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《南京事件》犠牲者数の一覧と論拠

2015年07月21日 | 南京大虐殺
最終更新:2018.11.06



この一連の考察で用いた犠牲者数の一覧と、その論拠を示す。
なお、これらは全て中国側犠牲者についてであり、日本軍のものは含まない。



《遺体数》

1. 江上戦死または水葬 25,000-
 1.1 新河鎮の激戦(45連隊) 7,000-
 1.2 下関江上戦(33連隊/第三艦隊) 3,000-
 1.3 処断(33連隊処断分等4,000を除く) 12,000-
 1.4 下関の地上(工兵が水葬) 3,000-

2. 埋葬 29,909-
 2.1 紅卍字会(水葬を除く) 23,134-
 2.2 衛生局(紫金山周辺) 3,200-(三千余、を3,200に換算)
 2.3 衛生局(宝塔橋他) 3,575-

※以上は記録または証言から算出。




《犠牲者数内訳》

3. 城内戦死 3,700-

4. 城内の市民の遺体 2,600-
 4.1 B.陥落時の混乱・挹江門 40-
 4.2 B.陥落時の混乱・大平門 10-
 4.3 B.陥落時の混乱・衣服剥ぎ取り 250-
 4.4 C.掃討時の暴行 2,000-
 4.5 D.占領暴行 150-(主に安全地帯の記録の殺人事件に相当)
 4.6 E.その他 150-(スマイス調査・都市部のその他死亡150)

5. 城外の市民の遺体 2,800-
 5.1 A.軍事行動 800-(スマイス調査・都市部の軍事行動)
  5.1.1 A.軍事行動・列車 600-(列車に乗ろうとした市民1千が国民党軍に射殺された事件)
  5.1.2 A.軍事行動・下関 200-(下関の市民が戦闘の巻き添えになったことを想定)
 5.2 F.敗残兵誤認 2,000-(敗残兵摘出時に誤って摘出されてしまった市民)

※A〜Fの表記は、後述のスマイスの表の区分に対応。
※3項についての記録はないが、他項目の数字から押されてその数字になる。
※5.2項は、ヴォートリンのいう釈放嘆願署名1千と、スマイスの拉致4,200の間の数字。
※紅卍字会・埋葬記録の城外分における女性と子供の比率がほぼゼロなので、5.1項は工兵の水葬に含める。





《算出できる数値》

前項までの数値に基づいて算出できる数値。

6. 犠牲者総数 54,909-(1項+2項)
7. 城内の遺体数 6,300-(3項+4項)
8. 市民犠牲者数 5,400-(4項+5項)
9. 戦死数(処断を含む) 49,509-(6項−8項)
10. 戦死数(処断を除く) 35,509-(9項−16,000)
11. 市民犠牲者率 9.83%(6項における8項の率)
12. 城内市民犠牲者率 41.27%(7項における4項の率)
13. 水葬された市民 2,800-(5.1項+5.2項)
14. 埋葬された市民 2,600-(8項−13項)
15. 埋葬された将兵 27,309-(2項−14項)
16. 城外の地上戦死体 23,609-(15項−3項)
17. 水葬された将兵 22,200-(1項−13項)
18. スマイス都市部の市民犠牲者 3,400-(4項+5.1項)
19. 城内掃討戦での犠牲者の34%が市民(詳細




《紅卍字会・埋葬記録》

20. 記録上の総数 43,023-
21. 女性と子供の数 129-
22. “水葬”を除いた埋葬数 23,134-
23. 城内収容の遺体数 4,757-
24. 城内収容の女性と子供の数 125-
25. 記録上の女性と子供の率 0.30%(20項における21項の率)
26. 城内収容の女性と子供の率 2.63%(23項における24項の率)
27. 城外収容の遺体数 38,266-(20項−23項)
28. 城外収容の女性と子供の数 4-(21項−24項)
29. 城外収容の女性と子供の率 0.01%(27項における28項の率)




《日本軍工兵》

30. 工兵による城内遺体の片付け 1,542-(7項−23項)

