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《10》南京大虐殺・市民の犠牲者数

2015年07月19日 | 南京大虐殺
最終更新:2017.08.19



この記事では、「《9》南京大虐殺・スマイス統計調査」に示した、スマイス統計調査による市民の犠牲者数に沿うようにしながら、その他の記録や証言と整合するような数値モデルを導き出すことを試みた。
結果的に、既によく知られているスマイス調査などの数値の枠内で、市民の被害状況の全体像を無理なく説明可能であるということが判明した。


《要点》

・市民犠牲者の総数5,400人=スマイス調査(都市部)3,400+拉致の一部2,000 *
・スマイス調査の「拉致」4,200のうちの2,000を敗残兵誤認による処断と算定。
・安全区から摘出した敗残兵の約22%が誤認だった可能性。
・市民犠牲者総数5,400のうち、4,000が陥落後に生じたと算定できる。
・内訳の項目も含めてスマイス調査に合わせた試算モデルとした場合でも、他の記録や証言と整合する。

* 以前の版では、「和記洋行工廠での殺戮」として犠牲者2,800を郊外の分として積んでいたが、捏造と断定し、削除。また、紅卍字会の数字を精査したところ、城外の犠牲者に女性と子供がほぼゼロなので、スマイス調査の「農村部」からの算入を削除。







また、市民犠牲者の各項目とスマイス調査との対応関係を下図に示す。





個々の証言については、いわゆる大虐殺肯定派が提示している証言からも広く収集した。意図的に少なく見せようというような細工はしていない。

なお、この試算では市民犠牲者に対して日中いずれの軍に責任があるか、あるいは正当な行為なのか不当な行為なのかなどについての論評はしない。スマイス調査にもそこまで明記されているわけでもないし、手がかりもほとんどない。


以下は、スマイス調査から読み取れる時系列に沿って、南京と南京市民に何が起きたのかを見ていく。




《A. 軍事行動》800人

スマイス調査によれば、これは12月12日以前の出来事である。その12日とは次のような状況だった。南京防衛側の組織的反抗が崩壊し、城内外で阿鼻叫喚の大混乱が生じていた。

「12日、城外の支那軍総崩れとなり、87師、88師、教導総隊は学生抗日軍を残して市内に雪崩れ込み、唐生智は激怒して彼が指揮する36師に命じ、これら敗残兵を片っ端から銃殺するも大勢如何ともする能はず唐生智もまた憲兵と共に夜8時ころ何処ともなく落ちのぶ」(東京日々新聞12月20日付)



《下関》200人

「下関地区では城壁から二、三百メートルの民家、商店は全て焼き尽くされ、一時間ほどで江辺は火の海となった。燃える音に混じって、泣き声や罵り叫ぶ声が聞こえた。」(『南京保衛戦』)

「南京での中国軍の防衛作業の特徴は相変わらず建物の全面的焼却である。南門近くの人口密集地区全体から住民が追い立てられて市の安全区に送り込まれ、この小都市一つくらいの規模の地区が燃やされていた。同様に下関駅近くのモデル新村一つが焼却された。」(NYT記者・ダーディン)


この焼き払いは12日より前かもしれない。この混乱で市民が中国兵に殺されたり、火事に巻き込まれたケースもあったと考えられる。続いて、12日には次のような状況になった。

「(12月12日)中国軍部隊のうち、数千名は下関にたどり着くと、数少ないジャンク、ランチを使って揚子江の向こう岸に着くことができた。しかし、この途方もない“パニック”のため、揚子江で溺死する者もたくさんあった。」(NYT記者・ダーディン)


また、退却する中国兵に紛れて市民も一緒に脱出しようとしていたなら、無事では済まなかった。

南京攻略戦では南京城西側・長江河岸間は敵の退路に当たり、敗兵と難民がごっちゃになって第六師団の眼前を壊走した。師団の歩砲兵は任務上当然追撃の銃砲弾を浴びせ、このため一帯の沼沢は死屍で埋められたという。(「熊本師団戦史」)


下関の遺体は3千ということにして、200を市民と置いた。これらの遺体は工兵が船で運んで水葬に付したようだ。

「(12月14日)下関に行った時、揚子江には軍艦も停泊しており、艦長と会見した。岸辺に相当数の死体があった。千人ほどあったか、正確に数えれば2千人か3千人位か。軍服を着たのが半分以上で、普通の住民服のもあった」(第10軍参謀・谷勇大佐)

