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《幕府山事件》概要編

2022年09月17日 | 南京大虐殺
お知らせ:gooブログ終了に伴い、この記事は「はてなブログ」に引っ越します。


《幕府山事件》概要編
https://zfphantom.hatenablog.com/entry/2022/09/17/100037



2022.09.17 初版





1937年12月に日本軍が当時の中華民国の首都・南京に侵攻した際に、南京のすぐ北側にある幕府山付近で第13師団隷下の山田支隊が多数の捕虜を捕らえた。この捕虜の多くが結果的に殺害されてしまった「幕府山事件」は、いわゆる“南京大虐殺”とされる中でも個別に名称が付けられるほどに特異な事案である。いまだに細部が不明瞭なため、論争になることも多い。

この記事は、論拠等の細かい情報は個別記事を参照してもらうことにして、幕府山事件と呼ばれている事件全体についての考察結果の概要を示す。

結論としては、この事件では2ヶ所の事件現場のみならず、そこへ向かう路上周辺からも多数の犠牲者が出た。また、事件翌日から“自衛発砲説”に基づく説明がなされている。従って、事件の真相は第65連隊の幹部らがいうように捕虜の反乱鎮圧=自衛発砲だったと言える。



1. 幕府山事件とは
2. 関係地点の比定
3. 「処刑命令」が出ていたのか
4. 「計画的処刑説」と「自衛発砲説」
5. 魚雷営現場の外形的検証
6. 草鞋峡現場の外形的検証
7. 埋葬記録の絞り込み
8. 試算モデル
9. 本当の意図




《1. 幕府山事件とは》


幕府山事件とは、『戦史叢書 支那事変陸軍作戦<1>』から引用すれば、次のような出来事。

第十三師団において多数の捕虜を虐殺したと伝えられているが、これは15日、山田旅団が幕府山砲台付近で1万4千余を捕虜としたが、非戦闘員を釈放し、約8千余を収容した。ところが、その夜、半数が逃亡した。警戒兵力、給養不足のため捕虜の処置に困った旅団長が、17日夜、揚子江対岸に釈放しようとして江岸に移動させたところ、捕虜の間にパニックが起こり、警戒兵を襲ってきたため、危険にさらされた日本兵はこれに射撃を加えた。これにより捕虜約1,000名が射殺され、他は逃亡し、日本軍も将校以下7名が戦死した。

戦史叢書 支那事変陸軍作戦<1> 防衛庁防衛研究所戦史部



これに対して、次の書籍の陣中日記などに基づいて異論が付けられていて、いまだに細部を巡って議論になっている。(以下、「小野日記」と表記する)

南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち :第十三師団山田支隊兵士の陣中日記 小野 賢二
https://www.amazon.co.jp/dp/4272520423/



そして、その小野日記などに立脚した番組も放送された。

NNNドキュメント:シリーズ戦後70年 南京事件 兵士たちの遺言
https://www.happyon.jp/watch/60738022

NNNドキュメント:南京事件Ⅱ
https://www.ntv.co.jp/document/backnumber/archive/post-93.html



上記番組に対応した書籍版はこちら。

「南京事件」を調査せよ (文春文庫) 清水潔
https://www.amazon.co.jp/dp/B077TP2SL8/




冒頭の『戦史叢書 支那事変陸軍作戦<1>』に示されたような説明は「自衛発砲説」と言われる。これに対して、小野日記などに基づいて、NNNドキュメントなどは「自衛発砲説は戦後の創作による嘘である」とし、幕府山事件は計画的な捕虜処刑であったと主張する。

なお、この幕府山事件をめぐっては従来は12月17日の草鞋峡での事件以外に、その前夜にも同様の事件があったのではないかという点が争点になっていたが、『南京の氷雨 /阿部輝郎』で前夜16日の事件を当日の指揮官であった角田中尉(第5中隊長)が証言しているので、その点についてはもはや疑義はないものとする。




《2. 関係地点の比定》


この幕府山事件については、事件現場や収容所などの関係地点も論者によって推定地点が異なるなどの混乱がある。

そこで、南京戦当時の地図はもちろんのこと、収容所その他の当時の写真、参戦者のスケッチ(栗原スケッチ)、さらには GoogleEarth まで使って関係地点の比定を行った。


まず、南京戦当時の地図で幕府山事件の関係地点を以下に示す。





なお、現場は幕府山に面した揚子江岸だが、戦後に中洲(八卦洲)を挟んで揚子江の本流と支流を入れ替える大工事をしたようなので当時とは地形が異なり、地理的考察の際には注意を要する。


比定した関係地点を GoogleEarth 画像の上にまとめたのが次の図である。





上の関係地点比定図を用いて幕府山事件の大まかな流れを示す。

南京攻略戦においては1937年12月13日がいわゆる陥落日とされているが、その翌日14日に第13師団隷下の山田支隊は幕府山付近に到着し、幕府山砲台を占領した。

その際に、山田支隊は幕府山の東方で1万5千人とも言われる「戦意を失った大量の敗残兵」を捕虜とした。

山田支隊では、この捕虜を「幕府山南麓の学校か兵舎のようなワラ葺きの十数棟の建物に収容した」という。これが上図の下部にある「Z収容所」である。

すると、16日に収容所で火災が発生し、収容した捕虜の「半分が逃亡した」あるいは「1/3を魚雷営に連行」して事件になったという。この場所が、上図の左側にある「X事件現場(魚雷営)」である。

ちなみに、この魚雷営というのは、中華民国がドイツから購入した魚雷艇・Sボートの基地である。

そして翌17日には、収容所に残っていた捕虜を、おそらく図中の赤線の経路を通って「Y事件現場(草鞋閘)」に連行し、そこでまた事件となった。

なお、17日の事件現場の地名については、本考察記事の中では「草鞋峡」と表記することが多いが、「草鞋閘」と表記する場合もある。後者は、紅卍字会の埋葬記録に登場する地名である。2つの地名に本質的に差異はない。


関係地点をどのように比定したのかについては、次の記事を参照。






《3. 「処刑命令」が出ていたのか》


2ヶ所の事件現場で何が起きたのか、という話の前に、そもそも1万5千人とも言われる「戦意を失った大量の敗残兵」を捕虜とした後に、日本軍としてこれをどのように処理しようとしていたのかを見てみる。

南京論者にはよく知られているように、この幕府山事件では「捕虜の処刑命令」が出ていたと長らく言われてきた。山田旅団長の日記によれば次のような文面である。


十二月十五日 晴
捕虜の仕末其他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す
皆殺せとのことなり
各隊食糧なく困却す


(山田栴二日記)



捕虜の件で本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡させたところ相手方から「(捕虜を)皆殺せ」と言われた、と読める。


他にも福島民友新聞社が刊行した『郷土部隊戦記』(昭和39年)、『ふくしま 戦争と人間  1 白虎編』(昭和57年)にも同種の「処刑命令」の話が載っている。(両角連隊長率いる歩兵第65連隊は会津若松の部隊である)

なにしろ当事者の部隊幹部が「処刑命令を受けていた」と言うものだから、誰がそんな命令を出したのか、という「犯人探し」が幕府山事件におけるひとつのテーマになっていたように思う。

特に個人名が挙げられていたのは、上海派遣軍司令部の長勇参謀(後に沖縄戦で戦死)である。捕らえた捕虜を「ヤッチマエ」と処刑するように命じた、とする話が流布されている。

しかし、この12月15日時点では、上海派遣軍司令部はまだ湯水鎮にいる。また、松井方面軍司令官は8日から発熱し、11~13日は病床にあり、15日の午後3時にやっと湯水鎮に来たところ。

従って、上記の山田旅団長日記に登場する「皆殺せとのことなり」の発信者は、上海派遣軍司令部あるいは中支那方面軍司令部ではない。


一方で、上海派遣軍司令部の飯沼参謀長は、15日の日記に、山田支隊の捕虜は16師団に引き取らせると書いている。

◇十二月十五日 霧深し 快晴
山田支隊の俘虜東部上元門附近に一万五、六千あり 尚増加の見込と、依て取り敢へず16Dに接収せしむ。


(飯沼守日記)


そして、中島今朝吾日記(16師団長、陸軍中将)を見ると、12月15日前後は16師団司令部は南京城内(中央飯店)にいる。

つまり、15日に南京に派遣した本間騎兵少尉に「皆殺せ」と伝えたのは、捕虜を引き取るはずだった16師団であると思われる。

しかし、山田支隊は13師団隷下なので、16師団からの“命令”を受ける立場にはない。

また、板倉由明氏の調べによれば、13師団司令部は山田支隊に捕虜を中洲に送れ、と命じたという。



まとめると次のようになる。


1)虐殺命令を出したのは長勇参謀だと一部で言われているが、そうではない。
2)上海派遣軍司令部では、捕虜を一旦16師団に引き取らせ、その後上海に送って労役に就かせるよう手配していた。
3)16師団は、入城式について城内掃討が間に合わず無理だから20日以後にしてくれと言っているのに、中支那方面軍から17日の決行をゴリ押しされてストレスがかかっている。
4)山田支隊は19日に下関から渡河して13師団本隊に合流する予定なのに、16師団から捕虜受け取りを拒絶され、最後の手段として夜間にこっそり捕虜を解放することを画策し、混乱が生じて失敗。


詳細は次の記事を参照。






《4. 「計画的処刑説」と「自衛発砲説」》


幕府山事件において前項の犯人探しよりもさらに大きな争点は、「計画的処刑説」と「自衛発砲説」の対立である。

冒頭に挙げた『戦史叢書 支那事変陸軍作戦<1>』に示されたような説明は「自衛発砲説」と言われる。

これに対して、小野日記(『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち /小野 賢二』)などに基づいて、NNNドキュメントなどは「自衛発砲説は戦後の創作による嘘である」とし、幕府山事件は計画的な捕虜処刑であったと主張する。

そこで、本項では「自衛発砲説が登場したのはいつだったのか」について検証した。

その結果の要点を以下に示すが、端的にいえば戦後どころか、事件の翌日から自衛発砲説に基づく説明がなされている。


1)幕府山事件については、「自衛発砲説」vs「計画的処刑説」という対立で論じられることが多い。
2)同盟通信記者・前田雄二氏は事件の翌日に警備司令部から、万を超える投降兵を武装解除し「江北へ逃げていくことを教唆」したところ大乱戦となり「護送中の日本部隊を襲撃」してきたので機銃掃射したという「自衛発砲説」の説明を受けている。
3)事件4日後に上海派遣軍・飯沼参謀長と上村参謀副長が日記に「自衛発砲説」を書いている。
4)遺体は事件現場にのみあったのではなく、道路などに延々と連なっていたとの複数の証言がある。
5)連行された捕虜の中にも、行進中に発砲が始まったと証言している人(殷有余氏)がいる。
6)事件現場では混乱から日本軍将兵に死傷者が出ている。
7)相当数の捕虜に逃げられたことを飯沼参謀長と上村参謀副長が日記に書いている。
8)従って、これらの情報を俯瞰して見る限り、計画的処刑の意図があったかなかったかには関係なく、現場で実際に起きたことは「自衛発砲説」を示唆しているとしか思えない。


詳細は次の記事を参照。






《5. 魚雷営現場の外形的検証》


本項では主に「計画的処刑説」の視点で魚雷営の現場観察による考察を試みる。



(魚雷営について)

魚雷営というのは、中華民国がドイツから購入した魚雷艇 Sボートの基地である。
そこには、揚子江岸の岸壁に建物が約10棟ほど立ち並んでいた。頑丈な鉄筋コンクリート製の3階建だったとされる。
その建物群の前の細長いスペースに角田中隊は数千人とも言われる捕虜を連行して事件になった。






(三年式機関銃の射角と穴幅の検証)

清水潔氏の著書によると、現場設営の日本兵は鉄筋コンクリートの建物の揚子江側の壁に横に広い穴を開け、その屋内側に機関銃をセットしたという。

そして、その建物前に捕虜集団を誘導し、建物内の機関銃を用いて銃身を左右に振りながら乱射し処刑したということになっている。

そこで、機関銃の左右の振り角度がどこまで確保できるかを検証した。


左右振り角度/穴幅
18°/20cm
36°/40cm
52°/60cm





そこには、制限事項が2種類ある。

ひとつは、鉄筋コンクリートの建物であるからには、横に広い穴を開けるといってもそれは内部の鉄筋ピッチに依存する。これについては、30cm程度としておきたいところではあるが、確証はないので40cmもあり得るかな、とする。40cmなら角度にすれば36°である。

もうひとつは、現場で使用された三年式機関銃の仕様による制限である。これによると、「薙射角度」として「左右各、十八度」と記載されていて、つまり左右36°である。



(射撃時の空間的考察)

次に、上述の「振り角度36°/穴幅40cm」の設定で、射撃時の射角や死角などの状況を見てみる。

主な条件としては、連行捕虜を3千人として建物と岸壁の間に集め、幅40cmの壁穴の屋内側に機関銃4挺を設置するものとする。

そうすると、下図のように、50%は弾が当たらない安全地帯であり、25%は射撃開始直後なら水に飛び込んで逃げられる可能性のあるエリアとなり、25%が射撃開始の早い段階で被弾するエリアとなる。

三年式機関銃の弾自体は三八式歩兵銃と同じであり、貫通力としては2人目まで行く場合はあるにしても、それほど多数の人体を一気に貫通することはない。

すると、特に射撃開始直後は建物側の人物が弾丸を受けるので、岸壁に近いほど弾丸が届きにくくなる。

これは果たして“処刑場”の設定として適正なのかどうなのか。






(清水潔氏の再現による描写から)

次に、清水潔氏が自身の再現描写で機関銃について「隣の銃との間隔は約 10 メートル」と書いているので、これを用いて前述の図を書き直してみる。

すると、射界が約50%であることはほぼ変化がないが、横方向のカバー率があまりにも悪すぎる。すなわち、捕虜の隊列が65m程度にもなると思われるのに、40m程度しか射界としてカバーできていない。

小野日記によると複数の将兵が魚雷営に三千人の捕虜を連行したと書いているから、「刑場」としての現場設営ならこの人数をカバーする射界が必要であるはずなのに、そうなっていないのである。

従って、これを「刑場」と考えるには、どこかの前提なり仮定がおかしい。






(“突撃破砕線”)

魚雷営での作戦を指揮した角田中尉率いる第5中隊は120名。応援を入れてもせいぜい200名前後のはず。連行捕虜数3千人なら、護送兵力の約15倍。たとえ丸腰でも暴徒化すれば角田中隊の方が逆に撃破されかねない。

暴徒集団から角田中隊を防護するには、いわゆる“突撃破砕線”の設定が有効になる。





“突撃破砕線”としての設定なら、建物の壁穴から重機関銃の銃口を岸壁に向けるのは理に適っている。暴徒集団の進行方向に対して真横からの射線でこれを阻止しつつ、重機関銃の射手らは暴徒からの攻撃を受けずに済むからである。

角田中隊に近い方に10m間隔で重機関銃を配置すれば、防護射撃時には暴徒集団の前半分は分断され、かつ角田中隊の最前面の暴徒集団は小集団化される。暴徒であっても小集団なら、角田中隊の歩兵銃で制圧できる。

このように、“突撃破砕線”の設定であれば、重機関銃の射界で捕虜集団の全域をカバーする必要はない。すなわち、この重機関銃の配置は、角田中隊の防御用と考えられる。

これで、「刑場」としての不自然さの理由は解明できたように思う。



(横に拡げた壁穴)

清水潔氏の著書に戻り、壁穴を横に拡げたというのは誰の証言なのかを確認する。

「やがていくつかの穴が空いた。男達はそれを水平に広げていった……」とあるが、ここは清水潔氏による再現描写の作文である。

元兵士の証言からは、壁穴を開けるのは大変だったという話は登場するが、壁穴を横に拡げたという話は見当たらない。

“突撃破砕線”としての設定なら、壁穴を横に拡げる必要はない。暴徒集団の方が押し寄せてくるという想定だから、これを阻止するため重機関銃の射線を真横から差し込んでさえいれば良い。



まとめると次のようになる。


1)魚雷営の建物の壁に穴を開け、屋内設置の重機関銃の銃口を壁穴から外に向けて「刑場」にしたという。その際に、銃身を振るため壁穴を水平に拡げたという。しかし、建物が鉄筋コンクリートなので穴を水平に拡げるにしても鉄筋ピッチに制限される。また、重機関銃の左右振り角度は最大36°の仕様であり、いずれにしても死角が生じる。また、射界内であっても射撃開始直後は手前の人物が弾丸を受けるため、奥には届きにくい。

2)小野日記によると複数の将兵が魚雷営に三千人の捕虜を連行したと書いている。三千人を魚雷営に整列させると20m×65m程度の面積になる。これに建物内から重機関銃4挺を向けても半分程度しか射界に入らない。さらに建物1棟は40m程度なので捕虜集団より短いことになる。これでは「刑場」にならない。集団処刑目的なら、もっと有効な機関銃の配置もあったのに採用していない。

3)魚雷営に捕虜を連行した際の指揮官である角田中尉(第5中隊長)は、万一の場合を考えて機関銃を用意したという。万一とは何か。護送兵力の約15倍にもなる捕虜集団の暴徒化であろう。集団処刑には最適化されていない重機関銃の配置は、実はいわゆる“突撃破砕線”の設定ではないのか。もし暴徒が押し寄せてきても防護射撃時には暴徒集団の前半分は分断され、角田中隊を防護できる。

4)屋内設置の重機関銃の銃口を壁穴から外に向けて「刑場」にしたという話にとって重要なのは穴の形状である。清水潔氏による再現描写では銃身を左右に振るため穴を水平に拡げたとあるが、日本兵の証言にはそのような発言は見当たらない。一方で、“突撃破砕線”の設定ならば暴徒が押し寄せてくるという想定なので、防護射撃時に銃身を振る必要はない。つまり、穴を水平に拡げる必要がない。そして、捕虜の全てを射界に入れる必要もない。


詳細は次の記事を参照。

《幕府山事件》魚雷営現場の外形的検証
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/5fe165164b8b9537c71c97f707ef986b





《6. 草鞋峡現場の外形的検証》


本項では主に「計画的処刑説」の視点で草鞋峡の現場観察による考察を試みる。



草鞋峡の現場にいた栗原利一氏(第65連隊第1大隊、伍長)がスケッチを残している。



そこにあった現場のスケッチと、当時の地図を照合すると下図のように現場を比定することができる。

現場付近は「土堤」で囲まれている。土堤の機能や揚子江の水位の季節変動から考察すると、現場から見て土堤の高さは約3mほどもあったと思われる。

栗原スケッチと照合すると、岸辺に集めた捕虜を三方から囲んだ日本軍の下辺のみが土堤の上、左右の辺は土堤の下だった。

また集団処刑を狙うなら、その左側200m付近であれば左辺と下辺の土堤2辺という高所を使えたのに、そのような現場選定はしていなかった。






(現場設営の不審点)

NNNドキュメントで放送された1シーン(模写)を示す。

捕虜を囲い込んだ鉄条網の終端部にある「松明」は、同士討ちを避けるために射撃範囲を規制するためのものだという。




清水潔氏の著書から「松明」の箇所を引用してみる。ただし、ここはあくまで清水氏の作文による再現描写である。

(清水潔氏による再現描写)
川に面した鉄条網の開口部。その二個所の終端部には松明が用意されていた。着火ーー。炎は川面を、不安げな捕虜たちの顔を、赤く照らしだす。暗闇で複数の機関銃を乱射すれば相打ちを起こしかねない。機関銃隊員は二つの松明の「炎の間を狙って撃つように」と、あらかじめ命じられていた。外れた弾は全て川に抜けるからだ。


「南京事件」を調査せよ /清水潔




(栗原スケッチの観察)

しかし、栗原スケッチに沿って重機関銃の射界(36°)を重ねてみると、少なくとも絵的には同士討ちの現場設営になってしまっている。約100mの距離を挟んで味方同士で撃ち合う現場設営などあり得ない。

このとき、栗原伍長は下辺の土堤右端付近にいたというが、松明射撃規制があれば撃てる範囲が狭くなる。しかし、栗原伍長は松明射撃規制について何も語っていないし、スケッチにもそれらしいものは何もない。





「計画的処刑説」を主張しようとすれば、同士討ちリスク回避策として「松明による射撃規制」を持ち出したいのもわかる。

しかし、清水潔氏の著書を読む限り「松明による射撃規制」についての現場にいた日本兵からの証言が見当たらない。「松明」が登場するのは全て清水潔氏本人の作文の中である。

また、栗原伍長は現場には鉄条網はなかったという。そうすると、鉄条網の終端部の松明とはなんなのか。




(船と航路)

現場付近の船と航路に関する情報をまとめる。





事件後の遺体の山を目撃した鈕先銘氏によれば、現場は浅瀬だという。地形的にもそう見える。

では、船をどう着けるつもりだったのか。事前に現場設営をした箭内准尉によれば、「江岸に出てヤナギの木を切り倒し、乗り場になる足場などを設けた」という。

また、捕虜の立場でそこにいた唐光譜氏は「つづいて河の二艘の汽船の数挺の機関銃と三方の高地の機関銃が一斉に狂ったように掃射してきた」と書いている。船からの射撃はどうかと思うが、とにかく船はあったと証言している。

さらに、事件翌日に多数の遺体を目撃した同盟通信記者・前田雄二氏が城内の警備司令部に尋ねたところ、「少数の日本部隊へ万を超える中国軍が投降してきたので武装解除し、江北へ逃げていくことを教唆したら、われ先にと船に乗り(中略:船をめぐる混乱)双方大乱戦となった勢が護送中の日本部隊を襲撃してきたため、機銃で掃射したものである」との説明を受けたという。

そして、草鞋峡の現場での指揮官だった田山少佐は「解放が目的でした。だが、私は万一の騒動発生を考え、機関銃八挺を準備させました。舟は四隻ーーいや七隻か八隻は集めましたが、とても足りる数ではないと、私は気分が重かった。でも、なんとか対岸の中洲に逃がしてやろうと思いました」と証言している。

これほどまでに立場が異なる複数の証言者が一様に船のことに言及していることから、現場に船があったことは間違いないと思われる。そして、栗原スケッチにも船が描かれている。



(開いた包囲網の謎)

その栗原スケッチをよく観察すると、捕虜集団を囲い込む包囲網の左辺は内側に向けて閉じているのだが、右辺は実は岸辺に向かって開いている。

誰も証言していないが、右辺の開いた包囲網の岸辺に箭内准尉らが作った「船着場」があったと推測する。

また、船も現場の右側に描かれている。そして、右辺の開いた包囲網の機関銃はよく見ると捕虜集団に向いていない。

どういうことかというと、図中に点線赤丸で示した位置に船着場があり、開いた包囲網の機関銃は船着場へ向かう乗船順路に向けられていたのだと思われる。

現場の前は地形的に左に行くほど浅瀬になっているので、船着場を設けるなら現場の右側に来るのが必然的なのである。





次に、現場指揮官だった田山大隊長がいた場所を探る。

栗原伍長がいた場所は包囲網の土堤右端付近だった。その栗原スケッチを見ると、事件直後の田山大隊長の「つぶやき」がメモされている。

伍長と大隊長(少佐)の関係だから、よほどのことがなければ親密な会話などないはず。それでも「つぶやき」がメモされてるところを見ると、至近距離にいたのだと思われる。

では、なぜ田山大隊長もそこにいたのか。理由は「船で捕虜を対岸に逃す作戦」の指揮官ならそこがベストポジションだからである。

土堤右端ならば、現場全体を視野に収めつつ、捕虜の乗船作業や船の航行状況も比較的近くで視認できる。





これほど多数の断片的状況証拠が一様に指し示していることは、17日夜に捕虜をこの草鞋峡の現場に移送した意図は対岸の中洲への解放であり、そのための現場設営がなされ、船も実在し、事件発生直前までそのように動いていたであろうということである。



まとめると次のようになる。

1)現場の再現描写の中で、岸辺の捕虜集団を三方から囲って射撃したというが、これは同士討ちの危険があり、処刑場の設営としてはおかしい。捕虜集団を囲む横幅は約100m、この距離で味方同士が撃ち合う体制になる。激戦をくぐり抜けてきた第65連隊が同士討ちリスクに気づかないはずがない。

2)一部の再現描写では同士討ちリスク回避のために、捕虜を囲む鉄条網の終端部に設置した松明に火を灯し、射撃規制用の目印にしたという話があるが、これもおかしい。栗原伍長は包囲網右側にいたというが、松明射撃規制があれば撃てる範囲が狭くなる。しかし、栗原伍長は撃ったと証言しているし、松明射撃規制に言及した形跡もない。そして、鉄条網はなかったという。

3)より詳細な地図を用いて事件現場の比定を行ったところ、三方を囲む日本軍の下辺は土堤だったが左右の辺は土堤ではなかった。集団処刑を考えるなら2辺の土堤の上から射撃した方が良い。その場所は現場から200mほどずれている。集団処刑を狙った場所選定ではないことがわかる。

4)栗原スケッチをさらに詳しく観察すると、実は岸辺に捕虜集団を囲い込んだ包囲網のうち左辺は内側に閉じているが、右辺は岸辺に向かって開いている。そして、右辺の開いた包囲網の機関銃は捕虜集団に向けられていない。未だ証言には出てこないが、開いた包囲網の中に船着場とそこへ向かう乗船順路があったものと思われる。そして田山大隊長は現場全体を視野に収めやすく船着場にも近い土堤右端にいた。

5)第一機関銃隊二等兵氏の証言から重機関銃の射撃状況が判明した。約10分間に、0.7秒の連射と16秒の待機時間、その繰り返し。捕虜集団に狂ったように撃ちまくったというイメージではない。むしろ、機関銃分隊長は薄明かりの中で、射撃目標を精密に見定めて逐一射撃指示していたと思われる。また、重機関銃は65連隊が保有する半数しか動員していない。



詳細は次の記事を参照。

《幕府山事件》草鞋峡現場の外形的検証(前編)
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/e5c0c9b19ec42a60c0d038314aa4e32a

《幕府山事件》草鞋峡現場の外形的検証(後編)
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/67c2655b8679239d13220dde13c349a7




《7. 埋葬記録の絞り込み》


幕府山事件の犠牲者数を算定するにあたって、その前作業として紅卍字会の埋葬記録から関係する項目を拾った。





考え方としては紅卍字会の埋葬記録に記載されている収容場所と埋葬場所、そして幕府山事件の2つの現場(草鞋峡、魚雷営)、さらに収容所から両現場への捕虜移送経路と重なる項目を洗い出した。

その結果、幕府山事件に関係しているとした判定したのが、上図の表のA〜E項である。

E項の大渦子での収容1,409体は、草鞋峡の現場そのものである。地元の人はその場所を地形的特徴から「大渦子」あるいは「大湾子」などという。

それ以外のA〜D項は収容所から両現場へ向かう捕虜移送経路に該当する。

埋葬記録の確認から、幕府山事件と直接的に関係があるとわかったのはここまでだった。


しかし、全ての試算をし終えてから試算値に極めて近似する記録がまだあることに気づき、F項として取り入れた。F項の「幕府山付近で収容」という文面が示すエリアが広すぎて場所を特定できていなかったのである。

F項1,346体も幕府山事件のものであると判定したことで、この事件に関する地上の遺体は全て紅卍字会の埋葬記録から特定できたことになった。

したがって、G項はもはや無関係と考えているが、F項と記録上の表記が似ているので参考までに残してある。


まとめると、次のようになる。


1)幕府山事件の遺体の地理的範囲は、魚雷営と草鞋峡の両現場および収容所から上元門を経て両現場へ向かうエリアに限定される。

2)紅卍字会の埋葬記録から条件に合致する項目を抜き出すと、魚雷営での収容574体、上元門内での収容591体、大渦子(=草鞋峡現場)での収容1,409体、の合計2,574体が該当する。(上図A〜E項)

3)大渦子での収容1,409体については、山田支隊が事件直後に河に投げ入れたものである。通常なら流れていくところだが、ここは地形的な関係から流れにくく、むしろ滞留するような場所である。さらに、揚子江の水位の季節変動のため、山田支隊が投げ入れた時点では水位が下がり続けていた。そのために、紅卍字会の遺体収容時点では水位が1m前後も低くなり、遺体の山のほぼ全体が陸の上にあった。

4)その他に「収容:幕府山◯◯、埋葬:下関石榴園」などとある複数の項目(FとG項)に合計4,296体ある。最終的な試算をまとめていたところ、このうちF項1,346体については試算値と極めて近似していているため、幕府山事件のものであると判断できた。これで幕府山事件に関する地上遺体については全て紅卍字会の埋葬記録から特定できたことになるので、G項2,950体については無関係と考えられる。


詳細は次の記事を参照。

《幕府山事件》埋葬記録の絞り込み
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/fb155aa7d56ce5e3e43f490f8fe5eb68





《8. 試算モデル》


埋葬記録の絞り込みに続いて、幕府山事件全体の犠牲者数その他の数字の試算を行った。

すると、そこで見えてきたのは意外なことに、事件発生の瞬間に現場に到着していた捕虜の人数は全体の半分以下で、過半数は現場に向かう移送隊列の中にいた。

そして、事件翌日に現場を見た前田記者の証言や紅卍字会の埋葬記録などと照合すると、捕虜移送隊列からの死亡率は60%と試算できた。

試算結果によれば、事件発生時点で魚雷営の現場に到着済みの捕虜人数は1,000人である。一方で、魚雷営に捕虜を連行した際の指揮官である角田中尉は「結局、その夜に七百人ぐらい連れ出したんだ。いや、千人はいたかなあ…」と証言している。現場で視認した人数としては整合的である。

また、同様に事件発生時点で草鞋峡の現場に到着済みの捕虜人数は2,800人と試算した。一方で、両角連隊長手記の事件発生時の描写にこう書いてある。
「二千人ほどのものが一時に猛り立ち、死にもの狂いで逃げまどうので如何ともしがたく、我が軍もやむなく銃火をもってこれが制止につとめても暗夜のこととて、大部分は陸地方面に逃亡、一部は揚子江に飛び込み、我が銃火により倒れたる者は、翌朝私も見たのだが、僅少の数に止まっていた」
これも現場にいた人数としては概ね整合的である。





続いて、上述した試算結果の数字を紅卍字会埋葬記録の数字とともに地図上に書き入れてみた。

そうすると、今の中国において建立されている「草鞋峡遇难同胞纪念碑」(日本でいう慰霊碑に相当)を中心とした半径1kmくらいの広範囲に、事件の遺体が散乱していたと推定できる。

試算結果によれば捕虜移送経路の路上付近における遺体密度は、移送経路道程に換算すれば1体/mほどであった。事件発生時に逃走を試みた捕虜が射殺されたとして、これを空間的に捉えるならば、200mの道路区間を含む200m四方に200体という理解でも良い。

日本側の論証では魚雷営と草鞋峡の2つの現場にのみ注目がいくが、一部の目撃者(前田記者ら)、あるいは地元の人の目撃談に根付いているはずの中国側の認識とは極めて乖離していると思われる。






まとめると、次のようになる。


1)報道や陣中日記に登場する捕虜数は戦果としての誇張があり、かつ数字が一定しないので収容捕虜数として信用するに値しない。しかし、関係者の中で共通する要素がある。(a) 殷有余氏「九千人」、(b) 小野日記「魚雷営連行三千人または三分の一」、(c) 平林中尉「一万人」、(d) 両角連隊長「八千人」、のいずれも収容捕虜総数として9千人前後の数字を示している。

2)収容捕虜総数9千人、魚雷営3千人、草鞋峡6千人とし、紅卍字会の埋葬記録、前田記者の目撃談、その他関係者の証言と数字的に大きな破綻がなく成立する試算モデルを作成した。その結果は、捕虜総数9千人のうち40%が逃亡。また、犠牲者数の58%が移送途中の路上周辺だった。これが唯一の解ではないが、数字の幅はかなり収斂してきたと考える。

3)この結果からすると、南京論者(歴史家、研究者その他)が語ってきた幕府山事件イメージ、すなわち「収容捕虜の大半が2ヶ所の現場で殺害された」という理解は相当間違えているのではないか。両角手記にある草鞋峡現場の捕虜数「二千人ほど」という数字や、郷土部隊戦記にある草鞋峡現場の犠牲者数「千人を上回った程度」は、収容捕虜数からいって信用ならない数字とされてきたと思うが、私の試算には整合的である。移送途中の隊列を無視しているから「そんなはずはない」と決めつけて切り捨ててきたのではなかったか。



詳細は次の記事を参照。






《9. 本当の意図》


幕府山事件に関する一連の考察記事を通して、事件の輪郭を追ってきた。この事件はどの角度から見ても異様であり、大失態である。上村参謀副長の日記から文面を借りれば「下手なことをやったものにて遺憾千万なり」である。

従って、当事者の部隊(山田支隊・第65連隊)幹部が、この事件を隠蔽したり、矮小化したり、弁解したりしたくなるのはよくわかる。そのために、ここまでは山田支隊・第65連隊の幹部らの証言をあまり主軸にしないようにして、考察を進めてきた。

ただ、調べていく中で部隊幹部の事情や理屈のようなものも見えてきた。それは全てここから始まっている。

【火事で逃げられたといえば、いいわけがつく】


火事というのは魚雷営で事件が起きた16日夜の、その同じ日の昼頃に収容所で起きた火事のことである。ただし、史実としてはこの火事による捕虜の逃亡はほとんどいなかったとされる。

「いいわけ」というのは、上海派遣軍司令部では捕虜を一旦16師団に引き取らせようとしていたのに、その16師団は山田支隊に対して捕虜受け取りを拒否したのみならず、山田支隊に対して捕虜の処刑を頻繁に催促してきたことに対するものである。


そこで両角連隊長が求めた成果は何か。

【火事で逃げられたので、捕虜はもういない】


である。

ここから、「逃げられた」を実現すべく、「解放」というには微妙だが、「処刑」とも違う秘密作戦が動き出した。

そこに、「逃げられた」行き先は「中洲」という条件も加えられた。

実行部隊にこれが展開されると、「逃げられた」行き先として「中洲以外は許さない」体制が敷かれた。


実行部隊の指揮官はあくまで「中洲への解放」というつもりだったと思われる。

しかし、その一方で、捕虜の護送兵らは上海戦から続く激戦により「われわれは皆、戦友を失ってきたんですよ!と怒髪天を衝く形相」という心情を持っていた。

そして、現場に連行された捕虜たちは何かをきっかけに集団処刑の匂いを感じ取り、死に物狂いの抵抗を開始した。

目の前で戦友が殺された兵士らは逆上し、戦友の仇とばかりに撃ち始めた。


その混乱は、まだ現場に向かって進んでいた捕虜移送隊列にも連鎖的に波及した。



詳細は次の記事を参照。






《改版履歴》


2022.09.17 初版




《関連記事》


《幕府山事件》概要編
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/4997887cce0ec9d9cc7e17f92562d37c

《幕府山事件》地理編
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/9b9a860e2c39a923405efe2946d766ed

《幕府山事件》時系列編
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/b371d9b304f84e519677960e6b644f17

《幕府山事件》自衛発砲説
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《幕府山事件》魚雷営現場の外形的検証
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/5fe165164b8b9537c71c97f707ef986b

《幕府山事件》草鞋峡現場の外形的検証(前編)
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/e5c0c9b19ec42a60c0d038314aa4e32a

《幕府山事件》草鞋峡現場の外形的検証(後編)
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/67c2655b8679239d13220dde13c349a7

《幕府山事件》埋葬記録の絞り込み
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/fb155aa7d56ce5e3e43f490f8fe5eb68

《幕府山事件》試算モデル
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/548a45b8a1f4e8c8c0fee0fab3b670e0

《幕府山事件》本当の意図
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/a8da8d8a68b1117afd6ea3cf649d104f


How to calculate the 幕府山事件.
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/e525d516fc4332665f5a3c3fc9a67d25



★南京大虐殺の真相(目次)
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/9e454ced16e4e4aa30c4856d91fd2531




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《幕府山事件》本当の意図

2022年09月17日 | 南京大虐殺
2022.09.17 初版





幕府山事件に関する一連の考察記事を通して、事件の輪郭を追ってきた。

この事件はどの角度から見ても異様であり、大失態である。上村参謀副長の文面を借りれば「下手なことをやったものにて遺憾千万なり」である。

従って、当事者の部隊(山田支隊・第65連隊)幹部が、この事件を隠蔽したり、矮小化したり、弁解したりしたくなるのはよくわかる。

そのために、ここまでは山田支隊・第65連隊の幹部らの証言をあまり主軸にしないようにして、考察を進めてきた。

ただ、調べていく中で部隊幹部の事情や理屈のようなものも見えてきた。その辺りをこの記事で述べておこうと思う。

なお、関係者の証言や手記などは記事の末尾に並べておく。


それから、「意図」という、心のうちまでをも対象にするテーマとなる関係で、他の記事とは論調が異なることをあらかじめお断りしておく。



1. 捕虜移送の意図
2. 両角連隊長の論理
3. 本当の意図
4. 角田中尉
5. 田山少佐
6. 兵士らの心情
7. 船をめぐる混乱
8. 言行不一致
9. 囲師必闕
10. 成功していた作戦
11. 戦後も続いていた理屈
12. まとめ
13. 関係者の証言




《1. 捕虜移送の意図》


幕府山事件における捕虜移送の「意図」について改めて振り返る。

調べていて登場する意図は、捕虜の「解放」「処刑」「使役」の3つである。





しかし、これが3択問題であるかどうかはわからない。




《2. 両角連隊長の論理》


調べている人は知っている話だが、両角連隊長という人は魚雷営の事件を頑なに無視する。

実は、そこにある種の論理があったのである。その謎を解いていくと、真相に近づく。


魚雷営に出動した部隊の指揮官だった角田中尉(第5中隊長)が種明かしをしている。

火事があって、かなりの数の捕虜に逃げられた。だが、このとき両角連隊長のところには「処分命令」がきていた。しかし両角連隊長はあれこれ考え、一つのアイデアを思いついた。

「火事で逃げられたといえば、いいわけがつく。だから近くの海軍船着き場から逃がしてはどうかーー。私は両角連隊長に呼ばれ、意を含められたんだよ。結局、その夜に七百人ぐらい連れ出したんだ。いや、千人はいたかなあ……。あすは南京人城式、早ければ早いほどいい、というので夜になってしまったんだよ」


(角田中尉)


火事というのは、12月16日の収容所の火事のことである。これがきっかけとなって、魚雷営に1/3とも言われる捕虜を連行することになったという。

ある種の論理というのはこれである。

【火事で逃げられたといえば、いいわけがつく】



歴史家たちの論証で、この時の火事はあったにしても、逃亡者はさほど多くない。もしくは、ほとんどいない、ということになっている。

だが、そういう次元の話ではないのである。



「いいわけがつく」とは誰に対する言い訳か。

1937年12月16日時点でのこの言い訳の宛先の第一は、捕虜処刑を頻繁に催促してきていた第16師団である。続いて上海派遣軍。建前的には山田旅団長も含まれていたかもしれない。ただ、山田旅団長はグルである。


次の記事で考察したが、この時期の山田支隊は困った状況にあった。




その困った状況とは。

(a) 山田支隊は大量の捕虜を抱えていた。
(b) 上海派遣軍司令部では、捕虜を一旦16師団に引き取らせ、その後上海に送って労役に就かせるよう手配していた。
(c) にも関わらず、16師団は山田支隊に対して捕虜受け取りを拒否したのみならず、山田支隊に対して捕虜の処刑を頻繁に催促してきた。
(d) 困った山田旅団長は相田中佐を上海派遣軍司令部に派遣するが、それでも問題解決しない。
(e) 山田支隊は19日に下関から渡河して13師団本隊に合流する予定なので残り時間がない。


そこで、16日に発生した火事を利用して、両角連隊長が考えたのである。

【火事で逃げられたといえば、いいわけがつく】



両角連隊長が求めた成果は何か。

【火事で逃げられたので、捕虜はもういない】

である。



わかりますでしょうか。

16師団「捕虜を早く始末しろ」
山田支隊「火事で逃げられたので、捕虜はもういない」


これを実現しようとしたのである。



そうは言っても、捕虜はまだ厳然と存在している。

そこで、両角連隊長は田山少佐と角田中尉を呼んで密命を与えたと思われる。

両角連隊長手記には、田山少佐への命令が書かれている。

「十七日に逃げ残りの捕虜全員を幕府山北側の揚子江南岸に集合せしめ、夜陰に乗じて舟にて北岸に送り、解放せよ。これがため付近の村落にて舟を集め、また支那人の漕ぎ手を準備せよ」(From:両角 To:田山)


しかし、これは戦後に書かれたものなので、戦後の事情が反映されている。それに、角田中尉を1日前に動かしてるのだから、そういう意味でも違う。


田山少佐と角田中尉への密命の内容は不明だが、求めた成果がこれなので、何をやらせようとしたかは推測できる。

【火事で逃げられたので、捕虜はもういない】


「火事」は既に過去のこと。
「捕虜はもういない」は近未来。
今、何をしろと求めているかといえば「捕虜を逃がせ」である。



捕虜が逃げた状態さえ作れれば、【火事で逃げられたので、捕虜はもういない】が実現する。


だからといってここでただちに「捕虜解放説」を主張しようというわけではない。ここが微妙なところ。


戦争中の戦場で捕虜を収容してる軍隊が、上級司令部からの命令で捕虜解放するならともかく、手を振ってお見送りしながら捕虜を解放するなんてできるはずがない。一旦、収容所に入れてるわけだし。


その意味でも、「逃げられた」という体裁は重要である。




《3. 本当の意図》


ここで田山少佐の説明を見てみる。

「解放が目的でした。だが、私は万一の騒動発生を考え、機関銃八挺を準備させました。舟は四隻ーーいや七隻か八隻は集めましたが、とても足りる数ではないと、私は気分が重かった。でも、なんとか対岸の中洲に逃がしてやろうと思いました。この当時、揚子江の対岸(揚子江本流の対岸)には友軍が進出していましたが、広大な中洲には友軍は進出していません。あの当時、南京付近で友軍が存在していないのは、八卦洲と呼ばれる中洲一帯だけでした。解放するにはもってこいの場所であり、彼らはあとでなんらかの方法で中洲を出ればいいのですから……」

(田山少佐)


「解放するにはもってこいの場所であり、彼らはあとでなんらかの方法で中洲を出ればいい」…ここまで読めば「解放」と読める。自由の身なので。


ただ、その前段にはこう書いている。併せて、角田中尉の証言も。

「でも、なんとか対岸の中洲に逃がしてやろうと思いました」

(田山少佐)


「火事で逃げられたといえば、いいわけがつく。だから近くの海軍船着き場から逃がしてはどうかーー」

(角田中尉の証言による両角連隊長からの話)


板倉氏の調べによれば、13師団司令部は山田支隊に捕虜を中洲に送れ、と命じたという。

昭和五十八年に筆者が聴取した、当時第十三師団作戦参謀・吉原矩中佐の証言によれば、鎮江で渡河準備中の師団司令部では、「崇明島」 に送り込んで自活させるよう命じたという。崇明島は揚子江河口の島だが、草鞋洲との記憶違いとすれば、正に「島流し」(栗原スケッチの題)である。(P143)

本当はこうだった南京事件 /板倉由明


13師団司令部だけは、捕虜の身分のまま中洲送りにしろと言っている。ただ、中洲には監視も何もないので、そこから先は「解放」に等しい。

田山少佐と角田中尉(両角連隊長)の話は、本人らの意識は「解放」にあるが、その前段に「行き先を中洲に限定して捕虜を逃がそう」というステップを踏むことになっている。その意味では、13師団司令部の命令と大差ない。


なぜ中洲なのかは田山少佐が上で説明している。


そして、魚雷営での事件発生時の様子を角田中尉の証言から。

「で、船着き場で到着順に縛っていたのをほどき始めたころ、いきなり逃げ出したのがいる。四、五人だったが、これを兵が追いかけ、おどかしのため小銃を発砲したんだよ」

(角田中尉)


船着場=魚雷営から陸地方向に逃げることは許さないという場面。



前項で、田山少佐と角田中尉への密命の内容は不明だが、求めた成果はこれだと書いた。

【火事で逃げられたので、捕虜はもういない】



ただ、上述の話を加味すると、実際はこうである。

【A. (中洲に)逃げられたので、捕虜はもういない】


角田中尉の話からすると、この条件も追加。

【B. 揚子江南岸に留まることは許さぬ】

南京城内外を警備してる16師団への配慮としても当然とも言えるでしょう。ただでさえ「早く処刑しろ」と催促してきて厄介なことになってるし。



2つを合成しましょう。

【(中洲に)逃げられたので、捕虜はもういない +南岸に留まることは許さぬ】


これって、「捕虜解放説」と呼ぶに相応しいですかね??

解放=自由の身、という語幹からすると全然合ってない。



意味が全然違うので、これは別の名称を与えましょう。

「中洲追放説」:【(中洲に)逃げられたので、捕虜はもういない +南岸に留まることは許さぬ】


逃げられた、という体裁にしようとしてるが、実際には南京付近の南岸から中洲に移動することを武力を持って強要するという意味で「中洲追放」とした。

なお、本来は「説」ではなく「方針」とか「命令」あるいは「作戦」が適切だが、私の説に過ぎないので「説」と付けておく。



話を戻すと、両角連隊長が田山少佐と角田中尉への密命で求めたのはこれを実現せよということ。

【(中洲に)逃げられたので、捕虜はもういない +南岸に留まることは許さぬ】


【逃げられたので、捕虜はもういない】が、16師団等への言い訳。体裁と言ってもいい。

そして実務的には、山田支隊が19日に渡河して13師団本隊に合流することへの障害の除去となる。

( )内が、両角連隊長が考えた方針。

実は、「+」要素が後で問題になる。



証言してる当人たちは「解放」という言葉の語感から誘導されたのか、捕虜への思いやりの心も感じられる。
しかし、実際に採用した方針はかなり苛烈。(いつもの日本軍)




(「捕虜解放説」と「中洲追放説」)


幕府山事件の話に出てくる「捕虜解放説」は、「捕虜を、中洲に、解放しようとした」。


「中洲に、解放しようとした」というと、捕虜は日本軍の権力内にあるのだから、中洲までの安全確実な移動手段は日本側が用意してくれるんですね。という話になる。

ましてや、その途中で捕虜が殺されるなんてあってはならないことですよ。となる。



私が出した「中洲追放説」はこれ。

【(中洲に)逃げられたので、捕虜はもういない +南岸に留まることは許さぬ】


田山少佐と角田中尉の言動を見てると、「解放」という言葉も出てくるけど、そこまではやっていない。岸辺まで移送した上で、あとは船で中洲方向への逃げ道を用意してあげましたよ、というだけ。

そして、万全な輸送手段もなければ、身の安全の保証もなし。+南岸に留まることは許さぬ、という体制。

城攻めで、一方は開けておいたよ、というのと同じ。




《4. 角田中尉》


ところで、そんな密命を田山少佐(第一大隊長)はともかく、なぜ角田中尉(第五中隊長)に投げたのか。

「上海戦はどうにもならない苦戦でした。出ていく兵隊が、次から次へと死に、ついに自分の副官だった小畑哲次郎少佐も戦死してしまいます。壕の中に伏せていた連隊長は泣いていました。
『家には妻子もいるであろう多くの将兵を死なせてしまって……』と。すると不意に立ち上がり、単身で敵陣へ突撃しようとしたのです。私が飛び出して押し倒して無事でしたが……。あとで連隊長に『死ぬ気でしたね』と聞くと、連隊長は再び涙を見せながら、『多くの部下が死んで、指揮官は生きてはおれんよ。君が想像した通りだよ』と語っていました」


(角田中尉)


角田中尉という人は、戦闘能力が高いだけでなく、両角連隊長からの信頼も厚いように見える。

山田支隊/第65連隊が南京に侵攻する際も重要戦略目標であった烏龍山砲台の占領を田山少佐に、幕府山砲台の占領を角田中尉に任せている。




《5. 田山少佐》


せっかくだから、その田山少佐についても。

少し話を遡ると、第65連隊が会津若松から出発した時には3,700人いた。うち、2,300人が南京侵攻前の上海戦で死傷し、特に第一大隊はほぼ壊滅した。上の話で角田中尉が両角連隊長を助けたのもその時の話。途中2度ほど大きい兵員補充があって、第65連隊が幕府山に来た時の兵力は2,200人。

それで、田山少佐というのは上海戦の壊滅の後に第一大隊長になった。それ以前は山田旅団の副官をしていた。

この辺は「郷土部隊戦記 /福島民友新聞社」に書いてある。

田山少佐という人は戦後も多くを語らない人だったから人物像的にはよくわからないが、山田旅団の副官だったという経緯からすると、ややこしい仕事も任せられる人だったのかなと想像。切れ者を幹部が手元に置いておきたくなるような、そういう系統。武勇伝系の角田中尉とは全く違うタイプかな。




《6. 兵士らの心情》


田山少佐と角田中尉について語ったので、兵士らについても語っておきましょう。

とはいえ私に語る資格などないので、砲艦・保津に乗艦していた橋本以行氏の証言を紹介。陥落日に下関の埠頭に接岸した時の話。

江上には相変わらず一面に中国兵が乗った浮遊物が流れていたが、弾丸が欠乏して射つことができない。ところがそれを見つけた小隊長(=陸軍16師団の人)は「あれを射って下さい。敵兵ですよ」と叫ぶ。艦長がそれに構わず話をしようとすると、そこらにあったチェコ機銃を拾ってきて、矢庭に射ちはじめた。そして艦長に向かって「あなたたち戦友がやられていないから、そんなに呑気にしておられる。われわれは皆、戦友を失ってきたんですよ」と怒髪天を衝く形相であった。敵の反撃をうけず、選り好みしながら射ちまくってきた我々は、喰うか喰われるかの血みどろの戦闘を続けてきた陸上部隊は違うものだなあーと、申し訳ないような気がした。

(証言による「南京戦史」11)


小隊長って少尉くらいだと思うが、当時の砲艦・保津の艦長は中佐。陸軍少尉が海軍中佐を怒鳴りつけてる。

南京戦当時の兵士らの心情がよく伝わってくる話。


ちなみに、橋本以行氏というのはのちの太平洋戦争で、原爆を運搬した帰路の米・重巡洋艦インディアナポリスを撃沈した潜水艦・伊58の艦長をした人。




《7. 船をめぐる混乱》


話を事件に戻す。



気づけば、角田中尉と田山少佐が語る状況は似てる。



16日の魚雷営:

「で、船着き場で到着順に縛っていたのをほどき始めたころ、いきなり逃げ出したのがいる。四、五人だったが、これを兵が追いかけ、おどかしのため小銃を発砲したんだよ。これが不運にも、追いかけていた味方に命中してしまって……。これが騒動の発端さ。あとは猛り立つ捕虜の群れと、重機関銃の乱射と……」

(角田中尉)


17日の草鞋峡:

「銃声は最初の舟が出た途端に起こったんですよ。たちまち捕虜の集団が騒然となり、手がつけられなくなった。味方が何人か殺され、ついに発砲が始まってしまったんですね」

(田山少佐)


ついでに、事件直後の現場を見た前田記者の質問に答えた警備司令部:

「少数の日本部隊へ万を超える中国軍が投降してきたので武装解除し、江北へ逃げていくことを教唆したら、われ先にと船に乗り、ジャンク船に乗り、板にまたがり、戸板を浮かべて脱出したが、とうていさばき切れるものではなかった。船に乗りすぎて沈没するもの、乗り切れない者が船べりを離さないから揚子江に落ち込む、そこで殺傷が起きるということで、パニック状態になり、双方大乱戦となった勢が護送中の日本部隊を襲撃してきたため、機銃で掃射したものである」

(前田記者に対する警備司令部の説明)


警備司令部がいう船の混乱の話は、陥落日の話が混ざってるのではないかと疑っていたが、もしかしたら本当に幕府山事件の際のことを言ってるのかもしれない。



念の為、両角手記からも:

「軽舟艇に二、三百人の俘虜を乗せて、長江の中流まで行ったところ、前岸に警備しておった支那兵が、日本軍の渡河攻撃とばかりに発砲したので、舟の舵を預かる支那の土民、キモをつぶして江上を右往左往、次第に押し流されるという状況。ところが、北岸(=南岸のことでしょう)に集結していた俘虜は、この銃声を、日本軍が自分たちを江上に引き出して銃殺する銃声であると即断し、静寂は破れて、たちまち混乱の巷となったのだ」

(両角手記)


船の大きさは微妙だが、状況説明的にはあり得そうに思う。

田山少佐や警備司令部の話と整合的。特に警備司令部の話は事件翌日に前田記者に伝わってるので、部隊幹部の「口裏合わせ」があったとしても、その影響下にない。




《8. 言行不一致》


両角連隊長から田山少佐と角田中尉への密命。

【(中洲に)逃げられたので、捕虜はもういない +南岸に留まることは許さぬ】


田山少佐と角田中尉が語る認識は「解放」なので、武力行使するつもりはなかったように見える。



ただし、中洲に渡らずに南岸で逃亡することに対しては断固阻止する体制を敷いている。

そして、戦争中に戦闘地域で作戦行動中の軍隊なのだから、自衛や反撃に躊躇することもない。その備えもある。



しかも。

兵士らは、「われわれは皆、戦友を失ってきたんですよ!と怒髪天を衝く形相」という心情。




16日、事件発生の瞬間の角田中尉の述懐:

「あとは猛り立つ捕虜の群れと、重機関銃の乱射と……。地獄図絵というしかないね、思い出したくないね。ああいう場での収拾はひどく難しく、なかなか射撃をとめられるもんじゃない。まして戦友がその場で死んだとなったら、結局は殺気だってしまってね」

(角田中尉)


17日、事件発生の瞬間の田山少佐の述懐:

「味方が何人か殺され、ついに発砲が始まってしまったんですね。なんとか制止しようと、発砲の中止を叫んだんですが、残念ながら私の声は届かなかったんです」

(田山少佐)


田山少佐の近くにいた箭内准尉の述懐:

「江岸への集結のさなか、一瞬にして暴走が起こった。彼らはいっせいに立ちあがり、木の枝などを振り回しながら警備兵を襲撃し、これを倒して逃走を始めた」

「たまりかねて一斉射撃を開始し、鎮圧に乗り出したのです。私の近くにいた第一大隊長の田山少佐が『撃ち方やめ!』を叫びましたが、射撃はやまない。気違いのようになって撃ちまくっている。目の前で戦友が殴り殺されたのですから、もう逆上してしまっていてね……」


(箭内准尉)




戦友の仇とばかりに戦闘モードに入ってしまった兵士らの射撃は止まらない。



草鞋峡の現場にいた栗原利一氏(第65連隊第一大隊、伍長)がのちに書いたスケッチ。そこにあったメモ。

これは兵は田山大隊
全員で135人位あったと思う
俺はクリスチャンなのになぜこんなこと
と言って大隊長はつぶやいた
兵は戦友の敵と思って平気でやった








田山大隊長の無念さが伝わってくる。




《9. 囲師必闕》


「囲師必闕」…つまり、敵を攻めるときに完全に囲んでしまうと相手は必死になって思わぬ反撃をしてくるから、囲みの一方は必ず開けておきなさい。という戦術。


草鞋峡の現場が特にわかりやすいが、捕虜集団を岸辺に置いて三方を日本兵が囲い込んだ。

残る一方は渡河の方向だけだから、船を用意して縛を解けば捕虜は必ずそっちに逃げると考えた。おそらく。

ところが、船の輸送力が足りなかったのか、我先に乗船しようとして混乱になったのか、対岸から発砲があったのか、捕虜たちの疑心暗鬼が爆発したのか、真相は不明だが、結局その渡河の道は閉ざされた。



結果、一方を開けたつもりが捕虜たちにとっては「背水の陣」になった。これが、死に物狂いの抵抗を引き起こした。

そして、鎮圧射撃が始まり、「兵は戦友の敵と思って平気でやった」



この射撃は、まだ現場に向かって進んでいた捕虜移送隊列にも連鎖的に波及した。

隊列の捕虜は互いに縛られたまま散り散りに逃げようとし、これを追う護送兵による乱射乱撃が始まった。




上海派遣軍司令部が捕虜を上海に送って使役しようとしてたのがなぜか話がうまく回らなかったことといい、いろんな要素の組み合わせが悪すぎる。




《10. 成功していた作戦》


この記事を読んでくれた方全員にこの話を理解してもらえるとは思いません。



しかし、両角連隊長は、

【(中洲に)逃げられたので、捕虜はもういない +南岸に留まることは許さぬ】

を命令し、その結果、そこそこ成功したのである。


もちろん、戦死者まで出したのは失敗。
捕虜側に犠牲者が多かったことも将来に禍根を残した。残念ながら兵士らは撃ちすぎた。


それでも、大枠は成功したと認識してる。だから、「安堵」「我が意を得たり」と書いた。

「処置後、ありのままを山田少将に報告をしたところ、少将もようやく安堵の胸をなでおろされ、さも「我が意を得たり」の顔をしていた」

(両角手記)


なにしろ、【逃げられたので、捕虜はもういない】を達成した。

しかも、勝手に「解放した」だと上級司令部から判断を問われるはずだが、「逃げられた」という体裁まで手に入れた。

結果的には、上級司令部の参謀長と参謀副長の日記に「遺憾千万なり」などと書かれる程度で済んだ。




でも、おかしいでしょう?

