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《南京事件》新河鎮での激戦

2015年07月21日 | 南京大虐殺
最終更新:2017.03.03



12月13日いわゆる陥落日に、南京城から脱出して南下する中国軍部隊と、これらを包囲殲滅すべく北上する日本軍第6師団45連隊が揚子江岸の新河鎮で遭遇戦を展開した。

城門が陥落した十二月十三日、漢西門(西門)の西の揚子江に近い上河鎮で、第六師団第四十五連隊第十一中隊百六十名は、掃蕩のため下関へと北上中に、南下してきた逃走中の二万の中国兵に包囲され、中隊長の大薗尚蔵大尉以下十四名が戦死する激戦となった。中国側の戦死体数は二千三百七十七。


その様子がわかってきた(理解できてきた)ので記事にしておく。




《高橋義彦さんからの手紙》

村瀬守保氏が撮影した虐殺の証拠写真とされる「揚子江に注ぐクリークに置かれた中国人の死体」について、高橋義彦氏が日中問題研究家の松尾一郎氏に手紙を出している。高橋義彦氏とは、南京戦に参加した独立山砲兵第二聯隊本部附・高橋義彦中尉のことである。

私の従軍中国戦線―村瀬守保写真集 一兵士が写した戦場の記録 村瀬 守保
https://www.amazon.co.jp/dp/4889008365/




手紙の趣旨は、要約すると「その写真はどこで撮ったかわからないが、それは新河鎮での激戦による戦死体が下流の岸辺に漂着したものではないか?」という指摘をしている。

この記事の本題はそこではないので、村瀬守保氏の話は飛ばすとして、以下に高橋義彦氏からの手紙の抜粋(転載)を示す。転載元のサイトには高橋義彦氏の手書きの地図pdfもある。



高橋義彦さんからの手紙1(転載)
http://www.history.gr.jp/nanking/lie.html#13

 私の南京戦における所属部隊?と、戦闘。
 私は独立山砲兵第2連隊本部観測班長が正式の任命された職務です。つまり、砲兵連隊の火力をいかに集中発揮するか、火力運用の責任者であり、砲兵の運用に就いて連隊長を補佐する職務です。
 私は抗州湾上陸以来、南京に向かいましたが、総攻撃の日が早まりそうになったので、連隊長は一部を指揮して南京に急進されました。私は「先遣隊の残り2500名の部隊を指揮して連隊に急追せよ。」との命令を受け、12/11夕方、綿花地(別紙。私が書いた略図の南端の地名)に到着しました。その時、連隊長から特別命令を貰った。
 「決死隊を編成中だから、高橋中尉は山砲小隊長として45連隊第11中隊長、大園大尉の指揮に入り13日(12月)の夜が明けたら配属工兵の折畳舟に乗り、揚子江の河上を下り下関方面に攻撃することにして夜明けを待っていたら、6時頃、敵の総攻撃を受け、太鼓、鐘や洗面器等を打ち鳴らし突撃してきました。
 私共は、大砲の弾がある限り零距離射撃*を行いました。パチンコ弾のようなバラ弾を200発を1コの砲弾で打ち出します。1回に100名位の敵兵が空中に吹き飛ばされますが、敵はここ新河鎮を切り抜けないと逃げ道がないので死にもの狂いの戦闘になりました。
 朝6時から11時頃まで乱闘になり、道路以外の湿地帯も彼我の死体で埋めつくされ、枕木代用に人体が使われ、死体や負傷者の上での乱闘は地獄そのものでした。
 「これで勝った」と思ったのは、11時頃から敵は裸になって河に飛び込み始めました。それを陸から射撃しました。まるで海水浴場を機関銃で撃つような光景でした。下流を見渡したら、川岸に陸揚げしてあった材木を兵のベルトや馬の鞍の革などで結んで筏(いかだ)を作り、それに乗って対岸に渡り始めたのです。
 我が野戦重砲の15糎(センチ)榴弾砲の部隊がその筏を集中砲撃しました。気球を挙げて観測しているので百発百中、揚子江は血の河と化し、戦死者や負傷者が視界を埋める水上光景で揚子江は、地獄と化しました。累図を見て想像して下さい。