※記録はないが、工兵の証言はある。後述。




《関連図表》














《試算の対象範囲》

試算の対象となるエリアは南京城とその周辺である。概ね、紅卍字会と南京市衛生局が遺体の収容を実施した範囲。つまり、幕府山〜紫金山〜雨花台〜新河鎮と揚子江(江上を含む)で南京城を囲むエリア。

また、中国側が各地に建立している“遇难同胞纪念碑”もほぼ同じエリアに収まっている。(犠牲者数は少ないが2箇所だけ遠くにある。)






《陥落日の部隊の動き》

参考までに、12月13日(=陥落日)の各部隊の動きを示す。戦史に残る包囲殲滅戦となり、戦死数の大半がこの日の中国側の潰走時に発生した。








《各数値の論拠》

冒頭に掲げた各遺体数の論拠を示す。



1. 江上戦死または水葬 25,000-

1.1 新河鎮の激戦(45連隊) 7,000-

陥落日に、南京城の南西の揚子江岸にある新河鎮で激戦があった。

城門が陥落した十二月十三日、漢西門(西門)の西の揚子江に近い上河鎮で、第六師団第四十五連隊第十一中隊百六十名は、掃蕩のため下関へと北上中に、南下してきた逃走中の二万の中国兵に包囲され、中隊長の大薗尚蔵大尉以下十四名が戦死する激戦となった。中国側の戦死体数は二千三百七十七。


第6師団45連隊第11中隊山砲指揮官・高橋義彦氏はこの新河鎮での激戦について次のような趣旨のことを書き残している。よって、ここでは新河鎮から河に流された戦死体数を7千とする。

「私達を攻撃してきたのは2コ師団でした。敵の戦死者は新河鎮の私共の目の前で2200。裸で飛び込み或いは筏で逃亡した内で国崎支隊に捕まった者2300。逃亡した者3000。即ち敵の総数をを1万5千とみてもわが砲撃で7千人は死体で河に流されています。」


この 新河鎮での戦闘については、《南京事件》新河鎮での激戦 に詳述した。



1.2 下関江上戦(33連隊/第三艦隊) 3,000-

下関付近の揚子江上で激戦があったので、多数の戦死体が流された。第三艦隊司令部・泰山弘道氏の話では1万とのことだが、戦闘詳報に現れる数字の水増しは将兵の間では常識であったらしく、「概ね3倍くらいかな」との話もあるので、ここでは江上戦死として3千としておく。なお、偕行社の『南京戦史』においても、この項目は3千と算定している。

「南京の守備兵は、11日夕から挹江門を経て揚子江岸に向かい続々退却を開始したようだが、13日午後になると、下流方面より山田支隊、上流より第六師団の一部が進出してきて、退却する敵を挟撃した。」(上海派遣軍参謀・大西一)

「(12月13日午前10時過ぎ)両岸からの中国兵の猛攻撃は続いていました。この頃から、ジャンクや筏に乗った中国兵が流れて来て、どんどん増えてきました。勢多には二十五ミリ機関銃が四門ありましたので、これを撃ちながら進みました。」(砲艦「勢多」艦長・寺崎隆治少佐)

「最後まで南京を守りし支那兵は、その数約十万にして、その中約八万人は剿滅せられ、江を渡り浦口に逃げのびたる者約二万人あり。 下関に追ひつめられ、武器を捨てて身一つとなり、筏に乗って逃げんとする敵を、第十一戦隊の砲艦により撃滅したるもの約一万に達せりと云ふ。」(第三艦隊司令部・泰山弘道)

「(12月13日午前中)『第三十三連隊は速やかに下関に進出し、敵の退路を遮断すべし』との師団命令を受領した。この命令に基づき、連隊は午後2時30分、その先頭を持って下関に到達し、連隊本部は獅子山砲台北側の城外濠の路上に達した。この時、中国兵の揚子江上を浮遊物に取りすがって逃走中の姿が望見されたので、連隊命令をもって重火器の火力を集中して、一時間余。私も江岸に行ってこの状況を見た。この頃、海軍の揚子江艦隊が遡航してきて、艦砲をもって射撃を始めたので、連隊は海軍艦艇に危害を与えることを考え、射撃を中止した。この江上を逃走した敵中に一般住民の混入など、とても考えられない。その数は千〜二千ぐらいであったろうか」(第三十三連隊本部通信班長・平井秋雄氏)