両角連隊長の認識(連行4千、死亡1千)だと、逃亡率75%のほぼ全てが中洲に渡らずに南岸で逃亡したという報告を受けてるはずなのに、そこを問題視する様子がない。

では、「+南岸に留まることは許さぬ」という条件設定したのは誰??



13師団司令部は、捕虜を中洲に送って自活させよ、と命じたという。

ただこれは、【(中洲に)逃げられたので、捕虜はもういない】の実施許可を得たという話。

現に、両角連隊長は「+南岸に留まることは許さぬ」の完全未達を問題視していない。



であれば、実は最初からこれでよかった。

【(どこかに)逃げられたので、捕虜はもういない】



でも、日本軍の将兵はマジメだから?、これを実現しようとした。それも、かなり苛烈に。

【中洲に逃げられた +南岸に留まることは許さぬ】


これは言い換えるとこうなる。

【中洲に逃げること以外は許さぬ】


これが現場部隊の実際の行動。




しかも、兵士はこの心情。

「われわれは皆、戦友を失ってきたんですよ!と怒髪天を衝く形相」




結局、「+南岸に留まることは許さぬ」という条件設定したのは誰??


おそらく、誰もいない。

強いて言えば、16師団への無意識の忖度?


私も先にこう書きました。

南京城内外を警備してる16師団への配慮としても当然とも言えるでしょう。ただでさえ「早く処刑しろ」と催促してきて厄介なことになってるし。




ついでに、もうひとつ。


論者は言う。

「2晩続けて同じ失敗をするとは信じられない」


実は、失敗したと思ってないから2晩続けて実行した。成功の範囲内と思っている。

なにしろ、捕虜の死亡率や逃亡率は評価指標になっていなかった。

作戦目的の【逃げられたので、捕虜はもういない】は達成した。




《11. 戦後も続いていた理屈》


繰り返し述べたように、両角連隊長はこう考えた。

【火事で逃げられたといえば、いいわけがつく】


それで、角田中尉に魚雷営の作戦を託した。



しかし、両角連隊長の建前的認識は、捕虜1万5千捕獲、収容8千、火事で半分逃げて、草鞋峡に連行4千、逃亡3千、死亡1千。

戦後もずっとそう言ってきた。



論者は言う。

「あの火事ではほとんど逃亡していない」

「魚雷営の事件を隠すのはなぜだ」



答えは、【火事で逃げられたといえば、いいわけがつく】の中にある。

つまり、両角連隊長がいう【火事で半分逃げられた】の中に魚雷営の諸々が包含されている。

ずっとそれを堅持してきた。



そのこだわりがどこから来るのか、私も探していた。

これがその答えなのかな、と思う。

◇十二月十六日 晴
相田中佐を軍に派遣し、捕虜の仕末其他にて打合わせをなさしむ、捕虜の監視、誠に田山大隊大役なり、砲台の兵器は別とし小銃五千重機軽機其他多数を得たり


(山田栴二日記)



つまり、こういうこと。

(a) 火事が起きた
(b) 火事で逃げられたといえばいいわけがつくから、その日のうちに角田中尉に魚雷営作戦を指示
(c) 山田旅団長には「火事で半分逃げられた」と報告しつつ、残りの半分も逃すと申告(担当:田山少佐)
(d) その結果が上の山田旅団長日記(=田山大隊の件)
(e) 戦後もずっと山田旅団長への報告の枠組みを堅持



でも、角田中尉はぶちまけた。



冒頭でこう書いた。

「いいわけがつく」とは誰に対する言い訳か。

1937年12月16日時点でのこの言い訳の宛先の第一は、捕虜処刑を頻繁に催促してきていた第16師団である。



優先順位的には第16師団に違いないとは思うが、実は当時の時間順序的には「いいわけ」の最初の宛先は山田旅団長だったのかな、と思う。




《12. まとめ》



「いいわけ」から始まり、

善意の言葉が、なぜか苛烈な作戦に転換され、

三方を囲んで一方に逃すつもりが、背水の陣に追い込み、

死に物狂いの抵抗を、戦友の仇とばかりに撃ってしまい、

歴史に禍根を残してしまった、


そういう事件だったと思います。






《13. 関係者の証言》



(両角連隊長手記)

南京大虐殺事件

幕府山東側地区、及び幕府山付近に於いて得た捕虜の数は莫大なものであった。新聞は二万とか書いたが、実際は一万五千三百余であった。しかし、この中には婦女子あり、老人あり、全くの非戦闘員(南京より落ちのびたる市民多数)がいたので、これをより分けて解放した。残りは八千人程度であった。これを運よく幕府山南側にあった厩舎か鶏舎か、細長い野営場のバラック(思うに幕府山要塞の使用建物で、十数棟併列し、周囲に不完全ながら鉄線が二、三本張りめぐらされている)-とりあえず、この建物に収容し、食糧は要砦地下倉庫に格納してあったものを運こび、彼ら自身の手で給養するよう指導した。
当時、我が聯隊将兵は進撃に次ぐ進撃で消耗も甚だしく、恐らく千数十人であったと思う。この兵力で、この多数の捕虜の処置をするのだから、とても行き届いた取扱いなどできたものではない。四周の隅に警戒として五、六人の兵を配置し、彼らを監視させた。
炊事が始まった。某棟が火事になった。火はそれからそれへと延焼し、その混雑はひとかたならず、聯隊からも直ちに一中隊を派遣して沈静にあたらせたが、もとよりこの出火は彼らの計画的なもので、この混乱を利用してほとんど半数が逃亡した。我が方も射撃して極力逃亡を防いだが、暗に鉄砲、ちょっと火事場から離れると、もう見えぬので、少なくも四千人ぐらいは逃げ去ったと思われる。
私は部隊の責任にもなるし、今後の給養その他を考えると、少なくなったことを却って幸いぐらいに思って上司に報告せず、なんでもなかったような顔をしていた。

十二月十七日は松井大将、鳩彦王各将軍の南京入場式である。万一の失態があってはいけないとういうわけで、軍からは「俘虜のものどもを”処置”するよう」…山田少将に頻繁に督促がくる。山田少将は頑としてハネつけ、軍に収容するように逆襲していた。私もまた、丸腰のものを何もそれほどまでにしなくともよいと、大いに山田少将を力づける。処置などまっぴらご免である。
しかし、軍は強引にも命令をもって、その実施をせまったのである。ここに於いて山田少将、涙を飲んで私の隊に因果を含めたのである。
しかし私にはどうしてもできない。
いろいろ考えたあげく「こんなことは実行部隊のやり方ひとつでいかようにもなることだ、ひとつに私の胸三寸で決まることだ。よしと期して」ー田山大隊長を招き、ひそかに次の指示を与えた。
「十七日に逃げ残りの捕虜全員を幕府山北側の揚子江南岸に集合せしめ、夜陰に乗じて舟にて北岸に送り、解放せよ。これがため付近の村落にて舟を集め、また支那人の漕ぎ手を準備せよ」
もし、発砲事件の起こった際を考え、二個大隊分の機関銃を配属する。

十二月十七日、私は山田少将と共に軍旗を奉じ、南京の入城式に参加した。馬上ゆたかに松井司令官が見え、次を宮様、柳川司令官がこれに続いた。信長、秀吉の入城もかくやありならんと往昔を追憶し、この晴れの入城式に参加し得た幸運を胸にかみしめた。新たに設けられた式場に松井司令官を始め諸将が立ち並びて聖寿の万歳を唱し、次いで戦勝を祝する乾杯があった。この機会に南京城内の紫金山等を見学、夕刻、幕府山の露営地にもどった。
もどったら、田山大隊長より「何らの混乱もなく予定の如く俘虜の集結を終わった」の報告を受けた。火事で半数以上が減っていたので大助かり。
日は沈んで暗くなった。俘虜は今ごろ長江の北岸に送られ、解放の喜びにひたり得ているだろう、と宿舎の机に向かって考えておった。
ところが、十二時ごろになって、にわかに同方面に銃声が起こった。さては…と思った。銃声はなかなか鳴りやまない。

そのいきさつは次の通りである。
軽舟艇に二、三百人の俘虜を乗せて、長江の中流まで行ったところ、前岸に警備しておった支那兵が、日本軍の渡河攻撃とばかりに発砲したので、舟の舵を預かる支那の土民、キモをつぶして江上を右往左往、次第に押し流されるという状況。ところが、北岸(=南岸のことでしょう)に集結していた俘虜は、この銃声を、日本軍が自分たちを江上に引き出して銃殺する銃声であると即断し、静寂は破れて、たちまち混乱の巷となったのだ。二千人ほどのものが一時に猛り立ち、死にもの狂いで逃げまどうので如何ともしがたく、我が軍もやむなく銃火をもってこれが制止につとめても暗夜のこととて、大部分は陸地方面に逃亡、一部は揚子江に飛び込み、我が銃火により倒れたる者は、翌朝私も見たのだが、僅少の数に止まっていた。すべて、これで終わりである。あっけないといえばあっけないが、これが真実である。表面に出たことは宣伝、誇張が多過ぎる。処置後、ありのままを山田少将に報告をしたところ、少将もようやく安堵の胸をなでおろされ、さも「我が意を得たり」の顔をしていた。

解放した兵は再び銃をとるかもしれない。しかし、昔の勇者には立ちかえることはできないであろう。
自分の本心は、如何ようにあったにせよ、俘虜としてその人の自由を奪い、少数といえども射殺したことは<逃亡する者は射殺してもいいとは国際法で認めてあるが>…なんといっても後味の悪いことで、南京虐殺事件と聞くだけで身の毛もよだつ気がする。
当時、亡くなった俘虜諸士の冥福を祈る。(P340)

『両角業作 手記 歩兵第65聯隊長・歩兵大佐 /南京戦史資料集 II』




(田山芳雄 第一大隊長・少佐)

 第一大隊長の田山芳雄少佐は、四国の丸亀市出身の人。直接会って取材したときの私のメモには次のようにある。

「解放が目的でした。だが、私は万一の騒動発生を考え、機関銃八挺を準備させました。舟は四隻ーーいや七隻か八隻は集めましたが、とても足りる数ではないと、私は気分が重かった。でも、なんとか対岸の中洲に逃がしてやろうと思いました。この当時、揚子江の対岸(揚子江本流の対岸)には友軍が進出していましたが、広大な中洲には友軍は進出していません。あの当時、南京付近で友軍が存在していないのは、八卦洲と呼ばれる中洲一帯だけでした。解放するにはもってこいの場所であり、彼らはあとでなんらかの方法で中洲を出ればいいのですから……」

  南京虐殺を研究している人の中には「対岸には日本軍が進出しており、その方面に解放するというのはおかしい」とする説もある。しかし実情は以上の通りだった。

  「銃声は最初の舟が出た途端に起こったんですよ。たちまち捕虜の集団が騒然となり、手がつけられなくなった。味方が何人か殺され、ついに発砲が始まってしまったんですね。なんとか制止しようと、発砲の中止を叫んだんですが、残念ながら私の声は届かなかったんです」(P193)

『南京の氷雨 虐殺の構造を追って /阿部 輝郎』




(角田栄一 第五中隊長・中尉)

(12月16日の魚雷営について)

「きみの紹介だといって、ルポライターの鈴木明という人が俺を訪問してきたよ。俺は酒を飲んでいたところだったので、差し出されたテープレコーダーのマイクに向かって、いきなり本当のことを大声で話してやったよ」

「え、どんなことを?」

「なにね『虐殺をしたのはこの俺だぞ』といったんだ。彼は目をまるくして退散してしまったがね」

南京虐殺の下手人だと自分から名乗ったのだ。

「別にウソをいったわけじゃないんだ。本当のことなんだ。ま、虐殺にはちがいないけれど、実は事情があったんだ」

その事情とはーー。
火事があって、かなりの数の捕虜に逃げられた。だが、このとき両角連隊長のところには「処分命令」がきていた。しかし両角連隊長はあれこれ考え、一つのアイデアを思いついた。

「火事で逃げられたといえば、いいわけがつく。だから近くの海軍船着き場から逃がしてはどうかーー。私は両角連隊長に呼ばれ、意を含められたんだよ。結局、その夜に七百人ぐらい連れ出したんだ。いや、千人はいたかなあ……。あすは南京人城式、早ければ早いほどいい、というので夜になってしまったんだよ」

逃がすなら昼でもかまわないのではないかと思われるが、時間的な背景もあって夜になったということになろうか。

「昼のうちに堂々と解放したら、せっかくのアイデアも無になるよ。江岸には友軍の目もあるし、殺せという命令を無視し、逆に解放するわけなのだからね」

夜の道をずらりと並べて江岸へと連行していったが、案に相違して、捕虜の集団が騒然となってしまった。
万一の場合を考え、二挺の重機関銃を備えており、これを発射して鎮圧する結果となった。しかし、いったん血が噴出すると、騒ぎは大きくなった。兵たちは捕虜の集団に小銃を乱射し、血しぶきと叫び声と、そして断末魔のうめき声が江岸に満ちた。修羅場といっていい状況がそこに現出した。正式に準備したのは重機関銃二挺だが、ほかにも中国軍からの戦利品である機関銃も使ったような気がする、ともつけ加えていう。

「連行のとき、捕虜の手は後ろに回して縛った。途中でどんなことがあるかわからないというのでね。で、船着き場で到着順に縛っていたのをほどき始めたころ、いきなり逃げ出したのがいる。四、五人だったが、これを兵が追いかけ、おどかしのため小銃を発砲したんだよ。これが不運にも、追いかけていた味方に命中してしまって……。これが騒動の発端さ。あとは猛り立つ捕虜の群れと、重機関銃の乱射と……。地獄図絵というしかないね、思い出したくないね。ああいう場での収拾はひどく難しく、なかなか射撃をとめられるもんじゃない。まして戦友がその場で死んだとなったら、結局は殺気だってしまってね」

銃撃時間は「長い時間ではなかった」と角田中尉はいう。月が出ていて、江岸の船着き場には無残な死体が散乱する姿を照らし出していた。五隻ほどの小船が、乗せる主を失って波の中に浮かんでいた。

「捕虜たちは横倒しになっており、あたりは血みどろになっていて、鬼気迫るばかりの情景だったなぁ。みんな死んでしまったらしい。そう思いながら、このあとどう処置しようかと考えあぐねていると、俺は頭髪が逆立つのをおぼえた。目の前の死体の中から、生き残っていた兵士が、血まみれの姿で仁王立ちになって、こちらに突進してきたんだ。しかし十歩ほど歩いてこと切れてしまったがね。あの形相を、あの気迫を、私は今でも忘れることがありません」(P87)


(12月17日の草鞋峡について)

ところで前夜の海軍倉庫での事件を証言してくれた第五中隊長の角田栄一中尉は、この江岸の惨劇にも出かけている。

「前夜の失敗があって、私は両角連隊長に叱られました。『なぜ静かに解放できなかったか』というのです。しかし説明を聞いて、すぐ納得してくれました。人情家の連隊長でしたので、捕虜といえども多数の死者を出したことに反省の気分が強かったのです」

ここで角田中尉は、ふと話題を変えて上海戦の思い出を語り出した。

「上海戦はどうにもならない苦戦でした。出ていく兵隊が、次から次へと死に、ついに自分の副官だった小畑哲次郎少佐も戦死してしまいます。壕の中に伏せていた連隊長は泣いていました。
『家には妻子もいるであろう多くの将兵を死なせてしまって……』と。すると不意に立ち上がり、単身で敵陣へ突撃しようとしたのです。私が飛び出して押し倒して無事でしたが……。あとで連隊長に『死ぬ気でしたね』と聞くと、連隊長は再び涙を見せながら、『多くの部下が死んで、指揮官は生きてはおれんよ。君が想像した通りだよ』と語っていました」

両連隊長の人物を語る側面である。

「さて、河岸への連行にあたっては、私は役目を免除されました。が、収容所はからっぽになったし、ひまでしたので、連行の列の最後尾についていったのです。ところが、前方で乱射乱撃が始まり、どんどん銃弾が飛んでくる。私は道のわきにあるクリークのようなものに飛び込み、危難を避けました。味方の銃弾で死んではいられないし、恐ろしい思いをしました。また『突発だな』と私には感じられました。突発でなかったら、味方の方向に銃弾が飛んでくるなんて考えられませんよ。とにかく無茶な射撃でした。計画的に殺す気なら、あんなふうに銃弾は飛ぶわけないですからね」(P111)

『南京の氷雨 虐殺の構造を追って /阿部 輝郎』




(箭内享三郎 連隊機関銃中隊・准尉)

歩兵六十五連隊の連隊機関銃中隊に所属する箭内享三郎准尉は、捕虜を集合させる場所を河原で設定したという。福島市の人だが、既に故人となった。私とは懇意にしており、生前その状況について詳細に語ってくれている。私は回想談を速記メモしていたが、それを紹介しよう。

「目の前は揚子江の分流(爽江)が流れており、背景は幕府山に続く連山でした。河川敷はかなり広くてね、柳やらススキやらが生えていて、かなり荒れたところでしたよ。確か南京入城式のあった日でしたが、入城式に参加したのは連隊の一部の人たちが集成一個中隊をつくって出かけたはずです。私は入城式には参加しませんでしたが、機関銃中隊の残余メンバーで特別な仕事を与えられ、ノコギリやナタを持って、四キロか五キロほど歩いて河川敷に出かけたのです」

ノコギリやナタとは、また異様なものである。
いったい、なんのために?

「実は捕虜を今夜解放するから、河川敷を整備しておくように。それに舟も捜しておくように……と、そんな命令を受けていたんですよ。解放の件は秘密だといわれていましたがね。ノコギリやカマは、河川敷の木や枯れたススキを切り払っておくためだったんです」

解放のための準備だったという。

「実は逃がすための場所設定と考えていたので、かなり広い部分を刈り払ったのです。刈り払い、切り払いしたのですが、切り倒した柳の木や、雑木のさまざまを倒したまま放ったらかしにして置いたんです。河川敷ですから、切り倒したといっても、それほど大きなものはありませんでしたがね。ところが、後でこれが大変なことになるのです」

明るいうちに場所の設定を終えた。上流や下流を捜し歩いて六隻か七隻の舟を集めたものの、 ほかには見当たらず、舟はこれだけだったという。

「兵舎のある上元門に戻って、まだ日のある時間でしたが、それから捕虜の連行が始まったのです。手などは彼ら自身の巻脚絆を利用して縛り、四人ずつ一つなぎにして歩かせたのです。なぜ縛ったか? それはね、四キロか五キロ歩かせるのですから、途中でなにかがあったら、せっかくの苦心も水の泡になりますからね。第一、少人数で大人数を護送するには、そうしないと問題があったときに抑えられないからです」(P100)

(中略)

ここで再び箭内准尉の証言メモを続けてみよう。

「集結を終え、最初の捕虜たちから縛を解き始めました。その途端、どうしたのか銃声が……。 突然の暴走というか、暴動は、この銃声をきっかけにして始まったのです。彼ら捕虜たちは次々に縛を脱しーー巻脚絆などで軽くしばっていただけですから、その気になれば縛を脱することは簡単だったのです」

縛を脱した捕虜たちは、ここで一瞬にして恐ろしい集団に変身したという。昼のうちに切り倒し、ただ散乱させたままにしておいた木や枝が、彼らの手に握られたからだ。近くにいた兵士たちの何人かは殴り倒され、たたき殺された。持っていた銃は捕虜たちの手に渡って銃口がこちらに向けられた。

「たまりかねて一斉射撃を開始し、鎮圧に乗り出したのです。私の近くにいた第一大隊長の田山少佐が『撃ち方やめ!』を叫びましたが、射撃はやまない。気違いのようになって撃ちまくっている。目の前で戦友が殴り殺されたのですから、もう逆上してしまっていてね……。万一を考え、重機関銃八挺を持っていっていたので、ついには重機関銃まで撃ち出すことになったのです」(P102)

『南京の氷雨 虐殺の構造を追って /阿部 輝郎』




(箭内享三郎 第一機関銃中隊・准尉)

では、ほんとうに解放するための準備が行われていたのだろうか。第一機関銃中隊に所属していた箭内享三郎准尉(福島市泉)は次のように回想する。

「田山大隊長は私たちの第一機関銃中隊の中隊長宝田長十郎中尉と相談し、揚子江岸に船着き場をつくる話し合いをした。私たちが仕事を命ぜられ、江岸に出てヤナギの木を切り倒し、乗り場になる足場などを設けた。また集合できるぐらいの広さの面積を刈り払いした。切り倒した木、刈り払いをした枝などはそのままにしておいた。実をいうと、私たちはそのとき、あの木や枝が彼らの武器となり、私たちを攻撃してくる元凶になるなどとは、神ならぬ身の知る由もなかったのです。船を集めるため江岸を歩き回って探し歩き、十隻前後は集めてきたことを記憶しています」

刈り払いをした木や枝が、あとで手ごろな棒として捕虜の手ににぎられ、解放のとき“暴動”が発生する原因になったのだと箭内准尉はいうのである。(P125)

『ふくしま 戦争と人間 1 白虎編 /福島民友新聞社』




(箭内享三郎 第一機関銃中隊・准尉)

第一機関銃中隊箭内享三郎准尉(福島市泉)はまた次のように回想する。

「江岸への集結のさなか、一瞬にして暴走が起こった。彼らはいっせいに立ちあがり、木の枝などを振り回しながら警備兵を襲撃し、これを倒して逃走を始めた。川に飛び込むもの、陸地を走るものなど、暗夜の突然の事態。機関銃が射撃を始めた。このとき私の近くにいた第一大隊長田山芳雄少佐が“撃ち方やめ”を叫んだ。だが、混乱しているため命令はいき届かなかったのです」

田山大隊長の“撃ち方やめ”の叫びもむなしく、しばらく銃声は続いた。しかも銃弾は味方にも飛んでいく混乱ぶりだったようである。第五中隊長角田栄一中尉(郡山市富久山町)は「私は最後尾をついていったが、銃弾が私たち味方のほうにもくるため、身を伏せて危難から避けなければならないほど、非常な混乱ぶりだった」と語っている。(P130)

『ふくしま 戦争と人間 1 白虎編 /福島民友新聞社』




(八巻竹雄 第十二中隊長・中尉)

この前後を関係者の話からもう一度ながめてみたい。十二中隊長だった八巻竹雄中尉(梁川町中町)は次のように回想している。

「幕府山から江岸までは四キロほどだったと思う。私たちは彼らを解放する目的で四列縦隊で歩かせたが、彼らは目的を知らない。私たちは少数であり、どこで暴走が起こるか、むしろ彼らより緊張していた。はたして途中で彼らの逃亡が始まり、私たちの中隊の兵隊も彼らに連れ去られ、途中で殺されたりした。このような犠牲を払いながらも、ともかく解放のための努力を続けたのです」

途中でかなり逃亡があったという。解放するのだからかまわないようなものだが、やはり対岸に解放しないとまずい、という判断があったようだ。(P129)

『ふくしま 戦争と人間 1 白虎編 /福島民友新聞社』




(丹治善一 上等兵)

やむなく発砲したとはいえ、とにかく捕虜の集団に銃弾は飛び込んだ。ではどれだけ死者が出たのか。 これは確認しておきたい点である。第三次補充で十七日夜、内地から南京の連隊に追及してきた丹治善一上等兵(福島市大森)らの回想が記憶もあざやかである。

「あの記憶は鮮烈ですね。なにしろ初めて戦場を目撃したのですから。しかもあの無数の死者......。 私たち新参の補充要員は十八日朝、いきなり江岸のその現場に連れ出され、戦争の残酷場面を見せつけられたのです。死者は河岸の一角に折り重なっていたり、散乱していたり......。千人以上は死んでいるな、そう感じたものでした。しかし実際に私たちが死者を片づけてみると、四百人前後だったように思う。とにかくこれだけの死者があると、ものすごく見えるものですね。死者の大半は揚子江に流したのです」

実はこのさわぎのさい、若松連隊でも七人の死者が出た。切り倒したままとなっていた江岸の木や枝がそのまま武器となり、警備していた将校や兵隊がなぐり殺され、あるいは味方の銃弾をあびて死んだ。(P128)

『ふくしま 戦争と人間 1 白虎編 /福島民友新聞社』




(同盟通信記者・前田雄二氏)

ー 一般住民の大量虐殺はない ー
しかし、占領後、日本軍による「虐殺」がなかったわけではない。私は、自分の体験をそのまま「戦争の流れの中に」に書いているが、異常な見聞の第一は、占領三日目のことである。

(中略:第一は軍艦学校で捕虜の処刑を目撃した話。第二は交通銀行の裏で捕虜の処刑を目撃した話。第三は挹江門の城門における死体の山。)

第四は、その翌日、揚子江岸に死体の山が連なっているとの情報を得て車を走らせたが、下関からさらに下った江岸におびただしい中国兵の死体が連なっていた。ざっと見て千は超えていた。帰って警備司令部に説明を求めると「少数の日本部隊へ万を超える中国軍が投降してきたので武装解除し、江北へ逃げていくことを教唆したら、われ先にと船に乗り、ジャンク船に乗り、板にまたがり、戸板を浮かべて脱出したが、とうていさばき切れるものではなかった。船に乗りすぎて沈没するもの、乗り切れない者が船べりを離さないから揚子江に落ち込む、そこで殺傷が起きるということで、パニック状態になり、双方大乱戦となった勢が護送中の日本部隊を襲撃してきたため、機銃で掃射したものである」との答えだった。(P575)

『魁 郷土人物戦記 /伊勢新聞社編』





《改版履歴》


2022.09.17 初版




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★南京大虐殺の真相(目次)
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How to calculate the 幕府山事件.

2022年09月17日 | 南京大虐殺
2022.11.25 Updated


南京戦で第65連隊が多数の捕虜を殺害した事件(=幕府山事件)。これの犠牲者数その他の数字の計算方法。日英併記版。

The killing of many POWs by the 65th Regiment during the Battle of Nanking. How to calculate the number of dead and other figures. Japanese-English version.




全体の地図 Map of the whole area.







計算方法 Calculation Method.











捕虜の人数 Number of POWs


正確には何人の捕虜がいたのか?ある人は15,000人、ある人は20,000人と言う。

なぜこんなに違うのか?
なぜなら、誰も正確に数えたことがないから。

では、どうやって捕虜人数を把握したのか?
捕虜の数は、捕虜になった場所でおおよその数しか報告されない。


Exactly how many POWs were there? Some say 15,000, others say 20,000.

Why the discrepancy?
Because no one has counted them accurately.

So how did they determine the number of POWs?
Only an approximate number of POWs is reported at the place of capture.



For example, it goes like this.

The 1st Company reported “3,000 captured." (actually 2,378)
The 2nd Company reported "2,000 captured." (actually 1,532)
The 3rd Company reported “1,000 captured." (actually 673)
The 4th Company reported “500 captured." (actually 387)
The 5th Company reported “300 captured." (actually 258)
The 6th Company reported “28 captured." (actually 28)
The 7th Company reported “13 captured." (actually 13)

The total number reported to the regiment was 6,841.

The true total was 5,269.

Who knows "5,269”?
No one knows. Only god.



そして司令部が必要なのは概数を早く知ることである。収容場所を探すため、あるいは応援要請をするために概数が必要である。しかし、真数は必要ない。

And the command post needs to know the approximate number as soon as possible. An approximate number is needed to find a place to house them or to call for backup. But a true number is not necessary.




捕虜の数は「軍事的成果」である。従って、多ければ多いほど良い。多い数字が、上級司令部に報告され、マスコミに流される。

日本海軍は、米空母エンタープライズを9回撃沈した。(実際は0回)
日本陸軍は慣例として3倍の数字で「戦果」を報告したという。


The number of POWs is a “military result". Therefore, the more, the better. The higher numbers are reported to the higher command and broadcast to the media.

The Japanese Navy sank the U.S. aircraft carrier Enterprise nine times. (Actually, zero.)
The Japanese Army says they reported “military results” at three times of number, as is customary.



当時の新聞を見れば良い。こういうタイトルの記事になっているはずだ。

「両角部隊大武勲、敵兵一万五千余を捕虜」

Just look at the newspapers of that time. The title of the article should have been something like this.

"The Morozumi troops performed brilliantly, capturing more than 15,000 enemy soldiers."



しかし、歴史を学ぶ者は「戦果」を信じてはいけない。

But, those who study history should not believe “military results".



今日、ロシアとウクライナがばら撒いている「軍事的成果」を信じる専門家はいないはずだ。だから、米英政府や独立機関が独自に試算している。それと同じ。

No expert should believe the “military results" that Russia and Ukraine are scattering today. That is why the US and UK governments or independent organizations are making their own estimates. Same with that.




では、どうやって捕虜の数を知ることができるのか?
収容所から連行された捕虜の数を見れば良い。ここ以外に実数は存在しない。

Then how do we know how many POWs they have?
Just look at the number of POWs taken away from the Camp. There is no real number other than here.



Take a look at the soldier's diary.


兵士の日記 Diary of a Soldier



〔十二月〕十六日
警戒の厳重は益々加はりそれでも〔午〕前十時に第二中隊と衛兵を交代し一安心す、しかし其れも疎の間で午食事中俄に火災起り非常なる騒ぎとなり三分の一程延焼す、午后三時大隊は最後の取るべき手段を決し、捕慮兵約三千を揚子江岸に引率し之を射殺す、戦場ならでは出来ず又見れぬ光景である。
宮本省吾 陣中日記 歩兵第65連隊第四中隊・少尉

十二月十六日
午前中隊は残兵死体整理に出発する、自分は患者として休養す。午后五時に実より塩規錠をもらー、捕慮(虜)三大隊で三千名揚子江岸にて銃殺す、午后十時に分隊員かへる。
本間正勝 戦斗日記 歩兵第65連隊第九中隊・二等兵


December 16th
The vigilance became more and more severe, and even so, at 10:00 a.m., the 2nd Company and the guards were replaced, which was a relief. However, this was short-lived, and during lunch, a fire suddenly broke out, causing a great commotion and spreading about one-third of the fire. At 3:00 p.m., the battalion decided on a last resort and took about 3,000 POWs to the banks of the Yangtze River, where they were shot to death. This was a scene that could not have been done or seen anywhere else but on the battlefield.
Shogo Miyamoto, Diary of a Second Lieutenant in the 65th Infantry Regiment, 4th Company

December 16th
In the morning, the remaining soldiers of the company left to clean up the dead. I rested myself as a patient. At 5:00 p.m. I received my medicine. The 3rd Battalion shot 3,000 POWs on the banks of the Yangtze River. At 10:00 p.m., the detachment members returned.
Homma Masakatsu, War Diary, 65th Infantry Regiment, 9th Company, Private.


南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち /小野 賢二
Soldiers of the Imperial Army who recorded the Nanjing Massacre / Kenji Ono
https://www.amazon.co.jp/dp/4272520423/



3,000人の捕虜を連行したと書いてある。12月16日。

They wrote that taken away 3,000 of POWs. On Dec 16.



And...




十二月十六日 晴
定刻起床、午前九時三十分より一時間砲台見学に赴く、午後零時三十分捕虜収容所火災の為出動を命ぜられ同三時帰還す、同所に於て朝日記者横田氏に逢い一般情勢を聴く、捕虜総数一万七千二十五名、夕刻より軍命令により捕虜の三分の一を江岸に引出し1(第1大隊)に於て射殺す。
一日二合宛給養するに百俵を要し兵自身徴発により給養し居る今日到底不可能事にして軍より適当に処分すべしとの命令ありたるものの如し。

遠藤高明 陣中日記
歩兵第65連隊第8中隊・第3次補充 少尉


〔十二月〕十六日
 午前中給需伝票等を整理する、一ヶ月振りの整理の為相当手間取る。
 午后南京城見学の許しが出たので勇躍して行馬で行く、そして食料品店で洋酒各種を徴発して帰る、丁度見本の様だ、お陰で随分酩酊した。
 夕方二万の捕慮(虜)が火災を起し警戒に行った中隊の兵の交代に行く、遂に二万の内三分の一、七千人を今日揚子江畔にて銃殺と決し護衛に行く、そして全部処分を終る、生き残りを銃剣にて刺殺する。
  月は十四日、山の端にかかり皎々として青き影の処、断末魔の苦しみの声は全く惨しさこの上なし、戦場ならざれば見るを得ざるところなり、九時半頃帰る、一生忘るる事の出来ざる光影(景)であった。

近藤栄四郎 出征日誌
山砲兵第19連隊第8中隊・編成 伍長


December 16th, clear
Woke up on time and went to visit the battery for one hour starting at 9:30 am. At 0:30 p.m., I was ordered to report to the POWs camp due to a fire, and returned at 3:00 p.m. I met Mr. Yokota, a reporter from the Asahi Shimbun newspaper, and heard about the general situation.

The total number of POWs was 17,025, and by military order, one-third of the POWs were taken to the riverside in the evening, where the 1st Battalion shot them dead. It took 100 bales of rice to provide two cups of rice a day. Since we themselves were fed by requisition, it was impossible for them to do so, and it seems that the military ordered that they should be disposed of appropriately.

Endo Takaaki, Diary in Camp
65th Infantry Regiment, 8th Company, 3rd Replacement Second Lieutenant


December 16th
In the morning, I sorted out slips and other documents. It was the first time in a month that I had to do this, so it took a lot of time.
In the afternoon, I was given permission to visit Nanjing Castle, so I went there with great enthusiasm. I then went to a grocery store to pick up a variety of Western liquors and returned home. It was just like a sample, and thanks to that, I was very intoxicated.

In the evening, 20,000 POWs started a fire, and I went to replace the soldiers of the company that had gone to guard them. Finally, it was decided that 7,000 men, one-third of the 20,000, would be shot today on the banks of the Yangtze River, and I went to escort them.
After all of them were disposed of, the survivors were stabbed to death with bayonets.

The moon was shining on the edge of the mountains on the fourteenth day of the month, and the blue shadows of the mountains were bright and shining. The sound of their desperate suffering was absolutely horrifying. It was a sight I will never forget.

Eishiro Kondo's journal
Organized by the 8th Company, 19th Mountain Artillery Regiment, Corporal


南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち /小野 賢二
Soldiers of the Imperial Army who recorded the Nanjing Massacre / Kenji Ono




捕虜の3分の1を連行したと書いている。12月16日。

They wrote that taken away number of one-third of POWs. On Dec 16.




捕虜の連行を命じられ、実際に連行する捕虜の数を数えたのはこの時だけだ。

It was only then that the POWs were ordered to be taken away and the actual number of POWs being taken away was counted.




命令が何であったかは分からない。しかし、何人かの兵士は「3,000」または「3分の1」と書いている。

命令を出した人は、より真実に近い数字を知っていたのかもしれない。

しかし、65連隊の将校がより真実に近い数字を証言したとしても、歴史家はそれを信じないでしょう。そうやって歴史家は歴史を作り上げてきたのである。

話を戻そう。

「3,000人」が「3分の1」だとすると、総数は9,000人である。

私の推定では、この数字が最も整合性がとれている。


We don't know what the order was. But several soldiers wrote "3,000" or "one-third".

Whoever gave the order may have known a number closer to the truth.

However, even if an officer of the 65th testified to a figure closer to the truth, historians would not believe it. That is how historians have authored history.

Back to the story.

If "3,000" is "one-third," then the total number is 9,000.

From my estimation, these numbers are the most consistent.




日記を書いた兵士にとって捕虜総数は意味のない数字だ。なぜならば、彼らの任務に関係しない。書かれた数字もバラバラである。つまり、それは噂のようなものだ。

しかし、「3千」と「3分の1」は彼らに与えられた命令であり、彼らは実務上、これらの数字を数える必要があった。

我々はこれらの数字に注目すべきである。


For the soldier who wrote the diary, the total number of POWs is meaningless. Because it does not relate to his mission. The written numbers are also scattered. In other words, it is like a rumor.

But "3,000" and "one-third" are the orders given to them, and for all practical purposes, these numbers must be counted.

We must focus on these numbers.








従軍記者の著書 The book by a military reporter.


入城式

十七日午後一時半、松井石根軍司令官が、朝香宮鳩彦、柳川兵助の両師団長を従えて、馬上豊かに中山門から入城した。中山路の両側では、将兵の指揮刀、銃剣がススキの穂のように立ち並んだ。

下関からは、長谷川清艦隊司令長官が海軍部隊を従えて行進してくる。上空には陸海の航空部隊の編隊が爆音を轟かせる。やがて国民政府官舎の屋上に大日章旗が掲げられ、「君が代」が鳴り渡った。

松井軍司令官以下が国民政府楼上に姿を現すと、「万歳」の声が津波のように城内にひびいた。記者席には、約百名の報道陣が集まり、その中には西条八十、大宅壮一、山本實彦改造社長などの姿もあった。

この夜、私たちは野戦支局でふたたび祝いの宴を張ったが、この席で、深沢幹蔵が驚くべき報告をした。深沢は、夕刻、一人で下関に行ってみたが、すぐ下流に多数の死体の山があることを知らされた。行ってみると、死体の山が延々と連なっている。その中に死にきれず動くものがあると、警備の兵が射殺していたという。


死んだ部隊

私は、翌朝、二、三の僚友と車を走らせた。挹江門の死体はすべて取り除かれ、も早、地獄の門をくぐる恐ろしさはなかった。下関をすぎると、なるほど、深沢のいうとおり、道路の揚子江岸に夥しい中国兵の死体の山が連なっている。ところどころは、石油をかけて火をつけたらしく焼死体になっている。

「機銃でやったらしいな」

と祓川が言った。

「それにしても多いなあ」

千はこえていた。二千に達するかも知れない。一個部隊の死体だった。私たちは唖然とした。挹江門の死体詰めといい、この長江岸の死んだ部隊といい、どうしてこういうものがあるのか、私たちには分からなかった。

城内に戻って、警備司令部の参謀に尋ねてみた。少数の日本部隊が、多数の投降部隊を護送中に逆襲を受けたので撃滅した、というのが説明だった。(P121)


Castle Entry Ceremony

At 1:30 p.m. on the 17th, Commander-in-Chief Matsui Iwane, accompanied by division commanders Asakanomiya Yasuhiko and Yanagawa Heisuke, entered the castle from the Zhōngshānmén Gate in a horseback abundance. On both sides of Zhōngshān-streat, the commanding swords and bayonets of the generals stood like ears of silver grass.

From Xiàguān Fleet Commander Kiyoshi Hasegawa marched in with his naval troops. Above in the sky, the formation of air units from the land and sea roared with the sound of explosions. Soon, a large Japanese flag was hoisted on the roof of the National Government building, and "Kimigayo" rang out.

When the Commander-in-Chief Matsui and his staff appeared on the roof of the National Government Building, the shouts of "Banzai" echoed through the castle like a tidal wave. About a hundred reporters gathered at the press box, among them were Saijo Yaso, Souichi Ooya, and "Kaizou" President Sanehiko Yamamoto.

That evening, we again held a celebration party at the Field Office, where Mikizo Fukasawa made a startling report. In the evening, Fukazawa went to Xiàguānalone and was informed that there were many dead bodies piled up just downstream. When he went there, he found that the piles of corpses were endless. If any of them were not dead and moved, the guards would shoot them dead.


Dead troops

The next morning, I drove away with two or three of my colleagues. All the dead bodies at the Yijiang Gate(挹江門) had been removed, and there was no longer any fear of passing through the gates of hell. After passing Xiàguān, we found, as Fukasawa had said, a great number of dead Chinese soldiers piled up along the banks of the Yangtze River. In some places, the bodies were burnt to death, as if they had been set on fire by pouring oil over them.

"I heard they were killed by machine gun fire"

Haraikawa said.

"But still, that's a lot of bodies."

There were more than 1,000 bodies, maybe close to 2,000. It was the body of one unit. We were stunned. We had no idea why there were so many corpses at the Yijiang Gate(挹江門) or dead troops along the banks of the Yangtze River.

We returned to the castle and asked the chief of staff of the security command post. He explained that a small number of Japanese troops had been struck back while escorting a large number of surrendered troops and had been destroyed.(P121)


南京大虐殺はなかったー『戦争の流れの中に』からの抜粋 /前田 雄二
There was no Nanking Massacre: Excerpts from "In the Stream of War" / Yuji Maeda
https://www.amazon.co.jp/dp/4793903932/


Question 1: How did Mr. Maeda, the military reporter, get there?
Answer 1: He went by car.

Question 2: Where were the many dead bodies?
Answer 2: Around the road.

Question 3: How many bodies?
Answer 3: More than 1,000, maybe 2,000.

Question 4: When did Mr. Maeda see them?
Answer 4: On the morning of Dec 18.

Question 5: Why did reporter Maeda write this story in his book?
Answer 5: Because even a military reporter who was used to seeing the battlefield was stunned by the sight.




再び、兵士の日記 Diary of a Soldier, again.


十二月十八日 曇、寒
午前零時敗残兵の死体かたづけに出動の命令が出る、小行李全部が出発する、途中死屍累々として其の数を知れぬ敵兵の中を行く、吹いて来る一順の風もなまぐさく何んとなく殺気たつて居る、揚子江岸で捕慮○○○名銃殺する、昨日まで月光コウコウとして居つたのが今夜は曇り、薄明い位、霧の様な雨がチラチラ降って来た、寒い北風が切る様だ、捕慮銃殺に行つた十二中隊の戦友が流弾に腹部を貫通され死に近い断末魔のうめき声が身を切る様に聞い悲哀の情がみなぎる、午前三時帰営、就寝、朝はゆつくり起床(後略)

斎藤次郎陣中日記


December 18, cloudy, cold
At midnight, orders are given to dispatch troops to clean up the corpses of the defeated soldiers.
All members of the convoy depart.
On the way, they pass through an unknown number of enemy soldiers, many of whom are dead.
The winds of Isshun were blowing softly and with a certain deadly force.
The enemy soldiers were shot dead on the banks of the Yangtze River.
Yesterday the moonlight was bright, but tonight it is cloudy and dim.
A misty rain is falling.
A cold northerly wind was blowing.
A comrade-in-arms of the 12th Company, who had gone for taken away and shoot POWs, was pierced through the abdomen by a stray bullet, and his near-death moan was so heartbreaking that I could hear him cry out in despair.
He returned to camp at 3:00 a.m., went to bed, and woke up in the morning. (Omitted)

Diary of Jiro Saito


南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち /小野 賢二
Soldiers of the Imperial Army who recorded the Nanjing Massacre / Kenji Ono


Question 1: Where were the many corpses along the way?
Answer 1: Near the roadside.

Question 2: Why were his comrades-in-arms shot?
Answer 2: An unexpected incident occurred suddenly.

Question 3: Where did the incident occur?
Answer 3: On the banks of the river and on the road to it.




これは前田記者の目撃と似てる。

This is similar to what the Maeda reporter witnessed.




その時、捕虜はどこにいた? Where were the POWs at that time?


捕虜の殷有余氏は事件現場まで600mの地点にいた。12月16日。

The POW, Yin Youyou(殷有余), were 600 meters from the scene of the incident. On Dec 16.



魚雷営の大虐殺

一九三七年十二月十五日、南京城陥落の次の日、一般人と武器を捨てた軍人九千余人は、日寇(*5)の俘虜とされたのち、海軍魚雷営まで押送され、機関銃による集中掃射を受け、殷有余ら九人が脱出したほかは全員殺害された。被害者殷有余が法廷でおこなった証言資料はつぎのように指摘している。

「(農暦) 民国二十六年〔一九三七年〕十一月十一日(*6)、被害者わたくしは上元門において敵に縄で縛り上げられました。わたくしと一緒に俘虜となった官兵および民衆は約三百余人で、胡姓の瓦葺きの家に押し込められました。十三日夜になって、またもや上元門外の道路沿いに追い立てられながら魚雷営の長江の端まで来た時、敵はすでに機関銃四挺を設置済みで、拉致されてきた計約九千人以上の一群の人々が行進している最中、敵はたちまち機関銃を発射し、掃射を加えたのです」

この時の集団大虐殺は夜間におこなわれたため、殷有余ら九人は銃声を聞いて倒れ込み、血だまりの中に横たわっていて、幸いにも銃弾に当らず、死を免れることができた。(P22)


Torpedo Brigade Massacre

On December 15, 1937, the day after the fall of Nanjing City, more than 9,000 civilians and military personnel who had laid down their arms were taken prisoner by the Japanese pirates (*5) and sent to the naval torpedo brig, where they were subjected to intensive machine gun fire, killing all but nine, including Yin Youyou(殷有余), who escaped. The victim, Yin Youyou(殷有余), gave the following testimony in court.

"On November 11, 1937 (*6), I, the victim, was tied up by the enemy at Kamiyuan Gate(上元門). I was taken prisoner together with about 300 or so other government soldiers and people, who were forced into the tiled house of a Hu surname. On the night of the 13th, when we were again driven along the road outside Kamiyuan Gate(上元門) to the edge of the Yangtze River at Torpedo Camp, the enemy had already set up four machine guns, and as a group of about 9,000 or more people who had been abducted were marching along, the enemy immediately fired their machine guns and began to sweep us up. "

Since the massacre took place at night, Yin Youyou(殷有余) and nine others fell to the ground upon hearing the gunshots and lay in a pool of blood, fortunately avoiding being hit by bullets and escaping death. (P22)

*5:日寇とは日本侵略者の意。あえて訳さず日寇のままにした。
*6:農暦十一月は新暦十二月。Lunar calendar.




証言・南京大虐殺―戦争とはなにか / 南京市文史資料研究会
Testimony: The Nanjing Massacre - What is War? / Nanjing City Cultural and Historical Materials Research Association
https://www.amazon.co.jp/dp/4250840247/


この書籍は中国が1980年代に国内向けに刊行したのを日本語訳にしたものである。

This book is a Japanese translation of a book originally published by China for its domestic market in the 1980s.



Question 1: What condition were the POWs in when Yin Youyou(殷有余)was fired upon?
Answer 1: The POWs were in the process of marching.

Question 2: Where was Yin Youyou(殷有余)at that time?
Answer 2: He had just arrived at the edge of the Yangtze River at the torpedo camp via the road outside Kamiyuan Gate(上元門).

Question 3: How did Yin Youyou(殷有余) survive?
Answer 3: He pretended to be dead.

Question 4: How many people survived?
Answer 4: Nine, including Yin Youyou(殷有余).

Question 5: Why weren't they stabbed by Japanese bayonets?
Answer 5: Because they were far away from the scene of the machine gun fire.




捕虜の行進を上から見る A view of the POWs march from above.


銃殺があった 17日、この山頂で警備に当たっていたという兵士がいた。歩兵第六十五聯隊第八中隊の上等兵だ。

(中略)


「幕府山の頂上ですね。砲台のところで警備をしていた。揚子江に面した場所で見晴らしが良いところで川を通る船が良く見えた。捕虜は支那の兵舎かな? 藁葺き屋根の兵舎に入れてあったから川まで何キロあるのかな……」

山頂からは、捕虜を収容していた建物から揚子江までがぐるりと見渡せたという。

「あれは午後だったと思う。歩いていた捕虜の姿がそこから見えた。ぞろぞろと。相当に大きな道路だったが、その道一杯に歩いていた。速度は早くない。先頭が揚子江の岸に着いていても後尾はまだ(収容所を) 出ていないぐらい長かった。相当な人数だったね」

夜になって眼下に望んだのは、暗闇の中にチカチカと輝くいくつもの光だった。

「銃撃している機関銃の光を見た。暗くなってだから良くわからないが、あちこちで光っていた。そん時は、ただやっているなという感じ。当時は関心を持たないんだね。命令だからね……」



On the 17th, the day of the shooting, there was a soldier who was on guard at the top of this mountain. He was a private in the 65th Infantry Regiment, 8th Company.