「私は(下関の)屍体の数を数千と見たが、死体を舟艇で運んでいた工兵に尋ねると、作業が終わるまでには15日くらいかかるだろうと言っていた。恐らく、対岸の浦口に逃げようとして下関に集まり、銃砲撃されたものであろう」(独立軽装甲車第二中隊・藤田清)



《列車》600人

南京からの撤退を決めた国民党軍は列車に軍用荷物と食料を積み込んだ。その時、民衆も脱出のため列車に乗り込もうとした。日本軍の進軍が迫る中、国民党軍指揮官は列車に乗り込んだ民衆に列車から降りろと怒鳴った。誰も従わないので、指揮官は兵士たちに「もうすぐ日本軍が来るのだから、民衆は日本軍に銃殺されたことにしたら良いのだ」と言って一斉射撃を命じたのだ。あたりは血の海となり、兵士の足首まで血が溜まった。約1千人の南京市民がこの銃撃で死んだ。(鳴霞)


脱出のための列車に乗ろうとした市民1,000人が国民党軍に射殺されたという。地理的には川岸までは距離があるので紅卍字会による埋葬分に含まれるだろうと推測。日時の記載がないので、正確なところは不明だが、13日の陥落日以降だと状況的に整合しないので12日またはその前日あたりかと推測した。
ただし、この列車の犠牲者が1,000とするとスマイス調査の結果とどうしても整合しない。きちんと数えたわけでもないだろうし、話半分くらいと解釈すると他の数字ともつじつまが合うので、600とした。


《城外》0人

以前の版ではこの項に1,000と置いていたが、紅卍字会の数字を精査したところ、城外の犠牲者に女性と子供がほぼゼロなので、スマイス調査の「農村部」からの算入を削除した。




《B. 陥落時の混乱》300人

陥落が間近になった城内ではまた別の大混乱が発生していた。なお、300という数字の由来は、スマイス調査の12月12-13日の市民犠牲者数が300だからである。



《圧死》40人

南京城北西の揚子江に近い挹江門での惨劇。

「散兵・潰兵の退却阻止の命令を受けていた宋希濂麾下の第三六師二一二団は、撤退命令を出された後も、挹江門付近の道路に鉄条網のバリケードを築き、路上には機関銃をそなえて、挹江門からの撤退を拒み続けた。このため、夜になるとパニック状態になり、挹江門から脱出しようとする部隊と、これを潰兵とみなして武力で阻止しようとした第三六師二一二団部隊との間で銃撃戦が繰り広げられ、挹江門内は大惨事となった」 (中国軍第八七師二六一旅長・譚道平 著『南京衛戍戦』による12月12日夕刻以後の情景)

「城壁からロープがさがっているでしょう、これは壁を乗り越えて逃げようとした命知らずの人たちの思案の跡です。彼らは絶望的でした。だれひとりとして助かる見込みはありませんでした。雪崩のように人々が門に押し寄せてくる。そうなるとおのずから圧死以外にないのです」(シカゴデイリーニュース記者・スティール)

12月12日南京城の中華門・光華門が陥落する数時間前には南京防衛軍司令官唐生智は南京城西北の港湾地区下関 (シャーカン)から揚子江対岸へ脱出した。逃げ遅れた将兵は唯一の脱出口であった南京城西北の挹江門に殺到したが、門は既に閉じられており、城壁を乗り越えて脱出するしか方法がない状況だった。この際、挹江門の防守部隊と退却兵が衝突し、双方に死傷者が発生。圧死などを含めた死者は、スミス記者によれば、約千名と伝えられる。高さ2メートルに及ぶ死体の山を乗り越えて南京城の城壁を急造のロープで降りようとした多くの将兵が墜落して死亡している。(Wikipedia)


この時の死者は千人とのことだが、スマイス調査の表ではこれに該当しそうな市民犠牲者は「50」しかない。よって、他の項目(次項の太平門)との調整し、40と置いた。兵士らと一緒に逃げようとした市民はそれほど多くなかったと解釈することもできる。



《太平門(外)》0人

太平門で市民の虐殺があったとされているようだが、検証したところ、計上できる全ての遺体を戦死で説明できることから、“虐殺”は捏造と断定する。詳細は次の記事。

《南京事件》“太平門虐殺”の真相
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/6d504c6058b4b0aba2a8bbf343eb467c



