に投棄。さらに18日、四千余名の青年を捕獲して射殺。


敗残兵摘出だが、第7連隊が12月14〜16日にかけて安全区から摘出して処刑したのは6,670人。
その次になると「第三十八聯隊が『良民証』付与の過程で12月24日より翌年1月5日までに二千人を捕捉」のはず。そして、前述したように、この二千は「すべて外交部に送られ捕虜の待遇とした」(佐々木到一少将回顧録)となっている。




21、西岗头遇难同胞纪念碑

概要:1938年8月、江宁区西岗头村で、村の22人が殺されようとして、うち1名だけ生き延びた?


地図で調べると、南京市 江寧区 西崗頭 と思われる。中華門の南約20kmの位置。時期と場所からして南京戦とは無関係。




22、湖山村“以史为鉴”碑(本条信息来源于网络)

概要:1937年12月6日、湖山村に日本軍が侵入し、不完全な統計によると64人が死亡し、200以上の家屋が焼かれた。


この湖山村の虐殺については、検証の結果、日本軍によるものではないと判断する。


《要点》

・碑に記された事件日は1937年12月6日。
・村民64人が死亡し、200以上の家屋が焼かれた、とのこと。
・戦闘詳報で確認すると、6日の日没時点では日本軍は湖山村に進入していない。
・夜間は火を使えば敵の標的にされるので火気厳禁。
・撤退する中国兵が集落から略奪し、放火し、防ごうとした住民を惨殺する報告多し。
・となれば、誰の犯行であるかは自ずと明らか。







《各「纪念碑」の碑文》


1、侵华日军南京大屠杀北极阁附近遇难同胞纪念碑

一九三七年十二月,侵华日军屠杀我南京同胞达三十万众。仅此北极阁毗近处,惨遭杀害者即达两千余人。其时,鼓楼至大石桥,北门桥至唱经楼,太平门,富贵山及蓝家庄等地,伏尸残骸,盈街塞道,涂膏凝血,触目生哀。翌年一、二月间,罹难同胞之遗骸经南京崇善堂收殓,丛葬于此山之麓及近山之城根等处。爰立此碑,永志不忘,藉勉后人,奋发图强,振兴中华,国运其昌。


2、侵华日军南京大屠杀草鞋峡遇难同胞纪念碑

一九三七年十二月十三日,侵华日军攻占南京后,我逃聚在下关沿江待渡之大批难民和已解除武装之士兵,共五万七千余人,遭日军捕获后,悉被集中囚禁于幕府山下之四五所村。因连日惨遭凌虐,冻饿致死一批;继于十八日夜悉被捆绑,押解至草鞋峡,用机枪集体射杀。少数伤而未死者,复用刺刀戳毙;后又纵火焚尸,残骸悉弃江中。悲夫其时,屠刀所向,血染山河;死者何辜遭此荼毒?追念及此,岂不痛哉?!爰立此碑,谨志其哀。藉勉奋发图强,兼资借鉴千古。


3、侵华日军南京大屠杀遇难同胞东郊丛葬地纪念碑

一九三七年十二月,侵华日军疯狂实施南京大屠杀。我东郊一带,惨遭杀害之无辜同胞,尸蔽丘陇,骨暴荒原,因久无人收,而至腐烂腥臭。迨至翌年四月,始由崇善堂等慈善团体从事收殓。计于中山门外至马群镇一带收尸三万三千余具,就地掩埋于荒丘或田野。越数月,察及于丘壑丛莽间尚遗其余,故时或恶气四溢。一九三八年十二月,复经伪市政督办责成其卫生局,又于马群、茆山、马鞍、灵谷寺等处,收集死难者遗骨和残骸三千余具,丛葬于灵谷寺之东。嗣于一九三九年一月,立“无主孤魂墓碑”为志,考其碑文拓片犹在,惜乎原碑已湮没无存。爰特重立此碑,以示悼念,且告方来。


4、侵华日军南京大屠杀汉中门外遇难同胞纪念碑

一九三七年十二月十五日下午,避难于国际安全区之本市平民和已解除武装之军警共二千余人,遭日军搜捕后,被押赴汉中门外用机枪扫射杀害,其伤而未死者或乱刀补戳,或纵火活焚,尸骸蔽野,惨绝人寰。至次年二月十一日、十八日两天始由慈善团体南京红卍字会收殓得遗骸共一千三百九十五具,掩埋于汉中门外广东公墓及二道埂子一带。悲夫!今人孰料于此熙来攘往之地曾是往昔日军肆虐之场而有众多同胞罹难于此者乎!爰立此碑以志其事,庶我国人牢记惨史,毋忘国难,居安思危,奋发图强,同心同德,振兴中华。