(omitted)


"It's the top of Bakufu Mountain. We were guarding at the gun emplacement. We were facing the Yangtze River and had a good vantage point from which we could see the boats passing on the river. Is the prisoner of war a branch barracks? They were kept in thatched-roof barracks, so I wonder how many kilometers it is to the river. ......"

From the top of the mountain, he said, he could see all the way from the building where the POWs were being held to the Yangtze River.

"I think that was in the afternoon. I could see the POWs on foot from there. They were all over the place. It was a fairly large road, but they were walking along the entire length of it. They were not fast. It was so long that the first group had reached the bank of the Yangtze and the last had not yet left the camp. There were quite a few of us."

At night, he looked down and saw many lights flickering in the darkness.

"I saw the light of a machine gun firing. It was dark, so I couldn't make them out, but they were glowing all over the place. At that time, I just thought they were doing it. You didn't have any interest in it at the time. It's an order. ......"


「南京事件」を調査せよ /清水潔
Investigate the "Nanking Incident" / Kiyoshi Shimizu
https://www.amazon.co.jp/dp/B077TP2SL8/


Question 1: How long is the length of the POWs line?
Answer 1: The same distance from the camp to the Yangtze River.

Question 2: Do you know the distance from the camp to the Yangtze River?
Answer 2: Yes. 3.6 km.

Question 3: Can you calculate the density of the POWs line?
Answer 3: Yes. If there are 6,000 POWs, then it is 1.7 POW/m.




Where was Lt. Kakuta? 角田中尉はどこにいた?


角田中尉は捕虜隊列の最後尾にいた。12月17日。
Lt. Kakuta was at the tail end of the POWs line. Dec 17.


(角田中尉の証言)

「さて、河岸への連行にあたっては、私は役目を免除されました。が、収容所はからっぽになったし、ひまでしたので、連行の列の最後尾についていったのです。ところが、前方で乱射乱撃が始まり、どんどん銃弾が飛んでくる。私は道のわきにあるクリークのようなものに飛び込み、危難を避けました。味方の銃弾で死んではいられないし、恐ろしい思いをしました。また『突発だな』と私には感じられました。突発でなかったら、味方の方向に銃弾が飛んでくるなんて考えられませんよ。とにかく無茶な射撃でした。計画的に殺す気なら、あんなふうに銃弾は飛ぶわけないですからね」(P111)

(Testimony of Lt. Kakuta)

"I was relieved of my role in taking the POWs to the riverbank.However, the camp was empty and I was free, so I followed at the end of the line.
However, a wild shooting started in front of us, and bullets came flying faster and faster. I jumped into a kind of creek on the side of the road to avoid harm.
I didn't want to be killed by bullets from my allies, and it was a horrible feeling. It felt "sudden again" to me. If it wasn't a sudden burst, I can't imagine bullets flying in the direction of my allies. Anyway, it was a reckless shooting. If they had planned to kill him, the bullets would not have flown like that." (P111)


南京の氷雨―虐殺の構造を追って /阿部 輝郎
The Ice Rain of Nanking: Tracing the Structure of the Massacre / Teruo Abe
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002048426-00


Question 1: Where was Lt. Kakuta when the incident occurred?
Answer 1: He was at the tail end of the POWs line.

Question 2: What did Lt. Kakuta do when the incident occurred?
Answer 2: He jumped into what looked like a creek to avoid friendly fire.





彼がいた場所を私は航空写真で発見した。
I found where he was on an aerial photograph.



https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1906719/18




議論のための資料 Materials for Discussion


捕虜の総数について
On the total number of POWs.


http://www.kuriharariichi.com/sketch/to_0040/0028.html
https://www.amazon.co.jp/dp/4585222944/



捕まった部隊
The captured troops.


https://www.amazon.co.jp/dp/4250840247/
https://www.chinajapan.org/articles/15/askew15.148-173.pdf
http://www.history.gr.jp/nanking/books_shougen_kaikosha.html



現場の遺体はそう多くない
Not so many bodies at the scene.


https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001602891-00



埋葬記録の場所
Location of burial records.


https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10273906



前田記者の目撃談
Maeda Reporter's Eyewitness Story


https://www.amazon.co.jp/dp/4793903932/







《改版履歴》


2022.09.20 初版
2022.09.22 議論のための資料 Materials for Discussion 追加
2022.11.25 議論のための資料 Materials for Discussion に追記




《関連記事》


《幕府山事件》概要編
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/4997887cce0ec9d9cc7e17f92562d37c

《幕府山事件》地理編
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/9b9a860e2c39a923405efe2946d766ed

《幕府山事件》時系列編
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/b371d9b304f84e519677960e6b644f17

《幕府山事件》自衛発砲説
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/13fd6d3e71081054bca30edc4a796259

《幕府山事件》魚雷営現場の外形的検証
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/5fe165164b8b9537c71c97f707ef986b

《幕府山事件》草鞋峡現場の外形的検証(前編)
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/e5c0c9b19ec42a60c0d038314aa4e32a

《幕府山事件》草鞋峡現場の外形的検証(後編)
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/67c2655b8679239d13220dde13c349a7

《幕府山事件》埋葬記録の絞り込み
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/fb155aa7d56ce5e3e43f490f8fe5eb68

《幕府山事件》試算モデル
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/548a45b8a1f4e8c8c0fee0fab3b670e0

《幕府山事件》本当の意図
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/a8da8d8a68b1117afd6ea3cf649d104f



★南京大虐殺の真相(目次)
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《幕府山事件》試算モデル

2022年09月17日 | 南京大虐殺
2022.09.17 初版


次の記事で、紅卍字会の埋葬記録から幕府山事件に関連するものを拾い出した。

《幕府山事件》埋葬記録の絞り込み
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/fb155aa7d56ce5e3e43f490f8fe5eb68


この記事では、そこから広げて幕府山事件全体の犠牲者数その他の数字の試算を行った。




《要旨》


1)報道や陣中日記に登場する捕虜数は戦果としての誇張があり、かつ数字が一定しないので収容捕虜数として信用するに値しない。しかし、関係者の中で共通する要素がある。(a) 殷有余氏「九千人」、(b) 小野日記「魚雷営連行三千人または三分の一」、(c) 平林中尉「一万人」、(d) 両角連隊長「八千人」、のいずれも収容捕虜総数として9千人前後の数字を示している。

2)収容捕虜総数9千人、魚雷営3千人、草鞋峡6千人とし、紅卍字会の埋葬記録、前田記者の目撃談、その他関係者の証言と数字的に大きな破綻がなく成立する試算モデルを作成した。その結果は、捕虜総数9千人のうち40%が逃亡。また、犠牲者数の58%が移送途中の路上周辺だった。これが唯一の解ではないが、数字の幅はかなり収斂してきたと考える。

3)この結果からすると、南京論者(歴史家、研究者その他)が語ってきた幕府山事件イメージ、すなわち「収容捕虜の大半が2ヶ所の現場で殺害された」という理解は相当間違えているのではないか。両角手記にある草鞋峡現場の捕虜数「二千人ほど」という数字や、郷土部隊戦記にある草鞋峡現場の犠牲者数「千人を上回った程度」は、収容捕虜数からいって信用ならない数字とされてきたと思うが、私の試算には整合的である。移送途中の隊列を無視しているから「そんなはずはない」と決めつけて切り捨ててきたのではなかったか。




(クリックで拡大)





(全体地図)




(クリックで拡大)





《1. 捕虜数の絞り込み》


山田支隊が捕らえた捕虜数については、当時の報道や参戦将兵の日記等の数字があるが、いくつもの種類の数字が乱立して真数が不明になっている。

そもそも、この捕虜を捕獲した1937年12月14日時点では、捕獲捕虜数は「戦果」なので、誇大になる方向にバイアスがかかる。後の太平洋戦争では空母・エンタープライズを9回撃沈した日本軍である。陸軍でも「戦果は慣例に従って3倍に計上した」(証言による南京戦史)などという話もある。

従って、報道あるいは上級司令部に宛てた戦果の数字は信用ならないのである。

また、参戦者の陣中日記を集めた小野日記においても、捕虜総数に関しては全く安定していない。人によって認識がバラバラである。つまり、幹部から正式かつ正確な数字が周知されているわけではないのである。

そして、一部将兵は朝日新聞記者と情報交換したりしているので、外向きの数字が部隊内に入ってきている。

また、たとえば栗原利一伍長(65連隊第一中隊)の栗原スケッチを見ても、捕獲捕虜数、収容捕虜数、草鞋峡連行捕虜数の全てが13,500人と認識している。つまり、魚雷営の数字が反映されていない。

こういう数字をいくら吟味しても正解には辿り着けないと考える。



(クリックで拡大)



では、どうするか。

上図に示したが、実は共通要素が見えている。


(a) 殷有余氏

捕虜の立場で魚雷営に連行された殷有余氏(後述)は、「上元門外の道路沿いに追い立てられながら魚雷営の長江の端まで来た時、敵はすでに機関銃四挺を設置済みで、拉致されてきた計約九千人以上の一群の人々が行進している最中、敵はたちまち機関銃を発射し、掃射を加えたのです」(証言・南京大虐殺) と書いている。殷有余氏と一緒に閉じ込められていたのは300人だと書いているが、連行捕虜数は9千人以上だという。「9千人」という数字をどこから得たのかは不明だが、捕虜たちの「戦意を喪失した敗残兵」という由来からすると、部隊名さえわかれば彼らの方が捕虜総数を把握できていても不思議ではない。そして、殷有余氏は魚雷営に連行される立場なので、連行されるのが一部なのか全部なのかは知る由もなく、従って、この9千人は殷有余氏が把握していた総数と思われる。


(b) 小野日記

小野日記の数字を見ると捕虜総数はまちまちで当てにならないが、魚雷営に連行した捕虜数については共通項が多い。「三千」または「三分の一」である。魚雷営への捕虜連行がどういう命令であったのかは不明だが、この数字は彼らにとっては任務なので、必ず把握してから実行したはずである。また、複数の人がこの数字を書いてる点からしてもある程度の信憑性がある。そして、魚雷営への連行数の「三千」が「三分の一」なら総数は「9千」である。


(c) 平林中尉

平林貞治中尉が、「問題は給食でした。われわれが食べるだけで精一杯なのに、一万人分ものメシなんか、充分に作れるはずがありません。それに、向うの指揮者というのがいないから、水を分けるにしても向うで奪い合いのケンカなんです」と証言している。内容が具体的なので、そういう業務を担当していたように見える。食糧配給業務をやるなら人数把握は必須である。十数棟の建物に収容していたというから、どれかの建物の1/4の人数をサンプル的に概算把握して、これに4倍して建物数を掛けるなどすれば概数はすぐ出る。これは実務なので必ずやったはず。その人が苦労話を語る場面で「一万人」と言ってる。


(d) 両角連隊長手記

両角連隊長は、手記にこう書いている。

『南京大虐殺事件』
 幕府山東側地区、及び幕府山付近に於いて得た捕虜の数は莫大なものであった。新聞は二万とか書いたが、実際は一万五千三百余であった。しかし、この中には婦女子あり、老人あり、全くの非戦闘員(南京より落ちのびたる市民多数)がいたので、これをより分けて解放した。残りは八千人程度であった。これを運よく幕府山南側にあった厩舎か鶏舎か、細長い野営場のバラック(思うに幕府山要塞の使用建物で、十数棟併列し、周囲に不完全ながら鉄線が二、三本張りめぐらされている)-とりあえず、この建物に収容し、(後略)


両角業作 手記 歩兵第65聯隊長・歩兵大佐
南京戦史資料集 II


幕府山事件の検証ではあまり信用されない両角連隊長手記だが、手がかりは多い。

この文章構造だと、非戦闘員を分離したのは捕虜を収容所に入れる前になっている。「解放した」という言い回しになっているが、これは言い換えれば「非戦闘員は現地に置き去りにした」と言っているに等しい。現地で武器を捨てさせ、収容所に向けて行進させたのが8千人ということである。

ただ、捕虜収容所に入れたのが8千人という話は12月14日のことを言っているだけなので、翌日から増えた分は言及範囲ではない。

ということは、(a) 殷有余氏、(b) 小野日記、(c) 平林中尉、(d) 両角連隊長、のいずれも収容捕虜総数として9千人前後の数字を示していることになる。

どうせこれ以上の精度は望めないのだから、「9千人」で良いと考える。



(捕虜数の把握に関する余談)

ちなみに、『郷土部隊戦記 /福島民友新聞社』を読むと、捕虜人数というのは中隊毎の報告をまとめたものだろうという話が書いてある。

そうすると、例えばこういうことになる。

捕虜のカウント例:

第1中隊:1000
第2中隊:500
第3中隊:300
第4中隊:200
第5中隊:100
第6中隊:60
第7中隊:30
第8中隊:23
第9中隊:15
合計  :2,228

第1~5中隊くらいまでは、見た目の概数である。どの程度の誤差があるか、わかったものではない。第8・9中隊は少数なので正確だとする。

すると、合計は1の単位まで出ているので、あとで数字だけ見るとキッチリ数えたように見える。しかし、大多数は数えていなかったりするのである。

また、南京戦に関する他の事例を見ても日本軍は捕虜を捕獲した場合、まず最初に人数の概数を把握する。そうでないと、他に応援要請や収容要請するにしても話が進まないからである。連絡を受けた方も必ず「そこに何人いるのか」と確認する。ただ、こういう場面では精緻な数字は求められていない。必要なのは概数である。

幕府山砲台の占領を命じられた角田中尉(第5中隊)は、途中で「3千人は武装解除したと思う」と証言しているが、これも精密な数字ではないことは明らかである。

中国側の一部の将兵は家族を帯同していたらしいので、幕府山の東側で「1万5千人」とされる敗残兵に直面した時点では、そういう非戦闘員も混ざっていたと思われる。避難民もいたかもしれない。「1万5千人」という概数を出したのはこの時点のはずである。収容場所を探すにしてもこの概数が必要となる。

しかし、この「1万5千人」は混乱する潰走兵ではなく「戦意を失った敗残兵」であり正規軍である。指揮官が機能している投降部隊は整然としている。栗原スケッチを見ても、白旗を掲げて降伏してきたので武器を一箇所に捨てさせてから隊列を組んで南京城に向かったという。

そのような隊列に避難民が混ざるわけがない。避難民は自軍の隊列をその場で見送るのみである。だから、特に誰も軍民の選別作業をした記憶がなくても当然である。

その結果、収容所に入ったのは8千人だと両角連隊長は言っている。それが正確かどうかはともかく、最初の「1万5千人」というのがそもそも全く当てにならない数字なのである。

ただ、当てにはならないが「戦果」として誇示できるので上級司令部や報道向けにはこの「1万5千人」を流す。そういう数字である。




《2. 捕虜移送隊列の試算》


犠牲者数その他を試算するにあたって、まず捕虜移送隊列に関する数字を割り出す。



(捕虜移送隊列の写真解析)

『「南京事件」を調査せよ /清水潔』に小野賢二氏所有の捕虜移送隊列の写真が載っている。この写真からいろいろなことが読み取れる。



(クリックで拡大)



ほぼ正面の遠影に山が写っている。これは城内北端にある獅子山である。獅子山は今でも形が変わっていないので、GoogleEarthで見てもわかる。同じ地点から見た画像を貼っておいた。

また、日差しが低いので日没前とし、太陽光線の方向などを考慮すると、撮影地点は魚雷営に近い揚子江岸であると推定できる。

すると、これは魚雷営に向かう隊列といえる。

この写真を見たときには、画像右部分で隊列が左折をしているのかと思ったが、違うように見える。

地図で見てわかるように魚雷営に行くには直進のはずである。また、奥の団体を見ると、進行してるのではなく、待機してる感じに見える。そうすると、この奥の団体は日本軍ではないのか、という気がする。

日没は17時ちょうどなので、撮影はその少し前と思われる。


それと、奥の団体の背後には背の高さを超えるススキが見える。事件発生直後に逃亡者が出たとして、こういうススキ等の視覚的遮蔽物があれば、逃亡を助けたかもしれない。


あと、この地点で魚雷営行きの捕虜移送隊列の写真が撮られたなら、魚雷営行き移送経路は上元門丁字路を直進していたことになる。自動車なら丁字路だが、歩行者なら十字路として直進できる。

そして、揚子江岸にぶつかってから魚雷営に向けて左折。



(隊列密度)

各種試算する上で隊列密度のデータは使える。上の写真を見ると2人/m程度の隊列密度に見える。

ただ、歩みの遅い捕虜がいれば前はガラ空きとなり、後ろは密に詰まる、というようなばらつきはあったものと思う。撮影者もこういう撮影時には特徴の濃いシーンを求めるものである。

また、この写真の隊列最後尾の人物の後ろもやや空いているように見える。

その意味では、2人/mを上限値として良さそうである。



次に、この証言に注目する。

銃殺があった 17日、この山頂で警備に当たっていたという兵士がいた。歩兵第六十五聯隊第八中隊の上等兵だ。
94年6月に収録されたインタビュー・テープが遺されていた。茶の間のざぶとんに、ちょこんと座るその人はおでこが禿げあがっている。どこかで練習中のピアノの旋律が聞こえる。更に、時折り「カラカラカラ」という蛙の鳴き声も入っていた。上等兵はこんな光景を見たという。

「幕府山の頂上ですね。砲台のところで警備をしていた。揚子江に面した場所で見晴らしが良いところで川を通る船が良く見えた。捕虜は支那の兵舎かな? 藁葺き屋根の兵舎に入れてあったから川まで何キロあるのかな……」

山頂からは、捕虜を収容していた建物から揚子江までがぐるりと見渡せたという。

「あれは午後だったと思う。歩いていた捕虜の姿がそこから見えた。ぞろぞろと。相当に大きな道路だったが、その道一杯に歩いていた。速度は早くない。先頭が揚子江の岸に着いていても後尾はまだ(収容所を) 出ていないぐらい長かった。相当な人数だったね」

夜になって眼下に望んだのは、暗闇の中にチカチカと輝くいくつもの光だった。

「銃撃している機関銃の光を見た。暗くなってだから良くわからないが、あちこちで光っていた。そん時は、ただやっているなという感じ。当時は関心を持たないんだね。命令だからね……」


「南京事件」を調査せよ /清水潔



草鞋峡行きの捕虜移送隊列について「先頭が揚子江の岸に着いていても後尾はまだ(収容所を) 出ていないぐらい長かった」と言っている。

収容捕虜数が9千人で、魚雷営に三分の一あるいは3千人を連行したなら、草鞋峡には6千人である。

収容所から草鞋峡の現場までは3.6kmなので、6千人がそこにちょうど収まる隊列密度は1.7人/mである。
(1.666…を四捨五入して1.7)

道幅によっては広がったり狭まったりはあるだろうが、それでも1.7人/mに変わりはない。

上の写真の2人/mは上限値に見えるので、全区間平均で1.7人/mなら妥当に見える。

以後、この試算では「1.7人/m」を隊列密度として使うこととする。



(隊列死亡率の絞り込み)

捕虜移送隊列の隊列密度がわかったので、次は事件発生によって、この隊列からどの程度の犠牲が出たのか絞り込む。

使うのは前田記者のこの記述である。


私は、翌朝、二、三の僚友と車を走らせた。挹江門の死体はすべて取り除かれ、も早、地獄の門をくぐる恐ろしさはなかった。下関をすぎると、なるほど、深沢のいうとおり、道路の揚子江岸に夥しい中国兵の死体の山が連なっている。ところどころは、石油をかけて火をつけたらしく焼死体になっている。

「機銃でやったらしいな」

と祓川が言った。

「それにしても多いなあ」

千はこえていた。二千に達するかも知れない。一個部隊の死体だった。私たちは唖然とした。挹江門の死体詰めといい、この長江岸の死んだ部隊といい、どうしてこういうものがあるのか、私たちには分からなかった。

城内に戻って、警備司令部の参謀に尋ねてみた。少数の日本部隊が、多数の投降部隊を護送中に逆襲を受けたので撃滅した、というのが説明だった。


南京大虐殺はなかった―『戦争の流れの中に』からの抜粋 / 前田 雄二



使うのは、「千はこえていた。二千に達するかも知れない」の部分。



(クリックで拡大)



魚雷営に行く捕虜移送隊列は、収容所を出て上元門を直進して揚子江にぶつかるC地点で左折して魚雷営に向かう。写真からそれが判明した。

草鞋峡に行く捕虜移送隊列は、収容所を出て上元門を右折してB地点経由で現場に向かう。

前田記者は車で行ったというから、A地点から入ってきて上元門を通過しB地点方向に抜けたと思われる。自動車として走行可能な道路は上元門から右折して収容所方向もあるが、それだと証言に整合しないので考えないこととする。

そうすると、捕虜移送経路と重なっている区間は、草鞋峡隊列の上元門~B地点の区間のみとなる。

これに上で算定済みの隊列密度1.7人/mを使うと、上元門~B地点の1kmの区間にいる隊列捕虜人数は1,700人である。

これが全数死亡としては、前田記者の証言に整合しない。

そこで、「千は超えていた」となるように、上元門~B地点区間の死亡率を出す。そうすると、「60%」で整合する。

そして、魚雷営隊列の上元門~C地点、草鞋峡隊列の収容所~上元門、B地点~草鞋峡現場の3本は前田記者の視点では横道になると思われる。その横道にある遺体はいずれも数百メートルの距離なので、その横道の周囲にある遺体数の半数を把握できたとする。

そうすると合計1,764体なので、「二千に達するかもしれない」にちょうど整合する。


よって、隊列死亡率は 60%とする。



(捕虜移送隊列の尻尾)

次は、紅卍字会の埋葬記録の数字を使って、捕虜移送隊列の尻尾つまり最後尾の位置を探る。



(クリックで拡大)



考え方を先に書く。

まず、隊列死者数は「隊列密度 1.7人/m × 隊列死亡率60% × 距離m」である。

すると、移送経路の各区間ごとの理論上の区間死者数が自動的に出る。しかし、隊列が進めば尻尾は短くなるので、事件発生時に尻尾の区間から生じる死者数は理論上の区間死者数を下回る。

であれば、紅卍字会の埋葬記録の中にちょうど該当しそうな数字が見つかれば、尻尾の長さがわかるはず。



結論を書くと、紅卍字会【574】は魚雷営隊列の尻尾、紅卍字会【591】は草鞋峡隊列の尻尾に対応している。

なぜならば、事件発生の瞬間同士の魚雷営隊列と草鞋峡隊列は重なり合っていないからである。上元門丁字路でぎりぎり接している程度である。そして、紅卍字会【574】と【591】は上元門を境に遺体収容位置が分かれている。【574】の収容位置は魚雷営埠頭なので、草鞋峡隊列の通り道ではない。そして、魚雷営隊列の尻尾は上元門から下には伸びていない。つまり、【591】は草鞋峡隊列の尻尾となる。

この時に、紅卍字会【574】は魚雷営隊列の上元門~C地点に対応するものとする。というのは、日本軍の戦場掃除のパターンは、近くに水があればそこに遺体を放り入れるからである。魚雷営の現場はもちろん、C地点~魚雷営現場の遺体もそうしたはずである。その場合、それらの遺体は紅卍字会の埋葬記録に基本的に登場しない。あるいは登場する場合でも“水葬”になるので、記録を注意深く読めば見抜ける。

それで、上図の表は、移送隊列が順次進んで現場に到着する捕虜人数が増えるとともに、隊列の尻尾が短くなる様子を計算している。その中から、紅卍字会【574】に近似する尻尾の長さを探す。

そうすると、魚雷営隊列の尻尾はC地点から580mであることがわかる。つまり、そこはほぼ上元門である。
それとともに、魚雷営の現場に到着済みの捕虜数は1,000人であることがわかる。表の左端。

同様に草鞋峡隊列について紅卍字会【591】に対応する尻尾を探すと、上元門から収容所方向へ580mの地点であることがわかる。
それとともに、草鞋峡の現場に到着済みの捕虜人数は2,800人であることがわかる。


もちろん、これは入手可能な手がかりを元にした概数であり試算でしかないが、事件の輪郭を掴むには役に立つ。


なお、上図の中には結果的に判明した対応関係【306+1,020=1,326→1,346】についても点線で示してあるが、この尻尾の割り出し作業をしていた段階では私はまだ気づいていなかった。この件については後述する。



(角田中尉はどこにいた)

16日の魚雷営事件の際に指揮をしていた角田中尉は、翌日の草鞋峡事件の際には隊列の最後尾にいたというから、その場所を特定できれば上述の計算の証明になる。その証言を見てみる。


(角田中尉の証言)

「さて、河岸への連行にあたっては、私は役目を免除されました。が、収容所はからっぽになったし、ひまでしたので、連行の列の最後尾についていったのです。ところが、前方で乱射乱撃が始まり、どんどん銃弾が飛んでくる。私は道のわきにあるクリークのようなものに飛び込み、危難を避けました。味方の銃弾で死んではいられないし、恐ろしい思いをしました。また『突発だな』と私には感じられました。突発でなかったら、味方の方向に銃弾が飛んでくるなんて考えられませんよ。とにかく無茶な射撃でした。計画的に殺す気なら、あんなふうに銃弾は飛ぶわけないですからね」(P111)


南京の氷雨―虐殺の構造を追って /阿部 輝郎



角田中尉は、「道のわきにあるクリークのようなもの」に飛び込んだという。

そこで、上で算出した上元門から600m付近の地点を見てみる。



(クリックで拡大)



まさにそこに「クリークのようなもの」が見える。ちょうど道路に沿って約50mの長さの溝のようなものがある。

クリークとは、英語で creek:小川、小さな入江、だと思うが、南京戦に登場するクリークは揚子江の支流や水路などである。平時は水運などに使うが、戦争時には防衛用の障害になる。

南京城の城壁の周囲にもクリークを巡らせてあり、それは日本の城の濠(内濠、外濠)と同じ機能を持つ。つまり、攻城戦における防御側の設備である。

その意味で言うと、上の写真の「溝」はクリークではない。水路や川でもないし、何かを囲んでもいない。だから、角田中尉は「クリークのようなもの」と表現したと思われる。本物のクリークなら、「…のようなもの」は付けなかったはずである。

また、その周囲を見ても道路のそばにそれほど「クリークのようなもの」があるようにも見えない。従って、草鞋峡の事件発生の瞬間に、隊列最後尾の角田中尉がいたのはまさにその場所だと言える。

これで上述してきた捕虜移送隊列に関する数字も、角田中尉によって裏付けられたと思う。



なお、上の資料の写真には陥落翌年の昭和13年3月16日との記載があるので、角田中尉が飛び込んだ当時の地形がそのまま写っていると思われる。

また、紅卍字会【591】は2月27日の記録なので、写真の上元門から角田中尉が飛び込んだ「クリークのようなもの」付近までの一帯に、空撮の半月前まで591体の遺体が散乱していたのである。(山田支隊が片付けとして数カ所の山に集積したはず)

さらにいえば、その【591】の埋葬場所も、上の写真の左上隅に写っている。ただ、幕府山の影になっているのでよく見えない。



(記録がない区間)

魚雷営隊列と草鞋峡隊列の尻尾については偶然にも紅卍字会の記録に対応する数字があった。

しかし、それ以外の区間、例えば魚雷営隊列のC地点~魚雷営現場は、山田支隊が戦場掃除で遺体を揚子江に放り入れたはずなので記録がない。

こういう該当記録がない区間については、全て「隊列密度1.7人/m × 隊列死亡率60% × 距離」で算定することとする。


上元門~B地点~草鞋峡現場については、上記計算上の遺体数は1,326体(1,020+306)なのだが、この区間も紅卍字会に該当記録はないものと思っていた。

ところが、全ての試算が終わってから気づいたのだが、極めて近似した数字として紅卍字会の埋葬記録に【1,346、3月1日、幕府山付近で収容、石榴園埋葬】というのがある。

草鞋峡現場の【大渦子:1,409】は3月2日なので、記録上はその前日であり、ますます関係性が深そうに見える。埋葬場所も実質的に同じ。ただ、「幕府山付近で収容」という表記だとエリアが広すぎて判断できなかったのである。


遺体埋葬事業を請け負っていた紅卍字会の代表・陳漢森は、下関と草鞋街の間の宝塔橋街というところにいて保国寺難民収容所の主任もしている。その宝塔橋街の目の前の中興碼頭に接岸した砲艦「比良」艦長・土井申二中佐は陳漢森と仲良くして帰国後も手紙のやりとりまでしている。その土井中佐の話だと、保国寺難民収容所に六、七千人ほどの難民がいたという。

私は勝手に紅卍字会の労働者の大半は、この保国寺難民収容所の難民だろうと考えている。

埋葬作業の優先順位はまず南京城内で、それは記録上にも現れている。その後、順次城外に手を付けて、エリア毎に消化していくような動きをしている。

それで、紅卍字会の作業員が保国寺難民収容所の方から来たとすれば、草鞋峡現場すなわち大渦子に至る経路が上元門~B地点~草鞋峡現場となる。

この範囲の最も手前になる【上元門内:591】は2月27日に記録されている。まさに手前から順次作業しているのがわかる。

2月27日、上元門内:591
3月1日、幕府山付近:1,346
3月2日、大渦子:1,409

これはほぼつながっていると断定して良さそうである。

しかも、数字的にも【試算値:1,326】と【紅卍字会:1,346】の近さである。

よって、これがそれであると解釈することにする。




《3. 犠牲者数と逃亡者数の試算モデル》


前項で捕虜移送隊列の数字が見えてきたので、いよいよ事件全体の数字の試算を試みる。



(クリックで拡大)



幕府山事件に関して知られている各種の数字に対して、概ね破綻しなさそうな数字を探し出したのが上図である。

数字というのはしがらみがあって、どこか大きく間違えていると破綻する。破綻しなさそうな数字の組み合わせはいくつもあるので、これが唯一の正解ということはないが、ある程度の幅に収斂つつあるように思う。

条件としては、収容捕虜数は9千人とし、魚雷営に3千人、草鞋峡に6千人連行したとする。

また、上述したように、隊列密度を1.7人/mとし、捕虜移送隊列からの犠牲者数は「隊列密度1.7人/m × 隊列死亡率60% × 距離」に準じている。

2つの現場については、具体的な死亡率のデータはない。

しかし、草鞋峡については紅卍字会【大渦子:1,409】の記録がある。

これについては、次の記事で説明したように水位が下がる時期の水葬なので、以降にそれほど流失したとは思えない。

《幕府山事件》埋葬記録の絞り込み
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/fb155aa7d56ce5e3e43f490f8fe5eb68



とはいえ、流失分がゼロのはずもない。仮に【大渦子:1,409】に流失分を20%上乗せすれば草鞋峡現場の遺体数は1,691体となる。

一方で、隊列死亡率は60%としたので、草鞋峡現場に到着済みの捕虜数2,800人にも同じ死亡率60%を掛けると1,680体となる。

どちらも極めて近似している。そして、計算にも無理がない。

このくらいの誤差であれば気にする必要はないので、草鞋峡現場の死亡率も隊列死亡率と揃えて60%と置くことにする。

(草鞋峡犠牲者数を1,680とした場合、ここから16%流失すると大渦子1,409になる。状況的によく整合している。)


魚雷営現場についても死亡率のデータはない。何も手がかりがないが、隊列も草鞋峡現場も死亡率60%であれば、魚雷営現場だけ異なる数字を採用する理由もない。よって、魚雷営現場の死亡率も60%としておく。



(数字の可動制限)

上述の数字は考察の結果だけを述べたので、なぜそうなったのか納得感が薄い読者も多いと思うので、数字の動き方について説明する。条件が追加されるごとに数字は動けなくなっていくのである。



条件A:収容所から魚雷営、草鞋峡への捕虜移送経路長。(地図)

これは地図で決まる数字。


条件B:移送経路の遺体密度 1.02〜1.04人/m(紅卍字会、前田記者目撃談)

これは結果的に判明した数字を書いているが、草鞋峡隊列の遺体密度は上元門から草鞋峡現場の区間で1.035人/mで、角田中尉がいた尻尾の方は1.019人/mだった。


条件C:草鞋峡隊列長=移送経路長(幕府山の山頂警備兵氏)

これは、上述したこの証言に基づく条件である。

「先頭が揚子江の岸に着いていても後尾はまだ(収容所を) 出ていないぐらい長かった」


条件D:事件発生時点の草鞋峡隊列長は1.9km(角田中尉)

上述したように草鞋峡隊列の最後尾にいた角田中尉の居場所が判明したので、事件発生時点での現場〜最後尾の距離は1.9kmとなった。


ここまでくると、数字の動きにかなりの制限が出てくる。

ここで下図の右表「草鞋峡隊列パラメータ可動制限」を見ていただきたい。数字は右表の中で上下方向にまだ動けるが、上記の条件A〜Dのための動き方に制限が出ている。

具体的には、「隊列死亡率はもっと高いはずだ」という主張があったとして、これを100%にすることもできる。右表の一番上である。

その場合、隊列密度を1.03まで下げなければならないのである。表では、[条件B]の移送経路の遺体密度を1.03人/mにしているが、これが効いている。

そうすると、草鞋峡移送捕虜数を3,708人にまで減らさなくてはならないし、事件発生時点で草鞋峡現場に到着済みの捕虜数は1,751人まで減る。これは両角手記の「二千人ほど」よりも少ない数字となる。

隊列密度を1.03まで下げ、[条件C]で隊列長を、[条件D]の角田中尉が尻尾の位置決めをしているためにそうなるのである。


あるいは「草鞋峡連行捕虜数は1万人のはずだ」という主張があったとして、それも可能である。右表の下の方。しかし、その場合は、隊列密度を2.8まで上げ、かつ隊列死亡率を37%まで下げなければならない。

これも[条件B/C/D]が効いている。

なお、右表の一番右に紅卍字会の埋葬記録【大渦子:1,409】に流失分20%上乗せした数字に基づいた草鞋峡現場死亡率を出してある。流失率については、揚子江水位の季節変動からそれほど多いはずがないとは思っているが、一意に決まる数字でもないので、これはあくまで参考値である。

参考値ではあるが、「草鞋峡連行捕虜数は1万人のはずだ」ということになれば、現場死亡率も36%に下がる。関係者の証言等と見比べれば現場死亡率36%とは整合しなさそうに見える。


あるいは「草鞋峡連行捕虜数は1万人で、隊列死亡率は100%だ」という主張があったとする。それに対しては「あり得ない」と回答することになる。


条件E:魚雷営隊列密度=草鞋峡隊列密度

これは事件関係者からくる条件ではなく、私が付加した条件である。同じ人たち(山田支隊と捕虜)がやっていたことだから、隊列密度は両日ともに同じと考えていいはずだ、というものである。

上述したように、下図の右表で上下方向に動くことはできる。動かした数字に納得感があるかどうかは別として。

その際に、右表で上下に動かすなら、左表「魚雷営隊列パラメータ可動制限」においても連動して上下するはずですね、というのがこの[条件E]である。


条件F:魚雷営に1/3を連行(小野日記)

小野日記に「魚雷営に1/3を連行」と書いている人が複数いる。実は、下表ではあらかじめそう仕込んである。

右表と左表を[条件E]に基づいて連動して上下させるときに、魚雷営連行捕虜数が常に草鞋峡連行捕虜数の半分になっていることがわかるはず。


条件G:魚雷営に「三千」を連行(小野日記)

小野日記に「魚雷営に三千を連行」と書いている人が複数いる。この条件が加わると、下図の赤枠で示したところにガッチリ固定されてしまい、数字は一切動けなくなる。


ここまで来ると数字のしがらみどころか、もはやがんじがらめである。

計算上の誤差は無視してもらうとして、上述の試算結果はこのように追い込まれて出てくるのである。



(クリックで拡大)



なお、一箇所説明を省いたところがあって、それは上図の左表左上つまり魚雷営の「事件発生時点の隊列長」である。

これは魚雷営埠頭で収容したという紅卍字会【574】を、上元門〜C地点に割り振ったためである。この区間は山田支隊の戦場掃除でも地上に残され、C地点〜魚雷営は岸辺なので河に投げ入れたはず、という想定である。

それで、上元門~C地点の区間距離を600mとしているのだが、隊列遺体密度1.03人/mとすれば事件発生時点での隊列区間長は560mとなる。つまり、数字的には事件発生時点で魚雷営隊列の尻尾は上元門から40m先に進んでいたという計算である。

また、C地点~魚雷営の区間距離も600mとしているので、600m+560m=1.16kmというのが魚雷営の「事件発生時点の隊列長」となる。



(文献や証言との整合性)

16日の魚雷営に出動した部隊の指揮官だった角田中尉は次のように証言している。

「火事で逃げられたといえば、いいわけがつく。だから近くの海軍船着き場から逃がしてはどうか----。私は両角連隊長に呼ばれ、意を含められたんだよ。結局、その夜に七百人ぐらい連れ出したんだ。いや、千人はいたかなあ……。あすは南京人城式、早ければ早いほどいい、というので夜になってしまったんだよ」

南京の氷雨―虐殺の構造を追って /阿部 輝郎



私の試算でも事件発生時点で魚雷営の現場に到着済みの捕虜数としては1,000人になった。角田中尉が現場で視認した人数としては整合的である。

特にこれを狙って試算していたわけではなく、上述したように「隊列密度1.7人/m × 隊列死亡率60% × 距離」を用いて隊列の長さを割り出すと、機械的な計算の結果としてそうなるのである。



それから、両角連隊長手記に草鞋峡での事件発生時の描写がある。

二千人ほどのものが一時に猛り立ち、死にもの狂いで逃げまどうので如何ともしがたく、我が軍もやむなく銃火をもってこれが制止につとめても暗夜のこととて、大部分は陸地方面に逃亡、一部は揚子江に飛び込み、我が銃火により倒れたる者は、翌朝私も見たのだが、僅少の数に止まっていた。
両角連隊長手記



この「二千人ほど」という数字を信じる南京論者はほぼいないと思うが(私ですらそうだった)、上述したように草鞋峡現場へ到着済みの捕虜数は 2,800人なのである。概ね整合している。



また、『戦史叢書 支那事変陸軍作戦<1>』には幕府山事件について、次のように書いている。約1,000名射殺。

警戒兵力、給養不足のため捕虜の処置に困った旅団長が、17日夜、揚子江対岸に釈放しようとして江岸に移動させたところ、捕虜の間にパニックが起こり、警戒兵を襲ってきたため、危険にさらされた日本兵はこれに射撃を加えた。これにより捕虜約1,000名が射殺され、他は逃亡し、日本軍も将校以下7名が戦死した。

戦史叢書 支那事変陸軍作戦<1> 防衛庁防衛研究所戦史部




さらに、情報源は同じだと思うが、郷土部隊戦記にも同種の数字がある。死体は千人を上回った程度。

翌朝、江岸には不幸な捕虜の死体が残った。しかし、その数は千人を上回った程度で、ほとんどは身の丈はゆうにある江岸のアシを利用し、あるいは江上に飛び込んで逃亡したのである。(P112)

郷土部隊戦記1 /福島民友新聞社



私の試算でも草鞋峡現場での死者数は1,680人である。この数字は紅卍字会【大渦子:1,409】に水葬後の流失による割増分を約20%上乗せした数字であり、整合的である。(1,680を母数とすれば、約16%の流失で1,409)



それから、18日朝から草鞋峡の現場で遺体片付けをした丹治善一上等兵は「四百人前後だった」と証言している。片付け作業は18日に日付が変わった深夜から行われているはずなので、朝からの参加なら少なく認識してもおかしくない。そうすると、これも「千人を上回った程度」というのと概ね整合的である。


やむなく発砲したとはいえ、とにかく捕虜の集団に銃弾は飛び込んだ。ではどれだけ死者が出たのか。 これは確認しておきたい点である。第三次補充で十七日夜、内地から南京の連隊に追及してきた丹治善一上等兵 (福島市大森)らの回想が記憶もあざやかである。

「あの記憶は鮮烈ですね。なにしろ初めて戦場を目撃したのですから。しかもあの無数の死者......。 私たち新参の補充要員は十八日朝、いきなり江岸のその現場に連れ出され、戦争の残酷場面を見せつけられたのです。死者は河岸の一角に折り重なっていたり、散乱していたり......。千人以上は死んでいるな、そう感じたものでした。しかし実際に私たちが死者を片づけてみると、四百人前後だったように思う。とにかくこれだけの死者があると、ものすごく見えるものですね。死者の大半は揚子江に流したのです」(P128)


ふくしま 戦争と人間 1 白虎編 /福島民友新聞社




また、捕虜移送隊列から捕虜が逃げた話を八巻竹雄中尉が証言している。この文面からすると、現場での事件発生前から、隊列からの脱走が始まったように読める。私の試算だと隊列からの逃亡率は40%ということになるが、話としては整合的である。

この前後を関係者の話からもう一度ながめてみたい。十二中隊長だった八巻竹雄中尉 (梁川町中町)は 次のように回想している。

「幕府山から江岸までは四キロほどだったと思う。私たちは彼らを解放する目的で四列縦隊で歩かせたが、彼らは目的を知らない。私たちは少数であり、どこで暴走が起こるか、むしろ彼らより緊張していた。はたして途中で彼らの逃亡が始まり、私たちの中隊の兵隊も彼らに連れ去られ、途中で殺されたりした。このような犠牲を払いながらも、ともかく解放のための努力を続けたのです」

途中でかなり逃亡があったという。解放するのだからかまわないようなものだが、やはり対岸に解放しないとまずい、という判断があったようだ。(P129)


ふくしま 戦争と人間 1 白虎編 /福島民友新聞社




それから、既に書いたように角田中尉が草鞋峡事件発生の瞬間の様子を証言しているが、深夜の出来事でもあり、混乱の中で逃亡に成功した捕虜がいても不思議ではない。



捕虜の立場で魚雷営に連行され生き延びた殷有余氏の証言もある。

「上元門外の道路沿いに追い立てられながら魚雷営の長江の端まで来た時」という言い回しだと、おそらく私の地図でのC地点付近ではないかと思われる。つまり、移送隊列の中にいた。現場まで600m以内。

そして「殷有余ら九人は銃声を聞いて倒れ込み、血だまりの中に横たわっていて、幸いにも銃弾に当らず、死を免れることができた」とのことなので、いわゆる「死んだふり」である。それも9人。

しかも、「敵はすでに機関銃四挺を設置済みで」ということをなぜ知っているのか。殷有余氏が改めて現場に行って確認するわけないので、これは現場から脱出した別の人に聞いたのではないのか。

意外に脱出者は多そうな気配がある。


魚雷営の大虐殺

一九三七年十二月十五日、南京城陥落の次の日、一般人と武器を捨てた軍人九千余人は、日寇(*5)の俘虜とされたのち、海軍魚雷営まで押送され、機関銃による集中掃射を受け、殷有余ら九人が脱出したほかは全員殺害された。被害者殷有余が法廷でおこなった証言資料はつぎのように指摘している。「(農暦) 民国二十六年〔一九三七年〕十一月十一日(*6)、被害者わたくしは上元門において敵に縄で縛り上げられました。わたくしと一緒に俘虜となった官兵および民衆は約三百余人で、胡姓の瓦葺きの家に押し込められました。十三日夜になって、またもや上元門外の道路沿いに追い立てられながら魚雷営の長江の端まで来た時、敵はすでに機関銃四挺を設置済みで、拉致されてきた計約九千人以上の一群の人々が行進している最中、敵はたちまち機関銃を発射し、掃射を加えたのです。」 この時の集団大虐殺は夜間におこなわれたため、殷有余ら九人は銃声を聞いて倒れ込み、血だまりの中に横たわっていて、幸いにも銃弾に当らず、死を免れることができた。

*5:日寇とは日本侵略者の意。あえて訳さず日寇のままにした。
*6:農暦十一月は新暦十二月。(P22)


証言・南京大虐殺―戦争とはなにか / 南京市文史資料研究会




以上のように、事件関係者の証言や記録などに対して大きく破綻することなく整合している。むしろ、従来は無視されてきたような証言とも整合的である。

そして、全体としては収容捕虜総数9千人に対して、死亡率60%。また、犠牲者数の58%は現場ではなく移送途中の路上周辺となった。




《4. 遺体の散乱範囲》


続いて、前項の試算モデルの数字を紅卍字会埋葬記録の数字とともに地図上に書き入れてみた。



(クリックで拡大)



また、それらの遺体散乱範囲も色付けで記載した。

おそらく、隊列からの遺体の多くは移送経路の路上またはその至近距離にあったとは思うが、事件発生直後に、逃亡~追跡~射殺があったとしたら、このくらいの範囲になるかもしれないという図である。

概ね、移送経路から200m以内を想定して作図してある。

事件直後は、これくらいのエリアに移送経路の道程換算で約1体/mの密度で遺体が散乱していたわけである。

(隊列密度1.7人/m × 隊列死亡率60% = 遺体密度1.02人/m)


空間密度的なイメージとしては、道路200m区間を含む200m四方の空間に200体の遺体があったという理解でも良いと思う。

おそらく、これを上回る密度の遺体というのは、南京戦の範囲では陥落日に脱出しようとして行き場を失った下関の岸辺と、同じ日の新河鎮の激戦くらいのものではないだろうか。



事件翌日に現場に向かった同盟通信記者・前田雄二氏らが遺体の散乱を目撃したのはA地点からB地点に抜けるルートだと思われる。

この文面に出てくる「道路の揚子江岸に」という言い回しが気になっていたが、遺体の散乱範囲まで考えるとまさにそのようになった。逃走する際に急斜面は登らないはずだという想定をするとこうなるのである。

ここから推測すると、事件発生時点で路上を移送されていた捕虜らの少なくない人数が逃走しようとし、結果として「道路の揚子江岸に」おいて遺体になった、ということのように見える。

なお、「死体の山が連なっている」の「山」というのは既に山田支隊の戦場掃除がある程度進捗していたことを示していると思う。

私は、翌朝、二、三の僚友と車を走らせた。挹江門の死体はすべて取り除かれ、も早、地獄の門をくぐる恐ろしさはなかった。下関をすぎると、なるほど、深沢のいうとおり、道路の揚子江岸に夥しい中国兵の死体の山が連なっている。

南京大虐殺はなかったー『戦争の流れの中に』からの抜粋 /前田雄二



角田中尉もこのように証言している。現場での事件発生に起因する混乱が移送隊列に波及し、散り散りになって逃げようとする捕虜と、それに向かって「乱射乱撃」する護送兵、という情景が浮かぶ。

(角田中尉の証言)

「前方で乱射乱撃が始まり、どんどん銃弾が飛んでくる。…突発でなかったら、味方の方向に銃弾が飛んでくるなんて考えられませんよ。とにかく無茶な射撃でした」


南京の氷雨 /阿部 輝郎




(山田支隊の片付け工数)

ここで、ある種の検算のため、遺体の片づけ工数を考えてみる。


『南京の氷雨』にこういう日記が載っている。16日の夕食後に魚雷営に出かけて事件に居合わせ、戦場掃除をした上で23時30分に宿舎に戻っている。意外に戻るのが早い。

(佐藤一等兵・仮名)
12月16日 朝七時半、宿舎前整列。中隊全員にて昨日同様に残兵を捕へるため行く事二里半、残兵なく帰る。昼飯を食し、戦友四人と仲よく故郷を語って想ひにふけって居ると、残兵が入って居る兵舎が火事。直ちに残兵に備えて監視。あとで第一大隊に警備を渡して宿舎に帰る。それから「カメ」にて風呂を造って入浴する。あんなに二万名も居るので、警備も骨が折れる。警備の番が来るかと心配する。夕飯を食してから、寝やうとして居ると、急に整列と言ふので、また行軍かと思って居ると、残兵の居る兵舎まで行く。残兵を警戒しつつ揚子江岸、幕府山下にある海軍省前まで行くと、重軽機の乱射となる。考へて見れば、妻子もあり可哀相でもあるが、苦しめられた敵と思へば、にくくもある。銃撃してより一人一人を揚子江の中に入れる。あの美しい大江も、真っ赤な血になって、ものすごい。 これも戦争か。午後十一時半、月夜の道を宿舎に帰り、故郷の家族を思ひながら、近頃は手紙も出せずにと思ひつつ、四人と夢路に入る。(南京城外北部上元門にて、故郷を思ひつつ書く)(P25)


南京の氷雨 /阿部輝郎



魚雷営事件の直後には、現場の600体だけを片付け(揚子江に投げ入れ)たとする。


翌17日深夜には草鞋峡の事件があり、そこから全体の片付けを始めたものとする。

揚子江への投げ入れ:
- 魚雷営~C地点区間の612体
- 草鞋峡現場の1,680体
(小計:2,292体)

地上の適当な場所への集積(=のちに紅卍字会の埋葬対象):
- 上元門~C地点区間の588体
- B地点〜草鞋峡現場区間の306体
- 上元門~B地点区間の1,020体
- 上元門内(収容所方向)の594体
(小計:2,508体)

合計:4,800体



遺体数だけで見ても、魚雷営現場600体の 8倍。
魚雷営現場は岸壁なので、遺体を運ぶにしてもせいぜい20m。

翌日からの片付けは数百メートル運ぶ場合もあったと思われる。
そうすると、作業工数は 8倍どころではなくなる。

平均100m運ぶとすれば、それだけで遺体あたりの工数が 5倍。
併せて 40倍。

魚雷営の片付けを 3時間に見積もっても、翌日からの片付けは約 120時間分ある。

3倍の人員を投入しても 40時間分の作業。
4倍の人員を投入しても 30時間分の作業。

4倍の人員を投入して、19日の午前中までかかった。くらいが真相かもしれない。

魚雷営出動人員数を200名とすれば、18日からは800名投入。2交代制で1,600名。第65連隊でいえば2,200名だから幹部その他除けばほぼ総動員。

片付けに12月18,19の2日間かかって渡河予定を1日延期、というのは数字的にも納得できる範囲。



これがもしそうでなく、魚雷営に1/3連行、草鞋峡に2/3に連行で、全員処刑して魚雷営の片付けが 3時間で終了するならば、草鞋峡は 6時間しかかからないはずである。人員数2倍なら 3時間で終わる。現場の広さを考慮してもおそらく4倍くらいにしかならないから、12時間分の作業にしかならない。これなら投入人員数を増やせば18日の午前中に終わったはず。

こういうところからも、幕府山事件とは魚雷営と草鞋峡の2ヶ所の現場で起きた事件である、というような理解は誤りであることがわかる。



(草鞋峡遇难同胞纪念碑)

ここまで考察してきてから「草鞋峡遇难同胞纪念碑」が、なぜあそこに建立されているのか、やっとわかった。

上の地図で見てもわかるように、そこは幕府山事件で地上に散乱した遺体のエリアのほぼ中心地なのである。また、地形的特徴からすれば紅卍字会が一部の遺体を埋葬した場所でもあると思われる。

日本側の論証では、草鞋峡と魚雷営の現場にのみ注目が行っているが、中国側には事件後に目撃した人の話が残っていて、遺体散乱エリアこそが事件現場だと認識しているのだと思われる。

この点においては、前田記者らの目撃談と共通する面がある。




《5. 従来イメージを覆す試算結果》


上述してきた試算結果からすると、南京論者(歴史家、研究者その他)が一般に語ってきた幕府山事件イメージは相当間違えているのではないか。

つまり、収容捕虜数9千人として、このほとんどが2ヶ所の現場で殺害されたという話になってしまっていると思うが、実はそうではなかったと結論できる。

私の試算だと、事件発生時点で捕虜の過半数が現場ではなく移送中の路上にあり、その隊列の60%が死亡し、犠牲者総数の58%は移送途中の路上周辺である。前田記者らの目撃談や紅卍字会の埋葬記録とも、その方が整合的である。

また、上述したように例えば両角手記にある草鞋峡現場の捕虜数「二千人ほど」という数字や、郷土部隊戦記にある草鞋峡現場の犠牲者数「千人を上回った程度」は、収容捕虜数からいって信用ならない数字とされてきたと思うが、実は移送途中の隊列を無視しているために「そんなはずはない」と決めつけて切り捨ててきたのではなかったか。

関係者は、この移送途中の隊列に注目し直した方がいいと思う。


しかし、この移送途中の隊列からの多大な犠牲者というのは、突発的に計画外のことが起きたということであり、すなわち「自衛発砲説」に直結している。したがって、この事件を「計画的処刑」であるとして糾弾したい側からすると、触れにくい話なのかもしれない。




《改版履歴》


2022.09.17 初版




《関連記事》


《幕府山事件》概要編
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/4997887cce0ec9d9cc7e17f92562d37c

《幕府山事件》地理編
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/9b9a860e2c39a923405efe2946d766ed

《幕府山事件》時系列編
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/b371d9b304f84e519677960e6b644f17

《幕府山事件》自衛発砲説
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/13fd6d3e71081054bca30edc4a796259

《幕府山事件》魚雷営現場の外形的検証
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/5fe165164b8b9537c71c97f707ef986b

《幕府山事件》草鞋峡現場の外形的検証(前編)
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/e5c0c9b19ec42a60c0d038314aa4e32a

《幕府山事件》草鞋峡現場の外形的検証(後編)
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/67c2655b8679239d13220dde13c349a7

《幕府山事件》埋葬記録の絞り込み
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/fb155aa7d56ce5e3e43f490f8fe5eb68

《幕府山事件》試算モデル
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/548a45b8a1f4e8c8c0fee0fab3b670e0

《幕府山事件》本当の意図
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/a8da8d8a68b1117afd6ea3cf649d104f



★南京大虐殺の真相(目次)
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/9e454ced16e4e4aa30c4856d91fd2531









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《幕府山事件》埋葬記録の絞り込み

2022年09月17日 | 南京大虐殺
2022.09.17 初版


幕府山事件の犠牲者数を算定するにあたって、まずその前段の作業として紅卍字会の埋葬記録から関係する項目を拾っていく。



(クリックで拡大)





《要旨》


1)幕府山事件の遺体の地理的範囲は、魚雷営と草鞋峡の両現場および収容所から上元門を経て両現場へ向かうエリアに限定される。

2)紅卍字会の埋葬記録から条件に合致する項目を抜き出すと、魚雷営での収容574体、上元門内での収容591体、大渦子(=草鞋峡現場)での収容1,409体、の合計2,574体が該当する。(上図A〜E項)

3)大渦子での収容1,409体については、山田支隊が事件直後に河に投げ入れたものである。通常なら流れていくところだが、ここは地形的な関係から流れにくく、むしろ滞留するような場所である。さらに、揚子江の水位の季節変動のため、山田支隊が投げ入れた時点では水位が下がり続けていた。そのために、紅卍字会の遺体収容時点では水位が1m前後も低くなり、遺体の山のほぼ全体が陸の上にあった。

4)その他に「収容:幕府山◯◯、埋葬:下関石榴園」などとある複数の項目(FとG項)に合計4,296体ある。最終的な試算をまとめていたところ、このうちF項1,346体については試算値と極めて近似していているため、幕府山事件のものであると判断できた。これで幕府山事件に関する地上遺体については全て紅卍字会の埋葬記録から特定できたことになるので、G項2,950体については無関係と考えられる。



(捕虜移送ルートからの絞り込み)


冒頭の図表において、捕虜収容所から魚雷営および草鞋峡の両事件現場へ至る道筋を緑の線で示した。

事件は、捕虜移送隊列の最後尾が現場に到着し終わる前に始まってしまったと考えているが、そうであったとしても、この事件に関係する遺体の地理的範囲は、魚雷営と草鞋峡の両現場および移送経路の周辺に限定されるはずである。

紅卍字会の埋葬記録から、上記の条件に合致しそうな項目を拾っていけば幕府山事件の犠牲者数をある程度絞り込むことができる。

以下、個々の項目について説明する。



余談1:
いきなり余談だが、南京戦を調べていると、日本軍は「戦場掃除」として遺体の片付けをしばしば行っていることがわかる。その際に、戦友の遺体は別扱いだが、中国人(軍民問わず)の遺体については、埋葬作業のようなことはしていない。まさに片付けであり、自分達が使う道路や施設周辺から遺体を撤去し、それらを近くの手頃な場所(濠でも河でも空き地でも)にまとめて放り込むのである。つまり、日本軍による戦場掃除の場合は遺体はあまり長い距離を移動していないと思われる。その放り込んだ先が地上の場合、後日、紅卍字会の埋葬対象となる。


余談2:
本考察において「上元門丁字路」というのを多用するが、収容所から北上(北西)して上元門に差し掛かった地点で「車道」を見れば丁字路である。左に行けばA地点、右に行けばB地点方向。そのまままっすぐ行けば揚子江岸に出るが、この道は自動車の通行に適さない「小道」になる。歩行者で見れば十字路になる。





《1. 大渦子の1,409体》


これは冒頭の図表でのE項である。

この3/2に大渦子で収容した1,409体は、確実に幕府山事件に関係している。

この1,409体に関連して、上図の永清寺に「ニセ和尚」として潜伏していた鈕先銘氏が草鞋峡での事件について書いている。長文なので関係する箇所だけセンテンス単位で抜粋する。文面と順序は変えていない。


(センテンス単位の抜粋)

★永清寺の下流一~二キロの沿岸に“大湾子”と呼ぶ場所がある。ここは非常に浅い砂洲である。流れが白鷺洲で二つに分かれているので、長江の本流は八掛洲の北側を流れており、中洲の南側を通る流れは、流れが緩慢で、そこに浅い砂洲を形成しているのである。

★当然、あの機関銃の音がした日から一○日以上たってからであるが、我々はようやく、鬼子兵が大湾子で機関銃を用いて我らが同胞の俘虜兵二万以上を虐殺したことを知ったのだ。

★後日の不完全な統計によると、南京の役でわが軍は三○万虐殺されたものである。私がこの目で見た死体だけでもおよそ二万ほどあった。それが大湾子のあの死体の山である。

★鬼子兵が大湾子を虐殺場に選んだのは、あるいは長江の流れを利用して死体を流し去ってしまうためだったのかもしれない。しかし、冬の、水の枯れている――まさに蘇東坡先生の言う、山高く月は小さく、水落ち、石出づる季節に、しかも大湾子の流れはあのようにおそいのに、どうやってあんなにたくさんの死体を流し去ることができようか?