「午後二時三十分前衛の先頭下関に達し前面の敵情を搜索せし結果揚子江には無数の敗残兵舟筏其他有ゆる浮物を利用し江を覆って流下しつつあるを発見す即ち連隊は前衛および速射砲を江岸に展開し江上の敵を猛射する事二時間殲滅せし敵二千を下らざるものと判断す」(第33連隊戦闘詳報)


また、この戦闘は「“南京大屠杀”遇难同胞纪念碑」のNo.16「燕子矶江滩遇难同胞纪念碑」にて5万人の虐殺とされているものである。地名の「燕子磯」は幕府山の北端付近。海軍砲艦による戦闘がその付近から始まったということだろう。

なお、江上での死亡は戦死とは限らない。雪が降ることもある真冬の出来事である。

「いくらかの中国部隊は下関にたどりつき、数少ないジャンク船を使い、バンドから長江を渡河したことは間違いない。しかし、多くの者が川岸でパニック状況のなかで溺死した。」(NYT記者・ダーディン)

日本軍は全方向から包囲侵攻してきていたので、陸路で脱出できる見込みはなかった。川が唯一の出口であった。何百という人々が長江に飛び込み、死んでいったと言われる。もっと冷静な人々は手間をかけて筏を作り、うまく川を越えて逃げのびて行った。(シカゴデイリーニュース記者・スティール)




1.3 処断(33連隊処断分等4,000を除く) 12,000-

「証言による『南京戦史』」(偕行)によれば、敗残兵の処断数は1万6千とのことだが、そのうち第十六師団第三十三聯隊が下関への急進中に捕らえた3,096人の捕虜の処断は、下関への急行を優先したために行ったものなので、その遺体は現場に残されたはずであり、これは紅卍字会埋葬数に含めてよいと考える。その他、若干の内陸での処断の証言もあるので、併せて処断による埋葬対象分を4千としておく。

第十六師団第三十三聯隊第一大隊は、紫金山を攻略し、下関に向かう退路遮断の戦闘で、三千九十六人を捕らえたが、下関へ急進中であり、大量の捕虜を収容したり武装解除していては戦機を逸し、任務を放棄せざるをえない。そこで、敗残兵撃滅として、全員を処断した。


よって、1万6千から4千を引けば1万2千となる。ただし、この中に敗残兵と誤認された市民が約2千含まれている。



1.4 下関の地上(工兵が水葬) 3,000-

下関の戦死体について「証言による『南京戦史』」(偕行)では次のように3,000と見積もった。


「私は(下関の)屍体の数を数千と見たが、死体を舟艇で運んでいた工兵に尋ねると、作業が終わるまでには15日くらいかかるだろうと言っていた。恐らく、対岸の浦口に逃げようとして下関に集まり、銃砲撃されたものであろう」(独立軽装甲車第二中隊・藤田清)


上記の藤田氏の証言に関して畝本正己氏(偕行)が船について問い合わせたところ、「徴発した民船であり、見たのは二隻であった」との回答を得ている。その上で、次のように試算している。

「一隻の積載能力が不明であるが、仮に50体を積み込んだとしても、江上遠く運んで水葬することは午前・午後各一回ぐらいの作業と仮定すれば、1日約200体、15日間で約3千体処理という計算になる。」(畝本正己)



また、次のような証言もあるので、下関の揚子江岸の遺体数は3千とし、これらは工兵により水葬に付されたものとする。

「(12月14日)中華門から入ったが死体はほとんど無かった。下関に行った時、揚子江には軍艦も停泊しており、艦長と会見した。岸辺に相当数の死体があった。千人ほどあったか、正確に数えれば2千人か3千人位か。軍服を着たのが半分以上で、普通の住民服のもあった」(第10軍参謀・谷勇大佐)


さらには次のような証言もあるので、この上記3,000のうち、200を巻き添えの市民と置き、残り2,800人を中国兵の戦死とする。なぜ200かというと、スマイス調査の表にある A.軍事行動800の内訳が600と200になっているので、200を割り当てるとちょうど良さそうだから。