《太平門(内)》10人

“太平門集団虐殺”なるものは事実無根とするが、太平門の内側でも混乱があった。

「(12日)午後9時、太平門の防御物を爆破、通路が開かれると、人は先を争って飛び出し、弱者は踏みつけられて命を落とし、強者はその上を通って命を永らえた。下敷きになった者は手榴弾を投げて周囲の者と共に自爆した。先頭部隊は日本軍と戦闘になった」(據83軍參謀處處長・劉紹武)


つまり、挹江門で発生したのと同様の混乱による犠牲者が出ている。兵士らとともに脱出しようとして「下敷き」あるいは「手榴弾」で犠牲になった市民がいたかもしれない。(あるいは、いなかったかもしれない)
10人という少ない数字にしたのは、この件についての欧米人の証言が見当たらないことや、太平門での犠牲の全てが戦死で説明できるからである。



《衣服》250人

次の証言にある、中国兵が市民の衣服をはぎ取るための殺害。スマイス調査で、12月12-13日の「兵士による暴行殺害」が250なので、これに合わせて250と置いた。

「彼ら中国兵は、民間人になりすますために、軍服を脱ぎ捨て、民間人の服に着替えたのです。民間人の服を盗む者もいれば、民間人を撃ち殺して衣服をはぎ取る者も多くいました」(南京のジェームズ・エスピー=アメリカ副領事の報告)

「私は(中国軍の)一部隊全員が軍服を脱ぐのを目撃したが、それは滑稽といってよいほどの光景であった。多くの兵士は下関へ向かって進む途中で軍服を脱いだ。中には素っ裸になって一般市民の衣服をはぎ取っている兵士もいた」(NYT 1937年12月22日付・ダーディン記者)


蒋介石自身もこう書いている。

「抗戦の果てに東南の豊かな地域が敗残兵の略奪場と化してしまった。戦争前には思いもよらなかった事態だ。敗れた時の計画を先に立てるべきだった。撤兵時の略奪強姦など軍紀逸脱のすさまじさにつき、世の軍事家が予防を考えるよう望むのみだ。」(南京を脱出した蒋介石)




《C. 掃討時の兵士の暴行》2,000人

これは、スマイス調査によれば、12月14日〜1月13日の出来事とされる。陥落翌日からの敗残兵摘出や掃討戦が行われていた期間に該当する。

例えば、マギー牧師は東京裁判の中で自分が目撃した唯一の殺人事件として「怪しい中国人に日本兵が声をかけると逃げ出したので撃った」と証言したが、これがこの項目に含まれる。

あるいは、ベイツレポートにも次のような記述があるが、こういった事例も含む。

死亡した市民の大部分は、十三日午後と夜、つまり日本軍が侵入してきたときに射殺されたり、銃剣で突き殺されたりしたものでした。恐怖と興奮にかられて駆け出す者、日が暮れてから路上で巡警に捕まった者は、だれでも即座に殺されたようでした。


占領直後の街で兵士に呼び止められて逃げ出したのでは、撃たれても仕方がない。自転車で走り回っていた日本人従軍記者も危うく撃たれそうになったりしている。
その他、家屋内の掃討でも、市民が犠牲になる事例があったであろう。



《城内掃蕩》2,000人

スマイス調査(都市部)によれば、12月14日〜1月13日の期間にほぼ城内で2,000人が兵士の暴行で死亡したとあるので、そのまま2,000とした。例えば、次のような事例を含む。

唐順山 一九一四年七月三〇日生まれ(pp198-206)
(要約)南京の評事街にある大元勝革靴店の徒弟だった。親方は城外に避難して、一人で店を守ることになった。日本軍が南京城内に侵入してきたその夜、私は新街口から上海路、清涼山へと逃げ、最後は三牌楼にある兄弟子の家に身を寄せた。十二月十四日好奇心から日本軍を見ようとして捕まり、中国人の民衆四百人と一緒に銃剣殺されるところだったが、幸運にも傷をおっただけで、胡楼病院に運び込まれ、ウィルソン医師の手当を受けて助かった。病院に運ばれてはじめて安全区の存在を知ったという(この証言部分は本多勝一の聞き取りによる)。(『体験者27人が語る 南京事件』笠原十九司編 より)


上記は次のサイトからの借用。

南京事件FAQ/城内、安全区以外の市民の被害

http://seesaawiki.jp/w/nankingfaq/



《城外掃蕩》0人

以前の版ではこの項に1,000と置いていたが、紅卍字会の数字を精査したところ、城外の犠牲者に女性と子供がほぼゼロなので、スマイス調査の「農村部」からの算入を削除した。