★しかし、大湾子の方は二万を越すもので、木の枝で長江に押し込んだにもかかわらず全部流してしまえるわけもなく、結局あのように多くの屍体が浅瀬と砂洲のかたわらに滞積される結果となったのである。

★死体の処理は一―二か月たってからようやく実施された。正確な日にちは覚えていないが、大虐殺のあったあの夜は月夜だったから、暦で換算すると旧暦十一月十五日前後で、たしか新年まで約一か月半を残す頃だった。

★季節はすでに厳寒に入っており、空気は乾燥していて雪も降らなかったので、寺の周りの死体はまるで大自然の冷蔵庫の中に放置してあったようで、腐乱していなかった。しかし、大湾子の死体は違った。一部は長江につかっており、砂洲の上のも、潮に浸蝕されて腐乱してしまったのだ。

★大湾子に近づくと、臭いだけではなかった。目で見て驚いたことに、山のように死体が一つの小さな区域の中に集められていたのだ。

★私は虐殺当時の情況を想像することはできない! いくらたくさんの機関銃を使ってもこんなせまい場所で一度に二万人も殺せるわけはない。きっと何度かに分けておこなわれたのだろう。

★あの日は、紅卍字会は第一回の視察をして、埋葬の方法を研究しただけであった。実際片付けを始めたのはそのあとで、一か月ほどかけて連続して少しずつおこなっていった。私はただ最初のその一回しか行かなかった。その後は用があるからと言って二空一人に行かせた。なぜかと言うと、私はニセ和尚で、中国人から見るとどうも簡単に見抜かれそうだったことと、あの悲惨な様子を二度と見るにしのびなかったからだ。


鈕先銘『還俗記』/南京事件資料集 2 中国関係資料編


全文は次のサイトを参照。




ちなみに、冒頭の図中にある「大渦子」と鈕先銘氏の文面にある「大湾子」は同一地点である。南京関連で調べていると、地元の中国人は地名を必ずしも固有名詞で言うわけではなく、地形的特徴を通称の地名として使うのを見かける。
地図で見るとわかるように現場の前の揚子江支流の流れは屈曲している。その水の流れに注目すれば「大渦子」、岸辺の形状に注目すれば「大湾子」となる。と理解している。


それで、紅卍字会の埋葬記録で「大渦子」で収容した遺体数が1,409体だが、同じ現場の遺体数を鈕先銘氏は「およそ二万ほど」と書いている。

とはいえ、文面からわかるように鈕先銘氏は自分で数えたわけではない。彼は、紅卍字会の第一回目の視察の際に同行したのみである。

では、「二万」がどこから来たかというと、おそらく山田支隊が捕らえた捕虜数として世間に出回ってる数字の中での最大値が2万なので、これがそのままそっくり処刑されたと認識していると思われる。

つまり、草鞋峡の事件の前夜にも魚雷営で事件があって、少なくともその分の人数は減っているというような認識がない。

このような事例は他にもあって、第65連隊第1大隊所属の栗原利一伍長はスケッチの中で、捕獲した捕虜人数と草鞋峡への移送捕虜数のいずれも13,500人と認識している。

栗原利一資料集(栗原スケッチ)
http://www.kuriharariichi.com/index.html



ともかく、鈕先銘氏が「私がこの目で見た死体だけでもおよそ二万ほどあった」と書いた遺体の山は、紅卍字会の埋葬記録でいうと1,409体となる。



(水葬の流失について)

鈕先銘氏は「鬼子兵が大湾子を虐殺場に選んだのは、あるいは長江の流れを利用して死体を流し去ってしまうためだったのかもしれない」と書いている。

たしかにこの場所ならば日本軍の「戦場掃除」は河に流してしまうのが定型パターンでもある。ところが珍しく遺体の山が残ったという。

鈕先銘氏の描写による再現イメージを示す。



(クリックで拡大)




ここでの山田支隊の片づけというのは、河に押し流したというよりも水辺の一箇所に山積みにしたかのように見える。

そうなったのは現場の地形的特徴と、さらには揚子江の水位の季節変動があった。





そもそも、草鞋峡の現場付近は地形的な関係で河に投げ入れても流れて行きにくい。むしろ滞留する方向にある。浅瀬ならなおさらである。


次に、揚子江の水位の季節変動がある。

鈕先銘氏は、「死体の処理は一~二か月たってからようやく実施された」と書いていて、その第1回目の視察にのみ同行したという。つまり、目撃したのは1月中旬~2月中旬と思われる。

その時期だと揚子江の水位は最低水位にあったものと思われる。

紅卍字会の記録では、大渦子の1,409体は3月2日に計上されている。

鈕先銘氏の話と照合すると、作業は2月一杯くらいかかったものと思われる。地理的に言えば、ここは生活空間でもなく優先順位的には低そうだから、他の作業の合間にやったのかもしれない。

それはともかくとして、3月2日に作業完了ならまだ水位は最低水位からほとんど上昇していなかった。


そこからグラフを見て遡ると、事件直後の山田支隊は大渦子の水深約1mの地点に遺体を山のように投げ入れたものと思われる。作業時点では「河に押し流した」つもりだったはず。

しかし、12月はまだ水位がどんどん低下する時期だった。

結果的に、鈕先銘氏が目撃した時点では遺体の山はほぼ地上にあるように見えた。ただ、それ以前は遺体は水に浸かっていたので、鈕先銘氏は「砂洲の上のも、潮に浸蝕されて腐乱してしまった」と認識した。

そうすると、この大渦子=草鞋峡現場で収容したとされる遺体数は1,409体だが、山田支隊の片づけ後もほとんどがここに残ったままになっていたと考えた方が良さそうである。

というのも、冬の遺体が腐敗して水に浮くには時間がかかる。

平均浮揚発見日数は21.44日、という数字がある。

詳細は、次の記事中の論文を参照。



単体なら平均21日後には浮遊し始めるのだが、山と積まれて上から荷重がかかっていれば動かない。そして、その頃には水が引いて山の全体が陸地にあった。

つまり、この山積み以外に河に流れていった遺体数を過剰に見積もる必要はなさそうということである。


逆に、地形的にはここは上流からの漂着も気になる。

しかし、鈕先銘氏は「山のように死体が一つの小さな区域の中に集められていた」と書いている。漂着遺体なら、水辺に薄く広く打ち上げられるはずだから、これとは違う。

従って、「大渦子の1,409体」に事件とは無関係の遺体が混ざっている可能性については気にしないことにする。




《2. 魚雷営の574体》


これは冒頭の図表のA~C項を指す。

紅卍字会の2月20,21,22日の3日間に、魚雷営埠頭で収容して「下関草鞋閘空地」に埋葬した合計は574体である。(197+226+151=574)

ちなみに、「草鞋閘」と「草鞋峡」の2つの地名にも本質的に差異はなく、その場所に立って幕府山の切り立った崖を見上げれば「草鞋峡」となり、目線を下に転じて支流の狭い河の流れに注目すれば「草鞋閘」となる。と理解している。ついでに書くと、草鞋峡の下関寄りに草鞋街という街地区もあり、この辺一帯の地名であるらしい。


それで、この574体の中にも幕府山事件と無関係の遺体が混入している可能性はあるが、少なくともこの項目自体は幕府山事件との関連が非常に深いと考えている。その理由を以下に述べる。



(草鞋峡遇难同胞纪念碑)

今の中華人民共和国において、南京の草鞋峡付近に「草鞋峡遇难同胞纪念碑」がある。冒頭の図に記載した地点である。

また、次のサイトの表のNo.6がそれである。その碑文と訳文を示す。

訳文:1937年12月13日、日本軍の南京侵攻後、下関の川沿いに逃げてきた多数の難民と武装解除した兵士、合計57000人余りが日本軍に捕えられ、幕府山麓の四五所村に幽閉された。18日の夜、全員を縛り上げて草鞋峡まで護送し、そこで機関銃による銃撃を受けた。(後略)

碑文:一九三七年十二月十三日,侵華日軍攻占南京後,我逃聚在下關沿江待渡之大批難民和已解除武裝之士兵,共五萬七千餘人,遭日軍捕獲後,悉被集中囚禁於幕府山下之四五所村。因連日慘遭凌虐,凍餓致死一批;繼於十八日夜悉被捆綁,押解至草鞋峽,用機槍集體射殺。少數傷而未死者,復用刺刀戳斃;後又縱火焚屍,殘骸悉棄江中。悲夫其時,屠刀所向,血染山河;死者何辜遭此荼毒?追念及此,豈不痛哉?!爰立此碑,謹志其哀。藉勉奮發圖強,兼資借鑑千古。


侵华日军南京大屠杀遗址纪念碑
https://zh.wikipedia.org?curid=3591632



内容的にまさに幕府山事件であり、特に草鞋峡の現場で起きたことを書いている。

ただ、この「草鞋峡遇难同胞纪念碑」がなぜこの場所にあるのか、その意味がイマイチわからないのである。

とはいえ、上の「侵华日军南京大屠杀遗址纪念碑」の一覧を全て確認してわかったことは、今の中国当局は南京戦において「ここで殺された」もしくは「ここに埋葬した」とされる地点にこれらの記念碑を建てている。

そのパターンからすると、この「草鞋峡遇难同胞纪念碑」は、紅卍字会の埋葬記録にある「下関草鞋閘空地」を指しているのだろうと推測できる。


ちなみに紅卍字会に埋葬業務を委託した特務機関員の丸山進氏は、揚子江に近い場所は穴を掘っても地下水が上がってきて埋葬に適さないので、「盛り上がった所を選んで埋葬」したと説明している。

そのために、魚雷営埠頭で収容した遺体を「下関草鞋閘空地」まで運んで埋葬したのだろうと考える。

詳細は次の記事を参照。

《南京事件》紅卍字会埋葬記録の検証
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/c9f414da142a782a28bc89d8db538f6b



その「下関草鞋閘空地」の候補地として、地形特徴的に有望なのが「草鞋峡遇难同胞纪念碑」が建っている場所である。



(魯甦の証言)

上述の「草鞋峡遇难同胞纪念碑」に関係するのが、東京裁判に提出された「魯甦」の証言である。

内容的に「草鞋峡遇难同胞纪念碑」の碑文と同じであることがわかる。そして、記念碑の方は1985年の建立なので、魯甦の証言を元に記念碑が建立されたとのだと思われる。

法廷証第324号: 南京慈善団体及人民魯甦ノ報告ニ依ル敵人大虐殺ノ概況統計表
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10273902/17



南京地方法院検事への魯甦に依る証言

敵軍入城後、将に退却せんとする国軍及難民男女老幼合計五万七千四百十八人を幕府山附近の四、五箇村に閉込め、飲食を断絶す。凍餓し死亡する者頗る多し。一九三七年十二月十六日の夜間に到り、生残せる者は鉄線を以て二人を一つに縛り四列に列ばしめ、下関・草鞋峡に追ひやる。
然る後、機銃を以て悉く之を掃射し、更に又、銃剣にて乱刺し、最後には石油をかけて之を焼けり。
焼却後の残屍は悉く揚子江中に投入せり。
此の大虐殺中に在つて教導総隊馮班長及び保安警察隊の郭某は縛を解きて逃亡し、佯つて地上に仆れ屍を以て自分の身を覆ひ難を免るを得たり。
但、馮班長は左肩に刺刀傷を、郭某は背中に火傷を負へど、上元門大茅洞に逃れ、私に由り便衣を求め、換衣して窃に江を渡り八卦州に到りて始めて危難より逃る。
当時、私は警察署に勤務しあるも、敵市街戦に際し敵砲弾により腿を負傷し、上元門大茅洞に隠れ居り、其惨況を咫尺の目前に見し者なり。故に此の惨劇を証明し得る者なり。
証人姓名 性別 年齢  原籍 職業 住 所
魯甦   男  卅三才 湖南省 政 南京義興路五号


南京地方法院検事への魯甦に依る証言


文字起こしはこちらのサイトの文面を拝借しました。

南京地方法院検事への魯甦に依る証言
http://kk-nanking.main.jp/butaibetu/yamada/Chinese_side.html#lu_so



それで、問題になるのは言及されている人数についてである。



(「57,418人」の謎)

「草鞋峡遇难同胞纪念碑」では「57000人余り」と丸められているが、魯甦の証言には「国軍及難民男女老幼合計五万七千四百十八人」と書いてある。

57,418人とは膨大な人数である。

その魯甦は上元門大茅洞に隠れていて、その惨状を目の前で見た、と書いている。

幕府山事件に関して近年までに判明している数字としては、鈕先銘氏の話で書いたように、山田支隊が捕らえた捕虜数として世間に出回ってる数字の中での最大値が2万である。

これを遥かに超える「57,418人」というのは、もはや荒唐無稽の域である。また、たとえ現場を見下ろせる場所にいたとしても、真下にいる敵から隠れながらそのような精緻な人数を数えられるわけがない。

そもそも、山田旅団長が日記に記した捕獲捕虜人数でも、14,777人である。

しかしながら、この「57,418人」というのは笑い飛ばしていい数字ではなく、実は根拠がある数字だろうと私は推測している。

ヒントは既に上述してあるのだが、改めて説明する。

紅卍字会の埋葬記録は、次のように「埋葬箇所」ベースで記載されている。埋葬記録だから当然である。



(クリックで拡大)



法廷証第326号: 世界紅卍字會南京分會救援隊埋葬班埋葬死体数統計表
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10273906/3



日本が敗戦して東京裁判に向けて準備が始まった際に、当然ながら中国側は草鞋峡で大量殺害があったということを思い出し、紅卍字会の埋葬記録から該当する数字を探したはずである。

おそらく、上段の「埋葬箇所」の中から単純に「草鞋峡」あるいは「草鞋閘」という文字列を探したのだろうだが、それだと上の表の3項目しか見つからなかったはずである。

すなわち、この3項目である。

紅卍字会の2月20,21,22日の3日間に、魚雷営埠頭で収容して「下関草鞋閘空地」に埋葬した合計は574体である。(197+226+151=574)


574体。


調べた人物は「そんなに少ないはずがない」と考えたのだと思うが、その結果として「57,418人」に化けたのだろうと私は推理している。山田支隊が捕らえた捕虜数として世間に出回ってる数字の中での最大値が2万なのだから、これを下回る数字を出すことはできなかったはず。

私もかれこれ10年ほど本件を調べているわけだが、それでわかってきたのは、このいわゆる“南京大虐殺”という事案は、この類の話が多い。そんないい加減な話があるのかと思う人も多いだろうが、そうなのである。



以上は脇道で、やっと冒頭の図表のA~C項574体に話を戻すが、魚雷営の地上で収容した遺体というのは、魚雷営への捕虜移送コース上で現場到着前に事件となって結果的に路上付近で射殺された遺体と、少なくとも地理的には整合している。

日本側で「幕府山事件」と称している事案は、中国側でいうと「草鞋峡遇难同胞纪念碑」が示している事案である。

そして、問題のA~C項574体は「下関草鞋閘空地」に運ばれて埋葬された。

私は、紅卍字会が埋葬したその「下関草鞋閘空地」の場所に「草鞋峡遇难同胞纪念碑」が建立されたのだろうと推理している。

そして、その碑文に記された「五萬七千餘人」、魯甦の証言でいえば「五万七千四百十八人」、「下関草鞋閘空地」への埋葬数574体。

中国側の認識としても非常に因縁が深そうに見える。

それゆえに、このA~C項574体は幕府山事件のものと判断していいだろうと考えている。




《3. 上元門内の591体》


これは冒頭の図表のD項を指す。

冒頭図表に示したように、上元門というのは収容所を出て魚雷営と草鞋峡の両現場へ道路が分岐する丁字路の辺りを指す。(車道としてみれば丁字路、歩行者なら十字路)

ここは南京城外だが、もっと古い時代(明の時代)にはさらに遠くの外周を囲む城壁があったらしく、上元門もその時代の城門のひとつと思われる。(麒麟門、堯化門、仙鶴門なども同様)

それで埋葬記録に戻ると、「上元門内一帯で収容」し「下関上元門外」に埋葬したとある。

では、上元門内とはどの辺を指すのかというと、上元門の丁字路から幕府山西面に沿って古い城壁が伸びていて(あるいは幕府山それ自体を城壁と見立てて)、その揚子江側が外側、上元門から収容所の方向に下がっていく方向は内側、となる。

さらに地形的に言えば、上元門丁字路にて揚子江を背にして立てば、左側に幕府山、右側に老虎山があり、正面となる上元門内は山に囲まれた谷間になっている。連なる山々を城壁と見立てれば、その谷間はまさに「上元門内」と呼ぶにふさわしい。(と、理解している)


話を戻すが、遺体を収容した上元門内というのはちょうど収容所から上元門丁字路までの区間と重なる。

そして、埋葬場所の上元門外だが、上述したように「揚子江に近い場所は穴を掘っても地下水が上がってきて埋葬に適さない」という条件と、上元門の外側という条件が重なる場所を探すと、やはり「草鞋峡遇难同胞纪念碑」が建っている地点が有力候補となる。

したがって、この上元門内の591体というのも、魚雷営および草鞋峡への捕虜移送コース上で現場到着前に事件となって結果的に路上付近で射殺された遺体と地理的に整合しているのである。




《4. 下関石榴園の1,346+2,950体》


これは冒頭の図表のF項とG項を指す。

最終的な試算をまとめていたところ、F項1,346体は試算値と極めて近似しているため幕府山事件のものであることがわかった。

詳細は次の記事を参照。




これにより、幕府山事件に関する地上遺体については全て紅卍字会の埋葬記録から特定できたことになるので、G項2,950体については無関係と考えられる。

具体的な記録を以下に並べるが、F項とG項は紅卍字会の記録上は収容場所の表記が似通っていて、埋葬場所も同じである。そのために埋葬記録だけ見ていてもF項が幕府山事件のものだとは見抜けなかったのである。

埋葬場所/埋葬数/日付/収容場所
下関石榴園,147,2.21,幕府山脇で収容
幕府山下 ,115,2.21,草鞋閘後方で収容
下関石榴園,1902,2.26,幕府山脇で収容
下関石榴園,1346,3.01,幕府山付近で収容(=F項)
下関石榴園,786,3.03,幕府山付近で収容

(F項以外の合算がG項)


なお、1点だけ「幕府山下」埋葬115体については他と埋葬場所が異なっているが、「草鞋閘後方で収容」となると幕府山事件とは無関係と断定して良いのかわからないので、G項に含めている。


それで、以下に「幕府山下」を除く4点の埋葬場所「下関石榴園」とはどこか、を説明する。



この「下関石榴園」というのは、実はE項の大渦子で収容して「和平門外永清寺付近」で埋葬したという、その永清寺の敷地内なのである。

実質的には同じ場所と言って良い。


再び、鈕先銘氏の『還俗記』から関係する箇所のみ抜粋する。

(念の為。石榴=ザクロ、である。)

しかし夜に近い、夕陽の沈む頃、突然一群の鬼子兵がやって来た。武器は何も持たず、ただオノとのこぎりを持って来て、我々のいた六畝ほどの寺の庭で、たくさんのザクロの枝を切っていった。長さは五~六尺、先にまたのついた枝を持っていった。

(中略)

あの晩、何も持たない鬼子兵が永清寺付近でザクロの枝を切っていたのは、一かためずつ死体を積み上げるための道具にするためだったのだ。


鈕先銘『還俗記』/南京事件資料集 2 中国関係資料編



全文は次のサイトを参照。




そして、これもkk氏のサイトから拝借するが、次の地図において永清寺の両側、幕府山に沿って「果樹園」の地図記号が並んでいるのが確認できるはず。

ここが紅卍字会の埋葬記録に登場する「下関石榴園」と思われる。



(クリックで拡大)



南京附近地図(縮尺 1:10000)  參謀本部陸地測量總局
http://kk-nanking.main.jp/sougou/map/nanking_1_10000/nanking1_10000.html




さら、『南京の氷雨』でも著者の阿部輝郎氏が現地調査に赴き、地元の人に永清寺のあった場所まで案内してもらい、まだ残っていたザクロの木を見せてもらった話を書いている。どうやら、当時はザクロが永清寺の収入源でもあったらしい。(引用省略)



ともかく。石榴園は永清寺の庭であったということで話を戻す。


FとG項の埋葬場所「下関石榴園」とは、E項の「大渦子」で収容して「和平門外永清寺付近」で埋葬したという記録と、実質的に埋葬場所が同じだったのである。

遺体を運ぶ手間を考えれば、収容場所もそう遠くないはずである。




《改版履歴》


2022.09.17 初版




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《幕府山事件》概要編
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《幕府山事件》草鞋峡現場の外形的検証(前編)
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《幕府山事件》草鞋峡現場の外形的検証(後編)
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/67c2655b8679239d13220dde13c349a7

《幕府山事件》埋葬記録の絞り込み
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《幕府山事件》試算モデル
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/548a45b8a1f4e8c8c0fee0fab3b670e0

《幕府山事件》本当の意図
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/a8da8d8a68b1117afd6ea3cf649d104f



★南京大虐殺の真相(目次)
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/9e454ced16e4e4aa30c4856d91fd2531








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《幕府山事件》草鞋峡現場の外形的検証(後編)

2022年09月17日 | 南京大虐殺
2022.09.18 7項に加筆し、5,6項と順序入れ替え


1927年12月17日に発生した草鞋峡での事件について、NNNドキュメントや清水潔氏の著書に興味深い情報があったので、これを起点にして主に「計画的処刑説」の視点で検証してみる。


《要旨》


1)現場の再現描写の中で、岸辺の捕虜集団を三方から囲って射撃したというが、これは同士討ちの危険があり、処刑場の設営としてはおかしい。捕虜集団を囲む横幅は約100m、この距離で味方同士が撃ち合う体制になる。激戦をくぐり抜けてきた第65連隊が同士討ちリスクに気づかないはずがない。

2)一部の再現描写では同士討ちリスク回避のために、捕虜を囲む鉄条網の終端部に設置した松明に火を灯し、射撃規制用の目印にしたという話があるが、これもおかしい。栗原伍長は包囲網右側にいたというが、松明射撃規制があれば撃てる範囲が狭くなる。しかし、栗原伍長は撃ったと証言しているし、松明射撃規制に言及した形跡もない。そして、鉄条網はなかったという。

3)より詳細な地図を用いて事件現場の比定を行ったところ、三方を囲む日本軍の下辺は土堤だったが左右の辺は土堤ではなかった。集団処刑を考えるなら2辺の土堤の上から射撃した方が良い。その場所は現場から200mほどずれている。集団処刑を狙った場所選定ではないことがわかる。

4)栗原スケッチをさらに詳しく観察すると、実は岸辺に捕虜集団を囲い込んだ包囲網のうち左辺は内側に閉じているが、右辺は岸辺に向かって開いている。そして、右辺の開いた包囲網の機関銃は捕虜集団に向けられていない。未だ証言には出てこないが、開いた包囲網の中に船着場とそこへ向かう乗船順路があったものと思われる。そして田山大隊長は現場全体を視野に収めやすく船着場にも近い土堤右端にいた。

5)第一機関銃隊二等兵氏の証言から重機関銃の射撃状況が判明した。約10分間に、0.7秒の連射と16秒の待機時間、その繰り返し。捕虜集団に狂ったように撃ちまくったというイメージではない。むしろ、機関銃分隊長は薄明かりの中で、射撃目標を精密に見定めて逐一射撃指示していたと思われる。また、重機関銃は65連隊が保有する半数しか動員していない。



(クリックで拡大)




(後編)


《4. 船と航路》


現場付近の船と航路に関する情報をまとめる。


(クリックで拡大)




(船と航路)

上の地図には中洲との渡し船航路が描かれている。他の地図も参照すると、渡し船航路はある程度の幅があったようなので、その範囲を書き加えておいた。

また、その近い時代に撮影された南京付近での船の写真も参考までに貼っておいた。このサイズの船が水路を行き来するのに多用されていたようである。

写真の船は、岸壁とは言えないが土堤のようなところにいる。舳先を土堤に差し込めば、そのまま乗り降りできそうに見える。



(現場付近の水深)

もし、現場から捕虜を船で中洲に渡河させようとしたら、現場付近の水深が問題になる。

次に示す鈕先銘氏は、事件後の遺体の山を目撃したという。その話によると、現場は浅瀬なのだそうである。確かに地形的にもそうなりそうに見える。

永清寺の下流一~二キロの沿岸に“大湾子”と呼ぶ場所がある。ここは非常に浅い砂洲である。流れが白鷺洲で二つに分かれているので、長江の本流は八掛洲の北側を流れており、中洲の南側を通る流れは、流れが緩慢で、そこに浅い砂洲を形成しているのである。(P240)

(中略)


鬼子兵が大湾子を虐殺場に選んだのは、あるいは長江の流れを利用して死体を流し去ってしまうためだったのかもしれない。しかし、冬の、水の枯れているーーまさに蘇東坡先生の言う、山高く月は小さく、水落ち、石出づる季節に、しかも大湾子の流れはあのようにおそいのに、どうやってあんなにたくさんの死体を流し去ることができようか?(P241)


鈕先銘『還俗記』/南京事件資料集 2 中国関係資料編




(船着場)

現場付近の水深が浅いことがわかった。

では、船をどう着けるつもりだったのか。これについて箭内准尉が説明している。

では、ほんとうに解放するための準備が行われていたのだろうか。第一機関銃中隊に所属していた箭内享三郎准尉(福島市泉)は次のように回想する。

「田山大隊長は私たちの第一機関銃中隊の中隊長宝田長十郎中尉と相談し、揚子江岸に船着き場をつくる話し合いをした。私たちが仕事を命ぜられ、江岸に出てヤナギの木を切り倒し、乗り場になる足場などを設けた。また集合できるぐらいの広さの面積を刈り払いした。切り倒した木、刈り払いをした枝などはそのままにしておいた。実をいうと、私たちはそのとき、あの木や枝が彼らの武器となり、私たちを攻撃してくる元凶になるなどとは、神ならぬ身の知る由もなかったのです。船を集めるため江岸を歩き回って探し歩き、十隻前後は集めてきたことを記憶しています」

刈り払いをした木や枝が、あとで手ごろな棒として捕虜の手ににぎられ、解放のとき“暴動”が発生する原因になったのだと箭内准尉はいうのである。(P125)


ふくしま 戦争と人間 1 白虎編



船着場を作ったそうである。

確かに、現場設営のために「ヤナギの木を切り倒し」などしているから、資材に困ることはなさそうである。



(船の目撃談)

続いて、事件当時に船そのものはあったのか。

上記の箭内准尉は「十隻前後は集めてきた」と証言している。


上述した唐光譜氏(前編)は「つづいて河の二艘の汽船の数挺の機関銃と三方の高地の機関銃が一斉に狂ったように掃射してきた」と書いている。船からの射撃はどうかと思うが、とにかく船はあったと証言している。


栗原スケッチにも2隻の船が書いてある。その船の絵は1本マストの帆船のようなので、上の地図に貼っておいた写真の船と似てる。


さらに、事件翌日に現場付近を目撃した同盟通信記者・前田雄二氏に、警備司令部は次のように説明したという。

「江北へ逃げていくことを教唆したら」というのは船の存在を暗示している。また、続く文面は船をめぐる大混乱である。

(前田雄二氏の証言)

ー 一般住民の大量虐殺はない ー
しかし、占領後、日本軍による「虐殺」がなかったわけではない。私は、自分の体験をそのまま「戦争の流れの中に」に書いているが、異常な見聞の第一は、占領三日目のことである。

(中略:第一は軍艦学校で捕虜の処刑を目撃した話。第二は交通銀行の裏で捕虜の処刑を目撃した話。第三は挹江門の城門における死体の山。)

第四は、その翌日、揚子江岸に死体の山が連なっているとの情報を得て車を走らせたが、下関からさらに下った江岸におびただしい中国兵の死体が連なっていた。ざっと見て千は超えていた。帰って警備司令部に説明を求めると「少数の日本部隊へ万を超える中国軍が投降してきたので武装解除し、江北へ逃げていくことを教唆したら、われ先にと船に乗り、ジャンク船に乗り、板にまたがり、戸板を浮かべて脱出したが、とうていさばき切れるものではなかった。船に乗りすぎて沈没するもの、乗り切れない者が船べりを離さないから揚子江に落ち込む、そこで殺傷が起きるということで、パニック状態になり、双方大乱戦となった勢が護送中の日本部隊を襲撃してきたため、機銃で掃射したものである」との答えだった。(P575)


魁 郷土人物戦記 /伊勢新聞社編



草鞋峡事件の際の指揮官だった田山少佐は、「舟は四隻ーーいや七隻か八隻は集めました」「銃声は最初の舟が出た途端に起こったんですよ」と話している。

第一大隊長の田山芳雄少佐は、四国の丸亀市出身の人。直接会って取材したときの私のメモには次のようにある。

「解放が目的でした。だが、私は万一の騒動発生を考え、機関銃八挺を準備させました。舟は四隻ーーいや七隻か八隻は集めましたが、とても足りる数ではないと、私は気分が重かった。でも、なんとか対岸の中洲に逃がしてやろうと思いました。この当時、揚子江の対岸(揚子江本流の対岸)には友軍が進出していましたが、広大な中洲には友軍は進出していません。あの当時、南京付近で友軍が存在していないのは、八卦洲と呼ばれる中洲一帯だけでした。解放するにはもってこいの場所であり、彼らはあとでなんらかの方法で中洲を出ればいいのですから……」

南京虐殺を研究している人の中には「対岸には日本軍が進出しており、その方面に解放するというのはおかしい」とする説もある。しかし実情は以上の通りだった。

「銃声は最初の舟が出た途端に起こったんですよ。たちまち捕虜の集団が騒然となり、手がつけられなくなった。味方が何人か殺され、ついに発砲が始まってしまったんですね。なんとか制止しようと、発砲の中止を叫んだんですが、残念ながら私の声は届かなかったんです」(P103)


南京の氷雨 /阿部輝郎



これほど立場が異なる人たちが一様に船の話をしているのだから、現場に船はなかったという方が難しくなる。



(開いた包囲網の謎)

ここで栗原スケッチの中で私がずっと奇妙に感じていた点について書く。

よく観察すると、捕虜集団を囲い込む包囲網の左辺は内側に向けて閉じているのだが、右辺は実は岸辺に向かって開いている。

捕虜集団を囲い込んで同士討ちも気にせず乱射するつもりなら、右辺も閉じていて然るべきである。にもかかわらず、開いている。これが長年の謎だった。


しかし、手がかりが増えてきた今ならわかる。

誰も証言していないが、右辺の開いた包囲網の岸辺に箭内准尉が作った「船着場」があったと推測する。

そこに気づくと、さらにわかることがある。

栗原スケッチの中で、船は現場の右側に描かれている。そして、右辺の開いた包囲網の機関銃はよく見ると捕虜集団に向いていない。

どういうことかというと、図中に点線赤丸で示した位置に船着場があり、開いた包囲網の機関銃は船着場へ向かう乗船順路に向けられていたのだと思われる。

また、現場の前は地形的にみても、特に左に行くほど浅瀬になっていることは図示した通りである。したがって、船着場を設けるなら現場の右側に来るのが必然的なのである。



(クリックで拡大)




次に、現場指揮官だった田山大隊長がいた場所を探ってみる。

栗原伍長がいた場所は包囲網の土堤右端付近ということは上述(前編)した。また、栗原スケッチを見ると田山大隊長の「つぶやき」がメモされている。その「つぶやき」は後述画像の中にある。

伍長と大隊長(少佐)の関係だから、よほどのことがなければ親密な会話などないはず。それでも「つぶやき」がメモされてるところを見ると、至近距離にいたのだと思われる。

これはヒントになる。


戦国時代の昔から指揮官は戦場全体を見下ろせる高所に陣取るのが当たり前である。それは、ここでは下辺の土堤の上である。高さはおそらく3mくらいもあったので、全体を見下ろすのに最適地である。

であれば、現場全体を最も掌握しやすい下辺土堤の中央付近が良さそうなものだが、田山大隊長はなぜか土堤でも右端付近にいた。


理由は「船で捕虜を対岸に逃す作戦」の指揮官ならそこがベストポジションだからである。

土堤右端ならば、現場全体を視野に収めつつ、捕虜の乗船作業や船の航行状況も比較的近くで視認できる。


以上の要素を簡単な再現図にまとめた。



(クリックで拡大)



これほど多数の断片的状況証拠が一様に指し示していることは、17日夜に捕虜をこの草鞋峡の現場に移送した意図は対岸の中洲への解放であり、そのための現場設営がなされ、船も実在し、事件発生直前までそのように動いていたであろうということである。




《5. 認識の違い》


「認識」というのは、本記事のタイトル「~外形的考察」とは真逆の話になる。しかし、証言者の認識にのみ依拠していると事件の真相にたどり着けなくなるから外形的考察を積み上げているのであり、その意味では両者は表裏一体である。


栗原伍長は自身のスケッチにこうメモしている。

ここの中央の島に一時やるためと言って
船を川の中程にをいて集めて、船は遠ざけて
4方から一斉に攻撃して処理したのである





田山大隊長はこう証言している。

「銃声は最初の舟が出た途端に起こったんですよ。たちまち捕虜の集団が騒然となり、手がつけられなくなった。味方が何人か殺され、ついに発砲が始まってしまったんですね。なんとか制止しようと、発砲の中止を叫んだんですが、残念ながら私の声は届かなかったんです」(P103)

南京の氷雨 /阿部輝郎



射撃直前の、「船は遠ざけて(栗原)」と「最初の舟が出た途端(田山)」は事象として似てる。

「船は遠ざけて(栗原)」の前にその船が現場に接岸していたかどうかが不明なので断定はできないが、船が現場から遠ざかっていくという事象は共通している。

集団処刑したと認識した人からすれば、船が現場から遠ざかるのは集団処刑開始の前準備に思えたかもしれない。

一方で、捕虜を対岸に逃す作戦を指揮していた田山大隊長は、捕虜を乗せた「最初の舟が出た」と認識してる。



文章だけでは伝わりにくいので、イメージ図にした。



(クリックで拡大)



最初の船が出たのなら、おそらく接岸待機中の他の船は進路を避けたはず。その瞬間に発砲があり、騒乱が始まり、船は散り散りに逃げ去った。


事象としては、極めて似てる。



さらに詳細を観察すべく、田山大隊長の証言を時系列要素に分解してみる。

(a) 銃声は最初の舟が出た途端
(b) 捕虜の集団が騒然
(c) 手がつけられなくなった
(d) 味方が何人か殺され
(e) 発砲が始まってしまった
(f) 発砲の中止を叫んだ


栗原伍長のメモも同様に時系列要素に分解してみる。

(x) 船を川の中程にをいて集めて
(y) 船は遠ざけて
(z) 4方から一斉に攻撃


並べ直してみる。

(x) 船を川の中程にをいて集めて

(a) 銃声は最初の舟が出た途端

(b) 捕虜の集団が騒然
(c) 手がつけられなくなった +(y) 船は遠ざけて

(d) 味方が何人か殺され
(e) 発砲が始まってしまった +(z) 4方から一斉に攻撃

(f) 発砲の中止を叫んだ


事態がエスカレーションしていく様子がわかる。

船は地元民のを操船要員とセットで借り出したものだから、(b)~(c)あたりの時点で逃げ出すのは必定。

そうすると、認識の違いはあるものの栗原伍長と田山大隊長が言っている事象はほぼ同じ。差異があるとすれば、最初の船の接岸の有無だけだが、そこは栗原伍長が言及していないので確認できない。



事件発生前の情景も比較してみる。

「ここの中央の島に一時やるためと言って 船を川の中程にをいて集めて」(栗原伍長)
「舟は四隻ーーいや七隻か八隻は集めましたが、とても足りる数ではないと、私は気分が重かった」(田山大隊長)

栗原伍長は捕虜を対岸の中洲に渡す件を認識している。その上でこれを懐疑的にみて、船は捕虜に見せただけで船は遠ざけて集団処刑を開始した、というようなニュアンスになっている。

田山大隊長は船の数が足りないことを証言している。

栗原伍長の懐疑心も、捕虜人数に対して船が足りない、という事象から発しているように見える。もし、大輸送船団が見えていれば、そういう懐疑心は生じなかったはず。

つまり、栗原伍長と田山大隊長の認識は逆方向でも、現場で見た事象は同じ、ということである。



栗原伍長はこの事件に対しては批判的な言い方をしている人だが、上述してきたようにその栗原スケッチの中に船が描かれ、船着場の存在を示す特徴までもが描写され、船の数は少なく、事件経過の筋もここまで整合しているのだから、これは大筋としては田山大隊長の証言に沿った事実があったのだろうと思われる。創作ならこれほど話が整合することはない。


なお、南京考察においては同じ事実を前にしても認識が真逆になっている事例はいくつもある。
そのために、双方の言い分を比較し、可能な限りの現場状況の考察をしている。




《6. 機関銃の射撃状況》


17日の草鞋峡の現場で三年式機関銃を撃ったという二等兵氏の証言をビデオテープで見た清水潔氏は次のように文字起こししている。これは手がかりとして使える。

(第一機関銃隊二等兵の証言)

「こうやって撃ったんだから。5~6発、サブロクジュウハチ……、200発くらい撃ったのかな、ダダダダダダダダと。一斉に死ぬんだから。 10 分ぐらい撃った」


「南京事件」を調査せよ /清水潔



上記の証言について、清水潔氏は「毎分200発を10分間撃ったなら一台の機関銃だけでも2000発を発射したことになる」と解釈しているが、それは違うだろう。

清水潔氏の解釈は、過熱を考慮した実用上の三年式機関銃の連続射撃性能は200発/分程度だろうという話からきているが、上の二等兵氏は「毎分200発」とは言っていない。全部で200発程度撃ったと証言しているように読める。

なお、三年式機関銃は30発の保弾板を横から装填する形式である。現代の自動小銃でいえば30発入りのマガジンを装填するという仕様に相当する。

つまり、問題の「サブロクジュウハチ」が示す意味は「30発保弾板を6枚使って合計180発」と読める。
(謎の解明に一緒に取り組んでくれた方々、ありがとうございます)

それで、その180発がおよそ「200発くらい」という丸め方になっていると解釈できる。

ちなみに、三年式機関銃のスペックでは、500発/分の連射能力がある。従って、5発に要する時間はたった0.6秒。200発でも、保弾板を滞りなく連続装填できれば、射撃に24秒しかかからない。


そうすると、上の二等兵氏の証言を改めて再現すると次のようになる。

(a) 射撃は一度に5~6発ずつ間欠的に撃った。
(b) 射撃弾数は30発保弾板を6枚使って180発、およそ200発くらい撃った。
(c) 射撃時間は10分くらいだった。
(d) 上の数字から、10分間における連射回数は約36回、連射間の平均待機時間は約16秒、となる。


(計算式)
200発÷5.5発=約36回
10分÷36回=約16.7秒
500発/分→5.5発/0.66秒
連射間の待機時間=16.7-0.66=約16秒



これを再現描写すると次のようになる。秒針を見ながらどうぞ。

ダダダダダ(#1/0.66秒)…(16秒待機)…ダダダダダ(#2/0.66秒)…(16秒待機)…ダダダダダ(#3/0.66秒)…(16秒待機)………ダダダダダ(#36/0.66秒)(10分後、射撃終わり)


既に射撃を始めているのに、合間の16秒間の待機中にどんな光景を思い浮かべましたか?