5、侵华日军南京大屠杀遇难同胞花神庙地区丛葬地纪念碑

1937年12月13日南京沦陷后,侵华日军即进行血腥大屠杀,尸横遍地,惨不忍睹。南京红卍字会和崇善堂两慈善团体自1937年12月22日至1938年4月18日止,在中华门外雨花台、望江矶、花神庙一带共掩埋遇难同胞尸体27239具。南京市民芮芳缘、张鸿儒、杨广才等组织难民30余人,于1938年1至2月的40余日内,在花神庙一带掩埋中国军民尸体7000余具,其中难民尸体5000余具,军人尸体2000余具。特立此碑,悼念遇难同胞,永志不忘历史,振兴中华。


6、侵华日军南京大屠杀死难同胞江东门丛葬地纪念碑

一九三七年十二月十六日,日军将已被解除武装之中国士兵和平民万余人,囚禁于原陆军监狱院内,傍晚押至江东门,藉放火焚烧民房照明,骤以轻重机枪向人群猛烈扫射,受害者众声哀号,相继倒卧于血泊之中。遗尸枕藉,盈衡塞道,直至蔽满江东河面,且抛露风日之下,久无人收,情至惨烈。迨逾数月,囡天暖尸腐,始由南京慈善团体收尸万余具,掩埋于就近之两大土坑内,故称“万人坑”。爰立此碑。藉志其哀;悼念死者,兼勉后人,热爱祖国,奋发图强,反对侵略战争,维护世界和平。


7、侵华日军南京大屠杀金陵大学难民收容所及遇难同胞纪念碑

一九三七年十二月,日军侵占南京时,留在南京的外侨带报,为了收容我未及撤离的大批难民,以原金陵大学等处为中心,在城内设立了“国际安全区”占地约三点八六平方公里,内设二十五个难民收容所,收容难民约二十五万人,其中原金陵大学校园本身就是较大的难民收容所之一,收容难民多达三万余人。
原金陵大学附近,也就侵华日军对我遇难同胞实施集体屠杀的场所之一。一九三七年十二月二十六日,日军以辩理难民“登记”为由,将避难于原金陵大学图书馆内之两千余名难民,迫令集中在网球场上(现该地已建为地质实验楼),从中搜捕了三百余名青壮年,驱至五台山及汉中门外悉加杀害。
原金陵大学校园范围内,也是我遇难同胞尸骨丛葬地之一。据当时慈善团体红卍字会埋尸资料记载:一九三八年一、二月间,该会曾先后在城北各处收殓,于金银街原金陵大学农场及阴阳营南秀村埋葬遇难者尸体达七百七十四具。五十年代,南京大学在南秀村建设天文台时,还曾掘出过这批尸骨。
前事不忘,后事之师。今立此碑,永志哀痛,藉慰死者,兼勉后人:自强不息,振兴中华。


8、侵华日军南京大屠杀煤炭港遇难同胞纪念碑

煤炭港系侵华日军南京大屠杀主要遗址之一,一九三七年十二月十七日,日军从各处搜捕我已解除武装之士兵及平民三千余人,拘禁于煤炭港下游江边,以机枪射杀;其伤而未死者,悉被押入附近茅屋,纵火活焚致死,内有首都电厂职工四十五人,即死于此难。
兹值中国人民抗日战争胜利四十周年,特立此碑,悼念死者,永诫后人,铭念历史,振兴中华。


9、侵华日军南京大屠杀遇难同胞普德寺丛葬地纪念碑

一九三七年十二月侵华日军南京大屠杀惨案,震惊寰宇,血沃钟山,水赤秦淮。我无辜同胞不幸遇难者逾三十万人。普德寺系我遇难同胞尸骨丛葬地之一,经南京红卍字会先后埋葬于此者共达九千七百二十一具,故亦称“万人坑”。附录其年月及埋尸记载
如下:
一九三七年十二月二十二日葬二百八十具
     十二月二十八日葬六千四百六十八具
一九三八年一月三十日葬四百八十六具
     二月二十三日葬一百零九具
     三月二十五日葬七百九十九具
     四月十四日葬一千一百七十七具
     五月二十六日葬二百一十六具
     六月三十日葬二十六具
     七月三十一日葬三十五具
     八月三十一日葬十八具
     九月三十日葬四十八具
     十月三十日葬六十二具
兹值中国人民抗日战争胜利四十周年,特此刻石纪念,旨在告慰死者于地下,永励后生于来兹:不忘惨痛历史,立志振兴中华。


10、侵华日军南京大屠杀死难同胞清凉山丛葬地

1937年12月,侵华日军制造了震撼中外的南京大屠杀事件,我数以千计的无辜同胞在本院境内,即清凉山附近之原吴家港、韩家桥等地遇难。为纪念死者,激励后人,振兴中华,维护和平特立此碑。