南京攻略戦では南京城西側・長江河岸間は敵の退路に当たり、敗兵と難民がごっちゃになって第六師団の眼前を壊走した。師団の歩砲兵は任務上当然追撃の銃砲弾を浴びせ、このため一帯の沼沢は死屍で埋められたという。(『熊本兵団戦史』)




2. 埋葬 29,909-

2.1 紅卍字会(水葬を除く) 23,134-

詳細は次の記事。

《南京事件》紅卍字会埋葬記録の検証
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/c9f414da142a782a28bc89d8db538f6b



2.2 衛生局(紫金山周辺) 3,200-(三千余、を3,200に換算)

紅卍字会の埋葬記録では、紫金山付近だと「中央体育場公墓」の82しか記録がない。なんらかの理由でこのエリアはほとんど捜索対象外にしていたように思われる。よって、南京戦から1年半が過ぎた時期ではあるが、改めて収容と埋葬が行われたものと理解する。

南京特別市政府衛生局  六月分事業報告書抄録

一九三九年六月
 村民が報告するところによると、中山門外の霊谷寺・馬群・陵園・茅山一帯に三千体余りの遺骨があり、埋葬隊が埋葬した。あわせて四〇日間作業してやっと埋葬を完了した。全部で九〇九元の費用がかかった。霊谷寺の東側の空地も埋葬場所として、この骨を埋葬することにした。青れんがを使って、石段のついた円形の大きな墓を作り、外側はセメントで白く塗り、非常に堅固で壮麗なものとなった。高市長自作の「無主孤魂の碑」を墓の前に立てて記念とした。また、五月二八日には供養をおこなった。
〔『侵華日軍南京大屠殺トウ案』より〕

『南京事件資料集2 中国関係資料編』 P260


上記はこちらのサイトからの借用です。

埋 葬 関 係 資 料

http://www.geocities.jp/kk_nanking/mondai/maisou.html



2.3 衛生局(宝塔橋他) 3,575-

以下の地域は紅卍字会の埋葬記録にもあるが、発見されずに残っていたものが改めて収容と埋葬が行われたものと思われる。

南京市衛生局抄報  草鞋峡の農民、金国鎮の死体埋葬報告書 一九三八年

草鞋峡の農民代表金国鎮の報告
 宝塔橋、草鞋峡、浜江一帯の白骨は野ざらしになっているので埋葬することを請求した。届け出により経費が許可されたので、財源を都合して埋葬人員四名を率い、二〇名を臨時の人夫として募り、その地に住まわせた。六月十三日から七月六日まで二四日間作業をし、全部で野ざらしの白骨三五七五体を埋葬・改葬した。地勢の比較的高いところで、長江から少し離れたところに大型の墓を一座つくり、碑を建て、記念とした。また男女の死体一二体、子どもの屍体三七体を埋葬し、大きな棺を一二個と小さな棺一個を施した。
〔『侵華日軍南京大屠殺トウ案』より〕

『南京事件資料集2 中国関係資料編』 P260


上記はこちらのサイトからの借用です。

埋 葬 関 係 資 料

http://www.geocities.jp/kk_nanking/mondai/maisou.html




3. 城内戦死 3,700-

後述のように工兵による城内遺体の片付けを1,500と置くと、自動的に城内戦死の数が出てくる。



4. 城内の市民の遺体 2,600-
5. 城外の市民の遺体 2,800-

上の2項目については、次の記事を参照。

《10》南京大虐殺・市民の犠牲者数
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/0896042f8ddf1f5a0843c743f6300451



30. 工兵による城内遺体の片付け 1,543-

日本軍将兵の証言によれば、挹江門等は陥落直後に工兵部隊が戦場掃除をしている。挹江門の遺体数は約一千と伝えられている。その他にも、太平門の遺体も城外の一箇所にまとめて片付けたようである。証言によればその数は約400。よって、その他も勘案して少し上乗せして約1,500を工兵が片付けたものと計上する。

挹江門の出来事は次の通り。

「散兵・潰兵の退却阻止の命令を受けていた宋希濂麾下の第三六師二一二団は、撤退命令を出された後も、挹江門付近の道路に鉄条網のバリケードを築き、路上には機関銃をそなえて、挹江門からの撤退を拒み続けた。このため、夜になるとパニック状態になり、挹江門から脱出しようとする部隊と、これを潰兵とみなして武力で阻止しようとした第三六師二一二団部隊との間で銃撃戦が繰り広げられ、挹江門内は大惨事となった。」(中国軍第八七師二六一旅長・譚道平 著『南京衛戍戦』による12月12日夕刻以後の情景)