ただし、次のような証言もあるので本当にゼロかどうかは不明。

秦傑(男、1926年3月生まれ)の証言
上新河鎮に戻ったら、もともと鎮に留まって家を見たり鎮を護ったりした四人の白髪混じりの老人がたは、既にみんな撃ち殺され、街の端に倒れていて、父は日本兵の一人に銃の先をこめかみに着けられましたが、幸いに行を共にした難民たちと母とが切々と哀訴し、撃ち殺されませんでした。わたしたちと行を共にした従兄嫁は、衆人環視の下に屋内に引きずり込まれ強姦されました。上新河鎮の臨時難民区では、しょっちゅう青年婦女が強姦に引きずり出されるのが見え、彼女たちの悲惨な救いを叫び求める声が聞こえました。


上記は次のサイトからの借用。

南京事件FAQ/城外の人口の資料

http://seesaawiki.jp/w/nankingfaq/



なお付近であろう新河鎮では激戦があった。

《南京事件》新河鎮での激戦
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/cce40e2948b33f0020a28b79309d6585


また、次のように翌年1月5日の時点でも、城外においては戦闘行動も続いていたので(=降伏がなされてないので継戦状態)平時とは違う様相であっただろう。

「城外近郊にあって不逞行動を続ける敗残兵も逐次捕縛、下関において処分せるもの数千に達す。」(佐々木到一少将の『私記抄』/1月5日)





《D. 占領暴行》城内150人

掃討戦とはまた違う、占領期間における市民の殺害。

南京安全地帯の記録では市民殺害犠牲者53人となっているが、主にこれに対応する項目。




《E. その他》150人

スマイス調査によると、時期の特定ができない兵士の暴行による市民犠牲者。




《F. 敗残兵誤認》2,000人

ヴォートリンの話によれば敗残兵と誤認された市民釈放の嘆願書への署名者が千人になったとのことなので、嘆願の訴えも聞き入れられずにそのまま敗残兵として誤認処刑された市民がいた可能性がある。その場合は、敗残兵処断は日本軍が遺体を処理したと思われるので、埋葬遺体数の枠外の数字とする。
ただし、記録にある数字は「署名者が千人」であって、誤認で捕獲された市民が何人で、最終的にどうなったかは不明である。

1938年4月には、模範刑務所に元兵士の嫌疑をかけられた多くの民間人が入獄しているという情報を得て、収容されている民間人の釈放を求める嘆願書を作成し、多くの女性が嘆願書に署名した。模範刑務所に勤務している日本兵を通じて入獄者の名簿と南京市政府公署の顧問を務める許伝音博士を通じて提出することにした。嘆願書に署名するために、一日に数百人の割合で夫や息子が拉致された女性が金陵女学院を訪問し、ヴォートリンに彼女たちの身に起きた悲劇について語った。釈放の嘆願書への署名者は同月9日には千名に達したが、模範刑務所の囚人としての目撃情報があったのは10名程度に過ぎなかった。


しかし、スマイス調査の記述によれば、「拉致(taken away)」4,200人は殺害に算入されるべき要素があるとのことなので、ここでは2,000を計上する。
仮にこの2,000が正しいとすると、次の情報により摘出した敗残兵の総数が9,170なので、約22%が誤認ということになる。また、もしこの敗残兵誤認2,000のほとんどが12月14〜16日に6,670人を摘出した時に生じたと仮定すると、誤認率は実に30%になる。

1)第七聯隊が12月14〜16日にかけて6,670人を捕捉し、処断。
2)第三十八聯隊が「良民証」付与の過程で12月24日より翌年1月5日までに二千人を捕捉し、旧外交部に収容し捕虜とした。
3)天谷支隊が2月5日までに城内外で五百人捕捉。


なお、4,200を丸ごと計上しない理由は、誤認率が逆に高すぎて不自然に思えることと、ヴォートリン日記の「釈放嘆願書の署名が千名」からかけ離れすぎるからである。もし、4,200丸ごとだと、摘出敗残兵の46%が誤認、あるいは12月14〜16日にかけての摘出敗残兵の63%が誤認、となってしまうし、夫や息子を連れ去られた3千もの家族(76%)が署名をしなかったということになってしまう。