これが、数千人あるいは1万人前後の捕虜を一箇所に集めて集団処刑する際の撃ち方に見えるだろうか。見えないと思う。




(重機関銃8挺の論拠)

ところで、清水潔氏は自身の再現描写の中で、重機関銃数について「12機以上」と書いているが、それは違う。8挺である。

(清水潔氏による再現描写)
鉄条網の外側には砂が盛られていく。銃座だった。12機以上もの重機関銃が運び込まれ、銃口が半円の内側に向けて設置された。


「南京事件」を調査せよ /清水潔



「8挺」の論拠を示す。


(クリックで拡大)



(a) 栗原利一氏(第65連隊第1大隊、伍長)は「機関銃隊は一大隊機関銃と独立機関銃隊であったようだ」と栗原スケッチに書いている。
(b) 第65連隊の場合は、3個大隊の他に独立機関銃中隊がある。
(c) 独立軽装甲車第二中隊小隊長として南京戦に参戦した畝本正己氏は『証言による「南京戦史」(11)』に「機関銃は大隊に四挺、聯隊に十二挺しかない」と書いている。

つまり、草鞋峡現場への機関銃の出動が第一大隊と独立機関銃中隊であれば、合計8挺となる。
(第65連隊の場合は連隊全部で重機関銃が16挺)


そして、草鞋峡に出動した部隊の指揮官だった田山少佐(第65連隊第一大隊長)も8挺だと言っている。

「解放が目的でした。だが、私は万一の騒動発生を考え、機関銃八挺を準備させました。舟は四隻ーーいや七隻か八隻は集めましたが、とても足りる数ではないと、私は気分が重かった。でも、なんとか対岸の中洲に逃がしてやろうと思いました。」(P103)

南京の氷雨 /阿部輝郎



両角連隊長も手記の中で「二個大隊分の機関銃を配属する」と書いている。すなわち、8挺である。

…田山大隊長を招き、ひそかに次の指示を与えた。
「十七日に逃げ残りの捕虜全員を幕府山北側の揚子江南岸に集合せしめ、夜陰に乗じて舟にて北岸に送り、解放せよ。これがため付近の村落にて舟を集め、また支那人の漕ぎ手を準備せよ」
もし、発砲事件の起こった際を考え、二個大隊分の機関銃を配属する。(P340)


両角業作 手記
歩兵第65聯隊長・歩兵大佐
南京戦史資料集 II



つまり、第65連隊の重機関銃の定数16挺の半分しか動員していない。

計画的な集団処刑というなら、なぜ重機関銃を総動員しなかったのだろうか。




《7. 射撃状況の推理》


清水潔氏の著書から機関銃の射撃状況が垣間見れたので、そこから全体の射撃状況を推理してみる。


(重機関銃の運用)

重機関銃というのは歩兵が個人で運用する小銃とは運用方法が全く異なる。重機関銃1挺につき10人前後の機関銃分隊を編成し、分隊長の指揮の元に運用する。(これとは別に弾薬を運搬する分隊もある)

下記の資料にもあるように、射撃に際しては小隊長の命令に基づき分隊長が射撃目標、射撃方法、射撃順序などを指示して、射手がこれに従って射撃する。



(クリックで拡大)



従って、重機関銃の場合は射手が一人で勝手に興奮してめったやたら撃ちまくる、というような射撃は基本的にできないのである。連射ができるのも分隊長がそのように命じた時のみである。



(平均16秒の謎)

上述したように、二等兵氏の証言から重機関銃の射撃状況は「10分間における連射回数は約36回、連射間の平均待機時間は約16秒」であったらしいことがわかった。

また当然ながら、「5~6発」ずつの射撃方法も機関銃分隊長の指示だったはず。

では、これを指揮していた機関銃分隊長は次の射撃までの平均16秒間に何をしていたのか。

新たな射撃命令において、射撃目標、射撃方法、射撃順序などを射手に指示するのに数秒要するにしても、10秒以上の余剰時間がある。

そして、冒頭で説明したように頭上には満月、天候はおそらく曇りで時々小雪が舞うという状況だった。

上述した唐広普氏によれば、立木に枯れ草をぶら下げて火を灯したというから、もしかしたら満月が雲に隠れたので照明用に灯したのかもしれない。


ともかく。

そういう視界状況の中で、囲んだ日本兵のおそらく10m以上先に捕虜集団がいて、しかもその集団の至近距離にまだ一部の日本兵が混ざっていたのだと思われる。

ただ、その識別は容易ではない。何しろ、捕虜も日本兵もどちらも遠目には似たような軍服またはそれに準じる服装である。



(射撃目標を見定めていた)

幕府山事件を噂として聞いた上村参謀副長の日記にはこう書いてある。

◇十二月二十一日 晴
N大佐より聞くところによれば山田支隊俘虜の始末を誤り、大集団反抗し敵味方共々MG(=機関銃)にて撃ち払い散逸せしもの可なり有る模様。下手なことをやったものにて遺憾千万なり(P269)


上村利道日記(上海派遣軍参謀副長・歩兵大佐) /南京戦史資料集 II


敵味方共々機関銃にて撃ち払ったと書いている。


山田支隊からは、この事件で7人の戦死者を出しているというから、相当な混乱状態に陥ったことは史実として間違いない。

そこで、その大混乱の渦中にあった機関銃分隊長の行動をイメージ図を用いて考えてみる。



(クリックで拡大)



騒乱が始まり、捕虜の集団からいくつかの小グループが逃走し始めたとする。
あるいは箭内准尉の証言によれば、捕虜の一部が木の枝などを拾って日本兵に殴りかかったともいう。

分隊長の上官である小隊長はこの状況を見て、「逃走(あるいは反乱)する捕虜を撃て」などと命じたとする。さて、自分が機関銃分隊長なら、射手にどこを撃てと指示するか。

答えは、
(1) A,B,Dには日本兵がいるから撃ってはいけない。
(2) 脱走しつつある捕虜を撃つならCとEを撃たねばならないが、CはDと近いので射撃に注意が必要。
(3) 優先順位的には捕虜の大集団中央部を撃つよりもCとEの突出部を撃つのが優先。
となる。

あるいは、もっと積極果敢に、
(a) BまたはDで日本兵に殴りかかっている捕虜を撃て
(b) だが、友軍には絶対に当てるな
と命じたかもしれない。

機関銃分隊長は、薄明かりの中でこのような状況を見極め、射手に的確に指示せねばならないのである。その判断と命令伝達に要した時間が「連射間の平均待機時間は約16秒」になったと思われる。

さらに言えば、「5~6発」ずつという射撃方法は、大集団を薙射するのではなく、射撃目標を数人単位まで絞り込んだ上で分隊長が逐一射撃指示を出していたことを示しているように見える。

それにも関わらず、結果論的には薄明かりの大混乱の中で、撃ってはいけないA,B,Dまで撃ってしまって味方に戦死者を出した、という展開になった思われる。

以上は重機関銃の運用に注目した考察だが、小銃・軽機関銃でも状況判断においては差異はないだろう。



それで、重機関銃が平均で10分間に200発を射撃したとして、重機関銃数が8挺だと、1,600発/10分となり、これだけで毎秒2.7発となる。

そこに歩兵の歩兵銃と軽機関銃が加わる。

参考までに重機関銃が十分活躍している戦闘詳報を見ても、小銃弾は機関銃弾の2倍くらい消費している。

江蘇省南京市 十字街及興衛和平門及下關附近戦闘詳報 歩兵第38連隊
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C11111200400


仮にその数字を使えば、イメージとしては毎秒8発くらいの射撃となる。実際はもっと撃っているはず。

そういうことであれば、たとえ個々の兵士は冷静に狙いを絞って射撃していたとしても、撃たれる捕虜の側からすれば狂ったように乱射されたと感じるのも当然かと思う。




《改版履歴》


2022.09.17 初版
2022.09.18 7項に加筆し、5,6項と順序入れ替え




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《幕府山事件》概要編
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《幕府山事件》地理編
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/9b9a860e2c39a923405efe2946d766ed

《幕府山事件》時系列編
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《幕府山事件》自衛発砲説
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《幕府山事件》魚雷営現場の外形的検証
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《幕府山事件》草鞋峡現場の外形的検証(前編)
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/e5c0c9b19ec42a60c0d038314aa4e32a

《幕府山事件》草鞋峡現場の外形的検証(後編)
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《幕府山事件》埋葬記録の絞り込み
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《幕府山事件》試算モデル
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/548a45b8a1f4e8c8c0fee0fab3b670e0

《幕府山事件》本当の意図
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/a8da8d8a68b1117afd6ea3cf649d104f



★南京大虐殺の真相(目次)
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/9e454ced16e4e4aa30c4856d91fd2531






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《幕府山事件》草鞋峡現場の外形的検証(前編)

2022年09月17日 | 南京大虐殺
2022.09.17 初版


1927年12月17日に発生した草鞋峡での事件について、NNNドキュメントや清水潔氏の著書に興味深い情報があったので、これを起点にして主に「計画的処刑説」の視点で検証してみる。


《要旨》


1)現場の再現描写の中で、岸辺の捕虜集団を三方から囲って射撃したというが、これは同士討ちの危険があり、処刑場の設営としてはおかしい。捕虜集団を囲む横幅は約100m、この距離で味方同士が撃ち合う体制になる。激戦をくぐり抜けてきた第65連隊が同士討ちリスクに気づかないはずがない。

2)一部の再現描写では同士討ちリスク回避のために、捕虜を囲む鉄条網の終端部に設置した松明に火を灯し、射撃規制用の目印にしたという話があるが、これもおかしい。栗原伍長は包囲網右側にいたというが、松明射撃規制があれば撃てる範囲が狭くなる。しかし、栗原伍長は撃ったと証言しているし、松明射撃規制に言及した形跡もない。そして、鉄条網はなかったという。

3)より詳細な地図を用いて事件現場の比定を行ったところ、三方を囲む日本軍の下辺は土堤だったが左右の辺は土堤ではなかった。集団処刑を考えるなら2辺の土堤の上から射撃した方が良い。その場所は現場から200mほどずれている。集団処刑を狙った場所選定ではないことがわかる。

4)栗原スケッチをさらに詳しく観察すると、実は岸辺に捕虜集団を囲い込んだ包囲網のうち左辺は内側に閉じているが、右辺は岸辺に向かって開いている。そして、右辺の開いた包囲網の機関銃は捕虜集団に向けられていない。未だ証言には出てこないが、開いた包囲網の中に船着場とそこへ向かう乗船順路があったものと思われる。そして田山大隊長は現場全体を視野に収めやすく船着場にも近い土堤右端にいた。

5)第一機関銃隊二等兵氏の証言から重機関銃の射撃状況が判明した。約10分間に、0.7秒の連射と16秒の待機時間、その繰り返し。捕虜集団に狂ったように撃ちまくったというイメージではない。むしろ、機関銃分隊長は薄明かりの中で、射撃目標を精密に見定めて逐一射撃指示していたと思われる。また、重機関銃は65連隊が保有する半数しか動員していない。



(クリックで拡大)





《1. 月齢と天候》


各論に入る前に、現場状況の確認として当時の月齢などを見てみる。

草鞋峡で事件があった12月17日はちょうど満月で、しかも月の南中時刻が23:55なので、まさに事件発生時刻には満月が頭上にあったものと思われる。



(クリックで拡大)



事件当時に射撃音を聞き、後日現場で遺体の山を見た鈕先銘氏も草鞋峡の事件は月夜だったと書いている。
農歴は月の運行が基準なので、農歴の日付で月齢がわかる。

死体の処理は一~二か月たってからようやく実施された。正確な日にちは覚えていないが、大虐殺のあったあの夜は月夜だったから、暦で換算すると旧暦十一月十五日前後で、たしか新年まで約一か月半を残す頃だった。(P242)

還俗記 鈕先銘 /南京事件資料集 2中国関係資料編


天候については、小野日記から拾い読みすると17日は晴れ、18日は朝から曇りだったとのこと。ただ、人によっては事件当時は小雪が舞うこともあったと書いていたようだから、満月の光が煌々と照らす状況ではなかったかもしれない。

小野日記とは次の書籍に収録された陣中日記を指す。

南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち /小野 賢二
https://www.amazon.co.jp/dp/4272520423/





《2. 草鞋峡現場の再検証》


次の番組の中で、草鞋峡の現場の見取り図が出てくる。




下図はそのシーンを模写して再現した図である。(一部に補足説明を加筆している)



(クリックで拡大)



このように捕虜を鉄条網で囲った河岸に集め、周囲を日本兵が取り囲んで一斉に射撃したというのである。

この現場見取り図を起点に掘り下げていく。


なお、ひとつ言わせていただくと、実際の放送では船を画面左上の「1937年12月17日」という文字列の背後に隠していたのだが、それは姑息というものだろう。




(“鉄条網”の正体)

なるほど、次の清水潔氏の著書には「有刺鉄線か何か」というのが登場している。

海軍施設から2・5キロ下流の河原で「大湾子」と呼ばれる場所だという。そこに連行された捕虜の数は一万人以上とも言われている。現場にいた第一大隊本部行李係の二等兵のビデオテープの証言。

「とにかく一万人も集めるっていうんだから相当広い砂原だったね。有刺鉄線か何かを周囲に張った」


「南京事件」を調査せよ /清水潔



そして、清水潔氏による再現描写が続く。

(清水潔氏による再現描写)
江岸の広い空間に、ひときわ大きな柳の木がぽつんと立っていた。日本兵たちがその一帯を整地して杭を打ち鉄条網を張っていた。次第に形を成していくのは、半円形の大きな広場だった。鉄条網の外側には砂が盛られていく。銃座だった。12機以上もの重機関銃が運び込まれ、銃口が半円の内側に向けて設置された。重機の間には軽機関銃もセットされていった。


「南京事件」を調査せよ /清水潔



しかし、『南京の氷雨』その他に収録されている関係者の証言や、現場からの脱出に成功した捕虜の側の証言からは、有刺鉄線や鉄条網で現場を囲ったという話を見たことがないので怪しく思う。




幕府山事件をめぐっては栗原利一氏(第65連隊第1大隊、伍長)がスケッチを残している。



そこにあった現場のスケッチと、当時の地図を照合すると下図のように現場を比定することができる。河岸と幕府山の等高線の位置関係に注目すると良い。

すなわち、現場の下辺は「土堤」であることがわかる。当時の写真を見るとその土堤は遠目には田んぼの畦道のように見えるが、幅も高さももっとある。土堤の上の道幅も小型車両が走れるほど。

現場の周囲に機関銃を配置するなら、土堤という高所を選ぶのは合理的である。

ただし、現場の左右辺には土堤はない。栗原スケッチを見ても下辺の土堤とは違う。

また集団処刑を狙うなら、その左側200m付近であれば左辺と下辺の土堤2辺という高所を使えたのに、そのような現場選定はしていなかった。



(クリックで拡大)



上図に引用しているスケッチと地図は以下の通り。

栗原スケッチの参照ページ直リンク
http://www.kuriharariichi.com/sketch/to_0040/0028.html

附図 南京市街近傍図 (重要施設要図) 2万5千分の1
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/C11112010600


関連記事はこちら。




実は、清水潔氏は上図左側の栗原スケッチを見て「広い河原には半円形が描かれている。円の後方が揚子江で断ち切られている形だ。ぐるりと囲んでいるのは柱と鉄条網のようだ」と推理しているのである。

地図で見る限り、包囲網の少なくとも下辺は「土堤」である。



(「侵华日军南京大屠杀遇难同胞纪念馆」所蔵の絵画)

南京にある「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」に次の絵画が展示されている。



(クリックで拡大)



この絵画のタイトルを把握していないのだが、情景的には草鞋峡の現場に酷似している。

周囲を囲む日本兵がいる場所は若干高台になっているのがわかる。そこに機関銃を据え付けて、やや下方に向けて発砲している。つまり、ここが土堤だと思われる。

この絵画の左方向は地図でいうと現場の南西で、河の水面が見える。絵画の右方向は北東に当たる。そして、画面奥の方向つまり河岸に沿った方向には土堤らしきものは描かれていないし、日本兵がいるのかどうかもわからない。この特徴も地図で見る地形と一致している。

そして、この土堤らしき高台には特に鉄条網のようなものは見えない。

ちなみに、上の絵画では射撃されている集団はいかにも一般市民のような様相だが、収容所での写真や移送場面の写真を見る限り(清水潔氏の著書にも掲載されてる)、全員が青壮年男性であり、女性、老人、子供などがいるようには見えない。



(土堤高の試算)

「土堤」という文字からは、我々はあまり高さを感じない印象も受けると思うが、そういう決めつけをするとだいたい間違えるのがこの南京考察である。

そこで、揚子江の水位の季節変動と、土堤の建設目的から考察してみる。



(クリックで拡大)



土堤の主目的は、地図を見てもわかるが揚子江の河岸の土地を開拓して田畑を広げ、揚子江の増水期にも田畑を水から守ることにある。

そこに、揚子江の水位の季節変動を加味し、かつ証言その他の現場状況を加えていくと推理ができる。

草鞋峡で事件があったときには、当然だが現場は陸地だった。また、現場設営の将兵によれば葦などが生えてたというから、春になれば水没するような土地だったとする。

これらの条件を考えると、草鞋峡事件現場から土堤を見上げた場合、高さ約3mあったように思えるのである。

ここまで高いと「土堤」と言っても、田舎のちょっとした土盛りの城の趣すらある。冷静に考えれば揚子江という大河川の堤防なのだから、当たり前なのかもしれないが。

処刑場としての射撃前提なら、現場設営においてこれを利用しないわけがない。




《3. 現場設営の不審点》


現場設営に関していくつか不審点があるので以下に述べる。



(唐光譜氏の証言)

捕虜として草鞋峡の現場に連行され生還した唐光譜氏がこう書いている。

六日目の朝、まだ明けないうちに敵は私たちを庭に出し、すべての人の肘同士を布で縛ってつなぎあげた。全部を縛りおわると、すでに午後二時過ぎであった。その後敵は銃剣でこの群衆を整列させ老虎山に向かって歩かせた。そのとき人々は腹が空いて気力もなくなっていた。敵は隊列の両側で、歩くのが遅い人を見るとその人を銃剣で刺した。十数里歩くともう暗くなった。敵は道を変えて私たちを上燕門の河の湿地から遠くない空き地に連れていった。六日六晩食物を与えられず、たくさんの道を歩いたので、一度脚を止めるともう動けなくなって地面に座り込んで立ち上がれなかった。 一時間の間、その場には数えきれないほどの人が座っていた。
このようであっても生存本能から、敵が集団虐殺をしようとしていることに感づいた。私たちは互いに歯で仲間の結び目を咬み切って逃走しようとした。人々がまだ全部咬み切らないうちに、四方で探照灯が点き、真っ黒な夜が急に明るくなり人々の眼をくらませた。つづいて河の二艘の汽船の数挺の機関銃と三方の高地の機関銃が一斉に狂ったように掃射してきた。大虐殺が始まったのだ。(P252)


私が体験した日本軍の南京大虐殺 唐光譜 /南京事件資料集 2中国関係資料編



「つづいて河の二艘の汽船の数挺の機関銃と三方の高地の機関銃が一斉に狂ったように掃射してきた。大虐殺が始まったのだ」と書いているが、これは集団処刑の現場設営としては、あまりにもあり得ないので取り上げる。





上図のように、陸上の三方に加えて二艘の汽船からまで射撃したのでは、どこから撃っても射線の先に友軍がいて、同士討ち必至の状況になってしまう。特に揺れる船からの射撃では、弾がどこに飛んでいくかわかったものではない。

上海での激戦をくぐり抜けて南京まで進軍してきた第65連隊が、このような間抜けな現場設営をするわけがない。九死に一生を得た唐光譜氏が、敵の悪辣さを誇大に吹聴するあまりに話がおかしくなったものと思う。



(松明の灯)

NNNドキュメントの1シーン(模写)を再掲する。

河岸にある2つの「松明」は、同士討ちを避けるために射撃範囲を規制するためのものだという。



(クリックで拡大)



しかし、これもおかしいのである。平面図を書いてみればわかる。



(クリックで拡大)



捕虜集団を半円で囲んで両側の松明で射撃規制すると、まるで水上を猛射するような体制になる。

そして、松明の外側は射撃範囲外となり、集団脱走に対処できない。また、包囲網が薄いので集団で押し寄せてきたら突破されかねない。

さらに、捕虜集団に対して重機関銃1挺でしかカバーできていないエリアが多数生じ、かつ捕虜集団との距離次第では重機関銃の死角も生じる。

というのも、三年式機関銃は「薙射角度」が36°と決まっている。
それを超えて左右に動かす場合は、重量50kg以上ある重機関銃(+三脚)を持ち上げて、ちょっとした陣地変換をしなければならない。

そのため、河面に正対する中央の重機関銃でもそれほど左右に振れるわけでもない。



(クリックで拡大)




(集団処刑最適地)

本当に集団処刑場として設営するなら、重機関銃の射点は現地にあった土堤の2辺に限定して十字砲火の体制にした方がよい。

そうすれば、捕虜集団の全域に対して複数機関銃でカバーでき、さらに河岸に沿った遠方への逃亡に対しても射撃できる。ちなみに三年式機関銃の有効射程は1,700mもある。囲んでしまったらそれを活かせない。

この配置なら、重機関銃の場合は薙射角度36°という制限があるから、位置決めをしてしまえば松明の必要もない。そして、日本兵の位置も土堤の上に限定すれば同士討ちの危険はない。

また、小銃や軽機関銃のために射撃規制用の松明が必要なら、それは土堤の上に配置すべきである。



(クリックで拡大)



「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」の絵画を再掲するが、実はこれがちゃんとそうなっているのである。つまり、土堤の2辺に射点を限定している。そして、土堤の下に降りている日本兵はいない。

集団処刑の現場設営というのはこうやるのだと中国側の方がわかっているようである。



(クリックで拡大)




両角連隊長手記の事件発生時の描写にこう書いてある。

二千人ほどのものが一時に猛り立ち、死にもの狂いで逃げまどうので如何ともしがたく、我が軍もやむなく銃火をもってこれが制止につとめても暗夜のこととて、大部分は陸地方面に逃亡、一部は揚子江に飛び込み、我が銃火により倒れたる者は、翌朝私も見たのだが、僅少の数に止まっていた。(P340)

両角業作 手記 歩兵第65聯隊長・歩兵大佐
南京戦史資料集 II



また、第65連隊第一機関銃中隊の箭内享三郎准尉もこう証言している。

「江岸への集結のさなか、一瞬にして暴走が起こった。彼らはいっせいに立ちあがり、木の枝などを振り回しながら警備兵を襲撃し、これを倒して逃走を始めた。川に飛び込むもの、陸地を走るものなど、 暗夜の突然の事態。機関銃が射撃を始めた。このとき私の近くにいた第一大隊長田山芳雄少佐が“撃ち方やめ”を叫んだ。だが、混乱しているため命令はいき届かなかったのです」(P130)

第一機関銃中隊箭内享三郎准尉
ふくしま 戦争と人間 1 白虎編



「大部分は陸地方面に逃亡」「川に飛び込むもの、陸地を走るものなど」とある。周囲を囲んでしまうから、囲みを破られると撃てなくなる。

本気で集団処刑を計画するなら、視界が効く昼間に上述のように土堤の2辺を使って十字砲火の設定にすれば良い。

そして、その土堤の2辺が使える集団処刑最適地は、現場の200mほど隣にあった。ところが、そこを選んでいないのである。

そうしなかったのは、集団処刑などするつもりがなかったからであろう。



(クリックで拡大)




(「松明」の証言者は誰?)

松明に話を戻すが、いったい誰が「松明」と言っているのか清水潔氏の次の著書で検索してみた。
(私が持っているのはKindle版なので検索できる)

「南京事件」を調査せよ /清水潔
https://www.amazon.co.jp/dp/B077TP2SL8/


すると、「松明」という文字列で4ヶ所ヒットするのだが、うち3ヶ所は清水潔氏の再現描写の文中であり、残る1ヶ所は本文の記述の中にある。

つまり文面の形式で見る限り、いずれも清水潔氏の作文の中であり、参戦者の証言の引用文「」の中に「松明」が登場する箇所はひとつも見当たらないのである。


清水潔氏の作文を引用してみる。

(清水潔氏による再現描写)
川に面した鉄条網の開口部。その二個所の終端部には松明が用意されていた。着火ーー。炎は川面を、不安げな捕虜たちの顔を、赤く照らしだす。暗闇で複数の機関銃を乱射すれば相打ちを起こしかねない。機関銃隊員は二つの松明の「炎の間を狙って撃つように」と、あらかじめ命じられていた。外れた弾は全て川に抜けるからだ。


「南京事件」を調査せよ /清水潔




「松明」らしきものについては、前掲の唐光譜氏と同一人物と思われるが、こちらの唐広普氏が書いている。

どういうつもりか、兵隊たちが枯草をまわりの立木などにひっかけはじめた。到着して一時間くらいたつと思われるころ、この枯草に一斉に点火された。ガソリンか石油でもかけられていたのかどうか分らないが、よく燃えあがって明るくなった。一斉射撃が開始されたのはそのときである。どの方向から何丁の機関銃などで撃ってきたのか知るよしもなく、唐さんも鶴程もすわっている姿勢から反射的に地面にはいつくばった。二人は肩をくんでいた。

唐広普 教導総隊二団三営(インタビュアー 本多勝一)
http://kk-nanking.main.jp/butaibetu/yamada/Chinese_side.html#tang_guangpu02



「兵隊たちが枯草をまわりの立木などにひっかけはじめた」「この枯草に一斉に点火された」という言い回しからすると、2本やそこらの本数ではなくもっと多数だったように読める。

冒頭に書いたようにその夜は満月だったが時には小雪も舞う状況だったようなので、月が隠れた時に現場全体の照明用に点火したのかもしれない。

前述の唐光譜氏は「四方で探照灯が点き」などと書いていたが、その正体はこの立木に吊るした枯草への点火のことであろう。そうすると、「四方で」という要素に注目すれば、これは現場全体を取り囲む照明用に設置したものと思われる。

そうなると、これは「鉄条網の終端部には松明」というようなものとは全然違う。


ちなみに現場設営は前述の箭内享三郎准尉らがやっているのだが、その際には木を切り倒したりする必要があったという。つまり、捕虜集団を囲む外側にはいくらでも立木が残っていたはずであり、それらを利用しただけに見える。

「田山大隊長は私たちの第一機関銃中隊の中隊長宝田長十郎中尉と相談し、揚子江岸に船着き場をつくる話し合いをした。私たちが仕事を命ぜられ、江岸に出てヤナギの木を切り倒し、乗り場になる足場などを設けた。また集合できるぐらいの広さの面積を刈り払いした。切り倒した木、刈り払いをした枝などはそのままにしておいた。実をいうと、私たちはそのとき、あの木や枝が彼らの武器となり、私たちを攻撃してくる元凶になるなどとは、神ならぬ身の知る由もなかったのです。船を集めるため江岸を歩き回って探し歩き、十隻前後は集めてきたことを記憶しています」 (P125)

第一機関銃中隊箭内享三郎准尉
ふくしま 戦争と人間 1 白虎編




(栗原伍長の御子息の説明)

現場にいた栗原利一氏(第65連隊第1大隊、伍長)の御子息は次のような説明をしている。

以下は、私が幕府山の捕虜虐殺について他の掲示板で質問を受けた際に、父に確認して回答した内容です。

幕府山の現場は、幕府山のふもとの川沿いの100m四方の凹地です。
まわりに鉄条網はありません(父によると、そんなことしてあったら捕虜に感づかれてしまうとのことでした)。
昼ころ、事前に探しておいた場所だそうです。


【改訂】 付記:上記証言に対しての諸事情(栗原氏のご子息である「核心」さんからの証言)
http://kk-nanking.main.jp/butaibetu/yamada/kurihara/kurihara.html#06


やはり、鉄条網はなかったようである。そうすると、鉄条網の終端部の松明とはなんなのか。




(栗原スケッチの観察)

本当に処刑場として現場設営するなら、射点を土堤の2辺に限定すべきと上述した。

しかし、栗原スケッチで見る限り、実際は土堤がない左右辺の河岸付近まで降りて囲んだようである。

その栗原スケッチに沿って重機関銃の射界(36°)を重ねてみると、少なくとも絵的には同士討ちの現場設営になってしまっている。約100mの距離を挟んで味方同士で撃ち合う現場設営などあり得ない。



(クリックで拡大)



「計画的処刑説」を主張しようとすれば、この現場設営では不都合なのはわかる。約100mの距離を隔てて友軍同士で撃ち合う体制を取るはずがない。それゆえに、その解決策として「松明による射撃規制」を持ち出したいのもわかる。

しかし、松明に準じるものが現場にあったかもしれないにしても、それが「射撃規制用」に設置されたという話は納得できるものではない。少なくとも、現時点では参戦者による証言すらないものと理解している。

もっとも、射撃に際しては機関銃分隊長が射手に「あれの右側を撃て」などと何か位置的目安を指し示すことはあると思うが、それは位置的機会的な偶然性によるものであって、それを以て「松明による射撃規制」説を立証するものではない。



ちなみに、『南京への道 /本多勝一』に栗原利一氏(=仮名:田中三郎さん)がいた位置が書いてある。

このとき田中さん(=栗原利一伍長)がいた位置は、丘陵側の日本兵の列のうち最も東端に近いところだった。(P313)

南京への道 /本多勝一



これは、本多勝一氏が栗原氏から聞き取った内容を再構成した文面だが、表現が正確だとすると栗原氏の立ち位置は下図の場所になる。

「丘陵側の日本兵の列」というのが下辺の土堤の上の日本兵を指していると解釈した。また、「最も東端に近いところ」というから、土堤最右翼から2番目の機関銃の位置にした。



(クリックで拡大)



もし松明射撃規制があったら、栗原伍長は撃てる範囲が狭かったはずである。

しかし、栗原伍長は小銃を撃ち続けたというし、その際に松明射撃規制に配慮したとか苦労したという話が見当たらない。

従って、「松明による射撃規制」などというものは実在しなかったと思われる。




(後編に続く)

《改版履歴》


2022.09.17 初版




《関連記事》


《幕府山事件》概要編
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《幕府山事件》魚雷営現場の外形的検証
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《幕府山事件》草鞋峡現場の外形的検証(前編)
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《幕府山事件》草鞋峡現場の外形的検証(後編)
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《幕府山事件》埋葬記録の絞り込み
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《幕府山事件》試算モデル
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《幕府山事件》本当の意図
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/a8da8d8a68b1117afd6ea3cf649d104f



★南京大虐殺の真相(目次)
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/9e454ced16e4e4aa30c4856d91fd2531





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《幕府山事件》魚雷営現場の外形的検証

2022年09月17日 | 南京大虐殺
2022.09.17 初版


1927年12月16日に発生した魚雷営での事件について、清水潔氏の著書に興味深い記述があったので、これを起点にして「計画的処刑説」の視点で検証してみる。




《要旨》


1)魚雷営の建物の壁に穴を開け、屋内設置の重機関銃の銃口を壁穴から外に向けて「刑場」にしたという。その際に、銃身を振るため壁穴を水平に拡げたという。しかし、建物が鉄筋コンクリートなので穴を水平に拡げるにしても鉄筋ピッチに制限される。また、重機関銃の左右振り角度は最大36°の仕様であり、いずれにしても死角が生じる。また、射界内であっても射撃開始直後は手前の人物が弾丸を受けるため、奥には届きにくい。

2)小野日記によると複数の将兵が魚雷営に三千人の捕虜を連行したと書いている。三千人を魚雷営に整列させると20m×65m程度の面積になる。これに建物内から重機関銃4挺を向けても半分程度しか射界に入らない。さらに建物1棟は40m程度なので捕虜集団より短いことになる。これでは「刑場」にならない。集団処刑目的なら、もっと有効な機関銃の配置もあったのに採用していない。

3)魚雷営に捕虜を連行した際の指揮官である角田中尉(第5中隊長)は、万一の場合を考えて機関銃を用意したという。万一とは何か。護送兵力の約15倍にもなる捕虜集団の暴徒化であろう。集団処刑には最適化されていない重機関銃の配置は、実はいわゆる“突撃破砕線”の設定ではないのか。もし暴徒が押し寄せてきても防護射撃時には暴徒集団の前半分は分断され、角田中隊を防護できる。

4)屋内設置の重機関銃の銃口を壁穴から外に向けて「刑場」にしたという話にとって重要なのは穴の形状である。清水潔氏による再現描写では銃身を左右に振るため穴を水平に拡げたとあるが、日本兵の証言にはそのような発言は見当たらない。一方で、“突撃破砕線”の設定ならば暴徒が押し寄せてくるという想定なので、防護射撃時に銃身を振る必要はない。つまり、穴を水平に拡げる必要がない。そして、捕虜の全てを射界に入れる必要もない。




(魚雷営について)


魚雷営というのは、中華民国がドイツから購入した魚雷艇 Sボートの基地である。

そこには、揚子江岸の岸壁に建物が約10棟ほど立ち並んでいた。頑丈な鉄筋コンクリート製の3階建だったとされる。

その建物群の前の細長いスペースに角田中隊は数千人とも言われる捕虜を連行して事件になった。



(クリックで拡大)





《1. 『「南京事件」を調査せよ』から》


本書のタイトルは『「南京事件」を調査せよ』となっているが、内容的には幕府山事件が主題となっている。

さらに、その内容は次の小野日記(=通称)に主に立脚している。

南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち :第十三師団山田支隊兵士の陣中日記 小野 賢二
https://www.amazon.co.jp/dp/4272520423/


それで、下記引用部分は上記著者の小野賢二氏が元日本兵に取材した際の録音テープなどを、清水潔氏が文字起こしをしてまとめた箇所である。

(65連隊第3機関銃中隊所属氏)
「捕虜が歩かされてきたんですよ、夕方になってから……。夜というよりは、日が落ちるか落ちないか、そんな頃だったですよ。場所は……、わたしらは軍艦学校と言ってた。揚子江に沿って建っていた鉄筋コンクリートの相当細長い建物だわ。そこに機関銃を並べて〝お客さん〟が来るのを待っていたんだ。捕虜のことを〝お客さん〟って呼んでたんですよ」

「やがて、静々とお客さんたちがやってきた。捕虜たちが三十横隊ぐらいで、ぎっしり繫がって来たんですよ。びっしりとすごい数だった。建物と揚子江の間の細長い場所だから端の方はもう川に落っこちそうだった。本当にこれを撃つのかと……、そう思った……」

(上とは別人と思われる日本兵氏)
「建物は3階建てぐらいの海軍兵学校か何か。川沿いにあったんだけどコンクリートでできていて非常に頑丈だった。基礎工事がしっかりしてあった。その壁の厚いコンクリートにツルハシを使って穴を開けるんだけど、なかなか開かなくて大変だった……」

(清水潔氏による再現描写)
揚子江岸辺にぽつんと孤立する中国海軍の建物。
昼頃、カーキー色の軍服を着た日本兵が集まっていた。やがて江岸に乾いた音が響き始める。男達の手に握られていたのは十字鍬と呼ばれるツルハシだった。尖った先を建物のコンクリート壁に打ちたてている。場所は川に面した低い位置だ。鉄筋コンクリートの壁は厚く堅牢で、作業は容易には進まなかったが、やがていくつかの穴が空いた。男達はそれを水平に広げていった……。
宿営地から運ばれてきた機関銃と弾薬箱が降ろされる。
組み立てられた機関銃は建物内に次々と運び込まれた。
隣の銃との間隔は約 10 メートル。三脚のハンドルを廻して開けられた穴の高さにセットしていく。銃口はめだたぬように、壁面から飛び出さない位置に合わせられた。細長い隙間だが銃口は左右には振れるから〝死角〟はない。
こうして「刑場」は完成した……。


「南京事件」を調査せよ /清水潔
https://www.amazon.co.jp/dp/B077TP2SL8/


上述のような「刑場」が成立するのかどうか、以下でみていく。




《2. 三年式機関銃の射角と穴幅の検証》


まず初めに、当時使われていた三年式機関銃の寸法から、左右の振り角度と壁の穴の幅の関係を確認してみる。

そこで、台座回転部の中心軸から先の銃身が620mm程度だろうと見積もって計算すると、左右の振り角度と壁に必要な穴の幅は次のようになる。

左右振り角度/穴幅
18°/20cm
36°/40cm
52°/60cm



(クリックで拡大)




次に、上記数字に対して射界がどの程度になるかを図上で検証する。

この場合「射界」というのは、捕虜を並べた面積に対して、射撃が有効になる面積の比率を指すものとする。

左右振り角度/穴幅/射界
18°/20cm/約20%
36°/40cm/約50%
52°/60cm/約70%

なお、連行捕虜数はとりあえず3千人と仮定し、清水潔氏著書の証言「捕虜たちが三十横隊ぐらい」を用いて、100列とした。

また上記証言にあるように、建物が3階建ての鉄筋コンクリートということだから、穴が開けられる最大幅は鉄筋のピッチに依存する。開けた穴から鉄筋が出てくれば、ツルハシごときで切断あるいは除去できるはずがない。

そうすると、穴幅(=鉄筋のピッチ)が20cmなら妥当な値だが、40cmになるとなんとも言えない値(仮に現実的上限値とする)となり、60cmになるとちょっと信じられないように思う。

参考:現代の日本では鉄筋ピッチは300mm以下が基準となっていると思うが、個別の施工(設計)においては200mm指定の場合も多いようである。とはいえ、論点は1937年頃の南京での建築物についてなので、日本の話はあくまで参考。




(クリックで拡大)



さらに、重機関銃のスペック上でも左右振り角度が決まっている。

以下の資料を見ると、「薙射角度」として「左右各、十八度」とある。つまり、左右で36°である。
このスペックは三年式機関銃でも九二式重機関銃でも共通のようである。



(クリックで拡大)



重機関銃取扱上ノ参考
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1245764/10


上記の「薙射角度」を超えて銃身を振ろうとすれば、それはもう三脚ごと持ち上げて陣地変換するしかない。ちなみに機関銃と三脚を合わせると50kg以上の重量がある。

そうすると、左右振り角度の結論としては、鉄筋ピッチおよび三年式機関銃のスペックの両方から、36°が現実的な上限と解釈して差し支えないといえる。




《3. 射撃時の空間的考察》


次に、現実的上限値とした「振り角度36°/穴幅40cm/射界約50%」の設定で、射撃時の射角や死角などの状況をもう少し詳しく見てみる。


(1)平面方向

すると、下図のように、50%は弾が当たらない安全地帯であり、25%は射撃開始直後なら水に飛び込んで逃げられる可能性のあるエリアとなり、25%が射撃開始の早い段階で被弾するエリアとなる。



(クリックで拡大)




(2)上下方向

上記の「25%は射撃開始直後なら水に飛び込んで逃げられる可能性のあるエリア」というのは、以下の理由による。

(a) 三年式機関銃の銃身高は、37~55cmである。前項掲示のスペック表に書いてある。
(b) 床の高さが不明だが、軍事物資の保管施設を兼ねているなら民家と違って床は低いだろうと考え、高くてもせいぜい10cm程度と仮定する。
(c) すると、理論上の銃身高は47~65cm程度の範囲になる。
(d) 捕虜が着座姿勢であれば、銃身高はおおむね胸部の高さになる。

すると、特に射撃開始直後は手前の人物が弾丸を受けるので、奥に行くほど弾丸が届きにくくなる。

三年式機関銃の弾自体は三八式歩兵銃と同じであり、貫通力としては2人目まで行く場合はあるにしても、それほど多数の人体を一気に貫通することはない。



(クリックで拡大)



清水潔氏の著書にもこういう証言があり、手前の人物ほどより多く被弾している様子がわかる。

(機関銃隊員氏)
「手前の人の身体はもうメチャクチャで、そんな死体は累々だった。死体の片付けは歩兵がやった。わたしらは処理が終わるまでそこで待機してました」


「南京事件」を調査せよ /清水潔


そして、この魚雷営の岸辺は自然の浅瀬ではなく、岸壁である。重量物の魚雷を魚雷艇に積み込むために岸壁が必要なのである。小野日記にも「岸壁」という表現が登場する。

十二月十六日 晴天 南京城外
休養、市内に徴発に行く、到(至)る処支那兵日本兵の徴発せる跡のみ、午後四時山田部隊にて捕い(え)たる敵兵約七千人を銃殺す、揚子江岸壁も一時死人の山となる、実に惨たる様なりき。


目黒福治 陣中日記
山砲兵第19連隊第3大隊大隊段列・編成、伍長
南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち /小野賢二


つまり、捕虜が座らせられている場所は岸壁の上の地面なので、水に飛び込めばとりあえず重機関銃の射界からは免れることができる。

そうすると上述のように、この現場設定では射撃開始当初には25%程度しか弾が届かず、撃ち続けても50%程度にしかならない上に、届き始める前に河に逃げられてしまうかもしれないのである。

これが果たして「刑場」として適切かどうか。



(重機関銃4挺の論拠)

上記で、重機関銃の数を4挺としているが、その論拠を以下に示す。

捕虜の立場で魚雷営に連行された殷有余氏が生き延びて次のように証言している。その中で、「上元門外の道路沿いに追い立てられながら魚雷営の長江の端まで来た時、敵はすでに機関銃四挺を設置済みで」と言っている。

魚雷営の大虐殺

一九三七年十二月十五日、南京城陥落の次の日、一般人と武器を捨てた軍人九千余人は、日寇(*5)の俘虜とされたのち、海軍魚雷営まで押送され、機関銃による集中掃射を受け、殷有余ら九人が脱出したほかは全員殺害された。被害者殷有余が法廷でおこなった証言資料はつぎのように指摘している。「(農暦) 民国二十六年〔一九三七年〕十一月十一日(*6)、被害者わたくしは上元門において敵に縄で縛り上げられました。わたくしと一緒に俘虜となった官兵および民衆は約三百余人で、胡姓の瓦葺きの家に押し込められました。十三日夜になって、またもや上元門外の道路沿いに追い立てられながら魚雷営の長江の端まで来た時、敵はすでに機関銃四挺を設置済みで、拉致されてきた計約九千人以上の一群の人々が行進している最中、敵はたちまち機関銃を発射し、掃射を加えたのです。」 この時の集団大虐殺は夜間におこなわれたため、殷有余ら九人は銃声を聞いて倒れ込み、血だまりの中に横たわっていて、幸いにも銃弾に当らず、死を免れることができた。

*5:日寇とは日本侵略者の意。あえて訳さず日寇のままにした。
*6:農暦十一月は新暦十二月。


証言・南京大虐殺 戦争とはなにか /南京市文史資料研究会
https://www.amazon.co.jp/dp/4250840247/



次に、12月16日に魚雷営に捕虜を連行した際の指揮官である角田中尉(第5中隊長)は、機関銃数について『南京の氷雨』にて次のように証言している。正式に準備した重機関銃が2挺と、鹵獲した機関銃も使ったような気がするという。

夜の道をずらりと並べて江岸へと連行していったが、案に相違して、捕虜の集団が騒然となってしまった。
万一の場合を考え、二挺の重機関銃を備えており、これを発射して鎮圧する結果となった。しかし、いったん血が噴出すると、騒ぎは大きくなった。兵たちは捕虜の集団に小銃を乱射し、血しぶきと叫び声と、そして断末魔のうめき声が江岸に満ちた。修羅場といっていい状況がそこに現出した。正式に準備したのは重機関銃二挺だが、ほかにも中国軍からの戦利品である機関銃も使ったような気がする、ともつけ加えていう。

「連行のとき、捕虜の手は後ろに回して縛った。途中でどんなことがあるかわからないというのでね。で、船着き場で到着順に縛っていたのをほどき始めたところ、いきなり逃げ出したのがいる。四、五人だったが、これを兵が追いかけ、おどかしのため小銃を発砲したんだよ。これが不運にも、追いかけていた味方に命中してしまって......。これが騒動の発端さ。あとは猛り立つ捕虜の群れと、重機関銃の乱射と......。地獄図絵というしかないね、思い出したくないね。ああいう場での収拾はひどく難しく、なかなか射撃をとめられるもんじゃない。まして戦友がその場で死んだとなったら、結局は殺気だってしまってね」

銃撃時間は「長い時間ではなかった」と角田中尉はいう。月が出ていて、江岸の船着き場には無残な死体が散乱する姿を照らし出していた。五隻ほどの小船が、乗せる主を失って波の中に浮かんでいた。(P87)


南京の氷雨 虐殺の構造を追って /阿部 輝郎
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また、『南京戦史』でも「第二大隊は暴動鎮圧のため機関銃四挺をもって」とまとめている。

第六章 南京攻防戦の結末
第二節 捕虜、摘出逮捕した敗残兵、便衣兵の取り扱い
五、幕府山付近における山田支隊の捕虜収容とその後の対応
(中略)
新旧両説と、山田日記、両角手記等を総合して判断すると、歩六五の捕虜対応の模様は以下のようである。
十二月十六日夕、歩六五第二大隊は捕虜五百~二千人を中国海軍碼頭(魚雷営? 上元門上流約1キロ)付近に連行(目的は釈放のためといわれているが判然とせず)したところ、騒乱状態となり、日本軍護衛兵一名が殺されるという状態になったので、第二大隊は暴動鎮圧のため機関銃四挺をもって同日夜、暴動集団の主力を制圧した。射殺死体は同夜中に護送部隊のみで江中に投棄できる程度の数だったという。(P325)


南京戦史 /南京戦史編集委員会


補足:上記『南京戦史』に「新旧両説」とあるが、これは従来は幕府山事件とは12月17日に起きた草鞋峡での事案のみと認識していたことを旧説とし、実は前日の16日にも魚雷営で同様の事案があったことを明らかにした前述の「南京の氷雨」などの内容を新説としている。



以上が、重機関銃数を4挺とした根拠である。



(機関銃の間隔 10メートル)

次に、清水潔氏が自身の再現描写で重機関銃について「隣の銃との間隔は約 10 メートル」と書いているので、これを用いて前述の図を書き直してみる。

すると、射界が約50%であることはほぼ変化がないが、横方向のカバー率があまりにも悪すぎる。すなわち、捕虜の隊列が65m程度にもなると思われるのに、40m程度しか射界としてカバーできていない。

従って、これを「刑場」と考えるには、どこかの前提なり仮定がおかしい。



(クリックで拡大)




(捕虜三千人)

参考までに連行捕虜人数について、小野日記から一部を引用する。

〔十二月〕十六日
警戒の厳重は益々加はりそれでも〔午〕前十時に第二中隊と衛兵を交代し一安心す、しかし其れも疎の間で午食事中俄に火災起り非常なる騒ぎとなり三分の一程延焼す、午后三時大隊は最後の取るべき手段を決し、捕慮兵約三千を揚子江岸に引率し之を射殺す、戦場ならでは出来ず又見れぬ光景である。
宮本省吾 陣中日記 歩兵第65連隊第四中隊・少尉

十二月十六日
午前中隊は残兵死体整理に出発する、自分は患者として休養す。午后五時に実より塩規錠をもらー、捕慮(虜)三大隊で三千名揚子江岸にて銃殺す、午后十時に分隊員かへる。
本間正勝 戦斗日記 歩兵第65連隊第九中隊・二等兵


南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち /小野 賢二


16日に魚雷営に出動した複数の将兵が「三千」人の捕虜を連行したと書いているので、“処刑場”として現場設営するなら、この数字を基準にしたはずである。

ところが、上図のように重機関銃の数あるいは射界で言えば、全く足りていない。



(捕虜隊列より短い建物)

当時の地図に1km方眼があるので、これを用いて100m方眼を作って魚雷営の建物群に当てはめてみた。

すると、100mグリッドにちょうど2棟ずつ収まっている。つまり、この地図の記載に従えば1棟は40m程度である。

捕虜3千人が占める面積は長さ方向で65mにもなると思われるので、そうなると捕虜集団は1棟の前には収まらないことになる。

この建物のひとつに機関銃4挺を据え付けたところで、集団処刑場としてはますます機能しない。



(クリックで拡大)




(処刑場としての対案)

連行場所として、魚雷営の建物と岸壁の間の狭い空間をなぜ選んだのか、という話は脇に置くとしても、本当に「処刑場」として現場設営するなら他にも方法があったはず。


「処刑場」として考えた場合の対案を下図に示す。

(a) 処刑対象者3千人をより多く射界に捉えているのはどちらか?

(b) 処刑対象者から見て、より脱出困難なのはどちらか?



(クリックで拡大)





《4. “突撃破砕線”》


上述したように、空間配置を見ればこの重機関銃は処刑用の配置とは思えない。


魚雷営での作戦を指揮した角田中尉率いる第5中隊は120名。応援を入れてもせいぜい200名前後のはず。それ以上なら中隊長が率いる規模でない。連行捕虜数3千人なら、護送兵力の約15倍。たとえ丸腰でも何かあったら角田中隊の方が逆に撃破されかねない。

(機関銃中隊は重機関銃という質量と物量のある兵器を扱うので、小銃を抱えて捕虜移送隊列の護送や警備は担当していないはずである。よって上記の200名に含めない。また、魚雷営での配備位置は建物内だった。)


また、角田中尉の証言を見ても「万一の場合を考え、二挺の重機関銃を備えており…」との記述がある。

火事があって、かなりの数の捕虜に逃げられた。だが、このとき両角連隊長のところには「処分命令」がきていた。しかし両角連隊長はあれこれ考え、一つのアイデアを思いついた。

「火事で逃げられたといえば、いいわけがつく。だから近くの海軍船着き場から逃がしてはどうかーー。私は両角連隊長に呼ばれ、意を含められたんだよ。結局、その夜に七百人ぐらい連れ出したんだ。いや、千人はいたかなあ……。あすは南京人城式、早ければ早いほどいい、というので夜になってしまったんだよ」

逃がすなら昼でもかまわないのではないかと思われるが、時間的な背景もあって夜になったということになろうか。

「昼のうちに堂々と解放したら、せっかくのアイデアも無になるよ。江岸には友軍の目もあるし、殺せという命令を無視し、逆に解放するわけなのだからね」

夜の道をずらりと並べて江岸へと連行していったが、案に相違して、捕虜の集団が騒然となってしまった。
万一の場合を考え、二挺の重機関銃を備えており、これを発射して鎮圧する結果となった。しかし、いったん血が噴出すると、騒ぎは大きくなった。兵たちは捕虜の集団に小銃を乱射し、血しぶきと叫び声と、そして断末魔のうめき声が江岸に満ちた。修羅場といっていい状況がそこに現出した。正式に準備したのは重機関銃二挺だが、ほかにも中国軍からの戦利品である機関銃も使ったような気がする、ともつけ加えていう。(P86)


南京の氷雨 /阿部 輝郎


魚雷営の狭い空間での「万が一」とは何か。それはもちろん、捕虜の暴徒化であろう。

そう考えれば、この重機関銃の配置は、いわゆる“突撃破砕線”の設定ではないのか。



(クリックで拡大)



(1) 平静時

建物と岸壁に挟まれた幅20mの狭い空間で、角田中隊は自軍兵力の約15倍となる3千人の捕虜集団と対峙。


(2) 暴動発生時

何かをきっかけに捕虜集団が暴徒集団化して角田中隊に襲い掛かかって来たら、人数が多いだけに丸腰であっても防ぎきれない。(可能性がある)


(3) 防護射撃時

暴徒集団から角田中隊を防護するには、いわゆる“突撃破砕線”の設定が有効になる。突撃してくる敵集団を破砕するための仕掛けである。

“突撃破砕線”としての設定なら、建物の壁穴から重機関銃の銃口を岸壁に向けるのは理に適っている。暴徒集団の進行方向に対して真横からの射線でこれを阻止しつつ、重機関銃の射手らは暴徒からの攻撃を受けずに済むからである。

角田中隊に近い方に10m間隔で重機関銃を配置すれば、防護射撃時には暴徒集団の前半分は分断され、かつ角田中隊の最前面の暴徒集団は小集団化される。暴徒であっても小集団なら、角田中隊の歩兵銃で制圧できる。


このように、“突撃破砕線”としての設定であれば、重機関銃の射界で捕虜集団の全域をカバーする必要はない。

すなわち、この重機関銃の配置は、角田中隊の防御用と考えられる。

これで、「刑場」としての不自然さの理由は解明できたように思う。


補足1:
当時の日本軍には「突撃破砕線」という用語も思想もない。しかし、魚雷営の現場設営で「捕虜が暴徒化した場合にどのように自らの部隊を守るか」という解決すべき課題を考えたなら、結果的に図のように捕虜集団の前半分の位置に建物内からの射線を設定し、角田中隊との間に阻止線を引くことをを思いついた、というのは不思議でもなんでもない。今は「突撃破砕線」という用語があるので、これを用いて説明したにすぎない。

補足2:
“突撃破砕線”としての射撃であれば、これは指揮官からの命令が出たらひたすら連射し続ける形になる。射手が射撃目標に狙いをつける必要もない。「撃ち方やめ」の命令が出るまで盲目的に撃ち続ける。“突撃破砕線”を突破されたら自軍部隊に突入されてしまうからであり、危機が去るまで撃ち続けて機関銃弾による阻止線を維持することになる。



なお、角田中尉はこう証言している。「猛り立つ捕虜の群れ」という状況になったので自分達を守るために建物内に仕込んだ“突撃破砕線”すなわち最終防護射撃の命令を出したという展開に見える。

「連行のとき、捕虜の手は後ろに回して縛った。途中でどんなことがあるかわからないというのでね。で、船着き場で到着順に縛っていたのをほどき始めたころ、いきなり逃げ出したのがいる。四、五人だったが、これを兵が追いかけ、おどかしのため小銃を発砲したんだよ。これが不運にも、追いかけていた味方に命中してしまって……。これが騒動の発端さ。あとは猛り立つ捕虜の群れと、重機関銃の乱射と……。地獄図絵というしかないね、思い出したくないね。ああいう場での収拾はひどく難しく、なかなか射撃をとめられるもんじゃない。まして戦友がその場で死んだとなったら、結局は殺気だってしまってね」(P87)

南京の氷雨 /阿部 輝郎


ちなみに、“突撃破砕線”による射撃すなわち「突撃破砕射撃」を「最終防護射撃」と表記した場合の「最終」の意味するところは、これをもってしても敵の突撃を阻止できなかったらもはや敵味方入り乱れての白兵戦とならざるを得ない、という意味である。

自衛隊だと「突撃破砕射撃」、諸外国だと「最終防護射撃 Final protective fire」という。



(横に拡げた壁穴)

壁穴を通して配置した重機関銃の目的が「刑場」なのか“突撃破砕線”なのかを判定するには、上述した射界や射撃方法はもちろん、壁穴の形状も重要になる。

再び清水潔氏の著書に戻り、壁穴を横に拡げたというのは誰の証言なのかを確認する。

「やがていくつかの穴が空いた。男達はそれを水平に広げていった……」とあるが、ここは清水潔氏による再現描写の作文である。

(清水潔氏による再現描写)
揚子江岸辺にぽつんと孤立する中国海軍の建物。
昼頃、カーキー色の軍服を着た日本兵が集まっていた。やがて江岸に乾いた音が響き始める。男達の手に握られていたのは十字鍬と呼ばれるツルハシだった。尖った先を建物のコンクリート壁に打ちたてている。場所は川に面した低い位置だ。鉄筋コンクリートの壁は厚く堅牢で、作業は容易には進まなかったが、やがていくつかの穴が空いた。男達はそれを水平に広げていった……。
宿営地から運ばれてきた機関銃と弾薬箱が降ろされる。
組み立てられた機関銃は建物内に次々と運び込まれた。
隣の銃との間隔は約 10 メートル。三脚のハンドルを廻して開けられた穴の高さにセットしていく。銃口はめだたぬように、壁面から飛び出さない位置に合わせられた。細長い隙間だが銃口は左右には振れるから〝死角〟はない。
こうして「刑場」は完成した……。


「南京事件」を調査せよ /清水潔


そのすぐ前段に元兵士の証言からの文字起こしがある。

60分、 90分、120分、何本もの音声テープから様々な兵士たちの声が飛び出してきた。私は片っ端から聞き続けた。
画面中央に老人の姿が座るビデオテープ。

「建物は3階建てぐらいの海軍兵学校か何か。川沿いにあったんだけどコンクリートでできていて非常に頑丈だった。基礎工事がしっかりしてあった。その壁の厚いコンクリートにツルハシを使って穴を開けるんだけど、なかなか開かなくて大変だった……」


「南京事件」を調査せよ /清水潔


元兵士の証言からは、壁穴を開けるのは大変だったという話は登場するが、壁穴を横に拡げたという話は見当たらない。



“突撃破砕線”としての設定なら、壁穴を横に拡げる必要はない。

暴徒集団の方が押し寄せてくるという想定だから、重機関銃の射線を真横から差し込んでさえいれば良い。




《改版履歴》


2022.09.17 初版




《関連記事》


《幕府山事件》概要編
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/4997887cce0ec9d9cc7e17f92562d37c

《幕府山事件》地理編
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/9b9a860e2c39a923405efe2946d766ed

《幕府山事件》時系列編
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《幕府山事件》自衛発砲説
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《幕府山事件》魚雷営現場の外形的検証
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《幕府山事件》草鞋峡現場の外形的検証(前編)
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/e5c0c9b19ec42a60c0d038314aa4e32a

《幕府山事件》草鞋峡現場の外形的検証(後編)
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《幕府山事件》埋葬記録の絞り込み
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《幕府山事件》試算モデル
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/548a45b8a1f4e8c8c0fee0fab3b670e0

《幕府山事件》本当の意図
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/a8da8d8a68b1117afd6ea3cf649d104f



★南京大虐殺の真相(目次)
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/9e454ced16e4e4aa30c4856d91fd2531





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《幕府山事件》自衛発砲説

2022年09月17日 | 南京大虐殺
2022.09.17 初版


この記事では、幕府山事件のいわゆる「自衛発砲説」について考察する。


《要旨》


1)幕府山事件については、「自衛発砲説」vs「計画的処刑説」という対立で論じられることが多い。

2)路上で1千体以上の遺体を目撃した同盟通信記者・前田雄二氏は事件の翌日に警備司令部から、万を超える投降兵を武装解除し「江北へ逃げていくことを教唆」したところ大乱戦となり「護送中の日本部隊を襲撃」してきたので機銃掃射したという「自衛発砲説」の説明を受けている。

3)事件4日後に上海派遣軍・飯沼参謀長と上村参謀副長が日記に「自衛発砲説」を書いている。

4)遺体は事件現場にのみあったのではなく、道路などに延々と連なっていたとの複数の証言がある。

5)連行された捕虜の中にも、行進中に発砲が始まったと証言している人(殷有余氏)がいる。

6)事件現場では混乱から日本軍将兵に死傷者が出ている。

7)相当数の捕虜に逃げられたことを飯沼参謀長と上村参謀副長が日記に書いている。

8)従って、これらの情報を俯瞰して見る限り、計画的処刑の意図があったかなかったかには関係なく、現場で実際に起きたことは「自衛発砲説」を示唆しているとしか思えない。




上図については後述する。


《1. 幕府山事件の争点》


幕府山事件とは、『戦史叢書 支那事変陸軍作戦<1>』から引用すれば、次のような出来事。

第十三師団において多数の捕虜を虐殺したと伝えられているが、これは15日、山田旅団が幕府山砲台付近で1万4千余を捕虜としたが、非戦闘員を釈放し、約8千余を収容した。ところが、その夜、半数が逃亡した。警戒兵力、給養不足のため捕虜の処置に困った旅団長が、17日夜、揚子江対岸に釈放しようとして江岸に移動させたところ、捕虜の間にパニックが起こり、警戒兵を襲ってきたため、危険にさらされた日本兵はこれに射撃を加えた。これにより捕虜約1,000名が射殺され、他は逃亡し、日本軍も将校以下7名が戦死した。(P437)

戦史叢書 支那事変陸軍作戦<1> 防衛庁防衛研究所戦史部


これに対して、次の書籍の陣中日記などに基づいて異論が付けられていて、いまだに細部を巡って議論になっている。(以下、「小野日記」と表記する)