唐生智が南京を離れるに当たって、彼は北門の督戦隊の任務を解除しなかった。各城門の兵士が十二日夜南京から敗走しようとして、北門まで来ると、督戦隊は任務通り、実力を以て敗走兵を追い返そうとし、ここに同士討ちが始まった。ために北門近辺は死屍累々となり死骸の山は数メートルに及んだ。

「城壁からロープがさがっているでしょう、これは壁を乗り越えて逃げようとした命知らずの人たちの思案の跡です。彼らは絶望的でした。だれひとりとして助かる見込みはありませんでした。雪崩のように人々が門に押し寄せてくる。そうなるとおのずから圧死以外にないのです」(シカゴデイリーニュース記者・スティール)


以下は、挹江門の遺体を工兵が片付けていたとの証言。どこに片付けたのかは定かではないが、「“南京大屠杀”遇难同胞纪念碑」を見ると挹江門(No.17)にも埋葬碑があるから、埋葬あるいはそれに準じた処理をしたのかもしれない。

「われわれの部隊は、揚子江を遡航し、十二月十五日、六日頃南京に上陸、挹江門の正面大門と左脇門の閉鎖解除と、附近の死体とりかたずけを命ぜられました。工兵二個小隊とトラック二台で、約七日間を要してすべてのかたずけが終わりました。(中略)当時の状況から判断すると、若干の市民を含む多数の支那軍人が、内側から城壁に駆け上り、布紐を伝わって逃げたのですが、大勢の人間が我先にとひしめき、後より押されるまま“人間なだれ”となって城壁の下にドット崩れ落ち、多数の死者を出したものと思われます。死体を調べてみましたが婦女、子供は一人もいませんでした。」(赤羽第一師団工兵隊・酒井松吉中尉)


なお、挹江門の遺体数1,000は次の記述から。

12月12日南京城の中華門・光華門が陥落する数時間前には南京防衛軍司令官唐生智は南京城西北の港湾地区下関 (シャーカン)から揚子江対岸へ脱出した。逃げ遅れた将兵は唯一の脱出口であった南京城西北の挹江門に殺到したが、門は既に閉じられており、城壁を乗り越えて脱出するしか方法がない状況だった。この際、挹江門の防守部隊と退却兵が衝突し、双方に死傷者が発生。圧死などを含めた死者は、スミス記者によれば、約千名と伝えられる。高さ2メートルに及ぶ死体の山を乗り越えて南京城の城壁を急造のロープで降りようとした多くの将兵が墜落して死亡している。(Wikipedia)


そのスミス記者の元記事がおそらくこれであり、状況的には文中の「城郭付近の中国兵の死者は一千以上」というのが、脱出時の混乱で多くの死者を出した挹江門(=下関路口?)のことを指しているように見える。

(12月12日)夜10時頃になって、交通部の壮麗な建物に火がつき、中にあった弾薬が激しく爆発した。中山路の車両は、そこで通行不能となっただけでなく、車軸にも火が移った。街路の潰走兵と難民は逃げようとしても逃げられず、秩序はいよいよ紊乱した。大勢の中国軍は下関まで歩いて行った。しかし、そこもわずかに狭い路が通れるだけであった。車両はぎっしりとつまり、さらに車両の多くに火がつき、中国軍に焼死者がたくさんでた。路上には死体が累々とし、下関路口には死体が積み重なり、後から来た中国軍は縄ばしごや太縄、あるいは帯を使って死体の山を超えて行った。彼らは下関路口を脱出した後、長江を渡河する舟艇をわれがちに探した。渡河の人数が多かったので運送中の杉の筏まですべて徴用された。船にはたくさんの人が乗り過ぎて長江の真中で沈没し、かなり溺死した。その時、一部分の中国軍は日本軍の侵攻を極力阻止し、大軍の退却を援護した。この日の夜は、機関銃の音が激しく、戦闘は深夜に至った。城郭外の中国軍は既にことごとく犠牲になった。ある目撃者の証言によれば、城郭付近の中国兵の死者は一千以上とのことだった。(ロイター・スミス記者の目撃談/世界日報 1938年1月14日)