11、侵华日军南京大屠杀上新河遇难同胞纪念碑

一九三七年十二月,侵华日军攻占南京后,我大批解除无章之士兵和群集上新河一带之难民,共一万八千七百三十余人,悉遭日军杀害于此处。日军屠杀手段极其残酷,或缚之以溺水,或积薪而活焚,枪击、刀劈,无所不用其极,对妇女乃至女童,均先强奸而后杀害,惨绝人寰,世所罕见,至使尸积如山,血流成河。劫后,湖南木商盛世征,昌开运雨先生目睹惨状,于心不忍,曾由私人捐款收埋一批遗尸,嗣于一九三八年一月至五月,又经南京红卍字会在上新河一带收埋死难者遗尸计十四批,共八千四百二十九具,分记录
如下:
一月十日葬于黑桥九百九十八具
二月八日葬于太阳宫四百五十七具
二月九日葬于二道梗八百五十具
二月九日葬于江东桥一千八百五十具
二月九日葬于棉花堤一千八百六十具
二月十四日葬于军人监狱附近近三百二十人
二月十五日葬于观音庵空场八十一具
二月十六日葬于凤凰街空场二百四十四具
二月十八日葬于北河口空场三百八十具
二月二十一日葬于五福村二百一十七具
三月十五日葬于甘露寺空场八十三具
三月二十三日葬于甘露寺空场三百五十四具
四月十六日葬于贾家桑园空地七百具
五月二十日葬于黑桥五十七具
前事不忘,后事之师,爰本此旨,特立此碑,藉慰死者,兼勉后人,爱我中华,强我祖国,反对侵略,维护和平。


12、侵华日军南京大屠杀太平门遇难同胞纪念碑

1937年12月13日,第十六师团三十三联队六中队等侵华日军部队在南京太平门附近,将约1300名放下武器的中国官兵及无辜的市民集中起来,周围用铁丝网围住,用事先埋好的地雷炸、机枪扫射,再浇上汽油焚烧,次日,日军复对尸体检查,对濒死者用刺刀补戳致死,太平门集体屠杀中无一中国人幸存。
值此南京大屠杀事件发生70周年之际,为悼念在太平门附近无辜的中国遇难者,侵华日军南京大屠杀遇难同胞纪念馆、旅日华侨中日友好交流促进会、日本纪念南京大屠杀遇难者60周年全国联络会、日本“铭心会南京”访华团联合在此建碑,祭祀遇难者魂灵,铭记历史教训,并告知中日两国青少年,绝不让历史悲剧重演。


13、侵华日军南京大屠杀遇难同胞五台山丛葬地纪念碑

在侵华日军南京大屠杀血腥事件中,五台山一带是我受害同胞尸骨丛葬地之一。据崇善堂、红卍字会等慈善团体埋尸记录记载,于一九三七年十二月至一九三八年二月,曾在此先后四批埋葬。我被害同胞尸骨二百五十四具。特立此碑,以志悼念。碑头题字“纪念碑”三字由当年被害的幸存者王如贵书。


14、下关发电厂死难工人纪念碑

该碑为一九五七年初建,是南京市内第一块遇难同胞纪念碑。但在寻访的过程中,我们并未能进入发电厂内,询问厂内职工,回答也此碑,我们怀疑或许是该厂职工不知情,或许是发电厂进行建设时误毁。


15、侵华日军南京大屠杀仙鹤门遇难同胞纪念碑

1937年12月13日,侵华日军攻占南京东郊马群,仙鹤门一带,俘获我抗战官兵及民众15000余人。同年12月18日,日军分散多处将4000多名手无寸铁的平民和俘获集体屠杀。翌年春,仙鹤村附近尚有大批尸体横躺在村外麦地里。据当地居民谭庆瑞、和允兴、仇兴中、和允州、盛文金等共同回忆,1938年春,村民们曾自发将遇难同胞的尸骨,分别就近掩埋于一座“大坟”内。此座“大坟”内掩埋尸体约七百具。特立此碑,以志纪念。


16、侵华日军南京大屠杀燕子矶江滩遇难同胞纪念碑

一九三七年十二月侵华日军陷城之初南京难民如潮相率出逃,内有三万余解除武装之士兵暨两万多平民避聚于燕子矶江滩求渡北逃。讵遭日舰封锁阻旋受大队日军包围,继之以机枪横扫,悉被杀害,总数达五万余人。悲夫其时,横尸荒滩,血染江流,罹难之众情状之惨乃世所罕见。追念及此岂不痛哉!爰立此碑,永志不忘,庶使昔之死者藉慰九泉,后之生者汲鉴既往,奋志图强,振兴中华,维护世界之和平。


17、侵华日军南京大屠杀遇难同胞挹江门丛葬地纪念碑

挹江门附近是侵华日军南京大屠杀中我遇难同胞尸骨丛葬地之一。从一九三七年十二月至一九三八年五月,南京崇善堂红卍字会等慈善团体先后六批,共收死难者遗骸五千一百多具,埋葬于挹江门东城根及其附近之姜家园石榴园等地,特立此碑,以志其事,兼励后人牢记历史,振兴中华。