南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち :第十三師団山田支隊兵士の陣中日記 小野 賢二
https://www.amazon.co.jp/dp/4272520423/


そして、その小野日記などに立脚した番組も放送された。

NNNドキュメント:シリーズ戦後70年 南京事件 兵士たちの遺言
https://www.happyon.jp/watch/60738022

NNNドキュメント:南京事件Ⅱ
https://www.ntv.co.jp/document/backnumber/archive/post-93.html


上記番組に対応した書籍版はこちら。

「南京事件」を調査せよ (文春文庫) 清水潔
https://www.amazon.co.jp/dp/B077TP2SL8/


冒頭の『戦史叢書 支那事変陸軍作戦<1>』に示されたような説明は「自衛発砲説」と言われる。これに対して、小野日記などに基づいて、NNNドキュメントなどは「自衛発砲説は戦後の創作による嘘である」とし、幕府山事件は計画的な捕虜処刑であったと主張する。

なお、この幕府山事件をめぐっては従来は12月17日の草鞋峡での事件以外に、その前夜にも同様の事件があったのではないかという点が争点になっていたが、『南京の氷雨 /阿部輝郎』で前夜16日の事件を当日の指揮官であった角田中尉(第5中隊長)が証言しているので、その点についてはもはや疑義はないものとする。

これを踏まえて、この記事では16日と17日の両事件を俯瞰しつつ、「自衛発砲説」の信憑性を検証する。

ただし、16日の魚雷営での事件と、17日の草鞋峡の事件についての個別詳細は、分量の関係で別記事とする。




《2. 同盟通信記者・前田雄二氏の証言》


南京戦に従軍した同盟通信記者・前田雄二氏が1982年に『戦争の流れの中に : 中支から仏印へ』という著書を出している。その中の南京戦に関係する部分だけを独立させた小冊子『南京大虐殺はなかった』という著書がある。

これをよく読むと、幕府山事件直後の現場付近を目撃している。そして、その件について事件翌日に日本軍の警備司令部から「少数の日本部隊が、多数の投降部隊を護送中に逆襲を受けたので撃滅した」と説明を受けている。即ち、自衛発砲説である。

入城式

十七日午後一時半、松井石根軍司令官が、朝香宮鳩彦、柳川兵助の両師団長を従えて、馬上豊かに中山門から入城した。中山路の両側では、将兵の指揮刀、銃剣がススキの穂のように立ち並んだ。

下関からは、長谷川清艦隊司令長官が海軍部隊を従えて行進してくる。上空には陸海の航空部隊の編隊が爆音を轟かせる。やがて国民政府官舎の屋上に大日章旗が掲げられ、「君が代」が鳴り渡った。

松井軍司令官以下が国民政府楼上に姿を現すと、「万歳」の声が津波のように城内にひびいた。記者席には、約百名の報道陣が集まり、その中には西条八十、大宅壮一、山本實彦改造社長などの姿もあった。

この夜、私たちは野戦支局でふたたび祝いの宴を張ったが、この席で、深沢幹蔵が驚くべき報告をした。深沢は、夕刻、一人で下関に行ってみたが、すぐ下流に多数の死体の山があることを知らされた。行ってみると、死体の山が延々と連なっている。その中に死にきれず動くものがあると、警備の兵が射殺していたという。


死んだ部隊

私は、翌朝、二、三の僚友と車を走らせた。挹江門の死体はすべて取り除かれ、も早、地獄の門をくぐる恐ろしさはなかった。下関をすぎると、なるほど、深沢のいうとおり、道路の揚子江岸に夥しい中国兵の死体の山が連なっている。ところどころは、石油をかけて火をつけたらしく焼死体になっている。

「機銃でやったらしいな」

と祓川が言った。

「それにしても多いなあ」

千はこえていた。二千に達するかも知れない。一個部隊の死体だった。私たちは唖然とした。挹江門の死体詰めといい、この長江岸の死んだ部隊といい、どうしてこういうものがあるのか、私たちには分からなかった。

城内に戻って、警備司令部の参謀に尋ねてみた。少数の日本部隊が、多数の投降部隊を護送中に逆襲を受けたので撃滅した、というのが説明だった。(P121)


南京大虐殺はなかったー『戦争の流れの中に』からの抜粋 /前田 雄二
https://www.amazon.co.jp/dp/4793903932/


前田雄二氏の証言はここにも登場している。

(同盟通信記者・前田雄二氏の証言)

ー 一般住民の大量虐殺はない ー
しかし、占領後、日本軍による「虐殺」がなかったわけではない。私は、自分の体験をそのまま「戦争の流れの中に」に書いているが、異常な見聞の第一は、占領三日目のことである。

(中略:第一は軍艦学校で捕虜の処刑を目撃した話。第二は交通銀行の裏で捕虜の処刑を目撃した話。第三は挹江門の城門における死体の山。)

第四は、その翌日、揚子江岸に死体の山が連なっているとの情報を得て車を走らせたが、下関からさらに下った江岸におびただしい中国兵の死体が連なっていた。ざっと見て千は超えていた。帰って警備司令部に説明を求めると「少数の日本部隊へ万を超える中国軍が投降してきたので武装解除し、江北へ逃げていくことを教唆したら、われ先にと船に乗り、ジャンク船に乗り、板にまたがり、戸板を浮かべて脱出したが、とうていさばき切れるものではなかった。船に乗りすぎて沈没するもの、乗り切れない者が船べりを離さないから揚子江に落ち込む、そこで殺傷が起きるということで、パニック状態になり、双方大乱戦となった勢が護送中の日本部隊を襲撃してきたため、機銃で掃射したものである」との答えだった。(P575)


魁 郷土人物戦記 /伊勢新聞社編


この文面は本人の寄稿ではなく、取材して聞き取った話を編集者が作文しているようである。そして、編集者はどうやら前田記者のこの話を陥落日の話と受け取ったようで、この文面の続きに第33連隊の参戦者から聞き取った陥落日の下関の混乱(船をめぐる混乱)の話を挿入している。

前田記者の上記の話に戻すが、警備司令部が語った船の混乱の話は確かに陥落日の描写が混ざっているようにも見える。そこを抜いて、特徴的要素を抜き出してみる。

「少数の日本部隊へ万を超える中国軍が投降してきたので武装解除し、江北へ逃げていくことを教唆したら、(中略)双方大乱戦となった勢が護送中の日本部隊を襲撃してきたため、機銃で掃射したものである」

(a) 万を超える中国軍が投降、武装解除
(b) 江北へ逃げていくことを教唆
(c) 双方大乱戦
(d) 護送中の日本部隊を襲撃
(e) 機銃で掃射

上記の全要素に整合するのは、南京戦の中では幕府山事件しか見当たらない。

しかも、『戦争の流れの中に』にはなかった要素がある。これは、いわゆる「捕虜解放説」を示唆している。

(b) 江北へ逃げていくことを教唆


また、この2つ。(c) は現場での乱戦、(d) は移送中の隊列に生じた事案、その2つを「勢」という文字でつなげている。現場で発生した乱戦が、移送中の隊列に波及した、と読める。

(c) 双方大乱戦
(d) 護送中の日本部隊を襲撃


そして、因果関係を見れば(c)(d)に続く次の要素は「自衛発砲説」を示している。

(e) 機銃で掃射


船の混乱の描写は微妙だが、警備司令部の説明は幕府山事件の要素を網羅的かつ簡潔に説明しているように見える。


なお、この話は事件翌日に前田記者に伝わっているので、部隊幹部の「口裏合わせ」があったとしても、その影響下にない。




《3. 幕府山事件の捕虜移送ルート》


前項の前田雄二記者の記述が幕府山事件直後の現場を見た証言である、と指摘した論者はあまりいなかったように思う。そこで、まずその点について確認していく。

以下に幕府山事件の捕虜移送ルート(緑)の推測図を示す。

ちなみに、下図では右上が揚子江の下流方向になる。左下が上流。


(クリックで拡大)


深沢幹蔵氏は17日夕方に上元門〜C地点〜魚雷営付近で路上の遺体を見たと思われる。

前田記者らは18日に「車を走らせた」というから、A地点からB地点に抜けるルートを通ったものと推定でき、その際に上元門~B区間付近の路上の遺体を目撃したと思われる。前田記者らの目算で千~2千の遺体。

計画的処刑が計画通りに実行されたなら、捕虜が全員現場に到着するのを待つはずであり、路上に遺体があるわけがない。『南京の氷雨』にて将校らは《偶発的事件》と証言している。


なお、16日魚雷営、17日草鞋峡の事件現場、および収容所の位置の比定については次の記事で詳述した。





(現場周辺での遺体の発生状況)

次に周辺状況を概観すると、12月13日の陥落日には中国側の南京守備隊が瓦解して敗走し、これを日本軍が追撃したので、この日に生じた戦死者は多かった。

続いて、南京城内に入城した第7連隊が12月14~16日に難民を収容していた安全区(城内)から「軍服を脱いで市民になりすましたと思われる青壮年」を連行し、揚子江岸の下関(上図では左下枠外付近)にて処刑している。その人数は6,670人と第7連隊戦闘詳報に記録されている。

それで、前田記者らの目撃談が上記の陥落日の戦死体、あるいは第7連隊の処刑の遺体の話かというと、それは違うと思う。

第一に、陥落日の戦闘で(火事は別として)敵遺棄死体に石油をかけて焼いたなどという話を見たことがない。陥落日の大乱戦の中でそのようなことをやっているヒマがあるはずもない。
また、13日の陥落日に生じた重傷者に対して、17日の深沢氏の目撃談「死にきれず動くものがあると、警備の兵が射殺していた」というのは日数が経過し過ぎている。

第二は、第7連隊による処刑についてである。これを見物していた将兵の話を総合すると、埠頭(あるいは桟橋)に数十人ずつ並べて銃殺もしくは銃剣殺し、遺体はそのまま揚子江の水中に落とす、という方法であった。(「証言による『南京戦史』」等を参照)
その際に、千人規模の反乱や脱走、あるいはそれを追走しての陸上での銃撃があったという証言を見たことがない。

そうすると、消去法で考えても、上述の前田記者らの目撃談は幕府山事件の直後の事件現場を目撃したものと考えるしかない。

ちなみに、下関から魚雷営までの距離は(どこから測るかにもよるが)概ね2kmくらいである。現代人の我々の感覚からすると2kmを「すぐ下流」と言えるのか怪しいが、何しろ南京戦当時は日本兵も記者も上海から徒歩で南京に進んでいったである。その距離は直線距離でも300km。(記者の中には一部区間を自動車で進んだ者もいる)
その彼らの感覚からすると、2kmは「すぐ下流」になると思われる。



(自動車が通れる道路)

前田記者は、18日について「私は、翌朝、二、三の僚友と車を走らせた」と書いている。当時の地図と地図記号を照合すると、点線で示された小道などは候補から外れる。

そのようにして、捕虜収容所から、事件現場(魚雷営、草鞋峡)への捕虜移送経路と、前田記者らが車を走らせたであろう道路が重なる区間を探すと、図中のA地点からB地点に抜ける区間が有力候補となる。

前田記者の「道路の揚子江岸に夥しい中国兵の死体の山が連なっている」という文面からすると、死体の山があったのは道路上のみならず、道路よりも揚子江側の地上空間にも広がっていたようにも読み取れる。丁字路の上元門付近から特に草鞋峡方面は道路の山側に幕府山が迫っているため、もし捕虜移送中に事件が発生したとすれば、捕虜が逃げ出して距離を稼ごうとするなら平地である揚子江側に走るはず。斜面を駆け上がったのでは距離が稼げない。



参考までにヘッダ・モリソンが1944年頃に撮影した写真と、それに近い年代の地図を示す。地形的には草鞋峡付近は年代によって変化していて、この地形は南京戦当時とは異なる。

草鞋峡の現場は左下写真のほぼ真下くらいである。

写っている河が揚子江の支流であり、対岸は中洲。その左から奥にかけて中洲の北側を流れる揚子江の本流が見えている。その先の地平線が揚子江の北岸。


(クリックで拡大)


これらの写真は幕府山の上から撮影しているが、斜面が崖のようにきついのがわかる。これを下から見上げると、幕府山が渓谷のように迫ってきているのでこの付近を「草鞋峡」と称する。

それで、右下写真で崖下に見えるのが、「自動車での走行が可能らしき道路」に該当する。前田記者らが通ったと思われるルートをそのまま道なりに進めばこの写真の場所に至る。

一連の他の写真からは春の田植え時期の撮影と思われるが、南京戦は乾季の12月だったので揚子江の水位も下がり田畑や湿地帯も乾いているかあるいは凍結していて、崖下道路から揚子江岸辺方向へは比較的容易に走り抜けられる状況だったはず。




《4. 時系列の確認》


次に時刻を注意深く見ていく。


(クリックで拡大)


まず、深沢氏が17日の夕刻に下関のすぐ下流で見たのは、その前夜の16日夜に魚雷営で発生した事件の遺体と思われる。だから「死にきれず動くものがあると、警備の兵が射殺していた」のだとすると、経過時間的に辻褄が合う。

そして、17日の夜に前田記者らが「野戦支局でふたたび祝いの宴」をしていた頃、草鞋峡の現場には前夜の残りの捕虜が連行され、再び事件が起きつつあった。

その翌日18日に前田記者と祓川氏らが見たのは、16日の魚雷営で生じた遺体(=深沢氏が見たもの)に加えて、前夜17日の草鞋峡で生じた遺体も上乗せされた光景だったと思われる。

それで、城内に戻って警備司令部の参謀に尋ねたところ、まさに「自衛発砲説」的な説明を受けた、と書いている。

城内に戻って、警備司令部の参謀に尋ねてみた。少数の日本部隊が、多数の投降部隊を護送中に逆襲を受けたので撃滅した、というのが説明だった。

南京大虐殺はなかったー『戦争の流れの中に』からの抜粋 /前田 雄二



続いて、他にも「自衛発砲説」を補強するような証言などがありそうなので、以下に見ていく。

ただし、事件現場にいた当事者の日本軍将校は除く。(別記事で扱う)




《5. 殷有余氏の証言》


この書籍は、1980年代の教科書問題の頃に「日本が再び軍国主義化したら対日批判に使う」つもりで中国側で南京戦の被害者を調査したものである、と「訳者まえがき」に書いてある。

魚雷営の大虐殺

一九三七年十二月十五日、南京城陥落の次の日、一般人と武器を捨てた軍人九千余人は、日寇(*5)の俘虜とされたのち、海軍魚雷営まで押送され、機関銃による集中掃射を受け、殷有余ら九人が脱出したほかは全員殺害された。被害者殷有余が法廷でおこなった証言資料はつぎのように指摘している。「(農暦) 民国二十六年〔一九三七年〕十一月十一日(*6)、被害者わたくしは上元門において敵に縄で縛り上げられました。わたくしと一緒に俘虜となった官兵および民衆は約三百余人で、胡姓の瓦葺きの家に押し込められました。十三日夜になって、またもや上元門外の道路沿いに追い立てられながら魚雷営の長江の端まで来た時、敵はすでに機関銃四挺を設置済みで、拉致されてきた計約九千人以上の一群の人々が行進している最中、敵はたちまち機関銃を発射し、掃射を加えたのです。」 この時の集団大虐殺は夜間におこなわれたため、殷有余ら九人は銃声を聞いて倒れ込み、血だまりの中に横たわっていて、幸いにも銃弾に当らず、死を免れることができた。

*5:日寇とは日本侵略者の意。あえて訳さず日寇のままにした。
*6:農暦十一月は新暦十二月。


証言・南京大虐殺 戦争とはなにか /南京市文史資料研究会
https://www.amazon.co.jp/dp/4250840247/


まず、日付について。

連行先が魚雷営とのことで、状況的には日本側の証言にある16日魚雷営の事件と一致しているが、上記引用分の冒頭には12月15日とあり、文面の解釈にもよるが1日ずれている。

ただ、殷有余氏の証言と思われる「」内をよく読むと、農歴(旧暦)の11月11日に上元門で縛り上げられて、翌々日の13日夜に魚雷営に連行されたとある。上元門というのは、現場となった魚雷営と草鞋峡の中間にある丁字路の場所。(車道として見れば丁字路、歩行者目線なら十字路)

一方で日本側の認識としては、前項の時系列の図を見てもらえばわかるが、陥落日の1日遅れで南京(幕府山付近)に到着した山田支隊が「戦意を失った大量の敗残兵」を捕虜としたのが、12月14日である。そして、翌々日の16日夜に魚雷営に連行している。

捕虜とした翌々日の夜に魚雷営連行という経過から、殷有余氏の証言が16日の魚雷営の事件を指していると判断する。

ちなみに、この1日前ずれは他にもある。次の東京裁判での魯甦の証言(代読)は、状況的には草鞋峡での事件、すなわち12日17日のことを言っているのに、証言の文言では16日になっている。農歴からの変換則あたりにバグがある気配もあるが、確かなところはわからない。

南京地方法院検事の魯甦に依る証言

敵軍入城後、将に退却せんとする国軍および難民男女老幼合計五万七千四百十八人を幕府山附近の四五個村に閉込め飲食を断絶す。凍餓し死亡する者頗る多し。一九三七年十二月十六日の夜間に到り、生残せる者は鉄線を以って二人を一つに縛り四列に列ばしめ下関草鞋峡に追いやる。
然る後、機銃を以って悉く之を掃射し、更に又銃剣にて○刺し、最後には石油をかけて之を焼けり。焼却後の残屍は悉く揚子江中に投入せり。


A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.15)
https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/A08071276900


殷有余氏の証言に戻り、事件発生の状況について文面を見てみる。

注目したいのは、殷有余氏の「道路沿いに追い立てられながら魚雷営の長江の端まで来た時、…一群の人々が行進している最中、敵はたちまち機関銃を発射し」という文言である。

計画的処刑であるとしたら、まず対象者を一箇所に集めるはずである。現に、第7連隊による処刑の目撃談では、数十人ずつ埠頭(あるいは桟橋)に並べてから実行している。

ところが、殷有余氏の証言には「一群の人々が行進している最中」という言い回しがあり、移送捕虜の全員が現場に到着する前に事件が始まってしまった様子が読み取れる。

捕虜移送隊列の先頭は魚雷営に到着していたものの、隊列の後方はまだ行進中に事件が発生したのだとすれば、前田記者の同僚の深沢氏の目撃談とも整合する。つまり、結果として「死体の山が延々と連なっている(深沢)」である。

従って、殷有余氏の証言は自衛発砲説を証明している、とまでは言わないが、傍証にはなる。


なお、人数の「わたくしと一緒に俘虜となった官兵および民衆は約三百余人」「約九千人以上の一群の人々」とか、収容先の「胡姓の瓦葺きの家」という要素については疑問点もあるが、まだ検証しきれていないので保留にしておく。




《6. 小野日記の記述》


小野日記というのは、次の書籍に採録された日本兵の陣中日記を指す。

南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち :第十三師団山田支隊兵士の陣中日記 小野 賢二
https://www.amazon.co.jp/dp/4272520423/


この小野日記は、一般には「自衛発砲説」を否定する“証拠”と解釈されることが多いが、その中にも「自衛発砲説」の傍証となりそうな記述があるので紹介する。

十二月十八日 曇、寒
午前零時敗残兵の死体かたづけに出動の命令が出る、小行李全部が出発する、途中死屍累々として其の数を知れぬ敵兵の中を行く、吹いて来る一順の風もなまぐさく何んとなく殺気たつて居る、揚子江岸で捕慮○○○名銃殺する、昨日まで月光コウコウとして居つたのが今夜は曇り、薄明い位、霧の様な雨がチラチラ降って来た、寒い北風が切る様だ、捕慮銃殺に行つた十二中隊の戦友が流弾に腹部を貫通され死に近い断末魔のうめき声が身を切る様に聞い悲哀の情がみなぎる、午前三時帰営、就寝、朝はゆつくり起床(後略)


斎藤次郎陣中日記
南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち /小野 賢二


斎藤次郎氏のこの日記の描写は18日に日付が変わった0時から始まっているので、17日の草鞋峡の事件の直後からの動きということになる。

この中に「途中死屍累々として其の数を知れぬ敵兵の中を行く」という文面がある。これも前田記者が書いた「道路の揚子江岸に夥しい中国兵の死体の山が連なっている」、あるいは殷有余氏の証言「一群の人々が行進している最中、敵はたちまち機関銃を発射し」と付合する要素がある。

さらに、「捕慮銃殺に行つた十二中隊の戦友が流弾に腹部を貫通され」という文面も、何か予期せぬ事態になったことを示唆している。

なお、この小野日記は一般には「自衛発砲説」を否定する“証拠”と解釈されることが多い。というのはまさに上のように「捕慮銃殺に行つた十二中隊の戦友が…」などと捕虜連行の目的が処刑にあったかのように読み取れるからである。

この辺りをどう解釈するかは、別途考察するが、鍵になるのは「事件当時指揮した将校の意図を兵卒らがどこまで認識していたか、あるいは知らされていなかったか」にあると考える。




《7. 飯沼守日記と上村利道日記》


次の記事でも紹介してあるが、飯沼守日記と上村利道日記の該当箇所を抜き出しておく。
幕府山事件の当事者である山田支隊は第13師団の隷下だが、その第13師団の上級司令部が上海派遣軍であり、ここを実質的に指揮しているのが飯沼参謀長である。



◇十二月二十一日 大体晴
荻洲部隊山田支隊の捕虜一万数千は逐次銃剣を以て処分しありし処何日かに相当多数を同時に同一場所に連行せる為彼等に騒がれ遂に機関銃の射撃を為し我将校以下若干も共に射殺し且相当数に逃げられたりとの噂あり。上海に送りて労役に就かしむる為榊原参謀連絡に行きしも(昨日)遂に要領を得ずして帰りしは此不始末の為なるべし。
荻洲部隊は本日大体所命線に部隊を配置し且夫々一部を更に前方要点に出したるが如し。


飯沼守日記(上海派遣軍参謀長・陸軍少将)/南京戦史資料集 I


上村参謀副長も飯沼守日記とほぼ同じ内容を書いている。

◇十二月二十一日 晴
N大佐より聞くところによれば山田支隊俘虜の始末を誤り、大集団反抗し敵味方共々MG(=機関銃)にて撃ち払い散逸せしもの可なり有る模様。下手なことをやったものにて遺憾千万なり


上村利道日記(上海派遣軍参謀副長・歩兵大佐)/南京戦史資料集 II


計画的処刑ならば、第7連隊がやったように少人数ずつを連行して実行するのが確実であるはずなのに、山田支隊は「相当多数を同時に同一場所に連行せる為彼等に騒がれ(飯沼)」、「遂に機関銃の射撃を為し我将校以下若干も共に射殺し(飯沼)」あるいは「大集団反抗し敵味方共々MG(=機関銃)にて撃ち払い(上村)」、その結果として「相当数に逃げられたりとの噂(飯沼)」「散逸せしもの可なり有る模様(上村)」であり、その評価はまさに「下手なことをやったものにて遺憾千万なり(上村)」である。

しかも、この話は本来ならば正式に上級司令部に報告が行っても良さそうなのに、4日後に噂でしか話が伝わっていないのである。

この両名の記述からは、計画的処刑の意図があろうがなかろうが、現場で実際に起きたことは「自衛発砲説」を裏付けているように読める。




《8. 松井軍司令官付・岡田尚氏の証言》


松井軍司令官付・岡田尚氏も、幕府山事件と思われる事案について、 阿羅健一氏のインタビューにこう答えている。

ーー虐殺は見ていなくとも、話は聞いてませんか。

「捕虜の話は聞いてます。下関で捕虜を対岸にやろうとして、とにかく南京から捕虜を放そうとしたのでしょうね。その渡河の途中、混乱が起きて、射ったということは聞きました」


松井軍司令官付・岡田尚氏の証言
「南京事件」日本人48人の証言 /阿羅健一


これは「自衛発砲説」に加えて、実はその意図は捕虜解放にあったとしている。前田記者が警備司令部で聞いた話に輪郭が似ている。

ちなみに地名を正確に解釈するならば、下関の対岸は揚子江北岸の浦口になる。しかし、下関から浦口まで渡河させて捕虜を逃がそうとした事案は皆無のはず。下関と称するエリアを広げて解釈して対岸を中洲とすれば、幕府山事件の構図に一致する。

ちなみに、下関(シャーカン、下关)は街区として見れば南京城の挹江門と揚子江に挟まれた一帯を指すが、紅卍字会の埋葬記録で見ると「下関」と付いてるエリアはかなり広い。

一例を挙げておくが、これらは幕府山事件の地理的範囲である。

・下関石榴園
・下関草鞋閘空地
・下関魚雷軍営埠頭




《9. 松井石根大将の東京裁判起訴状への意見》


松井石根大将も、幕府山事件と思われる事案について書いている。

第五章 南京事件と東京裁判

二、起訴状に対する意見

検察側の所謂「虐殺事件」については予は全然知らず。もっとも予は十二月十七日の南京入城式後数日南京にありしのみにて、上海に帰りたるを以て、特に参謀を遣はして調査せしめたるも、予の二月下旬帰還迠には斯かる報告は受け居らざるなり。

予が虐殺事件なるものを初めて耳にしたるのは、終戦後米国側の放送なり、予は此事を聞きたるを以て当時の旧部下をして其の真否を調査せしめたるも、南京占領当時、又は其直後、捕虜遁走を企てし事件ありて、そのため其少数を射殺したる事ありたりとの報を得たるも、之も責任者の報告にあらざるを以て、其詳細不明にして、而かも余は之を確言する事能はず。(P192)


松井石根大将の陣中日誌 /田中正明


この後半部分の「南京占領当時、又は其直後、捕虜遁走を企てし事件ありて、そのため其少数を射殺したる事ありたりとの報を得たる」というのは幕府山事件のことではないだろうか。

というのも、上述の飯沼参謀長と上村参謀副長の日記の記述と内容的に整合しているからである。この両名も正式な報告ではなく噂として話を聞いただけだったが、松井大将も「之も責任者の報告にあらざるを以て」と書いている。

また、冒頭に挙げた「戦史叢書」の記述にも整合している。




《10. 「自衛発砲説」の妥当性》


この幕府山事件については、「自衛発砲説」vs「計画的処刑説」という対立で論じられることが多い。

特に冒頭に紹介した次の書籍(およびNNNドキュメント)では、「自衛発砲説」は1961年に第65連隊の両角連隊長が自身の回想ノートを示してそう答えたところから始まった、としている。

「南京事件」を調査せよ /清水潔
https://www.amazon.co.jp/dp/B077TP2SL8/


しかし、実際は上述したように「自衛発砲説」の起点はもっと早い。

(1) 草鞋峡での事件があった翌日の1937年12月18日に、警備司令部の参謀が前田記者に「少数の日本部隊が、多数の投降部隊を護送中に逆襲を受けたので撃滅した」と、まさに「自衛発砲説」を説明している。

(2) 事件4日後の1937年12月21日に上海派遣軍・飯沼参謀長と上村参謀副長が日記に「自衛発砲説」を書いている。

(3) 東京裁判の期間中に松井大将が幕府山事件と思われる事案について、詳細不明としながらも「自衛発砲説」に準じる話を書いている。


さらに、次のような事実もある。

(A) 冒頭で示したように、事件の遺体は魚雷営と草鞋峡の現場2箇所にのみあるのではなく、「死体の山が延々と連なっている(深沢幹蔵)」、「道路の揚子江岸に夥しい中国兵の死体の山が連なっている(前田記者)」、「途中死屍累々として其の数を知れぬ敵兵の中を行く(斎藤次郎)」という状況だった。殷有余氏も「一群の人々が行進している最中」に発砲が始まったと証言している。

(B) 16日の魚雷営の事件の際に、混乱の中で日本兵に同士討ちが生じている。また、17日の草鞋峡の事件でも、同士討ちによる死傷者が生じ、飯沼参謀長と上村参謀副長が日記にそのことを書いている。

(C) 結果的に、人数は不明ながらも捕虜に逃げられ、飯沼参謀長と上村参謀副長は「相当数に逃げられたりとの噂(飯沼)」「散逸せしもの可なり有る模様(上村)」と日記に書いている。


従って、これらの情報を俯瞰して見る限り、計画的処刑の意図があったかなかったかには関係なく、現場で実際に起きたことは「自衛発砲説」を示唆しているとしか思えない。




《11.「自衛発砲説」と「計画的処刑説」の論理》


冒頭に書いたように、幕府山事件については「自衛発砲説」vs「計画的処刑説」という対立で論じられることが多いが、実際には「自衛発砲説」の対立概念は「計画的処刑説」ではない。それは「結果」と「意図」の軸を混同している。

前項までの状況を見れば、「意図」がどうであれ、「結果」は「失敗」である。上村参謀副長の文面を借りれば「下手なことをやったものにて遺憾千万なり」である。

つまり、失敗して混乱する現場を鎮圧すべく発砲したため、事件直後の時点から「自衛発砲説」になっているのである。

この幕府山事件の結果を成功と見做している関係者など一人も見たことがない。皆、一様に触れたくない、思い出したくないという態度である。現に、上級司令部に報告すら上がっていない。



「意図」については、山田支隊が捕らえた大量の捕虜を上海派遣軍司令部/第13師団(と山田支隊)/第16師団が組織間でどのように扱おうとしていたかについて、以下の記事で考察した。



その結論を簡単に書くと、上海派遣軍司令部では捕虜を一旦16師団に引き取らせ、その後上海に送って労役に就かせるよう手配していた(=上図Plan-A)、にもかかわらず、組織間の齟齬のためか結果としてはそのようにならず、山田支隊がPlan-Bの捕虜解放(第十三師団作戦参謀・吉原矩中佐によれば、捕虜を島送りにして自活させるよう命じたという)に急遽切り替えたものの、それも失敗した。という展開に見える。


上図では「意図」について、捕虜の「解放」「処刑」「使役」の3つを挙げているが、これは幕府山事件を調べていて登場するのがこの3つだからである。

そして、「結果」における失敗パターンについては、理論上は「意図」の種類に応じて無数に考えられるが、実際に起きたことは使役の不調と、同盟通信・前田記者が警備司令部から説明されたように、あるいは飯沼参謀長らが日記に書いているように「自衛発砲説」である。

なお、小野日記には当初から意図が「処刑」にあったかのような記述が見られるが、兵卒(あるいは応援の将兵)の側には意図はなく、事前に入念に説明を受けていた形跡も見当たらない。実態は、指揮する将校は意図を伏せたまま、逐次「(捕虜を)護送せよ」「合図があったら撃て」などと兵卒らに命じ、兵卒はそのようにしただけと解釈できる。従って、指揮する将校の側の「解放」意図と、兵卒らが結果から理解した「処刑」は併立すると言える。

ちなみに、上図で「自衛発砲説」が意図の「処刑」の下にまで伸びている理由は、処刑意図であったとしても開始前に反乱や混乱が起きれば、自衛発砲に至ることは容易に考えられるからである。




《改版履歴》


2022.09.17 初版




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《幕府山事件》概要編
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《幕府山事件》草鞋峡現場の外形的検証(後編)
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《幕府山事件》埋葬記録の絞り込み
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/fb155aa7d56ce5e3e43f490f8fe5eb68

《幕府山事件》試算モデル
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/548a45b8a1f4e8c8c0fee0fab3b670e0

《幕府山事件》本当の意図
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/a8da8d8a68b1117afd6ea3cf649d104f



★南京大虐殺の真相(目次)
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/9e454ced16e4e4aa30c4856d91fd2531






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南京事件関係の証言者名等目録

2022年09月16日 | 南京大虐殺
2022.09.16 初版


検索の利便性を目的に、文献に登場する寄稿者/証言者の氏名と所属を一覧にして列挙する。

対象人物は、南京戦の時に南京にいた軍人や民間人(記者その他)などである。後世の論者は対象外。

なお、『証言による「南京戦史」』については、記事中に登場するタイトル、史料、図表名称なども併記する。()内は記事掲載ページ数を示し、人名等の記載の順序は記事中での登場順序のままである。

『「南京事件」日本人48人の証言』については目次を転載する。

その他の文献からも随時追加する(かもしれない)。






1)証言による「南京戦史」
2)「南京事件」日本人48人の証言



証言による「南京戦史」


証言による「南京戦史」(1)~(11) / 偕行社
http://www.history.gr.jp/nanking/books_shougen_kaikosha.html

(注:(11)の次に(最終回)がある。ネットで探せば見つかるかもしれない。)



《証言による「南京戦史」》

(27)
・畝本正巳(偕行)
・会員諸賢に
・一、上海より南京へ
・1、追撃作戦の統制
・2、南京攻略作戦の発動
・3、トラウトマン工作
(28)
・要図第1 南京攻略作戦経過要図(昭和12年11月下旬〜12月中旬)
(29)
・4、南京攻略態勢整う
・5、海軍及び陸軍航空部隊の活動
・6、追撃作戦の実態
(30)
・支那軍による略奪
・犬飼総一郎(歩兵第19旅団司令部通信班長)
・草場辰巳(第16師団第19旅団長、少将)
・便衣の敗残兵の出没
・奥秋国造(独立軽装甲車第二中隊上等兵)
・不如意の補給・給養
(31)
・第16師団方面 作戦経過の概要



《証言による「南京戦史」(2)》

(10)
・畝本正巳(偕行)
・二、南京の防衛体制
・消耗持久戦略への転換
・蒋介石日記
・宣伝された南京要塞とその実像
・南京の軍事的地誌
・ルイス・S・C・スミス博士(金陵大学社会学教授)
(11)
・南京市街重要施設要図
・掃蕩地区要図(12月13日16時30分)
・掃蕩区域及び衛兵配置要図(歩兵第7連隊・昭和12年12月14日)
(12)
・対支那中央政権方策(昭和12年11月2日、参謀本部第一部第二課)
・講和問題に関する所信(近衛文書、昭和13年1月初旬)
(13)
・中沢三夫(第16師団参謀長、大佐)
・重要施設及び外国権益
・12月17日・難民区収容所表
・中沢三夫氏の東京裁判における宣誓口供書
・佐々木到一(第16師団歩兵第30旅団長、少将)
・上海戦の兵站基地として
・土屋正治(歩兵第19連隊第四中隊長)
(14)
・平本渥(歩兵第7連隊第2中隊第3小隊)
・南京に後送された傷病兵
・中沢三夫(第16師団参謀長、大佐)
・藤田清(独立軽装甲車第2中隊本部曹長)
・犬飼総一郎(歩兵第19旅団司令部通信班長)



《証言による「南京戦史」(3)》

(6)
・畝本正巳(偕行)
・四、南京防衛陣地の概要
・五、南京防衛軍の兵力・配備
・南京防衛軍兵力配備要図(昭和12年12月上旬)
(7)
・六、南京防衛軍の総兵力と残置兵力
・作戦間、江北に撤退した兵力の推定
・徐志道(国民党軍 憲兵団長、中将)
・犬飼総一郎(歩兵第19旅団司令部通信班長)
・七、唐生智の作戦指導
・中沢三夫(第16師団参謀長、大佐)
・第三章 南京総攻撃開始
・一、「南京攻略要領」作成の経緯
 - 上海派遣軍司令官拝命当時の所管(松井大将)
(8)
 - 上海付近の戦闘指導方針について
 - 列国軍・民との交渉の大要
・二、「南京城攻略要領」の示達
(9)
・三、投降勧告文の投下、投降勧告拒否、総攻撃開始
・南京付近戦闘経過要図(昭和12年12月中旬)
(10)
・投降勧告文
・キーナン主席検事の冒頭陳述に対する松井大将の意見書
・第四章、外郭陣地の攻撃
・一、作戦経過の概要
・第十軍方面の状況
・二、牛首山・将軍山・雨花台方面(6D)の戦闘 城外支隊陣地(牛首山・将軍山)の突破
・南京城攻略概要図(昭和12年10〜14日)
(11)
・追撃戦末期の戦線交錯と錯誤
・外郭本防御線の攻撃(12/10〜12/12)
・城外支隊陣地攻撃概要図(12月8日〜10日)
(12)
・江上を逃走中の敵船団射撃
・82高地をめぐる攻防(歩兵第47連隊第11中隊の戦闘)
・雨花台方面の激戦(独立軽装甲車第二中隊本部曹長 藤田清)
・鎖で繋がれた若い中国兵の死体
・敗走する敵を掃射
・兵工廠に遺棄死体を見る
(13)
・堀場一雄氏著「支那事変戦争指導史」抜粋(原四郎)
・特攻振武隊(57期 井上馨)



《証言による「南京戦史」(4)》

(5)
・畝本正巳(偕行)
・三、秣陵関・方山・将軍山・雨花台方面(114D)の戦闘
・114D参謀長・磯田三郎大佐の手記
・秣陵関付近の戦闘
・第114師団編成(宇都宮)
・方山東方地区の戦闘
・秣陵関付近戦闘経過要図(12月6日)
(6)
・将軍山付近の戦闘
・攻撃方向を誤り、第六師団と交錯す
・将軍山にたいする攻撃
・南京城外、雨花台方面の戦闘
・将軍山付近戦闘経過要図(12月8日〜9日)
(7)
・南京城外の戦闘経過要図(12月10日〜14日)
・四、淳化鎮ー光華門間(9D)の戦闘
・作戦経過の概要(9D戦闘詳報による)
・歩兵第36連隊の戦闘、夜間追撃(同連隊史より抜粋)
(8)
・安川定義(歩兵第19連隊第一大隊本部附軍曹、のち中尉)
・南京城内の火災を望見す
・清水貞信(歩兵第35連隊第二中隊長、中尉)
・野村敏明(歩兵第35連隊第二大隊本部附軍曹、のち中尉)
・五、紫金山、中山門外(16D主力)の戦闘
・作戦経過の概要
(9)
・馬群ー中山門間の戦闘
・城島赳夫(戦車第一大隊第一中隊長)
・城島中隊長の回想
・中山門占領前後の状況
・森英生(歩兵第20連隊第三中隊長)
(10)
・馬群〜中山門、戦車第一中隊、戦闘経過要図(12月10日〜12月13日)
・中山門占領部隊と占領日時
(11)
・西山付近の激戦
・伊庭益夫(歩兵第20連隊第十中隊小隊長、少尉)
・9iの城外陣地帯の突破
・六車政治(歩兵第9連隊第一大隊副官)
・佐藤増次(歩兵第9連隊第一大隊本部先任書記)
・雨花台方面中国側発表の「埋葬死体数」について(紅卍会、崇善堂)
(12)
・崇善堂についての小山武夫氏の証言
・小山武夫(上海・南京に特派された従軍記者。戦後、中日新聞社役員、中日ドラゴンズ社長等を歴任)
・中沢三夫(第16師団参謀長、大佐)
・通済門方面「埋葬死体数」について
・中山門外の「埋葬死体数」について
・中沢三夫(第16師団参謀長、大佐)
(13)
「霊谷寺三千体の埋葬死体」について
・南京事件は虚構である
・谷田勇(第十軍参謀、中佐)
・第一部・南京攻略戦
(14)
・第二部・三角地帯の裁定
・第三部・「南京事件」の報道
(15)



《証言による「南京戦史」(5)》

(6)
・畝本正巳(偕行)
・六、紫金山北方地区(右側支隊)の戦闘
・佐々木到一(第16師団歩兵第30旅団長、少将)
・澄田政夫(歩兵第38連隊第十一中隊小隊長)
(7)
・児玉義雄(歩兵第38連隊副官)
・仙鶴門鎮の敵襲と投降捕虜
・沢田正久(独立攻城重砲兵第二大隊第一中隊、観測班長、少尉)(砲兵中尉、は誤り)
(8)
・捕虜一万の投降
・宮本四郎(第16師団司令部副官)
・右側支隊(紫金山北方)戦闘の考察(筆者)
・一、紛戦下の投降兵と戦場心理について
・二、投降俘虜一万?の取扱いについて
(9)
・三、「郊外虐殺五万七千」説について
・七、中国軍の崩壊と城内の恐慌状態
・中国軍の崩壊ー楔入突進による紛戦の交錯
・中国側の記録ー南京付近の戦闘
(10)
・ダーディン記者の記録
・南京悶絶、戦慄の一ヶ月(一外人の日誌)
(11)
・佐々木元勝氏の目撃記(上海派遣軍の軍事郵便長で『野戦郵便旗』の著者)
・安部康彦(歩兵第47連隊速射砲中隊長)
・河邊虎四郎少将回想録



《証言による「南京戦史」(6)》

(4)
・畝本正巳(偕行)
・第五章 南京占領戦と城内掃蕩
・一、中華門の占領と城内進入
・坂元昵(歩兵第23連隊第二大隊長)
(5)
・谷田勇(第十軍参謀、中佐)
・藤田清(独立軽装甲車第二中隊本部曹長)
・中華門の戦闘
(6)
・城内進入直後の状況
・挹江門、下関の状況
・その後
(7)
・守田省吾(歩兵第47連隊通信班長)
・安部康彦(歩兵第47連隊速射砲中隊長)
・「城内南部・西南部の惨状説」の考察
・「朝日」記者近藤氏
・「毎日」カメラマン二村氏
・安部康彦(歩兵第47連隊速射砲中隊長)
・谷田勇(第十軍参謀、中佐)
・二、上河鎮、新河鎮方面(45i)の戦闘
・上河鎮、下関付近の戦闘(12月12日〜13日)
・1、西善橋ー江東門ー下関の戦闘(45i史より)
・西善橋より江東門に向かう
(8)
・江東門ー三叉河ー下関の戦闘
・成友藤夫(歩兵第45連隊第二大隊長)
・鵜飼敏定(第6師団通信隊小隊長)
(9)
・2、上河鎮、新河鎮の不期遭遇戦(45i史より)
・高橋義彦(第6師団配属、独立山砲兵第二連隊本部附中尉)
・新河鎮の戦闘
(10)
・高橋義彦氏による回想図
・戦闘および城内の見聞記
・昭和13年2月12日・福岡日々新聞の記事
 =七十倍の敵と血戦 砲兵陣地を死守 十六人斬りの高橋鬼中尉
(11)
3、中国側発表の「虐殺、遺棄死体数」の考察
・トラウトマン工作断章
(12)
・南京防衛兵力の一考察
・犬飼総一郎(歩兵第19旅団司令部通信班長)
(13)
・中村竜平(歩兵第9連隊連隊旗手)



《証言による「南京戦史」(7)》

(5)
・畝本正巳(偕行)
・三、光華門の占領、城内進入
・光華門の占領(『敦賀聯隊史』、宮部一三著『風雲南京城』に拠る)
・野戦重砲による城壁破壊射撃
・樫木義雄(野戦重砲兵第10連隊観測係、伍長)
(6)
・西坂中(歩兵第36連隊、軍曹)
・光華門落城直後の市内の状況
・土屋正治(歩兵第19連隊第四中隊長)
・4/19i 城内掃蕩図(12月13日)
(7)
・通済門、入城後の状況
・安川定義(歩兵第19連隊第一大隊本部附軍曹、のち中尉)
・「光華門内道路の地獄絵説」の考察
・四、歩兵第六旅団(7i・35i)の城内進入と掃蕩
・元師団情報主任参謀、松沢恭平
・同 師団参謀部書記 杉野勝次
・歩兵第35連隊第二大隊長 土屋兵吾
・同 連隊副官 青木栄一
・同 中隊長 三宅輝彦
・同 第二大隊本部付軍曹 野村敏明
・歩兵第6旅団副官 吉松秀孝
・戦車第一中隊長 城島赳夫
・独立軽装甲車第七中隊上等兵 渡辺末蔵
・歩兵第7連隊戦友会 山本尭貞
・1、作戦経過の概要
・城内進入に関する旅団命令
・「南京城内の掃蕩要領」
(8)
・「掃蕩実施に関する注意事項」
・掃蕩地区要図 12月13日16時30分
・12月13日の掃蕩行動
・12月14日の掃蕩行動
(9)
・掃蕩区域及び衛兵配置要図(歩兵第7連隊)
・14日の掃蕩について戦車長村門氏、榎氏の証言
・12月15日の掃蕩行動
・12月16日、難民区内の掃蕩
・城島赳夫(戦車第一大隊第一中隊長)
(10)
・渡辺末蔵(独立軽装甲車第七中隊上等兵、のち中尉)
・旅団副官の入城前後の見聞記
・吉松秀孝(歩兵第6旅団副官)
・入城時の旅団司令部の行動
・入城後から南京出発までの所感
(11)
・4、歩兵第35連隊将兵の証言
・野村敏明(歩兵第35連隊第二大隊本部附軍曹、のち中尉)
・部隊の行動
・私の体験記
・清水貞信(歩兵第35連隊第三中隊長)
・野村敏明(歩兵第35連隊第二大隊本部附軍曹、のち中尉)
(12)
・5、歩七聯隊将兵の証言
・平本渥(歩兵第7連隊第2中隊第3小隊)
・師団司令部書記 杉野勝次
・第6旅団司令部書記 山本尭貞
・歩七戦友会世話人・村澤藤作、小村助次、清水長栄
・6、難民区における日本軍暴虐説の考察
・福田篤泰(日本大使館外交官捕)
(13)
・東京裁判「中国側証言」の真偽
・漢西門外の虐殺説は真実か
・伍長徳
・汪良
・新島淳良
・平本渥(歩兵第7連隊第2中隊第3小隊)
・梁延芳大尉の宣誓口供書への疑問
(14)
・<長期抗戦の行方>
・尾崎秀美
(15)
・<方法論の欠如>
・<尾崎と中国共産党>
・<延安への使者>
・<竜の頭>
・<妥協を排す>
・「南京事件」の数値的虚構
・犬飼総一郎(歩兵第19旅団司令部通信班長)



《証言による「南京戦史」(8)》

(5)
・畝本正巳(偕行)
・五、中山門入城と城内掃蕩
・1 作戦経過の概要
・中沢三夫(第16師団参謀長、大佐)
・【東京裁判における宣誓供述書】
・2 歩兵第二十聯隊将兵の証言
・森英生(歩兵第20連隊第三中隊長)
(6)
・栗原直行(歩兵第20連隊速射砲中隊長代理)
・伊庭益夫(歩兵第20連隊第十中隊小隊長、少尉)
・森王琢(歩兵第20連隊第三大隊長代理)
(7)
・池田早苗(歩兵第20連隊中隊長)
・3 歩兵第九聯隊将兵の証言
・六車政治(歩兵第9連隊第一大隊副官)
・赤尾純蔵(歩兵第9連隊第三中隊長)
・中村竜平(歩兵第9連隊連隊旗手)
・佐藤増次(歩兵第9連隊第一大隊本部先任書記)
・増田寅一(歩兵第9連隊第三中隊分隊長、のち少尉)
・野村美代太郎(歩兵第9連隊第二中隊第一小隊長、のち大隊副官)
・長谷川茂雄(歩兵第9連隊第三中隊指揮班軍曹)
・佐藤増次(歩兵第9連隊第一大隊本部先任書記)
・野村美代太郎(歩兵第9連隊第二中隊第一小隊長、のち大隊副官)
・長谷川茂雄(歩兵第9連隊第三中隊指揮班軍曹)
・竹内五郎(歩兵第9連隊歩兵砲隊衛生兵)
(8)
・六車政治(歩兵第9連隊第一大隊副官)
・4 師団副官、参謀の証言
・師団副官・宮本四郎氏の遺稿
・第十六師団司令部の入城
・大西一(上海派遣軍参謀)
・入城直後の状況
(9)
・占領後の警備その他
・木佐木久(第16師団参謀、少佐)
・5 「中山門内惨劇説の考察」
・城壁上の捕虜惨殺説について
・血の道路、戦車蹂躙説について
・汪良、許伝音、ベーツ博士(金陵大学教授)
・城島赳夫(戦車第一大隊第一中隊長)
・萩原誠(第114師団兵器部)
・いわゆる「雨花台の虐殺」について
・仙鶴門鎮における集成騎兵隊の戦闘
・加藤正吉(騎兵第3連隊本部書記)
(10)
・3K戦闘の概要
・第二中隊の戦闘状況
・第一中隊の戦闘状況
・MG小隊の戦闘状況
・佐々木到一(第16師団歩兵第30旅団長、少将)
・仙鶴門付近戦闘要図(昭和12・12〜12・13)
(11)
・中山重夫氏の目撃談について
・中山重夫(岩仲戦車隊段列兵)
・「中島橋」「万人坑」について
(12)
・「日本軍に関する支那軍側の観察」
・其の一 南京上海抗戦に得たる所の経験と教訓 前進述
・前言
・一 戦前における対敵準備
・二 戦争手段上より彼我の比較
・三 戦争素質上彼我の比較
・四 上海戦後敵の迅速なる前進の原因
(13)
・五 南京戦役失敗の経過
・六 今後の抗戦に注意すべき件
・其の二 敵外線作戦の成功と失敗の検討 朱啓宇述
(14)
・其の三 敵我優秀の比較 筆者不詳



《証言による「南京戦史」(9)》

(4)
・畝本正巳(偕行)
・六、太平門、和平門、下関方面の先頭と城内掃蕩
・1、佐々木支隊の下関進出後の戦闘
・『佐々木到一少将の私記抄』/佐々木到一(第16師団歩兵第30旅団長、少将)
(5)
・2、歩兵第三十三聯隊の戦闘と城内掃蕩(同聯隊史・戦闘詳報による)
・平井秋雄(歩兵第33連隊本部通信班長)
・島田勝己(歩兵第33連隊第二機関銃中隊長)
(6)
・羽田武夫(歩兵第33連隊機関銃中隊一等兵)
・12月10〜14日 彼我の損害戦果(『歩兵第三十三聯隊戦闘詳報』による)
・3、歩兵第三十八聯隊の城内掃蕩(12月14日の『戦闘詳報』)
・一、歩兵第三十旅団命令と当時の状況
(7)
・南京城掃蕩戦経過要図(12月14日)
・二、歩兵第三十八聯隊ノ掃蕩行動
・戦闘詳報第十二号附表
(8)
・歩兵第三十八聯隊命令 12月14日午後9時30分 於下関
・4、太平門、和平門、下関方面の先頭に関する証言
・中沢三夫氏の述懐(第16師団参謀長)
・藤田清(独立軽装甲車第二中隊、曹長)
・石松政敏(第二野戦高射砲兵司令部副官)
・西大門(太平門)外の死体について
・鶏鳴寺の防空要塞
(9)
・新井敏治(歩兵第38連隊第一中隊、軍曹)
・下関の漂着死体の処理
(10)
・佐々木元勝氏の野戦郵便長日記(上海派遣軍司令部郵便長)
(11)
・馬群で女俘虜殺害の話



《証言による「南京戦史」(10)》

(29)
・畝本正巳(偕行)
・七、海軍第十一戦隊の南京突入
・作戦経過の概要
・南京遡航作戦経過概要 鎮江より南京まで(48浬)
・橋本以行氏の証言
(30)
・関口鉱造(砲艦勢多・次席大尉)
・13日、下関桟頭に突入
・15日、城内偵察
(31)
・軍艦対陸兵の戦闘の所感
・住谷磐根氏の回想(第三艦隊従軍画家、安宅乗組)
・南京陥落後の捕虜殺害(雑誌『東郷』58年12月号)
(32)
・泰山弘道氏の従軍日誌(中支派遣第三艦隊司令部・海軍軍医大佐)
(33)
・八、入城式と合同慰霊祭
・松井大将の陣中日誌抄
(34)
・南京虐殺・暴行の証言に対する抗議 松井岩根
・涙の訓戒と大アジア精神(筆者)
・松井大将の対支那観と興亜運動に関する信念と実行(昭和20年12月誌)



《証言による「南京戦史」(11)》

(5)
・畝本正巳(偕行)
・九、下関方面の遺棄(埋葬)死体数について
・①下関煤炭港における大虐殺
・②魚雷営の大虐殺
・③下関・上元門の大虐殺
・④下関中山碼頭の大虐殺
・⑤下関・草鞋峡の大虐殺
・⑥燕子磯江辺の集団大虐殺

(6)
・紅卍字会による下関方面埋葬状況報告(南京地誌博物館檔案)
・⑦その他生存者の訴え
・下関地区の「紅卍字会による埋葬死体数」考察
・筆者の考察
・①埋葬死体全部が虐殺死体ではない

(7)
・②中沢三夫氏は本資料について次のように述懐している
・③日々の納棺能力は不審である
・④作業着手時期と期間に疑問がある
・⑤埋葬地点と納棺数の疑問
・第六章 投降兵・捕虜・敗残兵・便衣兵・難民の取り扱い
・一、犠牲者の分類
・投降兵、捕虜、敗残兵、便衣兵、市民の区別
・犠牲者の分類
・二、集団投降