太平門の遺体400は次の証言から。太平門の外の沼に300、城壁の下に100。

「またある時、アメリカの武官が視察に来るから、死体を片付けておけという通知があったが、各部隊はそんなことには動じない。私は太平門を出て直ぐ左に沼地があり、道路から四・五米低いところに、中国兵の死体が道路の高さまで積み重ねてあるのを見た。三百人くらいはあったと思う。土をかぶせたかと見に行ったが、全然そのままである。日本兵にして見れば、敵を殺して何が悪い。戦争じゃないか、という考え方であったろう。」(第十六師団副官・宮本四郎)

「『二千の虐殺死体』とか言われておりますが、門の外側で見ましたのは千にも足らなかったと思います。一部の死体は人に踏みつけられて、気の毒な状態でしたが、この人たちは紫金山の戦闘に破れて城内に逃げ込もうとしたか、あるいは城内から脱出しようとしたかは判らないが、太平門まで来てやられたのではありますまいか。ここには門外に深い大きな濠があり、この濠の中に死体が入れられて、土で覆われていました。門の正面で城壁の屈折部の下方には、一〇〇近い死体が土もかけずにありましたが、これは爆弾を投げられたようでした。この状況から見まして、戦闘行為による死者であると思います」(第二野戦高射砲司令部副官・石松政敏/証言による『南京戦史』9)





《激戦地の犠牲者数》

南京戦で犠牲者数の多かった激戦地について、補足的に考察を加える。



《雨花台》2,209人

紅卍字会の埋葬記録を改めて精査したところ、激戦のあった(あるいは“大虐殺”があったとされる)雨花台の犠牲者数の実態が見えてきた。

まず、紅卍字会の埋葬記録をそのまま実数で示す。関連するのは、「普徳寺」と「中華門外○○」である。いずれも雨花台の一角にある。これが「雨花台万人坑」と称されることもある。

(記録数)
普徳寺 :9,721-
中華門外:1,121-
合計  :10,842-

ところが、普徳寺には紅卍字会の記事に示したYの「12月28日 6,468体」が含まれている。これらは埠頭での敗残兵処断の遺体が水辺に留まっていたものを河に押し流した作業と推測した。
下関埠頭からは直線距離で10km離れているから、その意味でも普徳寺に遺体を埋葬したというのは考えづらい。他の埋葬はいずれも近場に埋葬している。
ただし、「寺」であるから(今も寺院のように見える)、死者を弔う意味で普徳寺に計上された可能性が考えられる。

普徳寺に計上されたというのは、「侵华日军南京大屠杀遇难同胞普德寺丛葬地纪念碑」に「十二月二十八日葬六千四百六十八具」と刻まれているから。

その他に、遺体の収容場所で確認すると「普徳寺」と「中華門外○○」には「城内で収容」が含まれている。南京城内では、南側が建物が密集する人口密集地であったようだから、その関係ではないだろうか。

(城内収容数)
普徳寺 :1,277-
中華門外:888-
合計  :2,165-

そこで、「普徳寺」と「中華門外○○」から下関水葬6,468と、城内収容2,165を除くと次のようになる。

(残数)
普徳寺 :1,976-
中華門外:233-
合計  :2,209-

従って、雨花台での戦闘による中国側犠牲者数の実数は、「2,209人」と考えられる。

その雨花台については次のような証言がある。

「中隊はひとまず、雨花台要塞の山麓にある兵技専門学校(兵工廠?)に宿営することになった。ここには前に述べたように、半焼けの中国兵の屍体が四、五百遺棄されていた。その後、雨花台の激戦の跡を見て回ったが、各所で兵士の死体は見たが、非戦闘員の死体は見なかった。日本軍の進撃が予想外に早かったので、敵は屍体を城内に収容できなかったのであろう」(独立軽装甲車第二中隊本部曹長・藤田清)

「雨花台の堡塁を失った中国兵の大多数は城内へ退却したが、既に城門は閉ざされ、城壁下を右往左往し、窮鼠となって我軍に反撃してきた。至近距離からの射撃で城壁下や手前のクリークの中には死体が累々と横たわり、辛うじて岸に泳ぎついた者も全滅した」(第百十四師団兵器部・萩原誠)