18、鱼雷营遇难同胞纪念碑

一九三七年十二月十五日夜,侵华日军将被其搜捕之我市平民和已解除武装之守城官兵九千余人,押至鱼雷营,以机枪集体射杀。同月,日军又在鱼雷营、宝塔桥一带再次杀害我军民三万余人。死难者之遗骸,直至次年二月,犹曝露于军营码头等地,惨不可睹。后由红卍字会就地掩埋,仅二月十九日、二十一日、二十二日三天,埋尸即达五千余具。惨史难忘,忆往志慨,特立此碑,正告方来。


19、侵华日军南京大屠杀正觉寺遇难同胞纪念碑

一九三七年十二月十三日,侵华日军在武定门正觉寺,将该寺僧人慧兆、德才、宽宏、德清、道禅、刘和尚、张五、源谅、黄布堂、晓侣、慧璜、慧光、源悟、能空、倡修、广祥广善等十七人集体枪杀;与此同时,日军还在中华门外将尼姑真行、灯高、灯光等杀害。兹值侵华日军南京大屠杀事件五十周年,特立此碑,悼念死者,永诫后人,铭念历史,振兴中华。


20、侵华日军南京大屠杀中山码头遇难同胞纪念碑

中山码头乃侵华日军南京大屠杀遗址之一,当时避居国际安全区之青壮难民,在此惨遭杀害者,共达万人以上。其中,一九三七年十二月十六日傍晚,日军从避居于原华侨招待所之难民中,捕获所谓有“当兵”嫌疑者五千余人,押解于此,用机枪集体射杀后,弃尸江中。十二月十八日,日军又从避居于大方巷之难民中,搜捕青年四千余名押解至此,复用机枪射杀。在此先后,日军还于毗近之南通路北麦地和九甲圩江边,枪杀我难民八百余人。悲夫其时,码头顿成鬼域,同胞罹难枉死,其情惨矣!呜呼,政闇国弱,何可安全?欲免外侮,惟赖自强。今虽时殊势异,仍当“前事不忘”。爰立此碑,勖勉后人,牢记历史,振兴中华。


21、西岗头遇难同胞纪念碑

一九三八年八月(农历正月初九),本村被日军集体枪杀的二十二人中,仅有陈万有一人死里逃生。死亡二十一人:李小三、李永华、李克俭、金怀生、赵小三、周正根、陈广林、陈广泉、陈万松、陈万夏、陈万宽、陈朝良、莫庆文、莫庆武、裔建昌、裔景华、裔景富、曹友恒、董(?)老大、外地二人。另外,还有被日军枪杀及迫害致死的十六人:李克本、李连才、刘贤春、吴宝才、陈治富、陈广寿、刘方氏、裔景妹、陈朱氏及女儿。
当时全村仅有四十二户,遇难者除外地二人外,本村共计三十五人,被烧房屋九十一间又二十六间厢房,损失粮食、衣、被、禽、畜等不计其数,损失惨重。为了教育子孙后代、勿忘国耻、牢记悲惨的历史教训、弘扬爱国主义、团结奋斗、振兴中华,值此抗日战争胜利六十周年之际,本村全体村民,自发捐款,建立此碑,以慰亡灵。


22、湖山村“以史为鉴”碑(本条信息来源于网络)

民国二十六年冬日初四(一九三七年十二月六日),日军侵入湖山,村民流离失所,生灵涂炭,家破人亡,痛不欲生。据不完全统计,先后有六十四人遇难,(大多死于南京沦陷前后),十五家绝户,二百多间房屋被焚。
中国军队曾在棒槌山,岘山等地抗击入侵,许多官兵阵亡,沦陷后,新四军在此依靠人民,坚持敌后抗战,直到胜利。
前事不忘,后事之师,为纪念遇难和阵亡的同胞,坛强爱国情怀,立志振兴中华,呼吁制止侵略战争,保卫世界和平特立此碑。




(以上)






改版履歴:
2017.03.02 No.22湖山村の場所特定を誤っていたので訂正。
2017.03.06 No.12太平門虐殺については検証をさらに深め、別記事に独立。
2017.03.08 各項目に紅卍字会の埋葬記録の数字を加筆、「纪念碑」の一覧表追加。
2017.03.09 「纪念碑」の一覧表修正。表に誤りがあったので再修正。
2017.08.04 No.11上新河“纪念碑”の数字操作の痕跡らしきものについて追記。
2017.08.07 No.17挹江門での埋葬の可能性として、日本軍工兵の作業について追記。
2017.08.21 紅卍字会の数値解釈変更に伴う修正。


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