(8)
・幕府山捕虜の取扱い
・栗原利一氏と平林貞治氏の証言
・栗原利一(歩兵第65連隊第一大隊=田山大隊、伍長)
・平林貞治(第65連隊連隊砲中隊小隊長、中尉)
・堯化門(仙鶴門鎮)付近の捕虜
・麒麟門(馬群)付近の捕虜
・榊原主計氏の述懐(上海派遣軍後方参謀)
・岡田酉次(上海派遣軍司令部参謀、経理担当、主計少佐)

(9)
・歩兵第四十五聯隊に投降した下関の捕虜
・浜崎富蔵氏の総合所見
・歩兵第三十三聯隊戦闘詳報の三千余の捕虜
・三、個別的投降兵(捕虜)
・四、便衣兵の、いわゆる“処分”
・石松政敏(第二野戦高射砲兵司令部副官)

(10)
・松川晴策(千葉鉄道第一聯隊、上等兵)
・五、便衣兵および難民の取扱い
・佐々木到一少将の『私記抄』
・第十六師団副官、宮本四郎氏の遺稿

(11)
・榊原主計氏の回想(上海派遣軍参謀)
・藤田清氏の証言(独立軽装甲車第二中隊本部曹長)
・大西一氏の特務機関長としての想い出(上海派遣軍参謀)
・(劉啓雄少将の話)

(12)
・福島佐太郎氏の証言(中華民国新民会首都指導部勤務)
・捕虜となった劉将軍の告白(=劉啓雄少将)
・五、略奪・放火・破壊・強姦
・掠奪・放火・破壊
・藤田清(独立軽装甲車第二中隊本部曹長)
・大西一(上海派遣軍参謀)
・井上直造氏の述懐(独立軽装甲車第六中隊長)

(13)
・亀田三千男氏の証言(独立軽装甲車第七中隊段列、軍曹)
・六、南京占領後-むすび
・第十六師団の申継書(第十六師団作戦記録より抜粋)
・一、警備
・二、敗残兵ノ掃蕩
・三、隠匿武器及び軍需資材ノ蒐集
・四、戦場掃除
・五、宣撫工作

(14)
・六、ソノ他
・むすび



《証言による「南京戦史」(最終回)》

(9)
・『偕行』編集部 執筆責任者 加登川幸太郎
・「証言による南京戦史」を終えて…
・どれくらいの「灰色なのか」
・『偕行』の意図

(10)
・真実の歴史の必要
・南京戦直後、下関の製粉工場でメリケン粉の運搬作業にしたがう中国軍捕虜(12年12月下旬・16D経理部・金丸吉生氏撮影)

(11)
・畝本正巳くんに感謝する
・畝本君を駆りたてたもの
・戦場の実相

(12)
・下関製粉工場にて、作業前整列する捕虜(12月下旬、おなじく16D金丸氏撮影)

(13)
・根底にあったもの
・史料の壁
・史料の数字は疑わしい

(14)
・衝撃の投書
・角良晴氏の証言(=角良晴少佐、松井石根方面軍司令官専属副官)
・捕虜の扱いについての方針昏迷す

(15)
・責任は軍上層部に在る
・華北に作戦した第一軍の参謀長依命通牒

(16)
・非行を戒める
・異例な参謀総長の訓示
・河辺虎四郎中将の回想

(17)
・中支那方面軍司令官あて参謀総長訓示◯文(◯:判読不能文字)
・軍中央部の処置
・長歎息のほかない
・結局、不法処理の被害者の数はいくらか

(18)
・中国国民に深く詫びる
・結言
・付記-「定本」編集の企図




「南京事件」日本人48人の証言


「南京事件」日本人48人の証言(小学館文庫) 阿羅健一
https://www.amazon.co.jp/dp/B07DTL7N5N/

目次

【第一章】 ジャーナリストの見た南京

一.朝日新聞
 大阪朝日新聞・山本治上海支局員の証言
 東京朝日新聞・足立和雄記者の証言
 東京朝日新聞・橋本登美三郎上海支局次長の証言
二.毎日新聞
 東京日々新聞・金沢喜雄カメラマンの証言
 東京日々新聞・佐藤振寿カメラマンの証言
 大阪毎日新聞・五島広作記者の証言
 東京日々新聞・鈴木二郎記者の証言
三.読売新聞
 報知新聞・二村次郎カメラマンの証言
 報知新聞・田口利介記者の証言
 読売新聞・樋口哲雄撮影技師の証言
 読売新聞・森博カメラマンの証言
四.同盟通信
 同盟通信・新井正義記者の証言
 同盟通信映画部・浅井達三カメラマンの証言
 同盟通信・細波孝無電技師の証言
五.その他
 新愛知新聞・南正義記者の証言
 福岡日々新聞・三苫幹之介記者の証言
 都新聞・小池秋羊記者の証言
 福島民報・箭内正五郎記者の証言


【第二章】 軍人の見た南京

一.陸軍
 第十軍参謀・吉永朴少佐の証言
 上海派遣軍特務部員・岡田酉次少佐の証言
 上海派遣軍参謀・大西一大尉の証言
 松井軍司令官付・岡田尚氏の証言
 第十軍参謀・谷田勇大佐の証言
 第十軍参謀・金子倫介大尉の証言
 企画院事務官・岡田芳政氏の証言
 参謀本部庶務課長・諌山春樹大佐の証言
 陸軍省軍務局軍事課編制班・大槻章少佐の証言
 野砲兵第二十二連隊長・三国直福大佐の証言
二.海軍
 砲艦勢多艦長・寺崎隆治少佐の証言
 砲艦比良艦長・土井申二中佐の証言
 上海海軍武官府報道担当・重村実大尉の証言
 第二連合航空隊参謀・源田実少佐の証言


【第三章】 画家・写真家の見た南京

 海軍従軍絵画通信員・住谷磐根氏の証言
 外務省情報部特派カメラマン・渡辺義雄氏の証言
 陸軍報道班員・小柳次一氏の証言


【第四章】 外交官の見た南京

 領事官補・岩井英一氏の証言
 領事官補・粕谷孝夫氏の証言




《改版履歴》


2022.09.16 初版




《関連記事》


★南京大虐殺の真相(目次)
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/9e454ced16e4e4aa30c4856d91fd2531










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★南京大虐殺の真相(目次)

2022年09月15日 | 南京大虐殺
お知らせ:gooブログ終了に伴い、この記事は「はてなブログ」に引っ越します。


★南京大虐殺の真相(目次)
https://zfphantom.hatenablog.com/entry/2022/09/15/133336




いわゆる“南京大虐殺”についての私の一連の考察は以下の通り。




日英併記の概説版


The Fake of "Nanking Massacre”
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/b9fce6b774ed768149eb86f4ddb29ad9




いわゆる“南京大虐殺”を網羅的に考察したシリーズの記事


《1》南京大虐殺の真相(要約版)
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/eaacb2fee7e20c9adc4799020776c9d1

《2》南京大虐殺・記者たちの証言
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/07b0432511c5b1ba46273ea3154fe867

《3》南京大虐殺・数字で見る南京戦
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/7af6602fc4a3e27fcbc6eaab819de7f4

《4》南京大虐殺・当時の情報の流れ
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/0553b7331aec67551f6b1efc60e38e4a

《5》南京大虐殺・ベイツレポート
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/e84799c0c77ce6c232f38057b50c20dd

《6》南京大虐殺・南京安全地帯の記録
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/6c58bead6dd46cf8074e93c309697e81

《7》南京大虐殺・疑わしい殺人事件
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/f28e1943f120e618881c630a7fb784c6

《8》南京大虐殺・敗残兵処断の適法性
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/4d727aba3078cebff41956b131e55ec7

《9》南京大虐殺・スマイス統計調査
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/4d7b92410f8faa68c2580614d5318336

《10》南京大虐殺・市民の犠牲者数
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/0896042f8ddf1f5a0843c743f6300451




“南京大虐殺”あるいは南京事件に関する個別のテーマを考察した記事


《南京事件》新河鎮での激戦
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/cce40e2948b33f0020a28b79309d6585

《南京事件》“煤炭港虐殺”事件は捏造
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/d907662ba0e7f7e25cdc214e2befdf97

《南京事件》湖山村の虐殺
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/55a25fb93a76cfa9978bec6b91da4844

《南京事件》“太平門虐殺”の真相
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/6d504c6058b4b0aba2a8bbf343eb467c

《南京事件》城内“虐殺”のケーススタディ
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/8dfb8b0916aa84dc46215f2c7b3543d5

《南京事件》グラフで見る城内掃討
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/baa643515716ad661f2f8193d02942b2

《南京事件》犠牲者数の一覧と論拠
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/d970ae18fbcd6ea40e68a22a5d24d01a

《南京事件》紅卍字会埋葬記録の検証
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/c9f414da142a782a28bc89d8db538f6b

《南京事件》崇善堂の埋葬記録はウソ
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/9c86f444aa8692d6838320f447bcf3cf

《南京事件》残虐な中国兵
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/87915078145230ed66431b34f00c5568

《南京事件》“南京大屠杀”遇难同胞纪念碑
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/231d3f251ec4a413608c7c6baa8e4e90

《南京事件》南京遡江艦隊の航路
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/8d64ed39331873ebc65aff57791f70f6

《南京事件》揚子江上の5万
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/90096bf70becf60c0b713aa40a2ee52c

《南京事件》燕子磯の5万
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/d17befeb295e05b4539da909d8e1c503




いわゆる“南京大虐殺”とされる中でも特に異様な事案「幕府山事件」


《幕府山事件》概要編
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/4997887cce0ec9d9cc7e17f92562d37c

《幕府山事件》地理編
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/9b9a860e2c39a923405efe2946d766ed

《幕府山事件》時系列編
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/b371d9b304f84e519677960e6b644f17

《幕府山事件》自衛発砲説
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/13fd6d3e71081054bca30edc4a796259

《幕府山事件》魚雷営現場の外形的検証
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/5fe165164b8b9537c71c97f707ef986b

《幕府山事件》草鞋峡現場の外形的検証(前編)
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/e5c0c9b19ec42a60c0d038314aa4e32a

《幕府山事件》草鞋峡現場の外形的検証(後編)
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/67c2655b8679239d13220dde13c349a7

《幕府山事件》埋葬記録の絞り込み
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/fb155aa7d56ce5e3e43f490f8fe5eb68

《幕府山事件》試算モデル
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/548a45b8a1f4e8c8c0fee0fab3b670e0

《幕府山事件》本当の意図
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/a8da8d8a68b1117afd6ea3cf649d104f


How to calculate the 幕府山事件.
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/e525d516fc4332665f5a3c3fc9a67d25




その他の南京関連の雑記事


南京考察・参考文献とお勧め書籍
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/19723e7a044cf22b834b3e00f3e0d1c4

南京事件関係の証言者名等目録
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「あった派」こそ歴史修正主義
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プロパガンダ画像
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/73dcbdb4b8b96435361ed3a383096c71

家永訴訟(教科書検定訴訟)の件
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/a19ad0be28f538081bad69ba0261b710

南京の図面など
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/a2c8611b2de0b7296f12f49951f890f4

“南京大虐殺”「40万人説」
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/000af904adc7b5f83c02200280069c1b




史料など


(戦闘詳報等の日本軍史料)

《付録 A0》陸軍全般
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/84e55a6d88764c890d2b8dd3553f2b94

《付録 A1》戦闘詳報等(支那派遣軍、上海派遣軍、第10軍、その他)
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/e212bcddb060abc33e529f3ef2162241

《付録 A2》戦闘詳報等(第3師団、第6師団)
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/41f901c9025f792eb32c5a5bdb6e0c5c

《付録 A3》戦闘詳報等(第9師団)
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/69aeed63d245c8daaeb010983ab225b0

《付録 A4》戦闘詳報等(第16師団、第18師団)
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/ed33c1f60787947696c2b678b107a82e

《付録 A5》戦闘詳報等(第114師団)
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/bbec1d20d0b0bbb2a7eded4a5df878e6

《付録 A6》戦闘詳報等(上海戦、病院)
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/0f91aca75921397441fabf2afb9c3f48

《付録 A7》海軍全般
(準備中)


(その他)

《英国公文書館》南京陥落まで
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/7e655da6b0243813534c0d4c7b2e95c4












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“南京大虐殺”「40万人説」

2021年06月14日 | 南京大虐殺
2023.03.21 6項に中華民国「日寇侵略之部編案紀要初稿 」追加



現在の中華人民共和国は、いわゆる“南京大虐殺”の犠牲者数として公式に「30万人」を掲げている。

南京大虐殺の犠牲者30万は歴史的事実 朱成山氏強調 / 中華人民共和国駐日本国大使館
http://archive.today/ICW5R



しかし、少なくとも過去には(あるいは今も?)もっと大きい数字も出回っている。

そこで断片情報になるが、見つけた分をここに貼っておく。



1. 南京大学の内部刊行物として「40万人」説、一部に「50万」説
2. 谷田勇大佐が「42.5万人」説に反論
3. 中国の2研究者が「30〜40万虐殺」に懐疑的と報道
4. 米教科書、南京大虐殺の犠牲者40万人と記載
5. 人民日報の英語版記事に「40万人」説
6. 中華民国「日寇侵略之部編案紀要初稿 」に「40万人以上」説




《1. 南京大学の内部刊行物として「40万人」説、一部に「50万」説》


次の文献に、1979年に南京大学の内部刊行物として「40万人」説が提起されたとある。

さらに、画像の末尾には終戦直後の時点から「50万人以上」説も出ていたことが紹介されている。





この文献は1984年に日本で出版されているので、そういった数字が日中双方で流布されていたことがわかる。

証言・南京大虐殺―戦争とはなにか / 南京市文史資料研究会
https://www.amazon.co.jp/dp/4250840247/



なお、この文献は中国側の主張や事情がよくわかるので、関心が高い人は入手したらいいと思う。
訳者まえがきにも興味深いことが書いてあるので画像で引用しておく。








《2. 谷田勇大佐が「42.5万人」説に反論》


1984年、「証言による『南京戦史』4」にて、谷田勇大佐が「42.5万人」説に反論している。「42.5万人」説がどこから登場したかまでは把握していないが、そのような説が出回っているために反論したものと見える。






《3. 中国の2研究者が「30〜40万虐殺」に懐疑的と報道》


2007年、産経新聞が「中国の2研究者が「30〜40万虐殺」に懐疑的」と報じている。

記事の文面には、「中国では現在、一般に流布されている南京事件の30万〜40万人虐殺説について…」との記述もある。報じられた2007年時点でそうだったということになる。






《4. 米教科書、南京大虐殺の犠牲者40万人と記載》


安倍首相(当時)が、米国の教科書に「南京大虐殺の犠牲者40万人」と記載されていることを知って驚いたという記事がある。
これについて中国・人民網は、「40万人と主張する研究もある」としている。


南京大虐殺の犠牲者数に関し、中国政府および学界は30万人との見解を発表しているが、40万人と主張する研究もある。専門家は、「米国の教科書のデータは『愕然とする』に値しない。むしろ、南京大虐殺を否定しようとする日本の態度こそが愕然とする」と指摘。

米教科書、南京大虐殺の犠牲者40万人と記載 安倍首相「愕然とした」 / 人民網日本語版
(2015年01月30日)
http://archive.today/4M8UN




上の記事の元になった安倍首相(当時)の国会答弁。


(稲田朋美委員)
 南京事件についても、日本軍は二カ月以上にわたって、七千人の女性を強姦して、数十万人の非武装兵士と民間人を殺害して、四十万人の中国人を殺したという、東京裁判にすら書かれていないことがアメリカの教科書で教えられているわけであります。
 これは決して過去の問題ではなくて、私は、現在進行形の、例えばアメリカにいる日本の子供たちの人権が侵害されているものだというふうに思っております。

(中略)

(稲田朋美委員)
 最後に、総理にお伺いをいたしますが、こういったいわれのなき日本に対する名誉毀損というのは、私はこれを正していくことも国益だというふうに考えておりますし、政治の責務だと思っております。訟務局が設置されることもあり、また外交を通じて日本の正しい姿を発信していく必要があると思いますが、お考えをお伺いいたします。

(安倍内閣総理大臣)
 先ほど、この資料、マグロウヒル社の教科書を拝見いたしまして、私も本当に愕然といたしました。主張すべき点をしっかりと主張してこなかった、あるいは訂正すべき点を国際社会に向かって訂正してこなかった結果、このような教科書が米国で使われているという結果になってきた。
 国際社会においては、決してつつましくしていることによって評価されることはないわけでありまして、主張すべき点はしっかりと主張していくべきであり、また、現在、日本の名誉に重大な影響を与える訴訟も増加しているのも事実であります。そうした訴訟に対応していくためにも、訟務局を新設し、戦略的にしっかりと取り組んでいきたいと思います。
 また同時に、外務省におきましても、外交におきましても、国際社会の正しい理解を得るべく、今後とも我が国の国益の実現に資するよう、戦略的かつ効果的な発信に努めていきたい、このように思います。

第189回国会 衆議院 予算委員会 第2号 平成27年1月29日 / 国会会議録
https://kokkai.ndl.go.jp/txt/118905261X00220150129




その問題の米国の教科書。


マグロウヒルの教科書「トラディションズ・アンド・エンカウンターズ(伝統と交流)」は、南京事件について「ザ・レイプ・オブ・南京」という項目を立てて、《日本軍は2カ月にわたって7千人の女性を強(ごう)姦(かん)》《日本兵の銃剣で40万人の中国人が命を失った》などと記述している。

【歴史戦】「南京大虐殺」「慰安婦」…誤った史実ひとり歩き 米高校で試験にも 日本人生徒「英語でも反論を」
https://www.sankei.com/article/20150108-FQXNLFTGUJJSDL6LKFWV56IM2Q/





《5. 人民日報の英語版記事に「40万人」説》


英語版Wikiの「南京大虐殺の死者数」に、諸説のひとつとして「40万人」が挙げられている。



そのソースとしては、人民日報の英語版の記事がリンクされている。


(翻訳)江蘇省社会科学院の研究員であるSun Zhaiwei氏が執筆した論文により、1937年に日本軍が7ヶ月間南京を占領した際、南京近郊でも10万人以上の非武装の民間人を殺害していたことが初めて明らかになった。したがって、南京大虐殺で日本兵に殺された中国人の総数は40万人に達しています。

400,000 People Killed in Nanjing Massacre: Expert / People's Daily Online
(July 26, 2000)
http://archive.today/GZ6zf





《6. 中華民国「日寇侵略之部編案紀要初稿 (合訂本)」に「40万人以上」説》


中華民国が1972年頃に編纂した「日寇侵略之部編案紀要初稿/八年血債」によれば、「南京被屠殺四十多萬人」の記述があるとのこと。




資料データ:
全宗名稱: 蔣中正總統文物
卷件開始日期: 1937/07/07
卷件結束日期: 1972/09/25
卷名: 日寇侵略之部編案紀要初稿 (合訂本)
題名摘要: 八年血債:七七事變前日寇對我之逼迫、日軍侵華戰爭中暴行(毒虐、屠害、炸擄、縱火)、我軍官兵傷亡及財產損失概況、領袖對日以德報怨、日背信忘義


日寇侵略之部編案紀要初稿 (合訂本)
https://ahonline.drnh.gov.tw/index.php?act=Display/image/272735689uACuX#4Gv8



藍金黃さん(http://archive.today/aDahj)、城谷さん(http://archive.today/m86pD)から情報をいただきました。ありがとうございます。

なお、当該文献の表紙には「中華民国六十四年六月」(=1975年6月)と記されているとのこと。(http://archive.today/xyFS0





《改版履歴》


2021.06.14 新規
2021.06.15 4項「米教科書、南京大虐殺の犠牲者40万人と記載」追加
2021.06.15 5項「人民日報の英語版記事に「40万人」説」追加
2023.03.21 6項に中華民国「日寇侵略之部編案紀要初稿 」追加




《関連記事》


★南京大虐殺の真相(目次)
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/9e454ced16e4e4aa30c4856d91fd2531





以上。




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《南京事件》燕子磯の5万

2021年03月03日 | 南京大虐殺
2022.09.03 4項に『南京の氷雨』からの引用追記


幕府山の峰の北方にある「燕子磯(燕子矶)」という場所で、武装解除した兵士3万と市民2万が揚子江の北岸に逃れようとしたところを日本の陸海軍に殺害された、というような話がある。

結論から先に書くと、これは上流の下関周辺から燕子磯に漂着した大量の遺体と、周辺地域でのエピソードの断片を組み合わせた虚構の殺戮事案である。






《論旨》


1)中国が建立した「燕子矶江滩遇难同胞纪念碑」に、「武装解除した兵士3万と市民2万が揚子江の北岸に逃れようとして燕子磯(燕子矶)に避難したところを日本船に阻まれ、日本軍に包囲されて殺害された」とある。

2)その「燕子矶江滩遇难同胞纪念碑」に対応した内容を、終戦直後の南京法廷で陳万禄氏が証言したという。

3)しかし、日本側は陸軍も海軍も燕子磯付近では特に大きな軍事行動をした形跡がない。

・燕子磯においては、幕府山砲台の占領命令を受けた歩兵第65連隊第5中隊120名が陥落翌日の14日未明に付近を駆け抜けたのみ。
・煤炭港(下関のすぐ北側)では陥落日に33連隊が江上を渡河脱出する敗走兵を銃砲撃しているが、燕子磯からは8km以上離れている。
・38連隊は下関で江上を渡河脱出する敗走兵を銃砲撃しているが、燕子磯からは約10km離れている。
・さらに上流の新河鎮付近での戦闘では45連隊が渡河脱出する敗走兵を銃砲撃しているが、砲撃水域で見ても燕子磯からは約13km離れている。
・日本海軍艦艇は陥落日には八卦洲北側の揚子江本流(当時)を通っているので、支流側である燕子磯の前を通っていない。翌14日と15日には、燕子磯前を含む支流側を砲艦「二見」などが啓開作業をしているが、戦闘行動は主に八卦洲側に対してであり、燕子磯を含む南岸側に対しては大きな軍事行動をした様子がない。
・陳万禄氏の証言に関連して、燕子磯を日本軍機が爆撃し掃射したという話が中国側文献にあるが、そのような事実はない。海軍航空隊が陥落日に爆撃したのは、烏龍山砲台に対してである。
・さらに、陳万禄氏の証言に関連して、難民を砂洲に囲い込んで機関銃で射撃という話が中国側文献にあるが、これに酷似した事案は12月17日の「幕府山事件」である。幕府山事件(草鞋峡)の現場は、燕子磯の上流約3.5km。


4)燕子磯が面している揚子江支流は連続して曲がりくねっていて、燕子磯は浮遊遺体が漂着しやすい地形になっている。

5)結論的推測としては、本件は南京陥落後に上流から燕子磯に漂着した大量の遺体の目撃談と、周辺地域での敗走兵追撃戦および幕府山事件などの断片情報を組み合わせた虚構の殺戮事案であると思われる。




《1. 燕子矶江滩遇难同胞纪念碑》


以下の No.7 燕子矶江滩遇难同胞纪念碑に「武装解除した兵士3万と市民2万が揚子江の北岸に逃れようとして燕子矶に避難したところを日本船に阻まれ、日本軍に包囲されて殺害された」とある。燕子磯という場所は幕府山の峰の北端にあたる。日付は明記されていないが、日本船に渡河を阻まれたという話になっているので、陥落日(12月13日)の出来事と思われる。

No.7 燕子矶江滩遇难同胞纪念碑

碑文:一九三七年十二月,侵华日军陷城之初,南京难民如潮,相继出逃,内有三万余解除武装之士兵暨两万多平民,避聚于燕子矶江滩,求渡北逃。讵料遭日舰封锁所阻,旋受大队日军之包围,继之以机枪横扫,悉被杀害,总数达五万余人。悲夫!其时,尸横荒滩,血染江流,罹难之众,情状之惨,乃世所罕见,追念及此,岂不痛哉?!爰立此碑,永志不忘。庶使昔之死者,藉慰九泉;后之生者,汲鉴既往,奋发图强,振兴中华,维护世界之和平。

訳文:1937年12月、日本軍の侵攻が始まると南京の難民は潮のように次々と逃げていった。武装解除された兵士3万人以上、民間人2万人以上が燕子磯の浜辺に集まり、彼らは川を渡り北へ逃げようとしたが、日本の船に阻まれてしまった。日本軍の大部隊に囲まれてしまったのだ。続いて機銃掃射が行われ、全員が殺された。犠牲者の総数は5万人を超えていた。何という悲劇か! 当時、荒れ果てた岸辺には死体が散乱し、河は血に染まり、犠牲者の数と悲惨な状況は世界でも類を見ないものでした。私はここにこの記念碑を建立します、決して忘れないように。この記念碑を建立して、過去に亡くなった人たちの記憶を慰め、未来に生きる人たちが過去から学び、自らを強くし、中国を活性化させ、世界平和を維持するために努力したいと思います。

侵华日军南京大屠杀遗址纪念碑
https://zh.wikipedia.org?curid=3591632





《2. 陳万禄氏の証言》


また、前項の「燕子矶江滩遇难同胞纪念碑」に対応した内容を、終戦直後の南京法廷で陳万禄氏が証言したという。

燕子磯江辺の集団大虐殺

日本軍が南京に入城した時、五万人余の難民と武装を解いた兵士が燕子磯の長江江辺まで逃げて来ており、そこから長江を渡って江北へ避難できればと願ったのだが、誰知ろう、この時燕子磯一帯はすでに敵軍艦の支配下にあったのである。敵機も絶え間なく江岸に向かって爆撃と掃射をおこない、難民たちは四方に逃げ散った。思いもかけず、南京城を陥落させた敵軍が雲霞の如く押し寄せ、ただちに難民を砂洲中に囲い込み、そののち数十挺の機関銃を設置し、気違いのように掃射したため、五万人余の無幸の同胞はすべて殺害された。大部分の死体が川面を漂い、血が大いなる長江を赤く染めた。証人の陳万禄は証言(=南京法廷での第6師団長・谷寿夫中将裁判)の中でこう述べている。「燕子磯の砂洲でわが無幸の一般民と武装を解いた兵士五万人以上が虐殺されました。」この惨劇の中で殺害された武装を解いた兵士は三万人以上であった。

(『証言・南京大虐殺―戦争とはなにか』 / 南京市文史資料研究会)


なお、上の文献ではどこまでが陳万禄氏の証言に依拠しているのか読み取り不能だが、この記事では上の引用文全体を「陳万禄氏の証言に関連した話」として扱う。




《3. 日本軍の記録》


前項の事案に関連しそうな日本軍の記録を見てみる。



(陸軍その1/第65連隊)

会津若松・歩兵第65連隊を扱った『郷土部隊戦記』(福島民友新聞社 / 1964年)から画像で引用するが、図中の「5中隊」と書かれている位置が燕子磯に当たる。

65連隊(正確には図中右下の3部隊を合わせて山田支隊)の本隊は平地を通ったようだが、第1大隊が烏龍山砲台を占領したのに続いて、第5中隊の120名が幕府山砲台の占領を命じられ、燕子磯付近を通過して幕府山に入った。

引用画像の文面でも伝わると思うが、戦意を喪失した敵の大部隊に何度も遭遇し、当初は捕虜にすべく武器を捨てさせ縛り上げるなどしていたものの、そのような作業をしていたら目的の幕府山砲台の占領がままならないので、途中からは武器を捨てさせるだけで置き去りにしたり、あるいはそれすら諦め、脅かしながら敵中を一気に駆け抜けるなどして幕府山砲台に突撃した話が載っている。

なお、図の日付は他の史料と照合すると1日ずれていて、全て1日前が正解と思われる。




また、同じ場面を『ふくしま 戦争と人間 1 白虎編』(福島民友新聞社 / 1982年 )で見ると、戦意を喪失した敵の大部隊に遭遇したのは第5中隊だけでなく、本隊も同様だったようである。結果的には、これが幕府山事件の1.5万とも言われる規模の捕虜となる。

若松連隊に投降兵

南京の城内には、すでに日本軍が次々になだれ込んでいた。守るべき首都を失った中国軍は、まだ日本軍の包囲網の手が届いていない幕府山方面へと、なだれを打つように敗走した。おそらく揚子江を渡って対岸へ逃げるつもりだったらしい。ところが、そこへ若松歩兵六十五連隊が進出していた。

昭和十二年十二月十四日未明、兵力二千二百余(山砲兵十九連隊など配属)の若松連隊は、その中国兵の大軍のウズのなかにはまり込んでいた。彼らはすでに統率を失い、武装はしていても戦意はないようだった。最初のうちは一人ずつ捕えてはみたが、それをしていると捕虜だけで自分の連隊の二倍から三倍もの数になってしまうに違いない。結局は「武器を捨てなさい」という形で彼ら自身に川などに小銃を捨てさせ、その大軍のなかを進む形となった。

このころ幕府山砲台の攻略に向かった角田栄一中尉(郡山市富久山町小泉)の第五中隊は、砲台の入り口にある鳩三鎮付近から、やはり思いがけない中国兵の大軍のなかにはまり込んでいた。 角田中尉は次のように回想する。

「あの日のことは忘れられない。私たちは百二十人で幕府山へ向かったが、細い月が出ており、その月明のなかにものすごい大軍の黒い影が・・・。

私はすぐ “戦闘になったら全滅だな”と感じた。どうせ死ぬのなら・・・と度胸を決め、私は道路にすわってたばこに火をつけた。近づいたら大あばれするだけだと思ったからです。クソ度胸というものでしょう。ところが、近づいてきた彼らに、機関銃を発射したとたん、みんなが手をあげて降参してしまったのです。武装はしていたものの、すでに戦意を失っていた彼らだったのです」

「武装解除をして次々に捕える。一人で五人も六人も捕えてしまい、とても手に負えなくなった。こんなに捕虜を連れて歩いては幕府山砲台の攻略どころではない。次々にぶつかる中国兵に対し、私たちは彼らに武器を石だたみの道に強く投げさせ、また川に投げさせて進むほかはなくなった。とまあ、こんな形で午前十時ごろ、ともかく幕府山の頂上にある砲台にたどり着いた。さすが砲台に残っていた中国兵は戦意があり、私たちは激しい撃ち合いのすえ、ついに砲台の監視所を占領し、友軍に占領を知らせるため日の丸の旗をたてたのです」

同じ中隊で幕府山の攻撃隊に加わっていた樋口藤吉上等兵(保原町二丁目)も次のように回想する。    

「私たちは百二十人しかいない。それなのに中国兵がうようよするなかを前進する。それは非常に心細いことでした。彼らは武装している。抵抗する気配はみせていないが、なにかあればどう暴発するかわからない。最初は捕虜として何人かずつを捕え、それらを連れて前進していたが、どんどん捕虜がふえてくるため "解放しよう″と彼らを自由にしてやった。そして新しい中国兵にぷつかると“武器だけは投げさせろ”ということで武装解除をしながら進んだ。それにしても、あれだけの中国兵の大軍のなかを進むのは、ほんとに勇気のいる幕府山進撃でした」

結局は第五中隊は「幕府山だけで約三千人の武装解除はしただろう」と関係者は回想する。

(『ふくしま 戦争と人間 1 白虎編』/福島民友新聞社)


以上からわかるように、65連隊第5中隊の120名は13日夜に本隊から別れて翌14日の未明に燕子磯付近を駆け抜けて午前10時頃には幕府山砲台に突入しているので、万単位の大殺戮をやったというような時間的余裕があるはずもない。そのような兵力もない。

なお、南京に侵攻した各陸軍部隊はそれぞれ侵攻ルートと担当区域が決まっていて、揚子江南岸に沿って烏龍山〜幕府山〜南京城へと侵攻したのは山田支隊(65連隊他)のみである。



(陸軍その2/第33連隊)

場所は異なるが煤炭港(下関のすぐ北側)で、歩兵33連隊が揚子江を渡河脱出する敗走兵を銃砲撃しているので、戦闘詳報から抜粋する。日時は陥落日(12月13日)の14時半〜15時半頃のことである。ただし、燕子磯から煤炭港までは直線で8km以上離れている。

午後二時三十分前衛の先頭下関に達し前面の敵情を搜索せし結果揚子江には無数の敗残兵舟筏其他有ゆる浮物を利用し江を覆って流下しつつあるを発見す即ち連隊は前衛および速射砲を江岸に展開し江上の敵を猛射する事二時間殲滅せし敵二千を下らざるものと判断す

南京附近戦闘詳報 歩兵第33連隊
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C11111198100

一、日時 自昭和十二年十二月十三日午前十時十分
     至同          午後四時三十分
二、戦闘前彼我形勢の概要
  1. (紫金山の話、略)
  2. (天文台の話、略)
  3. 午後三時埠頭に達するや民船を利用して逃走中の敵あるを知る
三、敵の兵力
  民船を利用して揚子江を逃走中の敵は千名を下らざるべし
四、陣地進入および射撃
  直に駈歩(かけあし)を以って江岸に追求し小型民船筏によるものはMG(=機関銃)および小銃隊に一任し大型発動船二隻(各々五六十名搭載)を発見し之を射撃し一隻を撃沈し他一隻に殲滅的打撃を與へたり 時に午後三時三十分なり

其2 下関附近揚子江岸の戦闘
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C11111198000



(クリックで拡大)



(陸軍その3/第38連隊)

38連隊も陥落日に下関に突入し、揚子江を渡河脱出する敗走兵を攻撃している。

南京城を固守せし有力なる敵兵団は光華門その他に於いて頑強に抵抗せしも各部隊の猛撃により著しく戦意を失い続々主として下関方向に退却を開始せしも前衛は先独立軽装甲車第八中隊をして迅速果敢なる追撃を行い午前(午後が正解と思われる)一時四十分頃渡江中の敵五六千徹底的大損害を与えて之を江岸および江中に殲滅せしめ次いで主力を以って午後三時頃より下関に進入し同日夕までに少なくとも五百名を掃蕩し竭せり

江蘇省南京市 十字街及興衛和平門及下關附近戦闘詳報 歩兵第38連隊
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C11111200400






(陸軍その4/第45連隊)

45連隊は南から下関に向かって北上中に、南京城から南西方向に脱出しようとしていた敗走兵約1.5万の集団と衝突した。この集団は45連隊との激しい銃撃戦の末に向きを変えて揚子江を渡河脱出しようとし、45連隊はこれを江上にて砲撃した。渡河脱出の時間帯は陥落日の正午前後。

その戦闘に参加していた独立山砲兵第二聯隊本部附・高橋義彦中尉は、「わが砲撃で戦死した者、推定7000人」と試算した。

詳細は次の記事を参照。





(陸軍その5/第7連隊)

これは陥落日の出来事ではないが、陥落後の主に12月14〜16日において城内安全区の掃討を行った第7連隊が、安全区から摘出した便衣の敗残兵を下関埠頭周辺にて処刑している。7連隊戦闘詳報によれば、「刺射殺数(敗残兵)6,670」とある。(『南京戦史資料集 I 』)



(海軍)

海軍については次の記事に考察したので、要点のみ示す。

《南京事件》南京遡江艦隊の航路
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/8d64ed39331873ebc65aff57791f70f6



(a) 揚子江を渡河脱出する敗走兵を海軍艦艇が江上で攻撃したのは、主に陥落日(12月13日)で、場所は烏龍山砲台周辺から八卦洲(草鞋洲)の北回りで下関付近までである。燕子磯が面する支流側は狭くかつ掃海作業が終わっていないので通過していない。

(b) 翌14日から砲艦「二見」と「熱海」が草鞋峡(八卦洲の南側支流)を、啓開作業している。(「熱海」の詳細行動は不明)

(c) 砲艦「二見」の航泊日誌を見ると14日には掃海作業の前に戦闘行動をしているが、攻撃目標は八卦洲(草鞋洲)に対してであり、燕子磯がある南岸側に何かをした様子がない。航泊日誌からごく一部だけ抜粋する。

(12月14日)
0805「草鞋洲の残敵掃蕩のため」陸戦隊用意(内火艇で出航し、30分程度で帰艦)
0935「草鞋洲ビーコン付近にて敵敗残兵多数を認め砲銃撃○滅す」


(d) 15日の砲艦「二見」は午後から実質1時間15分程度、草鞋峡(八卦洲の南側支流)で掃海作業をしている。あと、陸戦隊の一部を派遣し陸岸の浮舟を臨検というのはあるが、射撃も含めて戦闘行動は特に見当たらない。

なお、砲艦「二見」は定員54名の比較的小さい河川用の軍艦であり、乗艦していた陸戦隊の人員数も限られている。


熱海型砲艦(二見も同型艦)
https://ja.wikipedia.org/?curid=1065044



(e) 2項の陳万禄氏の証言に関連した話として、燕子磯において「敵機も絶え間なく江岸に向かって爆撃と掃射をおこない」とあるが、そのような事実は確認できない。海軍航空隊が陥落日に爆撃したのは、烏龍山砲台に対してである。上記の記事「南京遡江艦隊の航路」の9項を参照。



(幕府山事件)

さらに、陳万禄氏の証言に関連して、難民を砂洲に囲い込んで機関銃で射撃という話が中国側文献にあるが、これに酷似した事案は12月17日の「幕府山事件」である。幕府山事件(草鞋峡)の現場は、燕子磯の上流約3.5km。

その幕府山事件とは、『戦史叢書 支那事変陸軍作戦<1>』から引用すれば、次のような出来事。

第十三師団において多数の捕虜を虐殺したと伝えられているが、これは15日、山田旅団が幕府山砲台付近で1万4千余を捕虜としたが、非戦闘員を釈放し、約8千余を収容した。ところが、その夜、半数が逃亡した。警戒兵力、給養不足のため捕虜の処置に困った旅団長が、17日夜、揚子江対岸に釈放しようとして江岸に移動させたところ、捕虜の間にパニックが起こり、警戒兵を襲ってきたため、危険にさらされた日本兵はこれに射撃を加えた。これにより捕虜約1,000名が射殺され、他は逃亡し、日本軍も将校以下7名が戦死した。

(『戦史叢書 支那事変陸軍作戦<1>』/防衛庁防衛研究所戦史室 著)


ここではその詳細には踏み込まないが、関連記事は以下。





以上、陸海軍の記録を見ても、「燕子矶江滩遇难同胞纪念碑」にあるような、燕子磯付近で「武装解除した兵士3万と市民2万が揚子江の北岸に逃れようとしたところを…」というような規模で日本軍が何かをした形跡が見当たらない。




《4. 地形的・物理的特性》


燕子磯が面している揚子江支流は連続して曲がりくねっていて、特に燕子磯付近は浮遊遺体が漂着しやすい地形になっている。詳細は次の記事の6項にて考察した。



簡単に要点だけ示す。

・揚子江は「感潮河川」であり、潮汐の影響で水位が上下動する。南京においては、冬季には短時間の逆流もあるという。
・流体工学によれば、連続して曲がる川においては、曲がりの内側下流部分に堆積するという。
・すなわち、南京戦で揚子江に流れた大量の遺体が、潮汐の影響と地形的な理由から、燕子磯などの河岸付近を往復しながら長期間滞留していたと推測。




ちなみに、これが1944年頃にヘッダ・モリソン氏が撮影した燕子磯であろうと思われる場所の写真である。南京周辺でこのように岩場が河に突出している場所は他にほとんどない。地図と照合しても地形的に合致している。その場合、左上の一番奥に霞んで見える高台が烏龍山ということになる。

そして、この岩場の下に船が溜まっているというのは、つまりここなら下流に流されていかないという地形的理由があるからと思われる。同じ理由から、大量の浮遊遺体があればここに溜まるはず。

なお、冒頭の地図でも燕子磯の岩場のすぐ東側から点線で示される航路が対岸の八卦洲(草鞋洲)に伸びている。つまり、燕子磯はまさにこの写真のように八卦洲(草鞋洲)への渡し舟の船着場だったのである。



(撮影:ヘッダ・モリソン)



傍証として、「国民党の教導総隊第三大隊本部の勤務兵」であった唐光譜氏が陥落日に下関から脱出した際に、燕子磯から渡河しようとして失敗した話を書いているので引用する。

燕子磯の町に着くと、すでに人影は一つも見えなかった。私たちは厚い肉切り板を探しだし、二人であらん限りの力を出してやっと河辺まで運び、水中に引き入れそれに掴まって河の北まで渡ろうとした。 私たちは一生懸命やって精根つきはてたが、依然南岸に漂っていた。仕方なくまた燕子磯に戻った。

(唐光譜/私が体験した日本軍の南京大虐殺/『南京事件資料集 [2]中国関係資料編』)


燕子磯から北岸(=八卦洲)に渡河するのは、水流の関係で困難なのである。動力源がなければ唐光譜氏のように南岸に漂うしかない。

そうすると、上のヘッダ・モリソン撮影の写真にある船が帆船である理由もわかる。北への渡河時には風力などの助けがなければ、燕子磯からは渡河できないのである。

そういった状況証拠から見ても、大量の浮遊遺体が燕子磯に漂着していたと思われる。



『南京の氷雨』にも著者の阿部輝郎氏が幕府山事件の現地調査をした際に、地元の人から漂着遺体の話を聞いたとある。
観音門というのは燕子磯付近の地名である。

「やあ、こんなところへ、なにしにやってきたのかね。うっかり歩くと、このあたり骨が出るって話だがね」
いつの間にか釣をしていた人が、私についてきていたのだった。
「骨が出るって?」
「もちろん今は出ないが、昔、このあたりから人骨が出たというんだ。日本軍の、例の南京大屠殺でね、われわれの同胞がたくさん殺されたという話だ」
「ここの場所がそうですか」
「いや、ここというわけじゃなくて、このあたりの江岸全般に......ということらしいがね。波が来るところの砂洲の上には、どこにも死体がたくさん漂着したという。釣をしていると、骨がかかるんじゃないか、なんていう人もいるからね」
林とその人は名乗った。五十歳ぐらいの男の人だった。
「流した死体は、こうした入江みたいなところに流れの関係で漂着したらしいんだ。観音門― ほら、あのあたりで川が湾曲しているんで、あのあたりが多かったらしい」


南京の氷雨―虐殺の構造を追って   阿部 輝郎
https://www.amazon.co.jp/dp/4317600390/





《5. 燕子磯“5万殺戮”はパーツの寄せ集め》


結論的推測としては、本件の燕子磯“5万殺戮”事案とは、以下のような燕子磯に漂着した大量の遺体の目撃談と、周辺地域における断片情報を組み合わせた虚構の殺戮事案であると思われる。

(燕子磯における事実)
・日本軍による大規模な殺戮事案の形跡なし。
・陥落日に燕子磯に人影なし。(前項の唐光譜氏)
・陥落後に燕子磯付近に大量の遺体が漂着。

(周辺地域での断片情報)
・日本陸軍による下関付近での江上敗走兵への銃砲撃。
・日本海軍艦艇による江上敗走兵への銃砲撃。(場所は、烏龍山砲台付近から八卦洲北回りで下関付近まで)
・海軍航空隊による烏龍山砲台への爆撃。
・幕府山事件の特に草鞋峡の現場における、捕虜を河岸に囲い込んでの機関銃による射撃という事実。



ちなみに、冒頭の図での中国側敗走兵に対する江上での撃滅数その他を集計すると、幕府山事件の犠牲者数は不明瞭なので除外するとしても、合計2万を超える。

・2千(33連隊)
・6千(38連隊)
・7千(45連隊)
・7千(7連隊、安全区から摘出した敗残兵の処断)
・3千(海軍、陥落日における撃滅数を江上と地上合わせて1万と言っているが下関〜浦口間の江上に限定して3千と仮定)


したがって、燕子磯においてある時期に万を超える遺体が浮遊・漂着していたとしても何ら不思議ではない。その情景を目撃した人が、ここで何があったのかと様々な噂話をすることも容易に想像できる。

よって、この燕子磯の“5万殺戮”事案が、特定の組織によって情報戦(あるいは謀略戦)の一環として狙って作り出されたものとは考えづらい。

燕子磯の“5万殺戮”事案の初出は不明だが、ヴォートリンが1938年2月16日の日記に又聞きの話として、燕子磯で「二万人ないし三万人」が殺害されたという話を書いている。時期からすると、燕子磯での漂着遺体の目撃談から派生したものと思われる。

新型コロナウイルスパンデミックや2020アメリカ大統領選において、中国人界隈が虚実ない交ぜの未確認情報を拙速かつ大量に発信していた様子を見ると、あれが有事における彼らの情報の回し方なのかもしれないとも感じる。


しかし、1項に挙げた「燕子矶江滩遇难同胞纪念碑」の建立は1985年8月であり、その他の纪念碑の大半も80年代以降に建立されていることから、各纪念碑の碑文に記された犠牲者数の合計をもって「30万大虐殺」を固定化しようという中国共産党政権の偽計は明白である。

そして、この記事の考察からもわかるように、実態のない数字を「30万」の内訳として積み上げているのである。




《改版履歴》


2021.03.03 新規:別記事「揚子江上の5万」から分離独立
2021.03.10 4項に唐光譜氏を追記
2022.09.03 4項に『南京の氷雨』からの引用追記




《関連記事》


★南京大虐殺の真相(目次)
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/9e454ced16e4e4aa30c4856d91fd2531

《南京事件》南京遡江艦隊の航路
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/8d64ed39331873ebc65aff57791f70f6

《南京事件》揚子江上の5万
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/90096bf70becf60c0b713aa40a2ee52c




以上。




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《幕府山事件》時系列編

2021年02月26日 | 南京大虐殺
2023.07.22 《12月13日》の項に「邵家塘」の場所を追記


第13師団隷下の山田支隊が捕らえた多くの捕虜が結果的に殺害されてしまった「幕府山事件」は、いわゆる“南京大虐殺”の中でも別に固有名詞が付くほどに特異な事案である。いまだに細部が不明瞭なため、論争になることも多い。

この記事では事件現場には立ち入らず、捕らえた捕虜を日本軍の中でどのように取り扱おうとしていたのかを中心に時系列を追って見ていくこととする。





上図は、第13師団とその隷下の山田支隊の進軍路である。この動きを念頭に置いて事態の推移を見ていくと、今まで見えていなかったものが見えてくる。

上図は次の戦闘詳報や『郷土部隊戦記(福島民友新聞社)』などを元に作成した。

第13師団作戦経過一覧図戦闘詳報
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C04123333900


なお、山田支隊とは旅団長・山田栴二少将を指揮官とし、隷下に歩兵第65聯隊 (会津若松、聯隊長・両角業作大佐)、山砲兵第19聯隊第3大隊 (III長・行方正一少佐)および騎兵第17大隊(大隊長・小野良二中佐)を含む。当初編成の山田旅団とは異なり、13師団本隊から別行動をする際に臨時編成された部隊である。





《要点》


1)虐殺命令を出したのは長勇参謀だと一部で言われているが、そうではない。

2)上海派遣軍司令部では、捕虜を一旦16師団に引き取らせ、その後上海に送って労役に就かせるよう手配していた。

3)16師団は、入城式について城内掃討が間に合わず無理だから20日以後にしてくれと言っているのに、中支那方面軍から17日の決行をゴリ押しされてストレスがかかっている。

4)山田支隊は19日に下関から渡河して13師団本隊に合流する予定なのに、16師団から捕虜受け取りを拒絶され、最後の手段として夜間にこっそり捕虜を解放することを画策し、混乱が生じて失敗。




《戦闘序列》


南京戦時の戦闘序列から、幕府山事件に関係する部隊を抜粋する。

南京攻略戦の戦闘序列

(中支那方面軍戦闘序列)
中支那方面軍 (司令官・松井石根大将、参謀長・塚田攻少将、参謀副長・武藤章大佐)
 上海派遣軍 (司令官・朝香宮鳩彦王中将)
 第10軍 (司令官・柳川平助中将)

(上海派遣軍戦闘序列)
上海派遣軍 (司令官・朝香宮鳩彦王中将、参謀長・飯沼守少将、参謀副長・上村利道大佐)
 第13師団 (仙台第13師団の一部、山田支隊)
  歩兵第103旅団 (旅団長・山田栴二少将)
   歩兵第65聯隊 (会津若松、聯隊長・両角業作大佐)
   山砲兵第19聯隊 (聯隊長横尾闊中佐)第3大隊 (III長・行方正一少佐)※南京戦にはIIIのみ参加。
 第16師団 (京都、師団長・中将中島今朝吾、参謀長・中沢三夫大佐)
  歩兵第19旅団 (旅団長・草場辰巳少将)
   歩兵第9聯隊 (京都、聯隊長・片桐護郎大佐)
   歩兵第20聯隊 (福知山、聯隊長・大野宣明大佐)
  歩兵第30旅団 (旅団長・佐々木到一少将)
   歩兵第33聯隊 (久居、聯隊長・野田謙吾大佐)
   歩兵第38聯隊 (奈良、聯隊長・助川静二大佐)

(第10軍戦闘序列)(省略)

南京攻略戦の戦闘序列
https://ja.wikipedia.org/?curid=3309700





《関係者の日記から》


以下、日付を追って関係者の日記などを見ていくが、飯沼参謀長日記からは関係箇所だけ抜粋し、山田旅団長日記は短文なので毎日全文引用する。なお、原文がカタカナである部分はひらがなに置換している。

ただし、山田支隊隷下の65連隊・両角連隊長の「両角メモ」は、戦後に整形して書かれたものなので、この記事では使用しない。




《1937年12月9日》


12月9日、既に南京城を包囲しつつあった日本軍は『投降勧告文』を航空機から城内に散布し、翌10日の正午に回答をするよう呼びかけた。


上海派遣軍司令部は、第13師団(13D)を鎮江で揚子江北岸に渡河させようとしているが、船舶の手配を巡って混乱が生じている。

◇十二月九日 快晴
芳村参謀より13Dを先に鎮江にて渡河せしむとの電報来る。変更せしむる要を認めず認可せり。
13Dに交代すべき11Dの民船数百隻は、13Dの受領遅しとして11Dは之を全部解散せしめ爾後の計画に非常なる齟齬を来しあり非常〔識〕も甚し幕僚勤む上大に注意を要す。
芳村参謀13Dの青津参謀と同伴帰部江陰渡河及靖江攻略の概要を聞き13D主力の爾後の渡江作戦等の打合を為す。青津参謀は其予想渡河点(儀徴対岸付近)の偵察及準備の為先行せるものなり。

(飯沼守日記(上海派遣軍参謀長・陸軍少将)/『南京戦史資料集 I 』)



山田旅団長は、鎮江に向かう途上にいる。

◇十二月九日 晴
連日の行軍故行程をつめ、六里強ニシテ碑城鎮に宿営す、田舎ながら大村にして風呂に入る

(山田栴二日記(歩兵第百三旅団長・陸軍少将)/『南京戦史資料集 II 』)





《12月10日》


この日の正午、南京城内からは前日の「投降勧告」に対して何の回答もなかったため、日本軍は南京城への総攻撃を開始した。


山田旅団長、鎮江に到着。南京まで約60km。

◇十二月十日 晴
連日の行軍にて隊の疲労大なり、足傷患者も少からず
師団命令を昼頃丁度来合わせたる伊藤高級副官に聞き、鎮江迄頑張りて泊す、初めて電灯を見る
鎮江は遣唐使節阿倍仲麻呂僧空海の渡来せし由緒の地、金山寺に何んとかの大寺もあり、さすが大都会にして仙台などは足許にも寄れず

(山田栴二日記)





《12月11日》


この日、13師団の一部から山田支隊を編成し、烏龍山および幕府山砲台を攻略して、16師団隷下の30旅団(33連隊+38連隊)の南京進出を側面支援しろという命令が出たという。

◇十二月十一日
午前九・三〇頃殿下に従い軍司令部出発、湯水鎮西方高地に到り戦況を視、第十六師団長の報告を聞き午後三・三〇過帰部。
尚13Dの歩一聯 山砲一大を以て南京東北方の砲台二を攻略し兼て16D佐々木旅団の進出を容易ならしむべきを命ぜらる。

(飯沼守日記)



山田旅団長にはまだその命令は伝わらず、鎮江の近郊で待機しつつ寒村で食料に困窮している。

◇十二月十一日 晴
沼田旅団来る故、宿営地を移動せよとて、午前一〇・〇〇過ぎより西方三里の高資鎮に移動す
山と江とに挾まれたる今までに見ざる僻村寒村、おまけに支那兵に荒され米なく、食に困りて悲鳴を挙ぐ

(山田栴二日記)





《12月12日》


この日の夕方、南京城では守備兵が潰走し始め、戦線が瓦解した。


上海派遣軍司令部は湯水鎮に前進した。

◇十二月十二日 快晴
朝九・三〇出発湯水鎮軍司令部に移る。

(飯沼守日記)