「第十軍司令部は14日朝、秣陵関を発し雨花台の麓を過ぎ中華門を通って(城内の)上海儲備銀行に司令部を置いた。雨花台は後年中国側が民衆二万人が虐殺されたと発表した場所であるが中国兵の死体が点々と転がっていただけで虐殺の跡というが如きは片鱗もなかった。」(第十軍司令部第三課長・谷田勇)


よって、「万人坑」と称される割には、雨花台の戦闘での犠牲者数は少なかったように見える。

ちなみに、雨花台は国民党政府の統治時代に十数万人の共産党員とシンパが殺害されるなどした処刑場であったとされるから、元々「万人坑」の話が出やすい土地であろうと思われる。



(追記)

なお、「熊本兵団戦史」の中にも同じ答えがあることを見つけた。下表の「安徳門」とは雨花台の一角の地名である。つまり、第6師団の認識としても、雨花台一帯での敵の遺棄死体数は 2,200 である。



ちなみに、上記の表は合計の数字が計算上合わない。試算したところ、「城壁」の「17,000」が誤記で、正解は「1,700」と思われる。そうすると、合計が 17,100-となり、整合する。




《下関一帯》(=下関包囲戦+下関江上戦)約1万3千人

紅卍字会の埋葬記録で、下関付近を合算すると総数3,331となっている。ここには幕府山関連と、水葬(=水辺にあったものを押し流した)は含んでいない。

それ以外に、上述したように「1.4 下関の地上(工兵が水葬) 3,000-」がある。おそらく、下関埠頭に近いエリアと挹江門への通り道のみ工兵が戦場掃除の一環で水葬にしたのではないか。なぜなら、そこは日本軍が使うから。

従って、下関一帯の犠牲者総数は、「6,331人」となる。

これに、隣接する「煤炭港(=宝塔橋)」の埋葬実数553(紅卍字会)と、さらに南京戦の翌年に南京市衛生局が宝塔橋、草鞋峡、浜江一帯から収容した3,575体も加えると「10,459人」となる。

この犠牲者数は、この一連の考察を通して把握している限りにおいて、新河鎮の激戦に匹敵する規模である。
その様相は次の記述からもわかる。

「南京攻略戦では南京城西側・長江河岸間は敵の退路に当たり、敗兵と難民がごっちゃになって第六師団の眼前を壊走した。師団の歩砲兵は任務上当然追撃の銃砲弾を浴びせ、このため一帯の沼沢は死屍で埋められたという。」(『熊本兵団戦史』)

「(揚子江岸にあった数千の遺体について)この中には非戦闘員も含まれていたことと思うが、武器を持って退却する敵を攻撃することは当然の軍事行動である。住民が混在しておれば被害は免れ得ない。なぜ中国軍は整斉と組織を保ち、白旗を掲げて降伏しなかったのか。」(上海派遣軍参謀・大西一)


上記の文面からは、攻撃の時点でも難民が含まれていたことを認識していた(『熊本兵団戦史』)ようだし、戦闘終結後の見聞でも難民が含まれていたことを認識していた(大西一参謀)ように読める。

ところが、スマイス調査の表(上述)を参照すると、これに対応しそうな数字=12月13日の軍事行動による死亡、がたった「50」しかない。上記文面からすれば、5%とか10%くらいは難民であってもおかしくないように思えるのだが。

しかし、紅卍字会の埋葬記録でも城外の遺体には女性と子供はほぼゼロ。正確には女性が4、子供がゼロ。少数ながら女性兵士の目撃談もあることを考慮すると実質的にゼロ。

となると、1万人規模の犠牲者を出した下関包囲戦であるにも関わらず、スマイス調査のにあるようにこの時に犠牲になった市民は本当に50人程度しか含まれてなく、熊本兵団戦史がいう「難民」とか、大西一参謀がいう「非戦闘員」というのは、実は軍服を支給されていない雑兵とか人夫の類だったのではないだろうか。そう解釈しないとつじつまが合わない。