兵民分離作業の様子。

「調査の方法は、日支合同の委員会を構成し、日支人立会のうえ一人ずつ審問し、検査し、委員が合議のうえで敗残兵なりや否やを判定し、常民には居住証明書を交付した。敗残兵と認定された者は、これを上海派遣軍指令部に引き渡した。」(佐々木到一少将の『私記抄』)


また、南京城外での戦闘終了後の城内の掃蕩に当たって松井司令はこう指示しているので、状況的には整合する。

「青壮年は全て敗残兵または便衣兵とみなし、全てこれを逮捕監禁せよ。青壮年以外の敵意の無い支那人民、特に老幼婦女子に対しては寛容の心をもって接し、彼らをして皇軍の威風に敬迎させよ」


ただし、このように拉致されて雑兵のように働かされていた男がいたとしたらどうなっていただろうか。判定のグレーゾーンがあってもおかしくはない。

「最も恐がられたのは拉夫、拉婦(拉致されること)で、独身の男は労役に使うため盛んに拉致されていき、夜は姑娘が拉致されていきました。中央軍の支那兵の横暴は全く眼に余るものがありました」(福岡日日新聞の三苫幹之介記者にインタビューされた南京市安全区にいた中国人夫妻)


そして、このような不幸な事態(敗残兵誤認による処断)が生じた理由は、日本軍の不手際だけとは限らない。そもそも、陥落時の混乱で、数千人とも言われる中国兵が軍服を脱ぎ捨て市民の衣服を奪い、安全区などに潜伏したのが最大の原因である。これを放置することはできない。

「中央(国民政府)の便衣隊約五、六人が入城し、中華路付近の地下室内に潜んでいた。ちょうど五人の獣兵(日本兵)が三、四人の人夫をともなって北から南にやって来ていて、我が便衣隊の近くに来た。彼らはすぐさま発砲して獣兵を皆殺した」(郭岐「陥都血涙録」)便衣兵の中国側記録。

「安全区の難民の中に便衣兵がまじっていたことは事実で、日本軍が或る家を捜索したら、天井から鉄砲がゴッソリ出てきたこともあった。」(日本大使館外交官捕・福田篤泰)

「住民は敵意を持っていなかったし、日本兵を怖がってもいなかったと思います。逆に、便衣隊がいましたので日本兵の方が中国人を警戒していました」(読売新聞上海特派員・森博)


「便衣兵は民衆と少しも変わりがない。疑わしきはやるより外ない。『来々(ライライ)』と言うので近づくと“ズドン”とやられる。敗残兵であるか、便衣兵であるか判らぬので、油断がならず、常に警戒していなければならない。」(野砲第六聯隊第三中隊長・小田常元大尉)

中国兵は誰でも背嚢に便衣(平民服)を持っていて、状況が不利になると便衣に着替えて、一般市民になりすまし、時期を見ては戦闘行為をした。一般市民だと思って日本兵が安心して近づくと、いきなり刺殺されるという事態に、日本兵は対策に苦慮した。(『熊本兵団戦史中巻』)

「一部将校は所謂『便衣兵』となり、軍服を脱ぎ、平衣を纏ふて残留し、我が将兵を狙撃し、我軍の背後を脅かすもの少なからかず、付近の人民も亦あるいは電線を切断し、あるいは烽火を上ぐる等、直接間接に支那軍の戦闘に協力し、我軍に幾多の危難を与へたり」(松井大将による宣誓口述書)





《和記洋行工廠》0人

以前の版では、「和記洋行工廠の殺戮」として、スマイス調査の都市部から外れる郊外の分として犠牲者数2,800を積んでいたが、検証の結果、捏造と断定したので、これを削除する。

この“虐殺事件”は、中国では「煤炭港の虐殺」として知られている事件である。詳細は次の記事を参照。

《南京事件》“煤炭港虐殺”事件は捏造
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/d907662ba0e7f7e25cdc214e2befdf97








《関連記事》

「南京大虐殺の真相」
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/eaacb2fee7e20c9adc4799020776c9d1





改版履歴:
2017.02.16 新河鎮付近の戦闘について追記。“太平門虐殺”について追記。
2017.02.18 「和記洋行工廠での殺戮」を捏造と断定し、これに沿って修正。
2017.02.21 スマイス調査の理解に不備があったので修正。(都市部の定義、拉致の扱い)
2017.08.19 紅卍字会の数値解釈変更に伴う修正。


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