13師団の一員として鎮江付近で渡河待機中だった山田旅団長に、山田支隊を編成し烏龍山砲台と幕府山砲台を占領せよとの命令が伝わった。この日の夕刻、山田支隊は揚子江の南岸を南京に向けて出発した。

◇十二月十二日 晴
総出にて物資徴発なり、然るに午後一・〇〇頃突然歩兵第65聯隊と山砲兵第III大隊、騎兵第17大隊を連れて南京攻撃に参加せよとの命令、誠に有難きことながら突然にして行李は鎮江に派遣しあり、人は徴発に出であり、態勢甚だ面白からず
併し午後五・〇〇出発、夜行軍をなし三里半余の四蜀街に泊す、随分ひどき家にて南京虫騒ぎあり

(山田栴二日記)





《12月13日》


この日が南京陥落日となり、日本軍の一部は城内に進入した。南京城周辺では潰走する守備兵に日本軍が追撃をかけ、中国側に最大の戦死者数が出る結果となった。


南京に向かっている山田支隊を除く13師団は、海軍の協力を得て鎮江にて翌日から渡河することになった。

◇十二月十三日 快晴
敵の大部は退却し16Dは中山門を入り9Dは光華門より戦果拡張中。敗残兵一中隊許り33iと佐々木支援の中間を東方に退却せりと。
天谷支隊の先頭部隊は本朝上陸に成功せり。13Dも海軍の協力に依り明日より渡江し得る旨芳村参謀より電報ありしを以て南京に向える支隊を除き鎮江にて明日より渡江を命ぜらる。

(飯沼守日記)



山田支隊は第一大隊に烏龍山砲台の占領を命じ、午後にこれを占領した。

◇十二月十三日 晴
例に依り到る所に陣地ある地帯を過ぎ、晴暘鎮を経て前進、霞棲街に泊する心算なりし所焼かれて適当の家なく更に若干前進中、先遣せし田山大隊午後一時烏竜山砲台を(騎兵第17大隊は午後三・〇〇)占領せり、南京は各師団掃蕩中との報あり、直に距離を伸して邵家塘に泊す

(山田栴二日記)


ちなみに、山田旅団長がこの日に宿泊したという「邵家塘」という場所はここ(下図)であると思われる。


(クリックで拡大)





《12月14日》


南京城を占領した日本軍は、この日から城内掃討を開始した。


飯沼日記で見ると、前日の山田支隊の戦果が一日遅れで伝わった。

◇十二月十四日 快晴
13Dの山田支隊は途中約千の敗残兵を掃蕩し四・三〇烏竜山砲台占領、高射砲及重砲十余門鹵獲せり。

(飯沼守日記)



この日の未明、山田支隊は第5中隊に幕府山砲台の占領を命じた。その第5中隊および山田支隊本隊は戦意を失った敵の大部隊の中を進むことになった。これが幕府山事件の捕虜となる。

◇十二月十四日 晴
他師団に砲台をとらるるを恐れ午前四時半出発、幕府山砲台に向ふ、明けて砲台の附近に到れば投降兵莫大にして仕末に困る
幕府山は先遣隊に依り午前八時占領するを得たり、近郊の文化住宅、村落等皆敵の為に焼かれたり
捕虜の仕末に困り、恰も発見せし上元門外の学校に収容せし所、一四、七七七名を得たり、 斯く多くては殺すも生かすも困ったものなり、上元門外の三軒屋に泊す

(山田栴二日記)



参考までに、この14日に南京城ではどうなっていたかを38連隊戦闘詳報から抜粋する。この日から3日間、城内掃討が本格化した。17日の入城式に間に合わせるためである。

なお、この第30旅団(33連隊+38連隊)は第16師団の隷下であり、11日の飯沼参謀長日記に登場する山田旅団長への命令「〜16D佐々木旅団の進出を容易ならしむべき」の相手である。

歩兵第三十旅団命令 十二月十四日午前四時五十分 於中央門外
一、敵は全面的に敗北せるも尚抵抗の意思を有するもの散在す
二、旅団は本十四日南京北部城内及び城外を徹底的に掃蕩せんとす
三、歩兵第三十三聯隊は金川門(之を含む)以西の城門を守備し下関及び北極閣を東西に連ぬる線及び城内中央より獅子山に通ず道路(含む)城内三角地帯を掃蕩し支那兵を撃滅すべし
四、歩兵第三十八聯隊(第二大隊欠)は金川門(之を含まず)以東の城内及び和平門中央大学農林を連ぬる線以西地区を掃蕩し支那兵を撃滅すべし
五、歩兵第三十八聯隊第二大隊は玄武湖及び紫金山の中間にある山岳地帯(之を含む以北の地区)を掃蕩し支那兵を撃滅すべし
六、各隊は師団の指示があるまで俘虜を受付くるを許さず
七、
八、
九、
一〇、
一一、余は中央門外にあり

支隊長 佐々木少将

南京城内戦闘詳報 第12号 昭和12年12月14日 歩兵第38連隊
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C11111938000





《12月15日》


この日の飯沼参謀長日記にいくつか重要な情報が書かれている。

1)中支那方面軍参謀長(=塚田攻少将)が湯水鎮に来て「入城式を17日に実施する」と主張し、上海派遣軍としては「早くても18日」と意見が衝突してる。
2)山田支隊の俘虜が1万5〜6千あり、「とりあえず16師団に接収させる」と書いている。
3)松井・中支那方面軍司令官が来て、「入城式は17日で決定」と伝えられる。
4)山田支隊は19日に南京から渡河予定であることを認識している。
5)長参謀(飯沼参謀長の部下、悪名高い長勇)が16師団と連絡した結果、城内掃討の関係上、入城式は20日以後にして欲しいと申し出があり、改めて中支那方面軍に事情説明させることにした。それで、また中支那方面軍参謀長(=塚田攻少将)に話したが聞く耳持たず。


◇十二月十五日 霧深し 快晴

(中略)方面軍参謀長来部の話し
以上の件及方面軍が入城式を十七日と主張しあり 軍としては早くも十八日を希望の旨申上く。
殿下は入城式に就ては無理をせぬこと、外国人に対し入城式の日時を知らせざること、防空を十分にすべきことを注意せらる。

山田支隊の俘虜東部上元門附近に一万五、六千あり 尚増加の見込と、依て取り敢へず16Dに接収せしむ。

四・〇〇頃松井方面軍司令官湯水鎮着、殿下に代り報告に行く。此時入城式は十七日に決定された旨聞く。

13Dの状況、本日二・〇〇頃先頭の58i主力は揚州西方を前進中、第二梯団は揚州に入らんとするところ、第三梯団は渡江を終り前進中、師団司令部は明日渡江、(電話本日開通)
六合占領部隊58iの一大 山砲一中基幹は明日小発二十にて出発明日午後六・三〇「クリーク」入口に到着「クリーク」を六合に向う予定。山田旅団(三大基幹)は十九日南京にて渡江。

長参謀16Dと連絡した結果同師団にては掃蕩の関係上入城式は二十日以後にせられたき申出ありと重ねて方面軍に事情を説明せしむ。(3D、兵キ、軍イ、獣イ部長天王寺附近にて約五百の敗残兵に襲われ安否不明とか。草場少将紫金山に登りたる時「トチカ」内より残敵出て来りたるとかの事例あり)。尚一〇・三〇過方面軍参謀長を訪ひ話したるも頑として変更の意思なし。

(飯沼守日記)



この記事として最重要なのは、上述の2項。

原文はこうなっている。

「〜依テ取リ敢ヘス16Dニ接収セシム。」


この言い回しについて、手元の辞書を引いてみると次のようになっている。

せっしゅう 【接収】
(名)スル
国家権力などが,強制的に国民の所有物を取り上げること。「建物を―される」

しむ
(助動)活用しめ • しめ • しむ • しむる • しむれ • しめよ • (しめ)
動詞および一部の助動詞の未然形に付く。
① 使役,すなわち,他にある動作をさせる意を表す。しめる。せる。させる。

(スーパー大辞林)


辞書の説明を用いて意訳するとこうなる。

「〜よって、とりあえず、16師団に強制的に取り上げさせる。」


なにを取り上げさせるのか。もちろん山田支隊が抱えている捕虜を、である。あるいは、捕虜がいる収容所丸ごとと捉えても良い。

接収という単語からは、建物=収容所を指しているとした方が文面の通りは良い。しかも、山田支隊は19日に渡河して南京を去る予定になっているから、収容所その他もどうせ手放す事になる。

ただ、そこは接収する16師団と、引き渡す山田支隊が相談して決めれば良いことで、上級司令部の飯沼参謀長にとっては細かい引渡し方法はどうでも良いことである。


飯沼参謀長はこの言い回しを多用している。例えば冒頭の12月9日。

芳村参謀より13Dを先に鎮江にて渡河せしむとの電報来る。変更せしむる要を認めず認可せり。

現代語訳すれば、「芳村参謀から13師団を先に鎮江で渡河させると電報が来た。変更させる必要がなかったので認可した。」となる。





なお、飯沼参謀長の上官は上海派遣軍司令官の朝香宮鳩彦王中将である。南京戦の関係者で「宮様」として出てくるのはこの方である。

ただ、この宮様、皇族というだけでなく実は着任間もない。

十二月四日(晴)
朝香宮殿下派遣軍司令官親補(欄外)
此夜東京より電報あり、予の派遣軍司令官兼任を解き、新に朝香宮殿下同司令官に親補せらるるを知る。寔(まこと)に恐懼感激の至りなり。依て直に之を全軍に通報すると共に、殿下の御在任中警備並に御居住の安全に付、出来得る限りの措置を講ずべく夫々に研究を命ず。

(『松井石根大将の陣中日誌」/ 田中正明)

そして実際の着任は12月6日だったと松井大将は日記に書いている。


従って、この時期の上海派遣軍を実質的に取り仕切っていたのは飯沼参謀長だったと思われる。

その飯沼参謀長が、山田支隊が抱えている捕虜を16師団に引き取らせる、と日記に書いていたことが重要である。




この日、山田旅団長はこう書いている。簡素な短文ながら、この記述も重要な鍵になる。

◇十二月十五日 晴
捕虜の仕末其他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す
皆殺せとのことなり
各隊食糧なく困却す

(山田栴二日記)


この時、上海派遣軍司令部はまだ湯水鎮にいる。上の飯沼参謀長日記も参照。松井方面軍司令官も湯水鎮に来たところ。

湯水鎮は、南京城の中山門から東に約22km。冒頭の地図のさらに東側の枠外。この付近。


ということは、本間騎兵少尉の訪問先は上海派遣軍司令部ではない。飯沼参謀長の「〜依て取り敢へず16Dに接収せしむ。」と併せて考えれば、訪問相手は南京にいる16師団と思われる。

中島今朝吾日記(16師団長、陸軍中将)を見ると(南京戦史資料集 I )、12月15日前後は16師団司令部は南京城内(中央飯店)にいる。


つまり、飯沼参謀長が捕虜を「16師団に引き取らせる」というから、早速その16師団に引渡し手順の相談に行ったのに、受け取りを拒絶された、という展開に見える。

「皆殺せとのことなり」という言い回しも、指揮命令系統に沿ったものとは違う種類の発言だったことを示唆している。山田支隊は13師団だから、16師団の命令を受ける立場にはない。




さらに、この15日には憲兵将校が来たという。

鈴木明氏は、山田支隊に「捕虜を始末せよ」と命じたのは長勇ではないか、との自身の推測を書いた続きにこう書いている。

この日、軍司令部の方から「捕虜がどうなっているか?」と憲兵将校が見廻りに来た。山田少将(当時)は自分で案内して、捕虜の大群を見せた。「君、これが殺せるか」と山田少将はいった。憲兵将校はしばらく考えて「私も神に仕える身です。命令はお伝えできません」と帰っていった。

(『「南京大虐殺」のまぼろし』 / 鈴木 明)


軍司令部という表現からは、上海派遣軍司令部と解釈できる。飯沼参謀長が16師団に接収させると日記に書いているのに、その捕虜を「始末せよ」という命令を携えてきたという文脈でこれを書いているのである。にも関わらず、山田旅団長に言いくるめられて、命令を伝えずに帰ったというのだから、奇怪である。そもそも憲兵が命令伝達役を務めるとは思えない。引用箇所の冒頭の文にあるように、単に「見廻りに来た」にすぎないのではないか。

なお、長勇参謀が虐殺命令を出したのか、という問いかけに対して、上海派遣軍参謀・大西一大尉はこう答えている。長勇参謀は参謀部第二課の課長であり、大西大尉も第二課である。つまり、直属の上官である。

第十三師団が捕虜を捕まえた時というのは、上海派遣軍の司令官に朝香宮殿下を迎えたばかりで長参謀も相当気を使っていました。そういう時ですから、いわれるような命令を出すはずがありません。

(上海派遣軍参謀・大西一大尉の証言/『「南京事件」日本人48人の証言』 / 阿羅健一)





《12月16日》


この日、捕虜収容所では昼頃に火災が発生し(夜という証言もあり)、それを受けて一部の捕虜(全体の1/3という証言もあり)を魚雷営に連行し、結果的に射殺することになった。


飯沼参謀長としては、翌17日の入城式が最大の懸念のようである。16師団は、入城式が17日では安全に責任を持てないとまで言ってゴネている。しかし、既に17日決行で命令が出ているし、再三延期を上申しても聞いてもらえないし、断固拒絶するほどでもなさそうだから用心しながらやることにしたという。

◇十二月十六日 晴天
午後一・〇〇出発入城式場を一通り巡視三・三〇頃帰る。多少懸念もあり、長中佐の帰来報告に依るも16D参謀長は責任を持ち得ずとまで言い居る由なるも既に命令せられ再三上申するも聴かれず、且断乎として参加を拒絶する程とも考えられざるを以て結局要心しつつ御伴することに決す。
長中佐夜再び来り16Dは掃蕩に困惑しあり、3Dをも掃蕩に使用し南京付近を徹底的にやる必要ありと建言す。

(飯沼守日記)



山田旅団長は、「相田中佐を軍に派遣」と書いている。軍というから訪問先は湯水鎮の上海派遣軍司令部と思われる。

また、派遣した人物の階級にも意味がありそう。15日は、16師団による捕虜の引き取りは上から話が行っているはずだったから、あくまで実務的な「連絡」で済むと考えて本間騎兵「少尉」を派遣したものと思われる。ところが、予想外に16師団に拒否されたので、16日は山田支隊「副官」である相田「中佐」を「打合わせ」のため上海派遣軍司令部に派遣した。どういう展開になるかわからないので、山田旅団長の代理として交渉可能な人物を送り込んだものと見える。

ただ、その結果はここには書いていない。

◇十二月十六日 晴
相田中佐を軍に派遣し、捕虜の仕末其他にて打合わせをなさしむ、捕虜の監視、誠に田山大隊大役なり、砲台の兵器は別とし小銃五千重機軽機其他多数を得たり

(山田栴二日記)





《12月17日》


この日は、午後1時過ぎからは入城式が挙行された。

◇十二月十七日 快晴、夜風強し
本日の入城式には附近飛行場を爆撃したる後六、七十機にて空中守備状態に入りたる場合の軍命令を下さる。
午後一・三〇より入城式、特に暖き快晴実に麗らかに終了す。代表部隊の堵列閲兵、国民政府に於ける国旗掲揚式、遥拝式、万歳三唱、御賜の御酒にて乾盃、海軍司令長官の発声にて万歳三唱。午後三・三〇頃帰る、先ず第一日の無事に済みたるを喜ぶ。
芳村参謀より天谷支隊及13D主力の渡江に関する件の報告を受く。

(飯沼守日記)



山田旅団長は特に触れていないが、捕虜収容所では残った捕虜を昼間から縛り上げる作業が続き、夕方頃から草鞋峡の現場に連行開始し、結果的に深夜にその多数を射殺することになった。

◇十二月十七日 晴
晴の入城式なり
車にて南京市街、中山陵等を見物、軍官学校は日本の陸士より堂々たり、午後一・三〇より入城式祝賀会、三・〇〇過ぎ帰る
仙台教導学校の渡辺少佐師団副官となり着任の途旅団に来る

(山田栴二日記)





《12月18日》


13師団は滁県に迫りつつあったという。

◇十二月十八日
本日式後光華門の戦跡御巡視の筈なりしも寒風激しく迷惑すべしとて中止せらる。
13Dは正午頃滁県に近く迫りつつあり(水口鎮にて約四〇〇の敵を撃破して其西方に進出)。

(飯沼守日記)



山田支隊では前夜の草鞋峡の事件を受けて、未明から応援要員も出して遺体の片付け作業を行なっている。

◇十二月十八日 晴
捕虜の仕末にて隊は精一杯なり、江岸に之を視察す

(山田栴二日記)





《12月19日》


13師団は滁県を攻撃中という。

◇十二月十九日 今日は再び暖き快晴となる。
13Dは滁県攻撃の為展開中なるものの如く昨日の位置と大差なし。

(飯沼守日記)



山田支隊では、事件現場の遺体片付け作業が続き、渡河を延期したという。

◇十二月十九日 晴
捕虜仕末の為出発延期、午前総出にて努力せしむ
軍、師団より補給つき日本米を食す
(下痢す)

(山田栴二日記)





《12月20日》


13師団は滁県を占領したという。

◇十二月二十日 薄曇
13Dの116iは一昨日既に滁県北方に進出、本朝師団の先頭部隊は滁県占領、午後には北島参謀同地飛行場に着陸連絡し来る。

(飯沼守日記)



山田支隊はやっと渡河して13師団本隊に合流すべく進軍し始めた。予定の1日遅れ。

◇十二月二十日 晴
第十三師団は何故田舎や脇役が好きなるにや、既に主力は鎮江より十六日揚州に渡河しあり、之に追及のため山田支隊も下関より渡河することとなる
午前九・〇〇の予定の所一〇・〇〇に開始、浦口に移り、国崎支隊長と会見、次いで江浦鎮に泊す、米屋なり

(山田栴二日記)





《12月21日》


この日、飯沼参謀長は幕府山事件を「噂」として聞いたと書いている。まともな報告は上がっていないということである。

◇十二月二十一日 大体晴
荻洲部隊山田支隊の捕虜一万数千は逐次銃剣を以て処分しありし処何日かに相当多数を同時に同一場所に連行せる為彼等に騒がれ遂に機関銃の射撃を為し我将校以下若干も共に射殺し且相当数に逃げられたりとの噂あり。上海に送りて労役に就かしむる為榊原参謀連絡に行きしも(昨日)遂に要領を得ずして帰りしは此不始末の為なるべし。
荻洲部隊は本日大体所命線に部隊を配置し且夫々一部を更に前方要点に出したるが如し。

(飯沼守日記)


そこに登場する榊原参謀とは、『南京戦史資料集 I 』(P696)を見ると上海派遣軍司令部参謀部第三課の榊原主計少佐である。

その第三課について、阿羅健一氏はこう説明している。

上海派遣軍司令部には参謀が十五人おり、三課に分かれていた。一課は作戦、二課は情報、三課は後方担当である。
(中略)
第三課は補充、通信が主な任務で、捕虜についても担当する。寺垣中佐が課長、櫛田、榊原、北野、佐々木の各参謀がおり、榊原(主計)少佐が主に捕虜の担当をしていた。

(『「南京事件」日本人48人の証言』 / 阿羅健一)


そうすると、捕虜担当である榊原主計少佐が、捕虜を上海に送って労役に就かせるために調整をしていたのに、状況がよくわからないまま不首尾に終わったということになる。




また、上海派遣軍参謀副長・上村利道大佐も「聞くところによれば」として幕府山事件に触れている。

◇十二月二十一日 晴
N大佐より聞くところによれば山田支隊俘虜の始末を誤り、大集団反抗し敵味方共々MG(=機関銃)にて撃ち払い散逸せしもの可なり有る模様。下手なことをやったものにて遺憾千万なり

(上村利道日記(上海派遣軍参謀副長・歩兵大佐)/『南京戦史資料集 II 』)

ちなみに阿部輝郎氏は『南京の氷雨』の中で、N大佐とは参謀・西原一策大佐のことらしい、と書いている。




《幕府山事件発生の真相》


板倉由明氏はこう書いている。

飯沼日記に見るように、捕虜担当の第三課参謀・榊原主計少佐は二十一日に第十三師団に行って空しく帰っている。榊原氏の証言(註4)では、捕虜は上海に送って労役をさせることにして、受け入れ準備のため上海に出張し、帰って捕虜受け取りに師団司令部に行ったところ既に殺されていた、という。どうも上海派遣軍司令部では、参謀長、参謀副長、担当参謀のいずれも捕虜の殺害命令を出してはいないようである。むしろ榊原参謀の行動からは、「捕虜を収容する」方針が窺われ、「殺セ」の命令があったとすれば、正規の命令ではなく、参謀(長中佐説が有力)の出した独断命令であった可能性がある。

(註4)一九八三年七月三日、榊原主計氏自宅にて。

(『本当はこうだった南京事件』 / 板倉 由明)


上の書き方だと、板倉氏は榊原主計氏に直接取材しているようだから、『捕虜は上海に送って労役をさせることにして、受け入れ準備のため上海に出張し、帰って捕虜受け取りに師団司令部に行ったところ既に殺されていた』というのは事実と思われる。

ただし、榊原主計少佐が行ったという「師団司令部」を板倉氏は13師団司令部と解釈しているようだが、それは違うだろう。冒頭の図に示すように(そして飯沼日記にあるように)13師団本隊は揚子江の北岸を西進し滁県を占領しつつある。

飯沼参謀長がとりあえず16師団で捕虜を接収するよう指示していることと併せると、榊原主計少佐は南京にいる16師団司令部に捕虜受け取りに行ったものと思われる。ところが、16師団ではもちろん受け取っていないから、話が噛み合うはずがない。

飯沼日記ではこれを21日の記述として(昨日)と書いているから、20日の出来事である。(ここも板倉氏は間違えている)
20日となれば、山田旅団長日記によれば午前10時から渡河開始している。榊原主計少佐が南京の16師団司令部に捕虜受け取りに行って「???」となっている頃には山田支隊は南京から去りつつあった。

それから、長勇命令説も違うだろう。上述したように直属の部下であった大西参謀が違うと言っている。

そうではなく、16師団の受取拒否がこの事件の主因と私は見る。上述したように、15日の山田旅団長日記がそれを示唆している。




整理するとこうなる。

1)山田支隊が1.5万前後の捕虜を抱えた。
2)上海派遣軍・飯沼参謀長は、山田支隊は19日に渡河予定だから、その捕虜をとりあえず16師団で引き受けるよう指示した。
3)その飯沼参謀長、上層部(中支那方面軍)からは17日に入城式決行と申し渡され、城内掃討を担当している16師団からは無理だから20日以後にしてくれと言われ板挟みになっている。
4)その16師団、城外東方と下関、そして城内北半分を掃討区域とし、無理だと言ってるのに17日の入城式に間に合うように掃討を完了させろと言われてストレスがかかっている。
5)16師団、その上さらに1.5万とされる捕虜を引き受けろと言われて、山田支隊に「そっちで始末してくれ」とこれを拒絶。
6)山田支隊、飯沼参謀長が捕虜を16師団に引き取らせると言ったのに引き受けてもらえず、上海派遣軍司令部に直談判してもラチがあかず、渡河予定の19日も迫ってきて二進も三進もいかず、16日には収容所で火災も発生し最後の手段として夜間にこっそり解放を画策。そして失敗。
7)上海派遣軍参謀・榊原主計少佐、捕虜を上海で使役すべく調整に赴いていたのに、戻ってきたらなぜか捕虜は殺害または逃亡され、いなくなっていた。
8)山田支隊、飯沼参謀長からの「捕虜を16師団に引き渡せ」の指示に背く形でこっそりやって失敗する結果になったので、正式な報告も出さずうやむやに。


という流れに見える。


山田支隊は13師団司令部に中洲への「島流し」について了解を取っていたという話も、上の流れを裏付ける。日時ははっきりしないが状況的には、本間騎兵少尉を南京(おそらく16師団)に派遣して受け取りを拒否された15日か、相田中佐を上海派遣軍司令部に派遣し収容所で火災が生じた16日ではないかと思われる。

昭和五十八年に筆者が聴取した、当時第十三師団作戦参謀・吉原矩中佐の証言によれば、鎮江で渡河準備中の師団司令部では、「崇明島」 に送り込んで自活させるよう命じたという。崇明島は揚子江河口の島だが、草鞋洲との記憶違いとすれば、正に「島流し」(栗原スケッチの題)である。 「殺害命令は長中佐が独断で出したと言われますが」 と筆者が水を向けたのに対し、 吉原氏が横を向いて、「長はやりかねぬ男です」と言った暗い顔が今も印象に残っている。

(『本当はこうだった南京事件』 / 板倉 由明)


ちなみに、次の記事で紹介したが、砲艦「二見」が14日に草鞋峡水路を啓開作業している際に漂流中の敵兵1名を救助し、翌15日に草鞋州(八卦洲)に解放している。

従って、当時南京にいた日本軍関係者からすれば、もし捕虜を解放するなら八卦洲(草鞋洲)が良さそうだという漠然とした共通認識があったのではないか。幹部なら地図を見るだろうから、その程度は思いつくはず。

《南京事件》南京遡江艦隊の航路
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/8d64ed39331873ebc65aff57791f70f6





もうひとつ背景的な構造があるかもしれない。関係者の階級と陸軍士官学校の年次に注目。

(中支那方面軍)
司令官 松井石根 大将(9期)

(上海派遣軍)
司令官 朝香宮鳩彦 中将(20期)
参謀長 飯沼守 少将(21期)

(13師団)
師団長 萩洲立兵 中将(17期)

(山田支隊・第103旅団)
支隊長 山田栴二 少将(18期、第103旅団長)

(16師団)
師団長 中島今朝吾 中将(15期)


この状況で中島16師団長にいうことを聞かせられるのは、スペック的には松井大将だけである。それ以外は、宮様は別格としても、階級も下の後輩(飯沼参謀長、山田旅団長)から「捕虜を引き取れ」と言われたとしても中島中将が素直にいうことを聞くとは思えない。



結局のところ、こういう高ストレス環境下で、指揮官同士の葛藤も相まって命令も命令として伝達されず、あるいは無視され、部隊間での責任分担や日程も明確化されず、その狭間に落ち込んだ捕虜が不幸を被ったということのように見える。




《さらなる真相》


幕府山事件が発生した真相は上述の通りと推論するが、近年になっても幕府山事件の論争が混迷している理由がいくつかあると考える。

そのひとつは、山田支隊隷下の会津若松65連隊・両角連隊長の説明と、その話を準公式戦記として出している福島民友新聞社が、「捕虜殺害の軍命令があった」というストーリーを堅持していたことである。

そのために、「捕虜殺害の軍命令を出したのは誰か」という犯人探しに論者の関心が集まってしまい、特定個人名まで出てくる有様である。しかし、上述したように、状況証拠的には「捕虜殺害の軍命令」など出ていない。




そこまで考察してから、改めて福島民友新聞社が昭和57年に出した『ふくしま 戦争と人間  1 白虎編』の記述を確認すると、山田旅団長日記の文面が異なっていることに気づいた。下記引用の末尾であるが、訳あって長めに引用する。

非情な軍の命令

(捕虜への食料集めは苦労したという関係者の回想録に続いて)

しかし問題は両角連隊長の回想ノートの次の部分に顔を出す。

《軍司令官の入城式が十七日に行われることになったので、万一にも失態があってはならないから、軍から「捕虜を処置せよ」と第百三旅団長山田栴二少将に命令が出たのである。しかもひんぱんに軍は処置を督促してきた。山田旅団長はこれをがんとしてはねつけた。私もまた山田旅団長を力づけて「処置はまっぴらごめん」と拒否の態度をとった。しかし軍は強引にも命令をもってその処置をせまってきたのである》

処置とは「殺せ」ということらしい。

両角連隊長の回想ノートは続く。

《山田旅団長は涙をのんで私の隊に因果を含めた。いろいろ考えた結果、夜陰に乗じて捕虜を逃亡させるほかはない。それは連隊長である私の胸三寸でどうにでもできることである。私は第一大隊長田山芳雄少佐を呼び、次の命令を与えた。「十七日夜、逃げ残っている捕虜全員を幕府山北側の揚子江南岸に集合せしめ、夜陰に乗じ、船にて北岸に送り解放せよ。これがため付近の村落にて舟を集め、中国人のこぎ手を準備せよ」――これが私の命令だった》

軍の命令に反し、両角連隊長は解放を決断した。このへんの事情について山田旅団長の日記には次のようにある。

《十五日――捕虜の始末のことで本間少尉を師団に派遣せしところ「始末せよ」との命を受く。各隊食糧なく困窮せり。捕虜将校のうち幕府山に食料ありと聞き運ぶ。捕虜に食わせること大変なり。十六日―相田中佐を軍司令部に派遣し、捕虜の扱いにつき打ち合わせをなさしむ。捕虜の監視、田山大隊長誠に大役なり》

(『ふくしま 戦争と人間  1 白虎編』/ 昭和57年 /福島民友新聞社)


比較のために、偕行社の『南京戦史資料集 II 』掲載の山田栴二日記も並べてみる。こちらは、平成5年である。

◇十二月十五日 晴
捕虜の仕末其他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す
皆殺せとのことなり
各隊食糧なく困却す

◇十二月十六日 晴
相田中佐を軍に派遣し、捕虜の仕末其他にて打合わせをなさしむ、捕虜の監視、誠に田山大隊大役なり、砲台の兵器は別とし小銃五千重機軽機其他多数を得たり

(山田栴二日記(歩兵第百三旅団長・陸軍少将)/『南京戦史資料集 II 』)


『白虎編』の方が発行は古いが、山田旅団長日記の文面が現代語に置き換えられていることがわかる。それだけでなく、説明的な加筆もされている。
従って、文面から『南京戦史資料集 II 』の方が山田旅団長のオリジナルと判断する。

しかし、むしろ逆に『白虎編』からは、両角連隊長あるいは福島民友新聞社が主張したかったことも読み取れる。

白虎編山田日記では、15日に本間少尉を「師団」に派遣したとある。派遣先が上海派遣軍司令部ではなく南京にいる16師団だと、よりストレートにわかるように書かれている。そして、16日に相田中佐を派遣した先は「軍司令部」、つまり上海派遣軍司令部だと言っている。

その上で、白虎編引用箇所冒頭の「両角連隊長の回想ノート」を読み返すと、意味が通る。

つまり、こういうことである。

1)上海派遣軍・飯沼参謀長は、とりあえず16師団が捕虜を引き取るように指示を出していた。
2)それにも関わらず、16師団は捕虜の引き取りを拒絶したのみならず、逆に山田支隊に捕虜の処刑を頻繁に要求してきた。
3)16師団はその理由として、17日の入城式に万一の失態があってはならないから、とした。
4)16師団の「要求」は13師団隷下の山田支隊にとっては命令ではないから、山田旅団長と両角連隊長はこれをはねつけた。


これでかなり真相に近づいたと思う。


ちなみに山田旅団長は戦後の取材に対しても、“捕虜殺害の軍命令”については固く口を閉ざしていたようである。




《参考情報:『郷土部隊戦記』》


福島民友新聞社の『ふくしま 戦争と人間 』は、昭和53年から5年間に渡って紙面連載されたものを書籍化したものである。これにはその前があり、昭和36年12月から38年12月の2年間連載されたものを再編集したものが昭和39年に『郷土部隊戦記』として書籍化されている。この郷土部隊戦記には、亡くなる2ヶ月前の両角連隊長が序文を書いているなど、両角連隊長史観が反映されたものになっている。(正確には、連載の終盤、書籍化編集作業中に亡くなったとのこと)

この郷土部隊戦記は武勇伝調で物語としては良いのだが、他の史料と読み比べると記述の精密感に欠ける。そのため、この記事では考察の材料にはしないが、両角連隊長史観での認識を知るには良いかもしれないので、該当箇所の文面を引用し、併せて気づいた点を示す。


捕虜を殺せの軍命令を蹴る

幕府山砲台で得た約八千人の捕虜の処置に困った山田旅団長は、その日のうちに本間騎兵少尉を南京の軍司令部に派遣して指示を仰いでいる。ところが軍司令部の考えは「みな殺せ」という驚くべき意向だった。日本軍でさえも食うや食わずの進撃を続けて、各隊とも食糧に欠乏している矢さきで、捕虜の給養などは思いもよらなかったろうし、さらに軍司令部は十七日の入城式を前に不穏な事態の発生を心配したらしい。それにしても戦闘中ならいざ知らず「無抵抗の捕虜八千人をみな殺しにしろ」には山田旅団長も驚いた。両角連隊長と相談してその日は砲台の付属建て物にとりあえず収容したのである。

(中略=収容所の火事の話)

翌十六日、山田旅団長は副官相田中佐を軍司令部に派遣して“捕虜を殺すことはできぬ。軍みずから収容すべきである”とかけ合わせたがやはりダメだった。将校だけは、軍司令部に連れてゆかれたが、そのごの消息は不明で、これは取り調べのうえ殺されたものとみるほかはない。その日、こんどは逆に軍司令部から憲兵将校(階級、氏名不詳)が旅団司令部に調査にやってくる始末だったが、山田旅団長はこの若い憲兵将校をじゅんじゅんとさとし、かえって
「閣下のお考えはよく分かりました」
と帰っていったのだ。しかし最後にはついに
「捕虜は全員すみやかに処置すべし」
という軍命令が出されたのである。通信兵が電話で鉛筆がきで受けた一片の紙きれにすぎないのだが……。

(『郷土部隊戦記』/福島民友新聞社)



・「十七日の入城式を前に不穏な事態の発生を心配」したのは、飯沼参謀長日記を通して見れば16師団だろう。

・本間騎兵少尉と相田中佐の派遣先が同じ「軍司令部」という単語で書かれているが、よほど調べてからでないと実は両者の派遣先が違うことに気づけない。

・相田中佐を派遣したが「やはりダメだった」という認識がひとつの転換点かもしれない。ここから急遽「島流し」案を考えたのだろうか。

・憲兵将校が「捕虜殺害の軍命令」と関連付けられているところを見ると、16師団から派遣されてきたのかもしれない。師団には憲兵分隊がいるはず。

・引用末尾の「電話」という単語が正確なら相手は南京城近隣ではないか。つまり、16師団司令部との通話。近隣拠点は通信隊が有線でつなぐから電話が通じる。遠ければ文面を暗号化して無線で送信し「電報」と称する。(12月9日の飯沼参謀長日記参照)


等々、気づく点は多いのだが、なにしろ記述に精密感がないので細部はあまりアテにならない。参考になるのは物語の要素のみ。




《改版履歴》


2021.02.26 新規
2022.09.17 タイトル等微修正
2023.07.22 《12月13日》の項に「邵家塘」の場所を追記




《関連記事》


《幕府山事件》概要編
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/4997887cce0ec9d9cc7e17f92562d37c



★南京大虐殺の真相(目次)
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/9e454ced16e4e4aa30c4856d91fd2531





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《南京事件》崇善堂の埋葬記録はウソ

2021年02月19日 | 南京大虐殺
2021.02.19 新規

南京陥落後に約11万体の遺体を埋葬したという『崇善堂』の埋葬記録について考察する。





東京裁判に提出された崇善堂の埋葬記録によれば、合計112,266体を埋葬したという。

法廷証第325号: 南京大虐殺に関する統計表/ 南京市崇善堂堂長周一漁
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10273904/1



対比のために紅卍字会の埋葬記録も示す。合計43,071体埋葬したとある。

法廷証番号326: 世界紅卍字会南京分会救援隊埋葬班埋葬死体数統計表
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10273906/1





《要点》


・崇善堂の成立は古く、陥落直後の時点でも実在した。しかし、陥落後は南京特務機関に『昭和13年9月開設』と認識されてしまう程度に存在感が薄かった。

・崇善堂の埋葬隊発足は陥落翌年の1938年1月中旬と思われる。東京裁判提出の埋葬記録(1937年12月26日〜)と矛盾している。

・南京特務機関員・丸山進氏の話からすると、崇善堂埋葬隊の作業は紅卍字会の下請けとして従事した可能性が高い。崇善堂が自治委員会に出した書簡からも、上部組織の指示で動いていることが読み取れる。

・崇善堂の膨大な埋葬作業は、日本軍将兵、南京特務機関および宣撫班、日本の記者、南京在留欧米人らになんら認識されていない。かろうじて、同盟通信・小山武夫記者が崇善堂を「葬儀屋」として記憶していた程度である。

・これらの状況証拠からすると、崇善堂の本来の埋葬数は下請けとして紅卍字会の埋葬記録に含まれているに過ぎなかったが、戦後の東京裁判および南京軍事法廷に向けて、元請けの紅卍字会の記録を凌駕する数字で埋葬記録を偽造したものと推測するしかない。




《1. 南京特務機関員・丸山進氏の証言》


南京陥落直後に紅卍字会に遺体の埋葬作業を委託した特務機関員の丸山進氏は次のように述べている。

「この仕事は南京市自治委員会が自発的に実行したいという建前で行われたものです。しかしその自治委員会はこのような大きい作業を行うだけの実働的なスタッフを持ち合わせておらず、どうしても外部の団体に作業を委託しなければなりませんでした。

そこで紅卍字会に着目して、その内部を調査した結果、紅卍字会は陳漢森という立派な指導者に率いられた能動的な社会慈善事業団体であることが判明しました。そこで、この作業を紅卍字会に一括して委託することになった訳です。

後になって、崇善堂その他の弱小団体からも作業の申し込みが自治委員会にありましたが、そのことは紅卍字会に任せてあるから紅卍字会の方に言って欲しいと伝えて、自治委員会では受け付けなかった訳です。紅卍字会の下請けとして彼らが作業に従事したであろうことは考えられますが、そうであったとしても、その埋葬作業量は一括して紅卍字会の作業量に組み込まれていたはずです」

(南京特務機関(満鉄社員)丸山進氏の回想/『南京「虐殺」研究の最前線〈平成14年版〉』/東中野 修道)


崇善堂その他の弱小団体の埋葬作業は、あったとしても紅卍字会の数字に含まれているはずだと丸山氏は述べている。


さらに、丸山氏は埋葬作業を始める際の視察で「死体は殆どが城外にあり、全部で2万体位」と見積もっているが、次の私の記事で考察したように水葬にしたと思われる揚子江岸の遺体を除くと埋葬実数は約2万3千であり、整合している。同一エリアにこの数倍の遺体が他にあったとは考えられない。

《南京事件》紅卍字会埋葬記録の検証
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/c9f414da142a782a28bc89d8db538f6b





《2. 南京特務機関長・大西一少佐の証言》


中支那派遣軍参謀・大西一少佐は、紅卍字会に埋葬作業を委託した特務機関員・丸山進氏の上司だった。南京戦当時の階級は大尉で南京特務機関長補佐官長と名乗り、翌年3月に少佐に昇格し特務機関長となった。その人が、当時は崇善堂など知らないと言っている。

以下は「」内が大西一・南京特務機関長、聞き手は阿羅健一氏。

――中国兵の埋葬は日本軍が指揮したものですか。
「中国兵の死体は中国人が埋葬しました。埋葬するのに日本軍に連絡するということはありません。逆に軍が紅卍字会に、どこそこの死体を埋葬するようにと頼んだことがある」

――紅卍字会をご存知ですか。
「赤いマークをつけて、よくやっていた」

――自治委員会も埋葬活動をしたと記録にありますが......。
「自治委員会も働いたが、死体の埋葬はそんなにやらなかったと思います。 紅卍字会が中心にやってました。それから、何とかいう団体が埋葬したというが・・・」

――崇善堂ですか。
「そうそう。当時、全然名前を聞いたことはなかったし、知らなかった。それが戦後、東京裁判で、すごい活動をしたと言っている。当時は全然知らない」

(上海派遣軍参謀・大西一大尉の証言/『「南京事件」日本人48人の証言』/阿羅 健一)





《3. 南京特務機関発行した南京市政概況から》


その南京特務機関が昭和17年に発行した南京市政概況。

紅卍字会については『埋葬』も明記しつつ『事変後昭和13年2月再開以来は一層その能力を発揮したことは世人の注目に値するところである』と紹介しているが、崇善堂についてはその次のページに他の団体と一緒に列挙し『昭和13年9月開設』としてる。陥落翌年。

南京市政概況 南京特務機関
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1267359/127




この扱いの差は南京特務機関の認識としては紅卍字会の存在とその活躍は大きく、崇善堂についてはその他の団体のうちのひとつでしかなかった、ということを示している。

それどころか、『昭和13年9月開設』という記載から見ると11万体の埋葬をしていたはずの時期にはまだ存在すら把握されていなかった、ということになる。




《4. 宣撫班の記録》


占領地で日本軍が住民を宣撫することを目的に特務機関に設けた宣撫班の記録にも崇善堂は登場しない。

十五年戦争極秘資料集 (不二出版): 1989 / 井上久士
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002019010-00


このことについて著者は次のように書いている。

東京裁判提出の紅卍字会の埋葬記録では、同年(1938年)秋までで四万三千余体を埋葬したとあるから、時期を考慮にいれると本報告の記録と符合する。(中略)ただし、問題となっている崇善堂埋葬隊については、特務機関や宣撫班との協力関係がなかったためかふれられていない。

(『十五年戦争極秘資料集』 / 井上久士)


参考までに、紅卍字会への言及箇所を引用する。なお、判読が難しい文字が多いので、画像で引用し、要点を意訳で書き出す。



(要約)

第二回報告(2月中状況):
・紅卍字会の隊員約600名。
・2月末現在、約5千に達する遺体を埋葬。

第三回報告(3月中状況):
・活動成果を賞賛しつつ彼らの準備金は既に消費し尽くし、最近に至り行動不能の域に達した。
・3月15日現在、城内1,793体、城外29,998体、合計31,791体を下関ならびに上新河地区の指定地に収容。
・春になれば収容埋葬に手数を要することや、疫病発生その他を考慮して方策を研究中だが、既に紅卍字会のみの資金力では到底至難の業。
・同会の消費した金額はこれまでに11,175元になるが、まだ放置された地区の埋葬、さらに土盛りや墓地の消毒作業は絶対に必要で、同会作成の予算によれば8,950元を必要とするが、同会としては今後の活動は不可能なので、援助方法について研究中。



冒頭の「工作人員」の一覧には1項に挙げた丸山進氏の名前も見える。

内容的には、紅卍字会の活動成果を評価しつつも、活動資金に困難を抱えているので、資金援助の方法を探っていることがわかる。

また、この宣撫班の記録からも紅卍字会の活動とその埋葬記録が事実であることが裏付けられる。特に城内1,793体は、東京裁判に提出された紅卍字会の埋葬記録と一致している。




《5. ヴォートリンの日記》


アメリカ人の宣教師であり、南京の金陵女子大学で教師・教務主任を務めたミニー・ヴォートリンは日記(日記形式ではあるが関係団体への報告書の位置付け)で、紅卍字会の埋葬記録については触れているが、崇善堂の話は登場しない。

(4月2日)
二日―きょう、紅卍字会だけで、一月二三日から三月一九日までに三万二一〇四体の死体を埋葬し、そのうち三分の一は民間人の死体であったという報告が作成された。

(4月6日)
六日―国際救済委員会は救済事業を推進している。二○○人の男性が紅卍字会の死体埋葬作業に雇われている。とくに農村地域においてはまだ死体が埋葬されないままになっている。

(4月15日)
一五日―紅卍字会の本部を訪ねると、彼らは以下のデータを私にくれた――彼らが死体を棺に入れて埋葬できるようになったときから、すなわち一月の中旬ごろから四月一四日まで、紅卍字会は城内において一七九三体の死体を埋葬した。そのうち約八〇パーセントは民間人であった。城外ではこの時期に三万九五八九体の男性、女性、子どもの死体を埋葬した。そのうち約二五パーセントは民間人であった。これらの死体埋葬数には私たちがきわめてむごい殺害があったことを知っている下関、 三汊河の地域は含まれていない。

(『南京事件の日々―ミニー・ヴォートリンの日記』 / ミニー ヴォートリン)


ヴォートリンの日記に登場する紅卍字会の埋葬数は、東京裁判に提出された埋葬記録とほぼ整合している。特に城内に埋葬したという1,793体という数値については一致している。

他の日にもヴォートリンは紅卍字会について日記に書いているが(例えば、1/27、1/29、2/2、2/15、2/25)、崇善堂の埋葬の話は出てこない。

ちなみに文中の「三汊河」は下関地区のすぐ南側。場所はここ





《6. ラーべ日記》


安全区国際委員会のリーダーを務めていたドイツ人、ジョン・ラーべの日記も見てみる。

二月十五日
委員会の報告には公開できないものがいくつかあるのだが、いちばんショックを受けたのは、紅卍字会が埋葬していない死体があと三万もあるということだ。いままで毎日二百人も埋葬してきたのに。そのほとんどは下関にある。この数は下関に殺到したものの、船がなかったために揚子江を渡れなかった最後の中国軍部隊が全滅したということを物語っている。

(『南京の真実』 / ジョン ラーベ)


文面からは、紅卍字会の活動あるいはその報告に対する一定の信頼感が読み取れる。

他の日にもラーべは紅卍字会について触れているが(例えば、12/16、12/26、2/10)、やはり崇善堂の埋葬の話は出てこない。




《7. 昭和13年4月16日付大阪朝日新聞》


次の資料の昭和13年4月16日付大阪朝日新聞の記事に紅卍字会の埋葬記録の話が出ている。

A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.84)
https://www.digital.archives.go.jp/das/image/F0000000000000340150


(昭和13年4月16日 大阪朝日新聞北支版より抜粋)
そこで紅卍会と自治委員会と日本山妙法寺に属するわが僧侶らが手を握って片付け始めた。腐敗したのをお題目とともにトラックに乗せ一定の場所に埋葬するのであるが、相当の費用と人力がかかる人の忌む悪臭をついて日一日の作業はつづき最近までに城内で1,793体、城外で3万311体を片付けた。約1万1千圓の入費となっている、苦力も延五、六万人は動いている。しかしなお城外の山の陰などに相当数残っているので、さらに8千圓ほど金を出して真夏に入るまでにはなんとか処置を終わる予定でいる。

A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.84)P31


記事の内容としては、概ね4項の宣撫班の記録と整合している。

蛇足だが、この大阪朝日新聞の記事では費用の単位は「円(圓)」だが、宣撫班の記録では「元」である。


この記事の4月時点で3万強の遺体を埋葬するのに苦力(労働者)が延べ5〜6万人も動員されていたという。すると、単純計算では11万人を埋葬したという崇善堂は18.5〜22.2万人の労働者を動員していたはずである。しかし、そのような存在感はなく、当時の大阪朝日新聞でも把握していなかったようである。

ちなみに、【入費】とは辞書を引くと『必要な金。費用。』とある。

この件について、紅卍字会に埋葬作業を委託していた特務機関員の丸山進氏は次のように述べている。

私は特務機関長から埋葬の経費は自分が工面するから、お前が埋葬の実行に当たれと一任されて実行に当たった訳です。(中略)自治委員会には全く金はなかったのです。(費用は)特務機関長が軍の機密費から調達したのではないでしょうか。ただ日本軍から経費が出たことについては外部には一切公表されなかったので自治委員会から(後には市政公署から)出たものと、恐らく、一般には理解されたかも知れません。

(南京特務機関(満鉄社員)丸山進氏の回想/『南京「虐殺」研究の最前線〈平成14年版〉』/東中野 修道)


なぜ日本軍から経費が出たことを表に出さないのかについても説明している。

我々が表に立って支援活動をしたのでは南京の行政を行う中国人が日本人の傀儡――漢奸――と非難されますから、あくまで陰から内面的援助を彼らに行うという活動でした。

(南京特務機関(満鉄社員)丸山進氏の回想/『南京「虐殺」研究の最前線〈平成14年版〉』/東中野 修道)


大阪朝日新聞の記事で『入費』という単語を使い、また『さらに8千圓ほど金を出して』と金額に触れているのは、上述のように日本側から費用が出ている内情を把握した上での記述と思われる。

それに対して、崇善堂の活動についてはこういった話が全く出てこない。




《8. 同盟通信・小山武夫記者の証言》


南京陥落翌年春から南京に派遣された同盟通信・小山武夫記者(後に中日ドラゴンズ社長などを歴任)は次のように述べている。

崇善堂は民間の葬儀屋で、南京在勤中しばしばその葬儀を見かけました。崇善堂の埋葬記録なるものは到底信ずるわけには参りません。

(同盟通信・小山武夫記者/『証言による「南京戦史」(4)』)





《9. 崇善堂埋葬隊の記録》


陥落直後の時点で崇善堂が実在しなかったかというとどうやらそうでもない。

『南京事件資料集 中国編』に収録された資料の文面を見ると、崇善堂の埋葬隊が組織されたのは1938年1月中旬と思われる。ということは、東京裁判提出資料の埋葬期間=昭和12年12月26日〜はウソになる。

70 崇善堂埋葬隊隊長周一漁が南京市自治委員会に宛てた書簡 一九三八年二月六日

中華民国二十七年二月七日着
拝啓 査するに弊堂が埋葬隊を成立させてから今まで一か月近くたち、作業割当はたいへん頻繁であります。しかし、車輛が非常に不足しております。そのうえ今や春となり、気温が上昇してきております。残っている遺体を迅速に埋葬しなければ、おそらく遺体が地面に露出し、関係する公共衛生はまことに少なくないと存じます。一漁、ここにご高覧を仰ぎたく存じ上げます。弊堂所用の自動車は二十四年製造のものであり、目下修理に急を要しますので、次の各用品を配給されたくとくに書簡でお願い申し上げます。一、バッテリー 二、ピストン肖子 三、クラッチ等
貴会がどうか補助の方法を講じ、事業に利を与え、慈善事務を推し進めることができますよう、この段どうかご明察のほどあわせてお願い申し上げます。 ご返事はこの上にいただければ幸甚でございます。
南京市自治委員会御中

〔以下自治委員会の指示〕
直接丁三自動車修理部と相談するように 二月八日


71 崇善堂堂長周一漁が補助金請求のため江蘇省振興委員会に出した報告書抄録 一九三八年十二月六日

補助を求めて困難を解決し、慈善事業を引きつづきおこなうために、貴委員会の救済事業の趣旨を伺います。弊堂が、寡婦救済・育児・診療・施薬・掛け売り・給米・貧窮者子女教育等の慈善事業をおこなうことは前清より現在まで百有余年間、絶えることがありませんでした。今事変において、弊堂は難民区内に診療所を設け、埋葬隊を組織し、その他の救済事業も取り計らいました。難民区が解散するに及んで、いたるところ無衣無食の罹災民たちでいっぱいであります。市内における慈善事業の必要性は、以前に倍しており、弊堂の困難もまた昔に倍しております。

(『南京事件資料集 中国編』)


その他、気づいた点を列挙する。

・2月6日付書簡の冒頭に『作業割当はたいへん頻繁であります』とある。つまり、これは崇善堂の自主的かつ単独の作業ではなく、上部組織の指示の元に行われた、と読める。  丸山進氏の証言と重ね合わせれば、上部組織は紅卍字会と推測できる。

・自治委員会に対して所有する自動車(おそらくトラック)の修理部品の提供を求めている。つまり、独自の潤沢な予算や資材があったようには見えない。

・1938年12月6日の報告書で、前清の時代から100年以上の歴史があると書いている。そして、この日華事変においては診療所を設け、埋葬隊を組織したとしている。それでも、南京特務機関に『昭和13年9月開設』と認識されてしまうというのは、陥落後はその程度に存在感が薄かったことを示している。




《結論的推測》


これらの状況証拠からすると、崇善堂の本来の埋葬数は下請けとして紅卍字会の埋葬記録に含まれているに過ぎなかったと思われる。しかし、戦後の東京裁判および南京軍事法廷に向けて、いわゆる“南京大虐殺”の犠牲者数の水増しをするために、元請けである紅卍字会の記録を遥かに凌駕する数字で崇善堂の埋葬記録を偽造したものと推測するしかない。

また、このこと自体が“30万人大虐殺”が全くの虚構であることを示している。




《改版履歴》


2021.02.19 新規




《関連記事》


★南京大虐殺の真相(目次)
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/9e454ced16e4e4aa30c4856d91fd2531

《南京事件》紅卍字会埋葬記録の検証
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/c9f414da142a782a28bc89d8db538f6b




以上。




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