* 零距離射撃とは、近距離に迫った敵に対して、砲弾が発射されるとすぐ炸裂するようにして行なう射撃。by Wiki



高橋義彦さんからの手紙2(転載)
http://www.history.gr.jp/nanking/lie.html#15

先般写真判定の件でその死体が虐殺か戦死体かと迷われているのではないかと察しこの筆をとりました。
明かに新河鎮戦闘の死体であることは確定的であり疑う予裕(ママ)はありません。
先づどの位の数の敵の死体がどうなったかを再考してみますと
私達を攻撃してきたのは2コ師団でした。(戦場で確認)
1コ師団を7500人として2コ師団では15000人第6師団長はその兵力20000人(別紙賞詞を見て下さい)
敵の戦死者新河鎮私共の目の前で2200人
私は5000人位かと思っていましたが、45i / III(HP作者注:45歩兵連隊第3大隊の意味)が数えたら2200人でした。
裸で飛び込み或いは筏で逃亡した内で国崎支隊に捕まった者2300人 。逃亡したもの3000人。
わが砲撃で戦死した者:推定7000人。
即ち敵の戦死者を15000とみても7000人は死体で押し流されています。





《超訳版・高橋義彦さんからの手紙》


以前からこの手紙の文面は知っていたが、特に「手紙2」の説明がイマイチ理解できないままでいた。ところが、やっと理解できた気がするので以下に私の「超訳版」を示す。


(超訳版)高橋義彦さんからの手紙2

新河鎮の戦闘で遭遇した敵部隊は2個師団でした。これは戦場で確認しました。
1個師団を7,500人として、2個師団では1万5千人です。ただし、第6師団長(谷寿夫中将)は兵力2万と言ってます。
戦闘終結後に新河鎮に遺棄された敵遺体は2,200でした。
私は5,000人位かと思っていましたが、45連隊第3大隊が数えたら2,200(a)でした。
敗走し始めた敵が、裸で河に飛び込んだり筏で逃亡したうち、揚子江の対岸にいた国崎支隊に捕まった者が2,300人。最終的に逃亡に成功した者が3,000人と思われます。
敵兵力は15,000ですから、そこから地上遺棄遺体2,200、国崎支隊が捕まえた者2,300、逃亡した者3,000を引いた残り、つまり7,500(b)は私たちの砲撃により江上で戦死体となって河に流されているはずです。

a) 谷寿夫第6師団長が調査を命じた結果は2,377。
b) 計算上は7,323。





《図解・新河鎮の激戦》


以下に、高橋義彦氏の手書き図を元にGoogle Mapで図解。

ただし、左拡大図の対岸は実際には中洲なので、逃亡組は下関付近まで流れ下って行って、その対岸の浦口付近に上陸して、一部は国崎支隊に捕獲されたのだろうと思われる。



ちなみに「鎮」は中国の行政区画のひとつとのことだから、新河鎮と新河は同じ土地を指していると思われる。

なお、渡河逃亡した敵兵を砲撃したとのことだが、転載元の手書きpdf地図を参考にすると、新河鎮(Google Map上で「新河口」)から砲撃の着弾水域(中洲のちょい先)まで約5.5km。北河鎮(北河口)まで進軍してから撃ったとしても3.5kmの距離。気球を上げて風速の影響を補正する必要がある距離だったということなのだろう。



下図は『証言による南京戦史』に掲載された手書き地図。






《当時の詳細な地図で再確認》

当時の詳細な地図があったので、再度位置を確認する。今とは地形が違う。



新河鎮の目の前の中州が現在のGoogleマップのよりも短そうだから、砲撃での着弾水域も上述の5.5kmよりももう少し手前だったようにも見える。また、奥の小さい中州も当時はなかったようだ。

それで、冒頭の村瀬守保氏の写真に戻ると、高橋義彦さんはAかBの地点ではないかと指摘している。
なるほど、A地点だと川幅90mほどだから写真に近いかもしれない。B地点だと、もっと狭く川幅20m程度のようだから、どうだろうか。




《関連するその他の証言》

「12月19日か20日頃、清掃処理のため兵十数人を連れて下関の揚子江岸に行きました。流れの関係で入江に漂着した死体を押し流す作業でした。死体は三〇〇以上。この漂着死体は12月12日、南京上流蕪湖に進出した我が軍に砲撃された退却中の中国兵の漂着死体と思う。傷より判断すれば、中国軍は相当混乱し、船にとりすがる遭難者を振り切って逃走(頭部受傷、手首なき人)したものと考える。子供は見当たらず、女は二、三見た。民間服の人もあった。兵士は下級者が多かった。いずれも相当水膨れしていた。陸上には死体はなかった」(歩兵三十八聯隊第一中隊軍曹・新井敏治/証言による『南京戦史』9)

(筆者*注)新井氏は「漂着死体は上流の蕪湖方面から流れてきたもの」と推定しているが、平井秋雄氏も「13日〜14日、江上の筏や浮遊物に乗っていた敵は、揚子江の中間を流れていたので下関からのものではなく、上流(新河鎮?)から押し流されたものであろう」と述べている。(*畝本正己/偕行)







(以上)






改版履歴:
2017.03.03 当時の詳細地図を追加。

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