なお、この一連の記事では「下関江上戦」と称しているが、下関付近から揚子江上に逃れた敵を33連隊と第三艦隊の砲艦が攻撃している。上記の下関包囲戦は、城内および挹江門〜下関一帯から対岸の浦口や八罫洲などに逃走しようとした際の戦闘だから、これらは連続した話である。

よって、下関江上戦で算定した犠牲者数3千を加えると、実に「1万3千人」くらいの犠牲者数を出していることになる。



《新河鎮》約1万1千人

これは、上述した図中の新河鎮での戦闘である。

戦闘の詳細は新河鎮の激戦に、また紅卍字会の“水葬”については別記事にまとめてある。よって、ここでは数字だけ並べる。

a. 紅卍字会の記録数
新河鎮+上新河:8,459-

b. “水葬”を除いた紅卍字会の埋葬実数
新河鎮+上新河:3,899-

c. 戦闘終了後に45連隊が数えた地上の遺棄屍体数
新河鎮:2,377-

d. 高橋義彦中尉が算出した揚子江に流された戦死体数
約7千

そして、cはbの一部であり、bで除いた“水葬”はdの一部と考える。よって、新河鎮の激戦での犠牲者総数はb+dに近いのではないかと考える。

従って、新河鎮の激戦での犠牲者総数は、およそ「1万1千人」となる。


(追記)

なお、こちらもまた「熊本兵団戦史」(上述の「南京会戦における彼我損傷表」)の中に同じ答えがあった。やはり、第6師団の認識として、新河鎮付近での戦闘による敵の遺棄死体数は11,000-である。ただ、表記としては「上河鎮、下関」となっているので、新河鎮から始まった激戦であるものの、下関までまたがるかなり広いエリアについての認識となっているようだ。





《備考》

以前の版から数字を変えた理由は次の通り。



(2017.08.19の修正)

1)紅卍字会(+2千)

紅卍字会の埋葬記録について、丸山証言の解釈を変更した。具体的には、丸山証言で「水増し」とされた項目について単純に削除するのではなく、「水辺の遺体の押し流し」と思われるものについて「埋葬分」から除外した。これによって、埋葬数が約2千ほど増加。


2)農村部からの算入削除(−2千)

また、前項に伴って改めて数字を精査したところ、城外で収容した遺体に占める女性と子供の比率が0.01%しかなかった。実数では女性4体、子供ゼロ。日本軍将兵の証言では、少数ながら女性兵士もいたとのことなので、それを考慮すると城外における女性と子供の市民の遺体は限りなくゼロである。

そうなると、城外に千を超えるような市民の遺体があったとは考えにくい。それで、どこが食い違っているのか見直したところ、埋葬記録上の「城内」と、スマイス調査の「都市部」の定義の違いにありそうなことがわかった。スマイスの都市部とは、城内に加えて隣接する下関・中華門外・水西門外の3地区を含む。

よって、主に次の2点の調整を行った。

(a)スマイス調査の「都市部」の市民犠牲者を城外の地上に置かない。具体的には、城内または、下関の遺体(工兵が水葬にした)に全て吸収する。
(b)スマイス調査の「農村部」から一部の数字を算入することをやめる。

その関係で市民犠牲者総数も2千減少。(上記のb項のため)


3)衛生局(+7千弱)

考慮漏れだった「南京市衛生局」の2箇所の遺体収容を追加。これで約7千弱の増加。




(2017.08.28の修正)

紅卍字会「水葬」判定基準変更による修正を行った。これにより、紅卍字会の埋葬実数が約4千ほど減少。




(2017.09.10の修正)

1)紅卍字会・埋葬記録の集計ミス=3月25日の799体が城内とカウントされていなかったのを修正。よって、城内犠牲者数が約800増加。
2)5月31日に下関煤炭港に74体埋葬とあるのを“水葬”に変更。






以上。






改版履歴:
2017.08.19 紅卍字会の数値解釈変更に伴って全面的に書き換え。
2017.08.21 《激戦地の犠牲者数》追記。
2017.08.28 紅卍字会「水葬」判定基準変更による修正。
2017.09.10 紅卍字会・埋葬記録の集計ミスによる修正
2018.11.06 熊本兵団戦史の「南京会戦における彼我損傷表」を追記。

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